期末テストが終わった。
七月の空は、白いシロップを薄く溶かしたみたいに、甘いのに透けている。
チャイムの余韻が教室の四隅で小さく跳ね、窓の外では最初の蝉が試し鳴きを始めた。
答案用紙の隅に小さく「返却不要」と印字があって、いまの僕に必要なのは数字じゃなくて、深く息をすることだと思う。
田端が「打ち上げ、何食う」と訊いてきた。
「冷たいの」
「ソフトクリーム?」
「それもいいけど、家で素麺」
「渋い」
「正解はいつも台所にある」
「名言は、ポスターじゃなく冷蔵庫に貼っとけ」
笑って手を振ると、田端はバスケ部の集合目指して走っていった。
教室にひとり分の静けさが戻った。カーテンの裾が揺れて、窓の桟に光の粉が溜まる。
ポケットのスマホが一度だけ震えた。
『終わった?』
晴から。
『終わった』
『おつかれ、澪』
“おつかれ”の三文字はやっぱり水みたいに喉を通り、背中に広がる。
『これから図書館寄る。帰ったら素麺』
『夏の王様』
『王様のくせに三分で出来る』
『王は、手早さだ』
『今日の名言』
『スクショ』
『圧迫』
やりとりの端が軽い。テスト後の足取りみたいに。
踊り場で風を食べてから階段を降り、昇降口の隅で靴の紐を結び直す。
「夏の終わりまで、遠い?」
心のどこかでそんな問いが生まれて、すぐに引っ込む。
遠いものは、近づけすぎるとすぐ痛む。
家に着くと、母が「冷やし用の器、冷凍庫入れておいたから」と言った。
「天才」
「母は万能」
「知ってる」
台所で湯を沸かし、素麺をぱらぱら落とす。白い糸が鍋の底でふわっと踊る。
流しで冷水にさらすと、指先が夏に入る。
青じそを刻んで、氷を二つ、器に落とす。
そのとき、画面がまた震えた。
『“会わない”のルール、期限決めようか』
文字を見た瞬間、心臓が一度跳ねた。
跳ねた音は、台所のタイルに落ちて、すぐに溶ける。
『いつまで?』
打ちながら、息を浅くする。
『夏が終わるまで』
返ってきたのは、短い約束。
短いのに、意味は長い。
終わりを想定する優しさにも見えるし、終わらせないための仮の線にも思えた。
『了解』
とだけ返す。
了解は、今日に限って薄いガラスの音がした。指先で触れると、かすかに冷たい。
素麺の器をテーブルに置き、青じそをのせる。白い麺が、うまく整列していると落ち着く。
生姜をおろす手に、別の手のあたたかさを想像してしまう。
想像は自由で、でも自由は時々残酷だ。
“夏が終わるまで”。
その白い境界線を、台所の床の目地に重ねてみる。目地は、はじめからあった線だ。
僕らの線は、いま引いたばかりだ。
*
夜。
机のスタンドライトを点ける。
蛍光灯じゃない、暖色の光。未送信欄がやわらかく照らされる。
指は迷わないで、長文の形を取った。
《会わないって、言い訳かもしれない。
文字で繋がるほうが安全だから。
でも、君の顔が浮かぶたびに、画面の光が足りなくなる。
会わない約束の中で、俺は君に恋をしてる。
“人として”とか逃げ道を作らない意味での、恋。
声は知らないままで、息の速度だけ知っていく恋。
名前の練習は、もう何度もした。
未送信欄が増えるのは、卑怯じゃなくて準備だと信じたい。
だけど、準備のままで季節が変わるのは、もっと怖い》
読み返す。
呼吸が速くなる。
保存。
送らない。
保存の音はしないのに、胸の奥で小さく鳴る。
ベッドに潜る前、窓を少しだけ開ける。
夜の匂いが、部屋の中へ薄く入る。
遠くで誰かが花火を一本だけ上げたような気配がして、音は届かない。
音が届かないとき、未送信の言葉はやけに声を持つ。
目を閉じる。
“夏が終わるまで”。
その先の白地図に、無意識で指を伸ばしてしまう。
*
翌朝。
牛乳を半分、蜂蜜を少し。パンは四枚切りを半分。
母が「今日は午後、図書館寄るから――」と始めて、「いや、今日は寄らない」と自分で訂正した。
