六月は、ものの腐りやすい月だ。台所に置き忘れた一切れのパンのふちが、夜のうちに白く毛羽立つ。教室の隅の雑巾は、昨日の水分を飲みきれずに生ぬるく息をし、黒ずんだ匂いを吐く。風は湿り気を落としながら校舎を縫い、廊下の掲示物をひそやかにずらす。そういう小さな変化が、悠のからだの内側でも同時に起きていた。見た目は変わらないのに、内側の境界が泡立って、触れた指の跡がなかなか消えない。腐りやすい六月は、正確に悠の名を呼ぶ。
弓道場は、今日も清潔のふりをしていた。畳は掃かれ、弓は壁に整列し、矢束は既定の位置で黙っている。だが、空気はそうではない。前の時間にいた誰かの汗と、洗いたての胴着の柔軟剤、雨上がりの土と、時々まぎれ込む髪の油臭。人間の匂いは、自然や清潔の名で包もうとしても、包まれた先で必ず顔を出す。悠は、それを嫌悪と同時に安心として吸い込む。嫌悪は境界を濃くし、安心は境界を薄める。相反する働きが同時に起こるとき、心は忙しくなり、忙しさは生きている証のように見える。見えるだけで、実際のところは摩耗に近い。
杉浦は、黙って現れる。声をかけず、しかし視線だけは正確に悠を探し当て、そこにしばらく立てかける。最近の彼は「好き」を言わない。言わないのに、言っている。沈黙のなかに、彼の「好き」は粒子のように浮遊し、光を受けるたびきらきらと漂う。悠はそれを目に入れないように、視線を固くして的の黒い中心だけを見る。見続ければ、中心はじきに穴として立ち上がる。落ちる用意の整った穴。落ちたくないと願うほど、穴は人の体温を真似る。温かい穴に、人は落ちやすい。
矢羽を頬に寄せる。引き分ける。呼吸が浅くなる。浅さは、うそをつくときの呼吸に似ていた。放つ。弦音が道場の梁の骨を震わせ、薄く長い残響になって床の木目を撫でる。隣で、杉浦の矢が追いかける。ふたつの音が重なった一瞬、悠はわずかに目を閉じる。閉じたまぶたの裏で、音は“名前”に変換される。誰かが、指先で彼の名を撫でていく感覚が、脈の合間に挿し込まれる。名を呼ばれることは、所有を仄めかされることだ。所有の気配に怯えるほど、ひとはそこに身を寄せたがる。恐れは甘さに近い。甘いものは傷口を腫らす。
「先輩」
杉浦は、必要以上に呼ばない。けれど必要の境界は曖昧で、彼の「必要」はいつも悠の直前に伸びてくる。伸びてくる指は、たいてい清潔で爪が短い。短い爪は、触れても傷をつけない。傷がつかない種類の触れ方は、かえって深く侵入してくる。悠は、知らないふりをして弓を拭いた。
「今日、手合わせ……いいですか」
彼は“お願い”の文法を知っている。相手の逃げ道を残しながら、逃げなかった場合の甘い報酬をちらつかせる。成績のいい子どもの作法だ。年下にそういう作法を見つけると、悠は反射的に軽蔑したくなる。軽蔑は、自分の劣等感を隠すための安い布だ。布を被ると一瞬は寒さがやわらぐが、すぐに布の内側が濡れて冷える。濡れた布は皮膚に張りつき、脱ぐときに痛む。痛みは正しさに似ている。正しさは、世界にとって便利だが、人間の骨には重い。
「……いいけど」
手合わせは、儀式のように始まり、儀式のように終わる。互いの矢が並行に飛び、少し外れ、少し集まり、たまに同じ場所を求めて擦れ合う。その擦れる音が、悠には不快で心地よい。革靴と廊下、苛立ちと優しさ、嘘と沈黙――本来こすれ合わないものが摩擦を起こすとき、熱が生まれる。熱は、生き延びるための最後の資源だ。彼はそれを知っている。知っているから、わざと擦らせる。わざと傷をつける。わざと、血を少しだけにじませる。血の匂いは、身体がまだ獣の言葉を覚えている証明になる。獣語は、恥と親しい。
「先輩の矢、やっぱり優しい」
「矢に優しさはない」
「ありますよ。包まれる感じがする」
「包むっていうのは、中心から外へ押しやる圧力の別名だ」
「じゃあ、その圧力に潰されたい」
年下の冗談は、冗談のようで冗談ではない。彼は「潰されたい」と言いながら、潰れる側に立てる体力を持っている。潰す側に回れば楽だが、楽は長持ちしない。長持ちしないものを遠ざけたいと願うのは、怠惰ではなく、経験の蓄積だ。蓄積は年齢に比例しない。人は時に、短い年月で過不足なく壊れる。
練習が終わると、杉浦は矢を束ね、的紙を張り替え、雑巾を固く絞る。動作はどれも簡潔で、丁寧で、彼の育ちの良さが露見する。育ちの良さというのは、単に家のことではない。他人を見下ろす正確な角度を持たない、という意味だ。正しい角度は人を癒やすが、同じだけ人を追い詰める。癒やしと追い詰めが同時に来ると、相手は「あなたを嫌い」と言いづらい。嫌いと言いづらいものは、長く居座る。居座ったものは、やがて家具になり、家具は景色になる。景色にまでなったものは、汚れていても捨てづらい。人間の心の家政はいつも破綻寸前で、破綻を破綻と呼ばないための詩だけが増える。詩はごまかしだ。だが、ごまかしのない生活は、ひどく見苦しい。
