三年二組は、一言で表すなら騒がしいクラス。新学期から数日足らずで、新クラス特有の緊張感は消えていた。
 辻谷のようなムードメーカーが多いというのもあるが、三年生にもなれば見知った顔ぶればかりになる。去年、クラスに馴染むことに時間がかかった俺も少しずつ二組の空気に溶けこんでいた。
 だけど、いくら周りが賑やかでもやっぱり足りない。渡会がいない教室は、苺(いちご)が乗っていないショートケーキみたい。

 登校するたびに増す寂しさに、神様も可哀想(かわいそう)だと思ったのか、ごほうびは突然贈られた。
 二年生が修学旅行に心躍(おど)らせる六月に、大型の台風予報。
 空はどんよりとした黒(こく)雲(うん)が覆い、突風がガタガタと窓ガラスを叩いている。こんな状況でも登校しなくてはいけないのは学生の宿命だろうか。
 ラスボスが現れてきそうな曇(どん)天(てん)から顔を逸らした時、見計らったように校内放送を知らせるチャイムが鳴り響く。居眠りをしていた生徒も、ノートに落書きをしている生徒も、一斉に顔を上げた。
「えー、みなさん。自習中かと思いますが、台風の影響で、急(きゅう)遽(きょ)休校となりました。バス通学の生徒は早めに――」
 スピーカーの声が切れる前に、教室中の空気が沸き立つ。それは他のクラスも同じようで、廊下には喜びの滲(にじ)んだ声がこだましていた。
「ほら、静かに。ということなので、みなさん。すみやかに帰る支度をしてください」
 緊急会議から帰還した現代文の教師兼担任は、ぶ厚い黒縁眼鏡を左手の中指でクイッと上げる。それを合図に、クラスメイトたちは俊(しゅん)敏(びん)な動きで教科書やノートをバッグに詰めこんだ。ホームルームが終わる早さは過去最速。こういう時だけ、団結力があるんだよな。
「日置ー、兄貴が迎えに来てくれるっぽいけど乗ってくー?」
 クラスメイトがバタバタと教室から散っていく中、辻谷は満面の笑みで前の机に腰を下ろした。彼の声(こわ)色(いろ)や態度から、休校を喜ぶ想いがビシビシと伝わってくる。
「んー……もしかしたら、うちも来れるかも」
 手にしているスマホの画面には「休校になったんだけど、迎え来れる?」という俺のメッセージと、既読をつけた母からのグッと親指を立てる猫のスタンプのやりとり。道が混んでいなければ、母が来るまでに三十分もかからないだろう。
「おっけー、てかさ休校になるなら今日まるごと休みでも……おっ、うぃーす」
 言葉を切った辻谷は、いきなり片手を上げた。彼の目線の先を確認する前に、隣でカタンッと音が鳴る。
「日置はバス?」
 近くの椅子を引っ張ってきた渡会は、俺の椅子にピタリとくっつけて腰を下ろした。どうやら五組もホームルームが終わったようだ。
「いや、迎え来る。渡会は?」
「バスの予定だけど、乗れないくらい混んでたら守崎のとこに乗せてもらう」
 そう言って渡会は扉のほうへ視線を投げた。首を捻(ひね)れば、歩きスマホのお手本のような守崎がこちらへ向かってくる。センサーがついているのかと疑うくらい綺(き)麗(れい)に机を縫(ぬ)って歩いてきた彼は、俺たちを見下ろして首を傾げた。
「うち、六人までいけるけど日置と辻谷は?」
「俺は迎え召喚したー」
 スマホをクルクル回す辻谷に続いて「俺も」と頷く。
「みんな車だって、渡会も乗ってけば?」
 ほら、と守崎はスマホのトーク画面を突きつける。八人のグループでは「誰か乗せてって~」とか「駅までお願い」とか、まだホームルーム中の友人たちのメッセージでいっぱいだった。誰一人、バスで帰る予定の人はいない。
「じゃあ、そうする」
 グループトークを眺めていた渡会は、あっさり頷いた。
 みんな一緒に帰れていいな。なんて、彼らの会話を横目に思う。あくまで台風を見越しての一斉下校であって、これから遊びに行くわけではないのに。
「日置? 大丈夫?」
 黙りこむ俺に気づいた渡会は、心配そうに顔を覗きこんだ。
 言ってみるか、わがまま。
「あのさ……その、よかったらだけど、うちの車乗ってかない?」
 ダメ元で聞いてみれば、綺麗に縁取られた目がパチリと瞬く。
 しばらくして、言葉を咀(そ)嚼(しゃく)した彼は嬉しそうに口元を綻(ほころ)ばせるが、返事はなかなか口にしない。
 渡会の考えていることはなんとなく分かる。きっと、俺の心配とか、そんなところだろう。
「喜んで、って言いたいとこだけど……いいの?」
 ほらやっぱり、予想通り。
