「結月と月紬、なんとしてらった? 元気だず?」

 たあくんに聞かれて、うなずいた。

「元気にしてらよ。あ、んだ。今朝撮った動画あるったけど、見る?」

 とバッグからスマホを取り出し、画面を開いてドキっとした。午前二時二十五分。もうこんな時間。タイムリミットまであと三十五分しかない。時間がない。愕然としてフリーズする私の顔を、たあくんが覗き込んできた。

「見でもいいの?」

 聞かれて、小さく噴き出しながら画面をタップした。

「いいのって……たあくんの娘だよ。見で良いに決まってるべ」

「あ、そっか。んだよな。俺ど千翠の子だった」

「なに言ってらず。あ、ほらこれ、見で」

 再生するや否や、結月の声がわあっと室内に広がった。

「ママ! つむがトマトもいじゃった!」

「え、まじか!」

 動画はアスファルトの上を通り、アパートの駐車場横にある横長のプランターと、その前にちんまりとしゃがみ込む月紬の後姿を捕らえた。白いTシャツに、赤いショートパンツに、ぱっつりと切り揃えられたおかっぱ頭。

「ママ、こっち!」

 ツインテールの毛先を弾ませて、Tシャツに黄色のショートパンツの結月がプランターに向かって駆けて行く。

「ママ、早く来て! 見て、ほら」

 と、結月がプランターの中に手を伸ばした。そして、綺麗な翡翠色のプチトマトを摘み、こちらに見せてくる。クスクスと笑い声が入っていて、それは自分の声だった。私、この時、笑っていたんだなと初めて知った。

 そして、カメラはプランターの中を映す。その画面ににゅっと入り込んできたのは、おかっぱ頭の月紬のドアップだった。

「ああー、トマトさんまだ赤くなってないのになあ」

 私の声に、月紬は全力でヤバい! という表情になり、慌てて土の中に青々としたプチトマトをぐいぐいと押し込んだ。ああー……、と全力の残念が込められた結月の声が横から入って来る。

「大丈夫、ねぇね、つむさ、おっきくなったらさ、バタコさんになるからさ、そしたら、ねぇねにトマトたくさん作ってあげるから」

「バタコさん? アンパンマンのバタコさん?」

 結月が首をこてんと傾げると、月紬がこくんとうなずいた。

「ええー……バタコさんはパン作る人じゃん。トマトじゃないじゃん」

 がっくりと両肩を落としたトマト大好き結月と、え! なんでなんで? とまた安定のなんでなんで星人の月紬を映して、動画は停止した。

「朝からこんな感じ。結月が大切に育でてらったのに、プチトマトは本日を持ちまして、赤くなる前に全滅」

 スマホを覗き込んでいたたあくんが肩を上下させて笑う。

「まじか。つむらしいな。かわいい」

「かわいい?」

 首をかしげた自分にハッとしていると、たあくんがきょとんとして私と同じ方向に首をかしげる。

「え? なして? かわいぐね?」

 すぐに反応することができなかった。うなずくでも首を振るわけでもなく、ただうつむいた私に、たあくんの方からそれ以上声を掛けて来ることはなかった。私が打ち明ける準備が整うのを、たあくんは待ってくれたのだと思う。

「実はさ」

 顔を上げると、たあくんはこくりとうなずいて、微笑んだ。ちょっとだけ泣きそうになったけれど、なんとか涙を飲み込んだ。

「たあくんがいなくなって、その瞬間から、なんか……張りつめてた線がプツって、切れるみたいに、そういうふうに思えねぐなったず」

 うん、それで、とたあくんがうなずく。

「ゆづもつむも、私の大切な宝物に変わりはねったよ。したばって、かわいいって思えねぐなっちゃった」

 大好きなたあくんと私の子供たちにで、大切な大切な宝物に変わりはないのに。どうしても、かわいいと思えなくなってしまった。

「母親、失格だよね」

 はは、と笑って濁すと、たあくんは私の頭をぽんぽんと優しく撫でながら、微笑んで「大丈夫だよ」と言った。

「大丈夫。親子だがら。ちゃんと繋がってるんだがら。大丈夫だよ」

 ぽんぽんと撫でられて、ぽろぽろと涙があふれて止まらなくなった。

「私、また、あの子たちのごど、かわいいって思えるようになる?」

 泣きじゃくる私をなだめながら、たあくんは言った。

「覚えでら? ふたりの名前、すっげえ悩んで考えだよな」

 人と運を結んで幸せになるように、結ぶに月で、結月。人との繋がりを大切にして幸せになるように、月に紬で、月紬。

「誰よりも幸せになって欲しいよなって。それなのに、父親の俺がこった情げないごどして、千翠にばっか苦労かげるったけど。何もかも嫌になって、全部投げ出しってぐなるかもしれねったけど」

