休日の街は、いつもより賑やかだった。ムールヴァン=ル=ダノワは寮の外套を羽織り、ゆっくりと歩く。中学生の彼は、160cmの華奢な体躯に白髪と白い瞳が印象的で、まるで雪の精霊のようだった。だが、心の中はいつも曇っている。
「母さんって、どんな人だったんだろう……」
他人の家族を見かけるたび、胸の奥に冷たい針が刺さる。父親のオジェは遠くにいて、会うのも億劫だ。母のことを聞くと、父親の目が曇るからだ。ムールヴァンは哲学書を読み漁った。存在とは何か、記憶とは何か――答えは見つからない。ただ、疑問だけが積もっていく。
休日の喧騒が、ムールヴァン=ル=ダノワの世界からだけ切り離されているかのようだった。全寮制の中学校に通う彼にとって、週末の外出は束の間の解放であるはずなのに、その心はいつも、厚いガラス一枚を隔てた向こう側にある風景を眺めているような感覚に囚われていた。
公園のベンチ、カフェのテラス、デパートの入り口。どこに視線を向けても、そこには「家族」という名の、温かく、そして残酷な光景が広がっている。父親と母親に挟まれて笑う子供。その当たり前の光景が、ムールヴァンの胸を鋭く抉る。彼には母親の記憶がない。物心ついた時から、父親であるオジェと二人きりの生活だった。その父親も、今では寮の冷たいベッドと、時折送られてくる短い手紙だけの存在だ。
「……母さん」
誰にも聞こえない声で呟く。その言葉は音にならず、彼の内側で虚しく反響するだけだ。白い髪が、冬の気配を帯びた風に揺れる。同じ色をした瞳は世界の色彩を映しながらも、どこか現実感を欠いていた。まるで、古いモノクロ映画のワンシーンのようだ。周囲の笑い声も、街のざわめきも、彼に届く頃にはすべての音響を失っている。
なぜ、僕には母親がいないのだろう。その問いは、いつしか父親への漠然とした疑念へと姿を変えていた。何かを隠しているのではないか。僕の知らないところで、何か大きな嘘があるのではないか。その疑念が膨らむほど、父親に会うのが億劫になった。手紙の返事を書く指は、いつも途中で止まってしまう。
この世界の真理を知りたい。自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのか。その答えを見つけるために、哲学者になりたいとムールヴァンは願っていた。だが、それは高尚な探究心というより、目の前の孤独から逃れるための、ただ一つの言い訳に過ぎなかったのかもしれない。真理を探究すれば、この虚しさは埋まるのだろうか。答えの出ない問いだけが、灰色の世界で彼の思考を埋め尽くしていく。休日の終わりを告げるチャイムが遠くで鳴り響き、ムールヴァンは重い腰を上げて、再び色のない寮への道を歩き始めた。
灰色の日常は、まるで終わりのない回廊のようだった。ムールヴァンは答えを求めて、学校の図書館に足繁く通うようになった。哲学書の棚を漁り、古代の思想家から現代の分析哲学者まで、あらゆる「真理」とされる言葉の海を泳いだ。だが、どのページをめくっても、彼の心を埋める言葉は見つからない。存在の証明、認識の限界、善と悪の定義。それらはすべて、彼の抱える根源的な「不在」の前では、空虚な言葉遊びにしか思えなかった。
「もっと、直接的な……終わらせる方法はないのか」
その呟きは、無意識の願望だった。もはや彼は、真理の探究による救済ではなく、この苦しみそのものの消滅を求め始めていた。その日、ムールヴァンはいつものように図書館の片隅で分厚い本を広げながら、ふと、閲覧用のタブレット端末に手を伸ばした。検索窓に打ち込んだのは、これまで考えもしなかった言葉だった。
――「すべてを終わらせる方法」
検索結果には、ありふれた自己啓発サイトや、ありきたりなカウンセリングの案内が並ぶ。だが、その中に一つだけ、異質な輝きを放つリンクがあった。古びたデザインのオカルト系掲示板のスレッドだ。
タイトルは、《静寂の終幕者》について語るスレ。
そこには、まるで出来の悪いホラー小説のような書き込みが並んでいた。街のどこかに、すべての物事を「終わり」に導く存在がいる、と。ある者は、彼に会って失恋の苦しみを終わらせてもらったと書き込み、またある者は、終わらない借金地獄から解放されたと綴っていた。そのどれもが、現実味のない、荒唐無稽な与太話にしか見えない。
