的を射抜く乾いた音が、夕暮れの道場に低く沈んだ。
弦をはなれた矢が空気を裂くわずかな気流が、床板の古い木目を撫で、霞のように消える。音はいつも同じだが、聴くたびに違う傷を思い出させる。悠はその音を、罰のように受け取っていた。
悠は二年だ。外見だけ見れば華奢な“女子生徒”の枠に投げ込まれがちだが、彼の内側はずっと“男”のまま、路地裏の影のように揺れている。押しつぶすための布を胸に巻き、男子用のスラックスに身を押し込む。ここまでしても、呼びかける声はときどき彼を女に寄せようとする。言葉の端にひっそり宿る“彼女”の調子が、悠の喉を錆びさせる。誰かが鈴を鳴らすような笑い声で「かわいい」と言うたび、悠は弓を握る手に力を込め、指の関節を白くした。
この春、弓道部に十人ほどの一年が入った。その中で、ひとりだけ音が違う者がいる。杉浦 湊。
はじめて矢をつがえた日から、彼の矢には無駄がない。肩の線が真直で、肘に余計な迷いがない。放つ瞬間、目が少しだけ細くなる――子どもと大人のあいだにある、危うい透明さ。弦の震えが納まるころには、彼の口元に短い笑みが残る。無邪気に見えるその笑みは、悠の胸に疼きを招く。悦びではない。嫉妬でもない。もっと卑小で、ややこしく、名前をつければ腐ってしまいそうな、ねっとりした感情だ。
「先輩、今の、見てました?」
近づいてくる足音は軽い。杉浦は汗を額に浮かべ、まだ甘さの残る声で言った。
「うん。真っ直ぐだった」
「やった。悠先輩に褒められた」
喜びが、さざ波のように彼の顔に広がる。何も隠せない顔つきだ。だからこそ、残酷に映る。まっすぐすぎるものは、曲がって生き延びてきた者にとって、光よりも刃物に近い。
「でも、最後の伸びは俺のより少し弱い。肩、落ちてる」
悠が指すと、杉浦は素直に肩を上げ、姿勢を取り直す。
「こうですか」
「そう。――そうだ、そこ」
「ありがとうございます」
礼の角度が綺麗だった。彼は誰の背中も疑わずについていける善良さを、恥じることなく身にまとっている。そういう善良さは、弱った心を破る。悠は視線を落とし、矢筒の羽根を数えた。数えるふりをして、自分の眼をどこかに置いてしまいたかった。
杉浦は遠慮なく、しかし無神経ではない距離で近づいてくる。境界線に指先を乗せ、押しはしないが離れもしない、年下の無畏さ。
「先輩って、怒らないんですね」
「怒ってるよ」
「え、どこで?」
「内側で」
「内側で怒るの、ずるいです。俺にも見えるように怒ってください」
悠は返さなかった。怒りなどではない。これは、怒るほどまっとうではない。彼の明るさに照らされ、悠は自分の内側が泥水だと気づく。日なたに出せば匂いを撒き散らす、腐敗の早い水だ。蓋を押さえる手が、わずかに震えた。
練習が終わると、部員たちは雑談をしながら片付けを始める。笑い声や足音が重なり、的の紙を張り替える音が混じる。杉浦は矢を束ね、ふと振り返って悠を見た。視線が合う。逃げない子どもの目だ。
「先輩、帰り道、同じ方向ですよね」
「……たぶん」
「じゃあ、一緒に帰ってもいいですか」
「一緒に?」
「嫌ですか」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ、決まりです」
決まりにされると、悠はいつものように笑って頷くしかない。その笑いは、頬の筋肉と喉の奥が別々に動く、不恰好なものだった。部室棟を出ると、薄く冷たい風が緩んだ汗を撫で、肌の上で小さなざらつきに変わった。夕焼けは赤というより、少し鉄臭い色をしている。血の色に似ている、と悠は思った。血の色を、女の体は具体的に知っている。日付と周期と匂いで覚え込まされた、逃げ場のない記憶だ。
忘れたいものほど、色は鮮やかだ。
道端の植え込みで雀が跳ねる。杉浦は気づくとすぐ指差し、嬉々としてくだらない話を始める。給水機の水がまずいとか、英語の先生の発音がやけに巻き舌だとか。悠は相づちを打ち、時折短く笑う。笑ってしまう。笑う自分を、少しだけ憎む。彼の幼い無邪気さに免じて笑ってはならない、と内側の声が言う。許した瞬間、蓋が外れる。蓋が外れれば、泥水は世界にこぼれる。世界に、そして彼に、べっとりまとわりつく。汚す。汚れたくないなら近寄るな、と悠の中の誰かが囁く。
