起きて最初にするのは、カーテンの隙間を親指と人さし指でひらいて、朝の白を一口だけ吸い込むことだ。
六月の朝は、冷蔵庫から出したばかりの牛乳みたいに白くて、まだ固まらない。空気を一杯ぶんだけ胸に入れて、ゆっくり吐く。吐くときにちょっとだけ長くして、今日の始まりを均す。スマホの画面を上に置いて寝る癖は直っていないから、通知は見ようと思えばすぐ見える。だから、見ないで水道まで行って、顔を洗ってから戻る。
水を拭くタオルは昨日の夜に取り替えたばかりで、綿の匂いがする。机の上に伏せてあったスマホをひっくり返すと、未読が一つ。アイコンの丸はグレーで、曇り空みたいな色。送ってきたのは、もちろん朝霧 晴翔だ。
『おはようの代わりに。
今日、体育の持久走ある?』
寝癖を手ぐしで押さえながら、片手で返す。
『ない。バスケ。
晴は?』
『自由走。
朝の空、薄い青。
チョークの粉が光ってる』
一文の中に、音が何個も入っている。粉が光る音なんてないのに、そうだと分かる。僕は短く『同じ』と打って、トースターにパンを入れた。四枚切りを半分にして、母が買ってきたジャム(今年初めての瓶だ)は角がまだ鋭い。スプーンの背で角を崩すと、砂糖の甘さにわずかに苺の酸が混ざって、朝を現実に戻す。バターは冷蔵庫のいちばん奥にいるから、出すのがいつも少し遅れる。
「澪、ハンカチ忘れないでよ」
母の声。「うん」。洗面台の鏡に映る自分は、眠って起きたばかりの曖昧な輪郭で、でも目だけは少し明るい。トーストの焼ける音が、台所のタイルに小さく当たる。食パンの角を齧って、熱いミルクをマグから一口。塩タブレットを鞄に一つ落として、玄関の鍵を回す。
学校までの途中、踏切の手前で猫が伸びをしている。朝の猫は、世界と平和条約を結んでいるみたいに無防備で、陽の白さの上を滑っていく。スマホはポケットの中。取り出さない。取り出さないことを自分に言い聞かせながら、自転車のサドルにまたがる。今日は風が向こうから来る。向かい風は嫌いじゃない。力の入れ方が分かりやすいから。
教室に着いたら、田端が机に突っ伏していた。おでこを冷たい机に貼りつけると、少しだけ現実から逃げられるって、田端は昔から言う。「寝た?」と聞くと、親指を下にして小さく振る。「夢の入口まで」と彼は言って、ペンケースを枕にもう一度目をつぶる。席に着いて、窓を少し開ける。風がチョークの粉を運んできて、指先で空気の粒を掬うしぐさを、だれにも見られないように小さくやってみる。掬えないのに、掬った気配だけ手に残る。
一時間目が始まる直前、スマホがそっと震えた。廊下で確認する。
『今日の給食(うちは弁当ない日)、コッペパン。
黄粉はないらしい』
晴の学校はコッペパンが出る。僕の学校は弁当。違う学校の同じ時間に、違うパンの話をするのは、ちょっと面白い。
『持久走がんばれ』と送って、教室に戻る。数学の小テストは昨日終わったのに、黒板の端に「一次関数→二次関数 橋渡し」という文字が残っている。橋渡し。関数の世界には橋が必要なんだと思う。人の世界にも、ときどき必要だ。
*
数日で、僕と晴のタイムラインにはリズムができた。
起床のスタンプ(晴は丸い顔のクマ、僕はコップに入ったミニトマト。最近八百屋の試食で食べて以来、気に入っている)、昼の一言(「弁当に小さいピーマン」「こっちはポテサラ、少し酸っぱい」)、夜の少し長い手紙のような文。
僕は文字数を増やすのが苦手で、晴は「澪の短文、好き」と言った。
『なんで』
『行間があるから』
褒められているのに、くすぐったくて、背中がむずむずする。
『行間に逃げてるだけかも』
『逃げる先を持ってるのは強さ』
強いなんて言葉、着慣れていないシャツみたいに肩がこる。「強いわけない」と打ちかけるのをやめて、「了解」と送る。了解という音は、角が立たない。会話の端に置いても、互いに怪我をしない。
夜、歯を磨いたあと、机のスタンドライトをつけて、課題に向かう前に未送信欄を開くのが癖になった。透明な吹き出しは、見ているだけで心拍がゆっくりになる。