『彼が「終わる」と告げれば、それが絶対の法則となる』
『触れられただけで、記憶も存在も消え去るらしい』
『依頼人として、本気で「終わり」を願う者の前にしか現れない』
「……馬鹿げてる」
ムールヴァンはタブレットの電源を切り、自嘲気味に笑った。都市伝説。子供だましの与太話だ。だが、その言葉は彼の心に小さな棘のように突き刺さった。絶望が深いほど、人は非合理な奇跡にさえも手を伸ばしてしまう。その夜、ムールヴァンは寮のベッドの中で、眠れずに何度も寝返りを打った。頭の中では、掲示板の書き込みが繰り返し再生される。
《静寂の終幕者》
もし、本当にそんな存在がいるのなら。もし、本当にこの虚しい物語を終わらせてくれるのなら。リルは、自分がその都市伝説の新たな「依頼人」になりたいと、心の奥底で願っていることに気づいていた。翌日、彼はあてどなく、その存在を探して街を彷徨い始めることを決意した。それは、哲学者になるという夢とは似ても似つかない、あまりにも非現実的で、そして切実な探求の始まりだった。
その探求は、ほとんどあてもない散策に近かった。ムールヴァンは学校のない日になると、掲示板に書き込まれていた曖昧な目撃情報を頼りに、街のさまざまな場所を訪れた。古い教会の裏手、閉鎖された映画館、名前のない路地裏。しかし、どこへ行っても、《静寂の終幕者》の気配すら感じられない。季節は冬へと移り変わり、空からは今年初めての雪が、音もなく舞い落ち始めた。
「……やっぱり、ただの噂話か」
吐く息が白く染まる。諦めにも似た感情が胸をよぎったその時、ムールヴァンはふと、自分が一度も足を踏み入れたことのない公園に迷い込んでいることに気づいた。そこは、街の喧騒から完全に隔絶されたかのような、不思議な静寂に満ちていた。降りしきる雪が、地面に落ちる音さえ聞こえない。まるで、世界の音量をゼロに絞ったかのような、絶対的な無音の空間だった。
公園の中央に、一本の枯れ木が立っている。そして、その下のベンチに、一人の男が静かに座っていた。褪せた銀色の髪が、舞い落ちる雪と同じように、静かに肩に積もっている。その姿は、まるで時が止まった絵画のようだった。ムールヴァンは、吸い寄せられるように、その男へと歩みを進めた。
近づくにつれて、ムールヴァンは異様な感覚に襲われた。男の周囲だけが、まるで凍てついた鏡のように、世界から切り離されている。彼の瞳は、深淵よりも深く、何も映さず、何も語らない。その瞳に見つめられた瞬間、ムールヴァンは確信した。この人だ。この人こそが、僕が終わらせたいと願った物語の登場人物、都市伝説の《静寂の終幕者》に違いない。
男はムールヴァンに視線を向けたまま、動かない。その存在感は、神々しいというよりも、あまりにも希薄だった。まるで、そこに「いない」かのようだ。ムールヴァンはごくりと唾を飲み込み、震える唇を開こうとした。だが、言葉が出てこない。この絶対的な静寂の前では、どんな言葉も意味をなさないように思えた。男は、そんなムールヴァンの葛藤を見透かすように、ただ静かに、雪が降り積もるのを待っているかのようだった。
沈黙が支配する空間で、ムールヴァンは必死に言葉を探した。目の前の男が放つ虚無のオーラは、彼の思考そのものを凍てつかせるかのようだ。だが、ここで引き返すわけにはいかない。この出会いを逃せば、自分は永遠に灰色の回廊を彷徨い続けることになるだろう。ムールヴァンは震える両手を強く握りしめ、心の底から声を絞り出した。
「あなたが……《静寂の終幕者》、ですか」
その声は、静寂の中でかろうじて形を保った。男――白銀神帝は、ゆっくりと瞬きをする。それは肯定でも否定でもない、ただの生理現象のようだった。しかし、ムールヴァンにはそれが答えのように思えた。
勇気を振り絞り、ムールヴァンは自分の物語を語り始めた。母親の顔を知らないこと。その事実が、どれほど自分の心を蝕んできたか。父親への拭いきれない疑念。生きていることそのものに意味を見いだせない、深い虚無感。彼の言葉は、もはや論理的な文章ではなく、魂の断片を吐き出すような、途切れ途切れの告白だった。
