八月の終わりは、急に来る。
 蝉の声が遠のき、空が高くなる。
 高くなった分だけ、胸の中の余白もすこし大きくなる。そこへ、風が出入りする。
 午前、ベランダに出しておいたサンダルの底は、日向でぬるくあたたまっていて、足を入れると夏の残り香が足裏に移った。冷蔵庫から麦茶を出し、氷を三つ落とす。カランという軽い音が、台所の白いタイルに跳ね返る。

 期末が終わってからの夏休みは、日付の輪郭がやわらいで、生活の音のほうがくっきりした。
 洗濯機の予告音、扇風機の首振り、窓の桟に溜まる光の粉。
 晴とは、相変わらず「一行日記」をやりとりしていた。
 『今日の一行:きゅうりを薄く切ると夏が増える』と僕が送れば、
 『今日の一行:洗面台の付箋、角がめくれて“まだ”の形になった』と返ってくる。
 “まだ”。
 それは、僕らの夏に最初から付いていた付箋の文字でもあった。

 昼。
 素麺を茹でて、氷水で締める。青じそを刻み、生姜をすりおろす。台所に小さく夏の雨が降る。
 母が通りすがりに「今日はトマトが当たり」と言って赤い皿を見せた。
 「勝ち」
 「勝ちの基準、甘い」
 「当たりは甘くていい」
 そんな会話が、台所の天井をやわらかく保つ。

 午後、彼からメッセージ。
 『このあとだけ、ルールを変えよう』
 “だけ”という一文字が、息の角度を変える。
 『どんなふうに?』
 『同じ時間に、同じ場所の空を撮ろう』
 『場所は、言わない?』
 『言わない。
 写真だけ、約束』
 “会わない”を守ったまま、限界まで近づく方法。
 彼の提案は、いつも実験みたいで、実用的だ。
 『19時』
 『了解』

 了解を送ってから、僕は机の引き出しを開け、未送信欄を覗いた。
 透明な吹き出しの列は、夏の洗濯物に似ている。
 一枚ずつ、言葉が乾いていく。
 乾いた言葉は軽くなって、でも匂いは残る。

 19時。
 駅前の歩道橋に向かう。
 いつも階段の踊り場で風を食べる癖が、今日は少し早い足取りになって表れる。
 歩道橋の上は、金属の手すりが昼の熱を押し返して、指先にぬるい温度を置いていった。
 西の雲が金に染まり、街灯はまだ灯っていない。
 人の流れはあるけれど、みんな別の方向を見ている。
 僕は欄干の向こうの空を仰ぎ、肘を軽くついて、深く吸う。息は、ここまでの夏のページを一枚ずつめくるみたいに、胸の内側を通っていく。

 3…2…1。
 シャッター。
 同時に、通知。
 画面に現れた写真には、見覚えのある欄干の影。
 角度、鉄の継ぎ目、夕焼けの反射。
 胸の奥の小さな器が、音を立てずにひっくり返る。
 顔を上げる。
 少し離れた向こう側に、白いTシャツの少年。
 スマホを胸に、同じ姿勢。
 髪が、金色の空を小さく削る。

 視線が、合った気がした。
 けれど、僕は動けない。
 “会わない”約束を、最後まで守りたかった。
 守ることが、いまの僕らの一番強い告白だから。
 もし近づいてしまったら、いま積み上がった未送信の塔が、音を立てて崩れるかもしれない。
 崩れた破片は痛い。
 でも、崩れずにいる塔も、別の仕方で痛い。
 痛みの種類を選ぶために、僕は立ち止まる。

 スマホを開く。
 未送信欄に指を滑らせ、書く。
 《好きだ。文字の速度で近づいた好きだ。
 これからは、声と顔でも、同じ速度で》
 送信ボタンの上で止まる。
 気配。
 向こうも、何かを打っている。
 彼が画面をこちらに掲げる。
 そこにも、同じ文があった。
 一字一句、似ている。
 たぶん、何十通もの未送信の重なりが、同じ形の頂点を選んだのだ。
 互いに“未送信”のまま、見せ合う。
 送らなくても届く瞬間が、ある。
 それはほんの一瞬で、でも、これまでの夏に匹敵した。

