土曜日の朝は、平日の延長みたいに始まる。
 いつものとおり、カーテンの隙間を指でひらいて白を一口吸い、口の中の眠気を薄める。冷蔵庫から牛乳を出してマグに少しだけ注ぎ、電子レンジで二十秒。温まりすぎない温度にして、パンは四枚切りを半分。バターは隅において、ナイフで角を崩す。母はまだ寝ている。台所の蛍光灯は白く、流しの金属の縁に細い光を走らせる。

 スマホは伏せてある。
 約束の時間は午前十時。
 昨夜、「話すよ」とメッセージが落ちて、胸の奥の固い部分がぎゅっと鳴った。固いのは怖さで、でも同時に、信じたいと思っている部分の硬度でもある。

 九時半を少し過ぎて、テーブルを拭く。
 牛乳の輪っかが小さく残っていて、ふきんでゆっくり円を描くと消える。
 消えるけれど、きっとどこかに残っている。
 生活の痕跡は、そういう薄さで積み重なる。

 洗面所で歯を磨いて戻ると、スマホが小さく一度だけ震えた。
 背中に小さい音が入って、肩甲骨の間で止まる。
 画面を起こす。

 『おはよう。
 十時、予定どおり』

 『おはよう。
 大丈夫』

 指先の油を拭き取り、机に肘をついて、姿勢を決める。
 座面に深く腰を入れて、画面の光に視線を合わせる。
 約束の時間が近づくと、部屋の空気が少しだけ薄くなる。
 緊張は、酸素を静かに食べる。

 十時。
 最初の一文が届くまでは、長い。

 『転校したのは、親の仕事の都合。
 でも、それだけじゃない』

 一拍置いて、指が進む。

 『中一の冬、俺、少し荒れてた。
 部活でケンカして、先生とも合わなかった。
 澪がノート貸してくれて、俺、やっと落ちついた』

 僕は画面の明るさをひと目盛り下げた。
 目の奥が、熱くなる。
 僕には、そんな記憶はない。
 ノートを貸したことは、あったかもしれない。
 でも、彼のその冬の温度を、僕は持っていない。

 『俺、助けられた。
 だから、澪に返したいって、ずっと思ってた』

 淡々とした打鍵の間から、熱が滲む。
 言葉の端に指先を置くと、体温が伝わる。
 僕は呼吸を整え、ゆっくり、ゆっくり吐く。

 『返さなくていい』

 ようやく送る。

 『俺も、あんまり上手くやれてないから』

 三秒。
 五秒。
 既読の青が静かに灯る。

 『知ってる』

 どうして、と思いながら、涙が出た。
 朝の光は泣き顔にやさしくない。
 けれど、誰にも見られない涙は、現実よりも深い位置でこぼれる。
 ティッシュを一枚だけ取って、目頭に軽く触れる。
 温かい水が皮膚の上に細い道を作って、顎の少し手前で行き場をなくす。

 『大丈夫だよ。
 澪は、ちゃんと大丈夫』

 根拠のない言葉に、救われることがある。
 生活の中で無数に発せられる「大丈夫」の中には、空のものもある。
 でも、いまは空じゃない。
 この「大丈夫」は、彼の生活の温度で温められて、僕の場所に届いている。

 「うん」と打つかわりに、僕はキッチンへ立って、ケトルに水を入れた。
 スイッチを入れる。
 湯が沸く前の、底から立ち上がってくる小さな泡の音がする。
 あの音は、いつも準備の音だ。
 音を聞きながら、僕は机に戻る。

 『それでね』

 と彼は続ける。

 『転校先、うまく馴染めなかった。
 誰にでもあるやつ、って思ってたけど、
 俺の場合は少し長引いた』

 『中一の終わりに転校して、中二の春で、
 部活もいったんやめて、
 授業だけ、出たり出なかったりして、
 親と先生で話し合いがあって、』

 『俺は、そのあいだ、
 見えない席に座ってた気がする』

 見えない席。
 昨日まで話していた「席順」が、違う意味で形を持つ。
 ケトルがコトコトと音を増やす。
 沸騰の直前だけ、音が澄む。
 スイッチが上がる直前の白い静けさ。
 僕はカップにティーバッグを落とし、湯を注ぐ。
 紅茶の色が、牛乳の輪っかと違って、部屋に残る。
 香りが布に吸い込まれていく。

