入学から半年。
黒板の粉は、毎日同じ速さで空に溶けて、窓からさし込む光の帯がその粒をひっそり浮かび上がらせる。二時間目と三時間目の間の換気のとき、僕はよくそれを眺めていた。教室の空気が少しだけ入れ替わって、体育館から遅れてくるブラスバンドの音が風に薄められる。弁当箱のゴムバンドは、朝のうちに何度か手で引き伸ばしておくと昼には開けやすい。そんな小さな工夫を積み上げて、波の立たない日々を横並びにして暮らしている――のだと思っていた。
「藤崎、次、数学。小テストだってよ」
前の席の田端が、ペン回しを止めずに言う。二次関数。昨日のワークの最後の二問、微妙に不安が残っている。チャイムが鳴る少し前、クラスのLINEに先生が配布した範囲の画像を貼りつけようとして、僕は指を滑らせた。
アイコンの小さな丸が並ぶ画面で、僕の親指は集合体のどれか一つを選んで、そこに落ちた。送信。
白い吹き出しが個別トークにぽつんと表示される。
「明日の小テ、二次関数だから」
三秒。既読。
三秒。心臓。
三秒。呼び捨て。
『相変わらずだな、澪』
肩で小さく息を吸った。誰だ。僕を呼び捨てにする“相変わらず”の権利を持っているのは、家族を除けば、もう何年も前の夏に置いてきたはずの誰か以外にいない。
「すみません、どちら様でしょう?」と打ちかけて、消す。文の最初の「す」で気持ちが揺らぎ、カーソルが点滅する。点滅は心拍に似ていて、落ち着きを奪う。
画面の上の名前は英数字の羅列で、既読の青だけがはっきりしている。アイコンは曇り空のグレイ、輪郭のない雲。
授業の開始を告げるチャイムが鳴る。ポケットの中でスマホが軽く震えた気がして、でも机の中にしまっているから錯覚のはずで、僕はワークを開く。
「x の係数が負だと、軸は右寄りになる」数式は嘘をつかない。嘘をつかないはずのものに、すがるように線を引いていく。
三十分後、解答を出し終えた小テスト用紙が前に集められていく間に、僕は机の中のスマホをそっと開いた。通知はひとつ。
『間違えてくれて助かった。ずっと、声かける理由がなかったから』
意味のわからない優しさが、じんわり広がる。
右手のひらが少し汗ばむ。指紋認証が二回目で通って、個別の画面が開いた。
どう返せば正解なんだろう。
返さなければ、このまま曖昧に消えていくのかもしれない。
返せば、何かが始まるのかもしれない。
「誰?」と短く打つ。
既読。
数分。
何も来ない。
画面の明るさが自動調節で少し落ち、僕の顔が黒く映る。自分の輪郭は、曇り空とよく似ている。
四分後、長文。呼吸を整えたあとみたいな文量。
『朝霧。中一まで一緒だった。転校した』
思い出は、いつも遅れて届く。
中学の校庭、白い石灰で引かれたトラックのコーナー、部活の後の砂と汗。僕の背より少し高い影が、外野からボールを拾って投げ返す。陽射しが強すぎて、目を細める。その影が笑ったとき、汗の中に少しだけ冷たい風が混ざる感覚。
僕は指を動かす。
『……覚えてる』
画面の向こうで、誰かが笑う気配がした。吹き出しは揺れないけれど、文の端々に体温が残る気がした。
『なら、よかった』
拍子抜けと、安堵と、どうしようもない時間のズレが、細い麦茶のストローみたいに一本ずつ胸に刺さる。そこから、漫然としたやり取りが始まった。勉強の愚痴。購買のパン。今朝の風。
『二次関数、頂点の座標、いつも迷う』
『湯呑みの茶渋みたいに残るやつな』
『そんな表現する?』
『する。澪のノート、たぶん、きれい』
『まあ、普通』
僕の言葉は短くて、朝霧――晴翔は、必要な分だけ余白を残して返してくる。
“余白”という言葉が、画面の白と重なる。
打ちかけた。
『それ、俺の、くせ?』
消す。
言い切るのが怖いとき、僕は三点リーダにも逃げない。ただ、カーソルを点滅させる。それは沈黙でも放棄でもなくて、まだ言葉になる前の何かを温めている時間だ。
放課後、図書室へ行く。
今日の空は薄い青。夏に入る手前の、麦茶と氷だけで満たされたコップみたいな色。
返却カウンターの横には、ラベンダーの小さなドライフラワーが置かれている。司書の先生が「香りが残っているうちに」と言っていた。
窓際の席に座って、教科書を開く。窓ガラスの向こうで、グラウンドをランニングする陸上部の足音が一定のリズムで響いてくる。
スマホが震えた。
『購買、きなこ揚げパン復活してた』
『まじか。昼前に売り切れるやつ』
『二個買って、ひとつ冷凍にした。夜、牛乳で戻す』
『そんな食べ方ある?』
『ある。家の冷凍庫、パンの墓場』
僕は笑ってしまう。図書室だから、声にはならない。笑いは喉の奥で丸く転がって、胸の奥のほうまで落ちていく。