 蝉の声が途切れ、風が一度だけ吹く。
 髪が揺れて、光が滲む。
 誰もいない歩道橋で、ふたりの影が一瞬、重なった。
 影は、境界を越える唯一の合法だ。
 越えたところで、僕は笑った。
 頬の筋肉がやっと今日の居場所を見つけた、という種類の笑い。
 彼も少しだけ笑った気がした。
 気がした、で十分だ。
 気配の単位で、いまは充分。

 僕はスマホを閉じる。
 最後の未送信を、胸に伏せる。
 《また、話そう》
 最初に保存した一行と、同じ言葉。
 最初の一行で始まって、最後の一行で終わる。
 構成は、生活のレシピに似ている。
 材料が同じでも、出来る味は少しずつ違う。
 今日は、よく冷えた。

 *

 夜。
 家に帰ると、母が「おかえり」の代わりに「桃、冷えてるよ」と言った。
 「勝ち」
 「勝ちの意味が分からないけど、勝っててよかった」
 台所に桃の匂いがふんわり漂って、夏の角が丸くなる。
 皮をするすると剥いて、種の周りを小さくそいで皿に分ける。
 スプーンでひと口。甘い。やわらかい。
 甘さは、涙を呼びやすい。
 僕は水を飲んで味をいったん流す。
 味を流すと、声にならなかった言葉が浮き上がってくる。

 机に座り、スタンドライトを点ける。
 未送信欄を開くと、今日の一行がもう待っていた。
 《駅前の歩道橋、欄干の影、金色の空。
 君の白いTシャツは、夜になる直前の雲の色》
 保存。
 画面を閉じると、胸の中の紙が一枚、するすると剥がれ落ちた。

 晴からメッセージが落ちる。
 『今日の一行:同じ場所の空、同じ速度で明るくなったり暗くなったりする』
 『今日の二行目:未送信=告白
 そして、告白は日々更新』
 “更新”。
 僕らが夏のはじめに覚えた言葉だ。
 僕は返す。
 『更新、続けよう。
 “会わない”は、守り方を更新して、ゆっくり別の約束に変える』
 『別の約束?』
 『“会う”の準備』
 小さな間。
 『準備、うまくいきそう』
 『うまくいかなくても、うまくいく』
 『詩人』
 『生活の』
 『偉そう』
 『自覚ある』
 やりとりの端に、微笑のしみが残る。
 今日は、眠れる。

 *

 翌朝。
 氷の音で目が覚める。
 母が麦茶のピッチャーをボウルの氷で冷やしている。
 「今日、午後から夕立らしいよ」
 「窓、少しだけ閉めて出る」
 「お願い」
 台所でパンを焼き、蜂蜜を薄く塗る。
 蜂蜜の粘度は、朝の時間のゆっくりさに似ている。
 「行ってきます」
 「行ってらっしゃい(夏、持ち帰ってきて)」
 「二人分?」
 「欲張り」
 笑って家を出る。

 駅までの道で、晴から。
 『昨日、声を出して名前、呼びそうになった』
 『同じ』
 『呼ばなかった』
 『呼ばなかった』
 『未送信=告白、昨日は“見せ合う”で成立した』
 『成立』
 『じゃあ次は、未送信=合図、にしてみる?』
 『合図?』
 『“ここにいる”“息が合ってる”の合図。
 呼ばない代わりに、未送信で肩に手を置く』
 『了解』
 未送信で肩に手を置く。
 聞いたことのない比喩だけど、筋肉が理解した。
 僕は胸のあたりがほんの少し軽くなるのを感じた。

 学校の階段の踊り場で風を食べる。
 田端が横を通りながら「お前、最近“ここにいる”顔が板についてる」と言った。
 「褒めてる?」
 「褒めてる。誰の功績?」
 「生活」
 「半分はそれ。半分は、スマホに入ってる誰か」
 「誰かじゃない」
 田端はニヤッと笑い、「その言い方、良い」とだけ残して走っていった。

 *

 午後、雲が増える。
 理科室の窓に湿度が貼りついて、外の音が遠くなる。
 黒板に“層雲”と先生が書く。
 層の字が、夏の終わりの音に見える。
 晴から『層、多め』
 『こっちも』
 『同じ』
 同じの数が、季節の引き出しに静かに重なる。

 放課後、図書室の“夏の保存食”の棚で、梅シロップのページを開く。
 氷砂糖の角が光っている。
 角は、夏の終わりの手触りに似ている。
 甘いけれど、きちんと硬い。
 未送信欄に、すっと落ちる。
 《君の名前の角、今日も光ってる》
 保存。
 保存を繰り返すうちに、名前の角は僕のなかで丸くなったり、また角を立てたりする。
 その変化は、痛くない。
 呼吸に似ている。

