懐いていた後輩はどうやら俺のことが好きらしい

 職員室を出た俺は、手に握った紙を軽く持ち上げた。
 ――ついに来たか。
 その一枚に、この夏のすべてがかかっている。
 体育館の重い扉を開けると、スパイク音と声が一気に耳に飛び込んできた。
「おーい! 試合の組み合わせ、出たぞ!」
 その一言で、空気が変わる。ボールの音が止まり、全員が俺の方を見る。
「マジっすか!?」
「どこどこ!?」
 声を上げながら、みんなが走って集まってくる。
 紙を広げると、汗ばんだ手が次々と指を伸ばして、目を走らせた。
「......神山は、決勝だな」
 俺がそう言うと、みんな「よかったー」「一回戦じゃなくて助かった!」と安堵の息が漏れた。
 神山。去年の地区予選優勝校で、全国常連の強豪。
 去年、俺たちは二回戦であいつらに当たって、完敗した。
 その名前を見るだけで、悔しさが蘇る。
「はぁー......ほんと、ここは激戦区だよな。地区予選のレベルじゃねーもん」
 陽稀がため息まじりに笑う。
 俺も肩をすくめながら紙を見つめた。
 そのとき、横で高良が口を開く。
「勝つなら結局、どこかで当たるんですから。一緒ですよ」
 そう言って笑ったその顔が、やけにまっすぐで。
 なんの迷いもなく“勝つ”って言い切るのが、こいつらしいなと思った。
「......そうだな」
 自然と笑いが返った。
 緊張していた空気が少しやわらぐ。
 体育館の中には、ボールの弾む音と、夏の始まりを告げる蝉の声が重なっていた。



 そして翌日からは、選ばれたメンバー中心の練習が始まった。
 地区予選まで、残り一週間。
 どの部員も焦りと緊張を抱えながら、必死にボールを追っていた。
 ――はずだった。
 けれど、コートの隅でふざけあってる一年の声が耳に入る。
 集中が切れた俺は、思わず声を荒げてしまった。
「おい! みんな必死なのにサボってんなよ!」
 一瞬、空気が止まる。
 一年の二人は気まづそうに目を合わせて「すみません」とボールを拾って離れていった。
 ......やってしまった。
 キャプテンって、もっとみんなを信じるもんだろ。なのに俺は、声を荒げてしか動かせない。
 焦りと苛立ちが入り混じって、つい声が強くなった自覚はあった。
 練習後、俺はみんなより遅れてコートを出る。
 ひとり反省しながら、薄暗い廊下を歩いた。
他に言い方、あっただろ。......空気、悪くしてどうすんだよ。
 そんなことを考えながら、重い足取りで部室へ向かう。
 ドアノブに手を伸ばしかけた、そのとき――中から聞き慣れた声がした。
「......湊先輩、マジだるかったよな、今日」
 ピタリと手が止まる。
「ほんと、何あんな怒ってんだよな」
「てか湊先輩って、キャプテン向いてないよな」
「わかるー。絶対に陽稀先輩の方が向いてたのに」
「別に対して上手くもねぇのによ」
 笑い混じりの声。
 冗談めかしているのに、どこか本音の重みを持っていて。
 その一言が、心臓の奥に刺さった。
 息が詰まる。
 笑う声が、遠くで響いているように聞こえた。
 ――ああ、やっぱり。
 俺、キャプテンなんか向いてないのかもしれない。
 握っていたドアノブから、力が抜けていく。喉の奥に何か詰まったみたいに、息ができなかった。
 頭の中が真っ白になって、ただドアノブにかけた手だけが、そこに取り残されていた。
 その時だった。
 ――ぐっと、俺の手の上に大きな手が重なる。
 バッと顔を上げると、そこに立っていたのは高良だった。
「......おい、高良」
 絞り出すように声をかけるが、高良は何も言わず、俺の手をそっと外してドアを開けた。
 勢いよく扉が開く音が、静まり返った部室に響く。
「お前らが......湊先輩の、何を知ってんだよ!」
 怒鳴り声。
 その瞬間、部室の空気が一変した。
 ふざけていた一年たちが、突然のことに固まる。
「湊先輩は誰よりも早く来て、誰よりも最後まで残ってんだぞ。どうしたら勝てるかって――ずっと、チームのために考えてる人だ。お前ら、そんなことも知らねぇで、よく偉そうなこと言えんな!」
 いつも調子よく笑っている高良が、今は本気で怒っていた。
 俺は、ただ呆然とその背中を見つめるしかなかった。
「......おいおい、落ち着けよ。ただの冗談だろ――」
「冗談なら、何言ってもいいのかよ」
 部室に沈黙が落ちる。
 誰も何も言えなかった。
 高良がギリっとした目でふたりを見つめる。
 ――俺のために、怒ってくれてる。
 それが伝わった瞬間、息がしやすくなった。
 夕焼けが、ゆっくりと校舎の向こうに沈んでいく。ふたりは逃げるように部室から出ていった。

