起きて最初にするのは、カーテンの隙間を親指と人さし指でひらいて、朝の白を一口だけ吸い込むことだ。
 六月の朝は、冷蔵庫から出したばかりの牛乳みたいに白くて、まだ固まらない。空気を一杯ぶんだけ胸に入れて、ゆっくり吐く。吐くときにちょっとだけ長くして、今日の始まりを均す。スマホの画面を上に置いて寝る癖は直っていないから、通知は見ようと思えばすぐ見える。だから、見ないで水道まで行って、顔を洗ってから戻る。

 水を拭くタオルは昨日の夜に取り替えたばかりで、綿の匂いがする。机の上に伏せてあったスマホをひっくり返すと、未読が一つ。アイコンの丸はグレーで、曇り空みたいな色。送ってきたのは、もちろん朝霧 晴翔だ。

 『おはようの代わりに。
 今日、体育の持久走ある?』

 寝癖を手ぐしで押さえながら、片手で返す。

 『ない。バスケ。
 晴は?』

 『自由走。
 朝の空、薄い青。
 チョークの粉が光ってる』

 一文の中に、音が何個も入っている。粉が光る音なんてないのに、そうだと分かる。僕は短く『同じ』と打って、トースターにパンを入れた。四枚切りを半分にして、母が買ってきたジャム(今年初めての瓶だ)は角がまだ鋭い。スプーンの背で角を崩すと、砂糖の甘さにわずかに苺の酸が混ざって、朝を現実に戻す。バターは冷蔵庫のいちばん奥にいるから、出すのがいつも少し遅れる。

 「澪、ハンカチ忘れないでよ」

 母の声。「うん」。洗面台の鏡に映る自分は、眠って起きたばかりの曖昧な輪郭で、でも目だけは少し明るい。トーストの焼ける音が、台所のタイルに小さく当たる。食パンの角を齧って、熱いミルクをマグから一口。塩タブレットを鞄に一つ落として、玄関の鍵を回す。

 学校までの途中、踏切の手前で猫が伸びをしている。朝の猫は、世界と平和条約を結んでいるみたいに無防備で、陽の白さの上を滑っていく。スマホはポケットの中。取り出さない。取り出さないことを自分に言い聞かせながら、自転車のサドルにまたがる。今日は風が向こうから来る。向かい風は嫌いじゃない。力の入れ方が分かりやすいから。

 教室に着いたら、田端が机に突っ伏していた。おでこを冷たい机に貼りつけると、少しだけ現実から逃げられるって、田端は昔から言う。「寝た?」と聞くと、親指を下にして小さく振る。「夢の入口まで」と彼は言って、ペンケースを枕にもう一度目をつぶる。席に着いて、窓を少し開ける。風がチョークの粉を運んできて、指先で空気の粒を掬うしぐさを、だれにも見られないように小さくやってみる。掬えないのに、掬った気配だけ手に残る。

 一時間目が始まる直前、スマホがそっと震えた。廊下で確認する。

 『今日の給食(うちは弁当ない日)、コッペパン。
 黄粉はないらしい』

 晴の学校はコッペパンが出る。僕の学校は弁当。違う学校の同じ時間に、違うパンの話をするのは、ちょっと面白い。
 『持久走がんばれ』と送って、教室に戻る。数学の小テストは昨日終わったのに、黒板の端に「一次関数→二次関数 橋渡し」という文字が残っている。橋渡し。関数の世界には橋が必要なんだと思う。人の世界にも、ときどき必要だ。

 *

 数日で、僕と晴のタイムラインにはリズムができた。
 起床のスタンプ(晴は丸い顔のクマ、僕はコップに入ったミニトマト。最近八百屋の試食で食べて以来、気に入っている)、昼の一言(「弁当に小さいピーマン」「こっちはポテサラ、少し酸っぱい」)、夜の少し長い手紙のような文。
 僕は文字数を増やすのが苦手で、晴は「澪の短文、好き」と言った。
 『なんで』
 『行間があるから』
 褒められているのに、くすぐったくて、背中がむずむずする。
 『行間に逃げてるだけかも』
 『逃げる先を持ってるのは強さ』
 強いなんて言葉、着慣れていないシャツみたいに肩がこる。「強いわけない」と打ちかけるのをやめて、「了解」と送る。了解という音は、角が立たない。会話の端に置いても、互いに怪我をしない。