僕は短く返す。
『お前、そういうとこ、変わってない』
送ってから、自分の言い回しに頬が熱くなった。呼び捨てに戻っている。
“変わってない”と断言できるほど、僕は彼のいまを知らないのに。
既読。
少し待って、返事。
『変わろうとしてるけど、変わらないところが残ってるほうが、安心することもある』
その文には、僕の知らない時間が入っている気がした。長くて、熱くて、うまく言葉にできない時間。
僕はペンを置く。窓の外、日差しが少しだけ傾いて、グラウンドの影が伸びる。
陸上部の男子が折り返しで速度を上げて、足音が厚くなる。
“走る”という動詞は、一人称ではあまり使ってこなかった。僕は走らない。走れないわけじゃないけれど、走ると何かがこぼれる気がして、苦手だ。
夜。
台所で弁当箱を洗っていると、母が「明日、ピーマン入れていい?」と聞く。
「いいよ。縦長に切るやつ」
「ふだんからそれを言ってくれたら、残さないのに」
「残してない」
笑いながら、スポンジをすすぐ。洗い終えた弁当箱の底に水滴がいくつか残って、それが蛍光灯を小さく砕いている。
僕の部屋に戻ると、机の上のノートの端に、パン粉のような消しゴムのかけらが溜まっていた。小さなほうきで集めて、手のひらに乗せて、ゴミ箱へ落とす。
スマホを手に取る。
既読のつかない数分が、怖くなってくる。
“怖い”と認めるのにも少し時間がかかって、その間に何度か通知欄を引き下げる。新しいものは来ていない。
僕は深呼吸して、短い文を押し出す。
『今日の空、薄い青だったな』
送信。
間違ったかな、と思う。抽象的すぎる。写真をつけるほどの余裕はなかった。
十数秒して、光。
『写真、撮った』
添付された空は、僕の教室から見上げる空と同じ方向で、少しだけ視点が高い。
マンションの屋上か、階段の踊り場か。欄干の影がうっすら写り込んでいる。
青は薄くて、でも層がある。何段か重ねたガラスのように、深さを持っている。
僕は親指でその青を拡大して、少しずつ滑らせる。
空は、拡大しても空だ。
粒子まで辿り着く前に、眼が疲れる。
『同じ時間に、同じ空』
彼の文に、僕は返す。
『うん』
“うん”の一文字に、ありえないほどの意味が乗ってしまっている。
同じ時間。
同じ空。
同じ年齢。
同じ夏の入り口。
同じ…希望。
そんな大げさな言葉、使う性格じゃないのに、胸の奥で誰かが書いている。僕の手ではない誰かが、僕の名前で。
その夜の最後。
僕は透明な吹き出しの中に言葉を置いて、送らずに閉じる。
《また、話そう》
送らないメッセージは、胸の奥に保存される。
スマホの中にも保存されているはずだけれど、それとは別の場所に。
そこは、音がしない。
呼吸だけがある。
布団の中で、僕は何度もその一文を読み返した。
既読のつかない優しさは、自分の中にしか存在しないのに、妙に温かい。
***
次の日の朝、トーストを焼く。
四枚切りを半分にして、バターを薄く。瓶の苺ジャムは角が丸くなって、スプーンがするっと入る。
母がニュースを見ながら「今日は暑いって」と言う。
「水筒、氷多めにする」
「塩タブレット持った?」
「持った」
生活は、会話に埋め込まれている。
言葉の端々に温度や湿度が残って、台所のタイルに染み込む。
靴ひもを締めながら、通知を確認する。新しいメッセージはない。
それだけで、少し背中が軽くなる。
期待しているときに限って、そうだ。
通学路。
踏切の向こうで猫が伸びをして、眠そうに欠伸をした。夏の朝の空気は、洗いたてのシャツに似ている。触れると冷たいけれど、少し歩くとすぐに体温で馴染んでしまう。
学校に着くと、田端が机に突っ伏していた。
「眠い」
「昨日、何してた」
「ゲーム。あと、兄貴のパーカー勝手に着て怒られた」
「そっちがメインだろ」
「だな」
一時間目が始まる前に、スマホが震いた。
ポケットの中で、音は出さない設定。
僕は鞄に手を入れて、指先で確かめる。
授業が終わるまで待つのは平気だ、と思っていたはずなのに、目の焦点がぼやけてくる。
黒板の文字が少し滲んで、先生の声が遠くなる。
ノートの余白に、小さく点を打つ。
点は意味を持たない。
けれど、点がいくつか並ぶと、焦りを誤魔化すには十分だ。
休み時間。
廊下のベンチに腰を下ろして、スマホを開く。
『朝、空、白っぽかった』
晴翔の文は、短い。昨日よりさらに短くて、僕の短さに寄せているのかもしれないと思うと、胸が柔らかくなる。
『白いままでも青なんだよな』
『うん。牛乳みたいな青』
『例え下手』
『自覚はある』
『嫌いじゃない』
“嫌いじゃない”の四文字が、思っていた以上に真っ直ぐ届いてきて、僕は一度画面を閉じる。
