夜の空気は、昼間よりもひんやりしていて、ほんの少し湿っていた。
アパートの廊下を抜けると、蛍光灯の白い光が天井の埃を浮かび上がらせている。
買い物帰りのレジ袋を片手にぶら下げていた俺は、角を曲がった瞬間――ちょうど、葵が部屋から出てくるところに出くわした。

「……あ」

思わず足が止まる。

白いシャツに、グレーのパンツ。
そのシンプルな格好なのに、汗で少し湿った髪と、首筋に光る汗の粒が妙に色っぽく見えた。
シャツの胸元がわずかに上下していて、息がまだ落ち着いていない。

(ビジュアルがエロすぎるんだけど!?)

「……今、筋トレしてた?」

何気ないふりをして言ったつもりだったのに、自分でも驚くほど声が上ずった。

葵は目を瞬かせて、それから、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。

「うん。……っていうか、楓も最近ちょっと筋肉ついた?」

「え、そんなわけ……」

「だって、前より腕が太くなってるし」

その言葉と同時に、葵の指先が俺の二の腕を軽くつついた。
ほんの一瞬の接触――それだけで、体温が一気に跳ね上がる。

(やば……なにその、さりげないスキンシップ。攻撃力高すぎるんだけど)

(てか、汗の匂いがちょっと甘いってどういうこと……近い、距離が近い)

「もしかして、最近、筋トレしてる?」

「なんで知ってるの!?」

「ふふ、やっぱり。なんか雰囲気変わった気がしたから」

笑いながら言う葵の声が、柔らかくて、喉の奥に響く。
その声が、壁越しに聞いてきた夜の息遣いと重なって――思わず心臓がざわめく。

(……っていうか、雰囲気変わったとか言われるの、地味に嬉しい)

(やめろ、そんな普通に褒めないで。誤解してますます好きになるだろ)

「筋トレ、興味あるの?」

「え?あー、まぁ……その、ちょっとだけ」

「見に来る?」

――あまりに自然に、軽く言われた。

頭が真っ白になる。
冗談かと思ったけど、葵の目は本気で、まっすぐに俺を見ていた。

「え、いや、別に見に行くほどじゃ――それに、どこか行くつもりだったんじゃ?」

俺がそう言うと、葵はドアの取っ手に手をかけたまま、軽く首を傾げて笑った。

「ん?ああ、コンビニ行こうかなって思ってただけ」

「コンビニ?」

「うん、でも別にいつでも行けるし」

そう言って、肩をすくめる。

「いいじゃん。どうせ隣なんだし」

その一言を、いつもの調子で言うから、逆に断りづらい。

(ちょ、待て待て待て……いや、そういう軽いノリで部屋誘う?普通、隣の住人を?)

(どうせ隣って、なんか響きがずるくない?距離感、バグるやつじゃん……!)

「……ま、まぁ、ちょっとだけなら」

「よし、決まり」

にっと笑って、鍵をポケットに戻す葵。
その自然体の笑顔が、夜の蛍光灯の下で少しだけ眩しく見えた。

(あのさ……俺、本気で落ち着かないんだけど)

(これ、見に行くってだけで、心臓がこんなにうるさいの、絶対おかしいよな……)

笑顔。
それだけで、断る理由なんて全部吹っ飛んだ。

(……いや、行くの?行くのか俺?葵の部屋に?)

(やばい、心臓が痛い。これ絶対落ち着いて見れないやつ)

気づけば、俺の手はレジ袋を持ったまま、葵の後ろについて歩いていた。
葵の部屋に入ると、ふわっと爽やかなシトラス系の香りがした。
床には黒いトレーニングマット、壁際にはダンベルとプロテインのボトル。
整理整頓された空間は、いかにも彼らしい。

「座ってていいよ」

言われるままに、俺はマットの端に腰を下ろした。
床の冷たさが落ち着くようで、逆に心の動悸をはっきり感じる。

目の前では、葵がゆっくりとシャツの裾を伸ばして姿勢を整え、腹筋を始めた。

――静かな呼吸音と、床がきしむ音。

「いち、に……」

低く数えるたびに、服の上からでも分かる引き締まった腹筋が上下する。
息を吸うたびに胸が膨らみ、吐くたびに喉の奥から短く息が漏れる。

(……やばい。これ、近距離で見ると破壊力が違う)

(誤解とかじゃなくて、普通に色気がすごい)

「……あ、きつ……あと5回」

(待って、それ前にも聞いた台詞!)

(……わかってる。わかってるんだよ、これは筋トレなんだって)

(葵はただ真面目に、鍛えてるだけ。健康的で健全で、何もやましいことなんか――)

(――ない、はずなのに!)

(なんでだよ……なんでその息づかいとか、汗の光り方とか、腕の動きとか……全部エロく見えるんだよ!)

(腹筋ひとつするたびにTシャツがめくれて、腹筋のラインがチラッて見えるとか、反則だろ!?)

(お前それ、筋トレじゃなくて誘惑だからな!?)

(っていうか俺、何を真剣に見てんの!?ただの筋トレだぞ!?なに興奮してんだ俺!)

(……無理。筋トレって、こんなにエロかったっけ……?)

「ふぅ……」

息を吐く音が低く響いて、胸の奥に残る。
その声を聞くたび、俺の鼓動がまた早くなる。

「……そんな真剣に見られると、ちょっと恥ずかしいんだけど」

「えっ!?あ、いや、ち、違……!」

「冗談だよ」

笑いながらタオルで汗を拭く葵。
その笑顔が、照明の下で少しだけ柔らかく光っていた。

(……やっぱり、優しい顔してるな)

(夜の声と、この笑顔が同じ人のものなんて、信じられない)

静かな夜の空気の中、汗の匂いと柔軟剤の香りが混ざって、息苦しいくらい近い。
俺の視線は、もう彼から離れなかった。

(……ダメだ。今度は違う意味でドキドキしてる)

(壁越しじゃなくて、真正面。こんな距離で、あの声を聞くなんて……心臓がもたない)

葵が最後に言った。

「……やってみる?一緒に」

その瞬間、頭の中で『やってみる?』の言葉が、妙にエロく響いたのは――絶対、俺だけのせいじゃないと思う。