「最近、先輩、話さないですね」
「話すことは減る。年を取ると」
「先輩、まだ十七でしょ」
「十七で年を取ってはいけない決まりはない」
杉浦は黙る。黙って、こちらを見て、見ながらわずかに笑う。笑顔は簡単に武器になる。穏やかな武器で刺されると、人は自分が刺されたことに気づくまで時間がかかる。気づいたころには、刃は体内で形を変え、抜けなくなっている。抜くことだけが正義ではない、という言い逃れを覚えてしまうと、人は驚くほど長く刃と仲良くできる。仲良くなった刃は、ある種の慰めになる。
六月の夕方は早い。校舎の影が長く伸び、道場の窓の桟に雨の名残の斑点が残る。悠が弓を片づけ終えると、杉浦が声を落として訊いた。
「先輩。俺、今は“好き”って言いません。言わないけど、消えたわけじゃないです」
「知ってる」
「本当は、言わないほうが卑怯だと思ってる。でも、言うと先輩が逃げる」
「……逃げない」
「逃げます。逃げながら、俺のほうを見てる」
鏡の前で泣き顔を作る練習をしたことがある。泣き顔は、作っているうちに本当になる。心は表情の後からやって来て、表情の意味を追認する。そう学んでしまってから、悠は顔に対して信用を持たない。嘘は顔に住む。けれど、杉浦の顔に住む嘘は、今のところ部屋を借りていないように見える。素のままの表情がまぶしくて、直視し続けると目の裏が痛む。目の裏が痛むと、涙腺が勝手に動く。動くと、負けた気がする。負けを自覚しても人は滅多に死なない。そのことが、まるで救いのようで、罰のようだった。
「……杉浦」
名前を呼ぶ。名前は、こちら側からの人質だ。呼んだ瞬間、相手をこちらの領分に引き込む。引き込んでしまった責任は、呼んだ側に生じる。責任が増えると、人はよくしゃべるか、黙りこくるか、どちらかに寄る。悠は後者だ。言葉に自分の皮膚を持っていかれるのが怖い。皮膚を失った言葉は、誰にでも使われる。
「お前が怖い」
「怖い?」
「まっすぐすぎて、俺の汚いところが全部見える」
「見えるの、嫌ですか」
「嫌だ。嫌に決まってる」
「じゃあ、見えなくしてほしいですか」
わずかな間。間の間に、濁った水の底で沈殿がゆっくり攪拌される。悠の中に、答えの形に似た何かが浮かび上がる。浮かび上がったものは、言葉になる前に腐敗する。腐敗したものを口へ運ぶのは、たいてい自分自身だ。口にいれると、まずい。まずさは、正しさの証拠にはならない。
「わからない」
「じゃあ、俺は照らし続けます。嫌でも見えるように」
照らす、という暴力。見えるようにする、という慈善。両方がいちどきに胸へ入ってきて、奥でねっとり絡み合う。絡んだものは、簡単にはほどけない。ほどけないから、組織の一部のように振る舞い始める。振る舞い始めた異物は、やがて自己だと名乗る。自己と名乗るものを摘出するには、大きく切る必要がある。切るには、麻酔が要る。麻酔役を引き受ける者は、たいてい年下のほうだ。若さは、痛みを一時的に鈍らせる。
夜、宗助に呼ばれる。誰もいない教室。黒板の粉が湿気で固まり、拭き跡が地図みたいに残っている。窓の外では部活動の声が潰れ、遠い雨雲の底のような低い音だけが続く。宗助は机に腰をかけ、片膝を揺らしながら言う。
「どう? 壊れた?」
「お前はいつも結論を急ぐ」
「人は壊れるか、壊れないか、だいたいそれだけで足りる」
「雑だ」
「雑にしないと、お前は聞かない」
宗助は、悠を嘲らない。嘲らないが、甘やかしもしない。人を甘やかさない態度は、無意識の残酷さに支えられていることがある。彼はその残酷さを管理できる程度には賢い。賢さは、ときどき嫌悪の的になる。嫌悪の的にされるのに慣れると、人は鈍くなる。鈍くなった鈍感さは、親切に見える。親切は、ときどき正義よりも厄介だ。
「なあ悠。あの一年、お前を好きなんだろ」
「知らない」
「嘘」
「知らないことにしてる」
「それは嘘より悪い」
悪い、と言われると、悠はいつも黙る。道徳の言葉は、罪悪感の古い藁に火をつけるのがうまい。宗助は声を下げた。
「愛されるの、怖いよな」
悠は目を閉じた。宗助の言葉は、刃物ではなく、重しだ。置かれた場所に動けなくなる種類の重さ。動けないことが、逃げないことだと錯覚しやすい。錯覚でも、今日はそれでいい、と悠は思う。思うこと自体が、逃げだと知りながら。
「愛されると、自分の嫌いが行き場を失う。行き場を失った嫌いは、目に見えるようになる。目に見えるようになった嫌いってのは、手入れを要求する。手入れってのは、つまり“生き直し”だ。お前はそれが面倒で、ずっと殻を磨き続けてきた。殻を磨くのは、内側をいじらなくて済むから」
「……説教が上手くなった」
「お前のおかげでな。で、どうする。殻、割る?」
