夜。
空気が冷え始めて、窓の外では時おり風が電線を鳴らしている。
その静けさの中、アパートの薄い壁一枚向こうから、また――いつもの声が聞こえてきた。

「……っ、あと少し……きっつ……」

低くて、熱のこもった声。
息を吐くたびに、少しだけ喉が震えるみたいな音が混じってる。

(……また始まった)

(葵、今日もやってるんだな……)

すぐわかる。この時間になると、決まって聞こえるから。
俺の部屋と葵の部屋は壁一枚でくっついてて、音が筒抜け。
最初の頃は、あの声をアレの最中の声だと勘違いして、布団の中で悶え死ぬかと思ったけど――
今は、あれが筋トレの声だって知ってる。

……知ってるけど。

(……筋トレ中の声なのに、なんでそんな色気あるんだよ……)

耳を澄ませば澄ますほど、頭の奥がじんじんしてくる。
静かな夜だからこそ、葵の息づかいのひとつひとつが鮮明に響く。
腹筋のカウントを取ってるのか、あるいは限界を越えそうになってるのか――どっちにしても、聞くたびに胸がざわつく。

「……あ、しまってる……もうちょい……」

その「もうちょい」が、妙に艶っぽく聞こえる。
声が喉の奥で擦れて、息が混じって、なんか……ダメな想像が勝手に浮かぶ。

(やば……やっぱ無理……そのトーンがもはや犯罪……)

(筋トレしてるだけなのに、どうしてそういうエロい声になるんだよ……!)

布団の中でごろごろ転がりながら、顔を枕に押しつける。
熱がこもって頭が変になりそうだ。

(落ち着け、落ち着け俺。あれは筋トレだ。純粋な努力の声だ。絶対にいやらしい意味じゃない……!)

そう念じても、鼓膜が勝手に拾ってくる。
葵の息づかいが、壁越しに身体の奥をくすぐってくる。

「……が、頑張れ……」

気づいたら、口が勝手に動いてた。
ほんの、かすれるくらいの小さな声――の、つもりだった。
でも、思ったより息が漏れて、声が部屋の空気を震わせるくらいには出ちゃっていた。

葵を応援するつもりで……いや、たぶん自分を落ち着かせるためでもあった。
けど、その「頑張れ」は、思ってた以上に響いてしまったみたいで――。

ピタッ。

一瞬で、すべての音が止まった。

「……え?」

空気が、静止した。
さっきまで確かに聞こえていた呼吸音も、床の軋みも、何もかも。
俺の耳の中に残っているのは、自分の心臓の音だけ。

ドクン、ドクン、と、バカみたいに響いてる。

(ま、まさか……聞こえた?)

(俺の『頑張れ』……聞こえた!?)

やばい。やばい。やばすぎる。
葵に聞こえたってことは、つまり――俺がずっと耳を澄ませてたってバレたってことじゃん!?

「う、うそだろ……!」

布団の中で跳ね起きる。
反射的に枕を抱えて頭を隠す。
でも現実は変わらない。壁の向こうは、まだ沈黙したまま。

(あーっ!もう無理!!聞かれた、絶対聞かれた!!)

脳内で勝手に再生される葵の声。

「……え、今『頑張れ』って言われた?」

「隣の楓……聞いてた?」

(うわあああああ……やばい、絶対キモいと思われた……!)

頭の中で、葵が引き気味に眉を寄せてる姿が浮かぶ。

「……え、なに?隣のあいつ、筋トレの声……聞いてんの?」

ちょっと呆れたように、でも口の端を少しだけ上げて――

「……注意深く聞くタイプなんだ?」

とか思われてんじゃね?

(うわあああああ!!やめてその言い方!!)

頭の中で勝手に再生されるそのトーンが妙にリアルで、余計に心臓が暴れる。

(終わった……完全に終わった……)

布団の中で枕を抱きしめながら転げ回る。
心臓が痛い。恥ずかしすぎて死にそう。

(あーもう、次顔合わせづら……絶対変な人認定された……!)

(応援してくれる隣人とかじゃなくて、盗み聞きしてるやつだよこれ!)

想像するほどに、どんどん自分の首を絞める。
息苦しくなって、布団の中で小さく叫んだ。

「やっちまったぁぁぁぁぁぁ……!」

顔が熱い。
耳まで燃えるように赤くなってる。
なんでよりによって、そんな大きな声で口走るんだよ俺……!

「……無意識に出ちゃったんだって!ほんとに……」

小さく呟いた声が、自分の耳にすら情けなく響く。

(ち、違うんだよ……!わざとじゃない……!)

布団の中で頭を抱える。
あの瞬間のことを思い出すだけで、体温が上がる。

(『頑張れ』なんて……!なんで出た!?)

(え、なに?俺、夜中に隣人の応援してんの?やばすぎだろ!!)

(絶対気まずいじゃん!!俺だったら動き止まるわ!てか止まってたし!!)

バカか俺は、と心の中で何度も殴る。
葵に「なんで筋トレの声でテンション上がってんの……?」って思われたかもしれない。
いや、それどころか――

(一人暮らしの部屋で筋トレしてる最中に『頑張れ』とか壁越しに言われたら、聞き耳立ててる変な奴って思われるだろ!!)

布団の中でゴロゴロ転がって、枕をぎゅうっと抱きしめる。
心臓が落ち着かない。恥ずかしさと後悔と、あと……ちょっとした恐怖で。

(あーもう!明日顔合わせづらいって!絶対なんか言われるって!)

(『昨夜は応援ありがとう』とか、あの爽やか笑顔で言われたら……死ぬ!!)

息を吐くたびに胸が苦しくなる。
自分でもわかる。完全に自爆。
けど、あの時の葵の声が、あまりにも真剣で、熱くて――思わず出ちゃったんだ。

(……無意識だったんだよ……!応援したかっただけなのに!)

(……でも、俺……やっぱちょっと、葵のこと意識しすぎだよな……)

枕に顔を押しつけて、誰にも聞こえないように唸った。

「……死にたい……」

考えれば考えるほど、穴があったら入りたい気分になる。
枕をぎゅっと抱きしめ、布団の中で足をばたばたさせた。

「……もう寝よ……寝て忘れよ……」

目をぎゅっと閉じても、耳は勝手に音を探す。
葵の部屋は、まだ静かなまま。
さっきまでの息づかいが幻みたいに消えて、余計に心がざわつく。

(……もう、寝たかな。あーあ、筋トレを途中で止めたってことは……俺の声、やっぱ聞こえたんだよな……)

喉の奥がカラカラに乾く。
心臓の音だけがうるさい。

(……あーもう。どんだけ意識してんだよ、俺……)

自分に呆れながら、枕に顔をさらに埋めて、目を閉じた。
それでも――ほんの少しだけ、壁の向こうからまた声が聞こえないかな、なんて。
そんなバカみたいな期待をしながら、真っ赤な顔のまま夜が更けていった。