東京駅に到着したのは、十八時。改札を抜けてもまだ十八時十五分だった。十九時まではまだ時間があったから、駅の中のカフェで時間をつぶすことにした。ブレンドコーヒーを飲みながら、スマホを開く。お母さんからラインが入っていた。結月と月紬がかっぱ寿司で大好きなお寿司を頬張っている写真だった。
ああ、こんなことならもっとあの子たちの写真や動画を撮り溜めておけば良かった。たあくんに見せてあげたいのに。あの日からは二十四時間が一瞬で終わってしまうものだから、ふたりを何処かに遊びに連れて行ってあげる余裕さえなかった。毎日、必死だった。
でも、と冷静になってコーヒーを飲みながら、こっそり小さく笑ってしまう。本当に死んだ人に会えるものなのだろうかと。親や子供に嘘をついてまでこんな遠くまで来ておきながら、今さらそれはないか。
とうとう十九時に五分前になったので、カフェを出て、招待状に記載されていた丸の内北口タクシー乗り場へ向かうことにした。東京駅の外はもうすっかり暗くなっていた。タクシー乗り場に到着して、車のナンバーを確認しようとバッグの中をごそごそと掻き回した時だった。一台の黒光りする乗用車がすっと私の前に停車し、後部座席のドアが自動で開いた。わざわざナンバーを確認しなくても、あ、この車だ、そう感じた。
車に近付いて行き、開かれたドア越しに運転席を覗き込んだ。
「あのう……すみません」
黒い立ち襟のジャケットの、その広い肩幅と刈り上げられた襟足からいって男の運転手は、こちらを振り返ることもせず、低い声でゆったりとした口調で言った。
「森本千翠様でございますね。どうぞ、ご乗車ください」
とても丁寧で感じの良い話し方に、ふと警戒心が解ける。不思議なことに、どうして私が森本千翠だと分かったのか、なんて考えたり、疑うような気持にさえならなかった。
「あ、よろしくお願いします」
乗り込むと、ドアがバタンと閉まった。高級な革のシートに緊張する。
「発車致します」
運転手が言うと、車はゆっくりと前方のタクシーをすり抜けて大通りへ出ると、穏やかに加速した。車内はとてもいい香りに包まれていた。甘く懐かしいような香りのせいだろうか、ぼんやりとしてくる。眠いような、気だるいような。
「森本千翠様」
運転手に呼ばれ、ハッとして顔を上げる。
「私は、送迎係の月影と申します。宜しくお願い致します。ホテルまでは十五分ほどで到着予定でございます」
「あ、はい」
ルームミラー越しに運転手と目が合って、ドキッとした。ひっ、と声が洩れそうになったけれど、なんとか飲み込んだ。
顔面は蝋のように白く、壊れた人形のようにぽっかりと開いた目。ふたつの暗い穴のような漆黒の瞳。色気の悪い唇は、内側の粘膜部分だけ血が滲んだように赤い。
「長旅、お疲れ様でございました」
まるで、生きていないみたいだ。でも、しっかりとハンドルを握り、大都会の複雑な道路をすいすい車を走らせる。それに、話し方が物腰やわらかくて、妙にほっとする。
「あ、ええ。そうですね。ちょっと疲れましたね」
「東京は、初めてですか?」
「はい、そうなんです」
「人が多くて、驚かれましたでしょう」
「ええ、まあ……でも」
そうでもない。東京はもっとギラギラと目が疲れるほど煌びやかで忙しない、そんな街なんだろうなと想像していたけど。まだ夜が始まったばかりだからなのか、想像していたほどギラギラしていない気がする。
「思ったより、ギラギラしていないんですね」
そりゃあ、ド田舎の秋田に比べたら、眼がチカチカしてしまうほど眩しい夜ではあるけれど。私の言葉に、ああ、と運転手が小さく噴き出すようにして笑った。
「今夜は、新月ですから。いつもより、薄暗く感じられてしまうのでしょう」
「あ、そうでしたね。今夜は新月でしたっけ」
車窓から流れる上空を見上げた。月は勿論、星も見えない。ネオンの人工的な明かりばかりだ。背の高いビルとビルの間から見上げた夜空は、ただただシンプルなダークネイビー色だった。
「月と太陽が重なる新月は、この世を隠しますから。こんなに明るい大都会も、夜に隠されてしまうのだそうですよ」