 *

 夕方、教室の掃き出し窓の外で、最初の雷が遠く鳴った。
 雨粒がまばらに落ち、そのあと、早口の雨に変わる。
 雨の音は、生活の音をすべてやわらかくする。
 “会わない”の輪郭も少し溶ける。
 晴が一行。
 『今日の未送信、ひとつだけ:
 “終わらせないを、終わらせないでいたい”』
 僕は胸を押さえる。
 そこに、昨日の歩道橋の影がまだある。
 『今日の未送信、ひとつだけ:
 “名前は、呼ばなくても光る”』
 “ひとつだけ”を交換して、今日は終わる。
 それで充分な日がある。
 充分にしないと、うまく眠れない日があるから。

 *

 八月三十一日。
 夏休みの最後のページは、いつも走り書きで埋まる。
 宿題の終わり、冷蔵庫の中身の整理、鉛筆の芯の補充。
 母が「夕方、駅前で用事がある」と言った。
 「時間、何時?」
 「ちょうど19時くらい」
 「じゃあ、僕は歩道橋に、いない」
 「いない?」
 「いない」
 母は首をかしげ、「ちゃんといる場所に、ちゃんといて」と言った。
 「いる」
 その“いる”は、僕が今年覚え直した動詞だ。
 “会わない”の中で、どう“いる”か。
 その練習の夏だった。

 晴から。
 『最後に、宣言していい?』
 『どうぞ』
 『“未送信=告白”を、卒業後も更新する』
 『長期計画』
 『日次更新』
 『忙しい』
 『嬉しい忙しさ』
 『賛成』
 “賛成”の四文字を打った指は、思っていたよりも軽かった。
 僕は自分に驚く。
 “怖さ”は消えていないのに、“賛成”が先に出る。
 順番が入れ替わるだけで、景色の透明度は上がる。

 夜。
 窓を十センチだけ開ける。
 夏の最後の風は、薄い。
 薄いのに、よく届く。
 机の上のスタンドライトの明かりが、未送信欄の上に落ちる。
 指を置く。
 《好きだ。文字の速度で近づいた好きだ。
 これからは、声と顔でも、同じ速度で》
 昨日の一行を、今日の一行としてもう一度読み、もう一度、保存。
 保存の回数が、怖さの回数をやわらげる。
 やわらげたぶんだけ、眠りは深くなる。

 布団に入る前、晴の一行が届いた。
 『おやすみを打たない夜、澪の呼吸はちゃんとここに届く』
 『届いてる』
 『届いた』
 『じゃあ、また、話そう』
 『また、話そう』

 同じ言葉で、夏は閉じる。
 閉じた表紙は、少しだけ明るかった。
 光は、未送信の中で一番よく残る。
 それを、僕はこの夏で覚えた。

 *

 九月の朝。
 新学期の匂いは、ノートの紙と床用ワックスの混ざった匂い。
 教室の窓際の二列目は、もう僕の定位置じゃない。
 でも、誰かの声が届く席は、僕の中ではもう決まっている。
 ホームポジションは、距離じゃなく、温度で決まる。
 晴から、いつもの一行。
 『今日の一行:最初の授業、黒板の“はじめ”が少し傾いてかわいい』
 僕も送る。
 『今日の一行:未送信の塔、崩れないまま窓辺に建ってる』
 『そのうち、中にエレベーター付けよう』
 『上り? 下り?』
 『どっちも』
 『両立』
 『両立』

 両立の二文字が、今日の真ん中に置かれる。
 “会わない”と“会いたい”。
 “未送信”と“告白”。
 “距離”と“温度”。
 全部いっぺんには選べないから、毎日少しずつ更新する。
 それが、僕らの生活のやり方だ。
 それで十分だ。
 いまは、十分だ。

 最後に、未送信欄のいちばん下に、一行だけ置く。
 《また、話そう》
 最初の日からずっと変わらない、一行。
 この一行の寿命が、僕らのやりとりの寿命だ。
 長生きさせる。
 息を合わせて、同じ速度で。

 窓の外の空はもう秋色で、でも少しだけ明るかった。
 未送信=告白。
 僕らは、その更新を、今日も続ける。