 悲しいことに、俺と渡会の家は全然近くない。彼を送り届けるとなると、遠回りになってしまい、帰宅時間が遅くなることは確実だ。
 それでも「一緒に帰りたい」という気持ちが勝った。
「大丈夫。台風もまだひどくないから」
 真っ黒な空は説得力など微塵もないが、俺のわがままは、彼の心配を吹き飛ばすほどの威力があったようだ。
「じゃあ、お願いしようかな」
 俺の視線が窓の外から戻るのを待ってから、渡会はニコリと微笑んだ。
「うぃーす。急遽休校って言いづらくない?」
 と、ボヤきながらやってきた水無瀬を筆頭に、ホームルームを終えた友人たちがぞろぞろ教室へ入ってくる。急遽休校の早口言葉ゲームをしたり、新しいクラスの話をしたり、待ち時間なんてあっという間に過ぎた。
「あ、俺迎え来たから行く」
 着いた、と一言送られてきた母のメッセージに席を立てば、渡会もほとんど同時に腰を上げた。
「やっぱ日置のうちに送ってもらう」
「あ、了解でーす」
 俺と渡会を交互に見た守崎はニヤニヤと笑う。俺たちのことになると、本当に楽しそうだよな。
 バラバラの「またなー」を背に教室を出ると、昼間なのに蛍光灯が煌々(こうこう)と輝く廊下で、渡会は俺を見下ろした。
「クラス慣れた?」
 ついさっきまで中心になっていた話題が飛んでくる。けれど、今回はみんなに対してではなく、俺個人に向けられたもの。
「うん。去年よりは早めに馴染(なじ)めてるかも」
「慣れ」だけで考えれば、答えはYESだった。友達ゼロからスタートした去年とは違い、今年は辻谷がいるし、見知ったメンツも多い。
 そういった意味で頷くも、彼にとっては喜ばしくなかったみたいで、
「へぇ……距離感近すぎるやつとかいない?」
 怒(ど)涛(とう)の尋問が始まった。
「え、うん」
「無駄に話しかけてくるやつとか」
「いないよ」
「スキンシップ多いやつは?」
「いない」
「俺みたいなのは?」
「全然」
 そもそも、渡会みたいなタイプが珍しい。自分で言うのも虚しくなるけど、俺は目を惹くビジュアルも、抜きんでたおもしろさも備えていない。至(し)極(ごく)平凡な男子高校生。
 彼が心配になるほどの人間ではないと思うけど、好きフィルターがかかっていると違うものなのだろうか。
「多分、俺のこと……か、かわいいって思うのは渡会だけだよ」
 ひとりごとに近い声は、昇降口から聞こえてくる生徒の雑談で消えそうになる。それでも、隣を歩く渡会にはしっかり届いていた。
「そんなん分かんないよ」
 少しだけ、熱のこもった声に顔を上げる。視線が交わるなり、渡会は俺の肩に長い腕を回した。仲のいい友達のような仕草も、俺たちにとっては違う。
「かわいいって思うのも、好きになるのも、日置が思ってる以上に一瞬かもよ? 同じクラスならキッカケなんていくらでもあるし」
 二人だけにしか聞こえない声で彼は続けた。腕の力がグッと強くなり、一瞬だけ距離が詰まる。
「日置はかわいいよ」
 耳元で囁(ささや)いた声だけ残し、渡会は体を離した。
 昇降口前の姿見鏡に映る自分は、耳を赤く色づけ、なんとも言えない表情をしている。
「……やっぱ、マジでそう思ってるのは渡会だけだよ」
「まぁ、それならいいけど」
 やっと絞りだした声に、渡会は「ははっ」と笑った。
 熱くなった耳たぶを引っ張りながら靴を履き替えると、扉の向こうで傘をさす通行人がチラホラ見えた。襲いかかる強風を前に、さすのを諦めている人もいる。
 五組の下駄箱からこちらへ戻ってきた渡会も、まだら模(も)様(よう)のアスファルトを見て肩を落とした。
「雨降ってきたね。傘持ってる?」
「持ってるけど、風あるし走ってこ」
 安い折りたたみ傘では到底あの風には勝てない。
 そう判断した俺たちは、校舎裏の駐車場に停めたという母からのメッセージを読むと、なるべく軒(のき)下(した)を通りながら送迎の車で溢れかえる校舎裏へ向かった。
「あ、いた。あそこの車」
 目元に吹きつける雨粒を拭(ぬぐ)い、見慣れたベージュ色のミニワゴンを指差す。
 渡会が頷いたのを確認するとさらに足を速めた。時が経つにつれ強くなる雨は徐々に制服の色を濃く染める。
 車にたどり着いても、スライドドアの遅さがもどかしい。ドアが開ききるより先に体を車内へ滑りこませ、席を詰めながら運転席の母に声をかけた。
「一人乗せてっていい?」
「いいよ〜、辻谷くんたちは大丈夫?」
「あっちは別。俺と渡会だけ」
 続けて乗りこんだ彼に目を向けると、渡会は台風などどこ吹く風というような爽(さわ)やかな笑みを浮かべた。一応、目の前にいるのは恋人の母親だというのに、緊張は一切感じない。