「はあ……そうなんですね」
運転手との会話はそれだけだった。あとはお互い何も話さず、何かを尋ねたりもしなかった。車が停まったのは、大通りからひとつ外れた路地に入ってすぐの、大きな、いかにも高級感たっぷりのホテルだった。車窓からホテルを見上げる。たまらず、うっわあ、と声が洩れた。
「ご到着致しました」
後部座席のドアが自動で開く。
「あ、ああ。ありがとうございました」
ぺこっと会釈をして降りると、
「森本千翠様。後悔なきお時間となりますよう、お過ごしください」
運転手は運転席から深々と一礼し、すうっと車ごと、大都会に紛れ込むように消えて行った。
真っ白な外観にうっとりとした吐息が洩れる。結月が大好きなディズニーアニメ、アラジンの世界に迷い込んだようだった。アラビアンな雰囲気たっぷりの外観の白いホテル。温かい蝋燭の灯のような明かりに包まれていた。ホテル・ラ・ソルーナは、大都会の夜の中に、ぽうっと浮かび上がるように存在していた。
純白の扉に付いた古美色のアンティークハンドルの取っ手を握り、ゆっくり引いた。外観が白ければ、フロント、ロビーラウンジも大理石の床も、純白だった。ホテルの中に一歩足を踏み入れる。すると、フロントマンがひとり、目をとめてこちらに会釈をした。私も会釈を返し、フロントカウンターへ向かう。
「いらっしゃいませ。ホテル・ラ・ソルーナへようこそ。フロントの月待と申します」
立ち上がりのある襟の黒いジャケットは、大きな金ボタンと袖口に金色のラインが入っていて、制服まで高級感にあふれている。でも、このフロントマンもまた、先ほどの運転手と同様、顔面は蝋のように白く、唇は血が滲むように赤い。そうなのだ。まるで生きている感じがしないのだ。けれど、端正な鼻立ちで体格も良く、非常に感じのいい青年だった。二十代半ばといったところだろうか。ただ、やっぱり目が穴のように黒くて、どこを見ているのか分からない。目が合っているのか合っていなのか、分からない。目のやり場にとても困った。
「お客様、ご確認のため、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
フロントマンがやわらかく微笑む。
「ああ、はい。森本千翠です。あの、招待状が届いて。えっと、あの」
どう説明すればいいか分からず、あたふたとバッグから招待状を引っ張り出した。
「これなんですけど」
ちょっと分からないですねね、とか、当ホテルの物ではないです、だとか。そう言われたらどうしよう、と少しドキドキしながらカウンターに招待状を置いて、中指でフロントマンの方へすすっと滑らせた。
「かしこまりました。拝見致します」
招待状を受け取ろうと伸ばして来たフロントマンの手を見て、思わず後退りしそうになった。青白く、血管さえ見当たらない、まるで造り物のような手だった。彼は招待状を開き真黒な目を落として、ひとつ、うなずいた。
「ご確認致しました。森本千翠様でございいますね。ご予約、承っております」
そして、招待状と引き換えに、厚手のカードを一枚差し出した。
「こちら、10階、1008号室、お部屋のカードキーでございます。ドアノブにかざしていただくと、ドアが開くようになっております」
「はい」
「ただ、一点、ご注意していただきたい事がございます。入室されましたら、客室係がお伺いするまで、お部屋からお出にならないよう、お願い致します。出た時点でご面会は中止となり、もう二度と入室できなくなってしまいます。ご注意願います」
カードキーにはホテルの名前がお洒落な筆記体で、太陽と月のロゴマークと重なるように
入っていた。
「はあ……分かりました」
カードキーを受け取り、とうとう、ひぃっ、と声を洩らしてしまった。受け取った時に僅かに触れたフロントマンの手が、まるで氷のように冷たかったからだ。あの日の、たあくんの手もこんなふうに冷たかった。
にこりと微笑むフロントマンに尋ねた。
「あの、会計は先ですか? 後ですか?」
「当ホテルは、お金は一切いただかないシステムとなっております」
「はっ?」
私はフロアをぐるりと一周見渡した。