「なにそれ」
「返す本が、まだ返したくないの」
「わかる」
返したくないページがある。
閉じるには早い本。
僕の未送信欄も、返しそびれている図書館の貸出みたいなものだ。
スマホが震える。
晴から画像。
スクリーンショットの灰色の画面に、白い文字で「送信取り消し済み」。
“取り消し済み”の文字は、未送信の“保存”よりも、少し強い跡を残す。
『何、消したの?』
『本音に近すぎた』
『……どんな?』
一拍置いて、
『“会いたい”って打って、消した』
息が浅くなる。
(同じだ)
昨夜、僕が保存した最初の一行と、ほとんど同じ骨格。
未送信と取り消し。似ているけど、違う。
未送信は、僕の胸の中に留める選択。
取り消しは、一度外に出かけてから引き戻す選択。
選んだ道の違いが、二人の距離の微妙な段差になって、でもその段差が好きだとも思う。
『取り消す技術、俺は下手』
『練習いらない』
『未送信の技術は、上手くなった』
『知ってる。澪の“保存”の音、聞こえるときがある』
『いやそれは怖い』
『怖くない。うれしい』
“うれしい”の母音が長い。
長い母音は、夏の音に似ている。
のびのびしていて、でも輪郭は消えない。
学校に向かう道。
蝉の声が、もう“試し”じゃない。
本番の音量だ。
踏切を渡るとき、線路の向こう側でスカートの制服が二人、同じ方向を見ている。
同じ方向を見ることの安心を、夏はすぐ用意してくれる。
僕はポケットのスマホを叩く。
『今日の一行、先に。
“寝ぐせの角度で、夏が決まる”』
『詩人』
『生活の』
『偉そう』
『自覚ある』
*
期末の見直しが続く一週間は、細い糸を巻き直す作業に似ていた。
黒板の粉、扇風機の首振り、プリントの角。
昼、階段の踊り場で牛乳を一口。
紙パックの“あけぐち”の三角が指に触れて、やけに懐かしい。
晴は、相変わらず「一行日記」を律儀に送ってくる。
『今日の一行:水筒の氷、午前で死んだ』
『今日の一行:図書室の冷房、背中だけ冷たい』
『今日の一行:洗面台の付箋、増えた』
『今日の一行:未送信欄、重い』
重い。
僕の“重い”は、保存が増えた日の重さ。
彼の“重い”は、取り消しの回数かもしれない。
重さの中身が違っても、同じ重さとして持てるのは、協調より強い連帯だ。
夜、台所で胡瓜を薄切りにして、塩でもむ。
冷蔵庫で冷やしたガラスのボウルの中で、胡瓜が音を立てて鳴る。
氷を一つ落とすと、音はやさしくなる。
母が「おばあちゃんから桃が届いたよ」と言いながら、段ボールを開ける。
甘い匂いが台所に流れ込んで、僕の未送信欄にも桃色の匂いが移る。
僕は思わず、打つ。
《桃の匂い、君に触れた指の匂いに近いとしたら、俺は簡単に夏に負ける》
送らない。
保存。
保存の数が、桃の数より増えていく。
× × ×
土曜。
午前中に掃除を終え、ベランダのサンダルを太陽に裏返して干す。
洗濯物を二回振ると、肩のしわが伸びる。
空は、アイスの棒で混ぜたカルピスみたいな色。
スマホが震えた。
『未送信と取り消し、違いの話しよう』
晴は、無造作なふりをしながら、ときどき核心を置いてくる。
『未送信=まだ陸にいる。取り消し=いったん海に入ってから戻る、みたいな?』
『わかる。
陸=安全。海=本音。
波打ち際で遊ぶ日と、潜る日』
『今日の名言』
『スクショ』
『圧迫』
『圧迫して、生きてく』
午後。
太陽の角度が少し斜めになったとき、晴からもう一つ。
『同時に、未送信を交換しよう。
送らないままの言葉、三つ、教えて』
心臓が鳴る。
鳴り方は、夏の夕方みたいに大きい。
でも、怖くはない。
“期限”の線が、提案の背中を支えてくれている。
夏が終わるまで。
その中で、いけるところまで。
『先に、澪から』
『同時って言ったのに』
『真面目にずるい』
『自覚ある』