「割るほど、俺、丈夫じゃない」
「丈夫じゃないやつほど、割ったあと伸びる」
「植物か何かだと思ってる?」
「人間は植物だよ。光に向かって曲がる。お前を照らしてる光、今はひとつしかない。名前は杉浦」
悠は笑った。笑いは、降参の合図に近かった。宗助が勝ったわけではない。ただ、彼の言葉が、悠の中のどろどろに、箸を入れる役目を果たした。混ぜられたものは、表面に泡を出す。泡は、弾けるときだけ、少し涼しい。
その夜、悠は眠れなかった。胸の布を外して横になる。皮膚が空気に触れる。触れただけで、女であるという事実が机上の紙のように明瞭になる。明瞭なものは、折ると跡がつく。跡は、次の折りを招く。自分は何度折りたたまれたのか、と考える。折り重ねた層の厚みだけ、心は鈍る。鈍った心は、刃からの距離感を間違えやすい。間違いに気づくのは、血が出てからだ。
そこへ、画面が光った。
『明日、放課後、話せますか。—杉浦』
「話す」は、だいたい告白の予告だ。予告を受け取る者の側には、二種類の時間がある。早く来てほしい時間と、永遠に来なければいい時間。二つを同時に持つと、呼吸が乱れる。乱れは、眠りを薄くする。薄い眠りは、翌日の目を腫らす。腫れた目は、他人の心配を呼ぶ。他人の心配は、見下ろしと紙一重だ。紙は湿ると破れやすい。
返事は打たなかった。打たないまま、朝が来た。朝は残酷に規則正しい。均質な音のなかで、同じ種類の罪は簡単に繰り返される。
放課後、道場の入口に杉浦が立っていた。制服の襟を指で少し引き、風を入れている。首筋の皮膚が若い。若さは、希望より先に残酷を持つ。残酷さは、自覚されないときにいちばん強い。
「先輩、来てくれた」
「……用件」
「俺、本気です」
「知ってる」
「知ってるのに、どうして逃げるんですか」
「逃げてない」
「逃げてます。俺からも、自分からも」
言い当てられると、人は腹を殴られたように息を吸う。吸った息の重さが、返事の速度を遅くする。速度が落ちると、言葉の形は変わる。本当は言いたかった言葉は、別の誰かの口から出ていく。出ていった彼の言葉が、戻ってきて胸に刺さる。
「……俺は、お前を抱けない」
「抱かれたいなんて言ってません」
「でも、そういう……」
「違います」
音が裂けた。裂けた音の縁が、的紙の端を緊張で波打たせる。動かずに立つ紙は、声に脆い。脆さは、美徳ではないが、誠実だ。杉浦は、まっすぐ言う。
「俺が欲しいのは、体じゃない。先輩の“矢”です。あの音と、あの瞬間の顔。あれを見てると、俺も人間でいられる気がする」
「俺の顔なんて」
「好きです」
言葉は矢だ、などという陳腐な比喩を、悠は嫌っていた。嫌っていたが、今その比喩以外の説明が見つからなかった。まっすぐ放たれた短い文が、彼の胸骨に当たって、骨の内側で反響した。反響は、長く続く。続くうちに、骨の形を変える。形が変わると、姿勢が変わる。姿勢が変わると、見える景色が変わる。景色が変わることは、恩赦にも、宣告にもなり得る。
「俺は……俺が嫌いだ。お前が“好きだ”って言うたびに、俺の中の“嫌い”が逃げ場を失う。逃げ場を失ったものは、暴れる」
「暴れたら、俺が受け止めます」
「お前が壊れる」
「壊れてもいいです。俺は、先輩を見失いたくない」
雨が落ちてきた。気配から、粒へ、音へと、段階を経て増える。雨は均質で、均質なものは人を眠らせる。眠ったふりをして、悠は目を閉じた。瞼の裏で、矢の音が生まれては消える。消えるたび、何かの薄皮が剥がれる。剥がれた薄皮は、指にまとわりつき、捨てにくい。捨てにくさが、執着に変わる。執着は、愛の衣を借りて座を占める。
「……好きだよ」
音になった自分の声が、他人のものみたいに聞こえた。これは告白ではない、と彼は思う。降参でもない。ただの、事実。事実は中立ではない。たいてい、誰かを救い、同時に誰かを罰する。だれが救われ、だれが罰せられるかを、今この場所で決められるほど、悠は強くない。
杉浦は、笑わなかった。笑わず、頷きもしなかった。ゆっくりと目を細め、そこに水の光をためただけだった。水は、涙かもしれず、雨の反射かもしれない。どちらにしても、濡れる。濡れることに意味はない。意味がないものに触れるとき、人は潔白に近づく。潔白は、居心地が悪い。
その夜、悠はやはり眠れなかった。呼吸は落ちず、思考は落ちず、かといって高ぶりもしない。高ぶりのない昂揚は、病気に似ている。音の少ない病だ。彼は横になったまま、音のない病に身を預けた。病は、声の出ない祈りを好む。
朝は来る。腫れぼったい目に冷水を当て、制服に腕を通す。ネクタイではない襟元は、何も隠さない。隠せないまま、隠したがる。隠し方を忘れた大人みたいに、彼は道場へ向かった。杉浦は、いつも通りいた。いつも通りというのは、最も残酷な安定の名である。安定の裏で、変化は無傷のふりをする。