廊下の窓の外、グラウンドの砂に光が跳ねている。
人は、誰に言われるかで、同じ言葉の重さを変えてしまう。
“嫌いじゃない”が、好きの小さな手前で踏みとどまっていることを、僕は知っている。
その距離が、いまはちょうどいい。
昼休み。
弁当箱の蓋を開ける。
ピーマンは縦長、肉巻きは斜めに切ってあって、断面がきれいだ。卵焼きは端が少し焦げている。
田端が覗き込む。
「お前んち、卵焼き、砂糖派?」
「きょうは醤油」
「うちと逆だ。交換する?」
「しない」
「だよな」
食べ終わって、紙パックの麦茶を飲む。ストローで吸うと、氷が当たって小さな音がした。
スマホに写真。
晴翔の弁当。
梅干しが真ん中にあって、海苔が四角く敷いてある。
隅に、きなこ揚げパンの半分がハンカチに包まれて入っている。
『お前の家の冷凍庫、パンの墓場って言ってたやつ』
『墓場からの生還者』
『味は』
『勝った』
『何に』
『昨日の俺に』
少し笑って、僕は箸をしまう。
そういう比喩を平気で出せるのが、彼の良さだ。
自分のいまを、昨日の自分に勝たせる。
僕は、昨日の僕に勝とうとあまり思わない。
負けないように、静かに調整はするけれど。
放課後。
図書室に寄る。
今日は窓際が埋まっていて、壁際の席に座る。
背中が少し冷たくなる。
英語の課題を開き、ノートに単語を書いていく。意味はすぐ横に、小さな字で。
“temperature”。温度。
人の体温は数字で言えるけれど、文字の温度はどうだろう。
既読になってから返事が来るまでの秒数が、温度を決める気がするときがある。
早ければ熱、遅ければぬるい。
でも、それは単純すぎる。
遅い返事の後ろには、生活がある。
バイトかもしれないし、夕飯の買い物かもしれないし、風呂掃除かもしれない。
“暮らし”がある。
家に帰って、洗濯機を回しながら、母が「あ、柔軟剤切れる」と言う。
「メモしとく」
冷蔵庫の横のホワイトボードに小さなマグネット式のペンで“柔軟剤”と書く。
文字。
僕の生活は、たぶん小さな文字でできている。
ノートの余白、買い物メモ、教科書の欄外、そしてスマホの吹き出し。
そのどれにも、温度がある。
熱すぎると手を離してしまうし、冷えすぎると掴んでいる意味がわからなくなる。
ちょうどいい温度は、いつも人任せで、他人の手のひら次第だ。
夜、宿題を終えて、机の上を片づける。
蛍光灯の白が紙の繊維を拾って、影が細かく揺れる。
時計は十一時を少し過ぎて、窓の外は風がない。
スマホを開くと、ひとつ通知が来ていた。
『今日の月、欠けてた』
僕は窓の外を見上げる。
カーテンを指二本分だけ開いて、夜を覗く。
ほんの少し欠けた月が、薄い雲の向こうでかすれている。
写真に撮るほどの技術はないけれど、見ているだけで十分だ。
僕は返す。
『明日、同じ時間に撮ってみる?』
『撮る。教えて。撮り方』
『ズームしない。肘つく。呼吸止める』
『試す。明日も』
明日も。
“も”の一文字が、ありがたい。
昨日、今日、明日。
日付はカレンダーの上で規則正しく並んでいるけれど、僕らのやり取りは、その規則に少しだけ別の規則を重ねていく。
月の満ち欠け。
空の白さ。
パンの解凍時間。
弁当の卵焼きの味。
生活の細部が、二人だけの暦になる。
寝る前、机の隅に置いた文庫本を一度手に取り、また置く。
活字の海に潜るには、きょうは目が疲れすぎている。
スマホを両手で持って、未送信欄を開く。
透明な吹き出しが、いくつか。
カーソルが点滅する場所まで、親指を滑らせる。
《また、話そう》
その下に、もう一行を置くかどうか、少し迷う。
《好き、に似ている》
置かない。
似ている、と言ってしまうと、それは“似ていない”の言い訳にもできてしまう。
曖昧を守るための曖昧は、いまは要らない。
僕は最初の一行だけを胸の奥に戻して、スマホの画面を伏せる。
眠る前の部屋は、洗ったばかりのコップみたいに少し冷たくて、あと少しでぬるくなる。
その中で、既読のつかない優しさは、自分の内側でだけ、静かにぬくもっていく。
***
朝。
氷を多めに入れた水筒は、通学鞄の横ポケットに刺さっている。
駅までの道で、同じ茂みから毎朝出てくる野良猫が今日もあくびをした。
踏切のベルは相変わらずで、警報機の赤は眠い目にやさしくない。
学校に着いて、教室の窓を開ける。
湿気が薄くて、空気が軽い。
田端が「おはよう」の代わりに、机におでこを乗せた。
「寝た?」
「途中まで」
「途中ってどこ」
「分からん。夢の入口」
一時間目の途中、スマホが静かに震えた。
返事は休み時間にすればいい。
数式に下線を引いて、板書を追いかける。
