期末テストが終わった。
 七月の空は、白いシロップを薄く溶かしたみたいに、甘いのに透けている。
 チャイムの余韻が教室の四隅で小さく跳ね、窓の外では最初の蝉が試し鳴きを始めた。
 答案用紙の隅に小さく「返却不要」と印字があって、いまの僕に必要なのは数字じゃなくて、深く息をすることだと思う。

 田端が「打ち上げ、何食う」と訊いてきた。
 「冷たいの」
 「ソフトクリーム?」
 「それもいいけど、家で素麺」
 「渋い」
 「正解はいつも台所にある」
 「名言は、ポスターじゃなく冷蔵庫に貼っとけ」
 笑って手を振ると、田端はバスケ部の集合目指して走っていった。
 教室にひとり分の静けさが戻った。カーテンの裾が揺れて、窓の桟に光の粉が溜まる。
 ポケットのスマホが一度だけ震えた。

 『終わった?』

 晴から。
 『終わった』
 『おつかれ、澪』
 “おつかれ”の三文字はやっぱり水みたいに喉を通り、背中に広がる。

 『これから図書館寄る。帰ったら素麺』
 『夏の王様』
 『王様のくせに三分で出来る』
 『王は、手早さだ』
 『今日の名言』
 『スクショ』
 『圧迫』
 やりとりの端が軽い。テスト後の足取りみたいに。
 踊り場で風を食べてから階段を降り、昇降口の隅で靴の紐を結び直す。
 「夏の終わりまで、遠い?」
 心のどこかでそんな問いが生まれて、すぐに引っ込む。
 遠いものは、近づけすぎるとすぐ痛む。

 家に着くと、母が「冷やし用の器、冷凍庫入れておいたから」と言った。
 「天才」
 「母は万能」
 「知ってる」
 台所で湯を沸かし、素麺をぱらぱら落とす。白い糸が鍋の底でふわっと踊る。
 流しで冷水にさらすと、指先が夏に入る。
 青じそを刻んで、氷を二つ、器に落とす。
 そのとき、画面がまた震えた。

 『“会わない”のルール、期限決めようか』

 文字を見た瞬間、心臓が一度跳ねた。
 跳ねた音は、台所のタイルに落ちて、すぐに溶ける。
 『いつまで?』
 打ちながら、息を浅くする。
 『夏が終わるまで』
 返ってきたのは、短い約束。
 短いのに、意味は長い。
 終わりを想定する優しさにも見えるし、終わらせないための仮の線にも思えた。

 『了解』
 とだけ返す。
 了解は、今日に限って薄いガラスの音がした。指先で触れると、かすかに冷たい。

 素麺の器をテーブルに置き、青じそをのせる。白い麺が、うまく整列していると落ち着く。
 生姜をおろす手に、別の手のあたたかさを想像してしまう。
 想像は自由で、でも自由は時々残酷だ。
 “夏が終わるまで”。
 その白い境界線を、台所の床の目地に重ねてみる。目地は、はじめからあった線だ。
 僕らの線は、いま引いたばかりだ。

 *

 夜。
 机のスタンドライトを点ける。
 蛍光灯じゃない、暖色の光。未送信欄がやわらかく照らされる。
 指は迷わないで、長文の形を取った。

 《会わないって、言い訳かもしれない。
 文字で繋がるほうが安全だから。
 でも、君の顔が浮かぶたびに、画面の光が足りなくなる。
 会わない約束の中で、俺は君に恋をしてる。
 “人として”とか逃げ道を作らない意味での、恋。
 声は知らないままで、息の速度だけ知っていく恋。
 名前の練習は、もう何度もした。
 未送信欄が増えるのは、卑怯じゃなくて準備だと信じたい。
 だけど、準備のままで季節が変わるのは、もっと怖い》

 読み返す。
 呼吸が速くなる。
 保存。
 送らない。
 保存の音はしないのに、胸の奥で小さく鳴る。

 ベッドに潜る前、窓を少しだけ開ける。
 夜の匂いが、部屋の中へ薄く入る。
 遠くで誰かが花火を一本だけ上げたような気配がして、音は届かない。
 音が届かないとき、未送信の言葉はやけに声を持つ。
 目を閉じる。
 “夏が終わるまで”。
 その先の白地図に、無意識で指を伸ばしてしまう。

