夜の静けさの中、アパートの壁一枚向こうから――それは突然、聞こえてきた。

「……あ、きつ……やばい……」

(え、え?今の、え?)

耳を疑った。思わずスマホを置いて、息を止める。

(……うそだろ。まさか、……してる?)

この春、上京してきたばかり。
大学進学を機に、初めての一人暮らしを始めた文学部一年・目黒楓は、まだ慣れない六畳一間の部屋で、ベッドの上で固まっていた。

アパートの壁は思っていたよりも薄い。
初めての東京の夜――。
きっと引っ越しの疲れで、布団に入ったらすぐに眠ってしまうだろうと、そう思っていた。
慣れない電車移動に、重たい段ボールの山。
知らない街の喧騒と、少し高いコンビニ弁当。
ようやく一人暮らしが始まったという達成感と、ほんの少しの不安を胸に、楓は「今日はもう何も考えずに寝よう」と決めていた。

――そのはずだったのに。

まさか、隣の部屋が、あんなにも生々しい音で満たされているなんて。
壁の向こうから漏れてくる、息を詰めるような低い吐息、布が擦れる気配、そして意味深な声。
最初は、テレビでも観てるのかと思った。けれど、音量の上がり下がりも、効果音もない。
それはあまりにもリアルで、現実だった。

(……え、嘘だろ。マジで……?)

胸の奥がざわざわして、眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。
心臓が、どくん、どくんと早くなる。
こんなに静かな夜なのに、隣の部屋の気配だけがやけに鮮やかに響いて、鼓膜をくすぐってくる。

楓は布団の中で身じろぎし、枕をぎゅっと抱きしめた。
耳を塞ぎたいのに、気づけば手は逆方向――壁の方へと伸びている。
指先が壁紙に触れた瞬間、現実感が増して、心臓が跳ねた。

(やばい……聞いちゃいけないのに、気になって仕方ない……)

都会の夜はもっとクールで、冷たくて、遠いものだと思っていた。
だけど今は、壁の向こうの誰かの息づかいが、こんなにも近い。
初めての東京の夜は、思っていたよりずっと――熱くて、生々しくて、眠れそうにない。

パサ、パサ……と袋を開けるような音がする。

(……こ、コンドーム……?)

そう思った瞬間、またあの声が落ちてきた。

「もう一回やるか」

(え、もう一回!?早すぎない!?てか、体力どうなってんの!?)

心臓がドクンと跳ねた。
耳に押し寄せる声のひとつひとつが、頭の中で勝手に映像を作っていく。
見たこともない男女の姿が、脳内シアターで勝手に上映されていた。

「……あ、きつ……しまってる……」

(しまってる!?いや、いやいや、待て待て……それもう完全にアレじゃん!!)

心臓が跳ねた。耳まで熱い。頭の中が勝手に暴走してる。

(しまってるって……あの、締まってるって意味だよな!?そ、そんな生々しい表現ある!?)

頭の中で、勝手に知らない男女のシルエットが浮かぶ。

(どんな状況!?どういう体勢!?てか、そんな感想、現実で口に出す!?)

思わず、頭の中に映像が浮かんだ。
ぼんやりした照明の下、汗ばんだ肌が触れ合い、指が絡み、息が交わる――
まるで映画のワンシーンみたいに、やけに鮮明で、いやにリアルだ。

(うわっ、なに想像してんだ俺!!)

自分で自分にツッコミを入れたくなる。
けれど、いったん浮かんだイメージはもう消えなくて、むしろどんどん具体的になっていく。

(やばい、これもう脳内が18禁なんだけど!?)

楓は布団の中で頭を抱えた。

(俺、ただの大学一年生だぞ……!入学式前日にこんな想像力使いたくない!!)

それでも、耳の奥ではあの声が何度もリピートして――
理性なんて、簡単に崩れ落ちていった。

(うわあああ!!考えるな俺!!やめろ脳内上映会!!)

枕を抱きしめたまま、楓は顔を真っ赤にして転げ回った。

(ちょっ、これ、もしかして生で聞いていい音じゃないやつだよな!?)

壁の向こうからまた微かな呻き声。

(やばい、やばい、やばい、聞くだけで変な汗出てくる……これが……リアルか……)

心臓が痛いほどドクドク鳴っている。

(未経験者の俺には刺激強すぎるって!てか、しまってるってどんな感覚!?)

(いや、むしろ、俺もいつか――)

そこまで考えて、慌てて頭を振る。

(落ち着け俺!!落ち着け目黒楓!!文学部は理性で生きる生き物だ!!)

……とはいえ、壁の向こうのあの声は、理性でどうにもならないほど艶っぽく響いていた。

カーテンの隙間から入る街灯の光が、薄暗い部屋の中に線を描く。
布団の中で、楓は顔を押さえた。

(ま、まずい……俺、想像力豊かすぎる……!)

(いざ、そういう声聞くと……破壊力エグいな……)

心臓が痛いほど鳴る。
鼓動が壁の向こうに聞こえてしまうんじゃないかと思うほどに。

(ちょ、待って。俺、まだ未経験なんですけど……?)

(なのに、隣人がこんなに堂々と……リアルタイム実演……!?)

その時――追い打ちのように、声が落ちた。

「はぁ、たくさん出たな。シャワー浴びてくるか」

(たくさん!?出た!?……ちょ、マジかよ!?)

(え、シャワーって……賢者タイムも無し?淡白っていうか……プロかよ!?)

思考が止まらない。
けれど、耳は離せない。
やがて、シャワーの水音がかすかに響き始めた。

楓は枕を抱きしめたまま、ため息をついた。
天井の模様が、やけに細かく見える。

(……やばい。上京初日から、刺激が強すぎる……)

東京って、怖い。
いや、正確には、隣の部屋が怖い。
というか、羨ましい。……何この感情。

気づけば時計は、もう深夜を回っていた。
眠気なんてとっくに消え失せて、代わりに胸の奥がじんじんしている。

(明日、ゴミ出しとかで顔を合わせたらどうしよう……)

(昨夜の声、聞こえてましたなんて言えないし……いや、絶対言えないし!)

外では電車の通過音が遠く響く。
部屋の明かりを落としても、頭にはあの声がずっとリピートしていた。

(……こんなんで、明日ちゃんと入学式行けるのか……?)

夜の東京は、思っていたよりもずっと鮮やかで、そして――やけにエロかった。

楓は、そんな都会の洗礼を受けながら、悶々としたまま夜を越えるしかなかった。