「先輩」
短い呼びかけに、悠の名前が含まれているのに、同時に“先輩”という役割の覆いがかぶさっている。その覆いは、彼に猶予を与え、同時に立ち位置を固定する。固定は、楽だ。だが、人は固定されたまま愛し合えない。愛は、位置の変化だ。変化を受け入れる筋肉は、まだ育っていない。育っていないものを無理に動かすと、肉離れを起こす。痛む。痛むと、動かさなくなる。動かさないことで、固まる。固まった場所は、もはや身体ではない。家具に近い。心は家具を愛せるが、家具からは愛されない。
「昨日の、やり直しがしたい」
杉浦は、そう言った。やり直し。やり直しという言葉は、優しい顔でこちらの疲労を見逃すふりをする。やり直しは贅沢だ。贅沢に耐えるには、体力が要る。悠は、頷いた。頷くことは、ほとんどいつでも逃走の反対だ。逃げなかったことを、彼は評価しない。評価してしまうと、次の逃げ場を失う。逃げ場の地図を折り畳みながら、彼は弓を取った。
矢をいくつか重ねて放つ。中心に寄るもの、外れるもの、まぐれのように同じ穴へ吸い込まれるもの。杉浦は、外れた矢の場所へ先に歩き、そこに短い指を触れる。
「ここ、好きです」
「外してる」
「外れ方が、正直だから」
正直という言葉を、悠は嫌う。正直が、いつでも善ではないことを知っているからだ。正直は、ひばりの声と同じで、時と場所を選ばない。選ばれない場所に響くひばりは、うるさい。うるさいものは、やがて聞こえなくなる。聞こえなくするために、耳は狭くなる。狭くなった耳には、愛も、赦しも、遅れて届く。遅れて届いたものは、別の名前を与えられて保存される。保存は、腐敗と境を接している。
「俺は――」
悠は、やっとのことで言葉を探り当てた。探り当てた言葉は、さきほど夜のうちに決意したものではなかった。夜の決意は、朝の空気で薄まる。薄くなった決意を恥じる前に、別の言葉が口を開けた。
「俺は、お前を好きになることで、俺を殺すことになると思ってた」
杉浦は、目を逸らさない。逸らさない目は、残酷の最短距離だ。彼は短く頷く。
「殺したら、俺と一緒に葬式します。二人しか来ない、安い葬式」
「……安いのは嫌だ」
「じゃあ、ちょっとだけ豪華に」
「ちょっとだけ?」
「はい。ちょっとだけです。先輩はちょっとだけから始めるのが、きっといい」
ちょっとだけ、の単位を誰が決めるか。彼の“ちょっと”と、悠の“ちょっと”は、違う。違うものを同じ単語で包むとき、誤解が甘える。甘やかされた誤解は、後で牙をむく。むかれた牙に傷をつけられながら、それでも人は、いまこの瞬間だけを信じる。信じるふりでも、構わない。ふりの持続は、やがて本物の筋肉に変わることがある。宗助が言った梯子は、まだそこに立てかけられている。梯子の上には、風がある。風にさらされるのは、生き延びる者の礼儀だ。
道場の外で、六月の雨が強くなった。強さは、しばしば誤魔化しを剥がす。剥がされたものが、床に裸で置かれる。裸の言葉、裸の視線、裸の沈黙。どれも長く直視はできない。できないから、瞬きを増やす。瞬きの合間に、愛が小さく首を上げる。首を上げた愛は、犬に似ている。呼べば来て、撫でると目を細め、時々こちらの手を噛む。噛まれて血が出ると、笑ってしまう。生きている、とわかるからだ。
悠は、弓を置いた。肩で息をし、額の汗を手の甲で拭った。手の甲には、紙の細かな傷がまだいくつも残っている。的紙を張り替えるときについた、ささいで、しかし消えにくい傷。消えないものは、いつか居場所を持つ。居場所を持った傷は、見えないところで、性格を少しずつ変える。変えられた性格の片方の端で、彼は小さく笑った。笑いに、湿った重さが混じっていた。
「……俺、少しだけ、死んでみる」
「はい」
「少しだけ、だからな」
「はい。少しだけ、です」
杉浦は、約束を守る顔をした。約束を守る顔は、信用の借用書に似ている。借りるばかりで返せないままに、日付の欄だけが季節を変える。六月は、借りの先延ばしに向いている。向いているけれど、先延ばしの末尾に立つ破産の像は、雨の膜越しにくっきり見える。見えていても、今は目を細める。細めた目のまま、ふたりは同じ方向を向いた。中心は、黙ってそこにあった。黙っているくせに、呼吸の数を数えている。数えられていると思うと、人は急に、正しく吸いたくなる。正しさは、いつでも遅れてやってくる。遅れて来るものに合わせて足を止めるのは、臆病ではない。生き延びるための礼儀だ。
この章の終わりに、救いはない。救いは、あとから来る。遅れてやってきて、前の場面を勝手に赦す。赦しは独断だ。独断の赦しに乗っかって、ひとはやっと次の頁をめくる。頁は湿っている。湿った頁は破れやすい。破れる紙に触れていると、優しくなる。優しさは、痛みの形をしている。痛みの形をしたやさしさが、六月の空気みたいに体に貼りつく。剥がそうとすれば、皮膚が一枚ついてくる。