 *

 翌朝。
 牛乳を半分、蜂蜜を少し。パンは四枚切りを半分。
 母が「今日は午後、図書館寄るから――」と始めて、「いや、今日は寄らない」と自分で訂正した。
 「なにそれ」
 「返す本が、まだ返したくないの」
 「わかる」
 返したくないページがある。
 閉じるには早い本。
 僕の未送信欄も、返しそびれている図書館の貸出みたいなものだ。

 スマホが震える。
 晴から画像。
 スクリーンショットの灰色の画面に、白い文字で「送信取り消し済み」。
 “取り消し済み”の文字は、未送信の“保存”よりも、少し強い跡を残す。
 『何、消したの?』
 『本音に近すぎた』
 『……どんな?』
 一拍置いて、
 『“会いたい”って打って、消した』

 息が浅くなる。
 (同じだ)
 昨夜、僕が保存した最初の一行と、ほとんど同じ骨格。
 未送信と取り消し。似ているけど、違う。
 未送信は、僕の胸の中に留める選択。
 取り消しは、一度外に出かけてから引き戻す選択。
 選んだ道の違いが、二人の距離の微妙な段差になって、でもその段差が好きだとも思う。

 『取り消す技術、俺は下手』
 『練習いらない』
 『未送信の技術は、上手くなった』
 『知ってる。澪の“保存”の音、聞こえるときがある』
 『いやそれは怖い』
 『怖くない。うれしい』
 “うれしい”の母音が長い。
 長い母音は、夏の音に似ている。
 のびのびしていて、でも輪郭は消えない。

 学校に向かう道。
 蝉の声が、もう“試し”じゃない。
 本番の音量だ。
 踏切を渡るとき、線路の向こう側でスカートの制服が二人、同じ方向を見ている。
 同じ方向を見ることの安心を、夏はすぐ用意してくれる。
 僕はポケットのスマホを叩く。
 『今日の一行、先に。
 “寝ぐせの角度で、夏が決まる”』
 『詩人』
 『生活の』
 『偉そう』
 『自覚ある』

 *

 期末の見直しが続く一週間は、細い糸を巻き直す作業に似ていた。
 黒板の粉、扇風機の首振り、プリントの角。
 昼、階段の踊り場で牛乳を一口。
 紙パックの“あけぐち”の三角が指に触れて、やけに懐かしい。
 晴は、相変わらず「一行日記」を律儀に送ってくる。

 『今日の一行:水筒の氷、午前で死んだ』
 『今日の一行:図書室の冷房、背中だけ冷たい』
 『今日の一行:洗面台の付箋、増えた』
 『今日の一行:未送信欄、重い』

 重い。
 僕の“重い”は、保存が増えた日の重さ。
 彼の“重い”は、取り消しの回数かもしれない。
 重さの中身が違っても、同じ重さとして持てるのは、協調より強い連帯だ。

 夜、台所で胡瓜を薄切りにして、塩でもむ。
 冷蔵庫で冷やしたガラスのボウルの中で、胡瓜が音を立てて鳴る。
 氷を一つ落とすと、音はやさしくなる。
 母が「おばあちゃんから桃が届いたよ」と言いながら、段ボールを開ける。
 甘い匂いが台所に流れ込んで、僕の未送信欄にも桃色の匂いが移る。
 僕は思わず、打つ。
 《桃の匂い、君に触れた指の匂いに近いとしたら、俺は簡単に夏に負ける》
 送らない。
 保存。
 保存の数が、桃の数より増えていく。

 × × ×

 土曜。
 午前中に掃除を終え、ベランダのサンダルを太陽に裏返して干す。
 洗濯物を二回振ると、肩のしわが伸びる。
 空は、アイスの棒で混ぜたカルピスみたいな色。
 スマホが震えた。

 『未送信と取り消し、違いの話しよう』
 晴は、無造作なふりをしながら、ときどき核心を置いてくる。
 『未送信=まだ陸にいる。取り消し=いったん海に入ってから戻る、みたいな?』
 『わかる。
 陸=安全。海=本音。
 波打ち際で遊ぶ日と、潜る日』
 『今日の名言』
 『スクショ』
 『圧迫』
 『圧迫して、生きてく』

 午後。
 太陽の角度が少し斜めになったとき、晴からもう一つ。
 『同時に、未送信を交換しよう。
 送らないままの言葉、三つ、教えて』

 心臓が鳴る。
 鳴り方は、夏の夕方みたいに大きい。
 でも、怖くはない。
 “期限”の線が、提案の背中を支えてくれている。
 夏が終わるまで。
 その中で、いけるところまで。