 『見えない席って、どんな?』

 僕が送ると、彼は少し考えてから打った。

 『先生の声が届く場所と、
 届かない場所の、
 ちょうど境目みたいなとこ』

 『聞こうと思えば聞こえるけど、
 聞きたくない日は、
 自分だけ別の部屋にいるような』

 その比喩は、やさしくて、痛い。
 僕は紅茶の湯気をゆっくり吸う。
 鼻に少し熱い香りが抜ける。

 『友だちは、いた?』

 『いた。
 でも、“いる”に自分が入らない日もあった』

 『俺、そういう日も助けられてたの、知らなかった』

 『知ってほしくて、話してるわけじゃないから。
 ただ、澪に預けたいだけ』

 “預ける”という言い方は、受け取る側に優しい。
 「聞け」でも「覚えろ」でもない。
 預けるから、いつか返して、でも忘れててもいい、という余白がある。
 僕は「読むよ」と打って、もう一度送る。
 『読むよ』
 『読むよ』
 同じ文を二度送るのは、祈りに似ている。

 しばらく、彼は自分の弱さと、転校先での孤立のことを少しずつ書いた。
 いじめ、という単語は出てこなかった。
 でも、そこに似た温度の空気は、行間に薄く立ちのぼる。
 「仲間外れ」よりも目に見えない形で、体温を奪う空気。
 その空気は、読んでいる僕の頬の側面を冷やす。
 僕はアドバイスをしない。
 “正しい言葉”は、いまは要らない。

 『読むよ』

 とだけ、繰り返す。

 母が起きてきて、台所でコップを探す音がする。
 「紅茶ある?」
 「ある。新しいの淹れる?」
 「ううん。ひと口だけ」
 カップを差し出すと、母は口をつけて、「あ、いい香り」と言った。
 生活の短い会話が、部屋を一度明るくする。
 母が去ったあと、部屋には紅茶の香りだけが残る。

 『先生に、
 “がんばらなくていい”って言われた日、
 どうしてか、怒った』

 『がんばらなくていい、は、
 その日だけの優しさだと、
 うまく受け取れないときがある』

 『でも、
 澪に“おつかれ”って打ってもらえた日は、
 怒らなかった』

 僕は、自分の未送信欄を思い出す。
 《会いたい、は駄目かな》
 《“好き”って言葉、怖い》
 《聞く準備、しておく》
 そのどれも、いま机の上の空気に薄く溶けている。
 僕は一行を足す。

 《読んでる。息してる。ここにいる》

 送らない。
 送らないから、体内に残る。

 正午を過ぎる。
 時計の針が、静かに重なる。
 生活は、目盛りでできている。
 食べる時間、洗う時間、干す時間。
 そして、読む時間。
 今日の読む時間は、長い。
 長いけれど、疲れない。
 彼の文は、長くても、呼吸が整っている。

 ひと段落した気配が、画面に落ちた。
 テキストの余白が広がる。
 そこに、ふいの問いが置かれる。

 『俺たち、いつまで“会わない”でいけるかな』

 心臓が一度、速くなる。
 机の木目が急に鮮やかに見える。
 窓の外で、風鈴が鳴ったのか、気のせいか。

 『文字だけで、どこまで近づけるか、試したい』

 “試す”という言葉は、希望の形をしている。
 失敗したら傷つく形でもあるけれど、訓練すれば上手くなるものに似ている。
 写真みたいに。
 息を止めれば、ぶれない可能性が上がる。

 僕は考え、よく考える。
 未送信欄に長い文を置く。

 《もう限界って言って》

 置いて、消す。
 “限界”の二文字は、心に重く立つ。
 立ったあと、どこかへ倒れそうになる。
 倒れると誰かに当たる。
 当たる相手が、彼しかいないのは、怖い。

 代わりに、短く。

 『試そう』

 送る。
 既読。
 待つ。
 画面の明るさをもうひと目盛り下げる。
 光が柔らかくなって、僕の顔の輪郭が少し消える。

 『ありがとう』

 返ってきて、しばらく、文は止まった。
 午後の日差しが、机の上で方向を変える。
 影がゆっくり伸びる。
 僕は洗濯機を回しながら、台所で出汁をとる。
 昆布を水につけておいたボウルから、静かに引き上げる。
 昆布の表面のぬめりが指に残って、水道で軽く流す。
 鰹節をひとつかみ。
 白い湯気の中に、海の匂いがふわりと立つ。
 小鍋が「ぽっ」と音を立てる。

 洗濯が終わる音が鳴って、ベランダに出る。
 Tシャツを二回振って、肩のしわを伸ばす。
 ピンチでとめるとき、布の厚さを指で確かめる。
 指先が柔らかいものに触れると、心も柔らかくなる。
 生活の触覚は、心の触覚に直結している。
 そのことに、最近ようやく気づく。

