「早いな」

 沈黙を破ったのは、たあくんの囁くような穏やかで優しい声だった。

「もう日付変わっちゃうな」

 え、と顔を上げると、たあくんが少し寂しそうな顔で「ほら」と、いかにも高級そうなアンティークの壁時計を指さして笑った。時計の針は金色に輝きながら、真夜中の零時を指した。ボーンと音がひとつ鳴り響く。

「あと三時間か」

 私がつぶやくように言うと、たあくんは「じゃあ、話すよ」と言った。

「何をさ?」

 首をかしげると、たあくんは申し訳なさそうに、背中を丸めた。

「俺が自殺した理由」

「あ……」

 急に空気がずっしりと重くなった気がして、うつ向いてしまう。でも、知りたいと思う。あんなに苦しんで、頑張ってやっと元気になってきて、仕事も復帰を控えてやる気に満ちていたたあくんが、どうして突然、死を選択したのか。知りたい。

 私は顔を上げて、真っ直ぐにたあくんの瞳を見て、うなずいた。

「教えて欲しい」

「うん。分かった」

 たあくんはこくりとうなずいて、いっぱくあってから話し始めた。

「あの日、千翠が出勤して行ったあと、鈴木さんから電話があったんだ」

「あ、あの、上司の人だよね? アパートさ来てくれだ事あるったよな」

「んだ。鈴木さんが、来週からの復帰前に、話したい事あるって言うがらよ、本部さ行って来たったんだよ」

 そうだったんだ。当たり前だけど、そんなことがあったなんて知らなかった。てっきり、家から出ていないものだと思っていた。

「行ってみだっけや、いぎなり謝られだず。やっぱり、現場勤務に戻してやれねぐなったんだよって」

「はあ? なして?」

 それがさ、とどこか都合悪そうに、言葉を詰まらせながら、たあくんは続けた。

「俺が異動願い出したせいで、二月から、渋谷が本部勤務になったらしくて。それで……」

 渋谷さんはたあくんのいちばん気の置ける同期の同僚で、アパートを訪ねて来て異動願いを出さないかと言ってくれた人だ。

「渋谷、鈴木さんに言ってだらしくてな。自分が本部勤務に異動になったこと、復帰して落ち着くまで、俺には黙ってて欲しいって。絶対に責任感じてまた病むがらって」

 たあくんの話を聞く限り、渋谷さんはきっと、自分が本部に異動になることを分かっている上で、たあくんに現場勤務に異動願いを出すようアドバイスをしたに違いなかった。

「んだったけど、三月に入ってがら、渋谷、休みがちになったらしくて。四月になると退職届出して、消えるように居なくなったって……聞いで。すぐ、連絡したんだけど、番号変えだんだが、繋がらなくて……ラインもアカウント、消えでらず」

 たあくんは言葉を詰まらせて、とうとう、うつ向いてしまった。

「なしたず? 辞めでしまった理由、分がらった?」

 たあくんがうつ向きながら、ぽつりとこぼしたひと言に、無性に腹が立った。

「佐藤さんの、パワハラが理由らしったよ」

 たあくんと、同じだ。ふっと、渋谷さんの爽やかな屈託のない笑顔がよぎった。たあくんと同じ苦痛を、あの屈託のない笑顔をすあの人も受けたのかと思うと、悔しくて無性に腹が立った。

「だから、また本部勤務をしてもらわねばねぐなったって言われだず。断ろうと思ったけど……でぎねがった」

「なして?」

「鈴木さん、上司なのに、バカみたいに、部下の俺さ頭下げらったよ。すまない、ごめん、申し訳ないって。仕事休んで迷惑かげでしまったような俺さ、頼むって、頭下げるったよ」

