席替えは、季節の境目に似ている。
 昨日まで当たり前だった窓の景色が、今日からは少し遠くなる。僕は「窓際の二列目」から前のほうへ。前といっても黒板の真ん前じゃない、先生の声がそのまま直撃してくる角度より、ほんの少し斜め。朝の光が強すぎて、黒板の白線が滲み、チョークの粉が宙に散る。その粉の粒に、見えない席順が書かれている気がした。

 「ノート、見せてくれ」

 隣に座った男子が小声で言う。新しい席の隣は、たぶん体育でよく汗をかくタイプの、前髪の長い人。苗字を覚えようとして、黒板の端に貼られた席表を見上げる。名前は、山瀬。
 「いいよ」
 僕はページの角を少し折って、見やすく向ける。机の間に生まれる狭い影の中で、彼は「さんきゅ」と言って、シャーペンの先を僕の筆圧の跡どおりになぞった。
 この角度だと、先生の声は少し硬い。板書のペースも早く見える。黒板の左端の語句に焦点を合わせると、右端が白く滲む。目を戻す。
 ポケットの中のスマホは静かで、でも僕の耳は通知の気配にだけ敏感だ。耳の奥で、何も鳴っていない音が鳴る。鳴っていないのに鳴るのは、期待のせいだ。

 午前の授業は、いつもより早く終わった気がした。
 チャイムが鳴ると同時に、クラスがほどける。僕は鞄の中へスマホを手繰り寄せて、廊下に出る。人の流れが重なる場所を避け、体育館へ続く階段の途中で立ち止まる。
 階段は風の通り道だ。僕はよくここで風を食べる。薄いパンの耳みたいに乾いた空気をかじって、喉に少しだけ風の味を残す。

 親指で画面を起こす。“おはよう”と昼の間の短い点々。その間に、いつもの声が落ちている。

 『席替え、どうだった?』

 朝霧 晴翔の問いは、いつも的確で、やさしい。
 『前の方。黒板、まぶしい』
 すぐに返ってくる。
 『眩しいの嫌いだろ』
 どれだけ僕を知っているんだよ、と苦笑する。
 『前も、窓際の二列目だったから』
 指が止まる。
 『……覚えてるの?』
 と打ちかけて、消す。彼の記憶は、僕の知らない僕を保存している。保存というより、折り畳んで大切にしまってある。
 代わりに、短く。
 『記憶力いいな』
 『必要なやつだけ、覚える』
 『それ、ずるい』
 『澪に関しては、ずるい自覚ある』

 階段の踊り場で、僕は柵に背中を預ける。体育館からバスケットボールの弾む音が二度跳ねて、遠ざかる。
 「窓際の二列目」。それは、僕の中でひとつの定数だ。窓のガラス越しに差し込む光の角度、黒板との距離、背中に当たる空調の風量。自分の輪郭が溶けずに済む位置。
 でも今日は違う位置だ。

 『眩しい時の対策、ある?』
 『目を細める』
 『それ、対策って言わない』
 『じゃあ、ノートを盾にする』
 『先生の矢、刺さるよ』
 『刺さらないように角度調整する』
 『賢い』
 階段の風が少し強くなる。スマホの画面の端に光が立って、それが一瞬だけ白を強くする。僕は目を細める。
 眩しいのは嫌いだけど、光がある場所が嫌いなわけじゃない。光はいつも、黒の形をくっきりさせるから。

 昼休み。
 購買のコロッケパンは、前の列の女子二人のところで売り切れた。僕は牛乳と、少し硬いバターロールを買う。
 教室に戻るのが面倒で、さっきの階段に座り込む。足の裏にひんやりした冷たさが移る。牛乳の紙パックの口を開けると、紙の繊維が指に引っかかる感触。
 『お昼、なに』
 晴からのメッセージ。
 『バターロール。牛乳』
 『保育園の王様メニュー』
 『誉め言葉?』
 『最高のやつ』
 『そっちは』
 『コッペパン、マーガリン。なぜマーガリン』
 『賛否あるやつ』
 『賛の代表者』
 『じゃあ平和だな』
 『平和だ』