「いや、あの。まさかそんな」
料金が発生しないホテルなんて聞いたことがない。普通に考えて、あり得ない。
全体的に白を基調とした造り。吹き抜けの高い天井に大きなシャンデリア。大理石の床。黒光りする大きなグランドピアノ。フロントの正面はロビーラウンジになっている。もう明らかに高級ホテルなのに、無料だなんて絶対におかしい。キョロキョロしていると、フロントマンが「当ホテルのご説明をさせていただきます」と話し始めた。
「当ホテルは、ラ・ソルーナの名の通り、太陽と月が重なり、街が闇に隠れる新月の夜のみの営業となっております。当ホテルは、自死にてお亡くなりになられた故人様が訪れるホテルでございます。生きた人間が当ホテルに入ることができるのは、新月の夜のみ。面会が可能なお時間は20時から未明4時までの8時間となっております」
この世が夜の闇に隠れている8時間の間であれば、面会時間を短縮することは可能だけど、延長はできないらしい。その理由は朝が来て太陽がこの世を明るみに出してしまうからなのだと、フロントマンは続けた。
「故人様とお会いになれるのは、一度だけでございます。くれぐれも客室係がお伺いするまで、お部屋を出ないようご注意願います。お手洗いはお部屋にございます。他に必要な物がございましたり、ご用の際は、お部屋の電話機よりフロント9番まで、遠慮なくお申し付けください」
よほど何かあるのだろうか。執拗なほど、部屋から出るなと言ってくる。
「とにかく、勝手に部屋から出ちゃいけないってことですよね」
「さようでございます。また、お部屋に入られてからの流れは、客室係より別途ご説明がございます」
その時だった。
フロントマンの「ございます」と重なるように「森本千翠様」とクリスタルグラスを打つような美しい声に背中を叩かれて振り向くと、そこにはすらっと背が高く華奢で、美しく上品な女性が姿勢良く真っ直ぐに立っていた。
「ようこそ、ホテル・ラ・ソルーナへ」
女性は黒髪をひっ詰めて結い、みぞおちのあたりで手の甲に手を組み重ね、ワンテンポあってから一礼してきた。
「客室係の月花と申します」
立ち上がりの襟の黒いジャケットに、床に着きそうで着かない丈のロングスカートの制服。フロントマンと同じ大粒の金ボタンと袖口に金色のラインが入っている。
「今夜は、責任を持って、担当させていただきます。何卒よろしくお願い申し上げます」
声も髪の毛も、仕草も、所作が全て上品で美しい人だった。美しいのだけれど、彼女もまた蝋のように不自然に白い肌、穴の開いたような黒い目。血が滲んだような赤い唇。
「それでは、間もなくお時間です。森本佑様は、お部屋にてお待ちになられております」
「たあ……夫が……あの、夫がですか? 夫が本当に居るんですか?」
食い気味に聞くと、月花さんはにこりと微笑んだ。
「はい。それでは、行きましょう。どうぞこちらへ」
そして、右手をすっと前へ述べて、私を先導して行こうと歩き出した。私は一度振り返りフロントマンにぺこっとお辞儀をして、エレベーターに向かう月花さんを小走りで追い掛けた。
「あっ、あの、すみません」
緊張しながら、月花さんに声をかけ、再度確認した。
「本当に、夫はいるんですよね?」
コツコツとヒールを鳴らして歩きながら、月花さんは清楚に頷いた。
「はい。お待ちになっておいでです」
本当に、本当なんだろうか。不安と期待が複雑に入り混じる。もう、何が本当で何が嘘なのか、分からない。月花さんかエレベーターの前で立ち止まりボタンを押す。エレベーターの扉が開き、月花さんが「どうぞ」と私に乗るようにと促す。
胸いっぱいに空気を吸い込んで、たっぷりの時間をかけて吐き切った。これが詐欺だったとしても、それでもいい。覚悟を決める。
「ありがとうございます」
軽く会釈をしてエレベーターに乗り込むと、すぐにあとから月花さんも乗って来て、扉が閉まった。
「森本佑様は生前のお姿のまま、現れます。お記憶もそのまま残っていらっしゃいますし、触れることも可能ですし、お話もできます。ただ、お亡くなりになられた方は、この世の物を口にすることは禁じられておりますので、ご飲食の際はご注意願います」