 夜、歯を磨いたあと、机のスタンドライトをつけて、課題に向かう前に未送信欄を開くのが癖になった。透明な吹き出しは、見ているだけで心拍がゆっくりになる。
 《会いたい、は駄目かな》
 と一度書いて、消す。
 “駄目かな”の逃げ道に自分でつまずく。
 代わりに送ったのは、「今日の月、欠けてる」。
 少しして、晴から返事。
 『わかる。撮ってみる?』
 『どうやって』
 『ズームしない・肘つく・息止める。
 息止めすぎて倒れないこと』
 『努力する』
 『努力って言うときの澪、少し笑ってる』
 『なんで分かる』
 『絵文字の選び方が、そう』
 見透かされる安心と、見透かされる怖さが交互に押し寄せる。
 『今、笑ってる?』
 『……うん』
 『よかった』

 短い文で、夜の温度が一段上がる。温度が上がりすぎないのがいい。湯たんぽくらいの熱。布団の足もとに置いても、朝まで保つ。

 *

 「最近スマホ見る回数増えた?」
 放課後、廊下で田端に言われた。
 「別に」
 自動販売機の前で、カルピスソーダのボタンを押すか、麦茶のボタンを押すか、二秒だけ迷って麦茶を選ぶ。
 「別に、は完全にそういうときに使うやつ」
 「じゃあ別にじゃない」
 「素直でよろしい」
 田端は口で笑って、目で探ってくるような人だ。僕の変化を面白がっているのは分かる。
 「……誰?」
 「誰って何が」
 「いや、いい。言わなくていい」
 田端はそれ以上踏み込まない。踏み込まないことを選べる人は、信じられる。

 家に帰ると、母が「冷凍庫の霜、今度の土曜に落としたい」と言った。
 「いいよ。ケーキの保冷剤、出しておく?」
 「溶けるから直前に」
 「了解」
 台所には、生活の“了解”がたくさんある。柔軟剤の銘柄、卵を買う曜日、食器用洗剤を薄める比率。僕はそれを覚えるのが得意だ。役に立ちたいから、というより、役に立つルールが想像より優しくできているから。

 宿題をひと段落させて、机の上の消しゴムのかけらを集める。
 スマホが震える。時間は九時二十三分。
 『ルール、決めようか』
 その一文に、胸がこわばった。「ルール」と聞くと、固い紙に印刷された校則みたいで、一方的な命令の気配がする。呼吸を整えて、返す。
 『どんな』
 間があって、二行。

 『会わない。いまは。
 声や顔のニュアンスで誤魔化したくない。
 文字の温度でちゃんと知りたい』

 拒絶ではない、とすぐ分かった。むしろ余白を確保したいという提案だ。余白があれば、文字は呼吸できる。
 僕は迷って、迷ったことをそのまま手の中で転がして、
 『わかった』
 と打つ。
 送信する前に、一拍置いて、確認する。僕が納得しているか、と。
 うなずく。送信。既読はすぐ青になる。
 『ありがとう』と晴。
 『こちらこそ』と返す。
 “こちらこそ”は、薄い安全毛布だ。二人の間に一枚かけて、どちらかだけが寒い、を防ぐ。

 その夜から、やりとりは少しだけ深くなった。
 好きな音楽。眠れない夜の対処法。小学生の頃の失敗。
 晴はときどき、僕の記憶の穴をそっと埋める。
 『中一の運動会、リレーのバトン落としたとき、俺が拾って渡した』
 『覚えてる。あの時、ありがとな』
 指が自然に「ありがとな」を選ぶ。
 礼を言う場所がやっと見つかった感じがする。
 スマホの光は、まぶたの裏で小さく波紋になる。波紋は痛くない。静かに広がって、どこまでも響く。

 『俺、バトン落として泣いたっけ』
 『泣いてない。眉間にしわ寄っただけ』
 『よく見てる』
 『見てた』
 過去形の「見てた」が、現在形の優しさで包まれる。
 見られていたことに今、救われる。
 時間を跨いで救われるのは、たぶん恋の始まりに似ている。

 *

 “会わない”を決めてからの数日、会わないことの正しさを、生活が証明していく。
 朝は学校へ行って、授業を受けて、弁当を食べて、部活の声を遠くで聞いて、家に帰って、夕飯を食べて、皿を洗って、勉強をして、少しだけスマホの光に寄りかかる。
 会わないから、目の端に浮かぶ想像が、濁らない。
 声を知らないから、文字の温度がまっすぐ届く。
 “会わない”は制限ではなく選択だ。
 そう思える夜は、眠りが軽くなる。