 『先に、澪から』
 『同時って言ったのに』
 『真面目にずるい』
 『自覚ある』

 机に肘をついて、未送信欄を開く。
 指先が震えないように、ゆっくり打つ。

 『会いたい』
 『好き』
 『声が恋しい』

 送信ではない。
 “交換”のための、言葉のリスト。
 黒板に書く前に、ノートの端で計算するみたいな前置き。
 晴からも、落ちてくる。

 『触れたい』
 『守りたい』
 『まだ終わらせたくない』

 呼吸のリズムが、画面越しに重なる。
 重なると、肺が少し軽くなる。
 “まだ終わらせたくない”。
 その一行は、夏の終わりに向かう線の上を、指で逆走するみたいに強い。
 “未送信=告白”。
 名づけてしまえば、少し楽になる。
 僕は親指でその四文字を画面に書いた。
 《未送信=告白》
 送らない。
 でも、届いた。
 届いたと分かるまでの時間が、今日は短い。

 × × ×

 夜。
 夕立のあとの湿度が、部屋の角に丸く残っている。
 窓を開けたまま、スタンドライトを弱く。
 晴から、またスクショ。
 「送信取り消し済み」の灰色に、もう一段、濃い影。
 『今日も、取り消した』
 『何を』
 『“いま行く”って指が言いかけた』
 文字の温度が急に上がる。
 上がった温度を、冷やしてしまうのが僕の役割だと思っていた時期もある。
 でも、今日は上げたまま、横に座る。
 『いいね』
 『よくない』
 『よくないの、わかる。でも、いいね』
 『澪のそういう返事、ずるい』
 『自覚ある』
 笑った気配が、画面の向こうで小さく揺れた。

 「お茶淹れる?」と母が顔を出す。
 「お願い」
 湯の沸く前の小さな泡の音。
 泡は「準備」を名乗って、静かに鍋の底から上がってくる。
 僕は机に戻り、未送信欄に一行。

 《“いま行く”が、いつか安全になる日まで、息を合わせる練習をつづける》

 保存。
 保存だけで、心拍がひとつ落ち着く。

 晴から、短い提案。
 『今日、沈黙通話、七分』
 『長い』
 『息を止めないルール』
 『了解』

 3…2…1。
 丸い印が灯る。
 窓の外の夜風、遠くの車の音、冷房の微かな呼吸。
 七分は、三分より短くて、五分より長い。
 吸って、吐く。
 吸って、吐く。
 音にならない言葉が、鍋の底の泡みたいに上がっては消える。
 終わる直前、心のどこかで“会いたい”が浮かぶ。
 浮かんだまま、通話は切れる。
 『隣にいた』
 『見てた』
 『何を』
 『呼吸』
 『同じだった』
 『うん』

 ライトを消す前に、晴がもう一度。
 『夏が終わるまで、
 いけるところまで、いこう』
 『いこう』
 “いこう”の二文字は、小さな舟になって、未送信欄の海に浮かぶ。

 × × ×

 次の日曜日。
 祖母から届いた桃を剥く。
 皮がするすると剝けると、うまくいった日。
 種の周りの固いところを包丁でそいで、角砂糖みたいな小さな欠片にする。
 冷蔵庫で冷やして器に盛る。
 「この桃、当たり」と母。
 「当たりの判定、甘い」
 「当たりは甘くていいの」
 生活の判定は、甘くていい日がある。
 僕はスプーンで果汁をすくって、晴にメッセージ。
 『桃、勝ち』
 『こっち、トマト、勝ち』
 『勝ちの対等』
 『勝ち負け両立』
 「両立」の響きは、夏の終わりに似ている。
 終わるのと、続くのが、同時に在る。

 午後、勉強机の引き出しを整理する。
 古い付箋、半分だけ残った消しゴム、折れたシャープペンの芯。
 空白の付箋を一枚、未送信欄の上に置いた気分で眺める。
 空白は、恐れと同じくらい、やさしさだ。
 書けないからこそ、込められるものがある。
 そこへ、晴。

