今日の星座占い、双子座は六位。
 微妙だな、なんて感想を抱いていると、聞き慣れたエンディング曲がリビングに響き渡った。
『新生活も頑張っていきましょう! 今日もいってらっしゃい!』
 番組冒頭で新人と紹介された女子アナの声は溌(はつ)剌(らつ)としていて、初々しい笑顔は朝のスタートを切るにふさわしい輝きを放っている。
 そんな背中を押すような声も、俺にはあまり響かなかった。
 ずるずるとソファに身をあずけ、溶けるように横になる。もう家を出なくてはいけないのに、行きたくない。
 寝転がってから数秒。怠惰に身を委ねている俺の視界に、白い残像が映ったり、消えたり。頭にはふわふわの毛束が何度も打ちつけられていた。「早く行け」と俺を催促するのは、飼い猫のラグドール。名前は〝しらたま〟という。真っ白ではなく、耳や尻尾(しっぽ)の先にグレーの毛も混じっているけど、二番目の姉が好物だからという理由で名づけた。
「……渡会(わたらい)と同じクラスになれると思う?」
 彼女にしか聞こえない小さい声で相談してみるが、しらたまはペロリと鼻先を舐(な)めて尻尾を揺らすだけ。猫吸いしようと顔を近づけるも、鼻先に柔い肉球が押し当てられた。今日はご機嫌ななめみたいだ。
「朝(あさ)陽(ひ)ー、そろそろ行きなさーい」
「はーい……」
 タイムアップを告げる母の声に、しぶしぶ体を起こす。気持ちよさそうに眠りはじめたしらたまの頭を撫でると、空気のように軽いリュックサックを手に玄関へ向かった。
「忘れものない〜?」
「大丈夫」
 ジャケットやズボンにコロコロを滑らせながら答えると、やけにテンションの高い母は身なりを整える俺に嬉々とした声をかけた。
「あ、そうだ。今日頑張ってくるから、うまく作れたら持って帰ってくるね」
「なに作るの?」
「それは帰ってきてからのお楽しみ〜」
 嬉しそうにゆらゆら揺れる母。この春から通いはじめた料理教室がよほど楽しみらしい。
「いってきます」
「いってらっしゃい〜」
 ご機嫌な母に送り出され、ジャケットを着ているには少し暑い日差しの中へ出る。日を浴びていた自転車のサドルは、ほどよく温まっていた。
 四月はすべてが新しく目に映る。緑の葉を伸ばす並木道には、たくさんの新一年生がいた。真新しいランドセルに黄色のカバー、丈(たけ)の合っていない学ラン、荷物がいっぱい入るよう新調したのであろう大容量型のバッグ。全員が全員、新しい一歩を踏み出している。
「日(ひ)置(おき)、青になったぞ」
 眩(まぶ)しい一年生たちに気を取られていると、いつのまにか、今年で六年目の付き合いとなる猪(い)野(の)が隣に並んでいた。
 つま先が擦(す)り切れたローファーに、緩んだボタンの紐、あちこちに跳ねた寝癖は、なんだか見ていて安心する。
「はよ。相変わらず寝癖すごいな」
 そう言いながらペダルを踏みこみ、しばらく平坦な道を二人で走り抜けた。隣を並走する猪野は、片手でガシガシと髪をかき混ぜながら唇を尖らせる。
「べつにいつも通りだろ……てか、日置だって一年前はボサボサ頭で雑草栽培してたじゃん」
「え、そうだっけ」
「そーだよ。見た目なんて全然気にしてなかったのに。あいつらとつるんでから変わっちまったよ、お前は」
 やれやれ、とでも言いたそうに肩をすくめる猪野。あいつら、とは渡会たちのことだろうけど、そんなに変わってしまっただろうか。
 二度目の信号待ち。自転車を止めた先で、目を向けたのはコンビニの窓ガラス。そこに映る自分の髪は、風で少し乱れているものの、重力に逆らった毛束はない。
 そういえば、一昨日は美容院に行った。今日だって、渡会から貰ったヘアオイルをつけた。振り返ってみれば、俺も少しずつ新しい自分に変化していたのかもしれない。
