真っ白なブラインドの隙間から濃いオレンジ色の西日が差し込んきて、そのまばゆさにハッとした。

「……えっ?」

 数回、ぱちくりと瞬きをして、周囲をぐるりと一周見渡す。見慣れた寝室のクローゼットの前に立ち、何していたんだっけ、と首をかしげた。

 寝室はたっぷりの西日で暖かい色に包まれていた。ベッドサイドのデジタル時計は6月6日、土曜日、15時55分を表示していた。

「……あ、あぁ」

 そうだ。今日は休みだった。今日は仕事が休みで……と朝からの自分の行動を思い起こそうとしているのだけれど、どうしてなのか、ぼんやりとしか思い出せない。どうして寝室のクローゼットの前に立っているのかさえ良く分からない。もう一度首をかしげて、腕を組もうとしたところで、気付いた。右手に握っていたのはメモ書き。なんだっけ、と目を落とす。

1 労災認定の申し立てを取り下げること
2 幸せであること
3 寝室のクローゼットの棚の缶 1010

「あ……あぁ! んだ」

 そろそろクローゼットの中のたあくんの衣類を整理しようと思ってまとめていたら、亡くなった時に身に着けていたヴィンテージのジーンズのポケットから、このメモ書きが出て来て、クローゼットの棚を確認しに来たことをぼんやりと思い出した。

 佐倉くんからも、介護主任からも言われたくらいだし、私やっぱり疲れてるのかな。なんだか思考回路が不透明だ。泣いたりもしていないのに、例えば一晩中泣き明かした後のように頭がぼんやりして、目と頭が重い。

 リビングから椅子を運んで来て、クローゼットの棚を確認すると、確かに右の片隅に缶があった。引っ張り出し、椅子を下りてフローリングに座り込む。クッキーやチョコレートが入っていたのだろう。お菓子がプリントされた缶は所々色褪せて、少し錆び付いている蓋を開くと、中には通帳、キャッシュカード、印鑑が入っていた。

 通帳をパラパラとめくり、驚いた。きっと、消防士の仕事に就いて初めてのお給料からずっと、十年にわたってずっと、コツコツと貯金していたのだろう。毎月、給料日の日付でお金を入れている。ボーナスもその都度、おそらくほとんど手を付けずに入れていたのだと思う。毎月の月初めには数千円から数万円ずつ入っていて、きっと、お小遣いが余った分もコツコツと地道に貯めていたようだ。毎月、やりくりするお金を私に渡し、自分は贅沢はせず、貯金していたのかと思うと本当に切なくなった。この田舎で、四人で暮らせるくらいの小さな家なら一軒購入できるくらいの金額が入っていた。

 もしかしたら、マイホームを購入しようとしていたのかもしれないし、ワンボックスの車でも購入しようとしていたのかもしれない。たあくんが居なくなってしまった今、確かめることはもうできないのだけれど。

 暗証番号の四桁を見て、たあくんらしいなあと思う。キャッシュカードの暗証番後は、1010。たあくんが私に告白してくれた日付だった。

 ブラインドの隙間から差し込む西日がより一層色濃くなった。太陽がまた少し傾いたらしい。ふわふわと漂ってきた野菜やスパイスの香りでハッと我に返る。

「……やっば!」

 本当に今日の私はどうかしている。

 そうだ、そうだ、とカレーを煮込んでいたことを思い出した。

 たまにはひとりでゆっくり過ごす休みも必要だろうと、気遣ってくれた実家の両親が結月と月紬を動物園に連れて行ってくれたことも、思い出す。そして、缶に蓋をしてひとまずクローゼットの棚に戻した。

 出掛けて行く間際、めずらしく結月から夕食のリクエストがあったのだ。おいもごろごろのカレーライスがいい、と。

「焦げる、焦げる!」

 パタパタとキッチンへ駆けて行き、コンロの火を止めた時、テーブルの上でスマホがブーブーと震えた。母からの電話だった。

「あ、千翠? もうすぐ着ぐったよ。ふたりともいい子だったよ」

 とは言いつつ、小さい子供ふたりを連れて動物園は疲れたのだろう、声がいつもより明らかにへばっているように感じた。思わず「そっか、大変だったね」と笑ってしまった。「なんもだってー」と言い張る母の背後で、きゃあきゃあとはしゃぐふたりの声が聞こえる。今夜もまたにぎやかになりそうだ。

「あ、着いだよ。アパートの前さ停まってるがら」

「うん、ありがとね。あ、今外出るがら、待ってで」

 通話を終了させて、玄関のドアを勢い良く開いて、一歩外に足を踏み出した瞬間、その眩しさにとっさに目を細めた。世界が濃いオレンジ色に染まっている。

 車のドアが開く音がした。夕焼け色を跳ね返して輝く車から、小さなシルエットが順番に飛び出し、アスファルトに着地するのが見える。燃えるような夕焼けを背に、その小さなふたつの影は真っ直ぐに、私に向かって走って来る。

「ママ―! ただいまあー!」

 燃えるような光に目を細める。結月がツインテールの毛先をぴょんぴょん弾ませて駆けて来る。

「ママー!」

 そのすぐ後ろを、おかっぱ頭の月紬が必死に走って来る。

 私は夕焼けに目を細めたまま、ふたりを受け止めようとしてその場にしゃがみ、両手を広げた次の瞬間だった。

「あっ!」

 と私の声と、

「あーっ!」

 母の甲高い悲鳴のような声が重なって、夕焼け色の空に吸い込まれていった。月紬が躓いて盛大に正面から転んでしまったのだ。転んだ音に瞬時に気付いた結月が立ち止まり振り向いた。

