朝は五時起床。朝ご飯と自分のお弁当を作る。六時、洗濯機を回してから、ふたりを起こす。結月はすんなり起きてくれるけれど、問題は月紬。とんでもなく朝が弱い。二度寝が大好きだったたあくんにそっくり。あの手この手でどうにかして起こして、朝ご飯を食べさせる。洗い物をして着替えさせる。

 洗濯物を干している時も、月紬からは目を離せない。先日は朝食後に一瞬目を離した隙に忽然と居なくなって、朝から大騒動だった。結局、一本向こうの大通りで発見した。「パパを探しに来た」と言われた時は、さすがに叱ることなんて出来なかった。

 パパ、どこさいるの? 今日は帰ってくる? 明日は?

 たあくんが亡くなってからも結月は一度も聞いてこないけど、月紬は時々聞いてくる。でも、どう返したらいいのか分からなくて、パパかくれんぼ、としか答えられず現在に至る。自分をなんて情けない母親だろうと思う。

 朝は目まぐるしい。保育園にふたりを預けて職場に着くとすでにへとへと。朝の申し送り前にブラックコーヒーを飲んで気持ちを切り替える。でも、長年続けてきたこの仕事こそが私を救ってくれていたのだと思う。夢中になって仕事をしている時間だけは、余計なことを考えずに済んだし、気がまぎれるのか、少し気持ちが楽になった。

 仕事が終われば直ぐにふたりを迎えに行って、スーパーで買い物をして、アパートに帰る。たあくんが亡くなった後も、私たちはアパートに住み続けている。名義を私に変更し、再契約した。出ると事故物件扱いになり、多額の違約金を払わなければならないけど、このまま住み続けてくれるなら違約金は要らないと大家さんが譲歩してくれたのも理由のひとつだった。実家の両親は結月と月紬を連れていつでも帰って来なさいと言ってくれた。たあくんの両親も、違約金なら払うからとまで言ってくれたけれど、どうしてかアパートを出る気になれなかった。

 アパートを引き払ってしまえば、なんだかもう、たあくんとの繋がりがなくなってしまうような気がした。おかしな話だと笑われてしまうかもしれないけど、私たちがアパートを出たら、たあくんの帰ってこれる場所がなくなるんじゃないか、なんて。そんなことを思ってしまったのだ。たあくんはもう、帰ってくるはずがないのに。

 夕食後のルーティンをこなすのがこれまた難関で、テレビ観たい観たい星人の月紬を、結月と二人協力体制であの手この手でお風呂に誘い込む。二十時には歯磨きをさせて、寝かしつける。結月はおやすみ三秒で夢の中へ入ってくれるからいいけど、月紬は朝から晩まで、いや、二十四時間手がかかる。

 月紬が寝付く頃には二十二時になっていた、なんてこともしばしば。そこから取り込んだ洗濯物をたたんで、保育園の連絡帳を確認してコメントを書く。交換日記みたいだな、なんて、たあくんがよく手伝って書いてくれたっけ。それを書き終えるとようやくゆっくり出来る。

 
 私の人生からたあくんが居なくなってからは、熟睡できなくて、浅い眠りの毎日でぜんぜん疲れが取れない。だから、寝酒をするようになってしまった。どぎついウイスキーをロックでぐーっと飲み干して、布団に潜り込む。内臓がかあっと熱いうちに目をつむる。ベッドのマットレスに沈んで、うとうとと微睡の中を漂っていると、朝五時だ。


 そのB6サイズの白い封書がアパートのポストに届いたのは、二木キヨさんが亡くなって数日後の五月三十日。その日は、月が鉛色の雲に隠された、星も眠るような濃いインディゴブルー色に包まれた夜だった。