「先輩って、家、遠いんですか」
「まあ、普通」
「俺、部活ある日は急ぎ足になるんですよ。早く道場に戻りたくて」
「……そう」
「先輩は?」
「戻りたくない時もある」
「えっ、なんで」
「自分がいるから」
杉浦は足を止めた。夕暮れの光が彼の額に影を作る。
「自分が、嫌いってことですか」
「わかりやすく言えば、そう」
「じゃあ、俺が好きです」
「は?」
「先輩のこと。俺が好きで埋めたら、自分の嫌いが減るかもしれないでしょ」
冗談めかして、しかしすこしも冗談ではない声で言う。年下は残酷だ。残酷で、やさしい。悠は視線を逸らす。頬の内側を噛む。鉄の味がする。
「そういう軽口、よくない」
「軽口じゃないです」
「じゃあ、無鉄砲」
「先輩が止めてくれない限り、俺は止まらない無鉄砲です」
この子は、まっすぐに言葉を放つ。矢と同じだ。狙いの中心を疑わない。だからこそ、的の紙ではなく、中の藁までじわじわ湿らせていく。悠の中の藁は、ずいぶん前から湿っている。火がつけばよく燃える。燃えかすは黒く、軽い。風が吹けば、どこへでも飛んでいく。
家に帰り、悠は机の角に置いた小さな鏡をのぞいた。そこに映る顔を“自分”と呼ぶのに、いまだ慣れない。バインダーの跡が胸の上に赤く残り、首元には襟の擦れた線がある。化粧をしない肌は、思春期の荒れが正直に出ている。
鏡の中の目は、いつも湿って見えた。泣いていなくても、泣き出す前の目だ。彼は目を逸らす。逸らしながら、画面の光に手を伸ばす。
メッセージの通知。
『先輩、今日も教えてくれてありがとうございました。明日の昼練、また見てほしいです。—杉浦』
文末の句点が丁寧で、やたらと健やかだ。健やかさは不意に人を傷つける。悠は返信欄を開き、文字を入力しては消す。「いいよ」と打ちかけて、削除する。何度か繰り返した末に、結局送信はしなかった。無視するのは卑怯だ。卑怯である自分を軽蔑する。軽蔑する自分の声が、いちばんよく通る。
夜が深む。浴室の扉を閉める音が、やけに響く。シャワーを出すと、温度の高い水が皮膚に針のように当たる。胸の布を外すと、呼吸が浅くなる。幾度も繰り返しているはずの動作のたびに、確かめなくていい現実が目の前に置かれる。
身体は何も悪くない、と誰かが言ったことを思い出す。間違っているのは世界のほうだ、とも。正論のトゲは丸く、当たるとよく滑る。滑った先で、悠は転ぶ。膝を打ち、笑う声を思い出す。「女なのに」「男みたい」。どちらもよく刺さる。どちらにも血がつく。血は落ちにくい。においが残る。
眠りは濁っていた。夢の中で矢を放つ。放つたび、弦の音が誰かの名前になる。彼の名字が、名が、ひらがなに崩れ、幼い声で呼ばれる。悠は振り返らない。振り返ったら、何かが決定してしまう気がした。決定はいつも取り消せない。取り消せないものに囲まれて、彼は大きくなった。
昼練の道場は、朝の冷たさをまだ保っていた。陽が差す前の木は、匂いが暗い。杉浦はすでに来ていた。畳に正座して、矢数を数えている。数える声が、子どもじみていて、妙に品がいい。
「おはようございます、先輩」
「おはよう」
正座をほどき、彼は立ち上がる。目に眠気の欠片もない。
「昨日、返信なかったので、体調崩したかと思って」
「崩してない」
「よかった」
迷いのない安堵。誰かを信じるときの音がする。“信じられる対象”に、自分はなれているのだろうか。なってはいけないのだろうか。どちらにしろ、どろりとしたものが胃の奥で重くなる。
「肩、上がりすぎ」
悠は指摘する。杉浦はすぐ直す。
「ここ?」
「そこ」
「この前もそこって言ってました」
「この先も言う」
「じゃあ、俺は一生そこに気をつける」
一生、という言葉が軽く口から出る。少年の一生は、たぶん週末よりも短い。けれど彼が言うと、案外長持ちしそうな気もする。そういう気がするだけで、矛盾が少し和らぐ。和らいだ隙間を、別の痛みが埋める。悠はその痛みに依存していた。痛みがあるあいだ、生きているとわかる。痛みが薄れると、彼はどこにいるのかわからない。
