体育祭の翌日、午後の空気は綿のように軽かった。
痛みは綿ではなく、鈍い石だ。右足首の内側で小さく固まっていて、歩くたびに石が床に当たって音を立てる気がする。実際には音はしない。ただ、脳のどこかで、石の角が何度も擦れる。
保健室のカーテンは、洗い立てのシャツみたいな匂いがした。
消毒液の匂いと混ざると、妙に落ち着く。保健の先生に湿布を貼ってもらい、伸縮テープで軽く固定される。白いテープを指でなぞると、表面の格子が指紋にひっかかって、少しだけ安心する。
「今日は部活禁止。階段は手すり持ってね。痛かったら無理しない」
「はい」
返事の音は自分の喉から出ているのに、遠くから聞こえた。
カーテンの向こうで誰かが笑っている。笑いは小さく、昼寝の枕の温度に似ている。
ベッドの横の小さな机に、僕のスマホ。画面は伏せてある。
手を伸ばしてひっくり返すと、軽い振動――一度だけ。
『大丈夫?』
朝霧 晴翔。
昨日の夜、三分と五分の“声のない通話”をしたあと、「明日、体育祭の後遺症に注意」と冗談めかして送ってきた彼。
僕は左手の親指で打つ。右手は、包帯の端を意味もなく撫でている。
『ちょっと捻っただけ。湿布』
『澪、無理すんな』
――名前。
指先で、その二文字の輪郭をなぞる。
これまで“君”も“お前”も使わなかった彼が、初めて僕の名前を打った。
胸の奥で小さな灯がつく。灯の火芯は思っていたより太くて、でも明るさはやわらかい。
『……』
『既読が静か。痛い?』
『平気。
ただ、名前が、初めてで』
『ごめん。嬉しかったら嬉しいって言って』
『言わないで伝わるかと思ってた』
『伝わってる。でも、名前は、会話の温度を上げるって、澪に言いたかった』
画面の白が少し暖かくなる。
保健室の窓の向こうで、雲が薄くほどける。
僕は「朝霧」と打って、消す。「晴翔」と打って、消す。呼び捨ては距離を近づける。けれど、“会わない”ルールの枠線が、頭の中で薄く光った。
代わりに、
『心配しすぎ』
と送る。
自分でも驚くほど、端正な安全地帯。
“しすぎ”には、少し甘えが混ざっている。
既読。数分後に、短く。
『ルール、ひとつだけ変えよう。
名前、使っていいことにしよう』
提案の置き方が、やさしい。
決定じゃなく、交換できるカードのように出してくる。
照れ隠しみたいに、僕は一文字打つ。
『晴』
送信の直前で、削除。
画面の下の“未送信”フォルダの中、透明な吹き出しに“晴”が並ぶ。
三つ、四つ、五つ。
同じ一文字なのに、書いた時間で温度が少しずつ違う。
保健室の時計が、静かに分を刻む。
カーテンの端が、風で少しだけ持ち上がる。
扉が開いて、先生が顔を出す。「藤崎くん、痛み止めいる?」
「だいじょうぶです」
“だいじょうぶ”の音は、あいまいなクッションだ。
それで守れるものもあるし、届かなくなるものもある。
スマホに目を戻すと、彼から新しい一行。
『午後、廊下の窓の光、粉になってる?』
『なってる。
粉は綺麗な日と、邪魔な日がある。今日は綺麗』
『よかった』
通信の向こうで息をする音は聞こえない。それでも、呼吸はそろう。
ベッドから降りて、ゆっくり立ち上がる。
足首は、石の角を隠してくれている。白いテープは、薄い壁になる。
*
放課後。
昇降口で靴を履き替えながら、田端が「足どうした」と言う。
「ちょっと捻った」
「お前、体育祭本気で走ったもんな。リレーのとき顔が狩人だった」
「褒めてる?」
「褒めてる。で、保健室のカーテンの向こうで誰と会話してた?」
「勘が悪いほうが、人生、助かる」
「おい」
笑いながら、田端は階段を飛ぶように降りる。僕は手すりに指を滑らせて、一段ずつ。階段の踊り場で風を食べるのは、やめられない。今日は風が、薄い青じその匂いだった。誰かの弁当に入っているのだろう。
自転車は押して帰る。
ペダルに体重をかけない歩幅は、思いのほか静かだ。
家に着くと、母が「冷凍庫にアイスあるよ」と無造作に言う。
「何味」
「白桃。おばあちゃんが送ってくれたやつ」
「勝ち」
「勝ちの意味が分からないけど、勝ちでいいならよかった」
靴下の端を引っ張り上げ、湿布の端が見えないように気をつけながらキッチンへ。
冷凍庫の白い冷気が頬に当たる。
白桃のラベルは、やさしいピンク色。
僕はひとつを取り出して、もうひとつを冷凍庫に戻す。
写真を撮る。送らない。
“今度、半分こ”の四文字が喉の奥で転がる。それを飲み込んで、冷たさを舌に広げた。
机に戻る。
数学のワークの端に、薄い鉛筆で“痛い→OKになるまでの手順”と書く。
1:冷やす
2:休ませる
3:小さく動かす
4:寝る
5:起きる
馬鹿みたいに正しい手順が、今日はやけに頼もしい。
