八月、空気は乾いたふりをしながら、指先で触れるとたちまち汗を呼んだ。弓道場は夏休みの静けさをまとい、支柱の影が床に正確な四角形を並べる。風鈴はない。あるのは弦の音だけで、誰もいない朝はとくに、音の輪郭が濃かった。悠は、早すぎる時間に扉を開け、道場の匂いを胸奥に落とし込む。木と糸と古い汗。匂いは記憶より先に届く。届いたものが、彼の姿勢を正す。背骨が伸びると、心の中の折り目が一枚、音もなくほどけた。
先日の選考会から、いくつかのことが「少しだけ」変わっていた。顧問は名簿を見ずに「悠」と呼び、立ち順に迷いはない。誰かの囁きは完全には消えないが、かつてのように空気の裏側で膨らまず、すぐに萎む。宗助は、余計な口出しを減らした。減らしたというより、見守る筋肉がついたのだろう。生温い沈黙にも種類があり、鍛えられた沈黙は、言葉よりも多くを伝える。
そして杉浦は——相変わらず、まっすぐだった。だが「言わない」ことと「やめない」ことのバランスを、前よりも上手にとるようになった。言葉は減り、行為が増えた。増えた行為は、押しつけではなく、隣に立つための作法だった。
朝の道場に、もうひとつの影が入る。扉の金具が細く鳴って、杉浦が顔を出した。髪の生え際に汗が光る。まだ誰もいない時間に、当然の顔で来る年下の強さは、相変わらず残酷で、ありがたい。
「先輩、おはようございます」
「おはよう。……早いな」
「先輩が早いから、負けるわけにいかない」
「勝ち負けじゃない」
「俺にとっては勝ち負けです。先輩の隣は、競争で勝ち取る」
冗談の顔つきで言って、冗談ではない響きを残す。彼の“攻め”はいつもこうだ。正面から、笑いをまとって、しかし退かない。退かないことが、他の何よりも悠を救っていた。救いは、押し込むのではなく、並ぶことを選ぶ。並ぶ距離感を測る彼の勘は、日に日に正確さを増していた。
この日は、ふたりで張り紙を張り替えるところから始めた。古い紙を剥がすと、裏面の矢痕が迷路のように露わになる。中心へ向かう痕跡、彷徨の円、何度も同じ場所を刺した焦げ。焦げた輪は、日付のスタンプより正直だ。悠は指の腹で焦げをなぞった。残った煤が白い指に移る。それを見て、杉浦が笑った。
「俺、先輩のこの指が好きです」
「煤のついた指が?」
「矢を張り替えた人の指。汚れの種類が、やさしい」
「汚れに種類なんてあるのか」
「あります。残すための汚れと、消すための汚れ」
「俺のはどっちだ」
「残すほう」
残す——という語の重さが、指の温度を少し上げた。残すに耐えるものを、彼はようやく選べるようになったのだと思い、悠は黙って紙を伸ばした。張った紙は白く、わずかな反射で朝を返す。その白の前に立つと、人はいつも少しだけ正しくなれる。正しさが持続しないことは、もう知っている。それでも、短いあいだだけ正しくいられることは、練習の価値があった。
練習を始める。一本目。弦音は、もう彼を罰さない。音はただ音として骨に触れ、そこに小さな明るい疼きを残して通り過ぎる。二本目、外れる。外れた矢の場所へ、悠は自分から歩いた。外し方の正直さを見る練習は、最近ようやく身についてきた。外れた矢を見に行く足取りが、前より軽い。軽さは、臆病の裏返しではなく、受容の証だと、いまは信じていい。
休憩の水を飲むと、杉浦が口を湿らせてから言った。
「俺、先輩の“好き”を、ずっと待ってました」
「……お前の“好き”に、遅れて追いつくのが、俺の順番らしい」
「順番は、追いついたら入れ替わる」
「入れ替わるのは苦手だ」
