夜の風が少し冷たくなってきた。
街路樹の枝が揺れて、葉が擦れる音が、静かな住宅街にさらさらと響いていた。
街灯が並ぶ舗道を、俺と葵は並んで歩いていた。

昼間は人の多かった商店街も、もうシャッターが降りていて、通り過ぎる車の音がやけに大きく感じる。
時折すれ違うカップルが笑いながら肩を寄せ合っていて、その姿をちらりと見ては――妙に意識してしまう。

(……なんか、俺たちもカップルっぽいな)

そんな考えが浮かんで、慌てて打ち消した。
隣を見ると、葵が手に提げた紙袋を軽く揺らしている。中には、デートの帰りに一緒に買ったお菓子とジュース。

「今日は楽しかったね」

葵が、不意に笑いながら言った。

その笑顔に、心臓が一拍遅れて跳ねる。

「……うん、俺も。なんか、時間あっという間だった」

言葉を交わしながら歩く距離が、少しずつ狭まっていく。
袖がかすかに触れた瞬間、電気が走ったみたいに体が反応して――それでも、どちらも離れようとしなかった。

気づけば、もう「目黒くん」でも「神田くん」でもなく――ただの「楓」と「葵」になっていた。
最初はため口で話すことに抵抗があったのに、気づけば自然にそうなってて。

(……なんか、距離が一気に縮まった気がする)

「じゃ、また明日」

「うん……おやすみ」

アパートの部屋の前に着くと、互いに軽く笑って、それぞれのドアへ向かう。
カチリとドアが閉まる音が響いて、急に世界が静かになった。

靴を脱いで、ベッドに腰を下ろす。
昼間の光景がまだ頭に残っていて、頬がじんわり熱い。

(……なんか、夢みたいな日だったな)

葵と歩いた並木道、映画館の暗がりで少し触れた指先、コンビニ前で笑い合ったくだらない会話。
思い出すたびに、胸の奥が温かくなる。

(……あいつ、意外と優しいし、ちょっと天然っぽいし)

そんなことを考えているうちに、眠気がゆっくり押し寄せてきて――

「……っ、あ、きつ……もうちょい……!」

――その瞬間、眠気は一瞬で吹き飛んだ。
耳が勝手に反応して、壁の方を向く。

(……え?い、今の……)

まさかの、あの声。

(おいおいおい、嘘だろ……)

(いつの間に誰か連れ込んでんの⁉お前、元気すぎだろ神田葵!)

だってさっきまで一緒にいたんだぞ!?
駅から一緒に帰って、玄関で別れて、せいぜい30分しか経ってない。
なのにもう「……きつ……もうちょい……!」って!?

心臓がドクンと鳴り響き、顔が一気に熱くなる。

「……っ、よし……あと一回!」

(……はぁ!?また!?二回戦!?)

息を詰めて「……もうちょい……!」と絞り出す低音。
布団に潜って耳を塞ごうとしても、声は容赦なく届いてくる。

(やばい……息づかいとか、声のトーンとかで、全部鮮明に映像化できる……!)

脳裏に、筋肉質な腕と汗で光る肌、息を荒げる葵の姿が勝手に再生される。
想像やめろ俺!と思えば思うほど、リアルに浮かんでしまう。

(って、ちがうちがう!落ち着け俺!想像力の使い道、完全に間違ってる!)

頭をぶんぶん振っても、映像は止まらない。
むしろ再生どころかスローモーションになってく。

(いやいや、タフすぎるって!てか、あの体力どこから出てんの!?)

手で顔を覆う。頬が熱い。心臓は爆発寸前。

「……っ、よし……あと一回!」

壁の向こうからまた葵の声。

(あーもー!その『もう一回』が何回目なんだよ⁉どんだけストイックなんだよ体育学部!)

(てか、なんで俺が隣で一緒に息合わせてるみたいにドキドキしてんだよ!)

寝返りを打っても、布団をかぶっても、頭の中で葵の姿が消えない。
筋肉の動きとか、声の高さの変化とか、全部リアルに浮かんでくる。

(こんなに再現できるって、もはや才能の無駄遣いだろ俺……)

自分で自分にツッコミを入れながら、悶々と寝返りを打つ。
壁の向こうの声がまた小さく響くたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられるように熱くなった。

(……もう無理。寝れねぇ……あんたは人の睡眠を破壊する天才か……!)

(神田葵、お前ほんとに罪深い男だ……)

結局、朝までほとんど眠れなかった。
夜明けの光がカーテンの隙間から差し込んで、目を閉じてもまぶしい。

――そして、翌日の昼。

講義が終わり、教室のドアを出た瞬間、廊下の向こうから葵が歩いてくるのが見えた。
黒Tシャツにリュックを肩にかけた姿。
光の加減で髪が少し茶色く見えて、まるで昨日の夕方の街灯みたいに柔らかい。

「おつかれ、楓」

「……お、おう……」

その声を聞くだけで、昨日の夜のことが一瞬で蘇る。
あの声と重なって聞こえて、顔が真っ赤になる。

(ちょ、やめろその声で名前呼ぶな……反射的に心臓がバクバクする)

葵は何も知らない顔で、こちらに歩いてくる。
俺は視線を逸らして、なるべく平静を装ったけど――

「昨日、眠れた?」

「っ!?……な、なんで知ってるの!?」

思わず声が裏返った。

(え、まさか……やっぱり俺がお前の声を聞いてるの、気づいてる!?)

(いや、それどころか、俺が未経験って見抜いて挑発してきてるのか!?まさか……!)

「? 何を?」

首を傾げて、きょとんとした顔。
本当に、何も知らない目をしていた。

「……っ、なんでもないっ!」

「ふふ、なんだそれ」

葵は楽しそうに笑って、歩幅を合わせてくる。
いつの間にか、自然と肩が並ぶ。

(……やばい。この距離感、普通に死ぬ)

(だって昨日、あんな声聞いたばっかだぞ!?)

廊下の窓から差し込む昼の光の中、葵はいつも通りの笑顔を見せていた。
でも俺の頭の中では、昨夜の息づかいがまだ、鮮明に鳴り響いていた。