スマホが震える。
『澪、今日だけ、呼んでみて』
『呼ぶ?』
『俺の名前』
タイピングの点滅が、心拍みたいに早まる。
“晴翔”は漢字が二文字ずつで、僕の中では“晴”と“翔”のあいだに空気がある。
“朝霧”は姓の涼しさが勝って、“晴”の方は君だけの天気予報だ。
どちらを選べばいい。
指先は迷い、名前の輪郭は目の裏でどんどん鮮やかになる。
“会わない”のルールの内側で、許された音が増えるのが怖い。
でも、嬉しい。
浮かれないように、息をひとつ吸う。
『……晴』
送信。
三秒後、返ってくる。
『はい、澪』
たった六文字。
なのに、顔が近づく。
本当に、近づいてくる。
画面が、急に、鏡になる。
自分の表情が、少し赤い。
『いま、顔、近い』
思わず打つと、わずかに間をおいて、
『俺も』
“俺も”が、いくつ意味を持つか、考えないことにする。
考えるより前に、体が理解してしまう。
名前は、距離だ。
呼ぶのは、顔を近づける行為だ。
画面の中でしか動かせない椅子を、音を立てないように引いて、テーブルの縁にひざを当てるみたいに。
未送信欄を開く。
《名前を呼ぶって、こんなに顔を近づける行為だったっけ》
保存。
今日の未送信は、やわらかい。
触ると、へこむ。
へこんだ分、戻る。
「澪ー、郵便受け見てきてくれる?」
母の声に「行く」と返す。
右足に一歩ずつ順番を教える。ポストの中には青い封筒。光熱費のお知らせ。
帰りに隣家の金木犀の木の下で、風が少し強くなって、葉が一枚落ちた。
落ちる音はしないのに、音がした気がする。
季節は、こういう微妙な回数の積み重ねで、確実に角を曲がる。
夜。
痛み止めは、必要なほどではない。ただ、眠り始めの角で足首がうずくのが嫌で、半分だけ飲む。
水の道が喉を通るとき、薬の苦みが遅れてくる。
布団に潜る前に、スマホの光を胸に押し当てる。
画面に、彼からの一行。
『会わなくても、名前は会話の温度を上げる』
昼間の言葉の復習みたいに、もう一度読んで、もう一度頷く。
僕は自分でも気づかないうちに、声に出して彼の名を呼んでいた。
音は、布団の中で小さく消えた。
でも、胸の奥では、消えない。
*
翌朝。
足首は、昨日よりも少しだけ“石”ではなくなっていた。
角が削れて、丸みが出る。
カーテンの隙間を指でひらいて、白を一口吸う。
冷蔵庫から牛乳を出して、コップに半分。
パンは四枚切りを半分。
昨日、母が買ってきた蜂蜜を少し。
蜂蜜の粘度は、朝の時間のゆっくりさと合う。
トーストの上で広げると、パンの孔にすべり込む。
「今日は迎えに行こうか?」
母が言う。
「だいじょうぶ。ゆっくり行く」
「手すり持つ」
「持つ」
言葉は、そのまま紐になって、体に巻きついた。
学校。
昇降口から教室まで、今日は階段を一段飛ばししない。
田端が「おはよう」の代わりに「痛い顔してない」と言う。
「プロの観察眼」
「料金はコロッケパンで」
「高い」
笑って席に着く。
黒板の白は、まだ眩しい。でも、痛くはない。
一時間目と二時間目のあいだの休み時間に、彼から一問。
『今日の英語、小テの範囲どこ?』
『Lesson7』
『助かった。
澪、名前の件、ありがとな』
『こちらこそ』
『今日も、呼んで』
『……晴』
打つたび、顔が近づく。
一日に何回、顔を近づけられるのだろう。
決まりはない。
だから、無駄にしない。
昼休み。
購買のきなこ揚げパンが復活していた。
最後の一個に手を伸ばした瞬間、別の手も伸びる。
「どーぞ」
と譲られて、受け取る。
「半分こ」と言いかけて、やめる。
“半分こ”の相手は、今日は画面の向こうだ。
廊下の窓際のベンチに座って、袋を開ける。
顔にきなこの粉がつくのが嫌で、慎重に食べる。
彼に写真を送る。
『勝ち』
とだけ返ってきて、笑ってしまう。
“勝ち”は、最近の口癖だ。
生活の小さな勝ち負けは、心の筋肉のストレッチになる。
午後の数学。
二次関数のグラフが、板書の上で滑る。
先生の白いチョークの粉が、光の中で舞う。
粉の軌跡を目で追っていると、足首の痛みを忘れる。
ペンの先でノートの余白に小さく“晴”と書く。
誰も見ていないのに、少し恥ずかしい。
消しゴムで消す。
消した跡が薄く残る。
残った跡を、指で一度なぞる。
放課後、図書室に寄らず、今日は真っ直ぐ帰る。
買い物のメモは、“豆腐・鶏ひき肉・長ネギ・生姜”。
スーパーは涼しくて、体の表面温度が一度下がる。
レジの人に「ポイントカードありますか?」と聞かれて、いつもの返事をする。
「あります」
カードを渡す手が、少しだけ浮いている。
名前を呼んだ日の手は、少し軽い。
家に着くと、母が冷蔵庫を開けながら「今夜は肉豆腐」と言う。