机に肘をついて、未送信欄を開く。
指先が震えないように、ゆっくり打つ。
『会いたい』
『好き』
『声が恋しい』
送信ではない。
“交換”のための、言葉のリスト。
黒板に書く前に、ノートの端で計算するみたいな前置き。
晴からも、落ちてくる。
『触れたい』
『守りたい』
『まだ終わらせたくない』
呼吸のリズムが、画面越しに重なる。
重なると、肺が少し軽くなる。
“まだ終わらせたくない”。
その一行は、夏の終わりに向かう線の上を、指で逆走するみたいに強い。
“未送信=告白”。
名づけてしまえば、少し楽になる。
僕は親指でその四文字を画面に書いた。
《未送信=告白》
送らない。
でも、届いた。
届いたと分かるまでの時間が、今日は短い。
× × ×
夜。
夕立のあとの湿度が、部屋の角に丸く残っている。
窓を開けたまま、スタンドライトを弱く。
晴から、またスクショ。
「送信取り消し済み」の灰色に、もう一段、濃い影。
『今日も、取り消した』
『何を』
『“いま行く”って指が言いかけた』
文字の温度が急に上がる。
上がった温度を、冷やしてしまうのが僕の役割だと思っていた時期もある。
でも、今日は上げたまま、横に座る。
『いいね』
『よくない』
『よくないの、わかる。でも、いいね』
『澪のそういう返事、ずるい』
『自覚ある』
笑った気配が、画面の向こうで小さく揺れた。
「お茶淹れる?」と母が顔を出す。
「お願い」
湯の沸く前の小さな泡の音。
泡は「準備」を名乗って、静かに鍋の底から上がってくる。
僕は机に戻り、未送信欄に一行。
《“いま行く”が、いつか安全になる日まで、息を合わせる練習をつづける》
保存。
保存だけで、心拍がひとつ落ち着く。
晴から、短い提案。
『今日、沈黙通話、七分』
『長い』
『息を止めないルール』
『了解』
3…2…1。
丸い印が灯る。
窓の外の夜風、遠くの車の音、冷房の微かな呼吸。
七分は、三分より短くて、五分より長い。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
音にならない言葉が、鍋の底の泡みたいに上がっては消える。
終わる直前、心のどこかで“会いたい”が浮かぶ。
浮かんだまま、通話は切れる。
『隣にいた』
『見てた』
『何を』
『呼吸』
『同じだった』
『うん』
ライトを消す前に、晴がもう一度。
『夏が終わるまで、
いけるところまで、いこう』
『いこう』
“いこう”の二文字は、小さな舟になって、未送信欄の海に浮かぶ。
× × ×
次の日曜日。
祖母から届いた桃を剥く。
皮がするすると剝けると、うまくいった日。
種の周りの固いところを包丁でそいで、角砂糖みたいな小さな欠片にする。
冷蔵庫で冷やして器に盛る。
「この桃、当たり」と母。
「当たりの判定、甘い」
「当たりは甘くていいの」
生活の判定は、甘くていい日がある。
僕はスプーンで果汁をすくって、晴にメッセージ。
『桃、勝ち』
『こっち、トマト、勝ち』
『勝ちの対等』
『勝ち負け両立』
「両立」の響きは、夏の終わりに似ている。
終わるのと、続くのが、同時に在る。
午後、勉強机の引き出しを整理する。
古い付箋、半分だけ残った消しゴム、折れたシャープペンの芯。
空白の付箋を一枚、未送信欄の上に置いた気分で眺める。
空白は、恐れと同じくらい、やさしさだ。
書けないからこそ、込められるものがある。
そこへ、晴。
『澪、未送信、もう一回だけ交換しよう。
“夏が終わるまで”の、途中経過』
心のなかの舟が、すっと前進する。
『いいよ。
先に俺から』
笑う気配が返る。
『どうぞ』
未送信欄を開き、三つ。
『会いたい(今日の重さは、昨日より軽い)』
『君の歩幅に合わせたい(歩く練習、続けてる)』
『終わらせないを、終わらせないでいたい』
晴からも、三つ。