「僕のこの物語を……僕という存在の、この虚しい物語を、ここで終わらせてください」
言い終えた瞬間、ムールヴァンの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。それは悲しみや苦しみではなく、ようやく願いを口にできたという安堵の涙だった。彼はすべてを差し出す覚悟で、神帝の審判を待った。
白銀神帝は、初めてムールヴァンという存在を「見た」。その瞳の奥には、《終焉鏡の視座》が静かに宿っている。彼はムールヴァンの過去や未来を映し出すのではない。ただ、その魂が「どう終わるか」という、終焉の形だけを捉えていた。少年の瞳の奥に、彼は静かで穏やかな無への収束線を見る。
神帝は感情の凍てついた顔を微かに動かし、静かにベンチから立ち上がった。降り積もった雪が、音もなくその肩から滑り落ちる。彼はムールヴァンに向かって一歩踏み出し、その深淵のような瞳で、まっすぐにムールヴァンを見つめた。
そして、永遠とも思える沈黙の後、彼の唇から、世界で最初の音であるかのような、静かな言葉が紡がれた。
「……わかった」
その一言は、法則であり、終止符だった。ムールヴァンの物語の終わりが、絶対の現実として定義された瞬間だった。
神帝が「わかった」と告げた瞬間、世界から色が消えた。いや、色だけではない。音、光、風、温度、そしてムールヴァン自身の感情さえもが、急速にその意味を失っていく。神帝が軽く指を鳴らすと、公園の風景は白い光の粒子となって霧散し、周囲は完全な「無」に包まれた。ここは《虚無の結界》。すべての現象、感情、概念が消去され、“何も存在しない空間”だ。
ムールヴァンは恐怖を感じなかった。むしろ、心の奥底から求めていた静寂が、ようやく訪れたという安堵に満たされていた。目の前には、白銀神帝だけが静かに佇んでいる。彼の褪せた銀髪だけが、この無の空間で唯一の色を持つ存在だった。
「お前の物語は、ここで終わる」
神帝が《白銀終律》を発動する。その言葉は、ムールヴァンの魂に直接刻み込まれる絶対の法則。彼の存在を縛り付けていた、母親の不在という根源の苦悩、父親への疑念、孤独感、そして生きることの虚しさ。それらすべてが、この一言によって終焉を宣告された。
神帝はムールヴァンに向かって歩み寄り、彼の目の前でゆっくりと両腕を広げる。その動きには、何の感情も込められていない。ただ、定められた儀式を執り行うかのように、淡々としている。そして、彼はムールヴァンを優しく抱きしめた。《沈黙の抱擁》。それは、触れた者の記憶、存在、因果を、慈しむように、そして完全に消し去るための最後の儀式だった。
触れた瞬間、ムールヴァンの周囲に銀色の霧が広がった。音が消え、光が薄れ、記憶がぼやけていく。温かいとか冷たいとか、そんな感覚すらない。ただ、自分が自分であったことの輪郭が、雪が春の日差しに溶けていくように、静かに、穏やかに消えていく。彼を苦しめていたすべての記憶が、美しい光の塵となって霧散していくのが見えた。父親の顔、寮の部屋、街の風景。それらはもはや、何の感情も伴わない、ただのイメージの羅列に過ぎなかった。
最後に、彼の意識に浮かんだのは、白銀神帝の深淵のような瞳だった。その瞳は、何も映さず、何も語らない。ただ、永遠の静寂だけがそこにあった。
「……ありがとう、神帝さん。さようなら」
少年の唇が、かすかにそう動いたように見えた。
「……さようなら」
神帝のその言葉が、ムールヴァンの古い物語に打たれた最後の終止符だった。彼の意識は、完全に無へと還っていった。
《虚無の結界》が解けると、公園は元の冬景色に戻っていた。だが、そこにムールヴァンの姿はない。ベンチにも、雪の上にも、彼がいた痕跡は残らない。街の人々は、ひとりの少年の失踪を一時は不思議がったが、ほどなくして誰も語らなくなった。記憶は、薄い氷のように静かに融けていく。白銀神帝が通り過ぎた場所には、名も痕跡も残らないのだ。
白銀神帝は、月下を歩く。次なる「終わり」を求めて。理性の帝は、静かに幕を引く――それが、彼の最後の秩序だった。
