夜の風が少し冷たくなってきた。
冬が近い。街灯の下、スーパーの袋を片手にアパートの前へ戻る途中、ふいに後方から聞き慣れた声がした。

「おー、楓」

その声だけで、心臓が跳ねる。
振り返ると、神田葵がそこにいた。ジャージ姿に、少し汗で湿った髪。
夜なのに、どうしてこの人はこんなに爽やかに見えるんだろう。街灯の光が肩に落ちて、輪郭をやわらかく照らしている。

「買い物帰り?」

「あ、うん。ちょっとだけ食材を買いに」

「タイミングいいな。俺も今帰ってきたとこ」

葵は笑って、手に提げていた袋を軽く持ち上げた。
その中には――見慣れた文字。「PROTEIN」。

「新しい味のプロテイン、買ったんだ。……一緒にどう?」

唐突な誘いに、思考が一瞬止まる。

(い、今、『一緒にどう?』って言った!?え、待って、やばくない!?それ、もう完全に誘ってる言い方じゃん!)

(いやいやいや、落ち着け俺。葵はそんなつもりじゃない、絶対。ただのプロテイン、ただの筋肉の話)

(でも……『一緒にどう?』って、言い方と声のトーンが完全にエロかった!)

(てか、そんな爽やかフェイスで言うなよ!心の準備ってもんがあるんだよ童貞には!!)

「え、あ、い、いいの?俺なんかが」

「なんかがって……別に、一緒に飲むだけだよ」

「そ、そうだよね……!」

気まずさを誤魔化すように笑うと、葵の目尻がやさしく下がった。

(だめだ……その顔、反則……)

冷たいはずの夜風が、頬の熱を全然冷ましてくれない。

「じゃ、ちょっと寄ってく?」

たったそれだけの一言なのに、心臓がひときわ大きな音を立てた。

(……やばい。久しぶりに、葵の部屋に行く……!)



玄関をくぐると、ふわっと柑橘系の匂いが漂った。
清潔感と、少しだけ甘い柔軟剤の香り。
前に看病で来たときより、さらに整っている。
白を基調としたシンプルな家具、磨かれた床。部屋の隅には、整然と並べられたトレーニング器具。

「座ってて。今シェイクするから」

葵はキッチンに立ち、袋を取り出す。
パサ、パサ――あの音が響いた。

(……これだ。初日に聞いたあの音。俺、完全に勘違いして……)

コンドームを開封する音だと思い込んで、夜中に一人で顔真っ赤になって……。

(うわ、思い出しただけで恥ずかしい……!)

「どうした?顔、赤いけど」

「な、なんでもないっ!」

「ふふ。……もしかして、エッチな妄想でもしてんの?」

「してねぇよっ!!」

軽く笑う声に、背筋がゾクッとした。
彼は無邪気に笑ってるだけなのに、どこか挑発されている気がしてならない。

葵はシェイカーを手に取り、軽快な音で振りはじめた。
リズミカルに鳴る「シャカシャカ」という音。
揺れる前腕の筋肉、手首の動き。

(……あの声の正体は、ほんとに筋トレの時の声なんだよな)

(でも改めて考えても……やっぱり、少し、色っぽい)

(だって、あの腕の動きとか、息づかいとか、妙にリズムがあるんだよ……)

(シェイカー振ってるだけなのに、なんでそんな艶っぽく見えるんだよ!)

(筋トレってもっと、こう、無骨でゴツゴツしてるイメージだったのに。あれは……ずるい)

(あんなの見せられたら、意識するに決まってるだろ……!てか俺、何見てんだよ!落ち着け、目黒楓!)

「はい、どうぞ」

差し出されたグラスには、淡いピンク色の液体。

「ストロベリーミルク味。甘いよ」

おそるおそる口をつける。
……ほんのり甘くて、飲みやすい。想像してたより、ずっと優しい味。

「……意外と、美味しい」

「だろ?」

葵の笑顔が、やけに嬉しそうだった。

「初めて飲む人はだいたい思ったより甘いって言うんだよね」

「うん。もっと苦いかと思ってた」

「苦いのは筋トレの方だよ」

「ふふ……そうだね」

笑い合った瞬間、空気が一気に近づいた気がした。
指先がカップ越しに触れ、微かに電気が走る。

(……やばい、近い)

(……好きすぎて、意識しちゃう……)

(落ち着け俺……顔に出すな……でも無理だ……やばい、ほんと、好きすぎる)

「なに?」

「え、な、なんでもない」

「ほんとに?……顔、赤いけど」

覗き込むように顔を寄せてくる葵。
近い。目が、唇が、息の距離が近すぎる。

(やめてくれよ、その距離は心臓に悪いって……)

「……プロテイン、気に入った?」

「うん。すごく」

「じゃあまた今度、一緒に飲もう」

「……うん」

静かに揺れるカーテン。窓の外で、夜風が優しく通り過ぎる。
その音すら、どこか甘く聞こえた。

――たったひと口の甘さが、胸の奥でずっと残っている。
もう、プロテインの味なんて忘れた。
覚えているのは、葵の笑顔と、あの優しい声の余韻だけだった。