「苦手なこと、俺に投げてください。俺、拾います」
簡単に言う。簡単に言って、拾ってみせる。若さの乱暴さは、かぎりなく秩序に近い瞬間がある。その瞬間に限って、悠は彼に甘えることを自分に許した。甘えるは、敗北ではない。敗北のふりをした、共同作業だ。共同作業の手順は、まだぎこちない。ぎこちなさが、ふたりの現在地だ。
大会当日。朝の空は薄く、旗の紐がからからと鳴る。体育館の一角を借りた弓道場は、仮設の匂いをまといながらも、いつもの厳格さを保っている。観覧の椅子に保護者と部員が入り混じり、ここだけは外の季節が少し遅れて到着する。顧問は名前を読み上げ、悠は「二立目右」と呼ばれる。呼ばれ方ひとつで、骨の温度が変わる。変わった温度が視界の水位を上げ、いくつかの視線が泳いで通り過ぎた。
立ち位置に並ぶ。杉浦が先の立ち、悠は後の立ち。少し離れているのに、彼の気配ははっきりと届く。届く気配は、圧ではなく、支えだった。支えは、寄りかからなくても存在する。存在していると知ることが、寄りかかるより強く人を救う。
一本目、杉浦は真ん中を射抜き、観覧席のどこかで短い歓声が上がった。歓声はすぐに空気に溶け、的紙の震えだけが残る。悠は、息を吸う。吸いながら、自分の胸が女であることを、昔ほど残酷に感じないまま、弦を引いた。引くことと、在ることは、同じ動詞の違う活用だ。放つ。矢は中心ではなく、中心の縁に触れて止まった。触れた音の清さに、心の奥で小さく頷く。正確すぎない正確さこそ、いまの彼に似合っていた。
二本目、三本目。点は積み重なり、紙の白が少しずつ削られていく。白は、削られて価値が出る。中心だけが価値ではない。外側の削れにも、今日の気配が刻まれる。
最後の一本。場内の空気が、目に見えない薄膜のように平らになった。杉浦が弦を引く。頬に矢羽が触れる。その瞬間、彼は視線だけで、振り向かずに悠の場所を確かめた。確かめられた気配は、頷きよりも短く、しかし確かだった。弦音。真。紙が軋み、中心に穴が広がる。穴は黒く、静かだ。静かな黒は、祝福に似る。
控えに戻ると、宗助が観覧席の端で片手を挙げた。顔はいつもの皮肉な形をしているのに、目だけが少し濡れて見えた。彼は近づき、「お前ら、やっと“普通”に立ってる」と言った。普通——という語の危うさを、三人とも知っている。それでも、その言葉しか今は見つからなかった。危うい言葉を、今日は危うくないように使える気がした。
午後の表彰のあと、校舎裏の風の通り道に、三人は座った。自販機の影は短く、缶の水滴がゆっくりと彼らの指を濡らす。杉浦が、缶の縁で軽く指を叩きながら言った。
「先輩。俺、約束の“別の形”、返していいですか」
「……今?」
「今がいい」
宗助が気配を察して立ち上がる。「俺、あっちの売店行ってくるわ」
去り際の背中が、彼なりの拍手をしている。音のない拍手。拍手は音がなくても、じゅうぶんに効く。
ふたりきりになった風の中で、杉浦は真正面から立った。背伸びも、斜に構えることもしない、その年齢にだけ許された姿勢で。
「俺が先輩に借りたのは、音と、視線と、“生き直す”の練習です。返します。俺の“好き”に、先輩が遅れて追いついたぶんだけ、余った分を俺が抱えます」
「余るのか」
「余らせます。余白がないと、人は呼吸できない」
「……うまく言う」
「先輩に教わったから」
悠は笑った。笑いの形は、以前と違っていた。引き攣れが少ない。少ないぶんだけ、頬の奥に熱が溜まる。熱は感情を勝手に言語化し、言語化されたものは、意外なほど軽くなる。