「はあ……」
それ以上は聞くことができなかった。月花さんが嘘やでまかせを言っているようには見えない。でも、もしかしたら騙されているのかもしれないと思ってしまう。こんな胡散臭い話があるわけない。逃げるなら今だと思うのに、それもできない。
結局互いにひと言も発しないままエレベーターは目的の10階まで一気に上昇した。
ポン、と到着を知らせる音が鳴って、扉が開いた。藍色に敷き詰められた毛の長い絨毯を歩く度、短いヒールが埋もれる。真っ直ぐの長い廊下の突き当りに、その部屋はあった。
「あちらの、突き当りのお部屋が1008号室でございます」
と月花さんが右手を前方に伸べる。私はごくっと唾を飲み込んで、月花さんに尋ねた。
「あ、あのっ、これ、詐欺じゃないですよね?」
「サギ、とは?」
と月花さんが不思議そうに、今にもポキリと折れそうな白い小首をかしげる。
「だ、だだだって! このホテル、すんっごい高級そうだし……あのっ、料金発生しないとか、あやしくないですか?」
失礼なこと言ってすみません! と一礼して顔を上げると、月花さんは血が滲んだように赤い唇を一文字に結んだまま、口角だけをあげてにこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。お金の代わりに、依頼者様の魂を担保として、お預かりしておりますので」
「ええっ? な……」
どういうことですか? と聞く間もなく、月花さんは颯爽とした足取りで毛の長い絨毯を突き進んだ。そして、部屋の前で立ち止まり、腕時計を確認してから言った。
「現在の時刻、19時40分です。面会開始のお時間まであと20分ございますので、お部屋に入られてお待ちください。19時50分になりましたら、お茶を準備し、ご説明に伺います」
それではごゆっくりお過ごしください、と一礼して来た廊下を戻ろうとして踵を返し、でも何か思い立ったかのように振り向いた。
「再度、申し上げますが、お部屋を出てしまいますと、その時点で無効となりご面会は中止となりますので、ご注意願います」
そう忠告して、月花さんは行ってしまった。
ああ、こんなことならもっとあの子たちの写真や動画を撮り溜めておけば良かった。たあくんに見せてあげたいのに。あの日からは二十四時間が一瞬で終わってしまうものだから、ふたりを何処かに遊びに連れて行ってあげる余裕さえなかった。毎日、必死だった。
でも、と冷静になってコーヒーを飲みながら、こっそり小さく笑ってしまう。本当に死んだ人に会えるものなのだろうかと。親や子供に嘘をついてまでこんな遠くまで来ておきながら、今さらそれはないか。
とうとう十九時に五分前になったので、カフェを出て、招待状に記載されていた丸の内北口タクシー乗り場へ向かうことにした。東京駅の外はもうすっかり暗くなっていた。タクシー乗り場に到着して、車のナンバーを確認しようとバッグの中をごそごそと掻き回した時だった。一台の黒光りする乗用車がすっと私の前に停車し、後部座席のドアが自動で開いた。わざわざナンバーを確認しなくても、あ、この車だ、そう感じた。
車に近付いて行き、開かれたドア越しに運転席を覗き込んだ。
「あのう……すみません」
黒い立ち襟のジャケットの、その広い肩幅と刈り上げられた襟足からいって男の運転手は、こちらを振り返ることもせず、低い声でゆったりとした口調で言った。
「森本千翠様でございますね。どうぞ、ご乗車ください」
とても丁寧で感じの良い話し方に、ふと警戒心が解ける。不思議なことに、どうして私が森本千翠だと分かったのか、なんて考えたり、疑うような気持にさえならなかった。
「あ、よろしくお願いします」
乗り込むと、ドアがバタンと閉まった。高級な革のシートに緊張する。
「発車致します」
運転手が言うと、車はゆっくりと前方のタクシーをすり抜けて大通りへ出ると、穏やかに加速した。車内はとてもいい香りに包まれていた。甘く懐かしいような香りのせいだろうか、ぼんやりとしてくる。眠いような、気だるいような。