 それでも、心臓は勝手に走る。
 通知が鳴るたび、拍が一拍ズレる。
 そんな自分がおかしくて、笑う。
 『今、笑ってる?』
 向こうから、すぐにくる。
 『なんで分かる』
 『絵文字の選び方が、そう』
 いつもと同じ笑顔の丸ではなく、今日は点がひとつ多い顔を選んでいたのかもしれない。絵文字の点の位置で、気持ちが読めるなんて、少し怖い。
 『見透かされるの、半分安心で半分怖い』
 『わかる。半分こにしよう』
 『どっちを』
 『安心を、澪に多めで』
 『そういう分け方ができるなら、世界はもうちょっと平和だな』
 『俺たちの世界は、案外平和だ』
 『それは同意』
 画面の光が弱くなって、僕の顔が薄く映る。
 “平和”の二文字を、こんなに静かに受け取ったのは、いつ以来だろう。

 *

 土曜、冷凍庫の霜を落とす。
 母が鍋でお湯を沸かす。僕は延長コードでドライヤーを引っ張ってきて、氷の心臓に熱を当てる。白い塊が少しずつ透明になっていって、重さで自分の殻を剥がす。
 「ほら、落ちるよ」
 母の声のすこし上で、氷のかけらが音を立てて落ちる。
 この“落ちる音”が好きだ。
 手伝いを終えて、タオルで手を拭いて、スマホを見る。
 『霜落とし中』と晴に送ると、『偉業』と返ってくる。
 『大げさだろ』
 『いや、家の偉業。
 暮らしの偉業は、気づかれないほど静か』
 『名言出たな』
 『スクショしとけ』
 『した』
 他愛ないやりとりの奥に、家の温度が流れている。
 僕らは自分の生活の温度を持ち寄って、同じ温度に調えることができているのかもしれない。

 午後、宿題を進める。
 英単語の“nuance”に線を引く。ニュアンス。
 声や顔のニュアンスで誤魔化したくない、と晴は言った。
 文字のニュアンスは、むしろ誤魔化せないのかもしれない。
 打鍵の速さ、文の長さ、改行の位置。どれもが体温を記録する。
 僕の短さに、彼は寄り添うように短くしてくれる。
 彼の長さに、僕は少しだけ伸びをする。
 その関係は、気持ちがいい。
 伸びをしても、まだ着られるセーターみたいに。

 『今日の夕飯、なに』
 夕方、彼からの問い。
 『鯖の味噌煮。大根と卵を一緒に煮るやつ』
 『勝ち』
 『何に』
 『世界に』
 『それは無謀』
 『鯖の味噌煮は、世界を救う』
 『明日の昼に残ってたら、救うか確かめる』
 『報告待つ』
 文字で笑って、鍋の蓋を少しだけ持ち上げる。湯気に味噌の匂いが混ざって、台所の壁紙にじわりと染みる。
 母が「生姜もう少し入れて」と言う。
 「了解」と返す声が、鍋に吸われていく。
 生姜を一枚増やすと、匂いの輪郭がくっきりする。
 匂いにも行間があることを知る。

 *

 夜半、彼が少しだけ重い話を置いた。
 『転校した理由、いつか話す』
 スマホを持つ手の汗が増える。
 “いつか”の位置は難しい。早すぎても遅すぎても、どこかが痛む。
 すぐに返したいのに、言葉が整列しない。
 「聞くよ」と打って、消す。
 「大丈夫?」と打って、消す。
 「無理しないで」と打って、消す。
 「いつでも」と打って、消す。
 僕は机に肘をついて、額を指先で押さえる。
 光の消えた画面に、自分の顔が映る。不器用だけど、約束は、たぶん守れる顔をしている。
 未送信欄に、一行だけ置く。
 《聞く準備、しておく》
 送らずに閉じる。
 閉じる前に、指が震える。
 震えは、恐れと期待の両方を含んでいる。
 僕は震えごと布団に潜り、目を閉じる。
 耳の奥で、湯の沸く音がする。小さな泡が鍋の底から上がってくる音。
 まだ沸騰していない。
 この静かな泡の時間を、たぶん“準備”と呼ぶ。

 *

 “会わない”を決めた翌週、生活は少しずつ、その決定に馴染んでいく。
 朝のスタンプ。昼の一言。夜の手紙。
 短い文で、今日はどんな温度だったかを交換する。
 『体育館、床が冷たかった』
 『知らない街の音が、夕方薄くなる』
 『スーパーの鮮魚、氷の匂いが勝ってた』
 暮らしの断片が、糸になる。
 糸はいつか布になる。
 布は、たぶん冬に役立つ。
 まだ夏の前なのに、僕はもう、冬の毛布のことを考える。想像の毛布を畳んで、心のクローゼットの奥にしまっておく。