「じゃあ俺は、少しだけ生き直す。少しずつ、少しだけ。お前の好きに遅れて」
「はい。遅れて。」
遅れて——という言い方が、ふたりの合図になりつつある。遅れて届く救いを、遅れて受け取る。遅れが、歩調になる。歩調を合わせるのは、恋の一番地味で、一番確かな部分だ。
「……悠先輩」
呼び名は“先輩”のまま、名前が頭にきちんと置かれた。彼は、両手で小さく丸を作るみたいに、慎重に言葉を置いた。
「俺は、先輩のことを“男として”好きです。前も言ったけど、今はもっとはっきり言える。先輩がどんな体で、どんな呼び方をされて、どんな日を引いても、俺は“先輩”じゃなく“悠”を好きです。だから、俺の隣にいてください。——俺が守ります」
守る、という言葉は、軽く聞こえる危険を持っている。だがいまは、危険ではなかった。言葉の内側に、練習と敗北と、遅れて届いた救いの回数が堆積している。その重さが、言葉を支える。
悠は、頷いた。頷きながら、胸の奥で何かが音を立てて外れた。外れたのは、長いあいだ固着していた金具のようなものだ。外れた隙間に風が入り、彼は深く息を吸った。吸いながら、はっきりと言った。
「俺は、お前が好きだ。——男として、お前を好きだ」
完璧に言えたわけではない。言い淀みは残る。だが、その不完全さを含めて、正しかった。正しさは、今日に限って、こちらの側に立った。
杉浦は笑わなかった。少し潤んだ目で「はい」とだけ答える。はい、の一音が、ふたりの関係を未来のほうへ軽く押した。軽く押された未来は、過度な期待を要求しない。要求しない未来こそ、現実に根を張る。
日が傾き、グラウンドの白線が金色になる頃、道場に戻って最後の一本だけ引くことにした。ふたりで張った白い紙には、まだ一つも穴がない。最初の音は、記念になる。記念は、のちの困難を笑うための燃料だ。
「音、借ります」と杉浦。
「返せよ」と悠。
「利子は、一緒に帰ることで」と杉浦。
「高いな」
「安すぎます」
笑って、同時に弦を引いた。矢羽が頬に触れる。夏の光が白い紙に跳ね、細い埃が浮く。呼吸が合う。合った呼吸が、二本の矢の重さを一瞬だけ等しくする。放つ。
音が重なり、梁に登ってから、静かに降りてきた。中心と中心のわずかにずれた場所に、二つの穴が並ぶ。完全に重ならない並びが、今日の答えだった。重ねるのではなく、並べる。並びながら、同じ方角を向く。
控えの畳に腰を下ろすと、さっきまで知らなかった種類の疲労が降りてきた。軽いのに、深い。深いのに、痛くない。杉浦が横に座り、手の甲でそっと床を撫でた。撫でられた畳が、きしりと短く鳴く。鳴った畳の音に、悠は微笑む。小さな葉擦れのような笑いだ。
宗助が、いつのまにか入口に立っている。腕を組み、呆れ顔で、しかし目尻だけ下げて言った。
「……やっと、見守るだけでよくなった」
「前から見守ってただろ」と悠。
「いや、前は見張ってた」と宗助が笑う。「これからは、見守る。二人で勝手にやっていけ」
「勝手に、って好きな言い方ですね」と杉浦。
「好きだよ。勝手に幸せになれって言われるの、最高だろ」
最高、という軽い言葉に、今日だけは嘘が混じらなかった。嘘は必要だが、要らない瞬間もある。いまは、要らない。三人は同時に頷いた。頷きは、拍手より静かで、演奏の終わりを告げる。
外に出ると、夏の雲が街の角を曲がっていく。遠くで花火の音が遅れて響く。遅れて届く音は、救いの仕上げに似ている。仕上げの手際は、いつも誰かの無名のやさしさに支えられている。顧問の一拍、宗助の黙り、部員の視線の萎み、杉浦の遅れない歩幅——そのすべてが、遅れて届く救いの部品だった。