 HOTEL La SOLUNA

「ホテル、ラ……ソルーナ……?」

 聞いたこともない、心当たりも全くないホテル名だった。森本千翠様、と確かに私の名前が明朝体で大きく印字されている。でも、本当に全く、身に覚えがない。

 DM、詐欺、嫌がらせ。色んなことが頭を駆け巡った。まあ、後で確認しよう程度に、リビングの郵便物や書類関係を入れているファイルスタンドにストンと紛れ込ませた。

「ママ、今日、ご飯なにー?」

 めずらしい。ご飯なになに星人の月紬ではなく、結月が聞いてくるなんて、滅多にないことだったから、少し驚いた。

「今日は、からあげ。ゆづの好きな、塩とにんにくの、カリカリのやつ」

 すると、結月は嬉しそうにへへっと笑って、月紬の手を引き、洗面所で仲良く手洗いうがいを始めた。

「つむ、がらがらぺえーして。ご飯はカリカリのからあげだって」

「やったね。ねぇねも、がらがらしてね」

 いつも通り夕食を終えて、お風呂に入って、保育園で何をして遊んだとかふたりの話を聞いて、お風呂上りにアイスを食べて、歯磨きをさせて、寝かしつけると二十一時だった。取り込んでソファに山積みにしたままの洗濯物を畳み終えて、ひとまず冷蔵庫に向かう。

 缶ビールを一本取り出し、プルトップを手前に引くとプシュワッと炭酸が抜ける音でハッと思い出した。キンキンに冷えたビールを飲みながら歩き、ファイルスタンドからさっきの封書を取り出して、ソファに座った。ゴクゴクゴクとビールで喉を潤してから、どれどれと封書を開いて中身を確かめた。

 一瞬、薄手のパンフレットでも入っているのかと思った。そんな感じの厚さがあった。

「うっわ……なんだぁず、これ」

 ぱちくりと瞬きをして、封筒の中から二つ折りのカードを抜き出した。カードの表紙を手のひらでそっと撫でてみる。高級な絨毯に触れているような不思議な感触だった。

 ダークグレー色のベルベット生地の二つ折りのカード。その生地には太陽と三日月が半分ずつになったロゴマークが金色の糸で刺繍されている。カードの端を人さし指の腹に引っ掛けて右に開くと、淡いグレーのトレーシングペーパーに文字が印字されていた。どうやら、招待状のようだった。



森本千翠 様

 このたびは、森本佑(もりもとたすく)様のご逝去の報に接し、心よりお悔み申し上げます。
 ご遺族の皆様のお悲しみは、はかり知れないものとお察し致します。
 また、突然このようなご連絡をお許しください。
 森本佑様より当ホテルのご予約、また、ご面会のご依頼を承りました。次の新月の夜、一室ご用意が可能となりましたので、ご連絡させていただきました。

 202X年 6月6日(土)
 東京都港区赤坂9-8-X  20時
 ホテル・ラ・ソルーナにて森本佑様がお待ちになられております。
 東京までは同封させていただきました、新幹線の切符をご利用ください。東京駅からは当ホテルの者が車にて送迎させていただきますのでご安心ください。19時、丸の内北口、タクシー乗り場にて、品川300 め 12‐XXの車にご乗車ください。
 当ホテルは夜のみの営業となります。
 当日、お越しになりましたら、19時45分までに受付を済ませていただきますよう、お願い申し上げます。
 なお、この招待状に関しまして、くれぐれも他言無用にてお願い致します。他者に話された際には森本佑様とご面会が出来なくなりますので、ご注意ください。
 その他、詳細は当ホテルへお越しの際にフロント及び客室係より、ご説明がございます。

