日曜の午後。
 窓をあけると、春の終わりの匂いがした。水で薄めたミントの香りみたいに、涼しいのに輪郭がはっきりしている。遠くで草刈り機の音、近くでスズメが二度鳴いて、すぐ黙る。
 机の上には英語のワークと、昨夜の紅茶が半分だけ残ったマグ。薄い色になった茶が、午後の光を受けてガラスみたいに透ける。

 スマホが一回だけ震えた。
 画面には、朝霧 晴翔の文字。

 『“通話”しない?』

 反射で「待って」と打ちかけて、指が止まる。
 “通話”は、決めていた境界の線のすぐ手前に刺さっている。ルールは“会わない”。声も顔も持ち込まない。僕らが選んだやり方だ。

 続けて、彼から。

 『声は出さない。ミュート。
 タイマー三分。
 沈黙だけで、どれだけ隣にいられるか、やってみたい』

 奇妙で、可笑しくて、可愛い。
 こんな実験みたいな提案を、さらっと置いてあくまで「遊び」にしてくれるところが、彼の優しさだ。
 僕は深呼吸する。肺の底の冷たい空気がゆっくり入って、ゆっくり出ていく。指先の汗が引いていく。

 『いいよ』

 “送信”。
 すぐに丸い通話アイコンが浮かび、その横に“ミュート”の表示。
 3…2…1。
 ぴかっと灯る小さな印。ゴム風船みたいに膨らんで、音もなくそこに留まった。

 部屋の音が、急に大きくなる。
 秒針がきざむ。冷蔵庫の奥で小さく鳴るコンプレッサーの音。廊下を渡る風の衣擦れ。窓の外でスズメがもう一度鳴いて、遠くで別の鳥が一回分だけ返事をする。
 画面の中の相手は、黙っている。僕も黙っている。
 沈黙は苦手なはずだ。でも、一緒に持つ沈黙は、別のものだ。鍋の中の水が沸騰する前に立てる細かい泡の音を、二人で聞いている感じ。
 僕は指先で机を、とん、とん、と二回叩く。癖みたいに。
 十数秒して、テキストが落ちる。

 『今、机叩いた?』

 見られている、というより、感じられている気がして、笑いが喉の奥で跳ねる。
 『うん』
 とだけ打って、また画面の静けさに戻る。
 ミュートの丸いアイコンの向こう側で、彼もどこかで息をしている。吸うときに胸が少し持ち上がって、吐くときに肋骨の間の空気が細くなる、そんな呼吸。声はないのに、気配がある。
 三分は短いと思っていた。けれど、秒針は思ったよりも遅く進む。たぶん、音を数えているからだ。
 最後の十秒、僕の心臓が通話の丸い印の明滅と同じ速度で鳴った。
 ピッ。
 通話終了の表示。
 画面に文字。

 『隣にいた』

 たったそれだけ。けれど、すとんと腹に落ちる。
 僕は勢いで、『今度、10分』と打ってしまってから、慌てて消す。
 代わりに、『また』とだけ送る。
 “また”は、短いくせに約束の形をしている。軽いようで、手触りは布のように確かだ。

 机の上。紅茶のぬるい甘さが、喉をゆっくり通る。
 部屋は静かだ。静かな部屋で、僕は自分の指が少しだけ震えていることに気づく。良い震えだ。恐れの震えじゃない。体の中にこぼれた光を、均すための震え。

 母が部屋の入口に顔を出す。
 「窓、開けてる?」
 「うん、少し」
 「天気いいのに、洗濯、取り込み忘れそうになってた」
 「あとで取り込むよ」
 「お願い。あ、夕方、実家に電話するけど、澪も一言だけ話してやって」
 「了解」
 生活は、いつも端っこで手を振っている。肩に乗せたまま、僕はスマホをもう一度覗いた。