「こんにちは。いきなりすみません。お邪魔します」
「はい、どうぞ〜」
 母はニコニコと会(え)釈(しゃく)し、エンジンをかける。車内に流れ出したラジオの雑談はすぐに止まり、まったりとした洋楽が車内を包んだ。一度も聞いたことのないオシャレな曲は、もしかしなくても、よそ行き用だ。
「渡会くんの家はどこかな」
「ちょっと遠いんですけど……」
 ナビを操作する母に、渡会はスマホを見ながら伝えていた。自分の家の住所は覚えていないみたい。
「よろしくお願いします」
 ナビが案内を開始すると、渡会はやっと座席に腰を落ち着けた。つられて俺もホッと息をつく。
「明日、休みになるかな」
 窓を叩きつける雨を横目に言うと、渡会は首を傾げた。
「どうだろ。だいたい夜に通過して、次の日快晴ってパターン多いよね」
「あはは、たしかに」
 二人で笑い合い、雨風そっちのけで会話に花を咲かせる。クラスが離れて一緒にいられない時間を取り戻すように……それで、今日は終わる予定だった。
 驚いたことに、充分に持っていたネタは、すぐに底をつくことになった。いつしか「この前辻谷がー」などとしょうもない報告になっている。というのも、車がなかなか進まないのだ。目の前で長(ちょう)蛇(だ)の列を作る車は赤いライトばっかり。
 かれこれ車に乗ってから一時間。濡れた髪もすっかり乾いている。
「何時くらいに渡会の家着く?」
 ついに心配が勝ち、運転席と助手席の間に身を乗りだした。
「うーん、分からないな〜……ごめんね」
 渋(じゅう)滞(たい)の原因は誰も分からない。母もお手上げ状態でハンドルを握っている。
「途中で降ろしてもらっても大丈夫ですよ」
 渡会は遠くに見えるバス停を指差して言った。しかし、渋滞と同じように長蛇の列を作っているそこに、彼を降ろして帰るのは、誘った身としてさすがに申し訳ない。
「それは悪いよ。俺が誘ったのに……」
 座席に体を戻し、首を振るも、渡会はニコリと微笑むだけ。
「もともとバスで帰るつもりだったし、ここまで乗せてもらえれば充分だよ」
「いやでも」
 押し問答は何ターンか続き、両者譲らない勝負に決着をつけたのは母だった。
「じゃあ、うちに泊まらない?」
「「え?」」
 やっと意見の合った俺と渡会は、声を揃えて頭にハテナを浮かべた。
 泊まる? 渡会が? うちに?
 母の言葉が頭の中で何度も反響する。
「台風もひどくなってるし。渡会くんがよかったらだけど。どうかな?」
 なかなか返事をしない俺たちに、母は振り返った。その目には呆気にとられた渡会が映っている。
 ポカンと開いていた口は何度か開閉を繰り返していたが、だんだん表情に期待が滲んでいく。
「お……お邪魔してもいいんですか?」
「もちろんよ〜」
 青に変わった信号を横目に母はハンドルを握りなおし、ウィンカーを左へ出す。長い線を描いていたナビは消え、自分の家へのルートに切り替わった。
 俺はまだ、気持ちの切り替えができていないのに。

 時折、地鳴りのような轟(ごう)音(おん)や、ガタガタと雨戸が揺れる音が聞こえてくる。カーテンから見える窓の外は、雨で真っ白だった。
「うわー……ここまで強いとは思ってなかった」
「今外出たら秒でずぶ濡れだろうね」
 思わず出た言葉に渡会も頷く。二人で顔を見合わせて苦笑いを浮かべると、ソファに深く座りなおした。テレビでは台風の最新情報が流れているが、雨音で声はほとんど聞こえない。
 母はリモコンを手に音量を上げると、困ったように頬を押さえた。
「お父さん大丈夫かな」
 父も会社から帰宅指示が出たようだが、この状況で帰ってくるほうが大変だろう。それでも、会社に泊まりたくない父は、今こちらに向かって車を走らせている。
「そうだ。雷ひどくなる前にお風呂入っちゃって」
 キッチンへ戻りかけた母はクルリと振り返って言う。先に返事をしたのは、遥か遠くでゴロゴロと岩の転がるような音だった。
「先どーぞ」
 ここは、先客ファーストだ。
 お風呂の方向へ手をスライドすると、渡会は一瞬だけ腰を上げて、またすぐにソファへ体を落ち着けた。その視線は一度キッチンを経由したような。
「日置先に入ってよ。俺、家に電話するから」
「そう? じゃあ行ってくる」
 わずかな疑問を抱きつつも席を立つ。自室へ向かう間、耳を澄ませても、聞こえてくる音が渡会と母の会話なのか、テレビのニュースキャスターの声なのか分からない。