 新月の夜、限られたお時間ではございますが、おふたりの再会のお手伝いが出来ますよう、我々スタッフ一同、ご尽力させていただく事を、お約束致します。

 それでは、森本千翠様のお越しを、心よりお待ちしております。

                 HOTEL La SOLUNA
                      支配人  月陽


 読み終えたあと、しばらくフリーズしてしまった。

「なんっだず、これ……」

 完全にキャパオーバー。まず最初に困惑、次に怒り、そして期待と葛藤が順番にやって来て、複数の感情がごちゃ混ぜになって、自分の中で処理しきれなくなった。

 なにこれ。きっとイタズラだ。誰かが嫌がらせしたんだ。でも、もし本当に会えたりしたら……ダメだ。しっかりしろ、私。冷静になれ。そうだ、消印だ。消印は押されているだろうか。短命な深呼吸をして、今一度封筒を確かめる。五月二十八日、一昨日、東京赤坂。消印が確かに押されてある。間違いなく東京から発送された物のようだ。

 とはいえ、胡散臭いことこの上ない。たあくんがこのホテルの予約をしたって? 死んだ人間がどうやって? ばかばかしい。

 そんな石が浮いて木の葉が沈むような、バカげた話があるわけがない。考えれば考えるほど、頭が真っ白になって、しまいには何も考えられなくなった。何かの不具合で思考回路が停止したけれど、その原因がいつまで経っても分からない。解決しない。そんな感じだった。

「ママ―」

 背後から声を掛けられて、ハッと我に返った。振り向くと月紬が眠い目を擦って前後にぐらぐらと揺れながら、ぽわぽわと立っている。

「あしたのご飯なあにー?」

「はあっ?」

「つむ、たまごのめだま食べたい」

 どうやら食いしん坊のなんでなんで星人は完璧に寝ぼけているようで、そのまま床にごろんと寝ころんで、大の字になって眠ってしまった。これまた月紬の通常運転。

「こらー、床さ寝るなってばあ、つむー」

 月紬をよいしょと抱きかかえて寝室へ運ぶと、結月はすうすうと静かな寝息を立てていた。その隣に月紬を横にして、毛布と掛布団を掛ける。

 顔は私に、性格はたあくんにそっくりな結月。顔はたあくんに、性格は私にそっくりな月紬。ふたりとも私の大切な宝物であることに変わりはない。ちゃんと私が責任を持って育てる。その気持ちにも変わりはないのに。

 でもやっぱり、たあくんが居なくなってから、確実に何かが欠けてしまった。今までのように可愛くてたまらないと思えなくなってしまった。一緒に生活する仲間、そんな感覚になった。

 ふたりが眠っているのを確認して、再びリビングに戻り、招待状を手にすると内側に切り込みがあり、そこに新幹線の切符が一枚入っていた。秋田駅発、東京駅着の片道切符だった。

 6月6日 14:14発 18:00着 スーパーこまち28号 22,890円

「グリーン車だ……うへー」

 無意識に間抜けな声が漏れる。蛍光灯にかざしてみる。けれど、どうも偽物というわけでもなさそうだ。薄気味悪くなってきた。だって、千円二千円の話じゃない。金銭的な事情が絡んでくると、これはもしや新手の詐欺ではないかと思えてきた。

 こんな訳の分からない話があるものか。たあくんに会えると信じて行ってみたら、とんでもない巨額の請求をされるかもしれない。新手の詐欺だ。きっとそうだ。人の心に付け込んで、こんなふざけたことして。

「ばっかでないの」

 ぬるくなり始めたビールをあおるようにぐーっと体に流し込んで、封筒、招待状、新幹線の切符をゴミ箱に投げ捨てた。スマホで時間を確認するともう二十二時を過ぎていた。明日も早い。歯磨きをして寝ようと思い、ソファから立った。洗面台の前に立ち、シャカシャカと歯を磨きながら、何度も頭の中で反芻した。

 森本佑様より当ホテルのご予約、また、ご面会の御依頼を承りました。森本佑様がお待ちになっております。再会。ホテル・ラ・ソルーナ。反芻しながら、そんなはずない、あり得ない、絶対ないと強く否定した。だけど、気付けば急いで歯磨きを終わらせてリビングに戻り、ゴミ箱に手を突っ込んでいた。封筒も招待状も切符も拾い、テーブルに並べている自分がそこに居て、呆れてしまった。