休み時間、廊下の突き当たりで画面を開く。
『今、窓の光が粉みたいに見えた』
『チョークの粉、浮いてる』
『それ。それが綺麗だと思う日と、邪魔だと思う日がある』
『きょうはどっち』
『綺麗』
言葉の端が、少し柔らかい。
僕は窓の外を見て、空の白さを確かめる。
白は、やっぱり青の一種だ。
僕は短く返す。
『同じ』
“同じ”は、便利な言葉で、危険な言葉だ。
合わせるために使えば嘘になるし、重ねるために使えば真実になる。
きょうの“同じ”は、嘘ではない。
そう思える朝は、濃いコーヒーみたいに、自分の中で温度が保たれる。
昼休み。
購買の列に並ぶ。
揚げ物の匂いが、廊下の角で渦を巻いている。
僕はコロッケパンを取って、会計に向かう。
ビニール袋の口が熱で少し曇って、パン粉の香りがひらく。
教室に戻って、パンを半分に割る。
田端が羨ましそうに見る。
「半分やる」
「神」
「じゃあ、歴史のノート、次の範囲写させろ」
「悪魔」
「交渉成立の音、鳴らすか?」
「どんな音だよ」
くだらない会話は、昼休みの塩分だ。足りないと頭が回らないし、多すぎると喉が渇く。
僕はスマホをちらりと見て、通知が来ていないことに安堵する。
安堵する、ということに気づいて、少し笑う。
期待するから、来ないと安堵する。
期待を少し減らす練習を、僕はきっとまだしていないのだ。
放課後。
空は昨日よりすこし濃い。
クラブの声が重なって、風が音をほどいていく。
僕は図書室に行かずに、今日はまっすぐ帰ることにした。
帰り道、古い八百屋の前で、段ボールに入ったミニトマトが光っている。
“試食どうぞ”の札。
店主のおばさんに目で合図をもらって、ひとつ口に入れる。
皮が少し張っていて、噛むと中から甘い液が広がる。
手のひらを服で拭いて、電話ボックスの跡地の角を曲がる。
その角で、スマホが震えた。
『今日の雲、魚に見えた』
立ち止まって、空を見上げる。
尾びれの形をした雲が、確かに一つ。
僕は返す。
『同じの見てたかもしれない』
『可能性高い。風がゆっくりだから』
『風、写らないな』
『でも、いた』
“いた”。
昨日のやり取りを思い出す。
風は写らない。
でも、いた。
写真に写らないものの存在を信じる練習を、僕らはもしかするとずっとしているのかもしれない。
夜。
夕飯は鶏むね肉の生姜焼きと、茄子の味噌炒め。
味噌の香りが部屋に広がって、窓のカーテンの布に少し染み込む。
箸で茄子を割ると、熱い湯気の中に油がきらりと光る。
母が「最近、スマホよく見てるね」と言う。
「まあ、ほどほど」
「ほどほどがいちばん難しい」
「わかる」
言いながら、僕は胸の真ん中でうなずく。
ほどほどがいちばん難しい。
距離も、温度も、言葉も。
自室に戻って、机に座る。
ノートの端に、今日の単語帳のページ数を書き込む。
その横に、小さく点。
点は意味を持たない。
けれど、今日の点は、昨日の点と別の列に並んでいく。
僕はスマホを開く。
『明日、同じ時間に月、撮る?』
『撮る。肘、つくやつ』
『そう。息止める』
『了解。練習しとく』
“練習”という言葉に、少し救われる。
訓練すれば上手くなるものは、希望に似ている。
感情は練習できない。
でも、写真はできる。
息を止めることも、できる。
心臓は止められないけれど。
ベッドに入って、灯りを消す。
暗い部屋に、スマホの光だけが小さく残る。
未送信欄を開く。
透明な吹き出し。
カーソルの点滅。
そこに、ひとつだけ置く。
《また、話そう》
“また”は約束の形をしている。
他愛ない一言が、約束になる。
それを信じるのは、少し怖い。
怖いけれど、今日は信じたい。
目を閉じる。
耳の奥で、踏切のベルが小さく鳴る気がした。
遠くで、誰かが笑っている気がした。
その誰かは、たぶん僕自身で、たぶん彼でもある。
既読のつかない優しさは、自分の中にしか存在しないのに、妙に温かい。
その温度を抱えて、眠りに落ちる。
***
次の朝、空は昨日より白く、牛乳に水を少し足したみたいな色をしていた。
教室の窓を開けると、チョークの粉が光の中で舞う。
僕は指で微かにその粉の軌跡を追い、何も掴めないことに安心する。
掴めないものが、世界には必要だ。
掴めないから、見ていられる。
――そして、夜。
約束の時間、僕は窓の前に立って、肘を机につき、息を止め、シャッターを切った。
同じ瞬間、スマホが軽く震える。
送られてきた月は、僕の月と同じ形で、ほんの少しだけ欠けていた。
ふたつの欠けが、重なって、どこかで満ちる。
送信欄に一行だけ打つ。
『また、話そう』
“送信”。
既読は、すぐに青に変わる。
その青の温度は、ちょうどよかった。
――第1話、了。