「先輩、俺、先輩みたいに弓を引けるようになりますか」
「才能はある」
「そういう慰めじゃなくて、ちゃんと」
「ちゃんと、才能はある」
「じゃあ、あとは?」
「練習」
「じゃあ、練習します。――先輩、俺のこと、ちゃんと見ててください」
“見ててください”。その言葉は、つきたての餅のように柔らかく、歯にねばつく。悠は喉に指を当てる。声を出せなくなる前に、平坦な返事を出した。
「見てる」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、俺、頑張れる」
まっすぐに笑う。その顔を、殴りたいと思ってしまう自分がいる。殴りたいのは彼ではなく、そこに映る自分だ。汚れた水は、透明な水を許せない。透明なほうが正しいのに、正しさは時に人を追い詰める。正しいやさしさは、罪を認めろと迫る。人を殺すのは悪ではなく、正しさだ――悠はそんな言葉をどこかで読んだ気がした。読んだかどうかも曖昧なくせに、今その文句だけがくっきり浮かぶ。
放課後、宗助が廊下で待っていた。彼は悠の親友で、余計なことをよく知っている。
「顔、引き攣ってんぞ」
「いつも」
「いつもより。――杉浦のこと、また何かあった?」
「ない」
「“ない”はだいたい“ある”」
宗助はため息をつき、窓枠に腰を乗せた。
「お前、あいつを見てるとき、目が弱いんだよ」
「弱い?」
「わかりやすく言うと、苛立ってるのをごまかしてる目。――何に苛立ってる?」
自分。即答しそうになり、喉の奥で止める。
「見抜くな。うざい」
「うざいのは自分自身だろ」
「正論、やめろ」
「正論を嫌うのは、だいたい正論が当たってるとき」
宗助は、わざとらしく肩をすくめた。
「なあ、悠。お前、自分を嫌ってるくせに、嫌われるのは怖いんだな」
悠は笑った。ひび割れた皿みたいな音がした。
「怖くないって言ったら嘘になる」
「杉浦に嫌われたら?」
「死ぬほどじゃない」
「でも、呼吸は浅くなる」
図星だ。腹の底で短く舌打ちする。宗助は続ける。
「お前が自分を嫌ってるかぎり、誰に“好きだ”って言われても、それは罠だ。救いの顔をした罠。お前は足を踏み入れて、抜けなくなる」
「じゃあどうしろ」
「自分を好きになる。……って、簡単に言うやつをぶん殴りたくなるだろ」
「なる」
「だから殴る代わりに、誰かの“好き”を使え。うまく使えれば、罠じゃなく梯子になるかもしれん」
梯子。地面に打ち付けられた言葉が、ぽつりと立つ。空を見上げると、曇っていた。梯子をかける先が見えない空ほど、重いものはない。
家で机につき、教科書を開く。文字はしだいに黒い染みになり、頁は溶けていく。スマホが震える。
『今日の最後の一本、先輩が見てるって思ったら、中心に入れました。明日もお願いします。—杉浦』
悠は短く息を吐いた。
返信欄に、指が落ちる。
『明日、昼練、行く』
送信。画面の光が冷たい。直後に、すぐ返事が来る。
『やった』
やった、という二文字。子どもじみている。羨ましいほどに、感情がそのまま書かれている。悠は画面を伏せる。机の上で、伏せたそれが心臓の鼓動に合わせて微かに揺れたように見えた。
眠る前、鏡にもう一度向かう。見慣れない顔は、見慣れた拒絶でこちらを見る。唇の片側がすこし下がっている。目尻に薄い疲れが滲む。
――男になりたいわけじゃなかった。
――女でいたくなかっただけだ。
その差は、誰にも説明できないほど小さく、悠には世界の端と端ほど遠い。理解してほしいと望むこと自体が、誰かの時間を浪費させる犯罪めいて感じられて、何も言いたくなくなる。黙る。黙っているうちに、考えが濁っていく。濁ったものほど、沈まず、表面に居座る。
翌日の昼、道場には春の光が差し、木目の上で粉塵がゆっくり踊っていた。杉浦は既に弓を手にしている。
「先輩、来てくれた」
「ああ」
「今日、ひとつお願いがあるんです」
「何」
「俺を見てるときの先輩の目が、どんな目か、俺に教えてください」