 そうだね。そうだった。名前、すっごい悩んで、時には喧嘩に発展したことだってある。それでも、ふたりで話し合って、ふたりで名付けた。

「それでも、千翠は、あいつらの帰る場所でいでやってよ」

「……え?」

 きっと情けない泣き顔のまま頭を上げると、たあくんが困った顔で私の頬を伝う涙を親指で拭った。

「ゆづとつむは、これがらたくさん楽しい事を経験するど思うった。したけど、絶対、辛い事の方が多いはずだがら。辛くて苦しい経験するんだがら。そんな時、ふたりが帰りたいと思える場所でいでやってよ。俺が、そうだったみだいに」

 ふと、ふたりのあの無邪気な笑顔が思い浮かぶ。ママー! そう叫んで全力で抱き着いて来るふたりの姿が思い浮かんだ。なんだか、すごく会いたくて、ぎゅうっと抱きしめたいと思った。

「……うん。分がった」

 こくっとうなずくと、たあくんがほっとした様子で「ありがと」と言った。その次の瞬間だった。アンティーク時計がボーンとひとつ鳴り響いた。背中がギクッと音を立てた気がした。時計の針は真夜中の二時四十五分を指している。たあくんが短く息を吐き出した。

「時間、ないな」

 そう言って、たあくんはジーンズのポケットから一枚の紙を取り出して、私に差し出した。

「遺言」

 その紙を、震える指で受け取った。

――1 労災認定を取り下げること

「は? どっして? だって、たあくん、死んじゃうくらい苦しんだのに?」

 噛みつく勢いで言うと、たあくんは冷静に首を横に振った。

「あどいいよ。だって、こんな事さ無駄な時間かげで欲しぐねったよ。あどいがら。これ以上、千翠に負担かげでぐねったよ、俺。こったのあどやめでいんだよ」

「なんも! なんもだよ! 大丈夫だがら。私、たあくんのためだったら、全然闘うし」

 闘ってどっするったよ、とたあくんが悲しそうに言った。

「やだよ、俺。千翠にはもう、これから先の人生は笑っていで欲しいった」

 好きなんだ、千翠の笑顔、と私の頬に手を当てて微笑むたあくんを見たら、もう、何も言い返すことができなかった。たあくんを苦しめたパワハラの上司のことは憎たらしいし、許せないことに変わりはない。許されるのなら殴り込みに行きたいくらいだ。でも、たあくんが望むならと、奥歯で怒りを噛み砕き、飲み込んだ。

――2 幸せであること

「これから良い出逢いがあって、その相手が、千翠と結月と月紬を大切にしてくれる人だったら、俺に構わずその人と一緒になって欲しい」

 たあくんの遺言はこのたったふたつだけだった。自分の事を忘れないで欲しいとか、そういう遺言を残さないところがたあくんらしいなと思う。

 そして、最後に通帳、キャッシュカード、印鑑の隠し場所と、暗証番号が書かれていた。

「クローゼットの棚の、向かって右の奥に缶があるがら。ずっと貯めでらったんだ。いつか、家建でようど思ってだず。したばって、これから絶対、何かと物入りだど思うがら、千翠の好きなように使って」