「まぁ……あの四人と一年過ごしてみたら分かるよ」
 乾いた笑いを猪野へ送るが、彼は納得できなかったようだ。腕を組んで「 うーん……」と唸(うな)っている。
「四人っていうか、日置の場合は渡会に影響されまくりって感じ」
 ですよね。
 返事をするように、去年、誕生日プレゼントとして貰った腕時計が手首でキラリと輝いた。
 影響されているというより、与えられるものを受け入れていたらこうなっていた。それに、渡会が尽くすタイプだから、より俺の私物に顕著に現れている。『間違えて二個買っちゃったから』と貰ったリップクリームはポケットの中。『ダブったからあげる』と受け取ったキツネのキャラクターのキーホルダーはリュックにぶら下がっている。
 俺も貰ったぶんを返そうとしているが、彼にプレゼントをあげたとしても、お礼はいつも二倍。一生、ギブアンドテイクが成り立たない。
 パッと信号が青に変わり、車や人の波が動きだす。頭を悩ませる俺をよそに、猪野はペダルを踏みこみながら続けた。
「日置、渡会から壺(つぼ)売りつけられたら買いそう。気をつけたほうがいいんじゃね?」
「余計なお世話だよ」
 買うわけないだろ。まずは話を聞いてからだ。そう答えた俺に、猪野は高らかな笑い声を上げた。
 交差点を曲がれば、同じ高校の生徒がチラホラ増える。けれど、学校はもう少し先。雑談も終わらない。
「でも、性格までは変わってないでしょ」
 ふん、と鼻を鳴らす俺に、猪野は「あー、たしかに?」と頷(うなず)くが、しばらくして「あ、でも」と繋(つな)げた。
「前よりわがままになった」
「え、わがまま?」
 心当たりのない回答に首を傾げる。俺の反応を目に留めた彼は、短い眉をクイッと上げた。
「なんつーか……地味なわがままが増えた気がする。アレ取ってーとか、コレやってーとか」
「うそ、マジ?」
「至れり尽くせりの専属執事がいたら、そりゃそーなるだろうけど」
 ここでも話題に上がるのは渡会だった。
 世話を焼く渡会と、されるがままの俺。彼の振る舞いが目立つたびに、俺のダメ加減が浮き彫りになる。
「……迷惑だった?」
 だらしない自分に絶望しつつ聞いてみると、猪野は首を横に振った。
「んや? いまさら思わねーし。てか、辻(つじ)谷(たに)が暴君すぎて他はかすむ」
「それは言えてる」
 猪野と同じく六年目の付き合いとなる辻谷だが、彼は友人の中でも群を抜いてぶっ飛んでいる。例えば、俺に女装させたりとか。
 思い出したくもない記憶がフラッシュバックした時、うしろからチリーンとベルの音が鳴った。
「だーれが暴君だって〜?」
「「げっ」」
 まさかの本人登場。
 額に冷や汗を垂らす俺たちに対して、辻谷は俺を猪野と挟む形で隣へ並ぶ。そして、見せつけるように手のひらをこちらへ向けた。
「いい、なにも言うな。お前らの考えてることはだいたい分かる。おおむね、俺と同じクラスになれるように願ってたんだろ?」
 モテるのもツラいぜ、と続ける辻谷。
 全然違うけど、そういうことにしておこう。彼のヘソを曲げさせるとだいぶめんどうだ。
 辻谷のご機嫌を取るため頷きかけた俺だが、それを猪野が遮る。
「俺は理数選択だから同じクラスはないけど、日置はワンチャンあるな」
「え、ちょっと。フラグ立てんなよ」
 咎(とが)める視線を送ると、今度は反対側からバシッと肩を叩かれた。車輪が一瞬ぶれ、慌ててハンドルを握りなおす。こいつは事故を起こす気なのか。
「おいおい、日置くん照れんなって〜」
「危な……それに照れてなんか――てか、お前ネクタイどした?」
 辻谷へ向けた視線は彼の目ではなく、違和感を抱いた胸元へ落ちる。辻谷も追うように瞳を下げると、顔を青く染めた。