「どんな目?」
「俺、誰にどう見られてるかけっこう気にするタイプなんで。先輩だけは、嘘つかないで言ってほしい」
悠は笑う。皮肉にも、少し救われたような笑いだった。
「俺の目は嘘ばっかりだよ」
「じゃあ、嘘をつくときの目でもいいです」
「いちばん嫌だ」
「俺は嫌じゃない」
矢をつがえながら、杉浦は静かに言う。
「先輩、俺、先輩が自分を嫌ってるの知ってます。でも俺は、先輩のことが好きです。――それで困ること、ありますか」
ある、と悠は思う。ありすぎて、数え始めたら夜が明けても終わらない。困りごとは繁殖する。光にも水にもよく増える藻のように、触れたところから広がる。
それでも、悠は頷いた。
「困らない」
たぶん嘘だ。だが、嘘をついたあとに弦を引くと、不思議と指の震えが止まる。嘘の重さが、身体に一本の芯を通すことがある。的を狙うと、中心がやけに近く見えた。弦音。矢は紙を破り、藁に深く入った。
杉浦は目を細め、嬉しそうに息を吐いた。
「今の、好きです。その音」
好き、という語が、道場の空気に小さな波紋を作る。波紋は何かにぶつかり、返ってきて、悠の胸骨に当たる。骨が、かすかに鳴いた気がした。
練習が終わると、ふたりで的の紙を張り替えた。古い紙を剥がすと、裏には矢痕が迷路のように残っている。中心に重なる黒い穴。その周りに散る、ぶれた穴。失敗の痕跡は、成功の近くに集まる。
「先輩」
「何」
「俺、先輩を好きでいるから、先輩は先輩のことを嫌いでいてもいいですよ」
悠は手を止め、紙片を握る。指に紙の粉がつく。
「勝手なこと言うな」
「勝手です」
「そういうの、やさしさの名を借りた暴力だ」
「はい」
「はい、じゃない」
「でも、俺は暴力をふるいます。先輩が自分を嫌う速度より、俺が先輩を好きでいる速度を速くします」
子どもの宣戦布告。お遊戯の剣に見えて、刃は鈍いぶんだけ骨に残る。抜けない。抜けないから、歩くたびに擦れて痛む。
悠は顔を伏せた。
「やめろ」
小さな声だった。命令にも懇願にもならない、余った声。
「やめたら、先輩は楽になりますか」
「わからない」
「じゃあ、やめません」
外に出ると、春の風の匂いがした。土と、まだ咲ききらない若い葉の湿った匂い。悠は肩をすくめる。杉浦は笑う。
「先輩。俺、先輩の矢みたいになりたい。真っ直ぐで、届くやつ」
「真っ直ぐは折れやすい」
「じゃあ、しなります」
「勝手にしろ」
「勝手にします」
勝手に、という言葉で塗りつぶしてしまえるものと、塗りつぶしてはいけないものがある。悠は、どこまでが前者でどこからが後者か、境目がもう見えなかった。見えないから、踏み越える。踏み越えながら、踏んだ音を忘れようとする。忘れるたび、音は大きくなる。
夜、窓を開けると、遠くで犬が吠えた。吠える声は、嘆きと似ている。人間の嘆きより、正直なぶんだけ耳に障る。悠はベッドに倒れ込み、天井を見つめた。
目を閉じれば、矢の音がする。目を開けても、矢の音がする。
音のあとに、誰かの笑顔が立ち上がる。
その笑顔が、悠のなかで最も汚い場所を照らしてしまう。
照らされるたび、彼は自分の汚さの輪郭がはっきりするのを感じる。輪郭がはっきりした汚れは、もう“曖昧さ”という逃げ場に沈められない。はっきりしたものは、責任を要求する。名を呼ばれた汚れほど、扱いに困るものはない。
――このままでは、壊れる。
そう自覚することが、なぜか少しだけ快い。壊れる予告は、壊れないための最後の支えになる。明日もまた道場に行く。彼に会う。会って、またどこかを傷つける。傷つけながら、かすかな救いに触れる。
泥は、光を嫌う。だが、光に当たらない泥はいつまでも冷たい。
目を閉じる。矢が飛ぶ。中心は遠い。遠いのに、なぜか近い。
悠は、自分の呼吸が浅く、しかし続いていることを確かめた。
そして、ようやく思い至る。
彼は、彼自身を嫌うことに慣れすぎていた。
慣れは、最悪の快楽だ。
そこから引き剥がすには、誰かの愚直な“好き”の力が要る。
その誰かが、よりによって、年下の後輩だということが、滑稽で、哀しく、救いだった。