 かすかに聞こえる会話に気を取られていた俺だが、ドアを開けた先の悲惨な光景に、一気に現実へ引き戻される。
 ベッドの上には脱ぎっぱなしの服。机の上には放置したままの漫画や教科書。元気な子どもが駆けずり回ったくらいの散らかりようだ。
「まずい……」
 日頃から片付ける習慣を身につけていればよかった。突然お泊まりになったとはいえ、「どうぞ」と快く招き入れられるほど綺麗な部屋ではない。
 渡会が風呂に入っている間になんとかしなきゃ。急いでスウェットと下着をベッドの上の山から引っ張りだし、階段を駆けおりる。
 いつもは鼻歌を口ずさんでしまう入浴時間も、今日ばかりはゆっくりしていられなかった。シャンプーを間違えて二回ほどして、髪も半乾きのままリビングのドアを開ける。
「お風呂あいた……あれ」
 リビングにいると思っていたのに、渡会の姿は見えなかった。その代わり、キッチンから楽しそうな談笑が聞こえてくる。
「あ、おかえり〜。渡会くんが手伝ってくれたからすぐご飯できるよ。手際がよくて助かっちゃった」
 俺に気づいた母は菜箸をクルクル回しながら、にっこりと笑った。
「へ、へぇ……」
 なんだかいつにも増して饒(じょう)舌(ぜつ)で機嫌がいい。母がこうなったのも、多分……いや、確実に隣でアシスタントをする渡会の影響だろうけど。
 いったい、なにをしたんだ。
「お母さんの教え方が上手だからですよ」
 サラダを皿に盛りつけている渡会は分かりやすいお世辞を口にする。素で漏れたようにサラッと言うので母の気分は最高潮に達した。
「渡会くん、なにが欲しい? なんでも買ってあげるよ」
 なんて言いだす始末。母がホストにハマりませんように。
 なぜかおだてる渡会と、まんまと乗せられご機嫌な母、そして蚊帳(かや)の外の俺。
 仲良くなるぶんにはいいか……。と結論づけた時、大きな雷の音が空気を震わせた。
「そうだお風呂! 渡会くん、手伝ってくれてありがとね。体冷える前に入っちゃって!」
 表情筋が緩みきっていた母は、慌ててコンロの火を止め、渡会の背中を押した。
「朝陽、案内してあげて」
「ん」
 母の指示に、プチトマトをひとつ口に放りこみ、「お風呂こっち」とカウンター越しに手招きする。
 キッチンからさほど距離もない脱衣所に気持ち早足で向かうと、扉を閉めるなり声をひそめて渡会を見上げた。
「母さんとなに話してた?」
 着替えの体育着を持って立ちつくす渡会は「気になる?」と首を傾げる。
 そんなの気になるに決まっている。問答無用で頷くと、彼は思い出すように指折り数えた。
「学校のこととか、日置のこととか」
「えー……なんか変なこと言ってなかった?」
 気分がいいと余計なことまで喋るのは母も父も姉も、そして俺もそうだ。
 風呂に入ったばかりなのに、背に冷や汗を感じる。目の前の渡会はニコリと微笑み、「そうだなー」と続けた。
「家じゃ全然喋らないから寂しいって」
「あ、……そう」
「それと、毎日猫吸ってるって」
「べつに毎日じゃないけど……」
 どうやら家での過ごし方を赤(せき)裸(ら)々(ら)に話していたようだ。
 恥ずかしさに耳が熱くなる。
 お母さんって、よく見てるんだなって感心さえしてしまう。
「あと、彼女いるか気になってたよ」
「もういい」と話を切りあげようとした時、その一言でピシリと体が固まった。渡会は相変わらず涼しい顔のまま。
 好きな子がいることも、それが男だとも、身内には言っていない。それに、まだ言えない。どんな顔をされるか怖いから。
「……なんて答えた?」
 恐る恐る聞くと、渡会は首を横に振った。
「なにも。俺ですよって言いたかったけど、別の話題に変えちゃった」
 伸びてきた手が、ギュッと握りしめていた拳を撫で、優しく包む。
「いつか、ちゃんと挨拶させてね」
 恋人として。
 あたたかい手はいつのまにか背に回り、抱き寄せられていた。まだ、不安を残す彼の声は少しだけ震えていたけど、俺より遥かに先を見据えている。
 渡会ならきっと、うまく立ち回るだろうな。なんて思っていると、「ん?」とキッチンでの二人のやりとりが頭に浮かぶ。
「もしかして、好感度上げるためにお母さん褒めちぎってた?」
 肩にあずけていた頭を起こし、彼を見つめると、視線がスーッと横にズレる。
「それもちょっとある」
 ちょっとというか、それしかなさそうだけど。声に出して笑ってしまえば、玄関のほうから「ただいまー……」と疲弊しきった父の声が聞こえた。
「あ、やば」
