老人介護施設ショートステイ夕陽の丘。
私の勤務先だ。福祉専門学校を卒業してからずっと、介護福祉士として夕日の丘で働いている。夕陽の丘は二十床の小規模な介護施設だ。スタッフは仲が良いほうだと思う。シフトも希望休もわりと融通が利く。
たあくんが亡くなった時も「現場は大丈夫だから」「お互い様だから」とシフトを変更してもらったり、落ち着くまではしばらく日勤勤務にしてもらったりと本当に救われてばかりだ。結局、手続きが山のようにあって、落ち込む暇なんてなくて、気付いたら一か月で五キロも体重が落ちた。
日勤の昼休憩中、
「千翠さん、ちゃんと食べでらす? なんか、げっそりしてらったっすよ」
後輩スタッフの溝端萌音ちゃんが隣からにゅっと手を伸ばし、はい、と私のデスクにチロルチョコを三つ置いた。定番のミルクチョコ、ビスケット、ホワイトチョコ。
「食後のデザートだすよ。どうぞ」
萌音ちゃんは日勤専門のスタッフだから、最近よく一緒の日勤ペアになる。二十三歳とまだ若いのに、とてもしっかりしていて気配り目配りできるし、機転が利く頭のいい子だ。やや濃いメイクと茶髪のひっつめ髪がトレードマーク。
「ありがとう。チロル、美味いよね」
結月も、月紬も、チロルチョコが好きでよく買ってとおねだりされる。
「種類いっぱいあって好きなんですよ。私はきなこもち推しです」
千翠さんは? と聞かれてうーんと考えていると、
「お疲れっす。オレも昼、一緒していったっすか?」
と事務所にカップラーメンを持って来たのは、介護業界で貴重な男性スタッフの佐倉潤平くんだった。今日も安定の1.5倍の特大味噌ラーメン。
「どうぞー」
「あざーす」
彼は入社してまだ三ヵ月だけれど、ギター、三味線、よさこい踊りが得意でとにかく芸達者で利用者さんたちから絶大な人気を誇る。二十二歳とスタッフ最年少で見た目も爽やかで清潔感があり、特に女性利用者さんから孫のようだと可愛がられている。カラオケの十八番はもののけ姫。
カップラーメンにポットの熱湯を注ぎ蓋をして、私たちの向かいのデスクに座り、スマホのタイマーを二分半に設定し終えてから、佐倉くんが口を開いた。
「あの、キヨさんだったっすけど」
キヨさん? と私と萌音ちゃんが同時に聞き返すと、デスクに腕を乗せて身を乗り出した佐倉くんが改まった様子で話し出した。
「オレ、先月からキヨさんの担当さなったでねっすか。ケアマネからの情報も、ここでの記録も読み漁ったっすけど。確かに歳のわりにはしっかりされでらったっすよ。だけど、さっと怪しぐねったっすか?」
とそこまで話した時、佐倉くんのスマホのタイマーがピピピと絶妙なタイミングで鳴った。
「あ、でぎだっす。いただきまーす」
ベリーッと蓋をはがし、割り箸でぐるりと勢い良くカップの中を掻き回すと、味噌と独特な香辛料の香りがぷわあんとこっちにまで漂った。
「キヨさん、さっと怪しったっすよ」
そう言って、佐倉くんはいかにも固そうな麺をズルズルとすすった。
二木キヨさんはひと月の半分を夕陽の丘で過ごしている九十七歳の女性利用者さんだ。九十七歳で腰も曲がらず、歩行器を使用してすたすたと長い廊下を歩く。小柄で細くて、ふわふわの白髪のショートヘア。若い頃はきっと凄く美人だったんだろうなと思う。ひ孫さんがプレゼントしてくれたというすみれ色のカーディガンがえらくお気に入りで、真夏以外は大概常に羽織っている。
秋田の県北独特の方言で話すのに、他の利用者さんたちとはまた少し違っていて、話し方も仕草もどことなく品がある。キヨさんはしっかりされていると思う。何なら私よりしっかりされているんじゃないかとさえ思う。
「怪しいってば? なに、認知症なんでないかってこと?」
と萌音ちゃんが聞きながら、足のつま先で床を蹴り、キャスター付きのデスクチェアを後ろに走らせて、ホールで昼食を摂るキヨさんを確かめるように見つめる。
「んだす」