黒板の粉は、毎日同じ速さで空に溶けて、窓からさし込む光の帯がその粒をひっそり浮かび上がらせる。二時間目と三時間目の間の換気のとき、僕はよくそれを眺めていた。教室の空気が少しだけ入れ替わって、体育館から遅れてくるブラスバンドの音が風に薄められる。弁当箱のゴムバンドは、朝のうちに何度か手で引き伸ばしておくと昼には開けやすい。そんな小さな工夫を積み上げて、波の立たない日々を横並びにして暮らしている――のだと思っていた。
「藤崎、次、数学。小テストだってよ」
前の席の田端が、ペン回しを止めずに言う。二次関数。昨日のワークの最後の二問、微妙に不安が残っている。チャイムが鳴る少し前、クラスのLINEに先生が配布した範囲の画像を貼りつけようとして、僕は指を滑らせた。
アイコンの小さな丸が並ぶ画面で、僕の親指は集合体のどれか一つを選んで、そこに落ちた。送信。
白い吹き出しが個別トークにぽつんと表示される。
「明日の小テ、二次関数だから」
三秒。既読。
三秒。心臓。
三秒。呼び捨て。
『相変わらずだな、澪』
肩で小さく息を吸った。誰だ。僕を呼び捨てにする“相変わらず”の権利を持っているのは、家族を除けば、もう何年も前の夏に置いてきたはずの誰か以外にいない。
「すみません、どちら様でしょう?」と打ちかけて、消す。文の最初の「す」で気持ちが揺らぎ、カーソルが点滅する。点滅は心拍に似ていて、落ち着きを奪う。
画面の上の名前は英数字の羅列で、既読の青だけがはっきりしている。アイコンは曇り空のグレイ、輪郭のない雲。
授業の開始を告げるチャイムが鳴る。ポケットの中でスマホが軽く震えた気がして、でも机の中にしまっているから錯覚のはずで、僕はワークを開く。
「x の係数が負だと、軸は右寄りになる」数式は嘘をつかない。嘘をつかないはずのものに、すがるように線を引いていく。
三十分後、解答を出し終えた小テスト用紙が前に集められていく間に、僕は机の中のスマホをそっと開いた。通知はひとつ。
『間違えてくれて助かった。ずっと、声かける理由がなかったから』
意味のわからない優しさが、じんわり広がる。
右手のひらが少し汗ばむ。指紋認証が二回目で通って、個別の画面が開いた。
どう返せば正解なんだろう。
返さなければ、このまま曖昧に消えていくのかもしれない。
返せば、何かが始まるのかもしれない。
「誰?」と短く打つ。
既読。
数分。
何も来ない。
画面の明るさが自動調節で少し落ち、僕の顔が黒く映る。自分の輪郭は、曇り空とよく似ている。
四分後、長文。呼吸を整えたあとみたいな文量。
『朝霧。中一まで一緒だった。転校した』
思い出は、いつも遅れて届く。
中学の校庭、白い石灰で引かれたトラックのコーナー、部活の後の砂と汗。僕の背より少し高い影が、外野からボールを拾って投げ返す。陽射しが強すぎて、目を細める。その影が笑ったとき、汗の中に少しだけ冷たい風が混ざる感覚。
僕は指を動かす。
『……覚えてる』
画面の向こうで、誰かが笑う気配がした。吹き出しは揺れないけれど、文の端々に体温が残る気がした。
『なら、よかった』
拍子抜けと、安堵と、どうしようもない時間のズレが、細い麦茶のストローみたいに一本ずつ胸に刺さる。そこから、漫然としたやり取りが始まった。勉強の愚痴。購買のパン。今朝の風。
『二次関数、頂点の座標、いつも迷う』
『湯呑みの茶渋みたいに残るやつな』
『そんな表現する?』
『する。澪のノート、たぶん、きれい』
『まあ、普通』
僕の言葉は短くて、朝霧――晴翔は、必要な分だけ余白を残して返してくる。
“余白”という言葉が、画面の白と重なる。
打ちかけた。
『それ、俺の、くせ?』
消す。
言い切るのが怖いとき、僕は三点リーダにも逃げない。ただ、カーソルを点滅させる。それは沈黙でも放棄でもなくて、まだ言葉になる前の何かを温めている時間だ。
放課後、図書室へ行く。
今日の空は薄い青。夏に入る手前の、麦茶と氷だけで満たされたコップみたいな色。
返却カウンターの横には、ラベンダーの小さなドライフラワーが置かれている。司書の先生が「香りが残っているうちに」と言っていた。
窓際の席に座って、教科書を開く。窓ガラスの向こうで、グラウンドをランニングする陸上部の足音が一定のリズムで響いてくる。
スマホが震えた。
『購買、きなこ揚げパン復活してた』
『まじか。昼前に売り切れるやつ』
『二個買って、ひとつ冷凍にした。夜、牛乳で戻す』
『そんな食べ方ある?』
『ある。家の冷凍庫、パンの墓場』
僕は笑ってしまう。図書室だから、声にはならない。笑いは喉の奥で丸く転がって、胸の奥のほうまで落ちていく。
僕は短く返す。