 見られたわけではないのに、慌てて渡会から離れ、洗濯機上の棚から袋を取り出す。
「下着、コンビニのでも大丈夫? お父さんが出張の時に買ったやつでサイズ合うか分かんないけど……あ、未使用だから安心して」
 早口で伝えるが、渡会は不機嫌そうに目を細めている。イチャつきキャンセルをしたのが気に入らなかったらしい。けど、なにがなんでも親にバレるフラグは回避したい。
「シャンプーとかあるもの使って大丈夫だから、バスタオルはこれ使って」
 パンツもタオルも洗濯機の上に重ね、引き戸に手をかける。
「他に聞きたいことある?」
 最後にそれだけ確認すると、黙っていた渡会はコクリと頷いた。
「一個ある」
「なに?」
「今日、一緒に寝れる?」
 一緒、の意味が一瞬理解できなかった。同じ部屋で寝られるかってことでいいのかな。さすがに同じ布団はスリルがある。
「うん。布団の予備あると思うし、持ってくるよ」
「ひとつでいいけど」
 やっぱり、そっちだったか。
「それは……ごめん。無理」
 やんわり断ると、渡会は「そう」と言って瞼を伏せた。すまん、親に見られる可能性がある限りダメなんだ。
「あとは大丈夫?」
「うん、ありがと」
 すっかり大人しくなってしまった渡会に胸が痛むが、心を鬼にしてリビングへ戻る。父は部屋で着替えているようで見当たらず、夕食の準備を終えた母がソファでくつろいでいた。
 無性に喉が渇き、冷蔵庫から麦茶を取り出すと、テレビを見ていた母がクルリと振り返る。
「朝陽。布団出してくるけど、渡会くんと二人でリビングで寝る?」
 タイムリーな話題に、グラスに麦茶を注ぎながら考える。
 リビングなんて一番親が行き来する場所。一緒に寝る気満々の渡会といたら、なにが起こるか分からない。
「いい。俺の部屋で寝る」
 グビッとグラスを傾け、喉を潤(うるお)していると、心配が滲んだ母の声が耳に届く。
「部屋、片付けなくていいの?」
「え…………」
 あ。そうだ。
 しばらくローディングしたあと、散々風呂でシミュレーションしていたことを思い出す。完全に忘れていた。
 考えるが先か、動くのが先か、グラスを流し台に置き、バタバタと階段を駆けあがる。
 山積みの服は物置と化したクローゼットへ。散らばったプリントや漫画は就職を機に空き部屋となった姉の部屋へ……てか、全部そっちでいいか。
 応急処置として姉の部屋にすべてを避難させると、生活感を失った部屋が誕生した。急いで掃除しました感が拭えない。いや、この際これでいいや。
 また、ドタバタと階段を駆けおり、リビングのドアを勢いよく開ける。
「掃除機どこ?」
「廊下のとこ、ちゃんと元の場所に戻してね」
 母の言葉を聞き終わる前に、廊下へ飛び出し、最近買い替えたという掃除機を掴(つか)む。トリガー式のそれは使い方がよく分からず、結局母に聞くためにもう一度往復することになった。
「……疲れた」
 年末の大掃除なみに隅々まで綺麗にし、最後はベッドメイキング。元の場所に戻せと言われた掃除機と引き換えに隣の部屋から消臭スプレーを借り、ぐちゃぐちゃになったシーツや掛け布団をなおす。仕上げにスプレーをかけると、ほのかに甘い香りが部屋に広がった。
 なんか、嫌だな。姉の部屋にいるような感覚になり、ブンブンと腕を振って匂いを分散させるが、ただ部屋中に広がるだけ。外は雷雨で窓を開けられないのがつらい。
 ヘロヘロのままリビングへ戻ると、渡会はすでにお風呂から上がっていて、ラグの上で寝転がるしらたまと遊んでいた。いまだ顔を合わせていない父は入浴へ、母はまたキッチンに立っている。
「お風呂ありがとう」
 俺に気づいた渡会はサラサラの髪をなびかせてこちらを見上げた。自分と同じ入浴剤の香りが鼻をくすぐり、少しだけ嬉しくなる。
「どういたしまして……」
「なんか疲れてる?」
「全然。大丈夫」
 渡会の隣に腰を下ろすと、話題はしらたまに向いた。
「この子、名前なんていうの?」
「しらたま。女の子だよ」
「へぇ、かわいいね」
 渡会に顎を撫でられているしらたまはゴロゴロと喉を鳴らしたあと、「ニャア」と高い声で鳴く。普段はそんなことしないのに、イケメンを前に、猫かぶりしているみたい。猫なのに。
「すごい気まぐれなんだけど、今日はご機嫌みたい」
 テレビ横のボックスから先端に鈴のついた猫じゃらしを引っ張りだし、しらたまの目の前で振ってみると、ピンクの肉球が宙を切る。
「猫吸いしないの?」
 チリンチリンと鳴る鈴の音に紛れて、渡会はそんなことを言う。「え」と彼を見ると、「見せて」と言葉が続いた。