「あ!? 嘘だろ! 忘れた!」
 辻谷のバカでかい声が住宅街に響く。声量を抑えるよう口元に人差し指を当てて「しー!」と伝えても、辻谷はパニックから戻ってこない。
「日置! ネクタイ半分に切ってくんね?! 消しゴム貸す感じでさ!」
「嫌だよ」
「頼む! 一生のお願い!」
「それは去年の文化祭で使いきっただろ」
 また黒歴史が脳裏をよぎり、奥歯を噛みしめる。けれど、悪びれた様子など微(み)塵(じん)もない辻谷はケロッとした声で首を振った。
「違う。それは俺のじゃなくて猪野のぶん」
「おい、勝手に俺の一生のお願い使うなよ!」
 ゼロ距離で猪野が吠えるので、耳の奥がキーンと鳴った。
 校舎が見えてきたというのに、一生解決しない口論を路上で繰り広げる。これが、三年生になった俺たちの姿だった。新二年生や一年生の見本にもなれやしない。
「しかたねー、今から戻って――」
「そこの高校生たち、止まりなさいー。自転車の並走は危険だよー」
 辻谷が方向転換しようとした時、一台のパトカーが隣に並んだ。
「あ、終わったわ」
 誰もが思ったセリフを代表して辻谷が呟(つぶや)く。
 新学期初日。最初に手にしたのは新しい教材でも、新しい生徒手帳でもなく、黄色の違反切符だった。



 集合時間を五分ほど過ぎて、俺たちはやっと校門をくぐった。
「よっしゃラッキー! まだクラス発表されてないじゃん」
 昇降口前に着くなり、辻谷はガッツポーズを決めた。そして、大勢の生徒でごった返しているというのに、ずんずん最前列に向かって突き進んでいく。そのたくましい背中は、数分前までネクタイを忘れて乱心していたとは思えない。
 猪野も同じことを思っていたようで、呆れながら俺を見た。
「あいつ正気かよ……日置も行く?」
「ううん、渡会たち探すから先行ってて」
「おっけー。じゃあ、辻谷とクラス表撮ってグループに送るから、あとで合流しよーぜ」
「ありがと、助かる」
 猪野と別れて人波から抜け出すと、同時にどよめきが巻き起こり、群衆が動きだした。どうやら、クラス分けの紙が貼りだされたようだ。
 次第に道が開けて見通しがよくなると、去年一緒に過ごした四人の姿が見えた。盛り上がる同級生を眺めている彼らは、まったく動く気配がない。
 渡会は、生徒が群がるクラス表を険しい顔で睨みつけている。そこからの目視はかなり無理があると思うけど……。
 高みの見物をするイケメンたちの元へ足を向けると、最初に目が合ったのは仲(なか)里(さと)だった。アイドルのような大きな瞳に俺を映し、ヒラヒラと手を振っている。
「日置おはよ〜」
「はよ」
 仲里と挨拶を交わしてやっと、渡会の目線はこちらへ向いた。
 けれど、「おはよう」の一言も飛んでこない。俺を見つめたまま固まっている……というより、フリーズしている。
 仲里より先に気づけなかったことが、よほどショックだったのだろうか。
「おはよ。猪野がクラス表撮ってグループに送ってくれるって」
「……そうなんだ」
 心ここに在(あ)らずとは、まさに今の彼だろう。いつもの渡会なら俺が集合時間に遅れた理由や、短くなった髪に触れるのに、一ミリも目もくれずスルー。完全に新クラスへ意識が持っていかれている。
(二年の終業式から気になってたみたいだし、無理もないか)
 渡会が本調子に戻るまでの間、うしろでたたずむ彼らにも声をかけた。
「守(もり)崎(さき)、ちゃんと起きれたんだ」
 だいたいの返信は午前三時過ぎ。春休み中に引くほど昼夜逆転していた守崎は、怠(だる)そうな雰囲気を倍にして、半分も開いていない瞼(まぶた)の隙間から俺を見下ろした。
「……まぁね、おかげさまで」