佐倉くんが麺をすすりながらやけに自信ありげに頷くものだから、私もデスクチェアの背にもたれて、ひっくり返らないギリギリのポジションをキープして、ホールの様子を窺った。
「はあ? どこが怪しったよ?」
安定のキヨさんだべよ、と私が笑い飛ばして姿勢を戻すと、萌音ちゃんも「だっがら!」とキコキコと両足でデスクチェアを漕いで隣に戻って来た。
どう見ても、二木キヨさんだった。定規を当てているかのようにしゃっきりと背筋を真っ直ぐに正し、きちっとつま先両足を床に着けている。左手に茶碗を右手には箸を持ち、食べこぼす様子は微塵もなく、食べ物を確実に口に運び、しっかりと咀嚼している。
「いや、本当だっすよ。キヨさん、さっと怪しったっすよ」
と佐倉くんは自分のこめかみを人さし指でツンツンと二度突くジェスチャーをした。
「どったふうに怪しいってのよ」
いちばん最後に残しておいたプチトマトを口に放り込んで、お弁当箱に蓋をする。
「今日、キヨさん退所日なんで、午前のうちにご本人と一緒に、荷物チェックしたったんだすけど」
ハッとして一カ月の入退所予定が書き込まれているホワイトボードを見ると、五月二十日で驚いた。たあくんの葬儀を終えて復帰した日にキヨさんも入所したから、あれからもう二週間も経ったことに今ようやく気付いた。
「早っ。あど二週間経ったの?」
「ねえー、早いですよね。もうすぐ六月ですよ」
行事考えなきゃ、と萌音ちゃんがデスクに頬杖をついて、唇をつんと突き出す。本当に月日はあっという間に流れる。あと十一日で六月だ。この一カ月は葬儀だの手続きだの名義変更だのとあちこち走り回って、サインをして印鑑を押して……そんな記憶しかない。
「で、その時、恋バナになったんすよ」
佐倉くんの話に、萌音ちゃんがぷはぁっと吹き出した。
「恋バナぁ?」
「んだっすよ! オレ、彼女と喧嘩ばっかしちゃうって相談したっけっすよ、なんか話の流れで、キヨさん妙なこと語り始めだっすもんね。戦争で亡くした十七歳だった恋人と、二十歳の時に一度だけ再会したことがあるって言い出して」
戦争で亡くした恋人、って言った?
お弁当箱を黄色のバンダナで包み縛ろうとしていた手が、思わず止まってしまった。スマホをスクロールしながら話半分で佐倉くんの声に耳を傾けていた萌音ちゃんも、
「え……なにそれ。まじでキヨさんが言ったの?」
と、スマホ画面をデスクに伏せるようにして置いた。
「だがら言ったっすべ。さっと怪しいって。ああっと……何だっけ。忘れでしまったっすけど、なんか月だか太陽だかの宿から招待状が届いて? 行ったら? その恋人が居て? とか、なんかめっちゃ語って来て」
右に左に首を傾げながら佐倉くんが「なんと思うったすか?」と話題を投げて来た時、右の頬の裏側にプチトマトを含んだままだったことに気付いて、奥歯で一気に噛んだ。プチトマトの甘酸っぱい果汁がじゅわっと口内に広がった。果肉を急いで咀嚼し、一度で全部飲み込んでようやく返事をした。
「取りあえず様子見だな。でも、記録には入れといて。スタッフで共有しよう。今日入浴当番だから、私も注意深く様子見でみるね」
「分がったっす! 記録入れどぐっす」
そう言って、佐倉くんは1.5倍のカップラーメンをスープまで全部飲み干した。
「うー、しょっぺえ! 最高うめえ」
彼は東北民あるあるの塩辛い味付けが好きな、いわゆるしょっぱ口だ。昼ご飯はいつもコンビニで買って来るカップラーメン。今は若狭でカバーできているかもしれないが、生活習慣病予備軍、とか。
「でも、その話がキヨさんの妄想とか幻覚症状だとしたら、レビー小体型かなあ」
とチロルチョコを五個連続でパクパクとたいらげた萌音ちゃんはバランスの取れた食事をしない。太っていないのにいつもダイエットをしていて、昼食はコンビニのサラダのみ。でも、チロルチョコだのグミだのと気付けば間食ばかりしている。そして、食後は必ずアイコスで一服。栄養バランスが悪くて肌荒れしてるな、だとか。
