夜の空気はひんやりしているのに、俺の部屋だけが異様に熱かった。
冷蔵庫を開けた瞬間、黒い影がスッと動いて――絶叫してから、たぶん数秒も経っていない。
心臓はバクバク鳴りっぱなし、膝は笑い、頭は真っ白。
やばい。動けない。あれがまだ冷蔵庫の裏にいると思うと、足が床に貼りついたみたいに動かない。

(うそだろ……都会って、こんなでっかいの出るの……?え、無理、絶対無理!!)

冷蔵庫の前で立ち尽くし、情けない声で「誰かぁ……!」と小さく叫んだそのとき――

――バンッ!!

隣の部屋のドアが、思いきり開く音。
壁越しにまで響くその衝撃音に、思わず体が跳ね上がった。
次の瞬間、玄関のドアが勢いよく開き、息を切らせた神田葵が飛び込んできた。

「楓!?どうしたの!?」

その声に、俺の心臓が別の意味で止まりそうになる。
白いTシャツにグレーのスウェット。
Tシャツ越しでもわかる筋肉の厚み。首筋からこめかみにかけて汗が光っていて、髪が少し湿っている。
さっきまでアレをしていたからか、呼吸がまだ荒く、体が火照っているのがわかる。

(……いや、ちょ、まって、なんかめちゃくちゃ爽やかに現れたけど、近い、距離近い!)

「楓!?ケガ!?火事!?」

「ご、ごごご、ごきぶりっ!!!」

「え?」

「冷蔵庫のとこに、黒いやつ!でっかいの!!!」

情けない声が喉から漏れる。指先が震えて、まともに冷蔵庫も指せない。
そんな俺を見て、葵は一瞬だけ「は?」という顔をしたが、すぐに真剣な表情になった。
眉がキリッと上がり、瞳の奥が一瞬でスイッチが入ったみたいに鋭くなる。

「了解」

その一言。低い声が、なんか無駄にかっこいい。

葵はスリッパを片手に構え、冷蔵庫の前に立つ。
一歩、二歩。足音すら迷いがない。
Tシャツの裾が少しめくれて、引き締まった腹筋の影が一瞬見えた。

(ちょ、ちょっと待って、なんでそんなかっこいい立ち方するの!?戦隊ヒーローかよ!)

冷蔵庫の周りは、静寂。
LED照明の白い光の中で、葵がゆっくりと腰を落とす。
その横顔が真剣そのもので、照明の陰影が筋肉を美しく際立たせていた。

「……よし、いた!」

――パシィッ!!

乾いた音。空気が一瞬だけ震えた。

沈黙。

「よし、もう大丈夫」

落ち着いた声。まるで何事もなかったかのように言って、葵はしゃがんでティッシュで何かを包み、
ビニール袋へスッと入れた。
その動作のひとつひとつが丁寧で、速くて、美しい。

「外に捨ててくるね」

そう言って立ち上がる背中が、まっすぐで。
頼もしすぎて、見てるだけで胸の奥がじんわり熱くなる。
汗と柔軟剤が混ざったような匂いが、ふわっと部屋の中に残る。

「……すげぇ……」

気づけば呟いていた。
まじで、一撃。
何が起きたのか理解できないほどの速さだった。
さっきまでパニックで泣きそうだった自分が、恥ずかしくて仕方ない。

葵が外から戻ってくる。
洗面所で軽く手を洗いながら、「もう安心していいよ」と穏やかに笑う。
その笑顔が、あまりに自然でやさしくて――
ばいきんまんを倒したあとのアンパンマンみたいに、安心と達成感が混ざった笑顔だった。

「あ、ありがとう……ほんとに助かった……」

「怖かったね」

(……怖かったねって、そんな言い方されたら、なんか心臓から変な音出るんだけど……!)

胸の奥がじんわり温かくなって、頬が熱くなる。
でも、平静を装って口を開いた。

「ごめん、一緒にいる人に悪いから、もう帰って大丈夫だよ」

「? 一緒にいる人?」

「え?だって……夜、いつもその……」

――声が聞こえるから。
でも、言えない。
言えるわけがない。

葵はきょとんと首をかしげる。

「俺、部屋に一人だよ?」

「……え?」

「夜は、いつも部屋で筋トレするって決めてるんだ」

「……筋トレ……?」

頭の中で、カチン、と音が鳴った。
脳内で、葵の声が一気に再生される。

――「……あ、きつ……やばい……」

(きついって、筋トレのきつい!?)

――「もう一回やるか」

(もう一回って、筋トレのセット!?)

――「しまってる……」

(筋肉が締まってる!?!?)

――「はぁ、たくさん出たな」

(……汗!?出たのは汗!?)

――「シャワー浴びてくるか」

(筋トレ後のシャワー!?)

そして、ずっと気になっていたこと。
葵の声しか聞こえなかった理由。

(……そりゃそうだよ。一人で……筋トレしてたんだ……!)

積み上げてきた妄想タワーが、一瞬で崩壊する音が頭の中で響いた。
俺の顔が真っ赤になり、全身が一気に熱くなる。

(ぜ、全部筋トレだったのかよ……!?毎晩のあのエロすぎる声、実は筋トレ中の声だったってこと!?)

(いや、待て待て、じゃあ俺、この数か月、一人で勝手に発情してたってこと!?)

(うわああああああ!!死にたい!!)

「だ、大丈夫?すごい顔してるけど」

葵が覗き込む。距離が近い。
視界いっぱいに、笑顔と、汗のきらめき。

(ち、近い!やばい、こんな距離で見られたら――)

「ほんと助かったよ……葵、マジで頼りになる」

「ふふ、ゴキブリ退治なら得意なんで」

にこっと笑う。
まぶしい。
その笑顔を直視できなくて、視線を落とす。

あの声は、もういやらしくなんか聞こえなかった。
ただ、真面目に、ひたむきに、何かを頑張る人の息づかい。
そう思った瞬間、胸の奥がほのかにあたたかくなる。

……だけど、どうしてだろう。

(あの声が、今はもう……違う意味で頭から離れない)

誤解が解けたはずなのに、今のほうがずっと心臓が騒がしくて、心音がやけに大きく響いていた。