席替えは、季節の境目に似ている。
昨日まで当たり前だった窓の景色が、今日からは少し遠くなる。僕は「窓際の二列目」から前のほうへ。前といっても黒板の真ん前じゃない、先生の声がそのまま直撃してくる角度より、ほんの少し斜め。朝の光が強すぎて、黒板の白線が滲み、チョークの粉が宙に散る。その粉の粒に、見えない席順が書かれている気がした。
「ノート、見せてくれ」
隣に座った男子が小声で言う。新しい席の隣は、たぶん体育でよく汗をかくタイプの、前髪の長い人。苗字を覚えようとして、黒板の端に貼られた席表を見上げる。名前は、山瀬。
「いいよ」
僕はページの角を少し折って、見やすく向ける。机の間に生まれる狭い影の中で、彼は「さんきゅ」と言って、シャーペンの先を僕の筆圧の跡どおりになぞった。
この角度だと、先生の声は少し硬い。板書のペースも早く見える。黒板の左端の語句に焦点を合わせると、右端が白く滲む。目を戻す。
ポケットの中のスマホは静かで、でも僕の耳は通知の気配にだけ敏感だ。耳の奥で、何も鳴っていない音が鳴る。鳴っていないのに鳴るのは、期待のせいだ。
午前の授業は、いつもより早く終わった気がした。
チャイムが鳴ると同時に、クラスがほどける。僕は鞄の中へスマホを手繰り寄せて、廊下に出る。人の流れが重なる場所を避け、体育館へ続く階段の途中で立ち止まる。
階段は風の通り道だ。僕はよくここで風を食べる。薄いパンの耳みたいに乾いた空気をかじって、喉に少しだけ風の味を残す。
親指で画面を起こす。“おはよう”と昼の間の短い点々。その間に、いつもの声が落ちている。
『席替え、どうだった?』
朝霧 晴翔の問いは、いつも的確で、やさしい。
『前の方。黒板、まぶしい』
すぐに返ってくる。
『眩しいの嫌いだろ』
どれだけ僕を知っているんだよ、と苦笑する。
『前も、窓際の二列目だったから』
指が止まる。
『……覚えてるの?』
と打ちかけて、消す。彼の記憶は、僕の知らない僕を保存している。保存というより、折り畳んで大切にしまってある。
代わりに、短く。
『記憶力いいな』
『必要なやつだけ、覚える』
『それ、ずるい』
『澪に関しては、ずるい自覚ある』
階段の踊り場で、僕は柵に背中を預ける。体育館からバスケットボールの弾む音が二度跳ねて、遠ざかる。
「窓際の二列目」。それは、僕の中でひとつの定数だ。窓のガラス越しに差し込む光の角度、黒板との距離、背中に当たる空調の風量。自分の輪郭が溶けずに済む位置。
でも今日は違う位置だ。
『眩しい時の対策、ある?』
『目を細める』
『それ、対策って言わない』
『じゃあ、ノートを盾にする』
『先生の矢、刺さるよ』
『刺さらないように角度調整する』
『賢い』
階段の風が少し強くなる。スマホの画面の端に光が立って、それが一瞬だけ白を強くする。僕は目を細める。
眩しいのは嫌いだけど、光がある場所が嫌いなわけじゃない。光はいつも、黒の形をくっきりさせるから。
昼休み。
購買のコロッケパンは、前の列の女子二人のところで売り切れた。僕は牛乳と、少し硬いバターロールを買う。
教室に戻るのが面倒で、さっきの階段に座り込む。足の裏にひんやりした冷たさが移る。牛乳の紙パックの口を開けると、紙の繊維が指に引っかかる感触。
『お昼、なに』
晴からのメッセージ。
『バターロール。牛乳』
『保育園の王様メニュー』
『誉め言葉?』
『最高のやつ』
『そっちは』
『コッペパン、マーガリン。なぜマーガリン』
『賛否あるやつ』
『賛の代表者』
『じゃあ平和だな』
『平和だ』
短いやり取りが、日常の点をゆるく線で結んでくれる。
“平和”という言葉は、うっかり使うと薄くなるけれど、彼との「平和」は、薄くならない。温かい牛乳みたいに、静かにお腹に残る。
午後の授業は、板書が多かった。新しい席で、文字を追いかける速度を体に覚えさせる。