 夕方、母の自転車のブレーキ音が玄関の前で止まる。
 「ただいま」
 「おかえり」
 買い物袋から、青じそと新生姜がのぞく。
 夕飯は鶏そぼろ丼にしよう、ということになった。
 生姜を刻む音がまな板に当たり、台所が夕方の色で満ちる。
 玉子をほぐすボウルに砂糖を少しと塩をひとつまみ。
 火を弱めて、箸で円を描く。
 粒がそろっていくのを見るのは、気持ちがいい。
 整うものを見ると、整わない自分の一部が、すこしだけ落ち着く。

 夜。
 時計が九時半を指す頃、通知が落ちた。

 『ご褒美に、俺の弱点一つ教える』

 “ご褒美”の語感が、少しくすぐったい。
 『弱点?』
 『笑うなよ』
 『笑わない』
 『写真、送る』

 届いたのは、洗面台の鏡。
 縁に細い水滴が並び、上のほうに付箋が三つ四つ貼られている。
 “encourage 励ます”“hesitate ためらう”“glimpse ちらりと見る”。
 丸い、意外とかわいい字。
 付箋の端が一枚だけ少しめくれて、歯磨き粉の白い粒が重なっている。

 『字、丸いのな』

 送って、すぐに指が止まる。
 茶化すつもりじゃなかったけれど、軽くなりすぎたかもしれない。
 既読。
 一秒の間。

 『バカにした?』

 『してない。
 好き』

 “好き”が、つるっと指を滑り抜けて送信された。
 心臓が、凍る。
 送信ボタンの赤い後光を、初めて見た気がする。
 指先が冷たくなって、手のひらで汗が出る。
 矛盾する体が、机の上に置き場所を探す。

 三秒後。

 『俺も』

 たった二文字。
 意味は曖昧だ。
 “字が好き”に対する“俺も”かもしれないし、
 その先の大きな“好き”に対するものかもしれない。
 曖昧なまま、部屋の空気が柔らかくなる。
 窓の外の夜は同じなのに、音が少し遠くなった。
 冷房の風が、優しく感じる。

 『……どっち?』

 と指が動きかけて、止まる。
 未送信欄に落とす。

 《それ、どっちの“好き”?》

 保存。
 画面を閉じる。
 部屋は一段暗くなる。
 暗くなると、心は、少し明るい。
 見えない席で、僕は立ち上がって、別の椅子を引く。
 “会わない”ルールの中で、僕らは座る場所を変え続けている。
 文字の温度が、椅子の座面を温める速度で、少しずつ近づく。

 ベッドに潜る。
 天井の白は、夜になると紙のように薄くなる。
 その薄さに、昼間の牛乳の輪っかが、どこかで重なる。
 重なる記憶は、眠りをやわらかくする。
 目を閉じる前、もう一度だけ未送信欄を開く。
 《読んでる。息してる。ここにいる》
 その一行を指でなぞって、また保存する。
 保存は送信よりも勇気がいらない。
 でも、保存を重ねることが、いまは僕の強さだ。
 たぶん。

 翌朝、カーテンの隙間の白は昨日より薄く、空気は麦茶の氷みたいにすぐ溶けた。
 僕はゆっくりとその白を吸い込んで、今日の始まりを均す。
 未読はない。
 ないことに、安心する。
 安心することに、少しだけ笑う。
 “限界”は、まだ先だ。
 “試す”は、今日もここにある。
 台所で味噌汁を温め直し、昨夜の鶏そぼろを小さな容器に詰める。
 弁当の隙間に、青じそを一枚はさむ。
 蓋を閉める前、そぼろの面が崩れていないか指で確かめる。
 整っている。
 今日の僕も、たぶん、大丈夫。
 そう思える朝は、少し甘い。

 ***

 月曜。
 学校の廊下で、いつもの階段の風を一口食べる。
 晴から一行。

 『“好き”の件、
 答え、未送信で持っておく』

 『了解』

 “了解”は、ここでは約束の形をしている。
 送られない答えは、僕の中でだけ、静かに色づく。
 それでいい。
 いまはそれで、いい。

 教室に戻る。
 席は前のほう。
 黒板の白は、まだ少し眩しい。
 でも、眩しさの向こう側で、誰かの声が届く。
 “誰か”は、もう曖昧じゃない。
 名前で呼ぶには、まだ一枚の空白が必要だ。
 その空白を愛せるうちに、僕はもう少し、文字の温度で進む。
 未送信欄に、一行だけそっと足す。

 《また、話そう》

 送らない。
 でも、届いている。
 僕がここにいる間じゅう、ずっと。

 ――第4話、了。