「……さようなら」
彼の声は、雪明かりに溶け、どこにも届かず、どこまでも澄んでいた。
「母さんって、どんな人だったんだろう……」
他人の家族を見かけるたび、胸の奥に冷たい針が刺さる。父親のオジェは遠くにいて、会うのも億劫だ。母のことを聞くと、父親の目が曇るからだ。ムールヴァンは哲学書を読み漁った。存在とは何か、記憶とは何か――答えは見つからない。ただ、疑問だけが積もっていく。
休日の喧騒が、ムールヴァン=ル=ダノワの世界からだけ切り離されているかのようだった。全寮制の中学校に通う彼にとって、週末の外出は束の間の解放であるはずなのに、その心はいつも、厚いガラス一枚を隔てた向こう側にある風景を眺めているような感覚に囚われていた。
公園のベンチ、カフェのテラス、デパートの入り口。どこに視線を向けても、そこには「家族」という名の、温かく、そして残酷な光景が広がっている。父親と母親に挟まれて笑う子供。その当たり前の光景が、ムールヴァンの胸を鋭く抉る。彼には母親の記憶がない。物心ついた時から、父親であるオジェと二人きりの生活だった。その父親も、今では寮の冷たいベッドと、時折送られてくる短い手紙だけの存在だ。
「……母さん」
誰にも聞こえない声で呟く。その言葉は音にならず、彼の内側で虚しく反響するだけだ。白い髪が、冬の気配を帯びた風に揺れる。同じ色をした瞳は世界の色彩を映しながらも、どこか現実感を欠いていた。まるで、古いモノクロ映画のワンシーンのようだ。周囲の笑い声も、街のざわめきも、彼に届く頃にはすべての音響を失っている。
なぜ、僕には母親がいないのだろう。その問いは、いつしか父親への漠然とした疑念へと姿を変えていた。何かを隠しているのではないか。僕の知らないところで、何か大きな嘘があるのではないか。その疑念が膨らむほど、父親に会うのが億劫になった。手紙の返事を書く指は、いつも途中で止まってしまう。
この世界の真理を知りたい。自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのか。その答えを見つけるために、哲学者になりたいとムールヴァンは願っていた。だが、それは高尚な探究心というより、目の前の孤独から逃れるための、ただ一つの言い訳に過ぎなかったのかもしれない。真理を探究すれば、この虚しさは埋まるのだろうか。答えの出ない問いだけが、灰色の世界で彼の思考を埋め尽くしていく。休日の終わりを告げるチャイムが遠くで鳴り響き、ムールヴァンは重い腰を上げて、再び色のない寮への道を歩き始めた。
灰色の日常は、まるで終わりのない回廊のようだった。ムールヴァンは答えを求めて、学校の図書館に足繁く通うようになった。哲学書の棚を漁り、古代の思想家から現代の分析哲学者まで、あらゆる「真理」とされる言葉の海を泳いだ。だが、どのページをめくっても、彼の心を埋める言葉は見つからない。存在の証明、認識の限界、善と悪の定義。それらはすべて、彼の抱える根源的な「不在」の前では、空虚な言葉遊びにしか思えなかった。
「もっと、直接的な……終わらせる方法はないのか」
その呟きは、無意識の願望だった。もはや彼は、真理の探究による救済ではなく、この苦しみそのものの消滅を求め始めていた。その日、ムールヴァンはいつものように図書館の片隅で分厚い本を広げながら、ふと、閲覧用のタブレット端末に手を伸ばした。検索窓に打ち込んだのは、これまで考えもしなかった言葉だった。
――「すべてを終わらせる方法」
検索結果には、ありふれた自己啓発サイトや、ありきたりなカウンセリングの案内が並ぶ。だが、その中に一つだけ、異質な輝きを放つリンクがあった。古びたデザインのオカルト系掲示板のスレッドだ。
タイトルは、《静寂の終幕者》について語るスレ。
そこには、まるで出来の悪いホラー小説のような書き込みが並んでいた。街のどこかに、すべての物事を「終わり」に導く存在がいる、と。ある者は、彼に会って失恋の苦しみを終わらせてもらったと書き込み、またある者は、終わらない借金地獄から解放されたと綴っていた。そのどれもが、現実味のない、荒唐無稽な与太話にしか見えない。