「天才」
「母は万能」
昨日と同じ会話を、今日はほんの少し違う温度で繰り返す。
夜。
鍋の中で、出汁の白がゆっくり透明になっていく。
薄く切った生姜が、湯の表面を踊る。
鶏ひき肉を丸めて落とす。
ネギを斜めに切る音が、まな板に小さく積もる。
鍋に蓋をしているあいだに、スマホ。
彼から写真。
洗面台の鏡、昨日と同じ角度。付箋が増えている。
“commit 約束する”“utter 発する”。
丸い字が二つ、増えた。
『真面目だな』
『澪が“約束”って言ったの、未送信で知ってる』
『見てないのに、見たみたいに言うな』
『見てない。感じた』
『ずるい』
『自覚ある』
このやりとりは、詩の練習みたいで、でも堅苦しくない。
台所の湯気が、スマホの画面に薄い水膜を作る。
拭いて、鍋の蓋をあける。
湯気の白に、文字が溶ける。
夕飯のあと、宿題を終わらせる。
ベッドに腰をかけ、右足首を枕の端に乗せる。
痛みは、さらに小さくなっていた。
スマホの通知。
『澪、今日、最後に一回だけ、呼んで』
息を吸って、吐く。
『……晴』
三秒。
『はい、澪』
その返事を見ていると、胸の奥の灯が、昨日よりもしっかり芯を持った。
火は、小さいほうが長く持つ。
画面を伏せる。
未送信欄を開いて、今日の昼に書いた一文をもう一度読み返す。
《名前を呼ぶって、こんなに顔を近づける行為だったっけ》
その下に、もう一行、足す。
《離れている距離の分だけ、発音がやさしくなる》
保存。
配列の違う二行が、同じ色で並ぶ。
カーテンの隙間の夜は深く、でも少しだけ明るい。
痛み止めは飲まない。
眠りの手前で、胸の中の灯を小さくして、手のひらで覆う。
*
水曜。
足首は、ほとんど石じゃない。
階段の手すりを、今日は半分だけ持つ。
学校の廊下の窓から、光が粉になって降りる。
晴から『おはよう』。
『おはよう』
『足、たぶん大丈夫』
『たぶんじゃなくて大丈夫って言って』
『大丈夫』
『よくできました』
“よくできました”は、子どものハンコみたいで、でも嫌じゃない。
午前の授業を終えて、昼休み。
僕は校舎の階段の踊り場で風を食べる。
メロンパンを二口、牛乳を一口。
『今日の一行、先に送る』
『どうぞ』
『名前は、呼ぶ側の顔も近づける』
『名言。スクショ』
『圧迫』
『圧迫されたい。
澪の中に』
“澪の中に”。
その言葉は、あたたかくて、少し危険だ。
危険だから、未送信欄を開く。
そこに、
《“中”という場所を、まだ曖昧なまま守りたい》
と打って、保存。
送らない。
守るために、送らない。
放課後、図書室で“昼のパン”の棚を覗く。
“パンの耳の美学”という小さな冊子が目につく。
耳は固いから、最後に残る。
でも、固いところにこそ小麦の香りが濃い、と書いてある。
僕の中の“名前”も、きっと耳に近い。
固いけれど、香りが濃い。
最後に噛みしめる部分。
家に帰ると、母が「今日は雨、降る?」と聞く。
「降らないと思う」
「洗濯物、外のままでいいかな」
「いいんじゃない」
“いいんじゃない”は、責任を持ちすぎない了承の言葉だ。
生活の中では、こういうクッションが何枚も必要になる。
僕はカーテンの端を少しめくって空を見る。
厚みのある白。
雨が来たらすぐ分かる白。
でも、来ない。
夜、湯船の中で、足首をそっと回す。
水の中だと、痛みは記憶になる。
痛かった、という過去形に、体が変換してくれる。
湯から上がって、髪をタオルで包む。
スマホに、彼からの一行。
『澪、呼んで』
風呂上がりの体で、名前を呼ぶのは、少し照れる。
照れの分、やさしくなる。
『……晴』
『はい、澪』
二行目まで読み終える前に、心拍が落ち着く。
不思議だ。
名前は、眠りの薬にもなるらしい。
*
木曜。
体育の見学を終え、保健室に行く。
「もう大丈夫そうね」と先生。
湿布の予備を二枚もらい、「念のため」と言われる。
念のため、という言葉は、未来に小さな傘を差す。
使わないのがいちばん。
でも、持っているのが、静かな安心になる。
廊下で、スマホが震える。
『今日の月、薄い?』
『薄い。
でも、層がある』
『層、って言い方、澪らしい』
『褒められてる?』
『もちろん』
“もちろん”を、今日は疑わない。
疑わない日は、体が軽い。
英語の時間、先生が「proper noun」と板書する。固有名詞。
“晴”。
僕にとって“晴”は、もう天気のことじゃない。
固有。
固有の音。
固有の温度。
ノートの余白に、もう一度“晴”と書いて、すぐ消す。
残る跡。
消しても残る跡を、どう扱うかが、大人になることの一部なんだろう。
少しだけ、分かったふりをする。