 月の写真は、うまくいく日といかない日があった。
 ズームしない。肘をつく。息を止める。
 止めすぎると、笑ってしまって、手が震える。
 『今日はブレた』
 『俺も。
 同時にブレた可能性、ちょっと嬉しい』
 『なにそれ』
 『同時に失敗、は連帯の形だ』
 『哲学者か』
 『パンの凍死者、救い上げる哲学者』
 『それ、言ったの自分だからな』
 一行ずつ、ふざけながら、ふざけない。
 遊ぶ場所と、まじめな場所の境界が、自然にできていく。

 ある晩、彼が言った。
 『“ルール、もう一つ”って言っても怒らない?』
 『内容による』
 『“会いたい、は未送信で”』
 笑ってしまった。
 声は出していないけれど、喉の奥で一回跳ねる笑い。
 『了解。
 俺も、同意』
 『たぶん、未送信欄の混雑がひどい』
 『整理整頓がんばれ』
 『名目は“整理”でも、実態は“保管”』
 『分かる』
 同意の温度が、くらしの温度と同じだと心が軽くなる。
 この軽さは、誰かの責任にしなくていい。
 僕の手の中にいて、しばらくここにいる。

 *

 日曜の午後、窓を開けたら、遠くで誰かがピアノを弾いている。
 「エリーゼのために」の、明るいところ。ゆるい風が音符をちぎって、階段の踊り場に落とす。
 僕はベッドの上に仰向けになって、スマホを胸に置く。
 『澪』
 名前で呼ばれた文が落ちる。
 『ん』
 『“会わない”って決めたの、後悔してない?』
 画面の白がすこし広く見える。
 『してない。
 今は』
 『今は、って大事な言い方』
 『晴は?』
 『してない。
 顔を知らないで近づける場所、今しかないから』
 『顔、知ってるけどな。昔の』
 『昔の顔は、写真の中で止まってる。
 今の澪は、文字の中で動いてる』
 『名言その二だな』
 『全部、スクショ』
 『圧迫フォルダ』
 『圧迫してほしい。
 俺の今を、澪の中に』
 文字が、喉の奥に落ちる。
 飲み込むみたいに、ゆっくり読み返す。
 『圧迫気味で保存しとく』
 『ありがとう』
 “ありがとう”が矢印の形をしている日がある。
 僕に向かって飛んでくるのに、痛くない矢印。柔らかい素材でできていて、胸の前でぷすっと止まる。

 夕方、買い物に出る。
 豆腐、葱、豚こま。
 店内の涼しさは、一時的な避難所の感じがする。
 レジで袋詰めしていると、通知。
 『さっきの“いつか”の件。
 焦らせたくないから、先に言っとく。
 俺、元気。
 今は、ちゃんと元気』
 買い物袋の口を縛りながら、深く息をする。
 『了解。
 元気でいて』
 『うん』
 “うん”が柔らかい。
 柔らかさが、袋の底の豆腐みたいに少し心配で、でもこの心配は、悪くない。

 夜、冷房を弱にして、机に向かう。
 歴史のプリントに赤ペンで線を引く。
 “橋渡し”という言葉がまた出てくる。
 時代と時代の間に、必ず橋がある。
 人と人の間にも、きっと橋がある。
 その橋は、板一枚のときもあるし、石造りのときもある。
 今、僕らが渡っているのは、たぶん透明な橋だ。
 踏みしめるたびに、足の裏で微かに鳴る。
 音がしないのに、鳴る。
 その不思議を、信じたい。

 *

 ベッドに潜る前に、未送信欄を開く。
 透明な吹き出しが、今日もそこにある。
 カーソルの点滅がゆっくりで、心臓の拍と重なる。
 《会いたい、は駄目かな》
 ゆっくり読み返して、ゆっくり閉じる。
 閉じるとき、指が震えない。
 震えない夜は、眠りが早い。
 眠りの手前で、もう一つだけ短い文を、今度は送るほうに置く。

 『聞く準備、しておく』

 送信。
 既読はすぐ青になって、返事はこなかった。
 こないことが、今日はちょうどよかった。
 返事のない青が、部屋の暗さと同じ濃さで、僕の目の奥にやさしく沈む。
 スタンドライトを消す。
 窓の外で、小さな風が網戸に触れる音がした。
 音はしないのに、した。

 目を閉じる。
 “会わない”は、僕らが賭けた最初のやさしさだ。
 やさしさは、たぶん賭けだ。
 当たるか外れるかじゃなくて、賭けることでしか手に入らないものがあるという意味で。
 明日、また朝が来る。
 僕はカーテンの隙間を指でひらいて、白を一口吸う。
 昨日より、少しだけ甘い白だといい。
 それだけで、今日は始められる。

 ――第2話、了。