『手を繋いだときの温度、想像で何度も測ってる』
『澪の“了解”に、救われる回数、数えている』
『未送信=告白、賛成――そして、告白は日々更新』
“更新”。
その語はカレンダーの紙を一枚めくる音に似て、気持ちが軽くなる。
『更新、いいな。
“会わない”も、更新で守る』
『守る。
それでいて、近づく』
『両立』
『両立』
× × ×
夕方、雷が遠くで鳴った。
窓の縁に雨が一本落ち、そのあと続けて五本、十本。
雨の音は、生活の音をすべてやわらかくする。
台所で味噌汁を温め直す。
出汁の白がもう一度透明に戻っていくのを眺めると、胸の中の“取り消し済み”も、少し薄くなる。
夜は、月を撮る。
息を止めない。肘をつく。
薄い雲の層が、月の表面にほこりみたいにかかっている。
『層、ある』
『ある』
二つの“ある”の重なりに、うっかり涙が出そうになる。
層があるから、光はやわらかい。
やわらかい光は、保存に向いている。
僕は未送信欄のいちばん上に、一行だけ付け加える。
《君は、空白で届く》
送らない。
送らなくても、届く。
今日だけは、そう信じていい気がした。
× × ×
月曜日。
学校の廊下で、田端が「お前、最近“ちゃんとここにいる”顔してる」と言った。
「それ褒めてる?」
「褒めてる。誰の功績?」
「生活」
「正解」
田端は、僕の胸ポケットを指で軽く叩いて、「そこに入ってるやつの功績も、ちょっとある」と笑った。
スマホは震えない。
震えない日も、ちゃんと“ここ”にいられる。
未送信欄が、僕に重心を返してくれる。
教室の窓から、雲が流れる。
“夏が終わるまで”。
黒板の端に、誰かが小さく描いた波線がある。
波線は、境界を曖昧にしながら、境界の存在を教える。
僕らの線も、そうであってほしい。
放課後。
階段の踊り場の風は、味噌汁よりも薄い匂い。
『今日の一行:弁当のプチトマト、冷えてた』
晴から、
『今日の一行:ノートの端、澪の名前の跡』
ノートの端に自分の名前。
恥ずかしさと、嬉しさと、少しの怖さ。
全部混ぜた味は、夏そのものだ。
『跡、消えた?』
『消えない。紙の毛羽立ちが、覚えてる』
『紙、賢い』
『澪も賢い(時々)』
『時々余計』
『自覚ある』
× × ×
その夜。
晴がいつもの洗面台の写真を送ってきた。
付箋が一枚、増えている。
“withhold 差し控える”。
英単語の下に、丸い字で日本語。
『差し控える=守るための停止』
僕はふっと笑って、打つ。
『差し控える=会わない、のプロ』
『プロはやだな』
『じゃあ、生活の職人』
『それは好き』
『俺も』
そして、彼が一枚のスクショを重ねた。
“送信取り消し済み”。
でも、その上に、うっすら、中身の影。
晴が続ける。
『今日の“取り消し”、影だけ残す練習してみた。
完全には消さない』
『影は、優しい』
『影があると、光がわかる』
『名言』
『スクショ』
『圧迫』
『圧迫されたい』
『澪の“未送信”で、俺は呼吸できる』
『俺は、晴の“取り消し”で、心拍が整う』
“空白”は、呼吸と心拍の間にある。
何もないわけじゃない。
“何も書かない”という行為で、もっとも濃い意味が残ることがある。
僕は未送信欄に、最後の一行を置いた。
《未送信=告白。
そして、告白は毎日すこしずつ更新される。
夏が終わるまでに、俺たちは何度、空白で抱きしめ合えるだろう》
保存。
画面を閉じる。
部屋は一段暗くなり、心は少し明るい。
天井の白が、昼よりも柔らかい。
「おやすみ」は送らず、息を合わせる。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
同じ速度で、同じ季節を渡る。
“夏が終わるまで”。
期限は、安心のかたちをして僕らを守る。
その内側で、空白のメッセージがいちばん鮮やかに光った。