「森本千翠様」
運転手に呼ばれ、ハッとして顔を上げる。
「私は、送迎係の月影と申します。宜しくお願い致します。ホテルまでは十五分ほどで到着予定でございます」
「あ、はい」
ルームミラー越しに運転手と目が合って、ドキッとした。ひっ、と声が洩れそうになったけれど、なんとか飲み込んだ。
顔面は蝋のように白く、壊れた人形のようにぽっかりと開いた目。ふたつの暗い穴のような漆黒の瞳。色気の悪い唇は、内側の粘膜部分だけ血が滲んだように赤い。
「長旅、お疲れ様でございました」
まるで、生きていないみたいだ。でも、しっかりとハンドルを握り、大都会の複雑な道路をすいすい車を走らせる。それに、話し方が物腰やわらかくて、妙にほっとする。
「あ、ええ。そうですね。ちょっと疲れましたね」
「東京は、初めてですか?」
「はい、そうなんです」
「人が多くて、驚かれましたでしょう」
「ええ、まあ……でも」
そうでもない。東京はもっとギラギラと目が疲れるほど煌びやかで忙しない、そんな街なんだろうなと想像していたけど。まだ夜が始まったばかりだからなのか、想像していたほどギラギラしていない気がする。
「思ったより、ギラギラしていないんですね」
そりゃあ、ド田舎の秋田に比べたら、眼がチカチカしてしまうほど眩しい夜ではあるけれど。私の言葉に、ああ、と運転手が小さく噴き出すようにして笑った。
「今夜は、新月ですから。いつもより、薄暗く感じられてしまうのでしょう」
「あ、そうでしたね。今夜は新月でしたっけ」
車窓から流れる上空を見上げた。月は勿論、星も見えない。ネオンの人工的な明かりばかりだ。背の高いビルとビルの間から見上げた夜空は、ただただシンプルなダークネイビー色だった。
「月と太陽が重なる新月は、この世を隠しますから。こんなに明るい大都会も、夜に隠されてしまうのだそうですよ」
「はあ……そうなんですね」
運転手との会話はそれだけだった。あとはお互い何も話さず、何かを尋ねたりもしなかった。車が停まったのは、大通りからひとつ外れた路地に入ってすぐの、大きな、いかにも高級感たっぷりのホテルだった。車窓からホテルを見上げる。たまらず、うっわあ、と声が洩れた。
「ご到着致しました」
後部座席のドアが自動で開く。
「あ、ああ。ありがとうございました」
ぺこっと会釈をして降りると、
「森本千翠様。後悔なきお時間となりますよう、お過ごしください」
運転手は運転席から深々と一礼し、すうっと車ごと、大都会に紛れ込むように消えて行った。
真っ白な外観にうっとりとした吐息が洩れる。結月が大好きなディズニーアニメ、アラジンの世界に迷い込んだようだった。アラビアンな雰囲気たっぷりの外観の白いホテル。温かい蝋燭の灯のような明かりに包まれていた。ホテル・ラ・ソルーナは、大都会の夜の中に、ぽうっと浮かび上がるように存在していた。
純白の扉に付いた古美色のアンティークハンドルの取っ手を握り、ゆっくり引いた。外観が白ければ、フロント、ロビーラウンジも大理石の床も、純白だった。ホテルの中に一歩足を踏み入れる。すると、フロントマンがひとり、目をとめてこちらに会釈をした。私も会釈を返し、フロントカウンターへ向かう。
「いらっしゃいませ。ホテル・ラ・ソルーナへようこそ。フロントの月待と申します」
立ち上がりのある襟の黒いジャケットは、大きな金ボタンと袖口に金色のラインが入っていて、制服まで高級感にあふれている。でも、このフロントマンもまた、先ほどの運転手と同様、顔面は蝋のように白く、唇は血が滲むように赤い。そうなのだ。まるで生きている感じがしないのだ。けれど、端正な鼻立ちで体格も良く、非常に感じのいい青年だった。二十代半ばといったところだろうか。ただ、やっぱり目が穴のように黒くて、どこを見ているのか分からない。目が合っているのか合っていなのか、分からない。目のやり場にとても困った。
「お客様、ご確認のため、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
フロントマンがやわらかく微笑む。
