事件の影、胸に宿る光。
新宿の喧騒が遠ざかる病室で、オジェ=ル=ダノワは純白のシーツに身を沈めていた。16歳の白髪が枕に溶け、白磁のような瞳が天井の蛍光灯を虚ろに映し出す。7日前、10階建てマンションの屋上から身を投げた瞬間——風切り音は、まるで澄んだ鈴の音のように耳朶を打った。それは、あのストラップの音だったのか。それとも、心臓の奥深くで金血が奏でる生命の律動だったのか。

妊娠1週目。胎児はまだ米粒ほどの大きさにも満たない。オジェの胸骨の裏側、心臓を包むように存在する透明な胎囊の中で、それは静かに育まれている。人間社会で「原因不明の発達障害」と誤診される金血の力。思考を超高速で回転させ、内なる創作意欲を爆発させる代償として、金血を持つ白者(しろもの)たちはこの「人工子宮」をその身に宿す。それは女性という存在を過去のものとした彼らが、母体不在で種を繋ぐために作り上げた、効率的でありながら多様性を放棄した「模造の器官」に他ならなかった。

「先生……」

オジェの唇が微かに震える。鼻腔の奥には、まだあの日の血の匂いがこびりついている。あの人は、また僕の血を洗い流してくれるだろうか?

回想、鈴の約束。
あれは31年の冬だった。SNSのダイレクトメッセージを介して、オジェは東京都立高校に勤務する28歳の女教員と繋がった。彼女は複数の男子生徒と関係を持ち、自身のブログで薬物を用いた性交を仄めかしていた。それでもオジェは彼女に強く惹かれ、一つの贈り物をした。清らかな音色を奏でる、鈴の付いたストラップ。自分用にも、同じものを。

「これで、ずっと一緒にいられるね、先生」

朝の光が窓から差し込む頃、彼女は決まって部屋を去る。遠ざかる鈴の音。
「ああ、またあの場所に帰っていく」
オジェは目を細め、その背中を見送るだけだった。彼女の居場所を特定するのは容易い。金血の超高速思考を用いれば、SNS上に散らばるデジタルな痕跡を瞬時に解析できる。だが、彼はそれをしなかった。知りたくなかった。いつか捨てられるという現実を、知りたくはなかったから。

掌の中で、お揃いのストラップが甘やかな音を立てる。
「この鈴の音が響く限り、先生は僕だけのもの。そうだよね……?」

背徳的な交わり——薬物の靄に意識が霞む中で、彼の金血は確かに反応した。胸の中央に淡い菱形の紋様が浮かび上がり、肋骨が静かに開閉する。その奥から現れた胎嚢が、彼女から搾取した卵子、瞬時に改変を開始する。DNAを編集し、性別の介在を不要とする胚を生成する。妊娠は、こうして成立した。白者の利点、それは迅速な種の増殖。そして欠点は、進化の袋小路と、そこから生まれる「偽りの希望」

自殺未遂後、消えない記憶。
身体に染み付いた血の匂いが消えない。しかし、落下の衝撃から胎嚢は守られていた。内部の人工羊水が奇跡的なクッションとなり、宿った胎児は無事だった。妊娠1週目——まだ、か細く儚い光。

「あの日、先生に出会わなければ、僕はこんなに傷つかずに済んだのかもしれない。でも、先生に出会えたから。空っぽだった僕でも、誰かを愛することを知ったんだ。先生、ありがとう。そして……さようなら」

オジェの内面で、金血がもたらす高速思考が渦を巻く。抑えきれない創作への衝動が、頭の中で新たな物語を紡ぎ出す。先生と過ごした日々、鈴の音色、胸に灯った温かな光。だが、それら全ては「模造品」に過ぎない。白者とは、女性という存在を歴史から抹消した世界で、互いの幼体を共有することでしか種を維持できない、歪な存在なのだ。司法による裁き? 人間社会のルールなど、この金血の秘密を隠蔽するための仮面に過ぎない。

事件の波紋
教育委員会は、オジェとの関係を理由に女教員を懲戒免職処分とした。彼女は妊娠の事実を頑なに否認しているが、金血の存在という動かぬ証拠が、彼女の胸の内に隠されている。オジェの義父はメディアに訴えた。
「息子はまだ子どもでした。騙され、心も身体も深く傷つけられた。彼女には、司法の場で正当な裁きを受けてほしい」