弦をはなれた矢が空気を裂くわずかな気流が、床板の古い木目を撫で、霞のように消える。音はいつも同じだが、聴くたびに違う傷を思い出させる。悠はその音を、罰のように受け取っていた。
悠は二年だ。外見だけ見れば華奢な“女子生徒”の枠に投げ込まれがちだが、彼の内側はずっと“男”のまま、路地裏の影のように揺れている。押しつぶすための布を胸に巻き、男子用のスラックスに身を押し込む。ここまでしても、呼びかける声はときどき彼を女に寄せようとする。言葉の端にひっそり宿る“彼女”の調子が、悠の喉を錆びさせる。誰かが鈴を鳴らすような笑い声で「かわいい」と言うたび、悠は弓を握る手に力を込め、指の関節を白くした。
この春、弓道部に十人ほどの一年が入った。その中で、ひとりだけ音が違う者がいる。杉浦 湊。
はじめて矢をつがえた日から、彼の矢には無駄がない。肩の線が真直で、肘に余計な迷いがない。放つ瞬間、目が少しだけ細くなる――子どもと大人のあいだにある、危うい透明さ。弦の震えが納まるころには、彼の口元に短い笑みが残る。無邪気に見えるその笑みは、悠の胸に疼きを招く。悦びではない。嫉妬でもない。もっと卑小で、ややこしく、名前をつければ腐ってしまいそうな、ねっとりした感情だ。
「先輩、今の、見てました?」
近づいてくる足音は軽い。杉浦は汗を額に浮かべ、まだ甘さの残る声で言った。
「うん。真っ直ぐだった」
「やった。悠先輩に褒められた」
喜びが、さざ波のように彼の顔に広がる。何も隠せない顔つきだ。だからこそ、残酷に映る。まっすぐすぎるものは、曲がって生き延びてきた者にとって、光よりも刃物に近い。
「でも、最後の伸びは俺のより少し弱い。肩、落ちてる」
悠が指すと、杉浦は素直に肩を上げ、姿勢を取り直す。
「こうですか」
「そう。――そうだ、そこ」
「ありがとうございます」
礼の角度が綺麗だった。彼は誰の背中も疑わずについていける善良さを、恥じることなく身にまとっている。そういう善良さは、弱った心を破る。悠は視線を落とし、矢筒の羽根を数えた。数えるふりをして、自分の眼をどこかに置いてしまいたかった。
杉浦は遠慮なく、しかし無神経ではない距離で近づいてくる。境界線に指先を乗せ、押しはしないが離れもしない、年下の無畏さ。
「先輩って、怒らないんですね」
「怒ってるよ」
「え、どこで?」
「内側で」
「内側で怒るの、ずるいです。俺にも見えるように怒ってください」
悠は返さなかった。怒りなどではない。これは、怒るほどまっとうではない。彼の明るさに照らされ、悠は自分の内側が泥水だと気づく。日なたに出せば匂いを撒き散らす、腐敗の早い水だ。蓋を押さえる手が、わずかに震えた。
練習が終わると、部員たちは雑談をしながら片付けを始める。笑い声や足音が重なり、的の紙を張り替える音が混じる。杉浦は矢を束ね、ふと振り返って悠を見た。視線が合う。逃げない子どもの目だ。
「先輩、帰り道、同じ方向ですよね」
「……たぶん」
「じゃあ、一緒に帰ってもいいですか」
「一緒に?」
「嫌ですか」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ、決まりです」
決まりにされると、悠はいつものように笑って頷くしかない。その笑いは、頬の筋肉と喉の奥が別々に動く、不恰好なものだった。部室棟を出ると、薄く冷たい風が緩んだ汗を撫で、肌の上で小さなざらつきに変わった。夕焼けは赤というより、少し鉄臭い色をしている。血の色に似ている、と悠は思った。血の色を、女の体は具体的に知っている。日付と周期と匂いで覚え込まされた、逃げ場のない記憶だ。
忘れたいものほど、色は鮮やかだ。
道端の植え込みで雀が跳ねる。杉浦は気づくとすぐ指差し、嬉々としてくだらない話を始める。給水機の水がまずいとか、英語の先生の発音がやけに巻き舌だとか。悠は相づちを打ち、時折短く笑う。笑ってしまう。笑う自分を、少しだけ憎む。彼の幼い無邪気さに免じて笑ってはならない、と内側の声が言う。許した瞬間、蓋が外れる。蓋が外れれば、泥水は世界にこぼれる。世界に、そして彼に、べっとりまとわりつく。汚す。汚れたくないなら近寄るな、と悠の中の誰かが囁く。
