1008号室のドアの前に立って、深呼吸する。

 月花さんは、たあくんはもう部屋で待っているって言っていたけど、本当にいるんだろうか。私はやっぱり騙されているんじゃないだろうか。

 そもそも、依頼者の魂を担保にってどういうこと? あり得ないでしょ。ああ、こんなことなら莉花にひとこと相談すれば良かったかな。でも、誰にも話すなって書いてあったし。でも、本当にドアの向こうに、たあくんがいたら……。

 ごくっと唾を呑み込み、カードキーをドアノブにかざす。ピッと反応があり鍵が解除された。ドアを開け中に入って、カードキーをスロットに挿入すると、部屋中の照明が全てパッと点いた。部屋中をぐるりと見渡して、止めていた息をようやく吐き出す。全身を支配していた緊張が一気に緩んだ。

 アパートより遥かに広々とした室内。ベッドがふたつ並んでいて、L字型の大きなソファがあって、100インチの液晶テレビがあった。ベッドルームの奥にはジャグジーの浴室。だけど、どこにもたあくんの姿なんて見当たらない。がっかりした。なるほどね。騙されたんだ。ばかみたいだ。まあ、こんな事かなとは心のどこかで思っていたけれど。覚悟もしていたけれど。

 ふらふらとした足取りで、背中から倒れ込むようにソファに沈んだ。

「ばっかだなあ、私って」

 もしかしたら、たあくんに会えるんじゃないかなんて、のこのこと3時間もかけて東京まで出て来て。結月と月紬を親に預けて、嘘までついて。あげくに騙されて。なにやってんだろう。

 帰ろうかな、と思い、立ち上がろうとして思いとどまる。そう言えば、フロントマンも月花さんも部屋を出るなと執拗なほどに言っていたことを思い出したからだった。

 その時だった。

 キンコン、とチャイムが鳴り渡り、ドアノブがガチャリと音を立てて右に回る。ドアが開いて入って来たのは月花さんだった。金色に光り輝く台車にガラス製のティーポットや茶葉などのティーセットを載せて、押して来る。

「お茶をお持ち致しました。準備致します」

 絨毯の上を台車の車輪がコロコロと転がり、月花さんが私の横にやって来た。

「あの、すみません、月花さん」

 私は不機嫌極まりない態度で尋ねた。

「私のこと騙してます? 夫はもういるって言ってましたけど。どこに?」

 むっとして下唇をつんと突き出し腕を組むと、月花さんは「えっ」と豆鉄砲をくらったようにきょとんとして、左手をすっと窓際のベッドルームに向けた。

「あちらのベッドに腰掛けて、窓の外を眺めていらっしゃいますが」

 そして、そう言うと、穴のように黒い目をぱちくりさせた。言われたようにベッドルームに視線を投げてみるけれど、どう見てもたあくんの姿なんてない。たあくんはいない。

「あの、ほんとにどういうことなんですか?」

 と勢いよくソファを立ち上がろうと思った時だった。

「それではお時間となりましたので、森本佑様、こちらのソファへお越しいただけますか?」

 と月花さんが誰も居ないベッドルームに向かって一礼し、カチャカチャとお茶を淹れる準備を始めた。ハーブティーたろうか。ガラス製のティーポットに乾燥させた茶葉がカラカラと入る音、月花さんが熱湯を注ぐコトコトという音がして、蒸気が上がる。

 ティーポットの中で茶葉が開いたのだろう。ほどなくして、甘く、でも、清涼感たっぷりの爽やかな香りが室内に漂い始めた。苛立っていた心がほんの少しずつ、穏やかになっていった。

「それでは、二十時になりましたので、再会の儀を始めさせていただきます。よろしくお願い致します」

 そう言うと、月花さんはお猪口ほどの大きさしかないガラスのティーカップにお茶を注ぎ淹れると、そのティーカップを私の前のテーブルにそっと置いた。お茶には白く可愛らしい小花が浮かべられている。

茉莉花茶(まつりかちゃ)でございます。茉莉花はペルシャ語で、神からの贈り物を意味します。茉莉花茶を一気にお飲みになりましたら、目を閉じ、みっつ数えたら、ゆっくりと目を開けてください。故人様との面会が始まります」

 そして、と月花さんは淡々とした口調で続けた。

「面会終了時間になりますと故人様のお姿は見えなくなり、お別れ、となります。その後にまた私がお茶をお持ち致しますので、お帰りにならずにそのままお待ちください。お帰りになってしまわぬよう、くれぐれもご注意願います。故人様の魂は死神どもに持ち去られ、消滅されてしまいますので」

