夜。
外は、冷たい秋風が街の隙間をすり抜けるように吹いていた。
アパートの古い壁が、微かにミシッと音を立てる。
いつもなら――その時間になると、隣の部屋からあの声が聞こえる。
息を詰めるような、低くて、それでいて真っ直ぐな声。
「……あ、やば……あと少し……っ」
そんな息づかいに、最初は赤面して枕を抱えたけど、筋トレの声と分かった最近では、もう生活音みたいに馴染んでいた。
なのに――今夜は、何も聞こえない。
静かだ。
あまりに静かで、耳鳴りがする。
(……どうしたんだろ)
(まさか、筋トレやめたとか?いや、あの真面目な葵がそんなことするわけない)
目を閉じて、壁に耳を寄せる。
いつもなら「うっ……きつ……!」のタイミングで聞こえる床の軋みもない。
部屋全体が、息を潜めているような静けさだった。
(……あの声が恋しくなるなんて、俺、どうかしてる)
けれど、本当に恋しいのだ。
あの声を聞くと、なぜか安心した。
まるで隣の誰かが、今日も頑張って生きている証拠みたいで。
「……俺も筋トレしてみよっかな」
思わず呟いて、布団の中でひとり苦笑する。
(バカか俺……なんで同じことやろうとしてんだ)
笑いながらも、心の奥がほんの少しだけ温かった。
――翌朝。
カーテンを開けると、曇った空が広がっていた。
部屋の空気がひんやりしていて、いつもより寒く感じる。
歯を磨きながら、ふと壁の向こうを意識してしまう。
(……やっぱり、まだ静かだ)
気になって仕方なくなり、外に出る準備をしたあと、玄関の前で立ち止まる。
心臓がどくどくとうるさい。
(……まさか、具合悪いとか……?)
迷った末に、ドアの前に立ち、チャイムを押した。
ピンポーン――
……返事がない。
二度、三度。
けれど、何も聞こえない。
(……どうしたんだろう?)
不安が胸の中で膨らんでいく。
「……葵?」
思わず名前を呼ぶ。
それでも反応がない。
ほんの一瞬、息が止まった。
「……おじゃまします」
ドアノブを回すと、カチャリと音を立てて開いた。
鍵は――かかっていない。
(え、開いてる……?)
躊躇しながらも中に入ると、汗とミントみたいな清涼感のある匂いが混じっていて、少し熱を帯びていた。
「葵……?」
声をかけながら、奥のベッドを見る。
白い布団の中、葵が丸くなっていた。
頬がうっすら赤い。呼吸も浅い。
「……葵!」
駆け寄って肩を揺らすと、ゆっくり瞼が開いた。
焦点が合うまで少し時間がかかって――ようやく、小さく声が漏れた。
「……楓?」
そのかすれた声に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん……ちょっと、昨日からだるくて……」
「……昨日から静かだったから、心配したよ」
葵は目を細め、力の抜けた笑みを浮かべた。
「……そんな理由?」
「バカ、理由とか関係ない。本当に心配だったんだよ」
「ふふ……ありがと、楓」
その声が、弱々しくても、やっぱり葵の声だった。
聞いた瞬間、全身が少し軽くなった気がした。
キッチンでタオルを濡らし、絞って戻る。
それを葵の額にそっと乗せた。
冷たい感触に、葵が小さく息を漏らす。
「……気持ちいい」
「当たり前。俺、看病のプロだから」
「ほんと?」
「うそ。初めて」
二人で笑うと、少しだけ空気が柔らかくなった。
外からは、風がカーテンをふわりと揺らす音。
その静けさの中で、楓はじっと葵の顔を見つめていた。
(……こんな近くで見るの、初めてだ。……なんか、守ってやりたくなる)
葵がまぶたをゆっくり開けて、ぽつりと呟いた。
「……楓」
「ん?」
「ごめん、やっぱり毎晩の筋トレ中、変な声ばっか聞かせてた?」
「……あの声、嫌いじゃないよ」
言ってから、自分でびっくりした。
けど葵は、少し照れたように口角を上げて、「そっか……よかった」と目を細めた。
その笑顔を見た瞬間、心臓が暴れ出した。
(……やばい。ほんとにやばい)
(俺、もうあのエロい声じゃなくて、葵の声が好きなんだ)
タオルを取り替えながら、楓は小さく呟いた。
「……早く元気になれよ。筋トレの声、また聞かせて」
葵は笑って、息を整えながら言う。
「……楓って、変わってるな」
「うるさい」
互いに笑った。
静かな午前の光の中で、二人の間に生まれた熱は、ゆっくりと優しく溶けていった。
