富沢正春(とみざわまさはる)様」

 オオルリが鳴くような美しい声に顔を上げれば、甘い花の香りと共に足音もなくやって来たのは、月陽殿だった。

「ああ、ひと月振りかな、月陽殿」

 八十年もの間、彼女とは幾度と顔を合わせているが、本当に美しい。年はとらないし、しわひとつ見当たらない。小ぶりな唇には赤い紅を差し、長い黒髪をひとつに束ね上げ、白く細いうなじには後れ毛が揺れる。

 細くてポキリと折れそうな体型に、牛の乳のように真っ白な肌。何よりも目を引くのは、その切れ長の目の奥に輝く、青い瞳だ。私が戦闘機で出撃したあの日の青空よりも色濃く青く、言葉にできないほどに美しい。

 そして、いつも月陽殿が身にまとっている黒く絹のような衣は、どれす、という着物らしい。先々月あたりだった。この吊り橋を渡れず弾かれた小柄な女性が教えてくれた。彼女は見た目は可憐でかわいい感じなのだが、どうもおっちょこちょいで、危なっかしくて、放っておけないような人だった。

 最近の日本の結婚式では女性は白無垢の他に、うえでんぐどれす、という純白のどれすなる衣を纏うらしい。そして、時代は昭和から平成、今は令和という年号になったこともぺちゃくちゃと人懐こく話し、月陽殿の宿へ向かって行ったのだが。

「じきに新月の夜が明けます」

 月陽殿の一歩後ろをついて来た消防士の青年を見て、私はほっと胸を撫で下ろした。

「そうか。後悔と愛を、きちんと伝えることができたのだな」

 青年を一目見た瞬間に、そう感じた。先月、この吊り橋を渡って行った野球好きの学生もそうだった。

 七日も掛けてようやくここへ辿り着けたというのに、吊り橋を渡る事も叶わず、不安、後悔、困惑、絶望、恐怖、全ての負の感情がごちゃ混ぜになった表情で、月陽殿の宿へ向かって行ったが。戻って来れば彼らは憑き物が取れたように非常に安堵に満ちた表情になっているのだ。

「はい。先日は、ありがとうございました」

 死人にこのような表現を使うのはおかしいのかもしれないのだが、その表情は晴れ晴れとしていて、覚悟のようなものを持ち、清々しささえ感じられる。

「いや、私は何もしていない。ただ、宿を教えただけだ」

「教えてもらえたおかげで、妻に会って想いを伝えることができました」

「そうか。では、これから逝くのか」

 青年はしっかりとうなずいた。

「はい。これからこの吊り橋を渡り、自ら命を絶ってしまったことを償います」

 ありがとうございました、と一礼した彼に、月陽殿が差し出したのは、一輪の白い百合の花だった。

「森本佑様、こちらをお持ちになってください。この先の道中は暗く険しいと聞いております。運悪く死神に捕まってしまうと、生まれ変わることができなくなります。この花が道しるべとなり、魂をお守りくださるよう、祈りを込めておきました」

「ありがとうございます。何から何まで、本当にお世話になりました」

 と森本青年は一輪の白百合を受け取ると、私を真っ直ぐに見つめてきた。

「あの、最後にひとつだけ聞いてもいいですか? あの、とみ……えっと」

 その困った様子をみると、私の名前を知りたいのかもしれないと察して、教えてやった。

「私は富沢だ。富沢正春だ」

「あ、富沢さんは……逝けないのですか? 逝かないのですか?」

 どうやら心配してくれているらしい。ありがたいと思う。また誰かにこうして気にかけてもらえるとは思ってもいなかった。私は小さく笑ってしまった。

「私の事は気にするな。大丈夫だ。じきに私も逝くのだ。その日をこうして、待ちわびているところなのだ」

 そして、その日はそう遠くはないだろう。

「さあ、逝くといい。またどこかで会えたら、その時は酒でも飲みかわそう」

「はい。じゃあ、一足お先に、逝きます」

 そう言うと、森本青年は、両足の踵をぴたりとくっとけて、敬礼をした。澄んだ瞳で私を見つめ、右肘はほぼ肩の高さまで上げ、親指は人さし指につけ、手のひらを少しばかり外に向ける。そして、人さし指と中指を、右のこめかみの辺りに軽く当てた。