 小さなガラスのティーカップから、奥ゆかし気な花の香りが湯気と共に立ち上って来て、ぼんやりしてくる。体が気怠いような、心地いいような、不思議な感覚に支配されていった。

「では、茉莉花茶を全て飲み干してください」

 月花さんの声に操られるように、カップのお茶を一気に飲み干し、空のカップをテーブルに戻す。

「目を、閉じてください」

 月花さんの声は繊細で涼し気で、心地いい。言われたように、目を閉じる。お茶が気管を通って胃に落ちて行くと、緊張やら苛立ちやら疑心の塊だった心と体がほぐれていくのを感じた。甘く爽やかな香りが鼻を突き抜けていく。

「それでは、ゆっくり、みっつ数えて、目を開けてください」

 いち。に。……さん。

「千翠」

 聞き覚えのある、すでに懐かしく優しい声に呼ばれて、そっと目を開けた。知っている。私は、この気配をすごく知っている。いま、右隣にあるこの気配に、手も膝も唇もカタカタと震えた。意識を右半身に集中させ、ゆっくりと顔を上げる。

 たあくんのお気に入りだったヴィンテージのワイドジーンズに、NORTH FACEのトレーナー。あの日と全く同じ服装のたあくんが、右隣に座っていた。

「千翠……」

 アンニュイな黒目には光が差しているし、頬には赤みが差して顔色も良い。首を絞めつけた延長コードの痕なんて見当たらないし、青紫色の唇でも、真っ青な顔でもない。

「……たあくん?」

 あんなに変わり果てた姿になる前の、元気な時の、私の大好きな夫。

「ほんとに、たあくんなんだぁず?」

 なごり雪の日の朝、私たちを玄関で見送ってくれた、あの時の姿のたあくんだった。

「千翠」

  私の名前を確かめるように何度か繰り返し呼んで、微笑んだその左頬のいつもの位置にえくぼが出現した。

「なんだずや、千翠、痩せだってね?」

「たあくん。首、あど、苦しぐねったよな?」

 たあくんだ。触れて確かめようと手を伸ばしたくせに、躊躇してとっさに引っ込めたのは、触れた瞬間に消えてしまうんじゃないかと怖くなったからだ。そんな私を困ったように笑ったあと、たあくんは目にいっぱいの涙の膜を張った。

「ごめん、千翠……ほんとごめんな」

 涙の膜は一瞬にして膨れ上がり、アーモンドみたいな形の目からぽろりとこぼれ落ちた。

「死んじゃって、ごめん」

 たあくんの手が伸びて来て、さっき引っ込めてそのまま行き場を失っていた私の手を捕まえた。はっとした私は弾かれたように顔を上げる。温かいのだ。あの日、見つけたたあくんに触れた時はもう死後硬直が始まって、氷みたいに冷たくて石みたいに固かったのに。たあくんの体温に触れた瞬間に、たまらず声が洩れた。

「たあくん!」

 彼の腕の中に飛び込み、奥歯を噛んで、その背中に両手を回し必死にしがみついた。たあくんの匂いだ。そう思ったら、唐突に涙があふれた。大好きなたあくんの匂いだ。必死に抑え込んでいたはずの悲しみと涙が一気にあふれ出した。

 信じられない。でも、会えた。たあくんに会えた。

「どっして死んじゃったの? どうせだったら私も連れで行って欲しがったよ!」

 しがみついて子供のように泣く私を抱き締めながら、たあくんはただ何度も何度も「ごめん」と繰り返した。そして、泣きじゃくる赤子をなだめるように、私の背中を優しく擦り続けた。

 どれくらいの時間をそうしていただろう。泣き過ぎて鼻は詰まるし、頭が重い。

「たあくんさ、死んでからはどごさ居だったず? このホテルはなんとして知ったず?」

 少しずつ冷静を取り戻して、そんな質問が出来るようになった頃にやっと、月花さんが居ないことに気付いた。

「なんかさ、お金要らねって言われだんだよ。本当だど思う?」

 すると、たあくんは「それだったけどや」とこのホテルに辿り着いた時の話を教えてくれた。

「死んだあと、濃霧が立ち込める暗いトンネルを、すっと休むごどなぐ、ずっと歩いだばってや。歩いても歩いても、何処っさも辿り着けねくって、苦しくてな。そんな時、突然、視界が開げで。あ、トンネル抜げだんだなって、漠然と理解したずや」

