台風が過ぎてから数日。カラッとした暑さが続いていた。もう夏がすぐそこまで迫っている。
 あの日の夜、大学の話をしたからか、一人で本屋に寄る回数が増えた。なんとなく店内を回り、最後に参考書ブースで足を止める。これが、入店からの流れ。
 購入目的のため、というよりは今後の進路について考える時間になっている。
今日もまた、ショッピングモール内の書店で自分の将来について考えていた。
 自分はなにがしたいのだとか、そのために大学はどこに行くべきだとか、現状答えは出ていない。今はただ、日置と一緒にいられるならなんでもいい……そう思っているけど、その先を考えるとそれもどうなのだろう。と、疑問を抱く自分もいる。
 試験対策や過去問集などの冊子の向こうに見えるのは、就活生向けの棚。今日はそこにも足を伸ばしてみた。面接対策だとか、自己分析だとか、こちらも頭が痛くなるような見出しばかり。帯を独占する勉強動画配信者のレビューコメントだけ読んで踵(きびす)を返した。
 そもそも、将来の夢はない。だけど、願望はある。いつか日置と一緒に暮らしたい、という漠然としたものが。
「つかさくん、コレにする」
 文房具売り場に着くと、いろいろ両手に抱えた弟の紡希(つむぎ)がこちらに駆けてきた。まだまだ小学二年生。落ち着きはない。
 近くのカゴを引っ張ってくると、紡希の手から商品をひとつひとつカゴの中へ移していく、のだが……。
「もう筆箱替えるの?」
「うん、コレかっこいいから」
「今の筆箱、一ヶ月も使ってないじゃん」
「あれは家で使うからいいの!」
「鉛筆もまだあるでしょ」
「ないよー」
「開けてないのが一個残ってるだろ」
「あれはBで、これは2Bだもん」
 なにかと理由をつけて買おうとする紡希。今日は新しいノートだけを買う予定のはずだが、戻してこいと言えない俺は弟に甘い。
「ノートは国語であってる? 算数は?」
 肝心のノートについて聞いてみれば、さっきの威勢は身をひそめ、目があちらこちらに泳いだ。
「こくごだけ……たぶん。あれ、さんすうだっけ」
「分からないなら両方買っておきなよ。そのうち使うと思うし」
「分かった!」
 紡希はコクリと頷き、ノートが並ぶ棚へ向かった。これから表紙のデザイン選びでまた時間がかかる。別で買い物中の母が来るまでに選ばないと、この筆箱や鉛筆を買って帰るのは難しいだろう。
「紡希、早く選ばないと――」
「紬嵩(つかさ)?」
 俺の声は背にかかった声に遮られた。控えめで小さなその音は久しぶりに聞いた。
「ひ、久しぶり……」
 振り返った先にいたのは元カノの新(にい)山(やま)珠(す)々(ず)。
 記憶より髪が伸び、スタイルも華奢(きゃしゃ)になっていて、別れてから一年ちょっとだが、かなり大人びて見える。
「久しぶり」
 挨拶を返すと、彼女の顔色はわずかに柔らかくなった。
「えっと、元気だった?」
「うん。そっちも元気そうでよかった」
 当たりさわりもない会話を交わしつつ、紡希の様子を窺う。頭から湯気が出そうなほど真剣に悩んでいる弟は、まだこちらへ戻ってくる気配はない。
 珠々もすぐに立ち去る雰囲気はなく、俺に質問を重ねる。
「友達と来たの?」
「いや、母さんと弟と。珠々は?」
「私は友達の誕プレ買いに来ただけ」
 彼女の腕には、小さな紙袋がぶら下がっていた。連れがいたらすぐに切りあげようと思ったけど、それも難しそうだ。
「じゃあ、また――」
「あのさ……このあと時間ある? よかったら、少し話したくて」
 周りをキョロキョロと見回した珠々は、小さな声でそう言った。こちらを見つめる大きな瞳は、水分を含んでわずかに揺れている。
 話を聞かなくても、言いたいことは分かる気がするが、なぜかきっぱり断ることができない。これも、彼女が泣きそうだからだろうか。
「……弟あずけてからでいい?」
 まだノート選びに真剣な紡希を見ると、珠々は大げさに頭を振った。
「大丈夫。私、あそこで待ってるから」
 そう言って彼女は店外の休憩スペースを指差す。
 俺が頷くと、「待ってるね」と言って丸いソファのほうへ歩きだした。
「決まった?」