 短いやり取りが、日常の点をゆるく線で結んでくれる。
 “平和”という言葉は、うっかり使うと薄くなるけれど、彼との「平和」は、薄くならない。温かい牛乳みたいに、静かにお腹に残る。

 午後の授業は、板書が多かった。新しい席で、文字を追いかける速度を体に覚えさせる。
 隣の山瀬が、時々、僕が線を引いた語の意味を聞いてくる。
 「ここ、“比喩”って何?」
 「たとえ」
 「“たとえ”のほうが分かる」
 「先生が“比喩”で黒板に書いたから」
 「だよな」
 ひそひそ話しながらも、僕の内側は別の音に集中していた。
 通知は鳴らない。鳴らないけれど、鳴る気配がする。
 こういうとき、“会わない”ルールが、かえって安心をくれる。
 顔を覗かれない。声の調子を測られない。
 文字で、ちょうどの距離に立てる。

 放課後、図書室に寄る。
 窓の影が机の上に格子のように落ちて、ノートの行と交差する。
 正方形の連続の中で、僕は今日の晩ごはんの材料を思い浮かべる。冷蔵庫の豚こま、葱、卵。
 未送信欄を開き、そこに一行。

 《晴はどこでこの空を見てるんだろ》

 指が浮く。送らない。
 僕らは「会わない」を守りながら、同じ時刻に同じ月を撮る。
 その儀式は、少し滑稽で、少し神聖だ。
 ピントが甘くても、画面越しの月は、ちゃんと丸い。
 丸いという事実があるだけで、言葉がひとつ減ってくれる。

 貸出カウンターの横には、季節の本の棚。
 『夏の保存食』『昼のパン』『窓辺の植物』。
 「保存食」のページをぱらぱらとめくると、梅のシロップの作り方に、氷砂糖の角が光っていた。
 生活は、角が光る瞬間をときどき見せる。
 その角を指で触る前に、スマホが小さく震えた。

 『英語、小テの範囲どこ?』

 『Lesson6』
 『ありがとう』
 『どういたしまして』
 それから、晴は一行ずつ、準備していることを送ってくる。
 『ノート、見返す』
 『眠くならない方法、募集中』
 『コーヒー』
 『飲めない。麦茶で頑張る』
 『麦茶、氷多め派』
 『同じ』

 同じ。
 同じの数が、日に日に増える。
 同じに重なると、安心が増える。
 違うが交じると、興味が増える。
 どちらも、減らない。

 図書室を出るとき、窓の格子の影が少し伸びていた。
 この時間の影は、手を伸ばしても届かない。
 届かないものを見つめる時間が、最近は好きだ。

 夜。
 月は昨日より欠けていた。
 息を止めて、肘を机に置いて、シャッターを切る。
 送られてきた晴の月と僕の月は、同じくらいブレていて、同じくらい優しかった。
 『同時にブレた』
 『連帯したな』
 『月の連帯』
 『大義名分、強め』
 笑いながら、僕は未送信欄を開く。
 そこに、またひとつ落とす。

 《“好き”って言葉、怖い》

 送れない。
 “好き”は外に出した瞬間、形を持ってしまう。
 形を持ったものは、置き場所が必要だ。
 まだ置き場所を用意できていない。
 僕はスマホを伏せ、机の上の消しゴムのかけらを集める。
 それから、晴が送ってきたのはアイスの写真だった。
 円筒形の紙カップ。蓋を剥がしたばかりで、表面が少しだけ溶けている。
 『今日、初めて買った味。甘すぎ』
 思わず笑ってしまう。
 『今度、半分こにしような』
 と打って、消す。
 代わりに、
 『甘すぎのやつは、最初の一口が正解』
 と送る。
 『分かる』
 『二口目から、評価が乱れる』
 『名言でスクショ』
 『やめろ』
 『圧迫フォルダ』
 『それ昨日も言った』
 『言った。圧迫したいから』
 『好き勝手』
 『未送信欄に“好き勝手”入れといて』
 『……了解』