 そんな上司の姿を見ていたら、無理です、嫌です、できません、なんて言えなかったのだとたあくんは言った。

「分かりました、頑張ってみます、ってしか言えねがったず」

 たあくんらしいなと思う。

 たあくんは、根っからの消防士だった。責任感が強くて、我慢強くて、弱音なんか吐かなくて、心の温かい、優しい人だった。

「その時っけ、まだ、帰ったら千翠さ相談しようど思ってらったし、死ぬなんて考えてもいねがったよ」

 はっとした。たあくんの声が微かに震え始めたからだ。私はとっさにたあくんの左手をぎゅっと強く握り締めた。あっ、と我に返ったようにたあくんが丸い目で私を見つめる。

「大丈夫だず。たあくん。もう、佐藤さんと会う事はないし、何も言われねったよ。大丈夫」

 そうだ。

 もう、あの人は、たあくんを苦しめることなんて出来ないのだ。

「たあくんのこと、苦しめる人なんて、もういねったよ」

 次の瞬間だった。

 たあくんの見開いた大きな目から、ぽろぽろと涙があふれ始めた。信じられないほど大粒の涙が、次から次へとあふれ出す。

 たあくんが突然、首元を手で押さえ付けて、前屈になった。背中を波打たせて、大きく息を吐き出しては吸い込む。過呼吸を起こしたのかと思い、背中をさすった。でも、違った。

「あ……あぁぁぁっ」

 まるで、体の奥の奥の奥底から絞り出すような、まるでうめくような叫び声だった。たあくんは前屈になったまま、全身で泣き続けた。

「た、たあくん! 大丈夫だって! もう、大丈夫だがらっ」

 私はたあくんの前にしゃがみ、膝をついて、前屈の体を抱え起こし、力いっぱい抱き締めて、激しく波打つ背中を擦った。これが、この人の背負って抱えてきたものだと思うと、悔しくて、そしてやるせなかった。

「ち……あきっ……ごめん! ほんとにごめんっ」

 たあくんがしがみつくようにして私を抱き寄せて苦しそうに泣いているのに、私はといえばたたそこに居て、抱きしめ返すことしかできなかった。でも、そうする他に、一体何ができたというのだろう。

「鈴木さんと……話し終えて、玄関に向かってる時、廊下で……佐藤さんとはち合わせになったず」

 ようやく、たあくんの涙も小康状態になってきたころにはもう、タイムリミットまで二時間を切っていた。

「言われだんだ……」

 と、まだ涙が絡まったような声で、たあくんはようやく白状した。

 よう、森本。聞いだで、お前、仕事に復帰するったべ? 今度は迷惑かげるなよ。どんだ? 夏休みど冬休み一気に取った気分は。最高だったべ。したばって、残念だったなあ。現場勤務しってがったらしいけど、そったに世の中甘ぐねった。

 父親のこったら情げない姿見せでばり居れば、子供が泣ぐど。奥さんも可哀想だよなあ、旦那が公務員だなさ、いづまでも共働ぎだべ。専業主婦させでやるぐらいの気持ちで復帰せぇよ。

 いいが、森本。精神病なんてな、お前の気持ちひとつなんだって。そったもの、努力して治せ。どいつもこいつも足引っ張りやがって。渋谷は根性あるど思ったったけど、大したごどねがったずや。森本、お前ど同じ、《《ハズレクジ》》だったぁず。

「労基さパワハラ訴えやがって、復帰したら、覚えでろよ、だって」

 理不尽な世の中だと思う。

 おかしいじゃん。こんなの。人間て、みんな平等のはずじゃないの?

 弱肉強食だ。野生動物の世界とまるで同じ。強い者が強くて、弱い者はどこまでも弱い。強い者が言う事は絶対で、弱い者は逆らえない。逆らえば、倍になって返って来る。

「どっしてその事、私さ言わねず? どうせ死ぬなら、言ってから死んでよ!」

 私はたあくんの肩を拳でど突いた。

「たあくん、私、最っ高に悔しいったよ……」

 会ったことなんてないし、その人物がどんな顔をしていて、どんな声をしているのかも分からないけれど。それと同じように、佐藤という人間に、たあくんの何が分かるというのだろうか。

 復帰したら覚えていろ、だなんて。そんな簡単にそんなこと、口にして欲しくない。口にするなら、まずはあの地獄のような数カ月を苦しみ、乗り越えたたあくんを見てからにして欲しい。

 あなたの何気ないたったひと言で、こんなにも苦しんだ人間がいることを知って欲しい。分かって欲しい。その人は何気なく発したひと言だったのかもしれないけれど、そのたったひと言が、刃となってたあくんの心を真っ二つに切り裂いたことを、分かって欲しい。