帰り道。校門までの短い坂道を並んで歩く。蝉の鳴き声はうるさいが、今日は騒音ではなく、背景だった。杉浦がポケットに手を入れ、指先で紙切れをしわくちゃにする。緊張の癖だ。癖は愛らしい。愛らしいものを愛らしいと言える余裕が、悠の中に生まれている。
「先輩」
「ん」
「初めて会った日から、今日の音を想像してました」
「先の音が聞こえてたのか」
「先輩の中で鳴ってた音が、ようやく俺にも聞こえただけです」
「……生意気」
「年下の特権」
「じゃあ、先輩の特権は?」
「俺が全部、好きだって言う権利」
言い返せない陳腐さが、胸の内で甘く転がる。陳腐は、幸福の必要条件だ。複雑な幸福は長持ちしない。単純な幸福は、手に馴染む。
校門の影で立ち止まり、二人は向かい合った。握手のように自然に、しかし握手ではない角度で、手が触れた。指の温度は似ていた。似ていることに安心する。違っていることに希望を持つ。指を離さないまま、悠は言った。
「——俺が好きな“あなた”を、あなたが愛せるようになるまで。約束どおり、少しだけ俺は生き直す。少しずつ、遅れて」
「はい。俺は、その遅れを、何度でも追いかけます」
「追いかけるの、得意だもんな」
「先輩は、逃げるの、前より下手になった」
「それは……認める」
笑い合う。笑いの音が、夏の厚い空気を少しだけ薄くする。薄くなった空に、白い雲が透けて、そこに細い道が見える気がした。道は、二本だった。並行して、遠くまで伸びている。交わらない代わりに、視界の端でずっと寄り添う道。ふたりは、その道を選んだ。選ぶのに、大きな儀式はいらない。小さなうなずきと、遅れて届く救いを信じるだけでよかった。
帰ろう、と杉浦が言う。
帰ろう、と悠が応える。
いつもと同じ道なのに、少しだけ短く感じられる。少しだけ、軽い。
弓の音は、今日も骨の中で静かに鳴っている。
その音はもう、罰ではない。
ふたりで分け合う、合図だった。
(了)
先日の選考会から、いくつかのことが「少しだけ」変わっていた。顧問は名簿を見ずに「悠」と呼び、立ち順に迷いはない。誰かの囁きは完全には消えないが、かつてのように空気の裏側で膨らまず、すぐに萎む。宗助は、余計な口出しを減らした。減らしたというより、見守る筋肉がついたのだろう。生温い沈黙にも種類があり、鍛えられた沈黙は、言葉よりも多くを伝える。
そして杉浦は——相変わらず、まっすぐだった。だが「言わない」ことと「やめない」ことのバランスを、前よりも上手にとるようになった。言葉は減り、行為が増えた。増えた行為は、押しつけではなく、隣に立つための作法だった。
朝の道場に、もうひとつの影が入る。扉の金具が細く鳴って、杉浦が顔を出した。髪の生え際に汗が光る。まだ誰もいない時間に、当然の顔で来る年下の強さは、相変わらず残酷で、ありがたい。
「先輩、おはようございます」
「おはよう。……早いな」
「先輩が早いから、負けるわけにいかない」
「勝ち負けじゃない」
「俺にとっては勝ち負けです。先輩の隣は、競争で勝ち取る」
冗談の顔つきで言って、冗談ではない響きを残す。彼の“攻め”はいつもこうだ。正面から、笑いをまとって、しかし退かない。退かないことが、他の何よりも悠を救っていた。救いは、押し込むのではなく、並ぶことを選ぶ。並ぶ距離感を測る彼の勘は、日に日に正確さを増していた。