「先輩って、家、遠いんですか」
「まあ、普通」
「俺、部活ある日は急ぎ足になるんですよ。早く道場に戻りたくて」
「……そう」
「先輩は?」
「戻りたくない時もある」
「えっ、なんで」
「自分がいるから」
杉浦は足を止めた。夕暮れの光が彼の額に影を作る。
「自分が、嫌いってことですか」
「わかりやすく言えば、そう」
「じゃあ、俺が好きです」
「は?」
「先輩のこと。俺が好きで埋めたら、自分の嫌いが減るかもしれないでしょ」
冗談めかして、しかしすこしも冗談ではない声で言う。年下は残酷だ。残酷で、やさしい。悠は視線を逸らす。頬の内側を噛む。鉄の味がする。
「そういう軽口、よくない」
「軽口じゃないです」
「じゃあ、無鉄砲」
「先輩が止めてくれない限り、俺は止まらない無鉄砲です」
この子は、まっすぐに言葉を放つ。矢と同じだ。狙いの中心を疑わない。だからこそ、的の紙ではなく、中の藁までじわじわ湿らせていく。悠の中の藁は、ずいぶん前から湿っている。火がつけばよく燃える。燃えかすは黒く、軽い。風が吹けば、どこへでも飛んでいく。
家に帰り、悠は机の角に置いた小さな鏡をのぞいた。そこに映る顔を“自分”と呼ぶのに、いまだ慣れない。バインダーの跡が胸の上に赤く残り、首元には襟の擦れた線がある。化粧をしない肌は、思春期の荒れが正直に出ている。
鏡の中の目は、いつも湿って見えた。泣いていなくても、泣き出す前の目だ。彼は目を逸らす。逸らしながら、画面の光に手を伸ばす。
メッセージの通知。
『先輩、今日も教えてくれてありがとうございました。明日の昼練、また見てほしいです。—杉浦』
文末の句点が丁寧で、やたらと健やかだ。健やかさは不意に人を傷つける。悠は返信欄を開き、文字を入力しては消す。「いいよ」と打ちかけて、削除する。何度か繰り返した末に、結局送信はしなかった。無視するのは卑怯だ。卑怯である自分を軽蔑する。軽蔑する自分の声が、いちばんよく通る。
夜が深む。浴室の扉を閉める音が、やけに響く。シャワーを出すと、温度の高い水が皮膚に針のように当たる。胸の布を外すと、呼吸が浅くなる。幾度も繰り返しているはずの動作のたびに、確かめなくていい現実が目の前に置かれる。
身体は何も悪くない、と誰かが言ったことを思い出す。間違っているのは世界のほうだ、とも。正論のトゲは丸く、当たるとよく滑る。滑った先で、悠は転ぶ。膝を打ち、笑う声を思い出す。「女なのに」「男みたい」。どちらもよく刺さる。どちらにも血がつく。血は落ちにくい。においが残る。
眠りは濁っていた。夢の中で矢を放つ。放つたび、弦の音が誰かの名前になる。彼の名字が、名が、ひらがなに崩れ、幼い声で呼ばれる。悠は振り返らない。振り返ったら、何かが決定してしまう気がした。決定はいつも取り消せない。取り消せないものに囲まれて、彼は大きくなった。
昼練の道場は、朝の冷たさをまだ保っていた。陽が差す前の木は、匂いが暗い。杉浦はすでに来ていた。畳に正座して、矢数を数えている。数える声が、子どもじみていて、妙に品がいい。
「おはようございます、先輩」
「おはよう」
正座をほどき、彼は立ち上がる。目に眠気の欠片もない。
「昨日、返信なかったので、体調崩したかと思って」
「崩してない」
「よかった」
迷いのない安堵。誰かを信じるときの音がする。“信じられる対象”に、自分はなれているのだろうか。なってはいけないのだろうか。どちらにしろ、どろりとしたものが胃の奥で重くなる。
「肩、上がりすぎ」
悠は指摘する。杉浦はすぐ直す。
「ここ?」
「そこ」
「この前もそこって言ってました」
「この先も言う」
「じゃあ、俺は一生そこに気をつける」
一生、という言葉が軽く口から出る。少年の一生は、たぶん週末よりも短い。けれど彼が言うと、案外長持ちしそうな気もする。そういう気がするだけで、矛盾が少し和らぐ。和らいだ隙間を、別の痛みが埋める。悠はその痛みに依存していた。痛みがあるあいだ、生きているとわかる。痛みが薄れると、彼はどこにいるのかわからない。