《会いたい、は駄目かな》
と一度書いて、消す。
“駄目かな”の逃げ道に自分でつまずく。
代わりに送ったのは、「今日の月、欠けてる」。
少しして、晴から返事。
『わかる。撮ってみる?』
『どうやって』
『ズームしない・肘つく・息止める。
息止めすぎて倒れないこと』
『努力する』
『努力って言うときの澪、少し笑ってる』
『なんで分かる』
『絵文字の選び方が、そう』
見透かされる安心と、見透かされる怖さが交互に押し寄せる。
『今、笑ってる?』
『……うん』
『よかった』
短い文で、夜の温度が一段上がる。温度が上がりすぎないのがいい。湯たんぽくらいの熱。布団の足もとに置いても、朝まで保つ。
*
「最近スマホ見る回数増えた?」
放課後、廊下で田端に言われた。
「別に」
自動販売機の前で、カルピスソーダのボタンを押すか、麦茶のボタンを押すか、二秒だけ迷って麦茶を選ぶ。
「別に、は完全にそういうときに使うやつ」
「じゃあ別にじゃない」
「素直でよろしい」
田端は口で笑って、目で探ってくるような人だ。僕の変化を面白がっているのは分かる。
「……誰?」
「誰って何が」
「いや、いい。言わなくていい」
田端はそれ以上踏み込まない。踏み込まないことを選べる人は、信じられる。
家に帰ると、母が「冷凍庫の霜、今度の土曜に落としたい」と言った。
「いいよ。ケーキの保冷剤、出しておく?」
「溶けるから直前に」
「了解」
台所には、生活の“了解”がたくさんある。柔軟剤の銘柄、卵を買う曜日、食器用洗剤を薄める比率。僕はそれを覚えるのが得意だ。役に立ちたいから、というより、役に立つルールが想像より優しくできているから。
宿題をひと段落させて、机の上の消しゴムのかけらを集める。
スマホが震える。時間は九時二十三分。
『ルール、決めようか』
その一文に、胸がこわばった。「ルール」と聞くと、固い紙に印刷された校則みたいで、一方的な命令の気配がする。呼吸を整えて、返す。
『どんな』
間があって、二行。
『会わない。いまは。
声や顔のニュアンスで誤魔化したくない。
文字の温度でちゃんと知りたい』
拒絶ではない、とすぐ分かった。むしろ余白を確保したいという提案だ。余白があれば、文字は呼吸できる。
僕は迷って、迷ったことをそのまま手の中で転がして、
『わかった』
と打つ。
送信する前に、一拍置いて、確認する。僕が納得しているか、と。
うなずく。送信。既読はすぐ青になる。
『ありがとう』と晴。
『こちらこそ』と返す。
“こちらこそ”は、薄い安全毛布だ。二人の間に一枚かけて、どちらかだけが寒い、を防ぐ。
その夜から、やりとりは少しだけ深くなった。
好きな音楽。眠れない夜の対処法。小学生の頃の失敗。
晴はときどき、僕の記憶の穴をそっと埋める。
『中一の運動会、リレーのバトン落としたとき、俺が拾って渡した』
『覚えてる。あの時、ありがとな』
指が自然に「ありがとな」を選ぶ。
礼を言う場所がやっと見つかった感じがする。
スマホの光は、まぶたの裏で小さく波紋になる。波紋は痛くない。静かに広がって、どこまでも響く。
『俺、バトン落として泣いたっけ』
『泣いてない。眉間にしわ寄っただけ』
『よく見てる』
『見てた』
過去形の「見てた」が、現在形の優しさで包まれる。
見られていたことに今、救われる。
時間を跨いで救われるのは、たぶん恋の始まりに似ている。
*
“会わない”を決めてからの数日、会わないことの正しさを、生活が証明していく。
朝は学校へ行って、授業を受けて、弁当を食べて、部活の声を遠くで聞いて、家に帰って、夕飯を食べて、皿を洗って、勉強をして、少しだけスマホの光に寄りかかる。
会わないから、目の端に浮かぶ想像が、濁らない。
声を知らないから、文字の温度がまっすぐ届く。
“会わない”は制限ではなく選択だ。
そう思える夜は、眠りが軽くなる。
それでも、心臓は勝手に走る。
通知が鳴るたび、拍が一拍ズレる。