「あああ! つむー!」

 そして、一目散に月紬に駆け寄り引っ張り起した。めそめそし始めた月紬の膝小僧についた小石や砂を払い落として、結月は言った。

「よし! しゅっけつなし! だいじょうぶ!」

 そして、おかっぱ頭を小さな手でわしわしと撫でる。

「えらいね、つむ、泣かないよ」

 そう言って。

 そんな結月の小さな背中に、ふと、たあくんの姿が重なって見えるような気がした。たあくんに、そっくり。こんなふうに結月や月紬が遊んでいる時に転ぶと、たあくんはふたりが泣いちゃう前に駆け寄って、「ようし! 出血なし! 大丈夫! 安全確保!」なんて、よく言って敬礼していた。すると、ふたりともなぜかすごく喜んで、転んだ痛みなんか忘れたみたいに、敬礼を返していたっけ。それで、最後は必ず、たあくんは小さな頭をわしわしと撫でて言っていた。

「えらいな、泣かないよ」

 そんないつかのたあくんが、結月の後姿に滲んで見えた。

 横隔膜の辺りから込み上げてきた感情に歯を喰いしばって、もれそうになる声を必死に抑える。けれど、どうしても目の奥が熱くなって、涙が滲んでしまう。

 蝋燭に小さな火は灯るように、胸の辺りがぽうっと温かく感じた。

「つむ、大丈夫だよね? ゆづと一緒に行こう」

「うん」

「えらいね。つむは強い子ね」

 結月は小さな手で月紬の右手をしっかりと握り、手を繋ぐと、ふたり横並びになって再び私に向かって駆け出した。

「ママ―!」

「ママ―! おかえりー!」

「ちがうよ、つむ! ただいまでしょ!」

「たらいまー!」

 ああ。

 私、きっと、どうかしていた。

 たあくんが居なくなって、何もかも失ってしまったような気持ちになっていた。全部、何もかも、失ってしまったんだって。

「ママ―、ただいまあ!」

「たらいまあー!」

 駆けて来たふたりが同時に胸に飛び込んで来る。私は小さなふたりをむしるように両腕で抱き寄せて、力いっぱい抱き締めた。

「おかえりっ……」

 結月も月紬も、どこかに寝ころんだのかもしれない。おひさまをたっぷり浴びた、干し草のような匂いがする。ふたりを胸に抱きしめ、深く、深く、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

 私の心はたあくんが居なくなったあの日から、空っぽになってしまっていた。どんなに水を注いでもいっぱいにならない、底が抜けたコップのように、空洞だった。だけど、ふたりを胸に抱きしめた瞬間から、どんどん満たされていく。

 あの日からぽっかりと空いていた心が、一気に、愛おしい気持ちで満たされていく。

「おかえり……ゆづ、つむ」

 もう一度、ぎゅうっとふたりを抱きすくめた時だった。

「ママ?」

 結月が大粒の瞳をくるくると輝かせて、不思議そうな表情で私をじっと見上げて、首をかしげた。

「ママ、パパに会って来たの?」

「……え?」

 この子、なに言い出すんだろう、と結月を見つめ返しながら息を飲みこんだ。たあくんにはもう会えるわけがないのだ。どう返事をすればいいのか悩みながら「なんで?」と聞いてみると、結月は私の服の胸元をつかむと子犬のように鼻を近付け、スンスンと嗅いで瞳を潤ませた。

「ママ……パパの匂いがする」

 その表情はあっという間に歪んでいった。結月の目にたっぷりの涙の膜が張り、一気に大きく膨らむ。でも、結月は泣いちゃいけないと思っているのか、涙がこぼれ落ちないように瞬きを堪え、下唇をつんと突き出して、必死に我慢している。でも、それも時間の問題だった。

「パパに会いたいよう……」

 結月が震える声でそう言ったのとほとんど同時に涙の膜は破れて、ぽろぽろとこぼれだした。

 たあくんが亡くなってから、結月が、やっと泣いた。ひぃーやぁーと声を上げて泣いた。ずっと、我慢していたのだろう。この小さな体で必死に悲しみと寂しさに耐えていたに違いない。姉が泣くと、妹はもっと泣いた。小さな怪獣のようにぎゃおぎゃお泣いた。

「ゆづ、パパに会いたいよう……パパ、どごさ行ったのぉー」

「つむもパパに会いたいぃ」

 わんわん泣き叫ぶふたりを胸に抱きしめて、私も声を上げて泣いた。不思議なことに、泣けば泣くほど心は満たされていった。満たされて、満たされて、心のコップはいつしか満タンになって、ついにはあふれてしまった。

「ゆづ、つむ」

 会えるよ、と私が言うと、ふたりは同時に弾かれように泣きっ面を上げた。

「パパはさ、ママの心の中にいるったよ。んだがら……いつでも会えるったよ。だがら、パパの匂いするったよ、きっと」

 さよならじゃない。

 たあくんは居なくなってしまった。その事実は変わらないし、時間を戻すことだってできない。でも、たあくんは私の記憶の中にぬくもりになって、存在し続けるんだと思う。

 そして、いつしか、結月と月紬の中でずっと息をし続けていくのだと思う。

 さよならなんかじゃない。

 だって、家族なんだから。たあくんの血は、結月と月紬の中にしっかりと流れているのだから。きっとこれから先もずっと、目には見えない絆で、私たちは繋がっている。そう信じている。だから、私は、ふたりが帰りたいと思える場所になろうと思う。

 辛くて、苦しくて、逃げ出したい時に、帰りたいと思える場所になろうと思う。

 夕焼けに染まる世界の片隅で、私はふたつの確かなぬくもりを抱き締める。

 ここにいたんだね。

 たあくん。

「お帰りなさい」