 他の人たちには冗談に聞こえる会話の何気ないひと言が、ひとりの尊い命を消してしまうかもしれないのだという事を、知って欲しい。

 悔しい。悔しくて、たまらない。

 たあくんが、どんな思いでこの数カ月を必死に、歯を食いしばって生き抜いたか。どれくらい、眠れない夜を数えたのか。そんなことさえ分からないくせに。

「私さ言ってくれたらっ……やっつけでやったのに!」

 ぶん、と右の拳を振り上げて下ろすと、たあくんに捕らえられてしまった。

「やっつけるって……強っ」

 泣き腫らした目を糸みたいに細くして、可笑しそうに笑うたあくんを見ていると、悔しくて、やるせなくて、涙が出るよ。どうしてもっと早く、たあくんのSOSに気付けなかったんだろうって、悔しくて、泣けてくるよ。

「それで、アパートに帰って、ドア開げだっけさ……音がしたんだよ」

 たあくんの言っていることに、私は首をかしげた。

「なんの音?」

「音が無い時の音だって。分がんね? シーン、て音。キーン、て耳の奥で鳴るような音さ似でらず、シーン、て」

 たあくんの言っている音が、分かる気がした。

 あの日、アパートの玄関のドアを開けた瞬間、そうだったから。人間が生きている気配が、生活している気配が無くて、シンとしていて、怖いくらい静かで。

「したっけ、なんかさ……佐藤さんから言われた言葉が、全部、全部一気に頭の中、駆け巡って……情げないし、悔しいし、苦しいしで。いちばんに、千翠の顔が思い浮かんで……申し訳なくて」

「何が? 申し訳ないって何が? うちら、夫婦じゃん。一緒に生きて行こうって、約束したじゃん」

「だよな。けど、千翠にいちばん申し訳なくてさ。気付いだら、延長コード、握り締めでらったんだよ、俺……」

 ああ、と思う。

 たあくんは、もしかしたら、本当は死ぬつもりはなかったのかもしれないと。そう思った。

 あの日、職場からたあくんに電話が掛かってこなければ。たあくんが職場に行かなければ。鈴木さんからお願いされなかったら。佐藤さんと廊下で鉢合わせにならなかったら。なんて、たらればを並べたって、もうどうにもできないけれど。たあくんはもう、戻っては来ないのだけれど。

 それはきっと、絶対に変わる事はなくて、この後、私たちには二度目の別れが待っているのだけれど。

 「アパートで自殺なんかしたら迷惑かけるよなって思ったんだけどな。したばって、俺、他に行く場所なんてない、ここしかねえよなって……思って」

 たあくんは、涙で声を震わせながら、言った。

「千翠が待ってるアパートだったず。俺の、帰りたいと思える場所」

「ばっかでないの? 当ったり前だべ」

 私がフンと鼻を鳴らすと、たあくんは豆鉄砲をくらったような目で首をかしげた。

「え?」

「何言ってらず? だって、私、たあくんの妻だし」

 ベシッと肩を叩くと、そっかあ、とたあくんはちょっと嬉しそうにはにかんだ。

「ったく。水くさいな。まあ、たあくんらしいっちゃ、らしいけど。したばって、言ってくれでらったら、私、たぶん、まじでやっつけでらったど思う。佐藤のごど」

 私は至って真面目に言ったのに、たあくんときたらぷうっと吹き出して笑った。

「強っ。千翠のそういうどご、まじで好き」

 ちょっとだけ、ドキッとしてしまった。

 バカみたいな話だけど、私はずっと、たあくんのことが好きだった。何年経っても、ずっと、一目惚れしたあの瞬間と同じように、恋をしていた。結婚して、夫婦になって、親になっても、それでも毎日恋をしていた。何年経っても、懲りずに恋をしていて、今でも大好きなのだ。

「はあ? 何だぁず、こんな時に」

 だから、照れくさくて、嬉し過ぎて、ぶっきらぼうに返してしまう。

「いや、俺、千翠のそういうどごさ惚れで、結婚申し込んだんで」

 それなのに、たあくんときたら、こんなこともストレートに平気な顔で言ってくるから戸惑う。

「んだったら、私のごど置いで行ぐなよ……ばかたれ」

「……ごめん」

 たあくんが困ったように目を伏せて、再び沈黙が流れる。だけど、やっぱり一ミリも苦痛はなくて、心地いい。

「千翠」

 二度目の沈黙は短かった。