放課後、階段の踊り場で風を食べていると、田端が横に座った。
「お前さ、最近、名前、言うようになった?」
「……なんで」
「“お前”って呼ばないで“澪”って言うやつが増えたから」
「増えた?」
「俺の中で」
「田端、俺の中の統計を勝手に作るな」
「お前の“前”の席から“今”の席に移ったやつが、いる感じ」
「比喩がうまい」
「当たり前。俺、国語だけ成績いい」
笑いながら、田端は立ち上がる。
風は一瞬強くなって、すぐ静かになる。
表面だけでなく、奥まで動いた気配が、体に残る。
夜。
月は、やっぱり薄くて層があった。
ズームしない。肘を机につく。息は止めすぎない。
写真を撮る。
送る。
同時に、彼からも。
『同じ層、見てた』
『同じ層なら、同じ名前を呼んでる感じがする』
『それ、好き』
『俺も』
“俺も”。
前より曖昧じゃない。
前より少しだけ、輪郭が濃い。
未送信欄に、今日の一行を置く。
《名前は、夜の層をやわらかくする》
保存。
スマホを伏せる。
ライトを消す。
部屋が暗いとき、名前は胸の奥で光る。
光るものは、守りたくなる。
守りたいものは、ルールを強くする。
“会わない”が、少しだけ輝いて見える。
不思議だ。
距離を守ることで、距離の間に灯りが増えるなんて。
*
金曜の夜、彼から突然の写真。
机の上のノート。ページの端に、黒いペンで“晴”と“澪”が向かい合って書かれている。
その真ん中に、小さな線。
線は細くて、折れない。
『練習してる』
『何を』
『名前の、書き心地』
『書き心地』
『書くときの筆圧で、距離が変わる』
『詩人だな』
『生活の詩人』
『偉そう』
『自覚ある』
笑って、僕もノートの端に“晴”と書く。
筆圧は思っていたよりも軽い。
軽いのに、跡が残る。
繰り返すうちに、滲みが増える。
増えた滲みは、消しゴムで消せない。
この“消せない”を、僕は嫌いじゃない。
名前の滲みは、生活の証拠だから。
「澪、明日、図書館行くなら、ついでに生姜買ってきて」と母。
「了解」
「“了解”が、今日も柔らかい」
「蜂蜜のせい」
「言葉の味付け?」
「まあそんな感じ」
二人の会話の端に、名前の余韻が残る。
名前は、直接呼ばなくても、生活の中に影を落とす。
その影は、やさしい。
*
土曜。
午前の図書館は、空気が薄い水色。
窓際の席は埋まっていて、壁際の席に座る。
“夏の保存食”のページをめくって、梅シロップの作り方を眺める。
氷砂糖の角が光る。
光る角を見ると、足首の角が消えたことを、もう一度実感する。
ページの端に、“晴”と小さく書いて、また消す。
消すときの紙の毛羽立ちに、名前の粒が残る。
敢えて指先で払わない。
残っていいものは、残しておく。
スマホが震える。
『澪』
『ん』
『今日、名前、練習した?』
『した。ノートの端で』
『俺も。洗面台でもした』
『洗面台?』
『鏡の前で、声出さずにってルールで』
『難易度高い』
『だから練習』
『努力家』
『澪に追いつきたい』
『同じ場所にいると思うけど』
『じゃあ、同じ場所で、もう一回呼んで』
図書館の壁際の席で、喉の奥が少し乾く。
でも、乾くのは嫌じゃない。
『……晴』
『はい、澪』
“はい”の音は、どんな場所でもまっすぐ届く。
しばらくの沈黙。
図書館の空気の中で、ページをめくる音が微かに重なる。
僕は“未送信欄”を開いて、ひとつ足す。
《名前がある限り、会わない距離は、会える距離の準備になる》
保存。
準備、という言葉は、ケトルの音を思い出させる。
底から小さな泡が上がる音。
まだ沸かない。
でも、確かに熱は上がっていく。
帰り道、生姜と蜂蜜を買う。
スーパーのレジ袋の中に、薄茶色の節がふたつ。
「生姜多めに刻むと、お父さんには辛いかな」と母が言う。
「薄める」
台所の音は、夕方に向かって柔らかくなる。
刻む音、混ぜる音、煮る音。
夜に近づくほど、音は“整う”方向に落ち着く。
名前を呼んだ日も、最後は整って眠る。
その規則が、この一週間で、体に入った。
*
夜。
彼から一行。
『澪。
名前の練習、うまくいった日の眠りは、いつもより深い?』
『深い。
夢の入口で、名前が灯りになる』
『同じ』
“同じ”が、今日は胸の真ん中に置かれる。
左右に偏らない。
真ん中に置かれた“同じ”は、重さを持つ。
重さは、安心だ。
安心は、眠りの最短距離になる。
ライトを消す前、いつもの一行。
《また、話そう》
その下に、もう一行添える。
《おやすみ、晴》
送るのは、最初の一行だけ。
もう一行は、胸の内側にそっと置く。
呼吸で、やさしく揺れる。
揺れは、眠りの前に、灯りに変わる。
名前は、灯りになる。
会わないまま、明るくなる。