 紡希へ声をかけると、まんまるな瞳が俺を捉える。
「コレにする」
「えぇ……なんでまた増えてんの」
 算数ノートを選んでいたはずなのに、なぜか自由帳も抱えている。だから表紙選びに時間がかかっていたのか。
「明日リョウくんの家で遊ぶからその時使うの」
「お絵描きでもするの?」
「迷路作る」
「……分かったよ。それで終わりだからね」
 説得する気力もなく、自由帳もカゴへ入れた。予定金額を大幅にオーバーした買い物に、母の元へ向かう足取りは重い。紡希は鼻歌が聞こえてきそうなほどご機嫌だ。
「おかえり。ちゃんとノート買え……た?」
 母のリアクションは予想通りだった。
 数々の文房具が詰まった袋を見るなり、小売りの玉ねぎを選んでいた手は止まり、迎えてくれた笑顔はピシリと固まる。
「こくごのノートだけって言ったよね? 二人にはコレとかコレも、こくごのノートに見えるのかな?」
 筆箱や鉛筆を指差しながら、母は盛大なため息をついた。
 隣の紡希はぷるぷる震えるだけで、俺に熱弁していた言い訳は一言も発さない。母には効かないと分かっているらしい。
「全部俺のお小遣いで買っといたからさ、ちょっと友達のとこ行っていい?」
 説教を遮って言うと、母は「そういう問題じゃない」と呟きながら腕時計を見た。
「いいけど。時間かかるなら先帰るよ」
「そこまで長くならないと思うけど……先帰ってて」
「分かった。気をつけてね」
「うん」
 さっそく珠々のところへ向かおうとしたところでギュッと手を掴まれる。その主はもちろん紡希。ビー玉みたいに瞳を潤ませてこちらを見上げている。
「ぼくも行く」
「紡希は先帰ってて、そんな遅くならないから」
「えー、つかさくんだけずるい」
 この〝ずるい〟は、友達の元へ向かうことより母の説教から逃げることを指しているのだろう。申し訳ないが、今回はわがままな紡希が悪い。
「紡希はママと宿題しようね。い~っぱいお勉強道具買ったからたくさんできるね」
 ニコニコと笑う母は、そう言って紡希の腕を引いて精肉コーナーへと消えていった。最後に見た紡希の顔は、風船顔負けの膨れ面。
 しかたない、ドーナツでも買って帰るか。
 また母に怒られそうなことを考えながら、珠々の元へ。
 背筋を伸ばし、姿勢よく丸いソファに座る彼女は、俺に気づくなりパッと表情を明るくした。
「弟くん、大丈夫だった?」
「うん。とりあえず、移動しよ」
 落ち着かない様子の彼女を連れて向かったのは、全国に展開されているチェーン店のカフェ。休日らしく、店内は客で溢れかえっている。
「キャラメルフラッペでいい?」
 電子マネーの残高を確認しながら言うと、彼女はポカンと口を開けたまま固まってしまった。
 なにか変なことでも言っただろうか。販売終了かと思い、メニューを見上げるも、バッチリその名前はトップに書かれていた。
「……なに?」
 恐る恐る聞けば、パチパチと瞬いた瞼からキラキラのエフェクトが散る。
「私のお気に入り覚えててくれたんだ」
「あぁ…………まぁね。そうだ、席取っといてもらえる?」
「分かった」
 一人になるための口実を使うと、彼女はすんなり引き下がった。意(い)気(き)揚(よう)々(よう)と店内の奥に消える背中を見て頭痛を覚える。
 忘れたと思っていたのは俺の気持ちだけで、脳みそはきちんと記憶していた。
 キッカケがあればすべてが昨日のことのように鮮明になる。彼女が頼んでいたカスタマイズも、一緒に買うチーズケーキも、お気に入りの席も、全部。
 会計を済ませ、窓際の席へ向かうと、予想通り彼女は机に肘(ひじ)をついてスマホをいじっていた。
「今迎えに行こうと思ったのに、よく分かったね?」
「たまたま見えただけ」
 トレーを机の上に置くと、珠々は「ふふっ」と笑ってキャラメルフラッペを手に取る。
「カスタマイズしてくれなかったんだ」
「ごめん、忘れた」
「嘘、紬嵩は覚えてるよ」
 見透かしたようなセリフに視線が逸れる。珠々はもう一度嬉しそうに笑った。
「お金いくらだった?」
「べつにいいよ、これくらい。それで、話ってなに?」