仕事となればこうして誰かを観察して記録するくせに。たあくんのことはこんなふうに観察も記録することもなかった。ずっと一緒に居たのに。同じ屋根の下で一緒に生活していたのに。家族だったのに。だって、この先も一緒に生きて行くものだと、当たり前に思っていたから。たあくんが手を伸ばせば届く距離に居るのが、当たり前だったから。
でも、こんな事になってしまうなら、細かく観察して、事細かに記録でも何でもしておけばよかった。今さら後悔したって遅いのに。だってもう、たあくんは居ない。もう戻って来ない。
「あー、もうこんな時間だあ。休憩なんてあっという間」
ガシャ、とデスクチェアから萌音ちゃんが立ち上がった音でハッと我に返った。
「今日は一般浴の日ですよね。私、誘導係なんで、よろしくです。ちょっと一服でーす」
萌音ちゃんは午後の業務前に電子タバコを吸いに外に出て行った。行事予定や入退所予定が書き込まれているホワイトボードの真上の壁時計の針が十三時を指そうとしている。
「どれ、したら私もぼちぼち準備しよっかなあ」
着替えて来るね、とバンダナで包んだお弁当箱を保冷バッグにしまい、立ち上がる。
「オレはホール係なんで、何かあったらいつでも呼んでけれっす」
今日のレク何やろっかなあ、とすっからかんのカップ容器に割り箸を半分に折って入れて、コンビニの袋に詰め込み、佐倉くんが少し声のトーンを落として聞いてきた。
「千翠さん、入浴、大丈夫だすか?」
「なして? なんもだよ、全然。一般浴だし、楽勝」
一般浴の日の入浴担当はラッキーだ。ほぼ自立の利用者さんの入浴介助だし、介助といっても一部介助だし。でも、佐倉くんは神妙な面持ちで言った。
「いや、なんも。今日ちょっと顔色悪いったすよ。まじで」
「大丈夫だよ」
さんきゅー、と返事をして、入浴介助用のTシャツとハーフパンツに着替える為に、ロッカールームへ向かった。
ロッカーを開く。錆び付いてちょっとしぶい扉の内側に付いている鏡に映り込む自分の顔を見て、思いの外がっかりした。これじゃあ、佐倉くんに心配されちゃうわけだ。
「やっば」
まじで顔色悪すぎ。ハリはないしカサカサ。それをどうにかクッションファンデで隠そうとするから、ますます肌荒れしているように見える。更にコンシーラーを重ねたりチークをはたいているにも拘わらず、くまがはっきりと浮き出て見える。私まだ二十八歳なのに。二重まぶたは疲れているのか三重になっているし。唇もカサカサ。
一か月で五キロ痩せた体は、背中に羽根が生えているんじゃないかと思うほど軽くて、いつも肌寒い気がする。頬も痩せてしまった。ご飯を食べても食べても食べた感じがしないし、寝ても寝ても寝たという感覚がない。
たあくんが居なくなってから、毎日そんな感じだ。
好きなものを食べて飲んで寝ても。結月と月紬をふたり一気に強く抱きしめてみても。冷蔵庫を食材でいっぱいにしても、車のガソリンを満タンにしても。何をしても、心が満たされない。
たあくんが「その色いいじゃん」と言ってくれたグレージュに染めた髪の毛も、根元が伸びてすっかり黒くなってプリンのまま。月一で予約していた美容院ももう二か月もご無沙汰だ。二カ月前に切りっぱなしボブにしてもらった毛先も、今はまるでぺんぺん草のように四方八方に跳ねている。
一ヵ月で五キロ痩せようが、一ヵ月睡眠不足だろうが、人間という生き物は案外倒れないという事を知った。意外と強く出来ている。容易く体調は崩れないし、人が思うほど人はひ弱でも軟弱でもない。思いの外柔軟に作られていて、打たれ強い。
それなのに。たあくんはあんなに頑張っていたのに、どうしてあっさりと死んでしまったのだろう。たあくんの死を実感したのは、火葬場で点火スイッチを押したあの瞬間だった。儚い、脆い、あっけない。人間はこんな簡単に死んでしまう虚しい生き物だったんだと思ったけど。単に私が他の人より飛び抜けて強いだけなのだろうか。