――第9話、了。
七月の空は、白いシロップを薄く溶かしたみたいに、甘いのに透けている。
チャイムの余韻が教室の四隅で小さく跳ね、窓の外では最初の蝉が試し鳴きを始めた。
答案用紙の隅に小さく「返却不要」と印字があって、いまの僕に必要なのは数字じゃなくて、深く息をすることだと思う。
田端が「打ち上げ、何食う」と訊いてきた。
「冷たいの」
「ソフトクリーム?」
「それもいいけど、家で素麺」
「渋い」
「正解はいつも台所にある」
「名言は、ポスターじゃなく冷蔵庫に貼っとけ」
笑って手を振ると、田端はバスケ部の集合目指して走っていった。
教室にひとり分の静けさが戻った。カーテンの裾が揺れて、窓の桟に光の粉が溜まる。
ポケットのスマホが一度だけ震えた。
『終わった?』
晴から。
『終わった』
『おつかれ、澪』
“おつかれ”の三文字はやっぱり水みたいに喉を通り、背中に広がる。
『これから図書館寄る。帰ったら素麺』
『夏の王様』
『王様のくせに三分で出来る』
『王は、手早さだ』
『今日の名言』
『スクショ』
『圧迫』
やりとりの端が軽い。テスト後の足取りみたいに。
踊り場で風を食べてから階段を降り、昇降口の隅で靴の紐を結び直す。
「夏の終わりまで、遠い?」
心のどこかでそんな問いが生まれて、すぐに引っ込む。
遠いものは、近づけすぎるとすぐ痛む。
家に着くと、母が「冷やし用の器、冷凍庫入れておいたから」と言った。
「天才」
「母は万能」
「知ってる」
台所で湯を沸かし、素麺をぱらぱら落とす。白い糸が鍋の底でふわっと踊る。
流しで冷水にさらすと、指先が夏に入る。
青じそを刻んで、氷を二つ、器に落とす。
そのとき、画面がまた震えた。
『“会わない”のルール、期限決めようか』
文字を見た瞬間、心臓が一度跳ねた。
跳ねた音は、台所のタイルに落ちて、すぐに溶ける。
『いつまで?』
打ちながら、息を浅くする。
『夏が終わるまで』
返ってきたのは、短い約束。
短いのに、意味は長い。
終わりを想定する優しさにも見えるし、終わらせないための仮の線にも思えた。
『了解』
とだけ返す。
了解は、今日に限って薄いガラスの音がした。指先で触れると、かすかに冷たい。
素麺の器をテーブルに置き、青じそをのせる。白い麺が、うまく整列していると落ち着く。
生姜をおろす手に、別の手のあたたかさを想像してしまう。
想像は自由で、でも自由は時々残酷だ。
“夏が終わるまで”。
その白い境界線を、台所の床の目地に重ねてみる。目地は、はじめからあった線だ。
僕らの線は、いま引いたばかりだ。
*
夜。
机のスタンドライトを点ける。
蛍光灯じゃない、暖色の光。未送信欄がやわらかく照らされる。
指は迷わないで、長文の形を取った。
《会わないって、言い訳かもしれない。
文字で繋がるほうが安全だから。
でも、君の顔が浮かぶたびに、画面の光が足りなくなる。
会わない約束の中で、俺は君に恋をしてる。
“人として”とか逃げ道を作らない意味での、恋。
声は知らないままで、息の速度だけ知っていく恋。
名前の練習は、もう何度もした。
未送信欄が増えるのは、卑怯じゃなくて準備だと信じたい。
だけど、準備のままで季節が変わるのは、もっと怖い》
読み返す。
呼吸が速くなる。
保存。
送らない。
保存の音はしないのに、胸の奥で小さく鳴る。
ベッドに潜る前、窓を少しだけ開ける。
夜の匂いが、部屋の中へ薄く入る。
遠くで誰かが花火を一本だけ上げたような気配がして、音は届かない。
音が届かないとき、未送信の言葉はやけに声を持つ。
目を閉じる。
“夏が終わるまで”。
その先の白地図に、無意識で指を伸ばしてしまう。
*
翌朝。
牛乳を半分、蜂蜜を少し。パンは四枚切りを半分。
母が「今日は午後、図書館寄るから――」と始めて、「いや、今日は寄らない」と自分で訂正した。