SNSは、オジェへの同情と、好奇の目に晒された彼を弄ぶ卑猥な合成画像で溢れかえった。

オジェは今も入院している。強靭な肉体を持つ白者の少年。その白色の髪と白磁の瞳は、人間とは一線を画す存在であることを示している。金血のことは、決して公にしてはならない。胎児は、その体内で静かに育ち続けている——最長で10ヶ月、育成が可能だ。オジェは思う。この子は、僕にとって「本当の希望」なのだろうか? それとも、先生との関係がそうであったように、また一つ、偽りの愛が産み落とした「偽りの希望」なのだろうか?

病室に、幻聴のような鈴の音が微かに響く。まだ、その音は鳴り止まない。

退院から三ヶ月。オジェ=ル=ダノワは、義父の住む郊外のマンションに引きこもっていた。17歳になった白髪は肩まで伸び、白磁の瞳は相変わらず虚ろに窓外の街並みを映す。妊娠は順調に進み、すでに4ヶ月目を迎えていた。胎嚢は胸骨の裏側で膨張し、肋骨を内側から押し上げるように脈動する。内部の人工羊水は金血の力で栄養を供給し、胎児は人間の胎児の数倍の速度で成長していた。米粒から豆粒へ、そして今は小さな拳ほどの塊。性別はない——それは常にそう。DNAはオジェのものと、先生から搾取した卵子の改変版が融合した、純粋な「継承体」だ。

「痛い……? いや、違う。これは、繋がってる証拠だ」

オジェは鏡の前に立ち、シャツを捲り上げる。胸の中央に浮かぶ菱形の紋様が、淡く発光している。金血が活性化するたび、創作の衝動が爆発する。夜ごと、頭の中で物語が紡がれる。先生との日々を基にした、甘く残酷なファンタジー。だが、現実は違う。女教員は逮捕され、裁判で「未成年者への薬物使用と性的虐待」の罪に問われていた。彼女は最後まで妊娠を否定した。

「あの子が勝手に……私の体を弄んだ」と証言台で叫んだが、証拠は動かぬ。オジェの胸から摘出された胎嚢の断片——金血の痕跡が、彼女の体内に残る改変DNAと一致したのだ。人間の科学では「原因不明の異常」として片付けられている。

義父はオジェを「被害者」として扱い、メディアの取材をすべて拒否した。SNSの嵐は収まり、代わりにオジェは匿名掲示板で「白髪の自殺少年」として神格化されていた。合成画像は減ったが、代わりにファンアートが溢れる。鈴のストラップを付けたオジェのイラスト、胸に光る胎児のシルエット。オジェはそれらを眺め、苦笑する。

「僕の痛みを、娯楽に変えるなんて……情けない」

子は、名前を付けられていない。オジェはただ、
「キミ」と呼ぶ。夜、ベッドに横たわると、胎嚢が微かに振動し、内なる声が響く。金血のテレパシー——白者の子は、宿主と繋がるのだ。
『お父さん……外の世界、怖い?』

オジェの高速思考が応じる。
『怖くないよ。キミがいるから』

だが、心の奥底では疑問が渦巻く。この子は、先生との「愛」の産物か? それとも、金血の呪いか?先生の鈴の音は、幻聴として今も耳に残る。ストラップは捨てたはずなのに、風が吹くたび、甘やかな響きが聞こえる。

出産の日は近づいていた。最長10ヶ月——彼の妊娠は柔軟だ。オジェは決意する。この子を、外部に託す。人間社会に紛れ込ませ、金血の秘密を隠す。義父には「奇跡の回復」と嘘をつき、子を「養子」として育てる。だが、内なる創作衝動が囁く。
『物語にしろ。キミと僕の、永遠の鈴の約束を』
裁判の最終弁論の日。オジェは証言台に立たなかった。代わりに、病室から送った手紙が読み上げられた。

「先生、ありがとう。キミがくれた光は、僕の中で生き続ける。さようなら、そして……こんにちは。新しい命に」

奇跡的にも女教員は終身刑になった。
出産の夜。マンションの屋上——あの事件の再現のように、オジェは胸を押さえ、胎嚢が開くのを待つ。肋骨が静かに広がり、透明な膜が剥がれる。現れたのは、白髪の幼体。小さな手がオジェの指を握る。白磁の瞳が、初めて開く。