『彼が「終わる」と告げれば、それが絶対の法則となる』
『触れられただけで、記憶も存在も消え去るらしい』
『依頼人として、本気で「終わり」を願う者の前にしか現れない』
「……馬鹿げてる」
ムールヴァンはタブレットの電源を切り、自嘲気味に笑った。都市伝説。子供だましの与太話だ。だが、その言葉は彼の心に小さな棘のように突き刺さった。絶望が深いほど、人は非合理な奇跡にさえも手を伸ばしてしまう。その夜、ムールヴァンは寮のベッドの中で、眠れずに何度も寝返りを打った。頭の中では、掲示板の書き込みが繰り返し再生される。
《静寂の終幕者》
もし、本当にそんな存在がいるのなら。もし、本当にこの虚しい物語を終わらせてくれるのなら。リルは、自分がその都市伝説の新たな「依頼人」になりたいと、心の奥底で願っていることに気づいていた。翌日、彼はあてどなく、その存在を探して街を彷徨い始めることを決意した。それは、哲学者になるという夢とは似ても似つかない、あまりにも非現実的で、そして切実な探求の始まりだった。
その探求は、ほとんどあてもない散策に近かった。ムールヴァンは学校のない日になると、掲示板に書き込まれていた曖昧な目撃情報を頼りに、街のさまざまな場所を訪れた。古い教会の裏手、閉鎖された映画館、名前のない路地裏。しかし、どこへ行っても、《静寂の終幕者》の気配すら感じられない。季節は冬へと移り変わり、空からは今年初めての雪が、音もなく舞い落ち始めた。
「……やっぱり、ただの噂話か」
吐く息が白く染まる。諦めにも似た感情が胸をよぎったその時、ムールヴァンはふと、自分が一度も足を踏み入れたことのない公園に迷い込んでいることに気づいた。そこは、街の喧騒から完全に隔絶されたかのような、不思議な静寂に満ちていた。降りしきる雪が、地面に落ちる音さえ聞こえない。まるで、世界の音量をゼロに絞ったかのような、絶対的な無音の空間だった。
公園の中央に、一本の枯れ木が立っている。そして、その下のベンチに、一人の男が静かに座っていた。褪せた銀色の髪が、舞い落ちる雪と同じように、静かに肩に積もっている。その姿は、まるで時が止まった絵画のようだった。ムールヴァンは、吸い寄せられるように、その男へと歩みを進めた。
近づくにつれて、ムールヴァンは異様な感覚に襲われた。男の周囲だけが、まるで凍てついた鏡のように、世界から切り離されている。彼の瞳は、深淵よりも深く、何も映さず、何も語らない。その瞳に見つめられた瞬間、ムールヴァンは確信した。この人だ。この人こそが、僕が終わらせたいと願った物語の登場人物、都市伝説の《静寂の終幕者》に違いない。
男はムールヴァンに視線を向けたまま、動かない。その存在感は、神々しいというよりも、あまりにも希薄だった。まるで、そこに「いない」かのようだ。ムールヴァンはごくりと唾を飲み込み、震える唇を開こうとした。だが、言葉が出てこない。この絶対的な静寂の前では、どんな言葉も意味をなさないように思えた。男は、そんなムールヴァンの葛藤を見透かすように、ただ静かに、雪が降り積もるのを待っているかのようだった。
沈黙が支配する空間で、ムールヴァンは必死に言葉を探した。目の前の男が放つ虚無のオーラは、彼の思考そのものを凍てつかせるかのようだ。だが、ここで引き返すわけにはいかない。この出会いを逃せば、自分は永遠に灰色の回廊を彷徨い続けることになるだろう。ムールヴァンは震える両手を強く握りしめ、心の底から声を絞り出した。
「あなたが……《静寂の終幕者》、ですか」
その声は、静寂の中でかろうじて形を保った。男――白銀神帝は、ゆっくりと瞬きをする。それは肯定でも否定でもない、ただの生理現象のようだった。しかし、ムールヴァンにはそれが答えのように思えた。
勇気を振り絞り、ムールヴァンは自分の物語を語り始めた。母親の顔を知らないこと。その事実が、どれほど自分の心を蝕んできたか。父親への拭いきれない疑念。生きていることそのものに意味を見いだせない、深い虚無感。彼の言葉は、もはや論理的な文章ではなく、魂の断片を吐き出すような、途切れ途切れの告白だった。