隣の山瀬が、時々、僕が線を引いた語の意味を聞いてくる。
「ここ、“比喩”って何?」
「たとえ」
「“たとえ”のほうが分かる」
「先生が“比喩”で黒板に書いたから」
「だよな」
ひそひそ話しながらも、僕の内側は別の音に集中していた。
通知は鳴らない。鳴らないけれど、鳴る気配がする。
こういうとき、“会わない”ルールが、かえって安心をくれる。
顔を覗かれない。声の調子を測られない。
文字で、ちょうどの距離に立てる。
放課後、図書室に寄る。
窓の影が机の上に格子のように落ちて、ノートの行と交差する。
正方形の連続の中で、僕は今日の晩ごはんの材料を思い浮かべる。冷蔵庫の豚こま、葱、卵。
未送信欄を開き、そこに一行。
《晴はどこでこの空を見てるんだろ》
指が浮く。送らない。
僕らは「会わない」を守りながら、同じ時刻に同じ月を撮る。
その儀式は、少し滑稽で、少し神聖だ。
ピントが甘くても、画面越しの月は、ちゃんと丸い。
丸いという事実があるだけで、言葉がひとつ減ってくれる。
貸出カウンターの横には、季節の本の棚。
『夏の保存食』『昼のパン』『窓辺の植物』。
「保存食」のページをぱらぱらとめくると、梅のシロップの作り方に、氷砂糖の角が光っていた。
生活は、角が光る瞬間をときどき見せる。
その角を指で触る前に、スマホが小さく震えた。
『英語、小テの範囲どこ?』
『Lesson6』
『ありがとう』
『どういたしまして』
それから、晴は一行ずつ、準備していることを送ってくる。
『ノート、見返す』
『眠くならない方法、募集中』
『コーヒー』
『飲めない。麦茶で頑張る』
『麦茶、氷多め派』
『同じ』
同じ。
同じの数が、日に日に増える。
同じに重なると、安心が増える。
違うが交じると、興味が増える。
どちらも、減らない。
図書室を出るとき、窓の格子の影が少し伸びていた。
この時間の影は、手を伸ばしても届かない。
届かないものを見つめる時間が、最近は好きだ。
夜。
月は昨日より欠けていた。
息を止めて、肘を机に置いて、シャッターを切る。
送られてきた晴の月と僕の月は、同じくらいブレていて、同じくらい優しかった。
『同時にブレた』
『連帯したな』
『月の連帯』
『大義名分、強め』
笑いながら、僕は未送信欄を開く。
そこに、またひとつ落とす。
《“好き”って言葉、怖い》
送れない。
“好き”は外に出した瞬間、形を持ってしまう。
形を持ったものは、置き場所が必要だ。
まだ置き場所を用意できていない。
僕はスマホを伏せ、机の上の消しゴムのかけらを集める。
それから、晴が送ってきたのはアイスの写真だった。
円筒形の紙カップ。蓋を剥がしたばかりで、表面が少しだけ溶けている。
『今日、初めて買った味。甘すぎ』
思わず笑ってしまう。
『今度、半分こにしような』
と打って、消す。
代わりに、
『甘すぎのやつは、最初の一口が正解』
と送る。
『分かる』
『二口目から、評価が乱れる』
『名言でスクショ』
『やめろ』
『圧迫フォルダ』
『それ昨日も言った』
『言った。圧迫したいから』
『好き勝手』
『未送信欄に“好き勝手”入れといて』
『……了解』
了解の四文字が、胸のどこかに静かに置かれる。
言葉を置く場所が、少しずつ整っていく。
***
翌朝、席替えの二日目は、昨日よりも眩しさに目が慣れた。
黒板の白は、まだ少し滲む。
先生のチョークの先が折れる音が、教室の空気に細く刺さる。
隣の山瀬が、机の下でスマホを覗こうとして、すぐやめる。
「やべ、見ない。テスト前の俺、偉い」
「偉い」
「澪って、なんか“窓際”っぽかったよな」
「前はそうだった」
「窓際って、逃げてる感じ?」
「むしろ安心」
「安心、な」
山瀬は、意味を咀嚼するみたいに頷いた。
「俺は、黒板の文字の粉が飛んでくるの、ちょっと好きかも」
「目に悪い」
「青春に悪い、よりマシ」
