オジェからの誘いは、あまりにも突然だった。
週の終わりの夕方、仕事を終えたユディットのもとへ届いた短いメッセージ――
「少し、話さない?」
それだけの言葉に、特別な説明も前置きもなかった。けれど、その簡潔さの裏にあるものをユディットは無視できなかった。
いつもなら何気ない会話で済ませる相手が、今夜に限ってそう言うのだ。
胸の奥に、わずかなざらつきを覚えながらも、ユディットは返信の文を打った。
「……わかった。行くよ」
送信を終えると、スマートフォンの画面に映る自分の指先がかすかに震えているのが見えた。
理由はわからない。ただ、その誘いを断る気にはなれなかった。
そして――ユディットは、ついにオジェの家に到着した。
その家は、静かな住宅街のマンションの一室だった。
白を基調とした室内はすっきりと整い、過不足のない清潔さに包まれている。
どの家具も実用的で、それでいて穏やかな雰囲気を漂わせていた。
ユディットは、わずかに緊張しながらも、靴を脱いで部屋へ入った。
「ユディくん。ゆっくり寛いでいて。紅茶を淹れてくるから、そこで待っていて」
オジェ=ル=ダノワは穏やかに声をかけると、キッチンへと向かった。
言われたまま、ユディットはリビングのソファに腰を下ろす。
柔らかなクッションが体を包み込み、緊張が少しずつほどけていくようだった。
壁一面の本棚には、多彩なジャンルの本が整然と並び、所有者の几帳面な性格をうかがわせた。
本の合間に小さな観葉植物がいくつか置かれ、白い部屋にささやかな彩りを添えている。
空気の流れまで整えられたような心地よさに、ユディットは思わず息をついた。
静けさがありながらも、人の生活の気配がやさしく滲んでいる。
(オジェは紅茶を淹れてくれるって言ってたけど……僕にも、なにか手伝えることはないだろうか)
そう思って立ち上がり、部屋を見渡した。
キッチンではオジェが湯を沸かしている。動線を邪魔するのは気が引けた。
本棚の本にもむやみに触れない方がいい――そう判断して、視線をテーブルに移すと、一冊の雑誌が目に留まった。
(これなら、少し見ていてもいいかな)
ユディットの指先が触れたのは、一冊の雑誌だった。表紙には穏やかな笑顔の若い男女が並び、その上に小さくタイトルが印刷されている。
「バイ・セクシャルの生きがい」――
その文字を目にした瞬間、ユディットの胸の奥にわずかなざわめきが生まれた。
何気なく開いたページには、インタビュー形式で、様々な人々の語りが記されていた。
自分のままに生きること、他者の視線との折り合い、それでも誰かを愛すること。
静かな言葉が並ぶその紙面に、ユディットはしばらく視線を落としたまま動けなかった。
(これを――オジェが読んでいるのか)
何気なく置かれていたそれが、唐突に部屋の空気を変えるように感じられた。
けれども、すぐに自分を律して視線を戻す。プライベートな興味を詮索するような真似はしたくない。
雑誌をそっと閉じたタイミングで、背後からオジェの声が柔らかく響いた。
「本当に気を遣わなくていいんだ。もう少しで紅茶も淹れ終わるから」
オジェの声は穏やかで、落ち着いた調子だった。
その言葉にユディットは軽くうなずき、雑誌を閉じて席を立った。
それ以上、何も問わず、ただ静かな気持ちでオジェの背を見つめていた。
(――ああ、この部屋も、この人も、すべてが整っているのに。どこか、少しだけ胸が痛い)
キッチンの隅に立ち、オジェの作業を見守る。湯気がふわりと立ちのぼり、室内に香ばしい香りが広がっていく。
オジェは、無駄のない動きで茶器を扱っていた。
丁寧で、しかし慣れた手つき。静かな集中の中に、仕事のような確かさがあった。
カップに紅茶が注がれると、立ちのぼる湯気が透明な光を含んで揺れた。
ユディットはその様子を眺めながら、自然と呼吸を整えた。
「どうぞ」
オジェは木製のトレイに二つのカップをのせ、リビングのテーブルに運んだ。
湯気の奥から立ち上る香りは、静かに部屋を満たす。
ユディットは礼を言って、それを両手で受け取った。
そっと口をつけると、紅茶は想像よりもまろやかで、やさしい苦味が残った。
香りが鼻を抜けるたびに、小さな安心が広がっていくようだった。
「すごく飲みやすいね。香りが落ち着く」
「気に入ってくれたなら良かったよ。あまり癖のない茶葉なんだ。こういう味が好きでね」
それだけの短いやりとりが、どこか十分に感じられた。
言葉を重ねる必要もなく、室内にはただ静かな時間が流れていた。
やがて、二人は並んで窓辺に立った。
夜空には、街の灯りをかすめながら星がいくつか瞬いている。
都会の空にしては珍しく、多くの星が見えた。
しばらく誰も口を開かず、その光を眺め続けた。
音のない時間が、互いの存在を穏やかに確かめてくれているようだった。
