体育館に響くホイッスルの音が、やけに遠く感じた。
 地区予選二日目、決勝戦。
 スコアは〈22対24〉。あと一点取られたら、終わりだ。
 タイムアウトをとったベンチで、監督の声が響く。「ここからが勝負だ。焦るな、いつも通りだぞ!」
 汗ばんだ手のひらを握りしめながら、俺はその言葉を聞いていた。けど、緊張で喉が張りついて、何を言えばいいのか迷っていた。
 そんな中で――。
「先輩、まだまだですよ! 次も俺、決めますから!」
 高良がいつもの調子で笑った。その明るさに、空気が一瞬やわらぐ。
「おいおい、今度決めるのは俺だぞ!」
 陽稀が負けじと声を上げる。
「高良、お前生意気なんだよ!」
「そうだ先輩に花役は譲れよな!」
 笑い声がちらほらこぼれ、重たかった空気が少しだけ軽くなった。
 ――やっぱり、こいつら最高だ。
 俺は立ち上がって、円の真ん中でみんなを見渡す。
「......よし。最後まで、俺たちらしくいこう」
 俺はめいいっぱい空気を吸って、
「全員で勝つぞ!」
「おおっ!!!」
 手を重ねた瞬間、全員の声が重なった。
 コートに戻ると、心臓の鼓動がやけに大きく響いた。
 笛の音。一球目のボールが高く上がる。
 綺麗に、吸い込まれるように上がったレシーブ。
 チャンスだ。
 相手ブロックは、陽稀を警戒して動いている。その一瞬、視界の端で高良と目が合った。
 ――わかってるよ。
 お前なら、絶対に決めてくれんだろ。
 そう信じて、俺は全力でセンターにトスを上げた。
 高良がすごい笑顔で、まっすぐ上へと跳ぶ。
 光の中を飛ぶように――
 ボンッ、と鋭い音。
「っしゃああ!」
 ボールが相手コートに突き刺さった。その瞬間、体育館が割れんばかりの歓声に包まれる。
 ――こいつは、ほんと。
 どんな場面でも、最後に笑顔で決めてくる。
 緊張の中、思わず笑ってしまった。
 真っ先に高良がこっちを向いて、手を高く上げる。
「先輩! ナイストスです!!」
 その顔がまぶしくて、胸がぐっと熱くなった。俺はその手を思いきり叩く。
「ナイス、スパイク!」
 みんなも集まってきて、声を上げながら肩を叩き合う。
 歓声と笑い声が混ざって、世界が一瞬きらめいて見えた。
 ――まだ、終わらせたくない。
 こいつらと、高良と。
 もっと一緒に。
 そんな想いを胸の奥で叫びながら、俺は最後の一点に集中した。
 相手のスパイクが高く上がり、コートの奥に、鋭く落ちてくる。
 レシーブに飛び込んだ仲間が、必死に腕を伸ばした。
 けれど、ボールは高く弾んで――コートの外へ。
「――っ!」
 俺は全力で走った。
 足がもつれそうになりながらも、ただボールだけを見ていた。
 追いつけ、追いつけ、あと少し――!
 床が近づく。
 伸ばした腕の先、白いボールがゆっくりと落ちていく。
 まるで時間が、スローモーションになったみたいだった。
 指先が、ほんのわずかに届かず――ボールは静かに床を打った。
 ――ピィィィィ。
 ホイッスルの音が、やけに遠くで鳴った気がした。
 歓声と拍手が響いているのに、俺の耳には何も入ってこない。
 ただ、目の前の床と、転がるボールと、動けない自分がいた。
 振り返ると、コートに倒れ込んだみんなが、涙を流している。
 泣き声があちこちから漏れて、床の汗と涙が光って見えた。
 その光景を見た瞬間、胸の奥が締めつけられる。
 悔しくて、どうしようもなかった。
 俺は、奥歯を強く噛みしめる。
 泣くな。
 泣いたら、ダメだ。
 ――キャプテンなんだから。
 そう言い聞かせながら、拳をぎゅっと握った。
 指先に爪が食い込んでも、痛みなんて感じなかった。



 控え室に戻ると、誰もすぐには口を開かなかった。
 シューズの音も、息をつく音も、やけに重い。汗のにおいと涙のにおいが、混じっていた。
 監督が静かに前に出てきて、ぽつりとつぶやく。
「......よくやった。胸を張れ」
 その言葉に、抑えていた涙が一気にあふれそうになったのをグッとこらえる。監督が俺に視線を送る。俺は深呼吸して、1歩前に出た。顔を上げてみんなの顔を順に見渡す。
 泣きはらした目、うつむいたままの背中に俺は言葉を選びながら、ゆっくり口を開いた。
「正直、俺なんかがキャプテンでいいのかって、何度も思った。でも、お前らがいたからここまで来れた。最後まで一緒に戦ってくれて、ほんとに――ありがとう」
 言い終えた瞬間、空気が少しだけやわらかくなった。
 誰かが鼻をすする音がして、陽稀が「バカ湊......泣かせんなよ」と笑いながら言った。
「特に――1、2年生。途中で気持ちが折れそうな時も、最後までついてきてくれてありがとな。......次は、お前らの代で勝てくれ」
 そう言ったとき、前列の2年たちが一斉に顔を上げた。
 高良が唇を噛んで、真っ赤な目で頷く。
 こうして俺たちは少し早く部活を引退した。



 夜の帰り道。
 さっきまでの高揚感が嘘みたいに、あたりは静かだった。
 隣を歩く高良の足音だけが、一定のリズムで響く。
「はー! まだ引退の実感ないなー!」
