昼下がりの図書館。
大きな窓から射し込む陽光が、磨かれた床に反射してゆらりと揺れる。
柔らかな秋の光。あたたかいのに、どこか切ない。
空気の中を小さな埃が漂って、静寂に光を散らしていた。
ページをめくる音、ペンを走らせる音、そして遠くの時計の秒針。
それ以外、何も聞こえない。
そんな穏やかな空間の中、楓は一人、本棚の列をゆっくりと歩いていた。
(……葵、今ごろどうしてるんだろ)
(もう熱、完全に下がったかな)
無理してないだろうか。
筋トレバカの彼のことだから、「体が鈍る」とか言って、もう腕立て伏せでもしてそうだ。
(……葵、じっとしてられなさそうだもんな。ちゃんと休んでいるかな)
そう思いながらも、心のどこかでは――会いたい、と思っていた。
あの穏やかな笑顔。少し熱で潤んだ瞳。
(……ほんと、ずるい)
(看病してたのに、俺の方がドキドキしてどうするんだよ)
ため息をひとつ落としながら、文学の棚に手を伸ばす。
何か差し入れ代わりになる本でも選んだ方がいいかなと考えながら、背表紙を指でなぞったそのとき――。
「……あ、ごめん。取ろうとしたの、これ?」
不意に耳に届いた声。
心臓が跳ねた。
聞き慣れた、少し低めの、あの穏やかなトーン。
「……え?」
反射的に振り返ると、すぐそこに葵が立っていた。
白いシャツの襟元を少し開けて、淡いグレーのカーディガンを羽織っている。
まだ完全に色は戻っていないが、頬にはうっすら血色が差していた。
「葵……っ!?」
「うん」
驚きと安堵が同時に胸に込み上げる。
まるで、考えていたことがそのまま現実になったみたいだった。
「え、どうしたの。もう外出して平気なの?」
「まぁ、だいぶ良くなったから。部屋にずっといたら退屈でさ。ちょっと外の空気吸いに」
「外の空気って……ここ、図書館だぞ」
「静かでいいだろ?」
くすっと笑う葵。
喉の奥がまだ少し枯れていて、その声がやけに優しく響く。
(……あぁ、やばい。やっぱり落ち着く)
楓の胸の奥がじんわり熱くなっていく。
「これ、読みたいと思ってて」
「そうなんだ。さすが文学部だね」
「葵は筋トレ雑誌しか読まなさそうだな」
「失礼だな。たまにはこういう静かなのも読むよ」
冗談めかして笑う葵。
けれど、病み上がりのせいか、その笑顔はいつもより柔らかくて。
(……反則だろ、その顔)
楓は自分の心臓の音をごまかすように、慌てて目を伏せた。
しばらく沈黙。
周囲の静けさが二人を包み込む。
そんな中、葵が小さく口を開いた。
「楓、あのさ。……この前はありがとな」
「え?」
「看病。ほんと助かった」
「……いや、たいしたことしてないよ」
「いやいや。ポカリとかお粥とか、あんなに世話焼かれるなんて初めてだった」
「……そりゃ、放っとけるわけないでしょ。隣だし」
「それでも嬉しかったよ」
(……やめろ。そんなまっすぐ言うなって)
喉がきゅっと締まって、言葉が出ない。
なんでこんなにドキドキしてるんだろう。
「もう熱、下がったの?」
「おかげさまで。ほら、こうして動けるくらいには」
「……ほんとに無理するなよ」
「心配してくれてんの?」
「べ、別に!」
葵が笑う。
その音が静寂の中で心地よく響いて、楓は思わず目を逸らした。
「……腕、細いな」
「は?」
「看病してくれたときも思ったけど、華奢だよね。ちゃんと食べてる?」
「葵みたいに鍛えてないので」
「俺、そんなにゴリゴリじゃないって」
「いや、十分ムキムキだよ。……壁ごしでも分かるし」
「壁ごし?」
「な、なんでもない!」
(最悪!なんで言った!?)
楓は本をめくるふりをして顔を隠す。
「ふふ……楓、やっぱ可愛いな」
「な、なに言ってんだよ!ここ図書館だぞ!」
「静かに言ってるって」
「そういう問題じゃねぇよ!」
「怒った?」
「怒ってない!……けど、もうちょい距離とれ!」
「やだ」
「は!?」
葵が少し顔を寄せる。
距離、十センチ。
柔らかな息が頬をかすめ、楓は息を飲んだ。
(……ちょ、近い!ほんとに近い!)