 『三分、長かった?』

 彼から。
 『ちょうど。
 息止め癖、出た』
 『月の撮影の副作用』
 『たぶん』
 『じゃあ次は五分。
 息は止めないルールで』
 『了解』

 了解は、今日、毛布みたいに柔らかい。
 画面を伏せる。
 英語のワークの“relationship”に二本線を引き、“沈黙の共有”と欄外に日本語で小さく書く。自分で書いて少し笑ってしまう。教科書の余白でしか通じない言葉だ。でも、いまの僕らには、正確だ。

 *

 夕方、洗濯物を取り込む。
 ベランダのハンガーにさわると、金属がまだ温かい。Tシャツを二回振って、肩のしわを伸ばす。布の肌ざわりが掌に残って、日向の匂いがふわっと広がる。
 「青じそ買いすぎたから、今夜は冷ややっこね」と母。
 「賛成」
 「長ネギもあるからのせる?」
 「のせてください」
 生活はずっと、こういう会話の積み木でできている。
 台所で豆腐を切る包丁の音、菜箸が器の縁を叩く小さな音。
 冷房は弱。
 まな板の上の青じそを丸めて細切り。香りが鼻に抜けて、目の裏側まで薄く涼しくなる。

 夕飯のあと、母が実家に電話をかける。
 受話器越しの祖母の声は、薄い麦茶みたいに安心する色をしている。
 「澪、元気?」
 「元気。そっちは」
 「元気、たぶん。きゅうり送る」
 「ありがとう」
 電話を切ると、母が「未送信にしないで、ありがとうは先に言うの」と笑う。
 「送ってる」
 「よろしい」
 こういう冗談は、ルールを守るためじゃなく、生活の角を丸くするためにある。

 机に戻る。
 今日やる分の数学の問題を一ページだけ解く。グラフの頂点が紙の真ん中に来るように少し余白をずらす。僕のノートには、余白を守る線が何本もある。
 時計は九時を少し過ぎている。
 スマホを裏返す。
 未送信欄を開く。
 カーソルの点滅が心拍に合う。
 指が勝手に走る。

 《俺はたぶん、晴が好きだ。“人として”とか逃げ道を作らない意味での、好きだ。
 会わない約束を守ると決めたのは俺だ。だけど、指の先が画面の光を求めるたび、心は勝手に顔を探している。
 いつか破る未来が怖い。破らない未来は、もっと怖い》

 文章が長すぎて、画面から溢れる。
 読み返して、どこにも嘘がないことに体のどこかが震えた。
 保存。
 送らない。
 送らないから、言葉は体内でぬくもる。
 その温度で、いまは十分だ。

 机の上で息を整えていると、通知が落ちた。
 『澪。“会わない”のルール、守ろう。今は。
 それでも、近づける速度があるって、信じたい』

 枕に顔を押しつけて、笑いがひとつ漏れる。
 笑いは、静かに震えて、涙に変わる。静かな涙は、頬の骨のところで一度だけ光って、枕に吸われて消える。
 僕はスマホに顔を近づける。
 『うん』
 打って、送る。
 “うん”の一文字に、いくつも意味が重なる。うなずき、同意、好意、信頼、ちょっとの甘え。
 全部足して、丸めた。

 『明日、同じ時間に月、撮る?』

 『撮る。今日より、少し欠けてるはず』

 『欠けたぶん、埋める練習しとく』

 『埋める?』

 『未送信で』

 彼は、一拍置いてから『了解』と返してきた。
 了解の四文字が、今日もやさしい。

 *

 その晩は寝つきが悪かった。
 三分の沈黙で満たしたはずの体のどこかで、別の音が鳴り続けている。
 目を閉じると、通話アイコンの丸い印が、暗闇の中でゆっくり点滅する。
 点滅と同じ速さで、昔の僕らが数歩だけ走る姿を想像する。中学のグラウンド、夏の白線、ボール拾い。あのとき僕は、彼の背中を名前で呼べなかった。呼びそびれた名前は、いま、未送信欄に並んでいる。
 《晴》
 とだけの吹き出しが、透明のまま三つ。