 たあくんの口調が段々と早くなって、本当に時間が迫っているのだと思い知らされる。もう、時間がない。

「待って、たあく――」

「千翠」

 私の声を遮って、たあくんが私を抱き寄せる。耳にたあくんの吐息がかかって、胸が締め付けられた。

「俺、死にたぐねがったず。死ななきゃよがった」

 私はただ必死に、たあくんの胸に顔を埋めた。

「千翠ど一緒に生ぎでいってがったよ」

「そったごど、知ってらよ!」

 一緒に生きてきた私が、そんなこといちばん知ってるよ。

 たあくんがどんなに苦しんでいたのか。生きたいから、苦しくても藻掻いていたことも。

 私を抱き締めながら、たあくんが一瞬だけ体をびくつかせた。そして、短く「ふっ」と息を吐き出して、更に強く抱き寄せる。

「もう、そろそろみたいだ」

「えっ……や、やだ!」

 待って。待ってよ。

 私はたあくんの胸を両手で押し離し、右腕につかみ掛かった。心拍数がとんでもないことになっている。焦りによく似た感情が足元から一気に押し寄せた。

「待って! たあくんは、これからどごさ行ぐの?」

 尋ねる私に、たあくんはゆっくり首を振った。

「分がんね。んだけど、たぶん、あの吊り橋渡って、遠い場所さ行ぐったど思う。なんとなぐだけど、そった気する」

「したらさ……それってさ、私は行げねったが?」

 当たり前だべ、とたあくんが困ったように苦笑いする。

「したらさ、したら……今から、一緒に」

 この部屋をこっそり抜け出して、一緒に。

「逃げたりでぎねの?」

 必死に頭をフル回転させて、あの手この手を考えてみるけれど、たあくんは「できないんだよ」と優しく諭すように言った。

「俺はあど十分逃げだがら。あど、これ以上は逃げられねったよ」

「は……待って、たあくん。絶対、方法あるって。きっとあるったよ。考えよ、待って」

「千翠」

 あたふたする私の両肩をしっかりと捕まえて、たあくんが言った。

「もう、本当に時間だがら、聞いで」

「やだっ……たあくん!」

「千翠っ!」

 たあくんの声と同じタイミングで、両頬に優しい痛みが走ってハッとした。たあくんが私の頬を両手で挟むように、ぱんと優しく叩いたのだった。白目が多いアンニュイな三白眼の瞳と目が合う。涙があふれて、頬を絶え間なく伝い落ちていく。私はたあくんのトレーナーをむしるようにつかんだ。

 絶対に離したくなかった。離れたくない。もう二度と。

「俺、同棲始めでがら、アパートさ帰るの楽しくてやぁ。毎日、帰るの楽しみだったず。唯一、俺が、帰りたいって思える場所だったんだ」

「え?」

 顔を上げた時にはもう、私の体はたあくんの腕の中にあった。同時に、たあくんが泣いているんだと分かった。声が上ずって震えている。

「仕事終わって疲れで帰っても、面白ぐないごどあって帰っても、笑顔で、たあくんおかえりーって千翠が飛び出して来るべ。嬉しがったず。千翠が待ってるアパートさ帰るの、大好きだったんだ、俺」

「あ……ま、待って! たあくん、行がないでよ! やだっ……」

 私はたあくんの背中に両手をまわして、力いっぱい抱き締めた。そして、離れないように、しがみついた。絶対、離さない。

「さよならなんてやだってば! たあくんっ!」

「千翠」

 耳に、ふうわりとたあくんの吐息がかかった。その瞬間、瞬きの間に私の腕の中からたあくんの存在は消えて、私の両腕は宙を抱き締めた。

「行って来ます」

 それが、たあくんが私に告げた最期の言葉だった。消える瞬間まで、たあくんは私が潰れてしまいそうなほど強く抱きしめて……いや、私にしがみついていた。

「……たあくん?」

 右手を左右に振って空間を必死に仰いだ。たあくんを探した。たあくんの感触も温度も、匂いも、気配さえ、消えていた。

「た、あ……あ、あぁっ……」

 息が出来ないくらい、胸が詰まる。切なくて、苦しくて、もうすでに恋しくて。抑えようと思うのに、嗚咽がもれた。たあくんがくれた小さくて頼りない遺書を握り締めて泣いた。

 ほどなくして、キンコンとチャイムが鳴り、部屋に入って来たのは月花さんだった。さっきと同じ金色に輝くカートを押して入って来て、

「少々お待ちください。ただいま、お茶の準備を致します」

 と一礼した。私は涙を手で払い、鼻をすすりながら月花さんに尋ねた。

「すみません。夫はどこに行ったんですか?」

 茶葉をスプーンですくい、ティーポットにさらさらと落としながら月花さんが答える。

「当ホテル支配人の月陽《つきあかり》と一緒に、三途の吊り橋へ向かわれました」

 ふわっと微かに漂ってきた香りに不思議なほどにあっさりと涙が引いた。甘く懐かしい香りだった。どこかで嗅いだことがある。一度や二度じゃない。何度も嗅いだことのある、良く知っている香りだった。

「失礼致します」

 月花さんは蝋のように白い造り物のような手で、私の前のテーブルの上に、まだ何も入っていない空のガラスのカップを置いた。茉莉花茶を飲んだ時と同じ、お猪口ほどの大きさのものだった。