「僕のこの物語を……僕という存在の、この虚しい物語を、ここで終わらせてください」
言い終えた瞬間、ムールヴァンの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。それは悲しみや苦しみではなく、ようやく願いを口にできたという安堵の涙だった。彼はすべてを差し出す覚悟で、神帝の審判を待った。
白銀神帝は、初めてムールヴァンという存在を「見た」。その瞳の奥には、《終焉鏡の視座》が静かに宿っている。彼はムールヴァンの過去や未来を映し出すのではない。ただ、その魂が「どう終わるか」という、終焉の形だけを捉えていた。少年の瞳の奥に、彼は静かで穏やかな無への収束線を見る。
神帝は感情の凍てついた顔を微かに動かし、静かにベンチから立ち上がった。降り積もった雪が、音もなくその肩から滑り落ちる。彼はムールヴァンに向かって一歩踏み出し、その深淵のような瞳で、まっすぐにムールヴァンを見つめた。
そして、永遠とも思える沈黙の後、彼の唇から、世界で最初の音であるかのような、静かな言葉が紡がれた。
「……わかった」
その一言は、法則であり、終止符だった。ムールヴァンの物語の終わりが、絶対の現実として定義された瞬間だった。
神帝が「わかった」と告げた瞬間、世界から色が消えた。いや、色だけではない。音、光、風、温度、そしてムールヴァン自身の感情さえもが、急速にその意味を失っていく。神帝が軽く指を鳴らすと、公園の風景は白い光の粒子となって霧散し、周囲は完全な「無」に包まれた。ここは《虚無の結界》。すべての現象、感情、概念が消去され、“何も存在しない空間”だ。
ムールヴァンは恐怖を感じなかった。むしろ、心の奥底から求めていた静寂が、ようやく訪れたという安堵に満たされていた。目の前には、白銀神帝だけが静かに佇んでいる。彼の褪せた銀髪だけが、この無の空間で唯一の色を持つ存在だった。
「お前の物語は、ここで終わる」
神帝が《白銀終律》を発動する。その言葉は、ムールヴァンの魂に直接刻み込まれる絶対の法則。彼の存在を縛り付けていた、母親の不在という根源の苦悩、父親への疑念、孤独感、そして生きることの虚しさ。それらすべてが、この一言によって終焉を宣告された。
神帝はムールヴァンに向かって歩み寄り、彼の目の前でゆっくりと両腕を広げる。その動きには、何の感情も込められていない。ただ、定められた儀式を執り行うかのように、淡々としている。そして、彼はムールヴァンを優しく抱きしめた。《沈黙の抱擁》。それは、触れた者の記憶、存在、因果を、慈しむように、そして完全に消し去るための最後の儀式だった。
触れた瞬間、ムールヴァンの周囲に銀色の霧が広がった。音が消え、光が薄れ、記憶がぼやけていく。温かいとか冷たいとか、そんな感覚すらない。ただ、自分が自分であったことの輪郭が、雪が春の日差しに溶けていくように、静かに、穏やかに消えていく。彼を苦しめていたすべての記憶が、美しい光の塵となって霧散していくのが見えた。父親の顔、寮の部屋、街の風景。それらはもはや、何の感情も伴わない、ただのイメージの羅列に過ぎなかった。
最後に、彼の意識に浮かんだのは、白銀神帝の深淵のような瞳だった。その瞳は、何も映さず、何も語らない。ただ、永遠の静寂だけがそこにあった。
「……ありがとう、神帝さん。さようなら」
少年の唇が、かすかにそう動いたように見えた。
「……さようなら」
神帝のその言葉が、ムールヴァンの古い物語に打たれた最後の終止符だった。彼の意識は、完全に無へと還っていった。
《虚無の結界》が解けると、公園は元の冬景色に戻っていた。だが、そこにムールヴァンの姿はない。ベンチにも、雪の上にも、彼がいた痕跡は残らない。街の人々は、ひとりの少年の失踪を一時は不思議がったが、ほどなくして誰も語らなくなった。記憶は、薄い氷のように静かに融けていく。白銀神帝が通り過ぎた場所には、名も痕跡も残らないのだ。
白銀神帝は、月下を歩く。次なる「終わり」を求めて。理性の帝は、静かに幕を引く――それが、彼の最後の秩序だった。
「……さようなら」
彼の声は、雪明かりに溶け、どこにも届かず、どこまでも澄んでいた。