「青春、どこで消耗してる」
「主に早起き」
それは僕も同意だ。青春の一部は、確実に早起きに奪われる。
二時間目と三時間目の間、廊下の掲示板の前で、晴からメッセージ。
『窓際の二列目は、澪のホームポジション』
『今日のホームは、前』
『なら、臨時で俺が窓になる』
『どういう理屈』
『眩しかったら、文を細くする』
『細く?』
『眩しいときに太い文字は、目に痛いから』
『今、普通に優しいこと言ってる』
『普通に優しい日がある』
『しょっちゅうだろ』
『ばれた』
文を細くする。その言い方に、救われる。
字の太さを変えるように、距離も温度も少しずつ変えられると、知る。
僕はスマホをしまって、教室に戻る。
先生の声は硬い。でも、さっきよりも耳に優しい。
晴が窓になってくれたかもしれない、と思う。
昼休み、牛乳のパックを開けたところで、田端が「席、慣れた?」と聞く。
「慣れつつある」
「窓際から前って、進級した気分だよな」
「進級するたびに、光は強くなる」
「詩人かよ」
「眠いだけ」
「お前、最近文字が楽しいだろ」
「……まあ」
「“まあ”って言い方、前と違う」
田端はそう言って、焼きそばパンを半分くれた。「交換しない」と言った僕に無理やり置いて、彼はバスケの約束に走っていった。
午後、情報の時間。
パソコン室は空調が効いていて、眠気が増す。
画面のブルーライトより、机の木目のほうが落ち着く。
ふいに、晴から短い問題。
『今日の英語、小テの範囲どこ?』
『Lesson6』
『助かる』
『どういたしまして』
僕らの一問一答は、クイズ番組みたいで、正解しても拍手は鳴らない。
代わりに、未送信欄で小さな音が鳴る。
それで十分だ。
放課後。
図書室へ。
今日の窓の影は、昨日よりも濃い。
格子の線の間隔が、心拍みたいに一定で、そこにノートを置く。
“席順”という文字を、試しに小さく書く。
黒の線が、格子の影と交差して、新しい四角が生まれる。
席順は紙に印刷されるけれど、ほんとうの席順は、たぶん目に見えないところで決まっている。
声の届き方。視線の届き方。
ふと、未送信欄に落とす。
《晴は、今の僕を、どの席だと思ってる?》
送らない。
「会わない」からこそ、座標は語らないでいられる。
語らないことが、たしかに届くことがある。
家に帰ると、玄関に冷気が溜まっていた。
母はまだ買い物。僕は台所の蛇口をひねり、水を飲む。
冷たい水の道が喉を通って、胃の入口で小さな音を立てる。
その音のすぐ後で、スマホが震えた。
『中三のとき、澪が配られた席順表を嫌って、ノートの裏に自分の好きな席順書いてたの、覚えてる』
胸がきゅ、と鳴る。
そんな細部なんて、僕の記憶にはない。
ノートの裏に、自由な座標を描いた自分。
顔が熱くなる。台所の蛍光灯が、やけに白い。
『見てたのか』
送ってから、指先がじん、と痺れる。
すぐに返ってくる。
『うん。
澪は、窓際二列目が安心する』
たしかに、そうだ。
たしかに、そうだった。
“安心”という言葉が、胸骨の裏側にそっと貼られる。
僕は呼吸を一つ置いて、打つ。
『じゃあ、今の僕、どこに座ってる?』
答えは既に分かっているのに、わざと聞く。
わざと聞くのは、確認のためじゃない。
言葉にしてもらうことで、今の僕が、僕のものになるから。
間を置いて、通知が落ちる。
『窓じゃなく、誰かの隣。
誰かの声が届く席』
もう一つ、続く。
『俺の声が届く席』
台所の蛍光灯の白が、少しやわらぐ。
誰かの声が届く席。
その「誰か」を、彼は迷わずに一人称で書いた。
僕は台所の床に座り込んで、足首を抱える。
足首の内側に触れる指の体温で、自分がここにいることが分かる。
『聞こえてる』
とだけ送る。
『なら、よかった』
短い文が、台所のタイルに吸い込まれる。
夕飯は、豚と葱と卵の他人丼。
母が卵を流し入れるタイミングを少し外して、黄身が固まってしまう。