――第6話、了。
痛みは綿ではなく、鈍い石だ。右足首の内側で小さく固まっていて、歩くたびに石が床に当たって音を立てる気がする。実際には音はしない。ただ、脳のどこかで、石の角が何度も擦れる。
保健室のカーテンは、洗い立てのシャツみたいな匂いがした。
消毒液の匂いと混ざると、妙に落ち着く。保健の先生に湿布を貼ってもらい、伸縮テープで軽く固定される。白いテープを指でなぞると、表面の格子が指紋にひっかかって、少しだけ安心する。
「今日は部活禁止。階段は手すり持ってね。痛かったら無理しない」
「はい」
返事の音は自分の喉から出ているのに、遠くから聞こえた。
カーテンの向こうで誰かが笑っている。笑いは小さく、昼寝の枕の温度に似ている。
ベッドの横の小さな机に、僕のスマホ。画面は伏せてある。
手を伸ばしてひっくり返すと、軽い振動――一度だけ。
『大丈夫?』
朝霧 晴翔。
昨日の夜、三分と五分の“声のない通話”をしたあと、「明日、体育祭の後遺症に注意」と冗談めかして送ってきた彼。
僕は左手の親指で打つ。右手は、包帯の端を意味もなく撫でている。
『ちょっと捻っただけ。湿布』
『澪、無理すんな』
――名前。
指先で、その二文字の輪郭をなぞる。
これまで“君”も“お前”も使わなかった彼が、初めて僕の名前を打った。
胸の奥で小さな灯がつく。灯の火芯は思っていたより太くて、でも明るさはやわらかい。
『……』
『既読が静か。痛い?』
『平気。
ただ、名前が、初めてで』
『ごめん。嬉しかったら嬉しいって言って』
『言わないで伝わるかと思ってた』
『伝わってる。でも、名前は、会話の温度を上げるって、澪に言いたかった』
画面の白が少し暖かくなる。
保健室の窓の向こうで、雲が薄くほどける。
僕は「朝霧」と打って、消す。「晴翔」と打って、消す。呼び捨ては距離を近づける。けれど、“会わない”ルールの枠線が、頭の中で薄く光った。
代わりに、
『心配しすぎ』
と送る。
自分でも驚くほど、端正な安全地帯。
“しすぎ”には、少し甘えが混ざっている。
既読。数分後に、短く。
『ルール、ひとつだけ変えよう。
名前、使っていいことにしよう』
提案の置き方が、やさしい。
決定じゃなく、交換できるカードのように出してくる。
照れ隠しみたいに、僕は一文字打つ。
『晴』
送信の直前で、削除。
画面の下の“未送信”フォルダの中、透明な吹き出しに“晴”が並ぶ。
三つ、四つ、五つ。
同じ一文字なのに、書いた時間で温度が少しずつ違う。
保健室の時計が、静かに分を刻む。
カーテンの端が、風で少しだけ持ち上がる。
扉が開いて、先生が顔を出す。「藤崎くん、痛み止めいる?」
「だいじょうぶです」
“だいじょうぶ”の音は、あいまいなクッションだ。
それで守れるものもあるし、届かなくなるものもある。
スマホに目を戻すと、彼から新しい一行。
『午後、廊下の窓の光、粉になってる?』
『なってる。
粉は綺麗な日と、邪魔な日がある。今日は綺麗』
『よかった』
通信の向こうで息をする音は聞こえない。それでも、呼吸はそろう。
ベッドから降りて、ゆっくり立ち上がる。
足首は、石の角を隠してくれている。白いテープは、薄い壁になる。
*
放課後。
昇降口で靴を履き替えながら、田端が「足どうした」と言う。
「ちょっと捻った」
「お前、体育祭本気で走ったもんな。リレーのとき顔が狩人だった」
「褒めてる?」
「褒めてる。で、保健室のカーテンの向こうで誰と会話してた?」
「勘が悪いほうが、人生、助かる」
「おい」
笑いながら、田端は階段を飛ぶように降りる。僕は手すりに指を滑らせて、一段ずつ。階段の踊り場で風を食べるのは、やめられない。今日は風が、薄い青じその匂いだった。誰かの弁当に入っているのだろう。
自転車は押して帰る。
ペダルに体重をかけない歩幅は、思いのほか静かだ。
家に着くと、母が「冷凍庫にアイスあるよ」と無造作に言う。
「何味」
「白桃。おばあちゃんが送ってくれたやつ」
「勝ち」
「勝ちの意味が分からないけど、勝ちでいいならよかった」
靴下の端を引っ張り上げ、湿布の端が見えないように気をつけながらキッチンへ。
冷凍庫の白い冷気が頬に当たる。
白桃のラベルは、やさしいピンク色。
僕はひとつを取り出して、もうひとつを冷凍庫に戻す。
写真を撮る。送らない。
“今度、半分こ”の四文字が喉の奥で転がる。それを飲み込んで、冷たさを舌に広げた。
机に戻る。
数学のワークの端に、薄い鉛筆で“痛い→OKになるまでの手順”と書く。
1:冷やす
2:休ませる
3:小さく動かす
4:寝る
5:起きる
馬鹿みたいに正しい手順が、今日はやけに頼もしい。
スマホが震える。