「なるほど。きれいな敬礼だな。合格だ」

 私も敬礼を返して笑うと、森本青年は「消防士なので」と無垢な笑顔を残して、もう一度だけ我々に深々と一礼して、吊り橋を渡って逝った。

「月陽殿、教えて欲しいのだが」

「はい。お答えできることであれば」

 コマドリのさえずりのように麗しい声で言い、月陽殿は赤い唇の口角を上げ、妖異なほど美しく微笑んだ。

「なぜ、白百合なのだろう。弾かれ者が再びここを訪れ、吊り橋を渡る時、月陽殿は白百合を持たせて見送るが、それはなぜなのか聞きたい」

「白い百合の花には再生という花言葉があるのをご存じですか?」

「いや、知らない。そういう類のことには疎いのだ」

 と苦笑いする私に、月陽殿は丁寧に説明してくれた。

「現世で白百合は純潔、清らかさ、再生という意味を持つのだそうです。ですが、白百合を一輪だけ贈る場合、死者に捧げる花という意味を持つのだとか」

「なるほど」

「ですが、自死なされた方々は大罪者ですので、そう簡単に生まれ変われることが出来ません。そして、長きにわたり、耐えなければ魂は浄化されないのです」

 何に耐えなければならないかと聞かれても、私には答えることが出来ませんが、と月陽殿は淡々とした口調で続けた。

「その長い道のりの間にも挫折して、自ら死神に魂を渡してしまう者も少なくないと聞きます。吊り橋を渡れず、私の所へ辿り着いてくださったのもまたご縁です。見送る時はお守り代わりに、こうして一輪の白百合をお渡ししているのです」

 故人様の魂が苦難の呪縛から解かれ、安らかに天へと昇り、一日でも早く再生できることを祈って。

 そう添えて、月陽殿はつやつやと黒く光る衣の裾をひらりとひるがえして、踵を返した。

「月陽殿」

 私は腹の底から出した声で、彼女の白く華奢な背中を呼び止めた。次、月陽殿に会ったら必ず聞こうと心に決めていた。忘れずに聞こうと決めていた。

「はい」

 月陽殿は私に背を向けたまま、小さな顔を少しばかりこちらに向けた。その表情は見えないが、長いまつ毛が上下に動く。

「おそらくもう二月(ふたつき)も前のことだ。私は、小柄で髪の毛の短い、どこか間の抜けた、人懐こく可愛らしい女性に、月陽殿の宿へ行くよう諭した」

「ええ、存じ上げております」

 またどこからともなく甘い花の香りが漂ってきて、月陽殿の束ねあげた髪の後れ毛を揺らした。

「彼女はどうしている。ここへ戻って来ないのだが」

 先ほどの森本消防士も、野球が好きな学生も、新月の夜が明ける前に月陽殿と一緒に此処へ戻り、そして、一輪の白百合を片手に吊り橋を渡って逝ったというのに。

「もしや、彼女の魂は――」

「気掛かりでございますか?」

「ああ、そうだな。気掛かりだ。教えてはもらえ」

「富沢正春様」

 カナリアの音色のように美しい声が、私の声をかき消した。

「地縛霊となることもなく、この長き時をよく耐え抜かれましたね。富沢正春様にも、逝く時が訪れたようです」

「どういうことだ」

 一拍あってから、月陽殿が言った。

「ちょうど七日前の明け方でした。二木(ふたつぎ)キヨ様がお亡くなりになりました。二日後の三日月の夜、二木キヨ様が、この吊り橋をお渡りになられます。その時に、全てお話致します」

 富沢正春様が気掛かりだとおっしゃる彼女のことも、その時に全て明らかになります。そう言って、月陽殿は闇の中に吸い込まれるように、姿を消した。

 フタツギ、なんていうものだから、一瞬首をかしげてしまいそうになったが、間もなく理解した。

「そうか」

 キヨは約束通り幸せに暮らし、その生涯を全うできたのだ、と。私の死は無駄ではなかったようだ。きっと、そうだ。あの戦争から、キヨの命を守ることができたのだ。

「やっと、キヨに会えるのだな……」