「先輩、俺、先輩みたいに弓を引けるようになりますか」
「才能はある」
「そういう慰めじゃなくて、ちゃんと」
「ちゃんと、才能はある」
「じゃあ、あとは?」
「練習」
「じゃあ、練習します。――先輩、俺のこと、ちゃんと見ててください」
“見ててください”。その言葉は、つきたての餅のように柔らかく、歯にねばつく。悠は喉に指を当てる。声を出せなくなる前に、平坦な返事を出した。
「見てる」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、俺、頑張れる」
まっすぐに笑う。その顔を、殴りたいと思ってしまう自分がいる。殴りたいのは彼ではなく、そこに映る自分だ。汚れた水は、透明な水を許せない。透明なほうが正しいのに、正しさは時に人を追い詰める。正しいやさしさは、罪を認めろと迫る。人を殺すのは悪ではなく、正しさだ――悠はそんな言葉をどこかで読んだ気がした。読んだかどうかも曖昧なくせに、今その文句だけがくっきり浮かぶ。
放課後、宗助が廊下で待っていた。彼は悠の親友で、余計なことをよく知っている。
「顔、引き攣ってんぞ」
「いつも」
「いつもより。――杉浦のこと、また何かあった?」
「ない」
「“ない”はだいたい“ある”」
宗助はため息をつき、窓枠に腰を乗せた。
「お前、あいつを見てるとき、目が弱いんだよ」
「弱い?」
「わかりやすく言うと、苛立ってるのをごまかしてる目。――何に苛立ってる?」
自分。即答しそうになり、喉の奥で止める。
「見抜くな。うざい」
「うざいのは自分自身だろ」
「正論、やめろ」
「正論を嫌うのは、だいたい正論が当たってるとき」
宗助は、わざとらしく肩をすくめた。
「なあ、悠。お前、自分を嫌ってるくせに、嫌われるのは怖いんだな」
悠は笑った。ひび割れた皿みたいな音がした。
「怖くないって言ったら嘘になる」
「杉浦に嫌われたら?」
「死ぬほどじゃない」
「でも、呼吸は浅くなる」
図星だ。腹の底で短く舌打ちする。宗助は続ける。
「お前が自分を嫌ってるかぎり、誰に“好きだ”って言われても、それは罠だ。救いの顔をした罠。お前は足を踏み入れて、抜けなくなる」
「じゃあどうしろ」
「自分を好きになる。……って、簡単に言うやつをぶん殴りたくなるだろ」
「なる」
「だから殴る代わりに、誰かの“好き”を使え。うまく使えれば、罠じゃなく梯子になるかもしれん」
梯子。地面に打ち付けられた言葉が、ぽつりと立つ。空を見上げると、曇っていた。梯子をかける先が見えない空ほど、重いものはない。
家で机につき、教科書を開く。文字はしだいに黒い染みになり、頁は溶けていく。スマホが震える。
『今日の最後の一本、先輩が見てるって思ったら、中心に入れました。明日もお願いします。—杉浦』
悠は短く息を吐いた。
返信欄に、指が落ちる。
『明日、昼練、行く』
送信。画面の光が冷たい。直後に、すぐ返事が来る。
『やった』
やった、という二文字。子どもじみている。羨ましいほどに、感情がそのまま書かれている。悠は画面を伏せる。机の上で、伏せたそれが心臓の鼓動に合わせて微かに揺れたように見えた。
眠る前、鏡にもう一度向かう。見慣れない顔は、見慣れた拒絶でこちらを見る。唇の片側がすこし下がっている。目尻に薄い疲れが滲む。
――男になりたいわけじゃなかった。
――女でいたくなかっただけだ。
その差は、誰にも説明できないほど小さく、悠には世界の端と端ほど遠い。理解してほしいと望むこと自体が、誰かの時間を浪費させる犯罪めいて感じられて、何も言いたくなくなる。黙る。黙っているうちに、考えが濁っていく。濁ったものほど、沈まず、表面に居座る。
翌日の昼、道場には春の光が差し、木目の上で粉塵がゆっくり踊っていた。杉浦は既に弓を手にしている。
「先輩、来てくれた」
「ああ」
「今日、ひとつお願いがあるんです」
「何」
「俺を見てるときの先輩の目が、どんな目か、俺に教えてください」