私の勤務先だ。福祉専門学校を卒業してからずっと、介護福祉士として夕日の丘で働いている。夕陽の丘は二十床の小規模な介護施設だ。スタッフは仲が良いほうだと思う。シフトも希望休もわりと融通が利く。
たあくんが亡くなった時も「現場は大丈夫だから」「お互い様だから」とシフトを変更してもらったり、落ち着くまではしばらく日勤勤務にしてもらったりと本当に救われてばかりだ。結局、手続きが山のようにあって、落ち込む暇なんてなくて、気付いたら一か月で五キロも体重が落ちた。
日勤の昼休憩中、
「千翠さん、ちゃんと食べでらす? なんか、げっそりしてらったっすよ」
後輩スタッフの溝端萌音ちゃんが隣からにゅっと手を伸ばし、はい、と私のデスクにチロルチョコを三つ置いた。定番のミルクチョコ、ビスケット、ホワイトチョコ。
「食後のデザートだすよ。どうぞ」
萌音ちゃんは日勤専門のスタッフだから、最近よく一緒の日勤ペアになる。二十三歳とまだ若いのに、とてもしっかりしていて気配り目配りできるし、機転が利く頭のいい子だ。やや濃いメイクと茶髪のひっつめ髪がトレードマーク。
「ありがとう。チロル、美味いよね」
結月も、月紬も、チロルチョコが好きでよく買ってとおねだりされる。
「種類いっぱいあって好きなんですよ。私はきなこもち推しです」
千翠さんは? と聞かれてうーんと考えていると、
「お疲れっす。オレも昼、一緒していったっすか?」
と事務所にカップラーメンを持って来たのは、介護業界で貴重な男性スタッフの佐倉潤平くんだった。今日も安定の1.5倍の特大味噌ラーメン。
「どうぞー」
「あざーす」
彼は入社してまだ三ヵ月だけれど、ギター、三味線、よさこい踊りが得意でとにかく芸達者で利用者さんたちから絶大な人気を誇る。二十二歳とスタッフ最年少で見た目も爽やかで清潔感があり、特に女性利用者さんから孫のようだと可愛がられている。カラオケの十八番はもののけ姫。
カップラーメンにポットの熱湯を注ぎ蓋をして、私たちの向かいのデスクに座り、スマホのタイマーを二分半に設定し終えてから、佐倉くんが口を開いた。
「あの、キヨさんだったっすけど」
キヨさん? と私と萌音ちゃんが同時に聞き返すと、デスクに腕を乗せて身を乗り出した佐倉くんが改まった様子で話し出した。
「オレ、先月からキヨさんの担当さなったでねっすか。ケアマネからの情報も、ここでの記録も読み漁ったっすけど。確かに歳のわりにはしっかりされでらったっすよ。だけど、さっと怪しぐねったっすか?」
とそこまで話した時、佐倉くんのスマホのタイマーがピピピと絶妙なタイミングで鳴った。
「あ、でぎだっす。いただきまーす」
ベリーッと蓋をはがし、割り箸でぐるりと勢い良くカップの中を掻き回すと、味噌と独特な香辛料の香りがぷわあんとこっちにまで漂った。
「キヨさん、さっと怪しったっすよ」
そう言って、佐倉くんはいかにも固そうな麺をズルズルとすすった。
二木キヨさんはひと月の半分を夕陽の丘で過ごしている九十七歳の女性利用者さんだ。九十七歳で腰も曲がらず、歩行器を使用してすたすたと長い廊下を歩く。小柄で細くて、ふわふわの白髪のショートヘア。若い頃はきっと凄く美人だったんだろうなと思う。ひ孫さんがプレゼントしてくれたというすみれ色のカーディガンがえらくお気に入りで、真夏以外は大概常に羽織っている。
秋田の県北独特の方言で話すのに、他の利用者さんたちとはまた少し違っていて、話し方も仕草もどことなく品がある。キヨさんはしっかりされていると思う。何なら私よりしっかりされているんじゃないかとさえ思う。
「怪しいってば? なに、認知症なんでないかってこと?」
と萌音ちゃんが聞きながら、足のつま先で床を蹴り、キャスター付きのデスクチェアを後ろに走らせて、ホールで昼食を摂るキヨさんを確かめるように見つめる。
「んだす」