この日は、ふたりで張り紙を張り替えるところから始めた。古い紙を剥がすと、裏面の矢痕が迷路のように露わになる。中心へ向かう痕跡、彷徨の円、何度も同じ場所を刺した焦げ。焦げた輪は、日付のスタンプより正直だ。悠は指の腹で焦げをなぞった。残った煤が白い指に移る。それを見て、杉浦が笑った。
「俺、先輩のこの指が好きです」
「煤のついた指が?」
「矢を張り替えた人の指。汚れの種類が、やさしい」
「汚れに種類なんてあるのか」
「あります。残すための汚れと、消すための汚れ」
「俺のはどっちだ」
「残すほう」
残す——という語の重さが、指の温度を少し上げた。残すに耐えるものを、彼はようやく選べるようになったのだと思い、悠は黙って紙を伸ばした。張った紙は白く、わずかな反射で朝を返す。その白の前に立つと、人はいつも少しだけ正しくなれる。正しさが持続しないことは、もう知っている。それでも、短いあいだだけ正しくいられることは、練習の価値があった。
練習を始める。一本目。弦音は、もう彼を罰さない。音はただ音として骨に触れ、そこに小さな明るい疼きを残して通り過ぎる。二本目、外れる。外れた矢の場所へ、悠は自分から歩いた。外し方の正直さを見る練習は、最近ようやく身についてきた。外れた矢を見に行く足取りが、前より軽い。軽さは、臆病の裏返しではなく、受容の証だと、いまは信じていい。
休憩の水を飲むと、杉浦が口を湿らせてから言った。
「俺、先輩の“好き”を、ずっと待ってました」
「……お前の“好き”に、遅れて追いつくのが、俺の順番らしい」
「順番は、追いついたら入れ替わる」
「入れ替わるのは苦手だ」
「苦手なこと、俺に投げてください。俺、拾います」
簡単に言う。簡単に言って、拾ってみせる。若さの乱暴さは、かぎりなく秩序に近い瞬間がある。その瞬間に限って、悠は彼に甘えることを自分に許した。甘えるは、敗北ではない。敗北のふりをした、共同作業だ。共同作業の手順は、まだぎこちない。ぎこちなさが、ふたりの現在地だ。
大会当日。朝の空は薄く、旗の紐がからからと鳴る。体育館の一角を借りた弓道場は、仮設の匂いをまといながらも、いつもの厳格さを保っている。観覧の椅子に保護者と部員が入り混じり、ここだけは外の季節が少し遅れて到着する。顧問は名前を読み上げ、悠は「二立目右」と呼ばれる。呼ばれ方ひとつで、骨の温度が変わる。変わった温度が視界の水位を上げ、いくつかの視線が泳いで通り過ぎた。
立ち位置に並ぶ。杉浦が先の立ち、悠は後の立ち。少し離れているのに、彼の気配ははっきりと届く。届く気配は、圧ではなく、支えだった。支えは、寄りかからなくても存在する。存在していると知ることが、寄りかかるより強く人を救う。
一本目、杉浦は真ん中を射抜き、観覧席のどこかで短い歓声が上がった。歓声はすぐに空気に溶け、的紙の震えだけが残る。悠は、息を吸う。吸いながら、自分の胸が女であることを、昔ほど残酷に感じないまま、弦を引いた。引くことと、在ることは、同じ動詞の違う活用だ。放つ。矢は中心ではなく、中心の縁に触れて止まった。触れた音の清さに、心の奥で小さく頷く。正確すぎない正確さこそ、いまの彼に似合っていた。
二本目、三本目。点は積み重なり、紙の白が少しずつ削られていく。白は、削られて価値が出る。中心だけが価値ではない。外側の削れにも、今日の気配が刻まれる。
最後の一本。場内の空気が、目に見えない薄膜のように平らになった。杉浦が弦を引く。頬に矢羽が触れる。その瞬間、彼は視線だけで、振り向かずに悠の場所を確かめた。確かめられた気配は、頷きよりも短く、しかし確かだった。弦音。真。紙が軋み、中心に穴が広がる。穴は黒く、静かだ。静かな黒は、祝福に似る。