「ああ、はい。森本千翠です。あの、招待状が届いて。えっと、あの」
どう説明すればいいか分からず、あたふたとバッグから招待状を引っ張り出した。
「これなんですけど」
ちょっと分からないですねね、とか、当ホテルの物ではないです、だとか。そう言われたらどうしよう、と少しドキドキしながらカウンターに招待状を置いて、中指でフロントマンの方へすすっと滑らせた。
「かしこまりました。拝見致します」
招待状を受け取ろうと伸ばして来たフロントマンの手を見て、思わず後退りしそうになった。青白く、血管さえ見当たらない、まるで造り物のような手だった。彼は招待状を開き真黒な目を落として、ひとつ、うなずいた。
「ご確認致しました。森本千翠様でございいますね。ご予約、承っております」
そして、招待状と引き換えに、厚手のカードを一枚差し出した。
「こちら、10階、1008号室、お部屋のカードキーでございます。ドアノブにかざしていただくと、ドアが開くようになっております」
「はい」
「ただ、一点、ご注意していただきたい事がございます。入室されましたら、客室係がお伺いするまで、お部屋からお出にならないよう、お願い致します。出た時点でご面会は中止となり、もう二度と入室できなくなってしまいます。ご注意願います」
カードキーにはホテルの名前がお洒落な筆記体で、太陽と月のロゴマークと重なるように
入っていた。
「はあ……分かりました」
カードキーを受け取り、とうとう、ひぃっ、と声を洩らしてしまった。受け取った時に僅かに触れたフロントマンの手が、まるで氷のように冷たかったからだ。あの日の、たあくんの手もこんなふうに冷たかった。
にこりと微笑むフロントマンに尋ねた。
「あの、会計は先ですか? 後ですか?」
「当ホテルは、お金は一切いただかないシステムとなっております」
「はっ?」
私はフロアをぐるりと一周見渡した。
「いや、あの。まさかそんな」
料金が発生しないホテルなんて聞いたことがない。普通に考えて、あり得ない。
全体的に白を基調とした造り。吹き抜けの高い天井に大きなシャンデリア。大理石の床。黒光りする大きなグランドピアノ。フロントの正面はロビーラウンジになっている。もう明らかに高級ホテルなのに、無料だなんて絶対におかしい。キョロキョロしていると、フロントマンが「当ホテルのご説明をさせていただきます」と話し始めた。
「当ホテルは、ラ・ソルーナの名の通り、太陽と月が重なり、街が闇に隠れる新月の夜のみの営業となっております。当ホテルは、自死にてお亡くなりになられた故人様が訪れるホテルでございます。生きた人間が当ホテルに入ることができるのは、新月の夜のみ。面会が可能なお時間は20時から未明4時までの8時間となっております」
この世が夜の闇に隠れている8時間の間であれば、面会時間を短縮することは可能だけど、延長はできないらしい。その理由は朝が来て太陽がこの世を明るみに出してしまうからなのだと、フロントマンは続けた。
「故人様とお会いになれるのは、一度だけでございます。くれぐれも客室係がお伺いするまで、お部屋を出ないようご注意願います。お手洗いはお部屋にございます。他に必要な物がございましたり、ご用の際は、お部屋の電話機よりフロント9番まで、遠慮なくお申し付けください」
よほど何かあるのだろうか。執拗なほど、部屋から出るなと言ってくる。
「とにかく、勝手に部屋から出ちゃいけないってことですよね」
「さようでございます。また、お部屋に入られてからの流れは、客室係より別途ご説明がございます」
その時だった。
フロントマンの「ございます」と重なるように「森本千翠様」とクリスタルグラスを打つような美しい声に背中を叩かれて振り向くと、そこにはすらっと背が高く華奢で、美しく上品な女性が姿勢良く真っ直ぐに立っていた。
「ようこそ、ホテル・ラ・ソルーナへ」
女性は黒髪をひっ詰めて結い、みぞおちのあたりで手の甲に手を組み重ね、ワンテンポあってから一礼してきた。
「客室係の月花と申します」