『お前、そういうとこ、変わってない』
送ってから、自分の言い回しに頬が熱くなった。呼び捨てに戻っている。
“変わってない”と断言できるほど、僕は彼のいまを知らないのに。
既読。
少し待って、返事。
『変わろうとしてるけど、変わらないところが残ってるほうが、安心することもある』
その文には、僕の知らない時間が入っている気がした。長くて、熱くて、うまく言葉にできない時間。
僕はペンを置く。窓の外、日差しが少しだけ傾いて、グラウンドの影が伸びる。
陸上部の男子が折り返しで速度を上げて、足音が厚くなる。
“走る”という動詞は、一人称ではあまり使ってこなかった。僕は走らない。走れないわけじゃないけれど、走ると何かがこぼれる気がして、苦手だ。
夜。
台所で弁当箱を洗っていると、母が「明日、ピーマン入れていい?」と聞く。
「いいよ。縦長に切るやつ」
「ふだんからそれを言ってくれたら、残さないのに」
「残してない」
笑いながら、スポンジをすすぐ。洗い終えた弁当箱の底に水滴がいくつか残って、それが蛍光灯を小さく砕いている。
僕の部屋に戻ると、机の上のノートの端に、パン粉のような消しゴムのかけらが溜まっていた。小さなほうきで集めて、手のひらに乗せて、ゴミ箱へ落とす。
スマホを手に取る。
既読のつかない数分が、怖くなってくる。
“怖い”と認めるのにも少し時間がかかって、その間に何度か通知欄を引き下げる。新しいものは来ていない。
僕は深呼吸して、短い文を押し出す。
『今日の空、薄い青だったな』
送信。
間違ったかな、と思う。抽象的すぎる。写真をつけるほどの余裕はなかった。
十数秒して、光。
『写真、撮った』
添付された空は、僕の教室から見上げる空と同じ方向で、少しだけ視点が高い。
マンションの屋上か、階段の踊り場か。欄干の影がうっすら写り込んでいる。
青は薄くて、でも層がある。何段か重ねたガラスのように、深さを持っている。
僕は親指でその青を拡大して、少しずつ滑らせる。
空は、拡大しても空だ。
粒子まで辿り着く前に、眼が疲れる。
『同じ時間に、同じ空』
彼の文に、僕は返す。
『うん』
“うん”の一文字に、ありえないほどの意味が乗ってしまっている。
同じ時間。
同じ空。
同じ年齢。
同じ夏の入り口。
同じ…希望。
そんな大げさな言葉、使う性格じゃないのに、胸の奥で誰かが書いている。僕の手ではない誰かが、僕の名前で。
その夜の最後。
僕は透明な吹き出しの中に言葉を置いて、送らずに閉じる。
《また、話そう》
送らないメッセージは、胸の奥に保存される。
スマホの中にも保存されているはずだけれど、それとは別の場所に。
そこは、音がしない。
呼吸だけがある。
布団の中で、僕は何度もその一文を読み返した。
既読のつかない優しさは、自分の中にしか存在しないのに、妙に温かい。
***
次の日の朝、トーストを焼く。
四枚切りを半分にして、バターを薄く。瓶の苺ジャムは角が丸くなって、スプーンがするっと入る。
母がニュースを見ながら「今日は暑いって」と言う。
「水筒、氷多めにする」
「塩タブレット持った?」
「持った」
生活は、会話に埋め込まれている。
言葉の端々に温度や湿度が残って、台所のタイルに染み込む。
靴ひもを締めながら、通知を確認する。新しいメッセージはない。
それだけで、少し背中が軽くなる。
期待しているときに限って、そうだ。
通学路。
踏切の向こうで猫が伸びをして、眠そうに欠伸をした。夏の朝の空気は、洗いたてのシャツに似ている。触れると冷たいけれど、少し歩くとすぐに体温で馴染んでしまう。
学校に着くと、田端が机に突っ伏していた。
「眠い」
「昨日、何してた」
「ゲーム。あと、兄貴のパーカー勝手に着て怒られた」
「そっちがメインだろ」
「だな」
一時間目が始まる前に、スマホが震いた。
ポケットの中で、音は出さない設定。
僕は鞄に手を入れて、指先で確かめる。
授業が終わるまで待つのは平気だ、と思っていたはずなのに、目の焦点がぼやけてくる。
黒板の文字が少し滲んで、先生の声が遠くなる。
ノートの余白に、小さく点を打つ。
点は意味を持たない。
けれど、点がいくつか並ぶと、焦りを誤魔化すには十分だ。
休み時間。
廊下のベンチに腰を下ろして、スマホを開く。
『朝、空、白っぽかった』
晴翔の文は、短い。昨日よりさらに短くて、僕の短さに寄せているのかもしれないと思うと、胸が柔らかくなる。
『白いままでも青なんだよな』
『うん。牛乳みたいな青』
『例え下手』
『自覚はある』
『嫌いじゃない』
“嫌いじゃない”の四文字が、思っていた以上に真っ直ぐ届いてきて、僕は一度画面を閉じる。
