午前十時。
 教室はいつもの二倍くらいの温度でしゃべっていた。模擬店のポスターを廊下の壁に貼り終えた僕は、マスキングテープの芯をポケットで転がしながら、屋上のドアを押す。
 風。
 ポスター用のペンの匂いが指からまだ少しして、風に混ざって薄まる。下からは模擬店の鉄板の音、油がはじける軽い拍手。焼きそばのソース、綿菓子の甘い気配、遠くの吹奏楽。夏の終わりの匂いが、文化祭という名前をつけて鼻先まで来る。

 スマホ。
 『今日は人多い』と送る。
 すぐ、朝霧――晴から。
 『こっちは夏祭り。焼きそばの煙がやばい』
 違う空の下、似た匂いを共有していることが、少し可笑しい。
 『写真撮る?』
 『そっち先に』

 屋上の空を撮る。雲の切れ間。風は写らない。でも、雲の形が動いてる気がした。
 送信。
 数秒後、彼の写真。浴衣の人混み、ぼやけた提灯。
 その中に、たった一人だけ空を見上げる影。
 指で拡大すると、影は当然のように匿名のままで、でも僕は勝手に“晴”と名づけた。

 『風、写らなかった』
 『でも、いた』
 『いたよ。そこに』

 ほんの一文で、場所の境界が薄くなる。
 屋上のフェンスの向こうで鳩が二羽、同じ方向に歩く。足音は聞こえないのに、聞こえる気がする。
 下から呼ぶ声。「澪、客の列の誘導頼む!」
 現実に引き戻されて、僕は頷く代わりに手を振る。
 スマホを握りしめたまま、未送信欄を開く。

 《もし、いま、同じ風の中にいたら、君の肩に手を置いてしまうかもしれない》

 送らない。けれど、その感情は消えずに残る。
 未送信は、心のポケットに入れた保冷剤みたいに温度を保つ。暑さに負けないための、小さな冷たさ。

 *

 昼過ぎ。
 教室の入口で「一列でお願いしまーす」と言い続ける仕事は、思ったよりもむずかしい。笑顔の角度を保つこと、子どもの背の高さに視線を下ろすこと、床に落ちるテープの端を踏まないこと。
 休憩の合図の笛。
 体育館脇の蛇口で紙コップに水を入れて飲む。冷たさが喉から背中に抜ける。
 『列、長い』
 と送ると、
 『こっち、金魚すくいで阿鼻叫喚』
 『語彙が夏じゃない』
 『夏は語彙に厳しい』
 『そのポスターに貼りたい』
 『貸出可(未返却多発)』

 くだらない会話は、塩分だ。足りないと立ちくらみをするし、多いと喉が渇く。
 僕は紙コップをもう一杯。紙の縁が唇に小さく引っかかって、今生きていることを思い出す。

 *

 午後三時。
 屋外ステージのアカペラが始まる。PAのノイズ、マイクに吸い込まれていく声。
 『歌、届く?』
 『雑音にまぎれて、届く』
 『雑音ごと欲しい日、あるよな』
 『ある。生活の音がないと、言葉は軽くなる』
 『今日の名言』
 『スクショ』
 『圧迫』
 『圧迫されたい。澪の中に』
 “中に”。
 その言葉の温度が、昼の光よりも濃い。
 未送信欄に一行。

 《“中”は約束がいちばんよく眠る場所》

 保存。
 保存のクリック感が、胸骨の裏側で小さく鳴る。

 *

 夕方。
 ポスター係の片づけを終え、ガムテープの芯が空洞のまま軽くなる。
 廊下に落ちた紙吹雪をほうきで集めていると、窓の外が少しだけ金色に傾いた。
 『空、蜜の色』
 と送ると、
 『こっち、提灯が点いた。赤の味が濃い』
 『写真、もう一枚』
 送られてきた画面には、射的の台、金魚鉢の水面、焼鳥の煙。
 匂いは届かないのに、届く。
 鼻の奥で、味覚の電気が鳴る。

 『来年、一緒に行けたらいいな』

 指が先に動いた。
 送信の赤い輪郭が、一瞬だけまぶしい。
 既読。
 彼の返事は、間を一口ふくんでから。

 『来年の金魚、俺に譲れよ』

 文面の軽さに隠れて、未来形の温もりがあった。
 “譲れよ”の四文字が、受け取ってもらえる未来を軽く保証する。
 僕は笑って、返す。

 『すくうの、俺の方がうまい』

 打って、消す。
 『すくう』の意味が違ってしまうから。
 代わりに、
 『練習しとく』
 と送る。
 『俺も』

 “俺も”が、今日の締めくくりの合図みたいに落ちる。

 *

 夜。
 片づけが終わって、体育館の電気が一つずつ落ちる音。
 角を曲がるたびに、人影が薄くなっていく。
 帰り道、商店街の端から夏祭りの音が、風に押されて薄く届く。太鼓、呼び込み、浴衣の裾が擦れる衣擦れ。
 晴の町とは違う音の配合なのに、同じ季節に属している。
 ベッドに潜る前、未送信欄を開く。

 《もし、いま、同じ風の中にいたら、君の肩に手を置いてしまうかもしれない》

 昼の一行を読み返す。
 送らない。
 送らないのに、手のひらの熱はゆっくり増える。
 “会わない”というルールは、温度をゼロにするためじゃない。
 沸騰しないで温かさを保つための火加減だ。
 画面に指先を軽く当てて、目を閉じる。
 遠くで花火が一発だけ上がって、音は届かない。
 でも、いた。
 そこに。
 同じ時刻に、違う場所で。

 ——第7話、了。