――「頑張れ」って声をかけてしまった数日後。

俺はずっと、葵に会うのを避けていた。
だって、あんなの、絶対バレてる。
夜、壁越しに筋トレの応援とか……どう考えても恥ずかしすぎる。

(……いや、もしかしたら聞こえてない。たぶん。きっと……聞こえてない……!)

そう自分に言い聞かせて、講義が終わるとそそくさと教室を出た。
教科書を抱えて、人の波をすり抜けるように階段を駆け下りる。
とにかく、今日は寄り道せずにまっすぐ帰ろう。

(平常心。何事もなかったみたいに過ごせばいい。俺は、普通の文学部男子……何も変なことしてない。……壁越しに「頑張れ」とか言ったけど!)

頭の中で叫びながら、廊下の角を曲がる。
あと少しで出口――そう思った瞬間だった。

「楓」

その声に、足が止まった。
背後から聞こえた低めのトーン。
耳に馴染みすぎてて、反射的に振り返ってしまう。

「……葵」

白シャツじゃなくて、今日は黒のパーカーとジーンズ。
シンプルなのに、体に程よくフィットしていて、どこか大人っぽく見える。
普通の格好なのに、なんでこんなに似合うんだろ。

(やめてくれ……そんな優しい顔で名前呼ばないで……!心臓がもたねぇ……!)

(落ち着け俺、ただのすれ違い。ただの隣人にたまたま講義終わりに会っただけ。運命とかじゃない!)

(……てか、なんで運命とか言葉出てくるんだよ俺!!)

葵が軽く片手を上げて、柔らかく笑った。
夕方の光が窓から差し込み、その横顔を照らしている。

「こないださ」

「……え?」

「応援の声が聞こえたからさ。やっぱり筋トレの声、うるさかったのかと思って」

――ピキッ。
心臓が、音を立てて割れた気がした。

(う、うわぁぁ!やっぱ聞こえてたのかぁぁ!)

(やっべぇ……俺が葵の筋トレの声、意識してるの、完全にバレてんじゃん!!)

(いやいや待て、そんなはず……そんなはず……!俺、別に変な意味で聞いてたわけじゃないし?健康的な男子の努力の声を、ただ……こう……生活音として……!)

顔から火が出そうで、思わず視線を逸らす。
靴のつま先ばっかり見つめながら、どうにか言い訳を探すけど、頭が真っ白で出てこない。

「だからさ、最近、あんまり声出さないようにしてるんだけど……」

「っ!!」

(うわぁぁ……『頑張れ』とか言っちゃった時点でアウトですよね⁉)

(どうしよう……死ぬ……いっそここで地面に埋まりたい……)

(頼む、葵……その爽やかスマイルで、俺の黒歴史を浄化してくれ……!)

葵が少し照れたように笑った。
その笑顔がまたずるい。
優しさの中に、どこか探るような色が混じってる。

「頑張れって応援してる声、聞こえたの……勘違いじゃないよね?」

「――――っ」

(恥ずかしい!理性全部吹っ飛ぶ!!)

(どうしよう、終わった。俺の人生)

頭の中が真っ白になって、口が勝手に開く。

「……え、あ、それ……!別にうるさくなんかなくて……その、むしろ……」

言葉が喉で絡まって出てこない。
自分でも何を言ってるのか分からない。

(やばい、何言おうとしてんだ俺!落ち着け!)

(今は『変な意味じゃない、意識なんか全然してない』って言わないと!)

焦ってるうちに、葵がもう一歩近づいてきた。
距離が、近い。息が詰まる。
心臓がどくんと跳ねて、胸の奥が痛いほど熱い。

「……なんか、元気ないけど大丈夫?」

葵が少しだけ眉を下げた。
その表情が、やけに優しくて。
まるで、気になる人を心配してるみたいな雰囲気で――。

「だ、大丈夫!」

思わず大きな声が出た。
反射的に、頭より先に口が動く。

「ち、違うって!その……うるさいとかじゃなくて……!」

言いながら、楓の声がわずかに震える。顔が真っ赤になっていくのを自覚しながら、それでも止まれない。

「俺、葵の声……もっと聞きたかったんだよ!」

一瞬の沈黙。
空気が熱を帯びる。

「むしろ――お前の声がないと、落ち着かねぇんだよ……バカ」

言い終えた瞬間、自分でハッと口を押さえる。

――しまった。

(言っちまったーーーー!!)

空気が一瞬で固まる。
廊下のざわめきも、遠くの靴音も、全部消えた。

葵が一瞬、目を見開いた。

(やっべぇ!言いすぎた!!なんでバカとかつけたんだ俺!!)

「……そっか」

葵の目が柔らかく細まって、微笑んだ。
その表情が、さらに楓の心臓を掴んで離さなかった。
小さく笑うその声が、どこか嬉しそうで。
俺の鼓動の音に混じって、静かに響いた。

「もしかして、最近静かすぎた?俺が静かだと寂しい?」

「……っ!」

(やめろ、そんな顔で聞くな……!心臓もたねぇ!!)

葵の声は低くて優しくて、まるで耳の奥をくすぐるみたいだった。
ほんの数センチの距離で見つめられて、逃げ場なんてどこにもない。

「そ、そんなんじゃ……ないけど!」

声が裏返る。
なのに、葵の笑みはますます柔らかくなる。

「じゃあ……もう少し声、出してもいい?」

「……!」

その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
顔が熱くて、視界がぼやける。

(うわあああああ!もうダメ!恥ずかしすぎて爆発する!!)

(絶対顔真っ赤。てか葵の目見れねぇ……無理……地面に吸い込まれたい……!)

(俺、なんつーこと言った⁉……これもう告白じゃん!!)

葵の笑顔が焼きついて離れない。
壁越しの声よりも、今の声の方がずっと、ずっと近い。

どうしようもなく高鳴る鼓動が、耳の奥で鳴り続けていた。