 でも、そこはまたもや薄気味悪い、仄暗いだだっ広い場所で、一本の吊り橋が濁流の上に架かっていたらしい。そして、後から後から無表情の人たちが、無言のまま、ぞろぞろと吊り橋を渡って行く。そんな光景だったと、たあくんは続けた。

 「あれっけ、俗に言う三途の川だったってねがって思うったけど。みんな普通に渡って行ぐなさ、俺だげ、どっしても渡れねんだよ。なんかこう、見えねえガラスあるみたいに、こっから先さ行げねったよ、俺だけ」

 呆然と立ち尽くし、吊り橋を渡って行く人たちを呆然と眺めていた時だったそうだ。

――青年。きみも私と同じに、弾かれたのだ

 と声を掛けられて振り向くと、そこには十代後半と思われる、明らかにたあくんより若い男の子が立っていたらしい。

「ほれ、なんつうがよ、戦争の映画とかでしか見たごどねったけど。軍服? 飛行服? 着てで。その人が言うったよ。俺が残して来た遺族、恋人、友人たちの、俺どご想う気持ちが強過ぎるんだって、だがらこの吊り橋を渡るごどがでぎねんだって。その人は吊り橋渡れねくて、もう八十年になるって言ってらった」

――残された者たちの想いを聞き、死を選んだことを許してもらわない限り、自殺した者はあの世へ渡ることもできぬのだ。見ろ、この私を。恋人に未だ許してもらえず、此処に留まる他ない

「したら、なんとせばいったすかって聞いだんだ」

――会って、向こうの気持ちを聞き、こちらも後悔と愛を伝えなければならないのだ。そして、もうこの世に留まる必要がない、この世に戻らなくとも良いのだと思えるようになってもらう事だ。死を完全に許してもらい、心から愛してもらうしかないのだ

「これが叶わない限り、自ら命を絶った者は吊り橋を渡って行ぐごどがでぎないんだって。だがら、もう一度、残された者さ会って謝って、許してもらうしかないって教えでくれだんだ」

 じゃあ、どうすれば遺族に会えるのか、とたあくんがその人に尋ねるとこのホテルの存在と行き方を教えてくれたのだそうだ。

――この甘い香りのする不思議な木を何処までも辿って行くのだ。その先に、白く滑稽な形の宿がある。そこに行ったら、係の者にこう言いなさい。依頼したい、予約を取りたい、と。そこには月陽という支配人が居る。彼女がきみの会いたい者に会わせてくれる。きみの魂を担保に

「すると、ツキアカリっていう女支配人が、残された者に招待状を送ってくれるがら、って。だがら、俺、その人どご誘ったんだよ。八十年も此処さいるんだったら、一緒に依頼しに行ぎましょうよって」

 でも、丁重にお断りされでしまった、とたあくんは妙に切なそうに肩をすくめた。

――私は一度会っているので、もう会えないのだ。許してもらえなかったので、仕方ない。なに、じきに彼女もここを通りかかるだろう。だから、此処で待っているのだ。彼女が生涯を終える時、私も此処から解き放たれるだろう

「その時をこうして待っているので大丈夫だ、って言ってさ。それで、このホテルに辿り着いたってわけ」

 たあくんの話にうなずきながら頭に浮かぶのは、どうしてなのか、二木キヨさんのあの可愛らしい笑顔だった。どうしてなのかは、本当に分からないけど、ずっと頭の中でキヨさんが微笑んでいた。

「んだったぁず……」

 と、私がうなずいてから少しの間、沈黙が流れた。でも、全く気まずいとういうことは無くて、なんだか、同棲していた頃を思い出した。

 半分ずつお金を出し合って購入した二人掛けのソファに二人並んで座って、テレビを観ながら二種類のポテトチップスを食べていたあの頃だ。私はいつも安全パイで定番のうす塩味の袋を、たあくんは挑戦者だから期間限定の味の袋を持って、互いに互いの袋に手を伸ばし合って食べながらテレビを観ていた。

 会話なんて別に要らなくて、一緒に居るだけで幸せだった。会話したとしても、ひと言ふた言だった。

「うまっ」

「やば」

 とか。

 ねえ、と手を伸ばせば、うん、とお醤油を取ってくれる。それくらい。ねえ、とか、うん、で通じ合えるから、最強だった。私とたあくんは、宇宙一最強だと思っていた。