 その後、着替え終えた俺と高良は並んで歩いていた。
 アスファルトを踏むスニーカーの音だけが響く。しばらく、沈黙が続いた。
「......お前、あんなこと言って、今後気まずくならねぇか?」
 俺が口を開くと、高良は少し前を見たまま、肩をすくめた。
「いいです。本当のこと言っただけなんで」
 そう言って笑う。その笑顔が、どこかまぶしかった。
 少し間をおいて、俺はぽつりとこぼした。
「......俺、自分でもキャプテン向いてないと思うんだ」
 高良の足がぴたりと止まった。
「......高良?」
 振り返ると、まっすぐな瞳が俺を見ていた。
「俺、昔は湊先輩って才能の人だと思ってました」
「才能?」
「でも、ここに入って気づいたんです。――先輩は、誰よりも努力してる人だって。いつも一生懸命出チームのことを考えていて、俺はそんな先輩が好きです」
 その言葉が、夜気を震わせた。
「......今それ言うの、ずるいだろ」
 視線を逸らすことができなかった。
 胸の奥が、じんじんと熱い。
 高良のまっすぐな目が、まるで何かを求めるように俺を射抜いてくる。
 鼓動が早くなっていくのが、嫌でもわかった。
 高良は何も言わなかった。
 けど、隣に並ぶ気配がして、そっと肩が触れた。
「ごめんなさい。でも先輩には知って欲しくて」
 苦笑混じりの声がやけに優しくて、胸がぎゅっと締めつけられる。
 ......ずるいのは、俺のほうかもしれない。
 あんな真っ直ぐな目で言われて、何も感じないふりなんて、できるわけがない。
 高良が小さく笑う。
「俺からしたら、湊先輩以外がキャプテンなんて、考えられませんよ」
 そう言って笑う高良の横顔が、夕日に染まって見えた。
 自分の努力を、ちゃんと見てくれていた人がいた。
 それだけで今までの努力は無駄じゃなかったと思えた。
 目元も、熱くなるのを感じた。
 そんな俺の前に、高良が歩いてくる。
 夕陽を背にした顔は、いつものように明るくて、どこか優しかった。
「......先輩が頑張ってんの、俺は知ってますから」
 笑って言うその声が、まるでやさしく撫でるみたいで。
 不意に、胸の奥がぐらりと揺れた。
 どうしてだ。
 ただの後輩のはずなのに――。
 視線をそらせば楽になれるのに、それができなかった。
 高良のまつげの影が、夕陽に溶けて揺れる。
 次の瞬間、体が勝手に動いていた。
 コツン、とおでこを高良の胸に預ける。
 高良の体温が、近い。
 鼓動の音が、やけに大きく聞こえた。
「......ありがとな」
 そう言った声が、少し震えた。
 言葉の裏に、抑えきれない何かが滲む。
 ああ、もう分かってしまった。
 この胸の熱も、視線の先を追ってしまう理由も、
 全部――“好き”だからだ。