佐倉くんが麺をすすりながらやけに自信ありげに頷くものだから、私もデスクチェアの背にもたれて、ひっくり返らないギリギリのポジションをキープして、ホールの様子を窺った。
「はあ? どこが怪しったよ?」
安定のキヨさんだべよ、と私が笑い飛ばして姿勢を戻すと、萌音ちゃんも「だっがら!」とキコキコと両足でデスクチェアを漕いで隣に戻って来た。
どう見ても、二木キヨさんだった。定規を当てているかのようにしゃっきりと背筋を真っ直ぐに正し、きちっとつま先両足を床に着けている。左手に茶碗を右手には箸を持ち、食べこぼす様子は微塵もなく、食べ物を確実に口に運び、しっかりと咀嚼している。
「いや、本当だっすよ。キヨさん、さっと怪しったっすよ」
と佐倉くんは自分のこめかみを人さし指でツンツンと二度突くジェスチャーをした。
「どったふうに怪しいってのよ」
いちばん最後に残しておいたプチトマトを口に放り込んで、お弁当箱に蓋をする。
「今日、キヨさん退所日なんで、午前のうちにご本人と一緒に、荷物チェックしたったんだすけど」
ハッとして一カ月の入退所予定が書き込まれているホワイトボードを見ると、五月二十日で驚いた。たあくんの葬儀を終えて復帰した日にキヨさんも入所したから、あれからもう二週間も経ったことに今ようやく気付いた。
「早っ。あど二週間経ったの?」
「ねえー、早いですよね。もうすぐ六月ですよ」
行事考えなきゃ、と萌音ちゃんがデスクに頬杖をついて、唇をつんと突き出す。本当に月日はあっという間に流れる。あと十一日で六月だ。この一カ月は葬儀だの手続きだの名義変更だのとあちこち走り回って、サインをして印鑑を押して……そんな記憶しかない。
「で、その時、恋バナになったんすよ」
佐倉くんの話に、萌音ちゃんがぷはぁっと吹き出した。
「恋バナぁ?」
「んだっすよ! オレ、彼女と喧嘩ばっかしちゃうって相談したっけっすよ、なんか話の流れで、キヨさん妙なこと語り始めだっすもんね。戦争で亡くした十七歳だった恋人と、二十歳の時に一度だけ再会したことがあるって言い出して」
戦争で亡くした恋人、って言った?
お弁当箱を黄色のバンダナで包み縛ろうとしていた手が、思わず止まってしまった。スマホをスクロールしながら話半分で佐倉くんの声に耳を傾けていた萌音ちゃんも、
「え……なにそれ。まじでキヨさんが言ったの?」
と、スマホ画面をデスクに伏せるようにして置いた。
「だがら言ったっすべ。さっと怪しいって。ああっと……何だっけ。忘れでしまったっすけど、なんか月だか太陽だかの宿から招待状が届いて? 行ったら? その恋人が居て? とか、なんかめっちゃ語って来て」
右に左に首を傾げながら佐倉くんが「なんと思うったすか?」と話題を投げて来た時、右の頬の裏側にプチトマトを含んだままだったことに気付いて、奥歯で一気に噛んだ。プチトマトの甘酸っぱい果汁がじゅわっと口内に広がった。果肉を急いで咀嚼し、一度で全部飲み込んでようやく返事をした。
「取りあえず様子見だな。でも、記録には入れといて。スタッフで共有しよう。今日入浴当番だから、私も注意深く様子見でみるね」
「分がったっす! 記録入れどぐっす」
そう言って、佐倉くんは1.5倍のカップラーメンをスープまで全部飲み干した。
「うー、しょっぺえ! 最高うめえ」
彼は東北民あるあるの塩辛い味付けが好きな、いわゆるしょっぱ口だ。昼ご飯はいつもコンビニで買って来るカップラーメン。今は若狭でカバーできているかもしれないが、生活習慣病予備軍、とか。
「でも、その話がキヨさんの妄想とか幻覚症状だとしたら、レビー小体型かなあ」
とチロルチョコを五個連続でパクパクとたいらげた萌音ちゃんはバランスの取れた食事をしない。太っていないのにいつもダイエットをしていて、昼食はコンビニのサラダのみ。でも、チロルチョコだのグミだのと気付けば間食ばかりしている。そして、食後は必ずアイコスで一服。栄養バランスが悪くて肌荒れしてるな、だとか。