 了解の四文字が、胸のどこかに静かに置かれる。
 言葉を置く場所が、少しずつ整っていく。

 ***

 翌朝、席替えの二日目は、昨日よりも眩しさに目が慣れた。
 黒板の白は、まだ少し滲む。
 先生のチョークの先が折れる音が、教室の空気に細く刺さる。
 隣の山瀬が、机の下でスマホを覗こうとして、すぐやめる。
 「やべ、見ない。テスト前の俺、偉い」
 「偉い」
 「澪って、なんか“窓際”っぽかったよな」
 「前はそうだった」
 「窓際って、逃げてる感じ?」
 「むしろ安心」
 「安心、な」
 山瀬は、意味を咀嚼するみたいに頷いた。
 「俺は、黒板の文字の粉が飛んでくるの、ちょっと好きかも」
 「目に悪い」
 「青春に悪い、よりマシ」
 「青春、どこで消耗してる」
 「主に早起き」
 それは僕も同意だ。青春の一部は、確実に早起きに奪われる。

 二時間目と三時間目の間、廊下の掲示板の前で、晴からメッセージ。

 『窓際の二列目は、澪のホームポジション』

 『今日のホームは、前』
 『なら、臨時で俺が窓になる』
 『どういう理屈』
 『眩しかったら、文を細くする』
 『細く?』
 『眩しいときに太い文字は、目に痛いから』
 『今、普通に優しいこと言ってる』
 『普通に優しい日がある』
 『しょっちゅうだろ』
 『ばれた』

 文を細くする。その言い方に、救われる。
 字の太さを変えるように、距離も温度も少しずつ変えられると、知る。
 僕はスマホをしまって、教室に戻る。
 先生の声は硬い。でも、さっきよりも耳に優しい。
 晴が窓になってくれたかもしれない、と思う。

 昼休み、牛乳のパックを開けたところで、田端が「席、慣れた?」と聞く。
 「慣れつつある」
 「窓際から前って、進級した気分だよな」
 「進級するたびに、光は強くなる」
 「詩人かよ」
 「眠いだけ」
 「お前、最近文字が楽しいだろ」
 「……まあ」
 「“まあ”って言い方、前と違う」
 田端はそう言って、焼きそばパンを半分くれた。「交換しない」と言った僕に無理やり置いて、彼はバスケの約束に走っていった。

 午後、情報の時間。
 パソコン室は空調が効いていて、眠気が増す。
 画面のブルーライトより、机の木目のほうが落ち着く。
 ふいに、晴から短い問題。
 『今日の英語、小テの範囲どこ?』
 『Lesson6』
 『助かる』
 『どういたしまして』
 僕らの一問一答は、クイズ番組みたいで、正解しても拍手は鳴らない。
 代わりに、未送信欄で小さな音が鳴る。
 それで十分だ。

 放課後。
 図書室へ。
 今日の窓の影は、昨日よりも濃い。
 格子の線の間隔が、心拍みたいに一定で、そこにノートを置く。
 “席順”という文字を、試しに小さく書く。
 黒の線が、格子の影と交差して、新しい四角が生まれる。
 席順は紙に印刷されるけれど、ほんとうの席順は、たぶん目に見えないところで決まっている。
 声の届き方。視線の届き方。
 ふと、未送信欄に落とす。

 《晴は、今の僕を、どの席だと思ってる?》

 送らない。
 「会わない」からこそ、座標は語らないでいられる。
 語らないことが、たしかに届くことがある。

 家に帰ると、玄関に冷気が溜まっていた。
 母はまだ買い物。僕は台所の蛇口をひねり、水を飲む。
 冷たい水の道が喉を通って、胃の入口で小さな音を立てる。
 その音のすぐ後で、スマホが震えた。