 朝方、少しだけ眠って、薄い夢を見た。
 電話箱の中に水が満ちていって、受話器がふわりと浮き、僕はその受話器を胸に抱く。聞こえるのは水の音だけで、でも水はやさしい。息を止めなくても、溺れない。
 目が覚めると、喉が少し乾いていた。
 台所で水を飲む。
 コップの底に集まった光が、指先に移る。指先が白いまま、僕は部屋に戻る。

 *

 月曜の朝。
 カーテンの隙間の白は、昨日より柔らかい。
 トーストを一枚、バターを薄く。
 母が「今日はおばあちゃんからきゅうりが届くから、夕方受け取ってね」と言う。
 「了解」
 「“了解”って便利な言葉ね」
 「うん、角が立たない」
 「角が立たないって、澪の座右の銘?」
 「座るほどの銘じゃない」
 二人で笑う。
 笑いは、朝の台所でいちばん栄養がある。

 通学路。
 踏切のベル。猫の伸び。
 教室に入ると、田端が「昨日、寝る前になんか急に寂しくなったから、スマホ握って寝た」と言う。
 「電磁波」
 「知らん。お守り」
 「分かる」
 「お前も?」
 「まあ」
 「“まあ”の顔が、前より柔らかい」
 「寝不足のせい」
 「うそつけ」
 席に座り、窓を少し開ける。
 チョークの粉が光って舞う。
 晴から『おはよう』。
 『おはよう』
 彼の『昨日の沈黙、上手だった』に
 『そっちも』と返す。
 『練習した?』
 『しない。呼吸のタイミング合わせただけ』
 『合わせてたの、知ってた』
 『ずるい』
 『自覚ある』

 午前の授業は、体が軽かった。
 “会わない”を守るという選択が、僕の背骨を支える日がある。
 選んだのは僕らで、誰にも強制されていないからだ。
 窓の外の白い雲がちぎれ、教室に薄い風が入ってくる。
 新しい席にも、ようやく体が馴染む。黒板の眩しさはまだ少し強いけれど、目を細める角度はもう見つけた。

 昼休み、購買でメロンパンを買う。
 袋を開けると、砂糖の粒が指に付く。
 階段の踊り場に腰を下ろして『昼、メロンパン』と送る。
 『こっち、コッペパン(マーガリン)』
 『王道』
 『君の王道は、牛乳とセット』
 『お見通し』
 『お見通しは、やさしさの形の一個だと思う』
 『今日の名言』
 『スクショ』
 『圧迫』
 やりとりの端で、秒針が進む。
 午後は英語の小テスト。
 Lesson6。
 昨夜、あの三分のあとの“うん”を送る直前、僕はこの範囲の単語を一つずつぶつぶつ読んでいた。声に出さない読み方は、通話の沈黙とよく似ている。
 書いて、消して、書き直す。
 正解はひとつでも、向かい合い方はいくつもある。

 放課後、図書室。
 窓の格子の影。
 『今日、五分いってみる?』と晴。
 『息は止めないルール』
 『了解』
 『19時』
 『了解』

 家に戻る。
 玄関に祖母の段ボール。
 “きゅうり”“みょうが”“小ぶりのトマト(甘い)”とマジックの文字。
 ふたを開けると、青い匂いがふわっと立つ。
 母が「よかった、冷やしておいて」と言う。
 冷蔵庫の野菜室に収めるまでの数十秒で、台所に夏が少し増える。
 僕はキッチンタイマーを19:00に合わせ、机の上のスタンドライトを弱くする。

 3…2…1。
 丸い印がまた灯る。
 今日は五分。息は止めない。
 僕は天井を見上げて、吸って、吐く。
 吸うときに肩を持ち上げない。腹の底で空気を受け止める。
 通話の向こうで、彼も同じ速度で空気を動かしている気がする。
 窓の外で誰かが自転車をこぐ。チェーンが一瞬だけ鳴る。
 廊下の電灯が一度点滅して、すぐ安定する。
 手のひらを机に置いて、指を一本ずつ軽く曲げる。
 何も話さないのに、話している。
 言葉になる前のやりとりが、行ったり来たりする。
 五分は、三分より短く感じた。体がやり方を覚えたからだ。
 ピッ。
 表示が消えて、文字。