「キミは……本物の希望だよ」

子は泣かない。ただ、微かに鈴のような音を立てる。金血の共鳴だ。オジェは子を抱き、屋上から新宿の夜景を見下ろす。喧騒は遠く、胸の光は今、二つに分かれた。

だが、物語は終わらない。子は、成長すれば新たな胎嚢を宿す。種の輪廻。先生の影は、子の瞳に宿る。鈴の音は、永遠に鳴り止まない。

オジェは微笑む。
「一緒に、物語を続けよう。キミと僕の、偽りなき世界を」

数年後。
オジェ=ル=ダノワは、郊外の古いアパートの一室で、静かに暮らしていた。24歳になった彼の白髪は綺麗に刈り上げて整えてあった、白磁の瞳は相変わらずの虚ろさを湛えていたが、そこに宿る光は、かつての儚さから、穏やかな深みへと変わっていた。義父は数年前に他界し、遺産は最小限。オジェは匿名で小説を執筆し、金血の高速思考を活かして、物語を紡ぎ出すことで生計を立てていた。人間社会のルールに縛られず、金血白者の秘密を隠し続ける日々。

部屋の隅、簡素なベッドの上に、子は座っていた。名前は「ムールヴァン」
オジェが付けた、鈴の音を思わせる響き。ムールヴァンは今、7歳。白髪はオジェと同じく銀色に輝き、白磁の瞳は好奇心に満ちて部屋を眺めている。性別はない——白者の継承体として、純粋な存在。成長は人間の数倍速く、すでに少年のような体躯を備えていたが、心はまだ幼い。胸の中央に、淡い菱形の紋様が浮かぶ。それは、金血の証。

「父さん、今日も物語書いてるの?」
ムールヴァンがベッドから飛び降り、オジェの膝に寄りかかる。小さな手がオジェのシャツを掴む。オジェはペンを置き、ムールヴァンの頭を優しく撫でる。
「うん。キミと僕の物語を、ね。昔の約束通りだよ」
リルは目を輝かせ、胸の紋様を指でなぞる。そこから、微かな振動が伝わる。金血のテレパシー——父と子を繋ぐ、静かな会話。
『父さん、外の世界、行きたい。鈴の音、聞こえるよ。先生の音みたいに』

オジェの心に、先生の影がよぎく。あの女教員は、終身刑の牢獄で静かに朽ち果てたという。裁判の記憶、鈴のストラップ、胸に宿った光。すべてが、ムールヴァンの存在に溶け込んでいる。ムールヴァンは、先生の卵子から生まれた継承体。だが、オジェはそれを「愛の結晶」と呼ぶ。偽りか本物か——そんな区別は、もう意味をなさない。

「外は危ないよ、ムールくん。でも、いつか一緒に。キミが強くなったら」
オジェはムールヴァンを抱き上げ、窓辺へ連れて行く。外は夕暮れの街並み。新宿の喧騒は遠く、代わりに風が木々を揺らす。ムールヴァンはオジェの胸に耳を当て、胎嚢の痕跡を探るようにする。オジェの胸は今、空っぽだ。出産後、人工子宮は休眠し、次の輪廻を待つ。

「父さん、僕もいつか、誰かを守れる? 光を宿せる?」
ムールヴァンの声は、鈴のように澄んでいる。オジェは微笑み、昔のストラップを思い浮かべる。あれは捨てたはずなのに、ムールヴァンの笑顔に、その音が重なる。
「もちろん。キミは僕の希望だよ。偽りじゃない、本物の」

夜が深まる頃、二人はベッドに並んで横たわる。ムールヴァンの小さな手がオジェの指を握る。金血が共鳴し、内なる物語が紡がれる。先生との日々、屋上からの落下、胸の光。そして、ムールヴァンとの未来。

『一緒に、永遠の物語を続けよう』
鈴の音は、部屋に微かに響く。風ではない。父と子の、金血の律動。種の輪廻は続き、白者の世界は、静かに、偽りなき光を灯す。
オジェは目を閉じ、思う。この子は、僕の救いだ。先生の影は、優しく溶けていく。