 自分のコーヒーには手をつけず、本題に切りこむが、珠々はストローをクルクル回すだけ。やっと口を開いたかと思えば、求めていた回答ではなかった。
「高校どう?」
「楽しいよ」
「共学だよね?」
「うん……てか、あんまり時間ないんだけど」
 彼女なりの緊張のほぐし方なのだろうけど、付き合っていると日が暮れそうだ。
「話ってなに?」
 もう一度同じ質問をするも、珠々は落ち着きなくストローをいじるだけで、なかなか話そうとしない。
 やっと俺たちの間に音が落ちたのは、隣の席の客が立ち上がってからだった。
「今……彼女いる?」
 ヒソヒソ話をする声のトーンで珠々は言った。返事を待つ彼女は、緊張した面持ちでジッとこちらを見つめている。
「付き合ってる子はいるよ」
「そっか、そうだよね……」
 まさか男の子と付き合っているとは思っていない彼女は、言い聞かせるようにもう一度「そうだよね」と呟いた。
「同じ学校?」
「うん」
「どんな子? 写真見せて」
「やだよ」
 食い気味な珠々に、テーブルの上に置いていたスマホをポケットに突っこんでしまった。ロック画面に設定されている日置とのツーショット写真は、仮に見られたとしても怪しまれないが反射的に体が動いた。それが不審だったようで、さらに訝(いぶか)しんだ声が飛んでくる。
「なんで隠すの?」
「べつに隠してるわけじゃない」
「じゃあ見せてよ」
「やだ」
「本当はいないんでしょ」
 妙に確信を持った声に、自然と首が傾く。
「なんでそう思うの?」
「インスタに一枚も写ってないから……」
「俺のアカウント探したんだ」
 その一言で、バツが悪そうに視線が逸れた。
「ううん、たまたま見つけただけ」
 本当に? インスタの名前もIDも、本名で検索しても出てこない。
 とはいえ、そんなことで珠々を問いつめる気はなく黙っていれば、また質問が飛んでくる。
「なんで彼女との写真上げないの?」
「それは俺の自由じゃない?」
「そうだけど……」
 納得できないと書かれた顔に諦める様子はない。
「どうしても見せてくれない?」
「うん。てか、なんでそんな気になるの?」
 そう問えば、彼女は分かりやすく動揺する。ギュッと握りしめる拳は爪を白く染めていた。
「やっぱ無理に言わなくても――」
「諦めるキッカケが欲しいから」
「え」
「私まだ好きなの、紬嵩のこと」
 復縁を持ちかけられると予想していたが、外れてしまった。まさか、踏ん切りを手伝ってほしいとお願いされるとは。
「写真無理なら会わせてほしい」
 思い切った提案に、思わず「は?」と声が漏れる。
「本気で言ってる?」
「……変なお願いしてるのは分かってるよ。でも、気づいたら紬嵩のアカウント探しちゃうし、忘れようとしても付き合ってたころの写真も消せないし……どうやったら諦められるか、自分でも分かんない」
 長いまつげを伏せた彼女の肩は震えていた。
 珠々のことはもう好きじゃない。と突き放すだけで終わらせられるはずなのに、白く小さな拳に落ちた雫(しずく)を見て、その言葉は飲みこんでしまった。
「話はそれだけ?」
 平静を装って席を立つと、一ミリも飲んでいないドリンクカップを手にした。
 うつむく珠々はコクリと頷くだけで顔を上げない。
「……あとで連絡する」
 一言残すと店をあとにした。買おうと思っていた紡希へのドーナツは頭から抜け落ち、足は真っ直ぐ駅へ向かう。
 うまく立ち回れない焦りは次第に苛立ちへと変わった。あの時、クラスの集合写真でテキトーにごまかせばよかった。「好きじゃない」とハッキリ伝えればよかった。それなのに、泣かれてしまうと逃げることしかできない。
 ほんのわずかなためらいが大きな後悔へと化ける。
 どうしよう。なにより日置に迷惑をかけてしまう可能性があることが心苦しい。けれど、彼に相談せず進めるのも気が引ける。
 進路のことで頭がいっぱいなのに、余計なストレスを抱えるのはごめんだ。早々に解決したい。
 そういえば、紡希は明日友達の家で遊ぶと言っていたっけ。パート帰りの母は、夕方にスーパーに行くから家が空くタイミングはバッチリ。
 チャンスは、明日しかない。