「今日の黄身は、しっかり者」
「それはそれで美味い」
「優しいこと言う」
「腹が減ってるだけ」
他愛ない会話。
他人丼は、名前からして他人を勝手に抱え込む料理だ。
茶碗の中の他人と自分を混ぜて食べる。
混ざり方は、毎回ちがう。
部屋に戻って、宿題を終わらせる。
窓の外は、今日も薄い。
僕は机の上にスマホを置いて、両手を膝の上に重ねる。
未送信欄を開く。
透明な吹き出しが、今日もそこにある。
《“好き”って言葉、怖い》
“怖い”の正体は、たぶん置き場所だ。
言葉をどこに置くか。
置いた後、どんな色に変わるか。
手の中にあるうちは透明でも、光に当たれば色がつく。
僕は指でスクロールして、朝に書いた一行を読み返す。
《晴はどこでこの空を見てるんだろ》
場所を聞かない優しさ。
聞かないから届く声。
僕は、送らないままにしておく。
十一時をすぎた頃、画面がふっと明るくなる。
『アイス、第二弾。今日は別の味。少し苦い』
写真には、前回より濃い色の表面。
『それは勝ちのやつ』
『勝ち』
『少しもらう』
『半分こにしような、って今打って、消した』
心臓が一度、大きく跳ねる。
『じゃあ、俺も打って消す。
“半分こにしような”』
『了解』
『未送信欄、圧迫』
『圧迫して生きてく』
笑って、目を閉じる。
笑いが、少しだけ涙に近い。
“会わない”の中で、座る場所を選び直す。
窓際の二列目から、前へ。
窓の光は遠くなったけれど、代わりに、誰かの声が届く席を手に入れた。
“誰か”はもう、曖昧じゃない。
布団の中で、もう一度だけ画面をつける。
未送信欄の下のほうに、別の透明な吹き出しを作る。
《窓際じゃなくても、落ち着ける理由ができた》
送らない。
送らないまま、胸に置く。
置いたことを忘れないように、指先で胸のあたりをそっと押す。
そこに、彼の声が届く。
届いた声は、言葉になる前の温度に戻って、僕を眠らせる。
――第3話、了。
昨日まで当たり前だった窓の景色が、今日からは少し遠くなる。僕は「窓際の二列目」から前のほうへ。前といっても黒板の真ん前じゃない、先生の声がそのまま直撃してくる角度より、ほんの少し斜め。朝の光が強すぎて、黒板の白線が滲み、チョークの粉が宙に散る。その粉の粒に、見えない席順が書かれている気がした。
「ノート、見せてくれ」
隣に座った男子が小声で言う。新しい席の隣は、たぶん体育でよく汗をかくタイプの、前髪の長い人。苗字を覚えようとして、黒板の端に貼られた席表を見上げる。名前は、山瀬。
「いいよ」
僕はページの角を少し折って、見やすく向ける。机の間に生まれる狭い影の中で、彼は「さんきゅ」と言って、シャーペンの先を僕の筆圧の跡どおりになぞった。
この角度だと、先生の声は少し硬い。板書のペースも早く見える。黒板の左端の語句に焦点を合わせると、右端が白く滲む。目を戻す。
ポケットの中のスマホは静かで、でも僕の耳は通知の気配にだけ敏感だ。耳の奥で、何も鳴っていない音が鳴る。鳴っていないのに鳴るのは、期待のせいだ。
午前の授業は、いつもより早く終わった気がした。
チャイムが鳴ると同時に、クラスがほどける。僕は鞄の中へスマホを手繰り寄せて、廊下に出る。人の流れが重なる場所を避け、体育館へ続く階段の途中で立ち止まる。
階段は風の通り道だ。僕はよくここで風を食べる。薄いパンの耳みたいに乾いた空気をかじって、喉に少しだけ風の味を残す。
親指で画面を起こす。“おはよう”と昼の間の短い点々。その間に、いつもの声が落ちている。
『席替え、どうだった?』
朝霧 晴翔の問いは、いつも的確で、やさしい。
『前の方。黒板、まぶしい』
すぐに返ってくる。
『眩しいの嫌いだろ』
どれだけ僕を知っているんだよ、と苦笑する。
『前も、窓際の二列目だったから』
指が止まる。
『……覚えてるの?』