そんな自分がおかしくて、笑う。
『今、笑ってる?』
向こうから、すぐにくる。
『なんで分かる』
『絵文字の選び方が、そう』
いつもと同じ笑顔の丸ではなく、今日は点がひとつ多い顔を選んでいたのかもしれない。絵文字の点の位置で、気持ちが読めるなんて、少し怖い。
『見透かされるの、半分安心で半分怖い』
『わかる。半分こにしよう』
『どっちを』
『安心を、澪に多めで』
『そういう分け方ができるなら、世界はもうちょっと平和だな』
『俺たちの世界は、案外平和だ』
『それは同意』
画面の光が弱くなって、僕の顔が薄く映る。
“平和”の二文字を、こんなに静かに受け取ったのは、いつ以来だろう。
*
土曜、冷凍庫の霜を落とす。
母が鍋でお湯を沸かす。僕は延長コードでドライヤーを引っ張ってきて、氷の心臓に熱を当てる。白い塊が少しずつ透明になっていって、重さで自分の殻を剥がす。
「ほら、落ちるよ」
母の声のすこし上で、氷のかけらが音を立てて落ちる。
この“落ちる音”が好きだ。
手伝いを終えて、タオルで手を拭いて、スマホを見る。
『霜落とし中』と晴に送ると、『偉業』と返ってくる。
『大げさだろ』
『いや、家の偉業。
暮らしの偉業は、気づかれないほど静か』
『名言出たな』
『スクショしとけ』
『した』
他愛ないやりとりの奥に、家の温度が流れている。
僕らは自分の生活の温度を持ち寄って、同じ温度に調えることができているのかもしれない。
午後、宿題を進める。
英単語の“nuance”に線を引く。ニュアンス。
声や顔のニュアンスで誤魔化したくない、と晴は言った。
文字のニュアンスは、むしろ誤魔化せないのかもしれない。
打鍵の速さ、文の長さ、改行の位置。どれもが体温を記録する。
僕の短さに、彼は寄り添うように短くしてくれる。
彼の長さに、僕は少しだけ伸びをする。
その関係は、気持ちがいい。
伸びをしても、まだ着られるセーターみたいに。
『今日の夕飯、なに』
夕方、彼からの問い。
『鯖の味噌煮。大根と卵を一緒に煮るやつ』
『勝ち』
『何に』
『世界に』
『それは無謀』
『鯖の味噌煮は、世界を救う』
『明日の昼に残ってたら、救うか確かめる』
『報告待つ』
文字で笑って、鍋の蓋を少しだけ持ち上げる。湯気に味噌の匂いが混ざって、台所の壁紙にじわりと染みる。
母が「生姜もう少し入れて」と言う。
「了解」と返す声が、鍋に吸われていく。
生姜を一枚増やすと、匂いの輪郭がくっきりする。
匂いにも行間があることを知る。
*
夜半、彼が少しだけ重い話を置いた。
『転校した理由、いつか話す』
スマホを持つ手の汗が増える。
“いつか”の位置は難しい。早すぎても遅すぎても、どこかが痛む。
すぐに返したいのに、言葉が整列しない。
「聞くよ」と打って、消す。
「大丈夫?」と打って、消す。
「無理しないで」と打って、消す。
「いつでも」と打って、消す。
僕は机に肘をついて、額を指先で押さえる。
光の消えた画面に、自分の顔が映る。不器用だけど、約束は、たぶん守れる顔をしている。
未送信欄に、一行だけ置く。
《聞く準備、しておく》
送らずに閉じる。
閉じる前に、指が震える。
震えは、恐れと期待の両方を含んでいる。
僕は震えごと布団に潜り、目を閉じる。
耳の奥で、湯の沸く音がする。小さな泡が鍋の底から上がってくる音。
まだ沸騰していない。
この静かな泡の時間を、たぶん“準備”と呼ぶ。
*
“会わない”を決めた翌週、生活は少しずつ、その決定に馴染んでいく。
朝のスタンプ。昼の一言。夜の手紙。
短い文で、今日はどんな温度だったかを交換する。
『体育館、床が冷たかった』
『知らない街の音が、夕方薄くなる』
『スーパーの鮮魚、氷の匂いが勝ってた』
暮らしの断片が、糸になる。
糸はいつか布になる。
布は、たぶん冬に役立つ。
まだ夏の前なのに、僕はもう、冬の毛布のことを考える。想像の毛布を畳んで、心のクローゼットの奥にしまっておく。
月の写真は、うまくいく日といかない日があった。
