朝の空気が、やけに澄んでいた。
カーテンの隙間から射し込む光が、まだ眠たい部屋の中をやわらかく照らす。
目を開けた瞬間、喉の奥で「あー」と小さく呻いた。

――寝不足。間違いなく寝不足だ。

昨夜あれだけ寝つけなかったのは、隣から聞こえてきたあの声のせいだ。
朝になっても、その声が耳に残っている気がする。
吐息まじりのあのトーン、途切れがちな呼吸、そして――。

『……あ、きつ……やばい……』

(って、思い出すな俺!)

思わず布団の中で頭を抱えた。

(朝からなにを反芻してんだ。バカか)

(せっかくの上京一日目がこれかよ。隣人の夜の声で眠れず、翌朝は羞恥と妄想で始まるとか、どんな新生活だ)

寝癖を直す気力もなく、Tシャツのまま、ゴミ袋を掴んで玄関を出た。
外はひんやりとした秋の風。頬を撫でる空気が気持ちいいはずなのに、心の中は落ち着かない。
頭のどこかで、まだ昨夜の残響が鳴っていた。

(まさか隣で、そんな……いや、あれは確実にそういう声だったろ……)

(だって、『しまってる』とか『もう一回やるか』とか……!)

脳内でリピート再生される言葉に、自分で自分の耳を塞ぎたくなる。

階段を下りたとき、ふと視界の先に人影が見えた。
ゴミ置き場の前に立つ一人の青年。
黒いTシャツにスニーカー。短く整えられた髪が朝日を受けて、やわらかく光っている。
健康的で、清潔感があって――まさに「爽やか男子」という言葉が似合う後ろ姿だった。

(……同じアパートの人か……)

ちょうどその青年が、こちらを振り返った。
笑った瞬間、太陽よりもまぶしいくらいの笑顔がこぼれる。

「おはようございます!」

――その声が、響いた瞬間。

(え……今の声……!?昨夜の……!)

脳が一瞬で覚醒した。
反射的に背筋が伸びる。
昨日、壁越しに聞いたあの声――間違いない。トーンも、響きも、息の混ざり方も一緒。

「もしかして、お隣さんですか?」

「え、あっ、はいっ……!昨日、引っ越してきたばかりで……」

声が裏返った。やばい、挙動不審。
それでも相手の青年はまったく気にする様子もなく、穏やかな笑顔を見せる。

「やっぱり!俺、神田葵です。よろしくお願いします!」

(か、神田葵……!?『あ、きつ……』とか言ってたのは神田葵、お前か!?)

(いや待て、こんな爽やかそうな顔で……あんな、あんな色っぽい声を出すなんて……)

混乱と羞恥で頭がフル回転する。
黒目がちな瞳、日差しに照らされた肌、笑うとえくぼができる頬――どれも清潔で、純粋そのもの。
なのに、俺の頭の中では昨夜の喘ぎがエンドレス再生中。
反して、現実の本人はまるで朝の光をまとったような爽やかボーイ。

「目黒楓です……よろしくお願いします」

「目黒くんか。あの、昨日――うるさくなかったですか?」

「っ!?」

その一言で、心臓が止まりかけた。
ドクン、と鼓動が暴れる。手に持ったゴミ袋がカサリと鳴った音さえ、やけに大きく響いた気がする。

(い、言ったああああ!!やっぱり、あの声はお前だったのか!!)

(自覚してるのに声を出していたのか!?まさか、俺が聞いてたのも知ってる!?)

(でも、うるさかったです!って言えるわけないだろ!)

「え、えっと……全然!全然うるさくなかったです!むしろ静かで……はい!」

完全に動揺しているのに、なぜか語尾に力だけは入っていた。
葵はくすっと笑って、「そっか〜、よかった」と柔らかく返す。

「隣の人がどんな方かわからなかったから、ちょっと気になってて」

にこっと笑うその顔。
朝の空気よりも爽やかで、まぶしい。

(いや、その顔で『やばい……きつい……』って言ってたの!?)

(ギャップの破壊力が強すぎるだろ……)

「もしかして、大学生ですか?」

「え?あ、はい、一応……そこの大学の文学部で。今日入学式です」

「やっぱり!俺も体育学部の一年なんですよ」

(体育学部!?……そりゃ体力あるよな。夜も……いやいや、そういう意味じゃなくて!)

(落ち着け俺、これはただの挨拶だ。性的想像を混ぜるな!)

「同じ大学なんですね。なんか嬉しいな、隣の人が同学年って」

「そ、そうですね……」

葵が軽くゴミ袋を持ち上げる。
無意識に視線がその腕に吸い寄せられた。
袖の下に覗く前腕。筋が浮き上がり、しなやかに動く。
その一瞬に、昨夜の息づかいが頭の中で再生される。
汗の匂い、短い吐息、かすれる声――全部、想像の中でリアルすぎて苦しい。

「じゃ、また大学で!」

軽く手を振って去っていく背中。
短髪が朝風に揺れて、肩越しに一瞬だけこちらを振り返る笑顔。
その仕草ひとつが、心臓を無駄に撃ち抜いてくる。

(……本人、だったのか……?)

(あんな爽やかな見た目で、夜はあんな……)

胸がどくどく鳴って、体温が上がっていく。
朝なのに、妙に熱い。
どうしようもなく意識してしまう。

部屋に戻ってドアを閉め、背中を預けて息を吐いた。
壁越しに響いたあの声の主が、まさかあんな眩しい人だったなんて。
現実感がなくて、夢を見ているみたいだった。

「……絶対、やってたよな、あの声……」

呟いて、自分で顔を覆った。
耳まで真っ赤だった。

楓の新生活は、ここから――静かに、でも確実に始まっていた。