立ち上がりの襟の黒いジャケットに、床に着きそうで着かない丈のロングスカートの制服。フロントマンと同じ大粒の金ボタンと袖口に金色のラインが入っている。
「今夜は、責任を持って、担当させていただきます。何卒よろしくお願い申し上げます」
声も髪の毛も、仕草も、所作が全て上品で美しい人だった。美しいのだけれど、彼女もまた蝋のように不自然に白い肌、穴の開いたような黒い目。血が滲んだような赤い唇。
「それでは、間もなくお時間です。森本佑様は、お部屋にてお待ちになられております」
「たあ……夫が……あの、夫がですか? 夫が本当に居るんですか?」
食い気味に聞くと、月花さんはにこりと微笑んだ。
「はい。それでは、行きましょう。どうぞこちらへ」
そして、右手をすっと前へ述べて、私を先導して行こうと歩き出した。私は一度振り返りフロントマンにぺこっとお辞儀をして、エレベーターに向かう月花さんを小走りで追い掛けた。
「あっ、あの、すみません」
緊張しながら、月花さんに声をかけ、再度確認した。
「本当に、夫はいるんですよね?」
コツコツとヒールを鳴らして歩きながら、月花さんは清楚に頷いた。
「はい。お待ちになっておいでです」
本当に、本当なんだろうか。不安と期待が複雑に入り混じる。もう、何が本当で何が嘘なのか、分からない。月花さんかエレベーターの前で立ち止まりボタンを押す。エレベーターの扉が開き、月花さんが「どうぞ」と私に乗るようにと促す。
胸いっぱいに空気を吸い込んで、たっぷりの時間をかけて吐き切った。これが詐欺だったとしても、それでもいい。覚悟を決める。
「ありがとうございます」
軽く会釈をしてエレベーターに乗り込むと、すぐにあとから月花さんも乗って来て、扉が閉まった。
「森本佑様は生前のお姿のまま、現れます。お記憶もそのまま残っていらっしゃいますし、触れることも可能ですし、お話もできます。ただ、お亡くなりになられた方は、この世の物を口にすることは禁じられておりますので、ご飲食の際はご注意願います」
「はあ……」
それ以上は聞くことができなかった。月花さんが嘘やでまかせを言っているようには見えない。でも、もしかしたら騙されているのかもしれないと思ってしまう。こんな胡散臭い話があるわけない。逃げるなら今だと思うのに、それもできない。
結局互いにひと言も発しないままエレベーターは目的の10階まで一気に上昇した。
ポン、と到着を知らせる音が鳴って、扉が開いた。藍色に敷き詰められた毛の長い絨毯を歩く度、短いヒールが埋もれる。真っ直ぐの長い廊下の突き当りに、その部屋はあった。
「あちらの、突き当りのお部屋が1008号室でございます」
と月花さんが右手を前方に伸べる。私はごくっと唾を飲み込んで、月花さんに尋ねた。
「あ、あのっ、これ、詐欺じゃないですよね?」
「サギ、とは?」
と月花さんが不思議そうに、今にもポキリと折れそうな白い小首をかしげる。
「だ、だだだって! このホテル、すんっごい高級そうだし……あのっ、料金発生しないとか、あやしくないですか?」
失礼なこと言ってすみません! と一礼して顔を上げると、月花さんは血が滲んだように赤い唇を一文字に結んだまま、口角だけをあげてにこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。お金の代わりに、依頼者様の魂を担保として、お預かりしておりますので」
「ええっ? な……」
どういうことですか? と聞く間もなく、月花さんは颯爽とした足取りで毛の長い絨毯を突き進んだ。そして、部屋の前で立ち止まり、腕時計を確認してから言った。
「現在の時刻、19時40分です。面会開始のお時間まであと20分ございますので、お部屋に入られてお待ちください。19時50分になりましたら、お茶を準備し、ご説明に伺います」
それではごゆっくりお過ごしください、と一礼して来た廊下を戻ろうとして踵を返し、でも何か思い立ったかのように振り向いた。
「再度、申し上げますが、お部屋を出てしまいますと、その時点で無効となりご面会は中止となりますので、ご注意願います」
そう忠告して、月花さんは行ってしまった。