ズームしない。肘をつく。息を止める。
止めすぎると、笑ってしまって、手が震える。
『今日はブレた』
『俺も。
同時にブレた可能性、ちょっと嬉しい』
『なにそれ』
『同時に失敗、は連帯の形だ』
『哲学者か』
『パンの凍死者、救い上げる哲学者』
『それ、言ったの自分だからな』
一行ずつ、ふざけながら、ふざけない。
遊ぶ場所と、まじめな場所の境界が、自然にできていく。
ある晩、彼が言った。
『“ルール、もう一つ”って言っても怒らない?』
『内容による』
『“会いたい、は未送信で”』
笑ってしまった。
声は出していないけれど、喉の奥で一回跳ねる笑い。
『了解。
俺も、同意』
『たぶん、未送信欄の混雑がひどい』
『整理整頓がんばれ』
『名目は“整理”でも、実態は“保管”』
『分かる』
同意の温度が、くらしの温度と同じだと心が軽くなる。
この軽さは、誰かの責任にしなくていい。
僕の手の中にいて、しばらくここにいる。
*
日曜の午後、窓を開けたら、遠くで誰かがピアノを弾いている。
「エリーゼのために」の、明るいところ。ゆるい風が音符をちぎって、階段の踊り場に落とす。
僕はベッドの上に仰向けになって、スマホを胸に置く。
『澪』
名前で呼ばれた文が落ちる。
『ん』
『“会わない”って決めたの、後悔してない?』
画面の白がすこし広く見える。
『してない。
今は』
『今は、って大事な言い方』
『晴は?』
『してない。
顔を知らないで近づける場所、今しかないから』
『顔、知ってるけどな。昔の』
『昔の顔は、写真の中で止まってる。
今の澪は、文字の中で動いてる』
『名言その二だな』
『全部、スクショ』
『圧迫フォルダ』
『圧迫してほしい。
俺の今を、澪の中に』
文字が、喉の奥に落ちる。
飲み込むみたいに、ゆっくり読み返す。
『圧迫気味で保存しとく』
『ありがとう』
“ありがとう”が矢印の形をしている日がある。
僕に向かって飛んでくるのに、痛くない矢印。柔らかい素材でできていて、胸の前でぷすっと止まる。
夕方、買い物に出る。
豆腐、葱、豚こま。
店内の涼しさは、一時的な避難所の感じがする。
レジで袋詰めしていると、通知。
『さっきの“いつか”の件。
焦らせたくないから、先に言っとく。
俺、元気。
今は、ちゃんと元気』
買い物袋の口を縛りながら、深く息をする。
『了解。
元気でいて』
『うん』
“うん”が柔らかい。
柔らかさが、袋の底の豆腐みたいに少し心配で、でもこの心配は、悪くない。
夜、冷房を弱にして、机に向かう。
歴史のプリントに赤ペンで線を引く。
“橋渡し”という言葉がまた出てくる。
時代と時代の間に、必ず橋がある。
人と人の間にも、きっと橋がある。
その橋は、板一枚のときもあるし、石造りのときもある。
今、僕らが渡っているのは、たぶん透明な橋だ。
踏みしめるたびに、足の裏で微かに鳴る。
音がしないのに、鳴る。
その不思議を、信じたい。
*
ベッドに潜る前に、未送信欄を開く。
透明な吹き出しが、今日もそこにある。
カーソルの点滅がゆっくりで、心臓の拍と重なる。
《会いたい、は駄目かな》
ゆっくり読み返して、ゆっくり閉じる。
閉じるとき、指が震えない。
震えない夜は、眠りが早い。
眠りの手前で、もう一つだけ短い文を、今度は送るほうに置く。
『聞く準備、しておく』
送信。
既読はすぐ青になって、返事はこなかった。
こないことが、今日はちょうどよかった。
返事のない青が、部屋の暗さと同じ濃さで、僕の目の奥にやさしく沈む。
スタンドライトを消す。
窓の外で、小さな風が網戸に触れる音がした。
音はしないのに、した。
目を閉じる。
“会わない”は、僕らが賭けた最初のやさしさだ。
やさしさは、たぶん賭けだ。
当たるか外れるかじゃなくて、賭けることでしか手に入らないものがあるという意味で。
明日、また朝が来る。
僕はカーテンの隙間を指でひらいて、白を一口吸う。
昨日より、少しだけ甘い白だといい。