 『中三のとき、澪が配られた席順表を嫌って、ノートの裏に自分の好きな席順書いてたの、覚えてる』

 胸がきゅ、と鳴る。
 そんな細部なんて、僕の記憶にはない。
 ノートの裏に、自由な座標を描いた自分。
 顔が熱くなる。台所の蛍光灯が、やけに白い。

 『見てたのか』

 送ってから、指先がじん、と痺れる。
 すぐに返ってくる。

 『うん。
 澪は、窓際二列目が安心する』

 たしかに、そうだ。
 たしかに、そうだった。
 “安心”という言葉が、胸骨の裏側にそっと貼られる。
 僕は呼吸を一つ置いて、打つ。

 『じゃあ、今の僕、どこに座ってる?』

 答えは既に分かっているのに、わざと聞く。
 わざと聞くのは、確認のためじゃない。
 言葉にしてもらうことで、今の僕が、僕のものになるから。

 間を置いて、通知が落ちる。

 『窓じゃなく、誰かの隣。
 誰かの声が届く席』

 もう一つ、続く。

 『俺の声が届く席』

 台所の蛍光灯の白が、少しやわらぐ。
 誰かの声が届く席。
 その「誰か」を、彼は迷わずに一人称で書いた。
 僕は台所の床に座り込んで、足首を抱える。
 足首の内側に触れる指の体温で、自分がここにいることが分かる。

 『聞こえてる』

 とだけ送る。
 『なら、よかった』
 短い文が、台所のタイルに吸い込まれる。

 夕飯は、豚と葱と卵の他人丼。
 母が卵を流し入れるタイミングを少し外して、黄身が固まってしまう。
 「今日の黄身は、しっかり者」
 「それはそれで美味い」
 「優しいこと言う」
 「腹が減ってるだけ」
 他愛ない会話。
 他人丼は、名前からして他人を勝手に抱え込む料理だ。
 茶碗の中の他人と自分を混ぜて食べる。
 混ざり方は、毎回ちがう。

 部屋に戻って、宿題を終わらせる。
 窓の外は、今日も薄い。
 僕は机の上にスマホを置いて、両手を膝の上に重ねる。
 未送信欄を開く。
 透明な吹き出しが、今日もそこにある。

 《“好き”って言葉、怖い》

 “怖い”の正体は、たぶん置き場所だ。
 言葉をどこに置くか。
 置いた後、どんな色に変わるか。
 手の中にあるうちは透明でも、光に当たれば色がつく。
 僕は指でスクロールして、朝に書いた一行を読み返す。
 《晴はどこでこの空を見てるんだろ》
 場所を聞かない優しさ。
 聞かないから届く声。
 僕は、送らないままにしておく。

 十一時をすぎた頃、画面がふっと明るくなる。
 『アイス、第二弾。今日は別の味。少し苦い』
 写真には、前回より濃い色の表面。
 『それは勝ちのやつ』
 『勝ち』
 『少しもらう』
 『半分こにしような、って今打って、消した』
 心臓が一度、大きく跳ねる。
 『じゃあ、俺も打って消す。
 “半分こにしような”』
 『了解』
 『未送信欄、圧迫』
 『圧迫して生きてく』

 笑って、目を閉じる。
 笑いが、少しだけ涙に近い。
 “会わない”の中で、座る場所を選び直す。
 窓際の二列目から、前へ。
 窓の光は遠くなったけれど、代わりに、誰かの声が届く席を手に入れた。
 “誰か”はもう、曖昧じゃない。

 布団の中で、もう一度だけ画面をつける。
 未送信欄の下のほうに、別の透明な吹き出しを作る。

 《窓際じゃなくても、落ち着ける理由ができた》

 送らない。
 送らないまま、胸に置く。
 置いたことを忘れないように、指先で胸のあたりをそっと押す。
 そこに、彼の声が届く。
 届いた声は、言葉になる前の温度に戻って、僕を眠らせる。

 ――第3話、了。