狭いワンルームの中。
エアコンの風が通り抜けても、頬の熱は引かない。
自分の心臓がドクドクとうるさく響いて、今にも葵に聞こえそうだった。

「ご、ごめん……情けない声出して……」

声が裏返る。自分でもわかるくらい震えていた。

葵は目尻を下げて、安心させるように柔らかく笑う。

「全然。虫、苦手なんだね。なんか……可愛かった」

「か、可愛くないっ!!」

(もう、やめてくれ……そんな顔で笑われたら……俺、完全に落ちる)

反射的に叫んでいた。
けど、葵はさらに笑う。
その笑い方――喉の奥で少し息が漏れるような、優しい笑い声。

(あ……この声。夜に壁越しに聞こえてたあの声と、同じだ)

思い出す。

『……あ、きつ……やばい……』

『もう一回やるか』

『しまってる……』

――全部、筋トレの声だったんだ。
アレじゃなくて、筋トレ。
頭の中で、ずっと信じていた「夜のエロい声」が一瞬で書き換えられていく。

(……筋トレの声……だったんだよな)

(……全部、俺の妄想……)

頭の中で何かがひっくり返る音がした。
もう、笑うしかない。恥ずかしすぎて、顔から火が出そうだ。

そのとき、葵が少し首をかしげた。

「……あのさ」

「え?」

「もしかしてやっぱり毎晩、筋トレの声うるさかった?変な声、聞かせてごめん」

穏やかな声。
悪意も照れもなく、ただ素直に気にしてくれているだけの声。
その真っ直ぐな視線が、まるで心の奥を覗いてくるみたいで、息が止まった。

(いや……そんな風に聞かれたら、答えられないだろ……)

(だって、変じゃないなんて言ったら……まるで、俺があの声が気になって、ドキドキしてたみたいじゃん……!)

なのに――口が勝手に動いた。

「……変じゃない」

――しまった。
言った瞬間、空気が凍りついた。

ほんの一瞬の沈黙。
次の瞬間、葵が目を丸くして、ゆっくりと笑った。

「なら、よかった」

柔らかい声。
その笑顔は、昼間の爽やかさよりもずっと近くて、どこか照れくさそうで――でも、優しい光を帯びていた。

心臓がまた、早鐘を打つ。

(やばい……アレは誤解だって分かったのに、余計にドキドキしてる……)

葵は軽く息を吐いた。
何気ない仕草のひとつひとつが、目に焼きつく。

「……またゴキブリ出たら、やっつけるから」

そう言って笑った葵の声は、低くて、どこか甘かった。
ただの優しい言葉じゃない。
安心させるようでいて、どこか守られているような――そんな響き。

(そんな優しい声で……、そんな目で見られたら、もうどうしたらいいんだよ……)

彼の視線が俺をまっすぐ捉えたまま離れない。
その目に、ほんの一瞬、いたずらっぽい光が宿る。

「……今度は、怖がる前に俺を呼んで」

「えっ」

「すぐ行くから。どんな時間でも」

心臓が、また跳ねた。

(な、なにその言い方……虫退治の話してるだけだよな?)

(でも……声のトーン、ずるいって……)

葵はふっと微笑む。

「ほら、顔真っ赤。大丈夫、もう怖くないでしょ?」

「そ、そんなこと……!」

返そうとしても、喉がつまる。
彼の腕が軽く俺の肩に触れた瞬間――全身の温度が一気に上がった。

「……次も、ちゃんと守るから」

真剣な眼差し。

(……っ、やばい、俺、なんでこんなドキドキしてるんだよ)

けれど葵は、何事もなかったかのように立ち上がった。

「じゃ、また何かあったら呼んで」

葵は軽く微笑みながら言った。けれどその声の奥には、どこか強い響きがあった。

「あと、きちんと玄関の戸締りした方がいいよ。物騒だから」

その言葉が、まるで守るって宣言みたいに聞こえて、息が詰まる。

――あの声で。
俺の心をかき乱す、あの優しい声で。

(――俺……ただの隣人じゃいられなくなる)

(……たぶん、もうとっくに好きだ、葵のこと)

静まり返った部屋の中で、
聞こえるのは心臓の音と、葵の小さな息づかいだけ。

ゴキブリは確かにいなくなったはずなのに、俺の中の落ち着かない何かは、まったくいなくなりそうになかった。

葵は最後に柔らかく笑い、ドアノブに手をかけた。

「鍵、ちゃんとかけてね」

その背中がドアの向こうに消えるまで、俺はただ、息をするのも忘れて見つめていた。