それだけで、今日は始められる。
――第2話、了。
六月の朝は、冷蔵庫から出したばかりの牛乳みたいに白くて、まだ固まらない。空気を一杯ぶんだけ胸に入れて、ゆっくり吐く。吐くときにちょっとだけ長くして、今日の始まりを均す。スマホの画面を上に置いて寝る癖は直っていないから、通知は見ようと思えばすぐ見える。だから、見ないで水道まで行って、顔を洗ってから戻る。
水を拭くタオルは昨日の夜に取り替えたばかりで、綿の匂いがする。机の上に伏せてあったスマホをひっくり返すと、未読が一つ。アイコンの丸はグレーで、曇り空みたいな色。送ってきたのは、もちろん朝霧 晴翔だ。
『おはようの代わりに。
今日、体育の持久走ある?』
寝癖を手ぐしで押さえながら、片手で返す。
『ない。バスケ。
晴は?』
『自由走。
朝の空、薄い青。
チョークの粉が光ってる』
一文の中に、音が何個も入っている。粉が光る音なんてないのに、そうだと分かる。僕は短く『同じ』と打って、トースターにパンを入れた。四枚切りを半分にして、母が買ってきたジャム(今年初めての瓶だ)は角がまだ鋭い。スプーンの背で角を崩すと、砂糖の甘さにわずかに苺の酸が混ざって、朝を現実に戻す。バターは冷蔵庫のいちばん奥にいるから、出すのがいつも少し遅れる。
「澪、ハンカチ忘れないでよ」
母の声。「うん」。洗面台の鏡に映る自分は、眠って起きたばかりの曖昧な輪郭で、でも目だけは少し明るい。トーストの焼ける音が、台所のタイルに小さく当たる。食パンの角を齧って、熱いミルクをマグから一口。塩タブレットを鞄に一つ落として、玄関の鍵を回す。
学校までの途中、踏切の手前で猫が伸びをしている。朝の猫は、世界と平和条約を結んでいるみたいに無防備で、陽の白さの上を滑っていく。スマホはポケットの中。取り出さない。取り出さないことを自分に言い聞かせながら、自転車のサドルにまたがる。今日は風が向こうから来る。向かい風は嫌いじゃない。力の入れ方が分かりやすいから。
教室に着いたら、田端が机に突っ伏していた。おでこを冷たい机に貼りつけると、少しだけ現実から逃げられるって、田端は昔から言う。「寝た?」と聞くと、親指を下にして小さく振る。「夢の入口まで」と彼は言って、ペンケースを枕にもう一度目をつぶる。席に着いて、窓を少し開ける。風がチョークの粉を運んできて、指先で空気の粒を掬うしぐさを、だれにも見られないように小さくやってみる。掬えないのに、掬った気配だけ手に残る。
一時間目が始まる直前、スマホがそっと震えた。廊下で確認する。
『今日の給食(うちは弁当ない日)、コッペパン。
黄粉はないらしい』
晴の学校はコッペパンが出る。僕の学校は弁当。違う学校の同じ時間に、違うパンの話をするのは、ちょっと面白い。
『持久走がんばれ』と送って、教室に戻る。数学の小テストは昨日終わったのに、黒板の端に「一次関数→二次関数 橋渡し」という文字が残っている。橋渡し。関数の世界には橋が必要なんだと思う。人の世界にも、ときどき必要だ。
*
数日で、僕と晴のタイムラインにはリズムができた。
起床のスタンプ(晴は丸い顔のクマ、僕はコップに入ったミニトマト。最近八百屋の試食で食べて以来、気に入っている)、昼の一言(「弁当に小さいピーマン」「こっちはポテサラ、少し酸っぱい」)、夜の少し長い手紙のような文。
僕は文字数を増やすのが苦手で、晴は「澪の短文、好き」と言った。
『なんで』
『行間があるから』
褒められているのに、くすぐったくて、背中がむずむずする。
『行間に逃げてるだけかも』
『逃げる先を持ってるのは強さ』
強いなんて言葉、着慣れていないシャツみたいに肩がこる。「強いわけない」と打ちかけるのをやめて、「了解」と送る。了解という音は、角が立たない。会話の端に置いても、互いに怪我をしない。
夜、歯を磨いたあと、机のスタンドライトをつけて、課題に向かう前に未送信欄を開くのが癖になった。透明な吹き出しは、見ているだけで心拍がゆっくりになる。