 猫吸いって披(ひ)露(ろう)するものなのだろうか。大したことはないけど、と前置きしてしらたまを腕の中に閉じこめる。
「こうやって……」
 モフモフの毛に顔を埋めようとした時、「NO」と言うようにぷにぷにの肉球が鼻先に当たる。

「まぁ、こんな時も――」
 あります。と顔を上げれば、目が合ったのは渡会ではなくスマホのレンズだった。
「撮るなら言ってよ」
「ごめんね」
 悪びれもしない渡会に、しらたまを解放すると、白い毛玉は真っ先にキッチンへ向かった。
「ご飯にするよー」
 母は小さな器をしらたま用のご飯台に置き、テーブルにお皿を並べる。ベストタイミングで父もリビングのドアを開けた。
 冷蔵庫のあり合わせで作った炒め物に、トマトとキャベツだけのサラダ、メインはからあげだった。
「もっと豪華にもてなしたかったけど、ごめんね」
 買い出しが間に合わなかったらしく、料理教室で培(つちか)ったスキルも活かせなかった母は申し訳なさそうに笑った。
「いえ、一緒に作れて嬉しかったです」
 隣で箸を進める渡会は、また褒め文句を口にする。たちまち母は上機嫌になり、父も朗らかな笑みを浮かべた。そんな父も、渡会にお酒をついでもらって気分が上がっている。
「あ、そうだ。去年の修学旅行で朝陽を誘ってくれてありがとね。仲良い子いなくて心配してたってお姉ちゃんが言ってたから」
 久しぶりに盛り上がる夕食の最中、母は思い出したように口にした。
渡会はキョトンと目を丸くしている。
「え、……あれ、俺から誘ったって言いましたっけ?」
「あら、違った? 集合写真とか、グループ行動の写真とかずっと隣にいるから、そうなのかなーって」
 母が見た写真は、カメラマンが撮ったものだ。保護者会かなにかで知ったのだろう。俺はいらないって言ったのに、いつのまにか購入していた。
 数枚しかない写真は全部、渡会と隣同士で映っている。
「意外とわがままだから、手がかかってなかった?」
 頬を赤く染める父は、いつもより豪快にお酒をあおる。
「全然そんなことないです。他の友達と比べると朝陽は可愛いです」
「えっ……」
 当たり前のように返事をする渡会に、思わず口に含んだ味噌汁を吹き出しそうになった。好感度を上げたいにしても思い切りすぎじゃないか?
「あっはっは! こんなイケメンで優しい子が友達だなんて嬉しいよ」
 アルコールによって陽気になった父は俺を見て笑った。
 友達じゃなくて彼氏だけど。熱くなる体温を水で冷やすと、ふと胸に疑問が浮かんだ。
 修学旅行からいろいろ気遣ってもらっていたけど、そういえば、あの時から俺のことが好きだったのだろうか。
 目が合った渡会は、ただ優しく微笑むだけだった。
 一人で無駄にヒヤヒヤした夕食を終え、あとは寝るのみ。
「あんまり見ないでもらえると助かるんだけど」
 短時間で掃除した自室へ通すと、まだわずかに甘い香りが漂っている。やっぱ、スプレーしなきゃよかった。
 六畳ほどの部屋は、もうひとつ布団を敷いてしまえば、ほとんど足の踏み場がない。スリッパは床の片隅に追いやり、自分はベッド、渡会は布団の上に腰を下ろした。
「辻谷と猪野は来たことあるの?」
「なんもないね」とか言われるかと思っていたけど、渡会の感想は俺が予想していたものと全然違った。
「中学の時に何回か」
 素直に答えると、分かりやすく眉根に皺(しわ)が寄る。
「高校生になってからは渡会が初めてだよ」
 付け加えた言葉は功をなし、彼の機嫌を取るには充分だった。途端に目元は緩み、口角も上がっている。
「もう寝る?」
 ベッドに横になると、長い腕が俺の手を引いた。すぐには動けずドアへ目を向けるが、手を引く力はどんどん強くなる。観念して渡会の隣に寝そべると、がっしりと腰に腕が巻きつく。熱い抱(ほう)擁(よう)を受け、思わず笑ってしまう。
「一緒に寝るよね?」
 俺を抱きしめたまま、渡会は顔を覗きこんだ。聞いておきながら、YES以外は認めないという目をしている。
「鍵ついてないけど」
 ドアを指差すが、渡会は気にもとめない。
「ベッドから落ちたってことでごまかせる」
 ベッドから落ちるのは俺の寝相、抱きついているのは渡会の寝相、ということにしたいらしい。
「でも、電気ついてたら無理あるじゃん」
「じゃあ、もう消す」
 徹底的に俺の心配を潰したい彼は、ついには部屋の電気も消してしまった。
 真っ暗になるはずの部屋は、外で鳴り響く雷が時折白く照らす。