そして――彼らは、まだここにいる。
矢の音の残響の、ちょうど真ん中で。
(第三章・了)
弓道場は、今日も清潔のふりをしていた。畳は掃かれ、弓は壁に整列し、矢束は既定の位置で黙っている。だが、空気はそうではない。前の時間にいた誰かの汗と、洗いたての胴着の柔軟剤、雨上がりの土と、時々まぎれ込む髪の油臭。人間の匂いは、自然や清潔の名で包もうとしても、包まれた先で必ず顔を出す。悠は、それを嫌悪と同時に安心として吸い込む。嫌悪は境界を濃くし、安心は境界を薄める。相反する働きが同時に起こるとき、心は忙しくなり、忙しさは生きている証のように見える。見えるだけで、実際のところは摩耗に近い。
杉浦は、黙って現れる。声をかけず、しかし視線だけは正確に悠を探し当て、そこにしばらく立てかける。最近の彼は「好き」を言わない。言わないのに、言っている。沈黙のなかに、彼の「好き」は粒子のように浮遊し、光を受けるたびきらきらと漂う。悠はそれを目に入れないように、視線を固くして的の黒い中心だけを見る。見続ければ、中心はじきに穴として立ち上がる。落ちる用意の整った穴。落ちたくないと願うほど、穴は人の体温を真似る。温かい穴に、人は落ちやすい。
矢羽を頬に寄せる。引き分ける。呼吸が浅くなる。浅さは、うそをつくときの呼吸に似ていた。放つ。弦音が道場の梁の骨を震わせ、薄く長い残響になって床の木目を撫でる。隣で、杉浦の矢が追いかける。ふたつの音が重なった一瞬、悠はわずかに目を閉じる。閉じたまぶたの裏で、音は“名前”に変換される。誰かが、指先で彼の名を撫でていく感覚が、脈の合間に挿し込まれる。名を呼ばれることは、所有を仄めかされることだ。所有の気配に怯えるほど、ひとはそこに身を寄せたがる。恐れは甘さに近い。甘いものは傷口を腫らす。
「先輩」
杉浦は、必要以上に呼ばない。けれど必要の境界は曖昧で、彼の「必要」はいつも悠の直前に伸びてくる。伸びてくる指は、たいてい清潔で爪が短い。短い爪は、触れても傷をつけない。傷がつかない種類の触れ方は、かえって深く侵入してくる。悠は、知らないふりをして弓を拭いた。
「今日、手合わせ……いいですか」
彼は“お願い”の文法を知っている。相手の逃げ道を残しながら、逃げなかった場合の甘い報酬をちらつかせる。成績のいい子どもの作法だ。年下にそういう作法を見つけると、悠は反射的に軽蔑したくなる。軽蔑は、自分の劣等感を隠すための安い布だ。布を被ると一瞬は寒さがやわらぐが、すぐに布の内側が濡れて冷える。濡れた布は皮膚に張りつき、脱ぐときに痛む。痛みは正しさに似ている。正しさは、世界にとって便利だが、人間の骨には重い。
「……いいけど」
手合わせは、儀式のように始まり、儀式のように終わる。互いの矢が並行に飛び、少し外れ、少し集まり、たまに同じ場所を求めて擦れ合う。その擦れる音が、悠には不快で心地よい。革靴と廊下、苛立ちと優しさ、嘘と沈黙――本来こすれ合わないものが摩擦を起こすとき、熱が生まれる。熱は、生き延びるための最後の資源だ。彼はそれを知っている。知っているから、わざと擦らせる。わざと傷をつける。わざと、血を少しだけにじませる。血の匂いは、身体がまだ獣の言葉を覚えている証明になる。獣語は、恥と親しい。
「先輩の矢、やっぱり優しい」
「矢に優しさはない」
「ありますよ。包まれる感じがする」
「包むっていうのは、中心から外へ押しやる圧力の別名だ」
「じゃあ、その圧力に潰されたい」
年下の冗談は、冗談のようで冗談ではない。彼は「潰されたい」と言いながら、潰れる側に立てる体力を持っている。潰す側に回れば楽だが、楽は長持ちしない。長持ちしないものを遠ざけたいと願うのは、怠惰ではなく、経験の蓄積だ。蓄積は年齢に比例しない。人は時に、短い年月で過不足なく壊れる。
練習が終わると、杉浦は矢を束ね、的紙を張り替え、雑巾を固く絞る。動作はどれも簡潔で、丁寧で、彼の育ちの良さが露見する。育ちの良さというのは、単に家のことではない。他人を見下ろす正確な角度を持たない、という意味だ。正しい角度は人を癒やすが、同じだけ人を追い詰める。癒やしと追い詰めが同時に来ると、相手は「あなたを嫌い」と言いづらい。嫌いと言いづらいものは、長く居座る。居座ったものは、やがて家具になり、家具は景色になる。景色にまでなったものは、汚れていても捨てづらい。人間の心の家政はいつも破綻寸前で、破綻を破綻と呼ばないための詩だけが増える。詩はごまかしだ。だが、ごまかしのない生活は、ひどく見苦しい。
「最近、先輩、話さないですね」
「話すことは減る。年を取ると」
「先輩、まだ十七でしょ」
「十七で年を取ってはいけない決まりはない」
