薄曇りの午前、駅前のカフェは、湯気の立つマグと開きかけの新聞で埋まっていた。オジェは窓際の席に腰を下ろし、黒いコートの袖口を整えると、胸ポケットから薄い封筒を取り出した。未投函の手紙だ。宛名の一行が、日差しに滲む。
――ムールヴァン=ル=ダノワ様
書き出しに、いつも時間がかかる。わずかな躊躇の隙間から、かつての自分が覗き込む。朽ちた木戸のように、軋む記憶。ペン先は紙の上で止まり、やがて、何も書かないまま彼は封筒を戻した。
胸の内側で、かすかな空洞が鳴っている。風もないのに、ひゅう、と通り抜ける音。そこに何があったのか、思い出せない。ただ、何かがあった気がする――そういう種類の欠損が、彼の日常に縫い目のように走っていた。
「……まただ」
オジェは呟き、マグを口に運ぶ。苦味だけが確かな現実だ。窓の外では、遅い雪が淡く降りている。白はすべての色の前にあり、すべての色の後ろにもある。そんな当たり前の比喩でさえ、今日はやけに遠く感じられた。
机上のメモ帳には、走り書きがいくつも重なっている。
・週末に会う約束
・聞けなかったこと
・手紙の返事
何の約束だったか、何を聞けなかったのか。語尾のほどけた糸だけが残り、結び目は見当たらない。指先で一つひとつなぞるたび、オジェの眉間には浅い皺が刻まれた。
「人は、何を忘れる時に苦しむのだろうな」
自問は、独白というより習慣だ。彼は仕事柄、言葉に輪郭を与え、記録に魂を落とし込む作業を生業としてきた。だからこそ、抜け落ちた輪郭の周縁だけが、やけに鮮明に見える。名指せない喪失ほど、輪郭は濃く、中心は空白になる。
カップの底が見えた時、オジェは立ち上がった。行く宛てがあるわけではない。だが、歩き出さなければ、空洞は音を増していく。駅前から一つ目の信号を左へ、そこから先は足が知っているように感じられた。見覚えのない路地、なのに、懐かしい手触りの壁。奇妙な既視感に導かれて、彼は小さな公園に出た。
雪の沈黙が支配している。中央に一本の枯れ木。ベンチの上に、薄い雪が均一に積もっていた。誰も座っていない。誰かが、ついさっきまで座っていた気がする。気配は、整えられた部屋の空気のように、痕跡だけを残している。
オジェはベンチの背に手を触れた。冷たさが掌をまっすぐ貫く。ふと、ポケットの封筒の存在が、不可解な重みで意識に浮かんだ。取り出してみると、宛名の文字がかすかに薄れている。
――ムールヴァン=……ダノワ様
インクは消えるために書かれたのだろうか。彼は慌てて封を切った。中の便箋には、短い一行だけが書かれている。
「会いに行く。話したいことがある」
筆跡は、迷いなく真っ直ぐだった。いつ書いたのか、誰に宛てたのか。理性は答えを持たないのに、胸の空洞は、その一行に触れた瞬間、短く鳴るのをやめた。そこには、確かに誰かがいた。名を呼べない誰か。輪郭の消えた肖像の、ただの余白。
「……誰だ」
問いは風に溶け、雪に吸われる。オジェは便箋を折りたたみ、丁寧に封筒へ戻した。背後に、足音が落ちる。振り向くと、銀の髪を肩に積もらせた男が立っていた。褪せた光沢。深淵のような瞳。そこには何も映らず、何も語らないのに、見られていると、世界の音が一段階低くなる。
「道に迷われましたか」
オジェは先に言葉を置いた。男は答えない。沈黙は返答の一形態だ。やがて、彼は微かに頷いたように見えた。頷きではなかったのかもしれない。雪が肩から落ちただけかもしれない。
「ここは、静かだ」