「なにそれ」
「返す本が、まだ返したくないの」
「わかる」
返したくないページがある。
閉じるには早い本。
僕の未送信欄も、返しそびれている図書館の貸出みたいなものだ。
スマホが震える。
晴から画像。
スクリーンショットの灰色の画面に、白い文字で「送信取り消し済み」。
“取り消し済み”の文字は、未送信の“保存”よりも、少し強い跡を残す。
『何、消したの?』
『本音に近すぎた』
『……どんな?』
一拍置いて、
『“会いたい”って打って、消した』
息が浅くなる。
(同じだ)
昨夜、僕が保存した最初の一行と、ほとんど同じ骨格。
未送信と取り消し。似ているけど、違う。
未送信は、僕の胸の中に留める選択。
取り消しは、一度外に出かけてから引き戻す選択。
選んだ道の違いが、二人の距離の微妙な段差になって、でもその段差が好きだとも思う。
『取り消す技術、俺は下手』
『練習いらない』
『未送信の技術は、上手くなった』
『知ってる。澪の“保存”の音、聞こえるときがある』
『いやそれは怖い』
『怖くない。うれしい』
“うれしい”の母音が長い。
長い母音は、夏の音に似ている。
のびのびしていて、でも輪郭は消えない。
学校に向かう道。
蝉の声が、もう“試し”じゃない。
本番の音量だ。
踏切を渡るとき、線路の向こう側でスカートの制服が二人、同じ方向を見ている。
同じ方向を見ることの安心を、夏はすぐ用意してくれる。
僕はポケットのスマホを叩く。
『今日の一行、先に。
“寝ぐせの角度で、夏が決まる”』
『詩人』
『生活の』
『偉そう』
『自覚ある』
*
期末の見直しが続く一週間は、細い糸を巻き直す作業に似ていた。
黒板の粉、扇風機の首振り、プリントの角。
昼、階段の踊り場で牛乳を一口。
紙パックの“あけぐち”の三角が指に触れて、やけに懐かしい。
晴は、相変わらず「一行日記」を律儀に送ってくる。
『今日の一行:水筒の氷、午前で死んだ』
『今日の一行:図書室の冷房、背中だけ冷たい』
『今日の一行:洗面台の付箋、増えた』
『今日の一行:未送信欄、重い』
重い。
僕の“重い”は、保存が増えた日の重さ。
彼の“重い”は、取り消しの回数かもしれない。
重さの中身が違っても、同じ重さとして持てるのは、協調より強い連帯だ。
夜、台所で胡瓜を薄切りにして、塩でもむ。
冷蔵庫で冷やしたガラスのボウルの中で、胡瓜が音を立てて鳴る。
氷を一つ落とすと、音はやさしくなる。
母が「おばあちゃんから桃が届いたよ」と言いながら、段ボールを開ける。
甘い匂いが台所に流れ込んで、僕の未送信欄にも桃色の匂いが移る。
僕は思わず、打つ。
《桃の匂い、君に触れた指の匂いに近いとしたら、俺は簡単に夏に負ける》
送らない。
保存。
保存の数が、桃の数より増えていく。
× × ×
土曜。
午前中に掃除を終え、ベランダのサンダルを太陽に裏返して干す。
洗濯物を二回振ると、肩のしわが伸びる。
空は、アイスの棒で混ぜたカルピスみたいな色。
スマホが震えた。
『未送信と取り消し、違いの話しよう』
晴は、無造作なふりをしながら、ときどき核心を置いてくる。
『未送信=まだ陸にいる。取り消し=いったん海に入ってから戻る、みたいな?』
『わかる。
陸=安全。海=本音。
波打ち際で遊ぶ日と、潜る日』
『今日の名言』
『スクショ』
『圧迫』
『圧迫して、生きてく』
午後。
太陽の角度が少し斜めになったとき、晴からもう一つ。
『同時に、未送信を交換しよう。
送らないままの言葉、三つ、教えて』
心臓が鳴る。
鳴り方は、夏の夕方みたいに大きい。
でも、怖くはない。
“期限”の線が、提案の背中を支えてくれている。
夏が終わるまで。
その中で、いけるところまで。
『先に、澪から』
『同時って言ったのに』
『真面目にずるい』
『自覚ある』
机に肘をついて、未送信欄を開く。