と打ちかけて、消す。彼の記憶は、僕の知らない僕を保存している。保存というより、折り畳んで大切にしまってある。
代わりに、短く。
『記憶力いいな』
『必要なやつだけ、覚える』
『それ、ずるい』
『澪に関しては、ずるい自覚ある』
階段の踊り場で、僕は柵に背中を預ける。体育館からバスケットボールの弾む音が二度跳ねて、遠ざかる。
「窓際の二列目」。それは、僕の中でひとつの定数だ。窓のガラス越しに差し込む光の角度、黒板との距離、背中に当たる空調の風量。自分の輪郭が溶けずに済む位置。
でも今日は違う位置だ。
『眩しい時の対策、ある?』
『目を細める』
『それ、対策って言わない』
『じゃあ、ノートを盾にする』
『先生の矢、刺さるよ』
『刺さらないように角度調整する』
『賢い』
階段の風が少し強くなる。スマホの画面の端に光が立って、それが一瞬だけ白を強くする。僕は目を細める。
眩しいのは嫌いだけど、光がある場所が嫌いなわけじゃない。光はいつも、黒の形をくっきりさせるから。
昼休み。
購買のコロッケパンは、前の列の女子二人のところで売り切れた。僕は牛乳と、少し硬いバターロールを買う。
教室に戻るのが面倒で、さっきの階段に座り込む。足の裏にひんやりした冷たさが移る。牛乳の紙パックの口を開けると、紙の繊維が指に引っかかる感触。
『お昼、なに』
晴からのメッセージ。
『バターロール。牛乳』
『保育園の王様メニュー』
『誉め言葉?』
『最高のやつ』
『そっちは』
『コッペパン、マーガリン。なぜマーガリン』
『賛否あるやつ』
『賛の代表者』
『じゃあ平和だな』
『平和だ』
短いやり取りが、日常の点をゆるく線で結んでくれる。
“平和”という言葉は、うっかり使うと薄くなるけれど、彼との「平和」は、薄くならない。温かい牛乳みたいに、静かにお腹に残る。
午後の授業は、板書が多かった。新しい席で、文字を追いかける速度を体に覚えさせる。
隣の山瀬が、時々、僕が線を引いた語の意味を聞いてくる。
「ここ、“比喩”って何?」
「たとえ」
「“たとえ”のほうが分かる」
「先生が“比喩”で黒板に書いたから」
「だよな」
ひそひそ話しながらも、僕の内側は別の音に集中していた。
通知は鳴らない。鳴らないけれど、鳴る気配がする。
こういうとき、“会わない”ルールが、かえって安心をくれる。
顔を覗かれない。声の調子を測られない。
文字で、ちょうどの距離に立てる。
放課後、図書室に寄る。
窓の影が机の上に格子のように落ちて、ノートの行と交差する。
正方形の連続の中で、僕は今日の晩ごはんの材料を思い浮かべる。冷蔵庫の豚こま、葱、卵。
未送信欄を開き、そこに一行。
《晴はどこでこの空を見てるんだろ》
指が浮く。送らない。
僕らは「会わない」を守りながら、同じ時刻に同じ月を撮る。
その儀式は、少し滑稽で、少し神聖だ。
ピントが甘くても、画面越しの月は、ちゃんと丸い。
丸いという事実があるだけで、言葉がひとつ減ってくれる。
貸出カウンターの横には、季節の本の棚。
『夏の保存食』『昼のパン』『窓辺の植物』。
「保存食」のページをぱらぱらとめくると、梅のシロップの作り方に、氷砂糖の角が光っていた。
生活は、角が光る瞬間をときどき見せる。
その角を指で触る前に、スマホが小さく震えた。
『英語、小テの範囲どこ?』
『Lesson6』
『ありがとう』
『どういたしまして』
それから、晴は一行ずつ、準備していることを送ってくる。
『ノート、見返す』
『眠くならない方法、募集中』
『コーヒー』
『飲めない。麦茶で頑張る』
『麦茶、氷多め派』
『同じ』
同じ。
同じの数が、日に日に増える。
同じに重なると、安心が増える。
違うが交じると、興味が増える。
どちらも、減らない。
図書室を出るとき、窓の格子の影が少し伸びていた。
この時間の影は、手を伸ばしても届かない。
届かないものを見つめる時間が、最近は好きだ。