オジェは続けた。男の視線は、彼の胸ポケットに向く。封筒。その白は、雪の白とは異なる、ひとの手の温度を帯びた白だ。男の唇が、ほとんど音にならないほどの低さで動いた。
「……さようなら」
別れの挨拶に、出会いの由来が含まれていることがある。オジェは無意識に頷いた。意味はわからない。それでも、言葉の位置は理解できる。ここは、おそらく終わりの位置なのだ。
男が去る。足跡は残らない。雪が、ただ元の均一へと戻っていく。オジェは封筒をもう一度確かめた。宛名は、完全に白紙になっていた。そこに文字があったという確信だけが、紙の繊維に指腹で触れた記憶のように残る。
帰路、彼は何度も振り返った。振り返るたび、思い出すべき何かは遠のく。家へ着き、コートを脱ぎ、机につく。手帳を開き、新しいページをめくる。ペン先が躊躇なく走った。
・今日、雪。
・公園。
・誰かに会った。
・「さようなら」と言われた。
・宛名のない手紙。
そこまで書いて止まる。沈黙。やがて彼は、もう一行だけ、書き加えた。
・忘れたくない。
夜更け、湯の冷えたカップの隣で、オジェは目を閉じた。天井の暗がりに、名のない輪郭が浮かぶ。白い髪。静かな瞳。言葉にする手前で、像は霧に戻る。眠りに落ちる直前、彼は囁くように言った。
「……さようなら」
誰に向けたのかわからない挨拶。それでも、胸の空洞は、その瞬間だけ、深さを失った。夢の底で、雪が降っている。音のない雪だ。雪はすべてを覆い、すべてを優しく消していく。朝になれば、メモの最後の一行――「忘れたくない」――も、きっと薄れているだろう。
それでも、ペンはまた新しいページを開く。忘却の上に書かれる文字は、祈りに似ている。名を失った祈りは、どこへ届くのだろう。オジェはまだ知らない。だが、知らないという事実を、今日はそっと抱きしめることにした。
窓の外、雪は静かに降り続いていた。白銀神帝の影が通り過ぎたことを、誰も知らないまま。
――ムールヴァン=ル=ダノワ様
書き出しに、いつも時間がかかる。わずかな躊躇の隙間から、かつての自分が覗き込む。朽ちた木戸のように、軋む記憶。ペン先は紙の上で止まり、やがて、何も書かないまま彼は封筒を戻した。
胸の内側で、かすかな空洞が鳴っている。風もないのに、ひゅう、と通り抜ける音。そこに何があったのか、思い出せない。ただ、何かがあった気がする――そういう種類の欠損が、彼の日常に縫い目のように走っていた。
「……まただ」
オジェは呟き、マグを口に運ぶ。苦味だけが確かな現実だ。窓の外では、遅い雪が淡く降りている。白はすべての色の前にあり、すべての色の後ろにもある。そんな当たり前の比喩でさえ、今日はやけに遠く感じられた。
机上のメモ帳には、走り書きがいくつも重なっている。
・週末に会う約束
・聞けなかったこと
・手紙の返事
何の約束だったか、何を聞けなかったのか。語尾のほどけた糸だけが残り、結び目は見当たらない。指先で一つひとつなぞるたび、オジェの眉間には浅い皺が刻まれた。
「人は、何を忘れる時に苦しむのだろうな」
自問は、独白というより習慣だ。彼は仕事柄、言葉に輪郭を与え、記録に魂を落とし込む作業を生業としてきた。だからこそ、抜け落ちた輪郭の周縁だけが、やけに鮮明に見える。名指せない喪失ほど、輪郭は濃く、中心は空白になる。
カップの底が見えた時、オジェは立ち上がった。行く宛てがあるわけではない。だが、歩き出さなければ、空洞は音を増していく。駅前から一つ目の信号を左へ、そこから先は足が知っているように感じられた。見覚えのない路地、なのに、懐かしい手触りの壁。奇妙な既視感に導かれて、彼は小さな公園に出た。