 寝起きの声で、守崎は隣を見る。会話のパスを受けた堀(ほっ)田(た)は、自分のスマホを耳に当てる仕草をした。
 なるほど、友人たちの中でも随一の良心である彼が鬼電してあげたのか。
「堀田もおはよ」
 朝からお疲れ様です、と心の中で労(いたわ)りながら言うと、堀田の視線は俺の髪に向いた。
「はよー……日置髪切った?」
「えっ、あ、うん。少し整えたくらい……」
 堀田への返事は尻すぼみになってしまった。ぎこちなく隣を見上げると、バッチリ渡会と目が合う。
「…………………………かわいいね」
 クラス分けの緊張と、最初に挨拶ができなかったショックと、俺の変化に気づけなかった絶望が重なったのか、渡会は絞りだすような声で言った。誰か、早く彼を解放してあげてくれ。
 そんなことを思っていたら、タイミングよくスマホがメッセージの着信を知らせた。送り主は猪野。八人のグループチャットには、七枚の画像が送られている。
「うわー、なんか緊張するな」
 仲里は興奮を隠さず、ジャケットの裾(すそ)でスマホの画面を拭いた。
「自分以外の名前見つけても言うなよ」
 守崎は釘を刺すように、重たそうな瞼で目を細める。
「渡会は大丈夫な感じ?」
 堀田は渡会を指差して、俺に目を向けた。心配されている当人は、スマホを握りしめて真っ黒な画面を見つめている。大丈夫ではないみたい。
「手、繋いでようか?」
 ひとまず、自分のクラスは後回し。手を差し出してみれば、スラリと伸びた長い指が絡む。
「大丈夫?」
「…………うん」
 チャットアプリを開いた渡会は、ゆっくりと息を吐いた。画面を操作する指はいつもよりぎこちない。繋いだ手から緊張が伝染したようで、俺もゴクリと息を飲んだ。
 いよいよ運命の時。渡会が画像をタップした、その瞬間。
「私、渡会くんと同じ五組だった……!」
「え、羨ましい〜! てことは守崎くんとも一緒ってこと?」
 それほど大きくないのに、やけにクリアに飛んでくる声。
 なんと、近くにいた女子からネタバレを食らう。しかも、それは渡会だけではない。
「仲里先輩と堀田先輩三組だって〜」
「まじか、体育祭同じ組になれるかな」
 今度はこちらをチラチラ窺(うかが)う後輩女子グループからそんな声が上がる。
 渡会と守崎が五組。仲里と堀田が三組。自分の目で確認する前に、お楽しみは終わってしまった。さすが、目立つイケメンは情報の回りが早い。
 隣を見上げると、石化したように動きが止まる渡会。
 そのうしろには、中途半端に拡大したクラス表を画面に表示させたまま、意(い)気(き)消(しょう)沈(ちん)している仲里、堀田、守崎の三人。「自分で見たかったのに」とでも言いたげな目で地面を眺めている。
「お、俺も五組かもしれないし。一緒に探そう」
 力の抜けてしまった手を握りなおせば、彼の瞳に少しだけ光が宿った気がした。よし、このまま同じクラスオチで締めくくることができればこっちのものだ。
 なんて、フラグを立てた時に現れるのが、やっぱりこの男。
「日置ー! 同じ二組の仲間としてよろしくなー!」
 波乱のパイオニア辻谷。
「やっぱフラグ回収だったな〜」
「日置。すまんけど、イケメンに挟まれて過ごす時の作法教えてくんね?」
 辻谷のうしろには猪野と、今朝は姿が見えなかった部活仲間の水無瀬(みなせ)もいる。水無瀬は仲里と堀田と同じ三組らしい。まぁ、そんなことはどうでもよくて。
「おーい、聞いてる?」
 辻谷が目の前で手を振るが、俺の魂はどこか彼方に飛んでいってしまった。
隣の渡会は絶望というか、なんというか、むしろ悟りを開きはじめて青く澄み渡った空を見つめている。
 申し分ない春(はる)日(び)和(より)の中。真冬のように冷めた空間がここだけ広がっていた。これが、三年生の幕開けだった。