 絶対にあり得ないと頭では分かっているのに、でも、もしかしたら本当に会えるのかもしれないと、心が大きく揺れ動いている自分にほとほと呆れてしまった。目が冴えてしまった。これっぽっちも眠れる気がしない。冷蔵庫へ向かいもう一本追加のビールを開ける。ソファへ戻り、深く体を沈め両足の踵をソファの端に載せて、小さくなってスマホを握り締めた。

 カツコツと時計の秒針の音が、鼓動のように正確に時を刻む。Googleの検索バーに「ホテル・ラ・ソルーナ」と入力し検索してみることにした。

「は……なんだぁずこれ」

 鼻で笑ってしまった。検索してヒットしたのは、なぜか都市伝説やホラー、オカルト、うわさ話の掲示板だった。

 〇〇県の〇〇トンネルに深夜二時に訪れると、首なしライダーが出る、とか。〇〇県の廃墟ホテルに行くと〇階から女の人が覗いている、とか。〇〇県の〇〇駅という無人駅で電車に乗ったら、未来に行って来た、だとか。そんなことばかりが語り合われていた。

 やっぱりこんなもんか。あり得ない話なんだ。ばかばかしい。少しでも期待してしまった自分が可笑しくて、小さく噴き出しながらスクロールしていた指を止め、ビールを口に含んだまま、固まった。その情報のスレッドが視界に飛び込んできたからだ。

『自殺して亡くなった人に会えるホテル』

 口の中で生ぬるくなってしまったビールをごっくりと飲み込む。そのスレッドをクリックして、スクロールした。

――知ってる人いる?

――ワイ知ってる

――まじか

――まじ
  母方の祖母が自殺した息子に会ったことあるらしい
  そのホテルで

――くわしく

――もううろ覚えだけど

――オケ

――自殺した故人だけがまれに辿り着くことができるらしい

――こわ

――ウチも聞いたことある

――やば

――新月の夜だけってハナシ

――どゆこと

――草草草

――ツキアカリっていう支配人がいる
  ツキアカリに頼むと生きてる人間に会わせてくれる

――女? 男?

 気付けば日付が変わるまで夢中になって読み漁っていた。

 新月の夜にだけ大都会、東京の街中に突如として現れるホテル。支配人を名乗るツキアカリから招待状が届く。そのホテルに辿り着ける人間は、ツキアカリから招待状が届いた者だけ。そして、ホテルへ訪れることができる死者も、自ら命を絶った者のみ。招待状をもらった人間が指定日に現れなければ、交渉は不成立。不成立の場合と招待状をもらった人間がそのことを他人に話してしまった場合、死者は支配人から魂を消滅されてしまう。そんな事がつらつらと書かれていた。

――面会が成立した場合は、生者に死者の魂の今後を左右できる権利が与えられる

 もっと知りたいのに、そのスレッドはその情報を最後に更新されず途切れていた。


 思い切り肺の底まで酸素を吸い込んで、すっからかんになるまで、全部吐き切った。もの凄く、疲れた。全身に力を込め、何か良くないモノに憑りつかれたように読み漁っていた。目が疲れた。人さし指と親指で眉間を摘み、ぎゅっと目をつむる。

 信じられない。信じられるわけがない。信じない。そんなことあり得ない。たあくんにもう一度会えるなんて、そんなバカげたこと期待したらダメ。騙されちゃダメだ。

 二本目のビールも空にして、もう一度、招待状に視線を落とす。

 支配人、月陽。掲示板にも同じ名前が書かれていた。月に太陽の陽で、ツキアカリと読むらしい。

 こんなの……絶対に嘘だって。詐欺に決まってるって。だって、死んだ人に会えるなんてことが現実に起きているのだとしたら、もっと世間で騒がれているはずだ。ワイドショーとか、週刊誌だとか。もっと大事になっているに決まってる。こんなのを信じて手を出したら、大変な目に遭うに決まってる。