『澪、今日だけ、呼んでみて』
『呼ぶ?』
『俺の名前』
タイピングの点滅が、心拍みたいに早まる。
“晴翔”は漢字が二文字ずつで、僕の中では“晴”と“翔”のあいだに空気がある。
“朝霧”は姓の涼しさが勝って、“晴”の方は君だけの天気予報だ。
どちらを選べばいい。
指先は迷い、名前の輪郭は目の裏でどんどん鮮やかになる。
“会わない”のルールの内側で、許された音が増えるのが怖い。
でも、嬉しい。
浮かれないように、息をひとつ吸う。
『……晴』
送信。
三秒後、返ってくる。
『はい、澪』
たった六文字。
なのに、顔が近づく。
本当に、近づいてくる。
画面が、急に、鏡になる。
自分の表情が、少し赤い。
『いま、顔、近い』
思わず打つと、わずかに間をおいて、
『俺も』
“俺も”が、いくつ意味を持つか、考えないことにする。
考えるより前に、体が理解してしまう。
名前は、距離だ。
呼ぶのは、顔を近づける行為だ。
画面の中でしか動かせない椅子を、音を立てないように引いて、テーブルの縁にひざを当てるみたいに。
未送信欄を開く。
《名前を呼ぶって、こんなに顔を近づける行為だったっけ》
保存。
今日の未送信は、やわらかい。
触ると、へこむ。
へこんだ分、戻る。
「澪ー、郵便受け見てきてくれる?」
母の声に「行く」と返す。
右足に一歩ずつ順番を教える。ポストの中には青い封筒。光熱費のお知らせ。
帰りに隣家の金木犀の木の下で、風が少し強くなって、葉が一枚落ちた。
落ちる音はしないのに、音がした気がする。
季節は、こういう微妙な回数の積み重ねで、確実に角を曲がる。
夜。
痛み止めは、必要なほどではない。ただ、眠り始めの角で足首がうずくのが嫌で、半分だけ飲む。
水の道が喉を通るとき、薬の苦みが遅れてくる。
布団に潜る前に、スマホの光を胸に押し当てる。
画面に、彼からの一行。
『会わなくても、名前は会話の温度を上げる』
昼間の言葉の復習みたいに、もう一度読んで、もう一度頷く。
僕は自分でも気づかないうちに、声に出して彼の名を呼んでいた。
音は、布団の中で小さく消えた。
でも、胸の奥では、消えない。
*
翌朝。
足首は、昨日よりも少しだけ“石”ではなくなっていた。
角が削れて、丸みが出る。
カーテンの隙間を指でひらいて、白を一口吸う。
冷蔵庫から牛乳を出して、コップに半分。
パンは四枚切りを半分。
昨日、母が買ってきた蜂蜜を少し。
蜂蜜の粘度は、朝の時間のゆっくりさと合う。
トーストの上で広げると、パンの孔にすべり込む。
「今日は迎えに行こうか?」
母が言う。
「だいじょうぶ。ゆっくり行く」
「手すり持つ」
「持つ」
言葉は、そのまま紐になって、体に巻きついた。
学校。
昇降口から教室まで、今日は階段を一段飛ばししない。
田端が「おはよう」の代わりに「痛い顔してない」と言う。
「プロの観察眼」
「料金はコロッケパンで」
「高い」
笑って席に着く。
黒板の白は、まだ眩しい。でも、痛くはない。
一時間目と二時間目のあいだの休み時間に、彼から一問。
『今日の英語、小テの範囲どこ?』
『Lesson7』
『助かった。
澪、名前の件、ありがとな』
『こちらこそ』
『今日も、呼んで』
『……晴』
打つたび、顔が近づく。
一日に何回、顔を近づけられるのだろう。
決まりはない。
だから、無駄にしない。
昼休み。
購買のきなこ揚げパンが復活していた。
最後の一個に手を伸ばした瞬間、別の手も伸びる。
「どーぞ」
と譲られて、受け取る。
「半分こ」と言いかけて、やめる。
“半分こ”の相手は、今日は画面の向こうだ。
廊下の窓際のベンチに座って、袋を開ける。
顔にきなこの粉がつくのが嫌で、慎重に食べる。
彼に写真を送る。
『勝ち』
とだけ返ってきて、笑ってしまう。
“勝ち”は、最近の口癖だ。
生活の小さな勝ち負けは、心の筋肉のストレッチになる。
午後の数学。
二次関数のグラフが、板書の上で滑る。
先生の白いチョークの粉が、光の中で舞う。
粉の軌跡を目で追っていると、足首の痛みを忘れる。
ペンの先でノートの余白に小さく“晴”と書く。
誰も見ていないのに、少し恥ずかしい。
消しゴムで消す。
消した跡が薄く残る。
残った跡を、指で一度なぞる。
放課後、図書室に寄らず、今日は真っ直ぐ帰る。
買い物のメモは、“豆腐・鶏ひき肉・長ネギ・生姜”。
スーパーは涼しくて、体の表面温度が一度下がる。
レジの人に「ポイントカードありますか?」と聞かれて、いつもの返事をする。
「あります」
カードを渡す手が、少しだけ浮いている。
名前を呼んだ日の手は、少し軽い。
家に着くと、母が冷蔵庫を開けながら「今夜は肉豆腐」と言う。