「これならごまかせるでしょ?」
 また巻きつく腕を腰に感じ、否定しないでいると、渡会は嬉しそうに口元を綻ばせ、俺のおでこにキスをする。それだけで収まることはなく、気づけば唇が重なっていた。
 風の音も雨の音も消えてしまったみたいに、目の前のことだけにしか集中できない。
 ぼけっと暗い天井を眺めていると、ハッとして彼の肩を押した。
「んっ……ちょっ、ちょっと待って。さすがにキスはごまかせないから……っ」
「うん。その時はその時でなんとかするよ」
「絶対、無理だろ」
 なおも再開しようとする渡会から顔を逸らした時、枕元で転がっていたスマホの画面が光った。
「なんか連絡きた」
 巻きつく腕の中から這(は)い出てスマホを手にすると、ポコポコとメッセージが連投されてくる。
 八人のグループには五十件以上の通知が溜まっていた。
 トップバッターで会話を始めたのは辻谷。《MV撮った》というメッセージとともに、動画が送られている。
 タップしてみると、豪雨に打たれながら音源に合わせて踊っている辻谷。撮影しているのは猪野か、水無瀬だろう。
「あはは、なにこれ」
「見せて」
 渡会も気になるようで画面を覗きこむ。
 二人でうつ伏せになると、もう一度動画を再生した。騒がしい音楽と「ぬはは!」と個性的な笑い声が部屋に響く。
「いいね押しといて」
「おっけ」
 肩を震わせて笑う渡会の指示に、動画宛にグッドスタンプを送った。
 画面をスクロールすると、《保存していい?》とか《パート2希望》とか、仲里と堀田と守崎もお気に召したメッセージを投下している。
 今も続く会話を読んでいると、画面に黒い影がかぶさる。
「満足した?」
 答える前に、するすると手からスマホが抜かれ、枕元に寝かされた。「あとで見てね」と言われるなり抱きしめられ、身動きが取れなくなる。
 なんでも嫉妬に繋がるんだな、と思う反面、そんなに好きなんだ、とも思う。
「聞きたいことあるんだけど、いい?」
「いいよ、なに?」
 突然始まった質問タイムにもかかわらず、渡会はすんなり受け入れる。
「修学旅行のグループに誘う前から俺のこと好きだったの?」
「ん……?」
 予想外の質問だったのか渡会は静止してしまう。それに、少しだけ嫌そう。
「えー……それ本人に言うの?」
「うん。言って」
 一歩も引かない俺に、渡会はコロンと仰向けになると「んー……」と唸り、しばらくして、ポソッと呟いた。
「好きになったのは修学旅行中かな、多分」
「ふーん……えっ?」
 理解が追いつかず頭が混乱する。修学旅行前から気にしていたのかと思っていたが、そうではないらしい。
「な、なん……なんで、誘おうと思ったん?」
 困惑はそのまま口から出ていた。渡会は横目で俺を窺うと、また天井へ視線を戻す。
「日置、放課後教室でだべってたの覚えてる? 二年になったばっかりの時なんだけど」
「さ、さぁ……」
 放課後の記憶なんてほとんど覚えていない。しかも、二年の初めのころ。一週間前ですら怪しいのに、思い出すのは難しいだろう。
 素直な俺の反応に、渡会は顔を覆った。
「じゃあもうダメ。この話終わり」
「うそうそごめん。聞いたら思い出すから話して」
 限りなくゼロに近い可能性に賭け、続きを促す。渡会はまた喉奥で唸るが、観念したように口を開いた。
「……俺のこと、優しそうって言ってたんだよ」
「……ほう」
 やばい、なにも思い出せない。結論から出てしまったから、なおさら。
「あーね」とも「それな」とも言わない俺を見て、渡会はためらうがそのまま続けた。
「ペン貸してたからって。最初はそんなことで?って思ったけど、外見について言われることが多かったから、なんか……嬉しかった」
 過去の自分はそんなことを思っていたらしい。言われてみれば、クラスメイトにペンを貸していた渡会を見たような……見てないような……。
「日置と友達になりたいな〜って思ってた時に修学旅行とかぶったから、思い切ってグループに誘おうって提案した」
 それがキッカケ。と、締めくくり、渡会は俺に向きなおる。急に交わる視線に、今度は俺のほうがうろたえる番だった。
「俺、自分の噂とか真に受けるし、顔色窺われてるのも、遠回しな皮肉も全部気になっちゃうほうでさ」
 真っ直ぐな視線はずっと逸れない。
「日置といると、あんまり気にならないんだよね」
「それは仲里たちにも当てはまるんじゃ……」
 ニコリと笑う彼に、意地悪な言葉が出てしまう。
「あの三人はジャンルが違う。それに、純度が足りない」