 月花さんはにこりと微笑むと、ティーポットに熱々のお湯を注ぎ淹れた。すると、たちまち甘く懐かしい香りが濃く強くなり、周囲を包み始めた。

「それでは、ご説明をさせていただきます。今から森本千翠様にお飲みいただくお茶は、金木犀のお茶です」

 と月花さんが右手を向けると、ティーポットの中のお湯がみるみるうちに夕焼けのような橙色に染まった。

「金木犀のお茶をお飲みいただきますと、故人、森本佑様と面会なされたこと、当ホテルのこと、今宵の出来事すべての記憶を消すことができます」

「えっ……ちょっと、待ってください」

 説明を中断させると、月花さんは「はい」ときょとんとした様子で小首をこてんとかしげた。

「いや、消すって。あの」

「ええ。金木犀にはあの世を意味する隠世《かくりよ》という意味がございます。自死はあの世では大罪となります。自死なされた死者の魂は、これから長く苦しい道のりを経て、浄化されることとなりますが、ご遺族様やご友人の方が自死をお許しになられると、その長い道のりが少し免除されるのです」

「許す? 私が夫のしたことを許すということですか?」

「はい。金木犀のお茶をお飲みになり、故人様へ、もうこの世に留まる必要がないのだと、しっかり罪を償うようにと、愛を持ってその背中を見送ることが、お許しになられることかと」

 失礼致します、と月花さんはティーポットを持つと、反時計回りに8回まわして、ガラスのティーカップに注ぎ淹れた。

「お待たせ致しました。こちらを飲み干してください」

 月花さんはそう言い、一歩後退した。私はカップの持ち手に手を伸ばし、でも、つまもうとしたその指を引っ込めた。

「あの」

 ごくっと唾を飲み込んでから、尋ねた。

「このお茶を飲まなかったら、記憶は消えずに残るってことですか?」

「はい、さようでございます」

 こくりとうなずいて、月花さんは続ける。

「お飲みになるか、なられないかは、森本千翠様のご判断にゆだねますが……」

 そして、穴のような真っ黒い目を細めて、しゅんと肩をすくめた。

「私が飲まない場合、夫はどうなるんですか?」

「はい……今宵のご面会の記憶を残されたままですと、大罪を犯された故人様の魂はうまく浄化されず、この世とあの世の狭間にて彷徨い、苦しむことになります。最悪の場合、地縛霊となってしまう恐れがある為、支配人の月陽により魂は消滅され、生まれ変わりは不可能となります」

「そうですか…」

 私は視線を月花さんからガラスのティーカップの中に移した。

「私がこれを飲めば、夫はその吊り橋を渡ることができるんですね?」

「はい。そのように聞いております」

「分かりました」

 しっかりとうなずいて、顔を上げると、月花さんとたぶん目が合った。その瞬間にエックスを通じてたった一度だけDMでコンタクトを取ったドライフラワーさんがくれたあの情報を思い出し、ようやく腑に落ちた。

 こういうことだったのか、と。

「飲みます」

「かしこまりました。では、全てお飲みいただきましたら、目を閉じて、みっつ数えて、ゆっくりと目を開けてください」

「はい」

 透明なガラスのカップに手を伸ばす。口元に持ってくると、ふっと甘い香りが鼻を突き抜けて、体が重だるくなった。

 たあくん。たあくんとこうしてまた会えたこと、絶対に忘れたくないよ。でも、それ以上に、これ以上、たあくんのこと苦しめたくないから。もう、十分だよ。これからは苦しまなくていいし、頑張らなくても、我慢しなくてもいい。

 大丈夫。私がちゃんと知ってるから。ずっと隣で、見てきたから。たあくんが歯を食いしばって頑張ってきたの、知ってるから。もうそろそろ楽にならないと。

 たあくん。ありがとう。最期にもう一度、会えるチャンスを私にくれて。本当のことを教えてくれてありがとう。

 もうこの世に留まって苦しむ必要なんかないよ。もう、ここには戻ってこなくてもいいから。たあくん、バイバイ。愛してる。

 金木犀のお茶をごくりと飲み込む。飲み込んだとほとんど同時に目を閉じた。

 たあくん、大好き。ずっと、好き。

 頬を涙がつるりと伝い落ちた直後、私はカウントを決意した。

 いち。

 金木犀のお茶が食道を通過し胃に落ちると、まるでお腹に明かりが灯るようにぽうっと温かくなった。

 にい。

「に」

 私の心の声と、クリスタルグラスを打つような月花さんの美しい声が重なる。

 さん。

「……それではゆっくりと、目を開けてください。森本千翠様、この度はホテル・ラ・ソルーナをご利用いただき、誠にありがとうございました」