「天才」
「母は万能」
昨日と同じ会話を、今日はほんの少し違う温度で繰り返す。
夜。
鍋の中で、出汁の白がゆっくり透明になっていく。
薄く切った生姜が、湯の表面を踊る。
鶏ひき肉を丸めて落とす。
ネギを斜めに切る音が、まな板に小さく積もる。
鍋に蓋をしているあいだに、スマホ。
彼から写真。
洗面台の鏡、昨日と同じ角度。付箋が増えている。
“commit 約束する”“utter 発する”。
丸い字が二つ、増えた。
『真面目だな』
『澪が“約束”って言ったの、未送信で知ってる』
『見てないのに、見たみたいに言うな』
『見てない。感じた』
『ずるい』
『自覚ある』
このやりとりは、詩の練習みたいで、でも堅苦しくない。
台所の湯気が、スマホの画面に薄い水膜を作る。
拭いて、鍋の蓋をあける。
湯気の白に、文字が溶ける。
夕飯のあと、宿題を終わらせる。
ベッドに腰をかけ、右足首を枕の端に乗せる。
痛みは、さらに小さくなっていた。
スマホの通知。
『澪、今日、最後に一回だけ、呼んで』
息を吸って、吐く。
『……晴』
三秒。
『はい、澪』
その返事を見ていると、胸の奥の灯が、昨日よりもしっかり芯を持った。
火は、小さいほうが長く持つ。
画面を伏せる。
未送信欄を開いて、今日の昼に書いた一文をもう一度読み返す。
《名前を呼ぶって、こんなに顔を近づける行為だったっけ》
その下に、もう一行、足す。
《離れている距離の分だけ、発音がやさしくなる》
保存。
配列の違う二行が、同じ色で並ぶ。
カーテンの隙間の夜は深く、でも少しだけ明るい。
痛み止めは飲まない。
眠りの手前で、胸の中の灯を小さくして、手のひらで覆う。
*
水曜。
足首は、ほとんど石じゃない。
階段の手すりを、今日は半分だけ持つ。
学校の廊下の窓から、光が粉になって降りる。
晴から『おはよう』。
『おはよう』
『足、たぶん大丈夫』
『たぶんじゃなくて大丈夫って言って』
『大丈夫』
『よくできました』
“よくできました”は、子どものハンコみたいで、でも嫌じゃない。
午前の授業を終えて、昼休み。
僕は校舎の階段の踊り場で風を食べる。
メロンパンを二口、牛乳を一口。
『今日の一行、先に送る』
『どうぞ』
『名前は、呼ぶ側の顔も近づける』
『名言。スクショ』
『圧迫』
『圧迫されたい。
澪の中に』
“澪の中に”。
その言葉は、あたたかくて、少し危険だ。
危険だから、未送信欄を開く。
そこに、
《“中”という場所を、まだ曖昧なまま守りたい》
と打って、保存。
送らない。
守るために、送らない。
放課後、図書室で“昼のパン”の棚を覗く。
“パンの耳の美学”という小さな冊子が目につく。
耳は固いから、最後に残る。
でも、固いところにこそ小麦の香りが濃い、と書いてある。
僕の中の“名前”も、きっと耳に近い。
固いけれど、香りが濃い。
最後に噛みしめる部分。
家に帰ると、母が「今日は雨、降る?」と聞く。
「降らないと思う」
「洗濯物、外のままでいいかな」
「いいんじゃない」
“いいんじゃない”は、責任を持ちすぎない了承の言葉だ。
生活の中では、こういうクッションが何枚も必要になる。
僕はカーテンの端を少しめくって空を見る。
厚みのある白。
雨が来たらすぐ分かる白。
でも、来ない。
夜、湯船の中で、足首をそっと回す。
水の中だと、痛みは記憶になる。
痛かった、という過去形に、体が変換してくれる。
湯から上がって、髪をタオルで包む。
スマホに、彼からの一行。
『澪、呼んで』
風呂上がりの体で、名前を呼ぶのは、少し照れる。
照れの分、やさしくなる。
『……晴』
『はい、澪』
二行目まで読み終える前に、心拍が落ち着く。
不思議だ。
名前は、眠りの薬にもなるらしい。
*
木曜。
体育の見学を終え、保健室に行く。
「もう大丈夫そうね」と先生。
湿布の予備を二枚もらい、「念のため」と言われる。
念のため、という言葉は、未来に小さな傘を差す。
使わないのがいちばん。
でも、持っているのが、静かな安心になる。
廊下で、スマホが震える。
『今日の月、薄い?』
『薄い。
でも、層がある』
『層、って言い方、澪らしい』
『褒められてる?』
『もちろん』
“もちろん”を、今日は疑わない。
疑わない日は、体が軽い。
英語の時間、先生が「proper noun」と板書する。固有名詞。
“晴”。
僕にとって“晴”は、もう天気のことじゃない。
固有。
固有の音。
固有の温度。
ノートの余白に、もう一度“晴”と書いて、すぐ消す。
残る跡。
消しても残る跡を、どう扱うかが、大人になることの一部なんだろう。
少しだけ、分かったふりをする。
放課後、階段の踊り場で風を食べていると、田端が横に座った。