杉浦は黙る。黙って、こちらを見て、見ながらわずかに笑う。笑顔は簡単に武器になる。穏やかな武器で刺されると、人は自分が刺されたことに気づくまで時間がかかる。気づいたころには、刃は体内で形を変え、抜けなくなっている。抜くことだけが正義ではない、という言い逃れを覚えてしまうと、人は驚くほど長く刃と仲良くできる。仲良くなった刃は、ある種の慰めになる。
六月の夕方は早い。校舎の影が長く伸び、道場の窓の桟に雨の名残の斑点が残る。悠が弓を片づけ終えると、杉浦が声を落として訊いた。
「先輩。俺、今は“好き”って言いません。言わないけど、消えたわけじゃないです」
「知ってる」
「本当は、言わないほうが卑怯だと思ってる。でも、言うと先輩が逃げる」
「……逃げない」
「逃げます。逃げながら、俺のほうを見てる」
鏡の前で泣き顔を作る練習をしたことがある。泣き顔は、作っているうちに本当になる。心は表情の後からやって来て、表情の意味を追認する。そう学んでしまってから、悠は顔に対して信用を持たない。嘘は顔に住む。けれど、杉浦の顔に住む嘘は、今のところ部屋を借りていないように見える。素のままの表情がまぶしくて、直視し続けると目の裏が痛む。目の裏が痛むと、涙腺が勝手に動く。動くと、負けた気がする。負けを自覚しても人は滅多に死なない。そのことが、まるで救いのようで、罰のようだった。
「……杉浦」
名前を呼ぶ。名前は、こちら側からの人質だ。呼んだ瞬間、相手をこちらの領分に引き込む。引き込んでしまった責任は、呼んだ側に生じる。責任が増えると、人はよくしゃべるか、黙りこくるか、どちらかに寄る。悠は後者だ。言葉に自分の皮膚を持っていかれるのが怖い。皮膚を失った言葉は、誰にでも使われる。
「お前が怖い」
「怖い?」
「まっすぐすぎて、俺の汚いところが全部見える」
「見えるの、嫌ですか」
「嫌だ。嫌に決まってる」
「じゃあ、見えなくしてほしいですか」
わずかな間。間の間に、濁った水の底で沈殿がゆっくり攪拌される。悠の中に、答えの形に似た何かが浮かび上がる。浮かび上がったものは、言葉になる前に腐敗する。腐敗したものを口へ運ぶのは、たいてい自分自身だ。口にいれると、まずい。まずさは、正しさの証拠にはならない。
「わからない」
「じゃあ、俺は照らし続けます。嫌でも見えるように」
照らす、という暴力。見えるようにする、という慈善。両方がいちどきに胸へ入ってきて、奥でねっとり絡み合う。絡んだものは、簡単にはほどけない。ほどけないから、組織の一部のように振る舞い始める。振る舞い始めた異物は、やがて自己だと名乗る。自己と名乗るものを摘出するには、大きく切る必要がある。切るには、麻酔が要る。麻酔役を引き受ける者は、たいてい年下のほうだ。若さは、痛みを一時的に鈍らせる。
夜、宗助に呼ばれる。誰もいない教室。黒板の粉が湿気で固まり、拭き跡が地図みたいに残っている。窓の外では部活動の声が潰れ、遠い雨雲の底のような低い音だけが続く。宗助は机に腰をかけ、片膝を揺らしながら言う。
「どう? 壊れた?」
「お前はいつも結論を急ぐ」
「人は壊れるか、壊れないか、だいたいそれだけで足りる」
「雑だ」
「雑にしないと、お前は聞かない」
宗助は、悠を嘲らない。嘲らないが、甘やかしもしない。人を甘やかさない態度は、無意識の残酷さに支えられていることがある。彼はその残酷さを管理できる程度には賢い。賢さは、ときどき嫌悪の的になる。嫌悪の的にされるのに慣れると、人は鈍くなる。鈍くなった鈍感さは、親切に見える。親切は、ときどき正義よりも厄介だ。
「なあ悠。あの一年、お前を好きなんだろ」
「知らない」
「嘘」
「知らないことにしてる」
「それは嘘より悪い」
悪い、と言われると、悠はいつも黙る。道徳の言葉は、罪悪感の古い藁に火をつけるのがうまい。宗助は声を下げた。
「愛されるの、怖いよな」
悠は目を閉じた。宗助の言葉は、刃物ではなく、重しだ。置かれた場所に動けなくなる種類の重さ。動けないことが、逃げないことだと錯覚しやすい。錯覚でも、今日はそれでいい、と悠は思う。思うこと自体が、逃げだと知りながら。
「愛されると、自分の嫌いが行き場を失う。行き場を失った嫌いは、目に見えるようになる。目に見えるようになった嫌いってのは、手入れを要求する。手入れってのは、つまり“生き直し”だ。お前はそれが面倒で、ずっと殻を磨き続けてきた。殻を磨くのは、内側をいじらなくて済むから」
「……説教が上手くなった」
「お前のおかげでな。で、どうする。殻、割る?」
「割るほど、俺、丈夫じゃない」
「丈夫じゃないやつほど、割ったあと伸びる」
「植物か何かだと思ってる?」
「人間は植物だよ。光に向かって曲がる。お前を照らしてる光、今はひとつしかない。名前は杉浦」