夜。
月は昨日より欠けていた。
息を止めて、肘を机に置いて、シャッターを切る。
送られてきた晴の月と僕の月は、同じくらいブレていて、同じくらい優しかった。
『同時にブレた』
『連帯したな』
『月の連帯』
『大義名分、強め』
笑いながら、僕は未送信欄を開く。
そこに、またひとつ落とす。
《“好き”って言葉、怖い》
送れない。
“好き”は外に出した瞬間、形を持ってしまう。
形を持ったものは、置き場所が必要だ。
まだ置き場所を用意できていない。
僕はスマホを伏せ、机の上の消しゴムのかけらを集める。
それから、晴が送ってきたのはアイスの写真だった。
円筒形の紙カップ。蓋を剥がしたばかりで、表面が少しだけ溶けている。
『今日、初めて買った味。甘すぎ』
思わず笑ってしまう。
『今度、半分こにしような』
と打って、消す。
代わりに、
『甘すぎのやつは、最初の一口が正解』
と送る。
『分かる』
『二口目から、評価が乱れる』
『名言でスクショ』
『やめろ』
『圧迫フォルダ』
『それ昨日も言った』
『言った。圧迫したいから』
『好き勝手』
『未送信欄に“好き勝手”入れといて』
『……了解』
了解の四文字が、胸のどこかに静かに置かれる。
言葉を置く場所が、少しずつ整っていく。
***
翌朝、席替えの二日目は、昨日よりも眩しさに目が慣れた。
黒板の白は、まだ少し滲む。
先生のチョークの先が折れる音が、教室の空気に細く刺さる。
隣の山瀬が、机の下でスマホを覗こうとして、すぐやめる。
「やべ、見ない。テスト前の俺、偉い」
「偉い」
「澪って、なんか“窓際”っぽかったよな」
「前はそうだった」
「窓際って、逃げてる感じ?」
「むしろ安心」
「安心、な」
山瀬は、意味を咀嚼するみたいに頷いた。
「俺は、黒板の文字の粉が飛んでくるの、ちょっと好きかも」
「目に悪い」
「青春に悪い、よりマシ」
「青春、どこで消耗してる」
「主に早起き」
それは僕も同意だ。青春の一部は、確実に早起きに奪われる。
二時間目と三時間目の間、廊下の掲示板の前で、晴からメッセージ。
『窓際の二列目は、澪のホームポジション』
『今日のホームは、前』
『なら、臨時で俺が窓になる』
『どういう理屈』
『眩しかったら、文を細くする』
『細く?』
『眩しいときに太い文字は、目に痛いから』
『今、普通に優しいこと言ってる』
『普通に優しい日がある』
『しょっちゅうだろ』
『ばれた』
文を細くする。その言い方に、救われる。
字の太さを変えるように、距離も温度も少しずつ変えられると、知る。
僕はスマホをしまって、教室に戻る。
先生の声は硬い。でも、さっきよりも耳に優しい。
晴が窓になってくれたかもしれない、と思う。
昼休み、牛乳のパックを開けたところで、田端が「席、慣れた?」と聞く。
「慣れつつある」
「窓際から前って、進級した気分だよな」
「進級するたびに、光は強くなる」
「詩人かよ」
「眠いだけ」
「お前、最近文字が楽しいだろ」
「……まあ」
「“まあ”って言い方、前と違う」
田端はそう言って、焼きそばパンを半分くれた。「交換しない」と言った僕に無理やり置いて、彼はバスケの約束に走っていった。
午後、情報の時間。
パソコン室は空調が効いていて、眠気が増す。
画面のブルーライトより、机の木目のほうが落ち着く。
ふいに、晴から短い問題。
『今日の英語、小テの範囲どこ?』
『Lesson6』
『助かる』
『どういたしまして』
僕らの一問一答は、クイズ番組みたいで、正解しても拍手は鳴らない。
代わりに、未送信欄で小さな音が鳴る。
それで十分だ。
放課後。
図書室へ。
今日の窓の影は、昨日よりも濃い。
格子の線の間隔が、心拍みたいに一定で、そこにノートを置く。
“席順”という文字を、試しに小さく書く。
黒の線が、格子の影と交差して、新しい四角が生まれる。
