夜。
アパートの外では、秋の虫の声がかすかに鳴いていた。
時計の針が、午前0時をまわっている。
六畳一間のワンルーム。蛍光灯は消して、ベッドの脇のスタンドライトだけがオレンジ色に光っていた。
狭い空間の中、冷蔵庫の低いモーター音と、外の車の走行音がかすかに混じる。

そんな中――壁一枚向こうから、またあの声が聞こえてきた。

「……あ、やば……っ、きつ……」

(うわ、また始まった……!もう日課なの?)

心臓が、跳ねた。
条件反射みたいに、体が固まる。
布団を頭までかぶって、枕をぎゅっと抱きしめた。
けれど、耳を塞いでも無駄だ。
その声は、まるで壁の中をすり抜けて直接脳に響いてくる。

(毎晩毎晩……どんなテンションでやってんの……?)

(体力おばけか?飽きないの?)

自分でも呆れるくらい真面目に考えてるのが、逆に情けない。
そんなの、知りたくもないのに。

枕を抱えたまま天井を見つめる。
想像したくないのに、勝手に頭の中で映像が流れ出す。
……汗ばんだ肌、重なる影、指の絡み。

(やめろ俺!そんな想像してどうすんだ!)

(だめだ……どんどん想像がリアルになってく)

低くて、息が混じったような声。
時々、力が抜けたみたいな吐息が混ざる。
汗のにおいまで漂ってきそうで、無意識に喉が鳴った。

(だめだ……頭が真っ白になる)

頭の奥で、何かが爆ぜる。
わかってる。想像しちゃいけない。
けど、勝手に浮かんでしまう。
ぼんやりした照明の下、肌がぶつかり合って、息が混ざる映像が。

(……相手はどんな人なんだよ)

もし、その相手が可愛い子だったら?
……もし自分と同じ大学の誰かだったら?
そこまで考えて、自分で慌てて頭を振った。

(いやいやいや、俺、何考えてんだ!)

(他人の性生活に興味持つとか、変態か!?)

……でも。
布団の中でごろごろ転がる。
顔が熱くて、シーツに頬がくっつく。

(やばい、考えれば考えるほど頭おかしくなる)

(神田葵……お前、見た目爽やかなのに、どんだけアレに飢えてるんだよ……)

天使みたいな笑顔のくせに、中身は肉食獣とか。
ギャップがえぐすぎて、脳がバグる。

(昼間は俺に「おつかれ」って、あんな爽やかに挨拶してくるくせに、夜はあんな声出して……)

布団の中でバタバタと足をばたつかせる。
どう考えてもおかしい。こんなの冷静でいられるわけない。

(はぁ……だめだ、もう寝れねぇ……)

息をひとつ吐いて、枕をぎゅっと抱きしめた。
けど、次の瞬間――

「もうちょい……よし、あと5回」

(……え、あと5回?ちょ、待って、それって一晩中するってこと?)

(どんだけ体力あるの?マジで人間じゃなくない?)

(てか、相手もよく付き合えるな……)

(相手、生きてる!?酸欠で倒れてない!?心配になるわ)

想像した瞬間、顔から火が出そうになった。
寝返りを打ちながら、頭の中がカオスになる。

(無理無理無理……体育学部、恐るべし……!)

(……いや、むしろ羨……ちがうちがう!)

それでも次の瞬間、また低い息づかいが響いて。

「っ……きつ、……あ、ダメ……っ」

(だ、だめだ……声のトーンがエロすぎる……!)

一瞬で全部吹き飛んだ。
もはや理性なんて、どこか遠くに置いてきた。

(もう、どうしてくれるんだ神田葵。壁越しの声だけで、俺の頭の中、ぐちゃぐちゃだ……)

壁に背を向けても、息づかいは止まらない。
部屋の空気がどんどん熱くなっていく気がした。
冷蔵庫のモーター音までやけにうるさく聞こえる。
そうやって眠れないまま、時間だけが過ぎて――

「……はぁ……頭、熱い。冷たいの飲まないと……まじでやばい。……落ち着け俺。水飲め、水。冷たいやつ、今すぐ」

起き上がって、ふらふらと冷蔵庫の前まで行った、その時。

ガサッ。

黒い影が、視界の端を走った。
――一瞬で心臓が止まる。

「ぎゃあああああああああああああああああ!!!」

勢いで冷蔵庫のドアを閉めて、全力で後ずさる。
背中が壁にぶつかって、息が止まった。

「やばいやばいやばい!!!」

何がどうなってるかなんて考える余裕はない。
ただ、あの黒い悪魔が冷蔵庫の奥に潜んでいるという事実だけが、脳に焼きついて離れない。

「誰か……!誰か助けてくれぇぇぇぇ!!!」

アパートの静寂に、自分の情けない叫び声が響いた。
外では、犬が遠吠えしている。
夜風が窓を揺らす音すら怖くて、全身の毛穴が開いていくのがわかる。

心臓が、さっきの声どころじゃない速さで暴れていた。

(……終わった。俺の東京生活、終了のお知らせ……)