 たあくんはもう居ない。死んでしまった。会えるわけがない。

 そう自分に言い聞かせながら、スマホのスケジュールアプリを起動させてシフトを確認し、介護主任にラインメッセージを送信していた。

――夜勤中、こんな時間にすみません
  来月6日休みをいただきたいです
  急で申し訳ないのですが、よろしくお願いします

「ちょっとー、千翠ちゃん、まだ起ぎてらったの? 大丈夫だず?」

 夜勤中だったにも拘わらず、主任はすぐに電話をくれて、快く有給にしてくれた。

「有給、まだ残ってらし、思い切って一週間くらい休んでもいったよ。最近、千翠ちゃん顔色悪いなあって、ちょうど心配してらったんだあ」

 さすがに一週間休むのは申し訳なさ過ぎるし、気が引けて遠慮したけれど、その気持ちが本当に有難かった。

 それから、毎晩、ふたりが寝た後はネットでホテル・ラ・ソルーナについて手あたり次第に調べた。でも、どれもこれも似たり寄ったりの情報で、有力な手掛かりは得られなかった。ネットの些細な情報をこつこつと集めて、真偽のほどを見極めた。エックスで似たような情報を目にすれば、すぐさまその人にDMを送ったりもした。

 出発の三日前にはプリンの髪の毛をリタッチして毛先を切りそろえてもらったし、ワンピースも新調した。そして、いよいよ明日、東京へ出発という前日の夜のことだった。

「わりばって、お母さん、したら明日一晩、頼むね」

「なぁんも。ゆづちゃんとつむちゃん泊りに来んの、じぃじがいちばん楽しみにしてらったあ」

 実家の母と通話している時だった。

「ゆづもつむも、じぃじと遊ぶって張り切ってらよ」

「夜はかっぱ寿司さ連れで行ごがなって言ってるったよ。じぃじ、張り切ってるず」

「まじ? ありがとね。ふたりとも、かっぱ寿司大好きだよ」

「だべ。ああ、して、明日は昼の十二時頃に、迎えに行ぐがらね」

 エックスを通してDMが届いた。

「あっ、お母さん、わりばって、また後でかけ直すわ」

「ええー? ちょっとまっ――」

 と母の承諾も得ずに一方的に通話を終了させ、DMを開く。ドライフラワーというアカウント名の人からだった。一瞬、誰? と首をかしげそうになりながらも、ハッとした。三日前、この人の半年前に投稿されたポストを発見して、私の方からDMを送っていたことを思い出した。

――不思議なホテルだった
  ホテル・ラ・〇ルーナ

 食い付いた私はすぐにドライフラワーさんにDMを送った。

――突然のDM失礼します
  そのホテルについて調べています
  そのホテルに行ったことがあるんですか?
  本当に存在するホテルなのでしょうか?

 返事は一時間後くらいにあった。

――行ってきました
  でも、そこに行った生者の9割は
  死者と再会した事を覚えて帰れません
  それ以上は教える事ができません
  ごめんなさい

 またすぐに返信したけれど、その後、DMが返ってくることはなかった。

 六月六日は、朝からとても良い天気だった。抜けるような青空と初夏の白い雲がとても清々しかった。午前中は結月と月紬を実家に預ける為の荷物をまとめて、お昼は三人でびっくりドンキーへ外食に出掛けた。十時半に入店して早めの昼食にした。めずらしく、結月が駄々をこねたからだ。

 いつもなら、どこでもいい、ママが決めて、つむが食べたい物でいいよ、なんて控えめで内気というか妙に物分かりが良いというか。そんな結月が「びっくりドンキーがいい。パインのハンバーグ。ぜったい、どうしても」と頑として譲らなかった。

