夜。
葵の部屋の空気は、少しだけ熱を帯びていた。
白い蛍光灯が天井の真ん中で揺れ、その光が汗ばんだ床にぼんやり反射している。
窓は少しだけ開いていて、外の風がカーテンを揺らすたび、ほのかに洗剤の香りが混じる。

部屋の真ん中にはマットとダンベル、プロテインのシェイカー。
まるで小さなジムみたいだ。
その中心で、俺――目黒楓は、床に手をついて必死に耐えていた。

「……う、無理、もう腕が上がんない……っ」

「まだ1回目だよ、楓」

後ろから聞こえる葵の声。
低くて、あたたかくて、それでいてやけに耳に残る。
体育学部らしい引き締まった体で、シャツの肩が少し張って見えた。
その姿をちらっと見ただけで、胸の奥がざわつく。

(やっぱ、近くで見る破壊力……なんだよこれ、マジでR指定入るって……)

(ただの筋トレだぞ?教えてもらってるはずなのに、逆に教育に悪い……!)

(汗でシャツが肌に張りついてるのとか、呼吸のたびに胸が上下するのとか、意識しない方が無理だろ……!)

(てか、俺、今どこ見てんだよ!?もっと真面目にやれ、真面目に!……でも、無理。目が勝手に……)

(くそ、筋トレのはずなのに、刺激が強すぎる……心臓が潰れる……)

腕がプルプル震えて、限界を訴えてくる。
その瞬間、背後から影が覆いかぶさるように近づいた。

「腰、ちょっと上がってる。……ほら、こう」

柔らかな声と一緒に、葵の手が腰に触れた。
指先が軽く押す。その瞬間――。

「っ、あ……」

変な声が出た。
背中に葵の胸が触れて、熱が伝わってくる。
シャツ越しなのに、そこだけ肌が燃えるみたいに熱い。

「息、止めない。もっと、ゆっくり」

「っ……わ、分かってる……!」

「そう、いい」

耳のすぐ後ろで、囁くように言われた。
その声があまりに近くて、体の奥まで響く。
背中をつたって電気が走るみたいに、全身がびくっと震えた。

(ち、近い……!)

(無理、こんなの……俺の理性ゲージゼロになる……!)

心臓の音が、壁にぶつかって返ってくるようだった。
その間も、葵は変わらず穏やかな声で言う。

「肩、力抜いて。リラックス」

「む、無理だって……そんな近くで言われたら……」

「え?何が?」

「な、なんでもないっ!」

慌てて顔をそらした瞬間、葵の吐息が首筋にふっと触れた。
一瞬で背筋が凍りついて、全身が熱くなる。

(やばい……息かかっただけで、心臓止まるかと思った……)

(ていうか、これ、筋トレじゃなくて……修行だ……)

「もうちょい頑張ってみようか。あと10秒」

「じゅ、10秒!?殺す気!?」

「そんなことしないって。俺、優しいし」

そう言いながら、また背後から腰に手を添えてくる。
力強いのに、ちゃんと優しい。
息が合っているのが分かる。

(……俺、今たぶん、顔真っ赤だ……)

「……うん、いい姿勢になってきた」

「はぁ、はぁ……っ、もう……限界……!」

「おつかれ」

数え終えた葵が笑って、俺の肩をぽんと叩く。
その瞬間、力が抜けて、床に崩れ落ちた。

「……死ぬかと思った……」

「最近筋トレしてるって聞いて、期待したのにな。思ったより体力ない?」

汗が床に落ちる。
息がうまく整わないまま、葵が冷たいペットボトルを差し出してきた。

「はい、水分補給」

「……ありがと……」

受け取って一口飲む。
その間に、葵がタオルで首筋をぬぐっているのが見えた。

(そんな動作だけでドキドキさせてくるの……耐えられない……)

「なに、そんな真っ赤な顔して」

「し、してねぇし!」

「うそ。すぐ顔に出るんだから」

「うるさいっ」

拗ねて言い返したら、葵がくすっと笑って、少し目を伏せた。
その笑い方が妙に優しくて、心臓がまた跳ねる。

「……でも、いいと思うよ」

「え?」

「頑張ってる顔、好き」

――その言葉に、息が止まった。
一瞬、世界が静止する。
脳内で何かが破裂するみたいに熱が広がって、喉がカラカラになった。

「……な、なにそれ……褒め方ずるい……」

「素直な感想」

「……もう知らん」

顔を逸らしてペットボトルを握りしめる。
でも、手が震えて、うまく飲めなかった。

その隣で、葵はいつものように穏やかに笑っていた。
汗に濡れた髪が額に貼りついて、呼吸は少し荒いのに――
それでも、その横顔はやっぱり完璧で。

(ほんと、なんでこんな殺傷力高いんだよ……)

(もう、普通に見られない。葵のこと、こんなに意識してるなんて……)

胸の鼓動はまだ早いままで、
葵の笑顔が、目の奥に焼きついて離れなかった。