(これ以上近づかれたら、俺……)
本の匂いと葵の香りが混ざり合って、世界が静まり返る。
図書館なのに、胸の鼓動だけがやけに大きく響いた。
「ねぇ、今度うちで読書会でもする?静かなの、好きでしょ?」
「……読書会?」
「うん。俺、プロテイン飲みながら本読むから」
「なんだそれ」
二人して思わず笑う。
その笑い声が、昼下がりの図書館に溶けていく。
(……やっぱり、ずるいな)
(『ありがとな』の一言で、こんなに心が乱れるなんて)
ページをめくる音が、心臓の鼓動と重なる。
――病み上がりの葵は、すっかり元気を取り戻していた。
けれど、楓の方はまだ、別の意味で熱が下がる気配がなかった。
大きな窓から射し込む陽光が、磨かれた床に反射してゆらりと揺れる。
柔らかな秋の光。あたたかいのに、どこか切ない。
空気の中を小さな埃が漂って、静寂に光を散らしていた。
ページをめくる音、ペンを走らせる音、そして遠くの時計の秒針。
それ以外、何も聞こえない。
そんな穏やかな空間の中、楓は一人、本棚の列をゆっくりと歩いていた。
(……葵、今ごろどうしてるんだろ)
(もう熱、完全に下がったかな)
無理してないだろうか。
筋トレバカの彼のことだから、「体が鈍る」とか言って、もう腕立て伏せでもしてそうだ。
(……葵、じっとしてられなさそうだもんな。ちゃんと休んでいるかな)
そう思いながらも、心のどこかでは――会いたい、と思っていた。
あの穏やかな笑顔。少し熱で潤んだ瞳。
(……ほんと、ずるい)
(看病してたのに、俺の方がドキドキしてどうするんだよ)
ため息をひとつ落としながら、文学の棚に手を伸ばす。
何か差し入れ代わりになる本でも選んだ方がいいかなと考えながら、背表紙を指でなぞったそのとき――。
「……あ、ごめん。取ろうとしたの、これ?」
不意に耳に届いた声。
心臓が跳ねた。
聞き慣れた、少し低めの、あの穏やかなトーン。
「……え?」
反射的に振り返ると、すぐそこに葵が立っていた。
白いシャツの襟元を少し開けて、淡いグレーのカーディガンを羽織っている。
まだ完全に色は戻っていないが、頬にはうっすら血色が差していた。
「葵……っ!?」
「うん」
驚きと安堵が同時に胸に込み上げる。
まるで、考えていたことがそのまま現実になったみたいだった。
「え、どうしたの。もう外出して平気なの?」
「まぁ、だいぶ良くなったから。部屋にずっといたら退屈でさ。ちょっと外の空気吸いに」
「外の空気って……ここ、図書館だぞ」
「静かでいいだろ?」
くすっと笑う葵。
喉の奥がまだ少し枯れていて、その声がやけに優しく響く。
(……あぁ、やばい。やっぱり落ち着く)
楓の胸の奥がじんわり熱くなっていく。
「これ、読みたいと思ってて」
「そうなんだ。さすが文学部だね」
「葵は筋トレ雑誌しか読まなさそうだな」
「失礼だな。たまにはこういう静かなのも読むよ」
冗談めかして笑う葵。
けれど、病み上がりのせいか、その笑顔はいつもより柔らかくて。
(……反則だろ、その顔)
楓は自分の心臓の音をごまかすように、慌てて目を伏せた。
しばらく沈黙。
周囲の静けさが二人を包み込む。
そんな中、葵が小さく口を開いた。
「楓、あのさ。……この前はありがとな」
「え?」
「看病。ほんと助かった」
「……いや、たいしたことしてないよ」
「いやいや。ポカリとかお粥とか、あんなに世話焼かれるなんて初めてだった」
「……そりゃ、放っとけるわけないでしょ。隣だし」
「それでも嬉しかったよ」
(……やめろ。そんなまっすぐ言うなって)
喉がきゅっと締まって、言葉が出ない。
なんでこんなにドキドキしてるんだろう。
「もう熱、下がったの?」
「おかげさまで。ほら、こうして動けるくらいには」
「……ほんとに無理するなよ」
「心配してくれてんの?」
「べ、別に!」
葵が笑う。
その音が静寂の中で心地よく響いて、楓は思わず目を逸らした。
「……腕、細いな」
「は?」
「看病してくれたときも思ったけど、華奢だよね。ちゃんと食べてる?」
「葵みたいに鍛えてないので」
「俺、そんなにゴリゴリじゃないって」
「いや、十分ムキムキだよ。……壁ごしでも分かるし」
「壁ごし?」
「な、なんでもない!」
(最悪!なんで言った!?)
楓は本をめくるふりをして顔を隠す。
「ふふ……楓、やっぱ可愛いな」
「な、なに言ってんだよ!ここ図書館だぞ!」
「静かに言ってるって」
「そういう問題じゃねぇよ!」
「怒った?」
「怒ってない!……けど、もうちょい距離とれ!」
「やだ」
「は!?」
葵が少し顔を寄せる。
距離、十センチ。
柔らかな息が頬をかすめ、楓は息を飲んだ。
(……ちょ、近い!ほんとに近い!)
(これ以上近づかれたら、俺……)
本の匂いと葵の香りが混ざり合って、世界が静まり返る。
図書館なのに、胸の鼓動だけがやけに大きく響いた。
「ねぇ、今度うちで読書会でもする?静かなの、好きでしょ?」
「……読書会?」
「うん。俺、プロテイン飲みながら本読むから」
「なんだそれ」
二人して思わず笑う。
その笑い声が、昼下がりの図書館に溶けていく。
(……やっぱり、ずるいな)
(『ありがとな』の一言で、こんなに心が乱れるなんて)
ページをめくる音が、心臓の鼓動と重なる。
――病み上がりの葵は、すっかり元気を取り戻していた。
けれど、楓の方はまだ、別の意味で熱が下がる気配がなかった。