控えに戻ると、宗助が観覧席の端で片手を挙げた。顔はいつもの皮肉な形をしているのに、目だけが少し濡れて見えた。彼は近づき、「お前ら、やっと“普通”に立ってる」と言った。普通——という語の危うさを、三人とも知っている。それでも、その言葉しか今は見つからなかった。危うい言葉を、今日は危うくないように使える気がした。
午後の表彰のあと、校舎裏の風の通り道に、三人は座った。自販機の影は短く、缶の水滴がゆっくりと彼らの指を濡らす。杉浦が、缶の縁で軽く指を叩きながら言った。
「先輩。俺、約束の“別の形”、返していいですか」
「……今?」
「今がいい」
宗助が気配を察して立ち上がる。「俺、あっちの売店行ってくるわ」
去り際の背中が、彼なりの拍手をしている。音のない拍手。拍手は音がなくても、じゅうぶんに効く。
ふたりきりになった風の中で、杉浦は真正面から立った。背伸びも、斜に構えることもしない、その年齢にだけ許された姿勢で。
「俺が先輩に借りたのは、音と、視線と、“生き直す”の練習です。返します。俺の“好き”に、先輩が遅れて追いついたぶんだけ、余った分を俺が抱えます」
「余るのか」
「余らせます。余白がないと、人は呼吸できない」
「……うまく言う」
「先輩に教わったから」
悠は笑った。笑いの形は、以前と違っていた。引き攣れが少ない。少ないぶんだけ、頬の奥に熱が溜まる。熱は感情を勝手に言語化し、言語化されたものは、意外なほど軽くなる。
「じゃあ俺は、少しだけ生き直す。少しずつ、少しだけ。お前の好きに遅れて」
「はい。遅れて。」
遅れて——という言い方が、ふたりの合図になりつつある。遅れて届く救いを、遅れて受け取る。遅れが、歩調になる。歩調を合わせるのは、恋の一番地味で、一番確かな部分だ。
「……悠先輩」
呼び名は“先輩”のまま、名前が頭にきちんと置かれた。彼は、両手で小さく丸を作るみたいに、慎重に言葉を置いた。
「俺は、先輩のことを“男として”好きです。前も言ったけど、今はもっとはっきり言える。先輩がどんな体で、どんな呼び方をされて、どんな日を引いても、俺は“先輩”じゃなく“悠”を好きです。だから、俺の隣にいてください。——俺が守ります」
守る、という言葉は、軽く聞こえる危険を持っている。だがいまは、危険ではなかった。言葉の内側に、練習と敗北と、遅れて届いた救いの回数が堆積している。その重さが、言葉を支える。
悠は、頷いた。頷きながら、胸の奥で何かが音を立てて外れた。外れたのは、長いあいだ固着していた金具のようなものだ。外れた隙間に風が入り、彼は深く息を吸った。吸いながら、はっきりと言った。
「俺は、お前が好きだ。——男として、お前を好きだ」
完璧に言えたわけではない。言い淀みは残る。だが、その不完全さを含めて、正しかった。正しさは、今日に限って、こちらの側に立った。
杉浦は笑わなかった。少し潤んだ目で「はい」とだけ答える。はい、の一音が、ふたりの関係を未来のほうへ軽く押した。軽く押された未来は、過度な期待を要求しない。要求しない未来こそ、現実に根を張る。
日が傾き、グラウンドの白線が金色になる頃、道場に戻って最後の一本だけ引くことにした。ふたりで張った白い紙には、まだ一つも穴がない。最初の音は、記念になる。記念は、のちの困難を笑うための燃料だ。
「音、借ります」と杉浦。
「返せよ」と悠。
「利子は、一緒に帰ることで」と杉浦。
「高いな」
「安すぎます」