指先が震えないように、ゆっくり打つ。
『会いたい』
『好き』
『声が恋しい』
送信ではない。
“交換”のための、言葉のリスト。
黒板に書く前に、ノートの端で計算するみたいな前置き。
晴からも、落ちてくる。
『触れたい』
『守りたい』
『まだ終わらせたくない』
呼吸のリズムが、画面越しに重なる。
重なると、肺が少し軽くなる。
“まだ終わらせたくない”。
その一行は、夏の終わりに向かう線の上を、指で逆走するみたいに強い。
“未送信=告白”。
名づけてしまえば、少し楽になる。
僕は親指でその四文字を画面に書いた。
《未送信=告白》
送らない。
でも、届いた。
届いたと分かるまでの時間が、今日は短い。
× × ×
夜。
夕立のあとの湿度が、部屋の角に丸く残っている。
窓を開けたまま、スタンドライトを弱く。
晴から、またスクショ。
「送信取り消し済み」の灰色に、もう一段、濃い影。
『今日も、取り消した』
『何を』
『“いま行く”って指が言いかけた』
文字の温度が急に上がる。
上がった温度を、冷やしてしまうのが僕の役割だと思っていた時期もある。
でも、今日は上げたまま、横に座る。
『いいね』
『よくない』
『よくないの、わかる。でも、いいね』
『澪のそういう返事、ずるい』
『自覚ある』
笑った気配が、画面の向こうで小さく揺れた。
「お茶淹れる?」と母が顔を出す。
「お願い」
湯の沸く前の小さな泡の音。
泡は「準備」を名乗って、静かに鍋の底から上がってくる。
僕は机に戻り、未送信欄に一行。
《“いま行く”が、いつか安全になる日まで、息を合わせる練習をつづける》
保存。
保存だけで、心拍がひとつ落ち着く。
晴から、短い提案。
『今日、沈黙通話、七分』
『長い』
『息を止めないルール』
『了解』
3…2…1。
丸い印が灯る。
窓の外の夜風、遠くの車の音、冷房の微かな呼吸。
七分は、三分より短くて、五分より長い。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
音にならない言葉が、鍋の底の泡みたいに上がっては消える。
終わる直前、心のどこかで“会いたい”が浮かぶ。
浮かんだまま、通話は切れる。
『隣にいた』
『見てた』
『何を』
『呼吸』
『同じだった』
『うん』
ライトを消す前に、晴がもう一度。
『夏が終わるまで、
いけるところまで、いこう』
『いこう』
“いこう”の二文字は、小さな舟になって、未送信欄の海に浮かぶ。
× × ×
次の日曜日。
祖母から届いた桃を剥く。
皮がするすると剝けると、うまくいった日。
種の周りの固いところを包丁でそいで、角砂糖みたいな小さな欠片にする。
冷蔵庫で冷やして器に盛る。
「この桃、当たり」と母。
「当たりの判定、甘い」
「当たりは甘くていいの」
生活の判定は、甘くていい日がある。
僕はスプーンで果汁をすくって、晴にメッセージ。
『桃、勝ち』
『こっち、トマト、勝ち』
『勝ちの対等』
『勝ち負け両立』
「両立」の響きは、夏の終わりに似ている。
終わるのと、続くのが、同時に在る。
午後、勉強机の引き出しを整理する。
古い付箋、半分だけ残った消しゴム、折れたシャープペンの芯。
空白の付箋を一枚、未送信欄の上に置いた気分で眺める。
空白は、恐れと同じくらい、やさしさだ。
書けないからこそ、込められるものがある。
そこへ、晴。
『澪、未送信、もう一回だけ交換しよう。
“夏が終わるまで”の、途中経過』
心のなかの舟が、すっと前進する。
『いいよ。
先に俺から』
笑う気配が返る。
『どうぞ』
未送信欄を開き、三つ。
『会いたい(今日の重さは、昨日より軽い)』
『君の歩幅に合わせたい(歩く練習、続けてる)』
『終わらせないを、終わらせないでいたい』
晴からも、三つ。
『手を繋いだときの温度、想像で何度も測ってる』