悠は笑った。笑いは、降参の合図に近かった。宗助が勝ったわけではない。ただ、彼の言葉が、悠の中のどろどろに、箸を入れる役目を果たした。混ぜられたものは、表面に泡を出す。泡は、弾けるときだけ、少し涼しい。
その夜、悠は眠れなかった。胸の布を外して横になる。皮膚が空気に触れる。触れただけで、女であるという事実が机上の紙のように明瞭になる。明瞭なものは、折ると跡がつく。跡は、次の折りを招く。自分は何度折りたたまれたのか、と考える。折り重ねた層の厚みだけ、心は鈍る。鈍った心は、刃からの距離感を間違えやすい。間違いに気づくのは、血が出てからだ。
そこへ、画面が光った。
『明日、放課後、話せますか。—杉浦』
「話す」は、だいたい告白の予告だ。予告を受け取る者の側には、二種類の時間がある。早く来てほしい時間と、永遠に来なければいい時間。二つを同時に持つと、呼吸が乱れる。乱れは、眠りを薄くする。薄い眠りは、翌日の目を腫らす。腫れた目は、他人の心配を呼ぶ。他人の心配は、見下ろしと紙一重だ。紙は湿ると破れやすい。
返事は打たなかった。打たないまま、朝が来た。朝は残酷に規則正しい。均質な音のなかで、同じ種類の罪は簡単に繰り返される。
放課後、道場の入口に杉浦が立っていた。制服の襟を指で少し引き、風を入れている。首筋の皮膚が若い。若さは、希望より先に残酷を持つ。残酷さは、自覚されないときにいちばん強い。
「先輩、来てくれた」
「……用件」
「俺、本気です」
「知ってる」
「知ってるのに、どうして逃げるんですか」
「逃げてない」
「逃げてます。俺からも、自分からも」
言い当てられると、人は腹を殴られたように息を吸う。吸った息の重さが、返事の速度を遅くする。速度が落ちると、言葉の形は変わる。本当は言いたかった言葉は、別の誰かの口から出ていく。出ていった彼の言葉が、戻ってきて胸に刺さる。
「……俺は、お前を抱けない」
「抱かれたいなんて言ってません」
「でも、そういう……」
「違います」
音が裂けた。裂けた音の縁が、的紙の端を緊張で波打たせる。動かずに立つ紙は、声に脆い。脆さは、美徳ではないが、誠実だ。杉浦は、まっすぐ言う。
「俺が欲しいのは、体じゃない。先輩の“矢”です。あの音と、あの瞬間の顔。あれを見てると、俺も人間でいられる気がする」
「俺の顔なんて」
「好きです」
言葉は矢だ、などという陳腐な比喩を、悠は嫌っていた。嫌っていたが、今その比喩以外の説明が見つからなかった。まっすぐ放たれた短い文が、彼の胸骨に当たって、骨の内側で反響した。反響は、長く続く。続くうちに、骨の形を変える。形が変わると、姿勢が変わる。姿勢が変わると、見える景色が変わる。景色が変わることは、恩赦にも、宣告にもなり得る。
「俺は……俺が嫌いだ。お前が“好きだ”って言うたびに、俺の中の“嫌い”が逃げ場を失う。逃げ場を失ったものは、暴れる」
「暴れたら、俺が受け止めます」
「お前が壊れる」
「壊れてもいいです。俺は、先輩を見失いたくない」
雨が落ちてきた。気配から、粒へ、音へと、段階を経て増える。雨は均質で、均質なものは人を眠らせる。眠ったふりをして、悠は目を閉じた。瞼の裏で、矢の音が生まれては消える。消えるたび、何かの薄皮が剥がれる。剥がれた薄皮は、指にまとわりつき、捨てにくい。捨てにくさが、執着に変わる。執着は、愛の衣を借りて座を占める。
「……好きだよ」
音になった自分の声が、他人のものみたいに聞こえた。これは告白ではない、と彼は思う。降参でもない。ただの、事実。事実は中立ではない。たいてい、誰かを救い、同時に誰かを罰する。だれが救われ、だれが罰せられるかを、今この場所で決められるほど、悠は強くない。
杉浦は、笑わなかった。笑わず、頷きもしなかった。ゆっくりと目を細め、そこに水の光をためただけだった。水は、涙かもしれず、雨の反射かもしれない。どちらにしても、濡れる。濡れることに意味はない。意味がないものに触れるとき、人は潔白に近づく。潔白は、居心地が悪い。
その夜、悠はやはり眠れなかった。呼吸は落ちず、思考は落ちず、かといって高ぶりもしない。高ぶりのない昂揚は、病気に似ている。音の少ない病だ。彼は横になったまま、音のない病に身を預けた。病は、声の出ない祈りを好む。
朝は来る。腫れぼったい目に冷水を当て、制服に腕を通す。ネクタイではない襟元は、何も隠さない。隠せないまま、隠したがる。隠し方を忘れた大人みたいに、彼は道場へ向かった。杉浦は、いつも通りいた。いつも通りというのは、最も残酷な安定の名である。安定の裏で、変化は無傷のふりをする。
「先輩」