雪の沈黙が支配している。中央に一本の枯れ木。ベンチの上に、薄い雪が均一に積もっていた。誰も座っていない。誰かが、ついさっきまで座っていた気がする。気配は、整えられた部屋の空気のように、痕跡だけを残している。
オジェはベンチの背に手を触れた。冷たさが掌をまっすぐ貫く。ふと、ポケットの封筒の存在が、不可解な重みで意識に浮かんだ。取り出してみると、宛名の文字がかすかに薄れている。
――ムールヴァン=……ダノワ様
インクは消えるために書かれたのだろうか。彼は慌てて封を切った。中の便箋には、短い一行だけが書かれている。
「会いに行く。話したいことがある」
筆跡は、迷いなく真っ直ぐだった。いつ書いたのか、誰に宛てたのか。理性は答えを持たないのに、胸の空洞は、その一行に触れた瞬間、短く鳴るのをやめた。そこには、確かに誰かがいた。名を呼べない誰か。輪郭の消えた肖像の、ただの余白。
「……誰だ」
問いは風に溶け、雪に吸われる。オジェは便箋を折りたたみ、丁寧に封筒へ戻した。背後に、足音が落ちる。振り向くと、銀の髪を肩に積もらせた男が立っていた。褪せた光沢。深淵のような瞳。そこには何も映らず、何も語らないのに、見られていると、世界の音が一段階低くなる。
「道に迷われましたか」
オジェは先に言葉を置いた。男は答えない。沈黙は返答の一形態だ。やがて、彼は微かに頷いたように見えた。頷きではなかったのかもしれない。雪が肩から落ちただけかもしれない。
「ここは、静かだ」
オジェは続けた。男の視線は、彼の胸ポケットに向く。封筒。その白は、雪の白とは異なる、ひとの手の温度を帯びた白だ。男の唇が、ほとんど音にならないほどの低さで動いた。
「……さようなら」
別れの挨拶に、出会いの由来が含まれていることがある。オジェは無意識に頷いた。意味はわからない。それでも、言葉の位置は理解できる。ここは、おそらく終わりの位置なのだ。
男が去る。足跡は残らない。雪が、ただ元の均一へと戻っていく。オジェは封筒をもう一度確かめた。宛名は、完全に白紙になっていた。そこに文字があったという確信だけが、紙の繊維に指腹で触れた記憶のように残る。
帰路、彼は何度も振り返った。振り返るたび、思い出すべき何かは遠のく。家へ着き、コートを脱ぎ、机につく。手帳を開き、新しいページをめくる。ペン先が躊躇なく走った。
・今日、雪。
・公園。
・誰かに会った。
・「さようなら」と言われた。
・宛名のない手紙。
そこまで書いて止まる。沈黙。やがて彼は、もう一行だけ、書き加えた。
・忘れたくない。
夜更け、湯の冷えたカップの隣で、オジェは目を閉じた。天井の暗がりに、名のない輪郭が浮かぶ。白い髪。静かな瞳。言葉にする手前で、像は霧に戻る。眠りに落ちる直前、彼は囁くように言った。
「……さようなら」
誰に向けたのかわからない挨拶。それでも、胸の空洞は、その瞬間だけ、深さを失った。夢の底で、雪が降っている。音のない雪だ。雪はすべてを覆い、すべてを優しく消していく。朝になれば、メモの最後の一行――「忘れたくない」――も、きっと薄れているだろう。
それでも、ペンはまた新しいページを開く。忘却の上に書かれる文字は、祈りに似ている。名を失った祈りは、どこへ届くのだろう。オジェはまだ知らない。だが、知らないという事実を、今日はそっと抱きしめることにした。
窓の外、雪は静かに降り続いていた。白銀神帝の影が通り過ぎたことを、誰も知らないまま。