外は、冷たい秋風が街の隙間をすり抜けるように吹いていた。
アパートの古い壁が、微かにミシッと音を立てる。
いつもなら――その時間になると、隣の部屋からあの声が聞こえる。
息を詰めるような、低くて、それでいて真っ直ぐな声。
「……あ、やば……あと少し……っ」
そんな息づかいに、最初は赤面して枕を抱えたけど、筋トレの声と分かった最近では、もう生活音みたいに馴染んでいた。
なのに――今夜は、何も聞こえない。
静かだ。
あまりに静かで、耳鳴りがする。
(……どうしたんだろ)
(まさか、筋トレやめたとか?いや、あの真面目な葵がそんなことするわけない)
目を閉じて、壁に耳を寄せる。
いつもなら「うっ……きつ……!」のタイミングで聞こえる床の軋みもない。
部屋全体が、息を潜めているような静けさだった。
(……あの声が恋しくなるなんて、俺、どうかしてる)
けれど、本当に恋しいのだ。
あの声を聞くと、なぜか安心した。
まるで隣の誰かが、今日も頑張って生きている証拠みたいで。
「……俺も筋トレしてみよっかな」
思わず呟いて、布団の中でひとり苦笑する。
(バカか俺……なんで同じことやろうとしてんだ)
笑いながらも、心の奥がほんの少しだけ温かった。
――翌朝。
カーテンを開けると、曇った空が広がっていた。
部屋の空気がひんやりしていて、いつもより寒く感じる。
歯を磨きながら、ふと壁の向こうを意識してしまう。
(……やっぱり、まだ静かだ)
気になって仕方なくなり、外に出る準備をしたあと、玄関の前で立ち止まる。
心臓がどくどくとうるさい。
(……まさか、具合悪いとか……?)
迷った末に、ドアの前に立ち、チャイムを押した。
ピンポーン――
……返事がない。
二度、三度。
けれど、何も聞こえない。
(……どうしたんだろう?)
不安が胸の中で膨らんでいく。
「……葵?」
思わず名前を呼ぶ。
それでも反応がない。
ほんの一瞬、息が止まった。
「……おじゃまします」
ドアノブを回すと、カチャリと音を立てて開いた。
鍵は――かかっていない。
(え、開いてる……?)
躊躇しながらも中に入ると、汗とミントみたいな清涼感のある匂いが混じっていて、少し熱を帯びていた。
「葵……?」
声をかけながら、奥のベッドを見る。
白い布団の中、葵が丸くなっていた。
頬がうっすら赤い。呼吸も浅い。
「……葵!」
駆け寄って肩を揺らすと、ゆっくり瞼が開いた。
焦点が合うまで少し時間がかかって――ようやく、小さく声が漏れた。
「……楓?」
そのかすれた声に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん……ちょっと、昨日からだるくて……」
「……昨日から静かだったから、心配したよ」
葵は目を細め、力の抜けた笑みを浮かべた。
「……そんな理由?」
「バカ、理由とか関係ない。本当に心配だったんだよ」
「ふふ……ありがと、楓」
その声が、弱々しくても、やっぱり葵の声だった。
聞いた瞬間、全身が少し軽くなった気がした。
キッチンでタオルを濡らし、絞って戻る。
それを葵の額にそっと乗せた。
冷たい感触に、葵が小さく息を漏らす。
「……気持ちいい」
「当たり前。俺、看病のプロだから」
「ほんと?」
「うそ。初めて」
二人で笑うと、少しだけ空気が柔らかくなった。
外からは、風がカーテンをふわりと揺らす音。
その静けさの中で、楓はじっと葵の顔を見つめていた。
(……こんな近くで見るの、初めてだ。……なんか、守ってやりたくなる)
葵がまぶたをゆっくり開けて、ぽつりと呟いた。
「……楓」
「ん?」
「ごめん、やっぱり毎晩の筋トレ中、変な声ばっか聞かせてた?」
「……あの声、嫌いじゃないよ」
言ってから、自分でびっくりした。
けど葵は、少し照れたように口角を上げて、「そっか……よかった」と目を細めた。
その笑顔を見た瞬間、心臓が暴れ出した。
(……やばい。ほんとにやばい)
(俺、もうあのエロい声じゃなくて、葵の声が好きなんだ)
タオルを取り替えながら、楓は小さく呟いた。
「……早く元気になれよ。筋トレの声、また聞かせて」
葵は笑って、息を整えながら言う。
「……楓って、変わってるな」
「うるさい」
互いに笑った。
静かな午前の光の中で、二人の間に生まれた熱は、ゆっくりと優しく溶けていった。