《会いたい、は駄目かな》
と一度書いて、消す。
“駄目かな”の逃げ道に自分でつまずく。
代わりに送ったのは、「今日の月、欠けてる」。
少しして、晴から返事。
『わかる。撮ってみる?』
『どうやって』
『ズームしない・肘つく・息止める。
息止めすぎて倒れないこと』
『努力する』
『努力って言うときの澪、少し笑ってる』
『なんで分かる』
『絵文字の選び方が、そう』
見透かされる安心と、見透かされる怖さが交互に押し寄せる。
『今、笑ってる?』
『……うん』
『よかった』
短い文で、夜の温度が一段上がる。温度が上がりすぎないのがいい。湯たんぽくらいの熱。布団の足もとに置いても、朝まで保つ。
*
「最近スマホ見る回数増えた?」
放課後、廊下で田端に言われた。
「別に」
自動販売機の前で、カルピスソーダのボタンを押すか、麦茶のボタンを押すか、二秒だけ迷って麦茶を選ぶ。
「別に、は完全にそういうときに使うやつ」
「じゃあ別にじゃない」
「素直でよろしい」
田端は口で笑って、目で探ってくるような人だ。僕の変化を面白がっているのは分かる。
「……誰?」
「誰って何が」
「いや、いい。言わなくていい」
田端はそれ以上踏み込まない。踏み込まないことを選べる人は、信じられる。
家に帰ると、母が「冷凍庫の霜、今度の土曜に落としたい」と言った。
「いいよ。ケーキの保冷剤、出しておく?」
「溶けるから直前に」
「了解」
台所には、生活の“了解”がたくさんある。柔軟剤の銘柄、卵を買う曜日、食器用洗剤を薄める比率。僕はそれを覚えるのが得意だ。役に立ちたいから、というより、役に立つルールが想像より優しくできているから。
宿題をひと段落させて、机の上の消しゴムのかけらを集める。
スマホが震える。時間は九時二十三分。
『ルール、決めようか』
その一文に、胸がこわばった。「ルール」と聞くと、固い紙に印刷された校則みたいで、一方的な命令の気配がする。呼吸を整えて、返す。
『どんな』
間があって、二行。
『会わない。いまは。
声や顔のニュアンスで誤魔化したくない。
文字の温度でちゃんと知りたい』
拒絶ではない、とすぐ分かった。むしろ余白を確保したいという提案だ。余白があれば、文字は呼吸できる。
僕は迷って、迷ったことをそのまま手の中で転がして、
『わかった』
と打つ。
送信する前に、一拍置いて、確認する。僕が納得しているか、と。
うなずく。送信。既読はすぐ青になる。
『ありがとう』と晴。
『こちらこそ』と返す。
“こちらこそ”は、薄い安全毛布だ。二人の間に一枚かけて、どちらかだけが寒い、を防ぐ。
その夜から、やりとりは少しだけ深くなった。
好きな音楽。眠れない夜の対処法。小学生の頃の失敗。
晴はときどき、僕の記憶の穴をそっと埋める。
『中一の運動会、リレーのバトン落としたとき、俺が拾って渡した』
『覚えてる。あの時、ありがとな』
指が自然に「ありがとな」を選ぶ。
礼を言う場所がやっと見つかった感じがする。
スマホの光は、まぶたの裏で小さく波紋になる。波紋は痛くない。静かに広がって、どこまでも響く。
『俺、バトン落として泣いたっけ』
『泣いてない。眉間にしわ寄っただけ』
『よく見てる』
『見てた』
過去形の「見てた」が、現在形の優しさで包まれる。
見られていたことに今、救われる。
時間を跨いで救われるのは、たぶん恋の始まりに似ている。
*
“会わない”を決めてからの数日、会わないことの正しさを、生活が証明していく。
朝は学校へ行って、授業を受けて、弁当を食べて、部活の声を遠くで聞いて、家に帰って、夕飯を食べて、皿を洗って、勉強をして、少しだけスマホの光に寄りかかる。
会わないから、目の端に浮かぶ想像が、濁らない。
声を知らないから、文字の温度がまっすぐ届く。
“会わない”は制限ではなく選択だ。
そう思える夜は、眠りが軽くなる。
それでも、心臓は勝手に走る。
通知が鳴るたび、拍が一拍ズレる。
そんな自分がおかしくて、笑う。
『今、笑ってる?』