「お前さ、最近、名前、言うようになった?」
「……なんで」
「“お前”って呼ばないで“澪”って言うやつが増えたから」
「増えた?」
「俺の中で」
「田端、俺の中の統計を勝手に作るな」
「お前の“前”の席から“今”の席に移ったやつが、いる感じ」
「比喩がうまい」
「当たり前。俺、国語だけ成績いい」
笑いながら、田端は立ち上がる。
風は一瞬強くなって、すぐ静かになる。
表面だけでなく、奥まで動いた気配が、体に残る。
夜。
月は、やっぱり薄くて層があった。
ズームしない。肘を机につく。息は止めすぎない。
写真を撮る。
送る。
同時に、彼からも。
『同じ層、見てた』
『同じ層なら、同じ名前を呼んでる感じがする』
『それ、好き』
『俺も』
“俺も”。
前より曖昧じゃない。
前より少しだけ、輪郭が濃い。
未送信欄に、今日の一行を置く。
《名前は、夜の層をやわらかくする》
保存。
スマホを伏せる。
ライトを消す。
部屋が暗いとき、名前は胸の奥で光る。
光るものは、守りたくなる。
守りたいものは、ルールを強くする。
“会わない”が、少しだけ輝いて見える。
不思議だ。
距離を守ることで、距離の間に灯りが増えるなんて。
*
金曜の夜、彼から突然の写真。
机の上のノート。ページの端に、黒いペンで“晴”と“澪”が向かい合って書かれている。
その真ん中に、小さな線。
線は細くて、折れない。
『練習してる』
『何を』
『名前の、書き心地』
『書き心地』
『書くときの筆圧で、距離が変わる』
『詩人だな』
『生活の詩人』
『偉そう』
『自覚ある』
笑って、僕もノートの端に“晴”と書く。
筆圧は思っていたよりも軽い。
軽いのに、跡が残る。
繰り返すうちに、滲みが増える。
増えた滲みは、消しゴムで消せない。
この“消せない”を、僕は嫌いじゃない。
名前の滲みは、生活の証拠だから。
「澪、明日、図書館行くなら、ついでに生姜買ってきて」と母。
「了解」
「“了解”が、今日も柔らかい」
「蜂蜜のせい」
「言葉の味付け?」
「まあそんな感じ」
二人の会話の端に、名前の余韻が残る。
名前は、直接呼ばなくても、生活の中に影を落とす。
その影は、やさしい。
*
土曜。
午前の図書館は、空気が薄い水色。
窓際の席は埋まっていて、壁際の席に座る。
“夏の保存食”のページをめくって、梅シロップの作り方を眺める。
氷砂糖の角が光る。
光る角を見ると、足首の角が消えたことを、もう一度実感する。
ページの端に、“晴”と小さく書いて、また消す。
消すときの紙の毛羽立ちに、名前の粒が残る。
敢えて指先で払わない。
残っていいものは、残しておく。
スマホが震える。
『澪』
『ん』
『今日、名前、練習した?』
『した。ノートの端で』
『俺も。洗面台でもした』
『洗面台?』
『鏡の前で、声出さずにってルールで』
『難易度高い』
『だから練習』
『努力家』
『澪に追いつきたい』
『同じ場所にいると思うけど』
『じゃあ、同じ場所で、もう一回呼んで』
図書館の壁際の席で、喉の奥が少し乾く。
でも、乾くのは嫌じゃない。
『……晴』
『はい、澪』
“はい”の音は、どんな場所でもまっすぐ届く。
しばらくの沈黙。
図書館の空気の中で、ページをめくる音が微かに重なる。
僕は“未送信欄”を開いて、ひとつ足す。
《名前がある限り、会わない距離は、会える距離の準備になる》
保存。
準備、という言葉は、ケトルの音を思い出させる。
底から小さな泡が上がる音。
まだ沸かない。
でも、確かに熱は上がっていく。
帰り道、生姜と蜂蜜を買う。
スーパーのレジ袋の中に、薄茶色の節がふたつ。
「生姜多めに刻むと、お父さんには辛いかな」と母が言う。
「薄める」
台所の音は、夕方に向かって柔らかくなる。
刻む音、混ぜる音、煮る音。
夜に近づくほど、音は“整う”方向に落ち着く。
名前を呼んだ日も、最後は整って眠る。
その規則が、この一週間で、体に入った。
*
夜。
彼から一行。
『澪。
名前の練習、うまくいった日の眠りは、いつもより深い?』
『深い。
夢の入口で、名前が灯りになる』
『同じ』
“同じ”が、今日は胸の真ん中に置かれる。
左右に偏らない。
真ん中に置かれた“同じ”は、重さを持つ。
重さは、安心だ。
安心は、眠りの最短距離になる。
ライトを消す前、いつもの一行。
《また、話そう》
その下に、もう一行添える。
《おやすみ、晴》
送るのは、最初の一行だけ。
もう一行は、胸の内側にそっと置く。
呼吸で、やさしく揺れる。
揺れは、眠りの前に、灯りに変わる。
名前は、灯りになる。
会わないまま、明るくなる。
――第6話、了。