 『五分、隣にいた』

 『知ってた』

 『さては上級者』

 『初心者』
 『初心者、かわいい』
 『黙れ』
 『はい』

 画面の光の中で、笑いが二人分膨らんではじける。
 一人で笑うより、破片がきれいに散る。

 『明日、月』

 『もちろん』

 『今日より欠けてる?』

 『少しだけ』

 『少しだけ』

 同じ言葉の重なりに、安心が増える。
 安心は、増やしすぎると鈍るけれど、いまはちょうどいい。

 *

 夜、風呂あがりに冷蔵庫のトマトを一つ食べる。
 小ぶりで、皮が薄い。噛むと、甘い汁が弾けて口の中に小さな夏が満ちる。
 「一つちょうだい」と母が言うので切って渡す。
 「これ、当たりだね」
 「うん」
 「明日は、冷やし中華にする?」
 「天才」
 「母は万能」
 「はいはい」
 こういう会話が、眠る前の体を軽くする。

 ベッドに入る。
 部屋を暗くして、スマホの光を胸元で隠す。布団の影で、光はやわらかくなる。
 未送信欄を開く。
 指の動きを、今日は止めない。

 《今、声のない通話を終えた。
 通話って、声だと思ってたけど、ちがった。
 あなたと同じ速度で吸って、吐いて、
 たぶん同じタイミングで目を瞬かせて、
 同じ筆圧で今日のことを欄外に書いて、
 それで十分に会話だった》

 《“会わない”を守るのは、
 逃げじゃない。
 むしろ、今は勇気だと思う。
 あなたの顔を想像して、
 勝手にやさしい角度に置き直さないための、勇気》

 《それでもいつか、破る未来が、
 両手いっぱいで怖い。
 破らない未来は、もっと怖い。
 だから、今日のところは未送信で、
 月を撮る練習だけする》

 保存。
 目を閉じて、呼吸を数える。
 一、二、三。
 眠りに落ちる寸前、スマホがかすかに震えた。
 『寝る前にだけ。
 澪の“また”、好きだよ』
 『また』
 と送り返す。
 “また”が一つ、胸の中で灯って、やわらかい熱を残した。

 *

 火曜の夜、約束どおり、同じ時間に月を撮った。
 肘を机に、息は止めすぎない。
 シャッター音が小さく鳴り、画面に丸い月が現れる。確かに、昨日より少し欠けている。
 同時に、彼からも写真。
 「同じくらい欠けたね」と送ると、「同じくらい、埋められる?」と返ってくる。
 『埋める、ってどうやって』
 『今日の一行で』
 『今日の一行』
 未送信欄を閉じて、送信のほうに打つ。

 『今日の一行:牛乳に青じその匂いがまざった夕方』

 『今日の一行:沈黙の中で、呼吸が線になった』

 画面を見ながら、僕は台所の隅に新しく置かれた祖母のきゅうりを思い出す。
 薄く切って塩でもみ、白ごまを少し振る。
 それだけで、夏がひと皿できあがる。
 僕らの“今日”も、そんなふうにシンプルで、でもしっかり味のあるひと皿でいい。
 「明日も、同じ時間に月」
 『うん。今夜より、少し欠けてるはず』
 『欠けるぶん、書く』
 『読む』

 “書く”と“読む”が、橋みたいにかかる。
 渡るたびに、足の裏が少しあたたまる。
 落ちる心配は、不思議となかった。

 ライトを消す前、もう一度だけ未送信欄を開く。
 最初に置いた三分の沈黙の記憶が、そこに静かに眠っている。
 指先でなぞる。
 《また、話そう》
 同じ言葉を、今日も胸に移す。
 既読のつかない優しさは、自分の内側でだけ温まって、眠りの底に届いた。

 ――第5話、了。