向こうから、すぐにくる。
『なんで分かる』
『絵文字の選び方が、そう』
いつもと同じ笑顔の丸ではなく、今日は点がひとつ多い顔を選んでいたのかもしれない。絵文字の点の位置で、気持ちが読めるなんて、少し怖い。
『見透かされるの、半分安心で半分怖い』
『わかる。半分こにしよう』
『どっちを』
『安心を、澪に多めで』
『そういう分け方ができるなら、世界はもうちょっと平和だな』
『俺たちの世界は、案外平和だ』
『それは同意』
画面の光が弱くなって、僕の顔が薄く映る。
“平和”の二文字を、こんなに静かに受け取ったのは、いつ以来だろう。
*
土曜、冷凍庫の霜を落とす。
母が鍋でお湯を沸かす。僕は延長コードでドライヤーを引っ張ってきて、氷の心臓に熱を当てる。白い塊が少しずつ透明になっていって、重さで自分の殻を剥がす。
「ほら、落ちるよ」
母の声のすこし上で、氷のかけらが音を立てて落ちる。
この“落ちる音”が好きだ。
手伝いを終えて、タオルで手を拭いて、スマホを見る。
『霜落とし中』と晴に送ると、『偉業』と返ってくる。
『大げさだろ』
『いや、家の偉業。
暮らしの偉業は、気づかれないほど静か』
『名言出たな』
『スクショしとけ』
『した』
他愛ないやりとりの奥に、家の温度が流れている。
僕らは自分の生活の温度を持ち寄って、同じ温度に調えることができているのかもしれない。
午後、宿題を進める。
英単語の“nuance”に線を引く。ニュアンス。
声や顔のニュアンスで誤魔化したくない、と晴は言った。
文字のニュアンスは、むしろ誤魔化せないのかもしれない。
打鍵の速さ、文の長さ、改行の位置。どれもが体温を記録する。
僕の短さに、彼は寄り添うように短くしてくれる。
彼の長さに、僕は少しだけ伸びをする。
その関係は、気持ちがいい。
伸びをしても、まだ着られるセーターみたいに。
『今日の夕飯、なに』
夕方、彼からの問い。
『鯖の味噌煮。大根と卵を一緒に煮るやつ』
『勝ち』
『何に』
『世界に』
『それは無謀』
『鯖の味噌煮は、世界を救う』
『明日の昼に残ってたら、救うか確かめる』
『報告待つ』
文字で笑って、鍋の蓋を少しだけ持ち上げる。湯気に味噌の匂いが混ざって、台所の壁紙にじわりと染みる。
母が「生姜もう少し入れて」と言う。
「了解」と返す声が、鍋に吸われていく。
生姜を一枚増やすと、匂いの輪郭がくっきりする。
匂いにも行間があることを知る。
*
夜半、彼が少しだけ重い話を置いた。
『転校した理由、いつか話す』
スマホを持つ手の汗が増える。
“いつか”の位置は難しい。早すぎても遅すぎても、どこかが痛む。
すぐに返したいのに、言葉が整列しない。
「聞くよ」と打って、消す。
「大丈夫?」と打って、消す。
「無理しないで」と打って、消す。
「いつでも」と打って、消す。
僕は机に肘をついて、額を指先で押さえる。
光の消えた画面に、自分の顔が映る。不器用だけど、約束は、たぶん守れる顔をしている。
未送信欄に、一行だけ置く。
《聞く準備、しておく》
送らずに閉じる。
閉じる前に、指が震える。
震えは、恐れと期待の両方を含んでいる。
僕は震えごと布団に潜り、目を閉じる。
耳の奥で、湯の沸く音がする。小さな泡が鍋の底から上がってくる音。
まだ沸騰していない。
この静かな泡の時間を、たぶん“準備”と呼ぶ。
*
“会わない”を決めた翌週、生活は少しずつ、その決定に馴染んでいく。
朝のスタンプ。昼の一言。夜の手紙。
短い文で、今日はどんな温度だったかを交換する。
『体育館、床が冷たかった』
『知らない街の音が、夕方薄くなる』
『スーパーの鮮魚、氷の匂いが勝ってた』
暮らしの断片が、糸になる。
糸はいつか布になる。
布は、たぶん冬に役立つ。
まだ夏の前なのに、僕はもう、冬の毛布のことを考える。想像の毛布を畳んで、心のクローゼットの奥にしまっておく。
月の写真は、うまくいく日といかない日があった。
ズームしない。肘をつく。息を止める。