『澪の“了解”に、救われる回数、数えている』
『未送信=告白、賛成――そして、告白は日々更新』
“更新”。
その語はカレンダーの紙を一枚めくる音に似て、気持ちが軽くなる。
『更新、いいな。
“会わない”も、更新で守る』
『守る。
それでいて、近づく』
『両立』
『両立』
× × ×
夕方、雷が遠くで鳴った。
窓の縁に雨が一本落ち、そのあと続けて五本、十本。
雨の音は、生活の音をすべてやわらかくする。
台所で味噌汁を温め直す。
出汁の白がもう一度透明に戻っていくのを眺めると、胸の中の“取り消し済み”も、少し薄くなる。
夜は、月を撮る。
息を止めない。肘をつく。
薄い雲の層が、月の表面にほこりみたいにかかっている。
『層、ある』
『ある』
二つの“ある”の重なりに、うっかり涙が出そうになる。
層があるから、光はやわらかい。
やわらかい光は、保存に向いている。
僕は未送信欄のいちばん上に、一行だけ付け加える。
《君は、空白で届く》
送らない。
送らなくても、届く。
今日だけは、そう信じていい気がした。
× × ×
月曜日。
学校の廊下で、田端が「お前、最近“ちゃんとここにいる”顔してる」と言った。
「それ褒めてる?」
「褒めてる。誰の功績?」
「生活」
「正解」
田端は、僕の胸ポケットを指で軽く叩いて、「そこに入ってるやつの功績も、ちょっとある」と笑った。
スマホは震えない。
震えない日も、ちゃんと“ここ”にいられる。
未送信欄が、僕に重心を返してくれる。
教室の窓から、雲が流れる。
“夏が終わるまで”。
黒板の端に、誰かが小さく描いた波線がある。
波線は、境界を曖昧にしながら、境界の存在を教える。
僕らの線も、そうであってほしい。
放課後。
階段の踊り場の風は、味噌汁よりも薄い匂い。
『今日の一行:弁当のプチトマト、冷えてた』
晴から、
『今日の一行:ノートの端、澪の名前の跡』
ノートの端に自分の名前。
恥ずかしさと、嬉しさと、少しの怖さ。
全部混ぜた味は、夏そのものだ。
『跡、消えた?』
『消えない。紙の毛羽立ちが、覚えてる』
『紙、賢い』
『澪も賢い(時々)』
『時々余計』
『自覚ある』
× × ×
その夜。
晴がいつもの洗面台の写真を送ってきた。
付箋が一枚、増えている。
“withhold 差し控える”。
英単語の下に、丸い字で日本語。
『差し控える=守るための停止』
僕はふっと笑って、打つ。
『差し控える=会わない、のプロ』
『プロはやだな』
『じゃあ、生活の職人』
『それは好き』
『俺も』
そして、彼が一枚のスクショを重ねた。
“送信取り消し済み”。
でも、その上に、うっすら、中身の影。
晴が続ける。
『今日の“取り消し”、影だけ残す練習してみた。
完全には消さない』
『影は、優しい』
『影があると、光がわかる』
『名言』
『スクショ』
『圧迫』
『圧迫されたい』
『澪の“未送信”で、俺は呼吸できる』
『俺は、晴の“取り消し”で、心拍が整う』
“空白”は、呼吸と心拍の間にある。
何もないわけじゃない。
“何も書かない”という行為で、もっとも濃い意味が残ることがある。
僕は未送信欄に、最後の一行を置いた。
《未送信=告白。
そして、告白は毎日すこしずつ更新される。
夏が終わるまでに、俺たちは何度、空白で抱きしめ合えるだろう》
保存。
画面を閉じる。
部屋は一段暗くなり、心は少し明るい。
天井の白が、昼よりも柔らかい。
「おやすみ」は送らず、息を合わせる。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
同じ速度で、同じ季節を渡る。
“夏が終わるまで”。
期限は、安心のかたちをして僕らを守る。
その内側で、空白のメッセージがいちばん鮮やかに光った。
――第9話、了。