席順は紙に印刷されるけれど、ほんとうの席順は、たぶん目に見えないところで決まっている。
声の届き方。視線の届き方。
ふと、未送信欄に落とす。
《晴は、今の僕を、どの席だと思ってる?》
送らない。
「会わない」からこそ、座標は語らないでいられる。
語らないことが、たしかに届くことがある。
家に帰ると、玄関に冷気が溜まっていた。
母はまだ買い物。僕は台所の蛇口をひねり、水を飲む。
冷たい水の道が喉を通って、胃の入口で小さな音を立てる。
その音のすぐ後で、スマホが震えた。
『中三のとき、澪が配られた席順表を嫌って、ノートの裏に自分の好きな席順書いてたの、覚えてる』
胸がきゅ、と鳴る。
そんな細部なんて、僕の記憶にはない。
ノートの裏に、自由な座標を描いた自分。
顔が熱くなる。台所の蛍光灯が、やけに白い。
『見てたのか』
送ってから、指先がじん、と痺れる。
すぐに返ってくる。
『うん。
澪は、窓際二列目が安心する』
たしかに、そうだ。
たしかに、そうだった。
“安心”という言葉が、胸骨の裏側にそっと貼られる。
僕は呼吸を一つ置いて、打つ。
『じゃあ、今の僕、どこに座ってる?』
答えは既に分かっているのに、わざと聞く。
わざと聞くのは、確認のためじゃない。
言葉にしてもらうことで、今の僕が、僕のものになるから。
間を置いて、通知が落ちる。
『窓じゃなく、誰かの隣。
誰かの声が届く席』
もう一つ、続く。
『俺の声が届く席』
台所の蛍光灯の白が、少しやわらぐ。
誰かの声が届く席。
その「誰か」を、彼は迷わずに一人称で書いた。
僕は台所の床に座り込んで、足首を抱える。
足首の内側に触れる指の体温で、自分がここにいることが分かる。
『聞こえてる』
とだけ送る。
『なら、よかった』
短い文が、台所のタイルに吸い込まれる。
夕飯は、豚と葱と卵の他人丼。
母が卵を流し入れるタイミングを少し外して、黄身が固まってしまう。
「今日の黄身は、しっかり者」
「それはそれで美味い」
「優しいこと言う」
「腹が減ってるだけ」
他愛ない会話。
他人丼は、名前からして他人を勝手に抱え込む料理だ。
茶碗の中の他人と自分を混ぜて食べる。
混ざり方は、毎回ちがう。
部屋に戻って、宿題を終わらせる。
窓の外は、今日も薄い。
僕は机の上にスマホを置いて、両手を膝の上に重ねる。
未送信欄を開く。
透明な吹き出しが、今日もそこにある。
《“好き”って言葉、怖い》
“怖い”の正体は、たぶん置き場所だ。
言葉をどこに置くか。
置いた後、どんな色に変わるか。
手の中にあるうちは透明でも、光に当たれば色がつく。
僕は指でスクロールして、朝に書いた一行を読み返す。
《晴はどこでこの空を見てるんだろ》
場所を聞かない優しさ。
聞かないから届く声。
僕は、送らないままにしておく。
十一時をすぎた頃、画面がふっと明るくなる。
『アイス、第二弾。今日は別の味。少し苦い』
写真には、前回より濃い色の表面。
『それは勝ちのやつ』
『勝ち』
『少しもらう』
『半分こにしような、って今打って、消した』
心臓が一度、大きく跳ねる。
『じゃあ、俺も打って消す。
“半分こにしような”』
『了解』
『未送信欄、圧迫』
『圧迫して生きてく』
笑って、目を閉じる。
笑いが、少しだけ涙に近い。
“会わない”の中で、座る場所を選び直す。
窓際の二列目から、前へ。
窓の光は遠くなったけれど、代わりに、誰かの声が届く席を手に入れた。
“誰か”はもう、曖昧じゃない。
布団の中で、もう一度だけ画面をつける。
未送信欄の下のほうに、別の透明な吹き出しを作る。
《窓際じゃなくても、落ち着ける理由ができた》
送らない。
送らないまま、胸に置く。
置いたことを忘れないように、指先で胸のあたりをそっと押す。
そこに、彼の声が届く。
届いた声は、言葉になる前の温度に戻って、僕を眠らせる。
――第3話、了。