廊下の窓の外、グラウンドの砂に光が跳ねている。
人は、誰に言われるかで、同じ言葉の重さを変えてしまう。
“嫌いじゃない”が、好きの小さな手前で踏みとどまっていることを、僕は知っている。
その距離が、いまはちょうどいい。
昼休み。
弁当箱の蓋を開ける。
ピーマンは縦長、肉巻きは斜めに切ってあって、断面がきれいだ。卵焼きは端が少し焦げている。
田端が覗き込む。
「お前んち、卵焼き、砂糖派?」
「きょうは醤油」
「うちと逆だ。交換する?」
「しない」
「だよな」
食べ終わって、紙パックの麦茶を飲む。ストローで吸うと、氷が当たって小さな音がした。
スマホに写真。
晴翔の弁当。
梅干しが真ん中にあって、海苔が四角く敷いてある。
隅に、きなこ揚げパンの半分がハンカチに包まれて入っている。
『お前の家の冷凍庫、パンの墓場って言ってたやつ』
『墓場からの生還者』
『味は』
『勝った』
『何に』
『昨日の俺に』
少し笑って、僕は箸をしまう。
そういう比喩を平気で出せるのが、彼の良さだ。
自分のいまを、昨日の自分に勝たせる。
僕は、昨日の僕に勝とうとあまり思わない。
負けないように、静かに調整はするけれど。
放課後。
図書室に寄る。
今日は窓際が埋まっていて、壁際の席に座る。
背中が少し冷たくなる。
英語の課題を開き、ノートに単語を書いていく。意味はすぐ横に、小さな字で。
“temperature”。温度。
人の体温は数字で言えるけれど、文字の温度はどうだろう。
既読になってから返事が来るまでの秒数が、温度を決める気がするときがある。
早ければ熱、遅ければぬるい。
でも、それは単純すぎる。
遅い返事の後ろには、生活がある。
バイトかもしれないし、夕飯の買い物かもしれないし、風呂掃除かもしれない。
“暮らし”がある。
家に帰って、洗濯機を回しながら、母が「あ、柔軟剤切れる」と言う。
「メモしとく」
冷蔵庫の横のホワイトボードに小さなマグネット式のペンで“柔軟剤”と書く。
文字。
僕の生活は、たぶん小さな文字でできている。
ノートの余白、買い物メモ、教科書の欄外、そしてスマホの吹き出し。
そのどれにも、温度がある。
熱すぎると手を離してしまうし、冷えすぎると掴んでいる意味がわからなくなる。
ちょうどいい温度は、いつも人任せで、他人の手のひら次第だ。
夜、宿題を終えて、机の上を片づける。
蛍光灯の白が紙の繊維を拾って、影が細かく揺れる。
時計は十一時を少し過ぎて、窓の外は風がない。
スマホを開くと、ひとつ通知が来ていた。
『今日の月、欠けてた』
僕は窓の外を見上げる。
カーテンを指二本分だけ開いて、夜を覗く。
ほんの少し欠けた月が、薄い雲の向こうでかすれている。
写真に撮るほどの技術はないけれど、見ているだけで十分だ。
僕は返す。
『明日、同じ時間に撮ってみる?』
『撮る。教えて。撮り方』
『ズームしない。肘つく。呼吸止める』
『試す。明日も』
明日も。
“も”の一文字が、ありがたい。
昨日、今日、明日。
日付はカレンダーの上で規則正しく並んでいるけれど、僕らのやり取りは、その規則に少しだけ別の規則を重ねていく。
月の満ち欠け。
空の白さ。
パンの解凍時間。
弁当の卵焼きの味。
生活の細部が、二人だけの暦になる。
寝る前、机の隅に置いた文庫本を一度手に取り、また置く。
活字の海に潜るには、きょうは目が疲れすぎている。
スマホを両手で持って、未送信欄を開く。
透明な吹き出しが、いくつか。
カーソルが点滅する場所まで、親指を滑らせる。
《また、話そう》
その下に、もう一行を置くかどうか、少し迷う。
《好き、に似ている》
置かない。
似ている、と言ってしまうと、それは“似ていない”の言い訳にもできてしまう。
曖昧を守るための曖昧は、いまは要らない。
僕は最初の一行だけを胸の奥に戻して、スマホの画面を伏せる。
眠る前の部屋は、洗ったばかりのコップみたいに少し冷たくて、あと少しでぬるくなる。
その中で、既読のつかない優しさは、自分の内側でだけ、静かにぬくもっていく。
***
朝。
氷を多めに入れた水筒は、通学鞄の横ポケットに刺さっている。
駅までの道で、同じ茂みから毎朝出てくる野良猫が今日もあくびをした。
踏切のベルは相変わらずで、警報機の赤は眠い目にやさしくない。
学校に着いて、教室の窓を開ける。
湿気が薄くて、空気が軽い。
田端が「おはよう」の代わりに、机におでこを乗せた。
「寝た?」
「途中まで」
「途中ってどこ」
「分からん。夢の入口」
一時間目の途中、スマホが静かに震えた。
返事は休み時間にすればいい。
数式に下線を引いて、板書を追いかける。
休み時間、廊下の突き当たりで画面を開く。