 やけに明るい声が出た。自分でも、ちょっと不自然だと思う。でも、そうでもしないと泣いてしまいそうだった。
 高良が、ちらりと俺を見た。街灯の下で、その顔はどこか悲しそうに見えた。
「あの時の高良のスパイク、ほんとすごかったよな!」
 笑いながら言うと、高良は少し眉を寄せて、真っ直ぐに俺を見つめてくる。
「......泣かないんですね、先輩」
「当たり前だろ。泣いたらキャプテン失格だ」
 笑って返す。けど、喉が少し詰まった。
 高良が、小さく息を吐いた。
「......そんなことないですよ」
 その声が、驚くほど優しくて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「先輩、もう我慢しなくていいです」
そう言って、高良歯俺をそっと抱き寄せた。
 肩に顔をうずめるようにして、あたたかい体温が伝わってくる。
「......もういいですよ」
 耳元で、やさしく囁かれた。
 その瞬間、張りつめていた何かがふっと切れた。
 我慢してた涙が、溢れ出して、泣きたくなかったのに、止まらなかった。
 高良の胸の中で、声を押し殺して泣いた。
 少しして、俺の肩を包んでいた腕がほどけた。
 顔を上げると、すぐ目の前に高良の顔。
 そのまま、両手でそっと俺の頬を包まれ、指先が、涙の跡をなぞる。
 親指でそっと拭われるたびに、胸の奥が熱くなっていく。
「......やっと、泣いてくれました」
 苦笑しながら言う高良の目が、やさしく揺れていた。
 涙の残る視界の中で、まっすぐに見つめ返した。
 言葉が出ない。
 ただ、どうしようもなく、この距離が近く感じた。
「もっと先輩と、一緒にいたかったです」
 その言葉が、胸の奥に深く刺さった。
 さっきまで流してた涙の意味が、少しずつ変わっていくのがわかった。
 ――悔しさだけじゃない。
 この手を離したくない。まだ終わりにしたくない。
 この先も高良と一緒にいたい。
 そんな想いが、喉の奥でせり上がってきた。
「......高良」
 名前を呼んだ瞬間、自分でも驚くほど声が震えた。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、近すぎる距離で高良が見つめてくる。
 まっすぐで、優しくて、でもどこか痛いほどに真剣な目。
 心臓が、ドクンと鳴った。
 今まで何度も並んでコートに立ってきたのに、こんなふうに高良を見たのは初めてだった。
「......なんか、ずるいな」
「え?」
「お前ばっか、俺のこと分かってて」
 言葉より先に体が動いた。
 気づけば、高良の胸を掴んで、顔を近づけてた。
 触れた唇は、涙で少ししょっぱかった。
 高良の体温も、鼓動も、息の音も全部、すぐそこにあった。
 唇を離したあとも、まだ胸の奥が熱くて、息が乱れてる。
 高良は少し驚いた顔をして、すぐに微笑む。
「俺、うれしいです」
「え?」
「先輩が、そんな顔してくれるの」
 また胸の奥がきゅっと痛くなる。
 試合に負けた悔しさとは違う、どうしようもない気持ちが溢れてきた。
「......俺さ、今までずっとバレーばっかで」
 言葉を探しながら、夜の風に目を細めた。
「誰かと一緒にいたいなんて、思ったことなかったんだ」
 高良は黙って聞いていた。
 その沈黙が、やけに優しく感じた。
「でも今、思う。もっとお前とバレーしたかったし......
まだ、終わりたくないって思ってる。俺......お前のこと、好きなんだ」
 言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。
 高良が目を見開いて、それから少しだけ笑った。
「知ってました」
「......え?」
「先輩、ずっとそういう顔してましたよ」
 その言葉に、顔が熱くなった。
 夜風がやけに冷たくて、でも、肩が触れたところだけが妙にあたたかかった。
 俺が言葉を吐ききったあと、夜の空気が一瞬、静まり返った。
 街灯の下、高良は少し俯いて、それからゆっくり顔を上げた。
「俺も湊先輩が大好きですよ」
「――っ!」
「......そんなこと言われたら、もう我慢できないです」
 次の瞬間、手が頬に触れた。
 指先があたたかい。
 そのままゆっくりと顔が近づいて──もう一度、唇が触れた。
 今度は俺が引き寄せられる側だった。
 少し乱暴なくらいで、でも優しくて、あったかくて。
「先輩って、強がるときいつも口角ちょっと上がるんですよ」
「そ、そうなのか?」
「今日もそうでした。泣かないように、無理して笑って」
 高良が小さく笑う。
「俺、そういうとこ、全部好きです」
 その言葉で、また涙が込み上げてくる。
 俺はただ、黙って高良の胸に顔を埋めた。
 もう我慢しなくていいと分かっても、涙は勝手に溢れ続ける。
「......泣くとこ、初めて見ました」
「......うるさい」
「やっと、俺だけに見せてくれた」
 その低い声に、心の奥がぎゅっと締めつけられた。
 ――もう、完全に落ちてた
 ただの後輩じゃなくて。
 バレーよりも、勝つことよりも、今はこいつの笑顔が、いちばん欲しかった。