止めすぎると、笑ってしまって、手が震える。
『今日はブレた』
『俺も。
同時にブレた可能性、ちょっと嬉しい』
『なにそれ』
『同時に失敗、は連帯の形だ』
『哲学者か』
『パンの凍死者、救い上げる哲学者』
『それ、言ったの自分だからな』
一行ずつ、ふざけながら、ふざけない。
遊ぶ場所と、まじめな場所の境界が、自然にできていく。
ある晩、彼が言った。
『“ルール、もう一つ”って言っても怒らない?』
『内容による』
『“会いたい、は未送信で”』
笑ってしまった。
声は出していないけれど、喉の奥で一回跳ねる笑い。
『了解。
俺も、同意』
『たぶん、未送信欄の混雑がひどい』
『整理整頓がんばれ』
『名目は“整理”でも、実態は“保管”』
『分かる』
同意の温度が、くらしの温度と同じだと心が軽くなる。
この軽さは、誰かの責任にしなくていい。
僕の手の中にいて、しばらくここにいる。
*
日曜の午後、窓を開けたら、遠くで誰かがピアノを弾いている。
「エリーゼのために」の、明るいところ。ゆるい風が音符をちぎって、階段の踊り場に落とす。
僕はベッドの上に仰向けになって、スマホを胸に置く。
『澪』
名前で呼ばれた文が落ちる。
『ん』
『“会わない”って決めたの、後悔してない?』
画面の白がすこし広く見える。
『してない。
今は』
『今は、って大事な言い方』
『晴は?』
『してない。
顔を知らないで近づける場所、今しかないから』
『顔、知ってるけどな。昔の』
『昔の顔は、写真の中で止まってる。
今の澪は、文字の中で動いてる』
『名言その二だな』
『全部、スクショ』
『圧迫フォルダ』
『圧迫してほしい。
俺の今を、澪の中に』
文字が、喉の奥に落ちる。
飲み込むみたいに、ゆっくり読み返す。
『圧迫気味で保存しとく』
『ありがとう』
“ありがとう”が矢印の形をしている日がある。
僕に向かって飛んでくるのに、痛くない矢印。柔らかい素材でできていて、胸の前でぷすっと止まる。
夕方、買い物に出る。
豆腐、葱、豚こま。
店内の涼しさは、一時的な避難所の感じがする。
レジで袋詰めしていると、通知。
『さっきの“いつか”の件。
焦らせたくないから、先に言っとく。
俺、元気。
今は、ちゃんと元気』
買い物袋の口を縛りながら、深く息をする。
『了解。
元気でいて』
『うん』
“うん”が柔らかい。
柔らかさが、袋の底の豆腐みたいに少し心配で、でもこの心配は、悪くない。
夜、冷房を弱にして、机に向かう。
歴史のプリントに赤ペンで線を引く。
“橋渡し”という言葉がまた出てくる。
時代と時代の間に、必ず橋がある。
人と人の間にも、きっと橋がある。
その橋は、板一枚のときもあるし、石造りのときもある。
今、僕らが渡っているのは、たぶん透明な橋だ。
踏みしめるたびに、足の裏で微かに鳴る。
音がしないのに、鳴る。
その不思議を、信じたい。
*
ベッドに潜る前に、未送信欄を開く。
透明な吹き出しが、今日もそこにある。
カーソルの点滅がゆっくりで、心臓の拍と重なる。
《会いたい、は駄目かな》
ゆっくり読み返して、ゆっくり閉じる。
閉じるとき、指が震えない。
震えない夜は、眠りが早い。
眠りの手前で、もう一つだけ短い文を、今度は送るほうに置く。
『聞く準備、しておく』
送信。
既読はすぐ青になって、返事はこなかった。
こないことが、今日はちょうどよかった。
返事のない青が、部屋の暗さと同じ濃さで、僕の目の奥にやさしく沈む。
スタンドライトを消す。
窓の外で、小さな風が網戸に触れる音がした。
音はしないのに、した。
目を閉じる。
“会わない”は、僕らが賭けた最初のやさしさだ。
やさしさは、たぶん賭けだ。
当たるか外れるかじゃなくて、賭けることでしか手に入らないものがあるという意味で。
明日、また朝が来る。
僕はカーテンの隙間を指でひらいて、白を一口吸う。
昨日より、少しだけ甘い白だといい。
それだけで、今日は始められる。
――第2話、了。