 こんなことは本当に滅多にないことで、ちょっと驚いた。結月は口数が少ないけれど、妙に勘が鋭いところがある。だから、私が遠出することを薄々気づいたに違いない。急に夜勤になったなんて言っても騙せなかったようだ。だから、ちょっとわがままを言って、私を困らせたに違いない。両親にも職場の研修で東京に行って来ると嘘をついた。たあくんに会いに行って来るなんて、言えるはずもなく、うまい理由も思いつかなかった。

 昼の十二時を過ぎて間もなく、アパートに両親が車でふたりを迎えに来てくれた。

「じぃじー! ばぁばー!」

 私が夜勤だと信じて疑いもしない無邪気な月紬は、じぃじとばぁばの庭付き一戸建ての広い家で、走り回って遊べることに大喜びで、私と一晩離れることくらいそんなに大事ではない様子だ。

「つむちゃん、今日はかっぱ寿司さ行くどー。いっぱい食べらんしぇー」

「かっぱずしー? やったあー!」

 両手を上げて突進して行った月紬を抱きとめて、さー乗って乗って、とお父さんは紬を車に乗せながら、心配そうに私に言った。

「気を付けで行って来いよ」

「うん。分がってら」

 車内からひょっこりと顔を覗かせて、月紬が手を振った。

「ママ―! まったねえー!」

「つむ! うるさくしないんだよ、いい子にするんだよ? ああ、もう」

 分かってんのかなあ、とやきもきする私の右手を捕まえてくいっと小さく引っ張ったのは、結月だった。とてつもなく、可哀想になるほど不安そうな表情をしている。

「ママ……ちゃんと帰ってくる?」

「はあ? なに言ってらず」

 私はぷはっと吹き出して、その場にしゃがみ、結月と同じ目線になった。

「明日、帰って来るから」

 ほんと? 絶対? 何時に来るの? 朝? 昼? 夜?

 六つ連続で、マシンガンのように質問したあと、結月ははっとした様子で上目遣いになると、もじもじしながら、ぽそりとこぼすように質問をひとつ追加した。

「ママは、消えたりしないよね?」

 そして、都合が悪そうに両肩をすくめて小さくなった。ピンク色のひらひらのブラウスの裾を、小さな手でぎゅっと握り締めるその姿が、気の毒でたまらなくなる。

「ばかだなあ。消えるわけないべ」

 不安そうな結月の頭をポンと弾くと、ツインテールの毛先がピョンと弾んだ。

 ああ、そうか。

 この子の中で、たあくんは消えてしまったことになっているんだ。まるで神隠しに遭ったみたいに、日常から忽然と消えたパパ。そうなってしまっているんだ。

「そうだ、ゆづ。明日の夜ごはんは、何食べたい?」

 聞くと、結月はぱあっと笑顔になって、やっぱりちょっともじもじしながら答えた。

「おいもごろごろの、カレーライス」

 大きめに切ったじゃが芋とさつま芋がごろごろと入った甘口のカレーライス。結月の大好物だ。

「はい、分かりました。明日は、おいもごろごろのカレーライス作ります」

「やったっ」

 これまた小さなカエルみたいにぴょこんと飛び跳ねて、結月はばぁばの所へ走って行った。

「したら頼むね、お母さん。何か変わりあったらラインして」

「うん。気を付けるったよ。明日は夕方の四時頃に、送ってくるから」

「お願い」

 四人を見送ったあと、新調したワンピースに着替えた。チャコールグレー色のAラインで、ちょうちん長袖のロングワンピース。久しぶりにメイクをして、車で1時間半掛けて駅へと向かった。同封されていた新幹線の片道切符が偽物だったらとドキドキしたけれど、ちゃんと自動改札機を通過できた時はさすがにぞっとした。

 本物だ。たあくんに本当に会えるかもしれないという期待が、大きく膨らんだ。

 窓際の席だった。11号車、3番のA席。

 14時14分。新幹線は予定時刻ぴったりに、秋田駅を出発した。