『今、窓の光が粉みたいに見えた』
『チョークの粉、浮いてる』
『それ。それが綺麗だと思う日と、邪魔だと思う日がある』
『きょうはどっち』
『綺麗』
言葉の端が、少し柔らかい。
僕は窓の外を見て、空の白さを確かめる。
白は、やっぱり青の一種だ。
僕は短く返す。
『同じ』
“同じ”は、便利な言葉で、危険な言葉だ。
合わせるために使えば嘘になるし、重ねるために使えば真実になる。
きょうの“同じ”は、嘘ではない。
そう思える朝は、濃いコーヒーみたいに、自分の中で温度が保たれる。
昼休み。
購買の列に並ぶ。
揚げ物の匂いが、廊下の角で渦を巻いている。
僕はコロッケパンを取って、会計に向かう。
ビニール袋の口が熱で少し曇って、パン粉の香りがひらく。
教室に戻って、パンを半分に割る。
田端が羨ましそうに見る。
「半分やる」
「神」
「じゃあ、歴史のノート、次の範囲写させろ」
「悪魔」
「交渉成立の音、鳴らすか?」
「どんな音だよ」
くだらない会話は、昼休みの塩分だ。足りないと頭が回らないし、多すぎると喉が渇く。
僕はスマホをちらりと見て、通知が来ていないことに安堵する。
安堵する、ということに気づいて、少し笑う。
期待するから、来ないと安堵する。
期待を少し減らす練習を、僕はきっとまだしていないのだ。
放課後。
空は昨日よりすこし濃い。
クラブの声が重なって、風が音をほどいていく。
僕は図書室に行かずに、今日はまっすぐ帰ることにした。
帰り道、古い八百屋の前で、段ボールに入ったミニトマトが光っている。
“試食どうぞ”の札。
店主のおばさんに目で合図をもらって、ひとつ口に入れる。
皮が少し張っていて、噛むと中から甘い液が広がる。
手のひらを服で拭いて、電話ボックスの跡地の角を曲がる。
その角で、スマホが震えた。
『今日の雲、魚に見えた』
立ち止まって、空を見上げる。
尾びれの形をした雲が、確かに一つ。
僕は返す。
『同じの見てたかもしれない』
『可能性高い。風がゆっくりだから』
『風、写らないな』
『でも、いた』
“いた”。
昨日のやり取りを思い出す。
風は写らない。
でも、いた。
写真に写らないものの存在を信じる練習を、僕らはもしかするとずっとしているのかもしれない。
夜。
夕飯は鶏むね肉の生姜焼きと、茄子の味噌炒め。
味噌の香りが部屋に広がって、窓のカーテンの布に少し染み込む。
箸で茄子を割ると、熱い湯気の中に油がきらりと光る。
母が「最近、スマホよく見てるね」と言う。
「まあ、ほどほど」
「ほどほどがいちばん難しい」
「わかる」
言いながら、僕は胸の真ん中でうなずく。
ほどほどがいちばん難しい。
距離も、温度も、言葉も。
自室に戻って、机に座る。
ノートの端に、今日の単語帳のページ数を書き込む。
その横に、小さく点。
点は意味を持たない。
けれど、今日の点は、昨日の点と別の列に並んでいく。
僕はスマホを開く。
『明日、同じ時間に月、撮る?』
『撮る。肘、つくやつ』
『そう。息止める』
『了解。練習しとく』
“練習”という言葉に、少し救われる。
訓練すれば上手くなるものは、希望に似ている。
感情は練習できない。
でも、写真はできる。
息を止めることも、できる。
心臓は止められないけれど。
ベッドに入って、灯りを消す。
暗い部屋に、スマホの光だけが小さく残る。
未送信欄を開く。
透明な吹き出し。
カーソルの点滅。
そこに、ひとつだけ置く。
《また、話そう》
“また”は約束の形をしている。
他愛ない一言が、約束になる。
それを信じるのは、少し怖い。
怖いけれど、今日は信じたい。
目を閉じる。
耳の奥で、踏切のベルが小さく鳴る気がした。
遠くで、誰かが笑っている気がした。
その誰かは、たぶん僕自身で、たぶん彼でもある。
既読のつかない優しさは、自分の中にしか存在しないのに、妙に温かい。
その温度を抱えて、眠りに落ちる。
***
次の朝、空は昨日より白く、牛乳に水を少し足したみたいな色をしていた。
教室の窓を開けると、チョークの粉が光の中で舞う。
僕は指で微かにその粉の軌跡を追い、何も掴めないことに安心する。
掴めないものが、世界には必要だ。
掴めないから、見ていられる。
――そして、夜。
約束の時間、僕は窓の前に立って、肘を机につき、息を止め、シャッターを切った。
同じ瞬間、スマホが軽く震える。
送られてきた月は、僕の月と同じ形で、ほんの少しだけ欠けていた。
ふたつの欠けが、重なって、どこかで満ちる。
送信欄に一行だけ打つ。
『また、話そう』
“送信”。
既読は、すぐに青に変わる。
その青の温度は、ちょうどよかった。
――第1話、了。