週の終わりの夕方、仕事を終えたユディットのもとへ届いた短いメッセージ――
「少し、話さない?」
それだけの言葉に、特別な説明も前置きもなかった。けれど、その簡潔さの裏にあるものをユディットは無視できなかった。
いつもなら何気ない会話で済ませる相手が、今夜に限ってそう言うのだ。
胸の奥に、わずかなざらつきを覚えながらも、ユディットは返信の文を打った。
「……わかった。行くよ」
送信を終えると、スマートフォンの画面に映る自分の指先がかすかに震えているのが見えた。
理由はわからない。ただ、その誘いを断る気にはなれなかった。
そして――ユディットは、ついにオジェの家に到着した。
その家は、静かな住宅街のマンションの一室だった。
白を基調とした室内はすっきりと整い、過不足のない清潔さに包まれている。
どの家具も実用的で、それでいて穏やかな雰囲気を漂わせていた。
ユディットは、わずかに緊張しながらも、靴を脱いで部屋へ入った。
「ユディくん。ゆっくり寛いでいて。紅茶を淹れてくるから、そこで待っていて」
オジェ=ル=ダノワは穏やかに声をかけると、キッチンへと向かった。
言われたまま、ユディットはリビングのソファに腰を下ろす。
柔らかなクッションが体を包み込み、緊張が少しずつほどけていくようだった。
壁一面の本棚には、多彩なジャンルの本が整然と並び、所有者の几帳面な性格をうかがわせた。
本の合間に小さな観葉植物がいくつか置かれ、白い部屋にささやかな彩りを添えている。
空気の流れまで整えられたような心地よさに、ユディットは思わず息をついた。
静けさがありながらも、人の生活の気配がやさしく滲んでいる。
(オジェは紅茶を淹れてくれるって言ってたけど……僕にも、なにか手伝えることはないだろうか)
そう思って立ち上がり、部屋を見渡した。
キッチンではオジェが湯を沸かしている。動線を邪魔するのは気が引けた。
本棚の本にもむやみに触れない方がいい――そう判断して、視線をテーブルに移すと、一冊の雑誌が目に留まった。
(これなら、少し見ていてもいいかな)
ユディットの指先が触れたのは、一冊の雑誌だった。表紙には穏やかな笑顔の若い男女が並び、その上に小さくタイトルが印刷されている。
「バイ・セクシャルの生きがい」――
その文字を目にした瞬間、ユディットの胸の奥にわずかなざわめきが生まれた。
何気なく開いたページには、インタビュー形式で、様々な人々の語りが記されていた。
自分のままに生きること、他者の視線との折り合い、それでも誰かを愛すること。
静かな言葉が並ぶその紙面に、ユディットはしばらく視線を落としたまま動けなかった。
(これを――オジェが読んでいるのか)
何気なく置かれていたそれが、唐突に部屋の空気を変えるように感じられた。
けれども、すぐに自分を律して視線を戻す。プライベートな興味を詮索するような真似はしたくない。
雑誌をそっと閉じたタイミングで、背後からオジェの声が柔らかく響いた。
「本当に気を遣わなくていいんだ。もう少しで紅茶も淹れ終わるから」
オジェの声は穏やかで、落ち着いた調子だった。
その言葉にユディットは軽くうなずき、雑誌を閉じて席を立った。
それ以上、何も問わず、ただ静かな気持ちでオジェの背を見つめていた。
(――ああ、この部屋も、この人も、すべてが整っているのに。どこか、少しだけ胸が痛い)
キッチンの隅に立ち、オジェの作業を見守る。湯気がふわりと立ちのぼり、室内に香ばしい香りが広がっていく。
オジェは、無駄のない動きで茶器を扱っていた。
丁寧で、しかし慣れた手つき。静かな集中の中に、仕事のような確かさがあった。
カップに紅茶が注がれると、立ちのぼる湯気が透明な光を含んで揺れた。
ユディットはその様子を眺めながら、自然と呼吸を整えた。
「どうぞ」
オジェは木製のトレイに二つのカップをのせ、リビングのテーブルに運んだ。
湯気の奥から立ち上る香りは、静かに部屋を満たす。
ユディットは礼を言って、それを両手で受け取った。
そっと口をつけると、紅茶は想像よりもまろやかで、やさしい苦味が残った。
香りが鼻を抜けるたびに、小さな安心が広がっていくようだった。
「すごく飲みやすいね。香りが落ち着く」
「気に入ってくれたなら良かったよ。あまり癖のない茶葉なんだ。こういう味が好きでね」
それだけの短いやりとりが、どこか十分に感じられた。
言葉を重ねる必要もなく、室内にはただ静かな時間が流れていた。
やがて、二人は並んで窓辺に立った。
夜空には、街の灯りをかすめながら星がいくつか瞬いている。
都会の空にしては珍しく、多くの星が見えた。
しばらく誰も口を開かず、その光を眺め続けた。
音のない時間が、互いの存在を穏やかに確かめてくれているようだった。