「どんな目?」
「俺、誰にどう見られてるかけっこう気にするタイプなんで。先輩だけは、嘘つかないで言ってほしい」
悠は笑う。皮肉にも、少し救われたような笑いだった。
「俺の目は嘘ばっかりだよ」
「じゃあ、嘘をつくときの目でもいいです」
「いちばん嫌だ」
「俺は嫌じゃない」
矢をつがえながら、杉浦は静かに言う。
「先輩、俺、先輩が自分を嫌ってるの知ってます。でも俺は、先輩のことが好きです。――それで困ること、ありますか」
ある、と悠は思う。ありすぎて、数え始めたら夜が明けても終わらない。困りごとは繁殖する。光にも水にもよく増える藻のように、触れたところから広がる。
それでも、悠は頷いた。
「困らない」
たぶん嘘だ。だが、嘘をついたあとに弦を引くと、不思議と指の震えが止まる。嘘の重さが、身体に一本の芯を通すことがある。的を狙うと、中心がやけに近く見えた。弦音。矢は紙を破り、藁に深く入った。
杉浦は目を細め、嬉しそうに息を吐いた。
「今の、好きです。その音」
好き、という語が、道場の空気に小さな波紋を作る。波紋は何かにぶつかり、返ってきて、悠の胸骨に当たる。骨が、かすかに鳴いた気がした。
練習が終わると、ふたりで的の紙を張り替えた。古い紙を剥がすと、裏には矢痕が迷路のように残っている。中心に重なる黒い穴。その周りに散る、ぶれた穴。失敗の痕跡は、成功の近くに集まる。
「先輩」
「何」
「俺、先輩を好きでいるから、先輩は先輩のことを嫌いでいてもいいですよ」
悠は手を止め、紙片を握る。指に紙の粉がつく。
「勝手なこと言うな」
「勝手です」
「そういうの、やさしさの名を借りた暴力だ」
「はい」
「はい、じゃない」
「でも、俺は暴力をふるいます。先輩が自分を嫌う速度より、俺が先輩を好きでいる速度を速くします」
子どもの宣戦布告。お遊戯の剣に見えて、刃は鈍いぶんだけ骨に残る。抜けない。抜けないから、歩くたびに擦れて痛む。
悠は顔を伏せた。
「やめろ」
小さな声だった。命令にも懇願にもならない、余った声。
「やめたら、先輩は楽になりますか」
「わからない」
「じゃあ、やめません」
外に出ると、春の風の匂いがした。土と、まだ咲ききらない若い葉の湿った匂い。悠は肩をすくめる。杉浦は笑う。
「先輩。俺、先輩の矢みたいになりたい。真っ直ぐで、届くやつ」
「真っ直ぐは折れやすい」
「じゃあ、しなります」
「勝手にしろ」
「勝手にします」
勝手に、という言葉で塗りつぶしてしまえるものと、塗りつぶしてはいけないものがある。悠は、どこまでが前者でどこからが後者か、境目がもう見えなかった。見えないから、踏み越える。踏み越えながら、踏んだ音を忘れようとする。忘れるたび、音は大きくなる。
夜、窓を開けると、遠くで犬が吠えた。吠える声は、嘆きと似ている。人間の嘆きより、正直なぶんだけ耳に障る。悠はベッドに倒れ込み、天井を見つめた。
目を閉じれば、矢の音がする。目を開けても、矢の音がする。
音のあとに、誰かの笑顔が立ち上がる。
その笑顔が、悠のなかで最も汚い場所を照らしてしまう。
照らされるたび、彼は自分の汚さの輪郭がはっきりするのを感じる。輪郭がはっきりした汚れは、もう“曖昧さ”という逃げ場に沈められない。はっきりしたものは、責任を要求する。名を呼ばれた汚れほど、扱いに困るものはない。
――このままでは、壊れる。
そう自覚することが、なぜか少しだけ快い。壊れる予告は、壊れないための最後の支えになる。明日もまた道場に行く。彼に会う。会って、またどこかを傷つける。傷つけながら、かすかな救いに触れる。
泥は、光を嫌う。だが、光に当たらない泥はいつまでも冷たい。
目を閉じる。矢が飛ぶ。中心は遠い。遠いのに、なぜか近い。
悠は、自分の呼吸が浅く、しかし続いていることを確かめた。
そして、ようやく思い至る。
彼は、彼自身を嫌うことに慣れすぎていた。
慣れは、最悪の快楽だ。
そこから引き剥がすには、誰かの愚直な“好き”の力が要る。
その誰かが、よりによって、年下の後輩だということが、滑稽で、哀しく、救いだった。