「あ……そうですか」
「なんていうか、俺の好みを凝縮したのが日置」
「……どうも、ありがとう」
 先に視線を逸らした俺は、ポスンと枕に顔を埋める。
 日頃からひしひしと感じているけど、恋人ってこんなにも愛してくれるものなのか。恋愛とは無縁の人生だったから分からない。それとも、渡会が特殊なのかな。
「初恋が渡会だと、次とかうまくやれる自信ないよ」
 そう口にした瞬間、白い閃(せん)光(こう)が部屋の中を駆け巡った。続けてピシャーンと地を裂くような音と、
「…………次?」
 地を這うような声が耳に届く。
「次ってなに? 次の予定があるの?」
「あ、いや……もしもっていうか、例えばの話で……」
 ジリジリと迫る彼に慌てて言い訳を送るが、効果はまったくなさそう。
「ない。絶対ない」
「分かったから、重い、重いって……!」
 渡会の愛もそうだけど、起き上がった彼が長い脚を絡めてのしかかってくるので、文字通り重い。
「もう次だとか、別れたあととか、言わない?」
「い、言わな――んぇ?! ちょっ、くすぐんないで……!」
 差しこまれた手が脇腹をまさぐり、笑いと怒りが同時に襲いかかる。
 早くどいてくれ。そう願うも体格差で敵いそうにない。
「本当? 反省した?」
 渡会は子どもに言い聞かせるように耳元で囁く。
「んっ、した……!」
「ごめんなさいは?」
「ご、……ごめん、なさい……っ!」
 完全に子ども扱いされ、息も絶え絶えに謝罪を口にするとやっと解放された。
「大丈夫?」
「んぃ、い、いま触んないで」
 容赦なく腰に触れる手を間抜けな声とともに払いのけ、腹を抱えこんでうずくまる。最悪だ、くすぐられている感覚が抜けない。
「俺も聞いていい?」
「……え?」
 俺が瀕死状態だというのに、渡会は新しい話題を振った。
「付き合ってくれた理由」
 それは今聞かないとダメなのか。訴えるような視線を送るも、チョンと脇腹を突かれる。くすぐるのは勘弁してください。
「……好きだからは、ダメ?」
「いいけど、ダメ」
 どっちだよ。と、呆れながらも過去の記憶をたどるが、一向に答えは見つからない。
 言われてみれば、渡会を好きになったのはいつだろう。一目惚れではないし、気づいたら好きになっていて、よく覚えていない。
 確実に言えるのは文化祭で渡会宛のラブレターを受け取った時には好きだったと思う。だって、あの時。
「誰にも取られたくないなって」
 渡会の優しさも、あたたかい眼差しも全部俺だけのものにしたいと、そう思った気がする。あれは、おそらく嫉妬と独占欲。
「なんで顔隠しちゃうの」
 枕に顔を埋めた俺の頭を渡会は優しく撫でる。
「恥ずかしいだろ、普通。こんなこと本人に言うことじゃない」
「日置から始めたんじゃん」
「ははっ」と笑う彼の声は嬉しそうだった。
「…………もう寝る」
「ダメ。もうちょい起きてて。ただでさえクラスが離れて日置不足なんだから」
 優しく包みこむ腕は、充電が完了するまでほどけそうにない。けれど、それは俺も同じで、日々の寂しさを埋めるように彼の温もりを追う。もう、寝相では言い訳がつかない。
「台風来てよかったかも」
 ガタガタと音を立てる窓を見上げて渡会は言った。
 たしかに、台風のおかげでお泊まりができてよかった。こうして一緒に寝るのも修学旅行以来。もっと、お泊まりできたらいいのにと思った時、「あ」と声が漏れた。
「大学生になったらいつでもできるじゃん」
 親フラを気にすることなく、台風など関係なしに一緒にいられる環境は一年足らずで手に入れることができる。あくまで大学に受かればの話だけど。
「もう大学決めたの?」
 大学生という単語に渡会は少しだけ体を起こした。
「いや、なんとなくここかなってとこはあるけど……確定じゃない」
「でも一人暮らしはしたいんだ?」
「まぁ……一応経験しとこうかなって感じ」
 漠然とした計画を話すと渡会は「ふーん」と聞き流す。意外にも大学のことは考えていないようだった。
「渡会はもう決めた?」
「……全然考えてない。今のところは、日置といられるならなんでもいいかな」
 渡会と同じ大学なら楽しいことは間違いないだろう。そう考えるといっそう気持ちが昂(たか)ぶった。
「大学生になったらなにしたい?」
 なんて浮かれ話を始めれば、最初はイメージが湧かなかった様子の渡会も、どこ行きたいとか、あれがしたいとかポツポツ口にした。明日も学校は予定通りの登校なのに、気づけば雷雨の音が静かになるほど話しこんでいた。