笑って、同時に弦を引いた。矢羽が頬に触れる。夏の光が白い紙に跳ね、細い埃が浮く。呼吸が合う。合った呼吸が、二本の矢の重さを一瞬だけ等しくする。放つ。
音が重なり、梁に登ってから、静かに降りてきた。中心と中心のわずかにずれた場所に、二つの穴が並ぶ。完全に重ならない並びが、今日の答えだった。重ねるのではなく、並べる。並びながら、同じ方角を向く。
控えの畳に腰を下ろすと、さっきまで知らなかった種類の疲労が降りてきた。軽いのに、深い。深いのに、痛くない。杉浦が横に座り、手の甲でそっと床を撫でた。撫でられた畳が、きしりと短く鳴く。鳴った畳の音に、悠は微笑む。小さな葉擦れのような笑いだ。
宗助が、いつのまにか入口に立っている。腕を組み、呆れ顔で、しかし目尻だけ下げて言った。
「……やっと、見守るだけでよくなった」
「前から見守ってただろ」と悠。
「いや、前は見張ってた」と宗助が笑う。「これからは、見守る。二人で勝手にやっていけ」
「勝手に、って好きな言い方ですね」と杉浦。
「好きだよ。勝手に幸せになれって言われるの、最高だろ」
最高、という軽い言葉に、今日だけは嘘が混じらなかった。嘘は必要だが、要らない瞬間もある。いまは、要らない。三人は同時に頷いた。頷きは、拍手より静かで、演奏の終わりを告げる。
外に出ると、夏の雲が街の角を曲がっていく。遠くで花火の音が遅れて響く。遅れて届く音は、救いの仕上げに似ている。仕上げの手際は、いつも誰かの無名のやさしさに支えられている。顧問の一拍、宗助の黙り、部員の視線の萎み、杉浦の遅れない歩幅——そのすべてが、遅れて届く救いの部品だった。
帰り道。校門までの短い坂道を並んで歩く。蝉の鳴き声はうるさいが、今日は騒音ではなく、背景だった。杉浦がポケットに手を入れ、指先で紙切れをしわくちゃにする。緊張の癖だ。癖は愛らしい。愛らしいものを愛らしいと言える余裕が、悠の中に生まれている。
「先輩」
「ん」
「初めて会った日から、今日の音を想像してました」
「先の音が聞こえてたのか」
「先輩の中で鳴ってた音が、ようやく俺にも聞こえただけです」
「……生意気」
「年下の特権」
「じゃあ、先輩の特権は?」
「俺が全部、好きだって言う権利」
言い返せない陳腐さが、胸の内で甘く転がる。陳腐は、幸福の必要条件だ。複雑な幸福は長持ちしない。単純な幸福は、手に馴染む。
校門の影で立ち止まり、二人は向かい合った。握手のように自然に、しかし握手ではない角度で、手が触れた。指の温度は似ていた。似ていることに安心する。違っていることに希望を持つ。指を離さないまま、悠は言った。
「——俺が好きな“あなた”を、あなたが愛せるようになるまで。約束どおり、少しだけ俺は生き直す。少しずつ、遅れて」
「はい。俺は、その遅れを、何度でも追いかけます」
「追いかけるの、得意だもんな」
「先輩は、逃げるの、前より下手になった」
「それは……認める」
笑い合う。笑いの音が、夏の厚い空気を少しだけ薄くする。薄くなった空に、白い雲が透けて、そこに細い道が見える気がした。道は、二本だった。並行して、遠くまで伸びている。交わらない代わりに、視界の端でずっと寄り添う道。ふたりは、その道を選んだ。選ぶのに、大きな儀式はいらない。小さなうなずきと、遅れて届く救いを信じるだけでよかった。
帰ろう、と杉浦が言う。
帰ろう、と悠が応える。
いつもと同じ道なのに、少しだけ短く感じられる。少しだけ、軽い。
弓の音は、今日も骨の中で静かに鳴っている。
その音はもう、罰ではない。
ふたりで分け合う、合図だった。
(了)