仕事となればこうして誰かを観察して記録するくせに。たあくんのことはこんなふうに観察も記録することもなかった。ずっと一緒に居たのに。同じ屋根の下で一緒に生活していたのに。家族だったのに。だって、この先も一緒に生きて行くものだと、当たり前に思っていたから。たあくんが手を伸ばせば届く距離に居るのが、当たり前だったから。
でも、こんな事になってしまうなら、細かく観察して、事細かに記録でも何でもしておけばよかった。今さら後悔したって遅いのに。だってもう、たあくんは居ない。もう戻って来ない。
「あー、もうこんな時間だあ。休憩なんてあっという間」
ガシャ、とデスクチェアから萌音ちゃんが立ち上がった音でハッと我に返った。
「今日は一般浴の日ですよね。私、誘導係なんで、よろしくです。ちょっと一服でーす」
萌音ちゃんは午後の業務前に電子タバコを吸いに外に出て行った。行事予定や入退所予定が書き込まれているホワイトボードの真上の壁時計の針が十三時を指そうとしている。
「どれ、したら私もぼちぼち準備しよっかなあ」
着替えて来るね、とバンダナで包んだお弁当箱を保冷バッグにしまい、立ち上がる。
「オレはホール係なんで、何かあったらいつでも呼んでけれっす」
今日のレク何やろっかなあ、とすっからかんのカップ容器に割り箸を半分に折って入れて、コンビニの袋に詰め込み、佐倉くんが少し声のトーンを落として聞いてきた。
「千翠さん、入浴、大丈夫だすか?」
「なして? なんもだよ、全然。一般浴だし、楽勝」
一般浴の日の入浴担当はラッキーだ。ほぼ自立の利用者さんの入浴介助だし、介助といっても一部介助だし。でも、佐倉くんは神妙な面持ちで言った。
「いや、なんも。今日ちょっと顔色悪いったすよ。まじで」
「大丈夫だよ」
さんきゅー、と返事をして、入浴介助用のTシャツとハーフパンツに着替える為に、ロッカールームへ向かった。
ロッカーを開く。錆び付いてちょっとしぶい扉の内側に付いている鏡に映り込む自分の顔を見て、思いの外がっかりした。これじゃあ、佐倉くんに心配されちゃうわけだ。
「やっば」
まじで顔色悪すぎ。ハリはないしカサカサ。それをどうにかクッションファンデで隠そうとするから、ますます肌荒れしているように見える。更にコンシーラーを重ねたりチークをはたいているにも拘わらず、くまがはっきりと浮き出て見える。私まだ二十八歳なのに。二重まぶたは疲れているのか三重になっているし。唇もカサカサ。
一か月で五キロ痩せた体は、背中に羽根が生えているんじゃないかと思うほど軽くて、いつも肌寒い気がする。頬も痩せてしまった。ご飯を食べても食べても食べた感じがしないし、寝ても寝ても寝たという感覚がない。
たあくんが居なくなってから、毎日そんな感じだ。
好きなものを食べて飲んで寝ても。結月と月紬をふたり一気に強く抱きしめてみても。冷蔵庫を食材でいっぱいにしても、車のガソリンを満タンにしても。何をしても、心が満たされない。
たあくんが「その色いいじゃん」と言ってくれたグレージュに染めた髪の毛も、根元が伸びてすっかり黒くなってプリンのまま。月一で予約していた美容院ももう二か月もご無沙汰だ。二カ月前に切りっぱなしボブにしてもらった毛先も、今はまるでぺんぺん草のように四方八方に跳ねている。
一ヵ月で五キロ痩せようが、一ヵ月睡眠不足だろうが、人間という生き物は案外倒れないという事を知った。意外と強く出来ている。容易く体調は崩れないし、人が思うほど人はひ弱でも軟弱でもない。思いの外柔軟に作られていて、打たれ強い。
それなのに。たあくんはあんなに頑張っていたのに、どうしてあっさりと死んでしまったのだろう。たあくんの死を実感したのは、火葬場で点火スイッチを押したあの瞬間だった。儚い、脆い、あっけない。人間はこんな簡単に死んでしまう虚しい生き物だったんだと思ったけど。単に私が他の人より飛び抜けて強いだけなのだろうか。