 『澪、未送信、もう一回だけ交換しよう。
 “夏が終わるまで”の、途中経過』

 心のなかの舟が、すっと前進する。
 『いいよ。
 先に俺から』
 笑う気配が返る。
 『どうぞ』

 未送信欄を開き、三つ。

 『会いたい(今日の重さは、昨日より軽い)』
 『君の歩幅に合わせたい(歩く練習、続けてる)』
 『終わらせないを、終わらせないでいたい』

 晴からも、三つ。

 『手を繋いだときの温度、想像で何度も測ってる』
 『澪の“了解”に、救われる回数、数えている』
 『未送信=告白、賛成――そして、告白は日々更新』

 “更新”。
 その語はカレンダーの紙を一枚めくる音に似て、気持ちが軽くなる。
 『更新、いいな。
 “会わない”も、更新で守る』
 『守る。
 それでいて、近づく』
 『両立』
 『両立』

 × × ×

 夕方、雷が遠くで鳴った。
 窓の縁に雨が一本落ち、そのあと続けて五本、十本。
 雨の音は、生活の音をすべてやわらかくする。
 台所で味噌汁を温め直す。
 出汁の白がもう一度透明に戻っていくのを眺めると、胸の中の“取り消し済み”も、少し薄くなる。

 夜は、月を撮る。
 息を止めない。肘をつく。
 薄い雲の層が、月の表面にほこりみたいにかかっている。
 『層、ある』
 『ある』
 二つの“ある”の重なりに、うっかり涙が出そうになる。
 層があるから、光はやわらかい。
 やわらかい光は、保存に向いている。
 僕は未送信欄のいちばん上に、一行だけ付け加える。

 《君は、空白で届く》

 送らない。
 送らなくても、届く。
 今日だけは、そう信じていい気がした。

 × × ×

 月曜日。
 学校の廊下で、田端が「お前、最近“ちゃんとここにいる”顔してる」と言った。
 「それ褒めてる?」
 「褒めてる。誰の功績?」
 「生活」
 「正解」
 田端は、僕の胸ポケットを指で軽く叩いて、「そこに入ってるやつの功績も、ちょっとある」と笑った。
 スマホは震えない。
 震えない日も、ちゃんと“ここ”にいられる。
 未送信欄が、僕に重心を返してくれる。

 教室の窓から、雲が流れる。
 “夏が終わるまで”。
 黒板の端に、誰かが小さく描いた波線がある。
 波線は、境界を曖昧にしながら、境界の存在を教える。
 僕らの線も、そうであってほしい。

 放課後。
 階段の踊り場の風は、味噌汁よりも薄い匂い。
 『今日の一行:弁当のプチトマト、冷えてた』
 晴から、
 『今日の一行:ノートの端、澪の名前の跡』
 ノートの端に自分の名前。
 恥ずかしさと、嬉しさと、少しの怖さ。
 全部混ぜた味は、夏そのものだ。
 『跡、消えた?』
 『消えない。紙の毛羽立ちが、覚えてる』
 『紙、賢い』
 『澪も賢い(時々)』
 『時々余計』
 『自覚ある』

 × × ×

 その夜。
 晴がいつもの洗面台の写真を送ってきた。
 付箋が一枚、増えている。
 “withhold 差し控える”。
 英単語の下に、丸い字で日本語。
 『差し控える=守るための停止』
 僕はふっと笑って、打つ。
 『差し控える=会わない、のプロ』
 『プロはやだな』
 『じゃあ、生活の職人』
 『それは好き』
 『俺も』

 そして、彼が一枚のスクショを重ねた。
 “送信取り消し済み”。
 でも、その上に、うっすら、中身の影。
 晴が続ける。
 『今日の“取り消し”、影だけ残す練習してみた。
 完全には消さない』
 『影は、優しい』
 『影があると、光がわかる』
 『名言』
 『スクショ』
 『圧迫』
 『圧迫されたい』
 『澪の“未送信”で、俺は呼吸できる』
 『俺は、晴の“取り消し”で、心拍が整う』

 “空白”は、呼吸と心拍の間にある。
 何もないわけじゃない。
 “何も書かない”という行為で、もっとも濃い意味が残ることがある。
 僕は未送信欄に、最後の一行を置いた。

 《未送信=告白。
 そして、告白は毎日すこしずつ更新される。
 夏が終わるまでに、俺たちは何度、空白で抱きしめ合えるだろう》

 保存。
 画面を閉じる。
 部屋は一段暗くなり、心は少し明るい。
 天井の白が、昼よりも柔らかい。
 「おやすみ」は送らず、息を合わせる。
 吸って、吐く。
 吸って、吐く。
 同じ速度で、同じ季節を渡る。
 “夏が終わるまで”。
 期限は、安心のかたちをして僕らを守る。
 その内側で、空白のメッセージがいちばん鮮やかに光った。

 ――第9話、了。