短い呼びかけに、悠の名前が含まれているのに、同時に“先輩”という役割の覆いがかぶさっている。その覆いは、彼に猶予を与え、同時に立ち位置を固定する。固定は、楽だ。だが、人は固定されたまま愛し合えない。愛は、位置の変化だ。変化を受け入れる筋肉は、まだ育っていない。育っていないものを無理に動かすと、肉離れを起こす。痛む。痛むと、動かさなくなる。動かさないことで、固まる。固まった場所は、もはや身体ではない。家具に近い。心は家具を愛せるが、家具からは愛されない。
「昨日の、やり直しがしたい」
杉浦は、そう言った。やり直し。やり直しという言葉は、優しい顔でこちらの疲労を見逃すふりをする。やり直しは贅沢だ。贅沢に耐えるには、体力が要る。悠は、頷いた。頷くことは、ほとんどいつでも逃走の反対だ。逃げなかったことを、彼は評価しない。評価してしまうと、次の逃げ場を失う。逃げ場の地図を折り畳みながら、彼は弓を取った。
矢をいくつか重ねて放つ。中心に寄るもの、外れるもの、まぐれのように同じ穴へ吸い込まれるもの。杉浦は、外れた矢の場所へ先に歩き、そこに短い指を触れる。
「ここ、好きです」
「外してる」
「外れ方が、正直だから」
正直という言葉を、悠は嫌う。正直が、いつでも善ではないことを知っているからだ。正直は、ひばりの声と同じで、時と場所を選ばない。選ばれない場所に響くひばりは、うるさい。うるさいものは、やがて聞こえなくなる。聞こえなくするために、耳は狭くなる。狭くなった耳には、愛も、赦しも、遅れて届く。遅れて届いたものは、別の名前を与えられて保存される。保存は、腐敗と境を接している。
「俺は――」
悠は、やっとのことで言葉を探り当てた。探り当てた言葉は、さきほど夜のうちに決意したものではなかった。夜の決意は、朝の空気で薄まる。薄くなった決意を恥じる前に、別の言葉が口を開けた。
「俺は、お前を好きになることで、俺を殺すことになると思ってた」
杉浦は、目を逸らさない。逸らさない目は、残酷の最短距離だ。彼は短く頷く。
「殺したら、俺と一緒に葬式します。二人しか来ない、安い葬式」
「……安いのは嫌だ」
「じゃあ、ちょっとだけ豪華に」
「ちょっとだけ?」
「はい。ちょっとだけです。先輩はちょっとだけから始めるのが、きっといい」
ちょっとだけ、の単位を誰が決めるか。彼の“ちょっと”と、悠の“ちょっと”は、違う。違うものを同じ単語で包むとき、誤解が甘える。甘やかされた誤解は、後で牙をむく。むかれた牙に傷をつけられながら、それでも人は、いまこの瞬間だけを信じる。信じるふりでも、構わない。ふりの持続は、やがて本物の筋肉に変わることがある。宗助が言った梯子は、まだそこに立てかけられている。梯子の上には、風がある。風にさらされるのは、生き延びる者の礼儀だ。
道場の外で、六月の雨が強くなった。強さは、しばしば誤魔化しを剥がす。剥がされたものが、床に裸で置かれる。裸の言葉、裸の視線、裸の沈黙。どれも長く直視はできない。できないから、瞬きを増やす。瞬きの合間に、愛が小さく首を上げる。首を上げた愛は、犬に似ている。呼べば来て、撫でると目を細め、時々こちらの手を噛む。噛まれて血が出ると、笑ってしまう。生きている、とわかるからだ。
悠は、弓を置いた。肩で息をし、額の汗を手の甲で拭った。手の甲には、紙の細かな傷がまだいくつも残っている。的紙を張り替えるときについた、ささいで、しかし消えにくい傷。消えないものは、いつか居場所を持つ。居場所を持った傷は、見えないところで、性格を少しずつ変える。変えられた性格の片方の端で、彼は小さく笑った。笑いに、湿った重さが混じっていた。
「……俺、少しだけ、死んでみる」
「はい」
「少しだけ、だからな」
「はい。少しだけ、です」
杉浦は、約束を守る顔をした。約束を守る顔は、信用の借用書に似ている。借りるばかりで返せないままに、日付の欄だけが季節を変える。六月は、借りの先延ばしに向いている。向いているけれど、先延ばしの末尾に立つ破産の像は、雨の膜越しにくっきり見える。見えていても、今は目を細める。細めた目のまま、ふたりは同じ方向を向いた。中心は、黙ってそこにあった。黙っているくせに、呼吸の数を数えている。数えられていると思うと、人は急に、正しく吸いたくなる。正しさは、いつでも遅れてやってくる。遅れて来るものに合わせて足を止めるのは、臆病ではない。生き延びるための礼儀だ。
この章の終わりに、救いはない。救いは、あとから来る。遅れてやってきて、前の場面を勝手に赦す。赦しは独断だ。独断の赦しに乗っかって、ひとはやっと次の頁をめくる。頁は湿っている。湿った頁は破れやすい。破れる紙に触れていると、優しくなる。優しさは、痛みの形をしている。痛みの形をしたやさしさが、六月の空気みたいに体に貼りつく。剥がそうとすれば、皮膚が一枚ついてくる。
そして――彼らは、まだここにいる。
矢の音の残響の、ちょうど真ん中で。
(第三章・了)



