懐いていた後輩はどうやら俺のことが好きらしい

 職員室を出た俺は、手に握った紙を軽く持ち上げた。
 ――ついに来たか。
 その一枚に、この夏のすべてがかかっている。
 体育館の重い扉を開けると、スパイク音と声が一気に耳に飛び込んできた。
「おーい! 試合の組み合わせ、出たぞ!」
 その一言で、空気が変わる。ボールの音が止まり、全員が俺の方を見る。
「マジっすか!?」
「どこどこ!?」
 声を上げながら、みんなが走って集まってくる。
 紙を広げると、汗ばんだ手が次々と指を伸ばして、目を走らせた。
「......神山は、決勝だな」
 俺がそう言うと、みんな「よかったー」「一回戦じゃなくて助かった!」と安堵の息が漏れた。
 神山。去年の地区予選優勝校で、全国常連の強豪。
 去年、俺たちは二回戦であいつらに当たって、完敗した。
 その名前を見るだけで、悔しさが蘇る。
「はぁー......ほんと、ここは激戦区だよな。地区予選のレベルじゃねーもん」
 陽稀がため息まじりに笑う。
 俺も肩をすくめながら紙を見つめた。
 そのとき、横で高良が口を開く。
「勝つなら結局、どこかで当たるんですから。一緒ですよ」
 そう言って笑ったその顔が、やけにまっすぐで。
 なんの迷いもなく“勝つ”って言い切るのが、こいつらしいなと思った。
「......そうだな」
 自然と笑いが返った。
 緊張していた空気が少しやわらぐ。
 体育館の中には、ボールの弾む音と、夏の始まりを告げる蝉の声が重なっていた。

◆

 そして翌日からは、選ばれたメンバー中心の練習が始まった。
 地区予選まで、残り一週間。
 どの部員も焦りと緊張を抱えながら、必死にボールを追っていた。
 ――はずだった。
 けれど、コートの隅でふざけあってる一年の声が耳に入る。
 集中が切れた俺は、思わず声を荒げてしまった。
「おい! みんな必死なのにサボってんなよ!」
 一瞬、空気が止まる。
 一年の二人は気まづそうに目を合わせて「すみません」とボールを拾って離れていった。
 ......やってしまった。
 キャプテンって、もっとみんなを信じるもんだろ。なのに俺は、声を荒げてしか動かせない。
 焦りと苛立ちが入り混じって、つい声が強くなった自覚はあった。
 練習後、俺はみんなより遅れてコートを出る。
 ひとり反省しながら、薄暗い廊下を歩いた。
他に言い方、あっただろ。......空気、悪くしてどうすんだよ。
 そんなことを考えながら、重い足取りで部室へ向かう。
 ドアノブに手を伸ばしかけた、そのとき――中から聞き慣れた声がした。
「......湊先輩、マジだるかったよな、今日」
 ピタリと手が止まる。
「ほんと、何あんな怒ってんだよな」
「てか湊先輩って、キャプテン向いてないよな」
「わかるー。絶対に陽稀先輩の方が向いてたのに」
「別に対して上手くもねぇのによ」
 笑い混じりの声。
 冗談めかしているのに、どこか本音の重みを持っていて。
 その一言が、心臓の奥に刺さった。
 息が詰まる。
 笑う声が、遠くで響いているように聞こえた。
 ――ああ、やっぱり。
 俺、キャプテンなんか向いてないのかもしれない。
 握っていたドアノブから、力が抜けていく。喉の奥に何か詰まったみたいに、息ができなかった。
 頭の中が真っ白になって、ただドアノブにかけた手だけが、そこに取り残されていた。
 その時だった。
 ――ぐっと、俺の手の上に大きな手が重なる。
 バッと顔を上げると、そこに立っていたのは高良だった。
「......おい、高良」
 絞り出すように声をかけるが、高良は何も言わず、俺の手をそっと外してドアを開けた。
 勢いよく扉が開く音が、静まり返った部室に響く。
「お前らが......湊先輩の、何を知ってんだよ!」
 怒鳴り声。
 その瞬間、部室の空気が一変した。
 ふざけていた一年たちが、突然のことに固まる。
「湊先輩は誰よりも早く来て、誰よりも最後まで残ってんだぞ。どうしたら勝てるかって――ずっと、チームのために考えてる人だ。お前ら、そんなことも知らねぇで、よく偉そうなこと言えんな!」
 いつも調子よく笑っている高良が、今は本気で怒っていた。
 俺は、ただ呆然とその背中を見つめるしかなかった。
「......おいおい、落ち着けよ。ただの冗談だろ――」
「冗談なら、何言ってもいいのかよ」
 部室に沈黙が落ちる。
 誰も何も言えなかった。
 高良がギリっとした目でふたりを見つめる。
 ――俺のために、怒ってくれてる。
 それが伝わった瞬間、息がしやすくなった。
 夕焼けが、ゆっくりと校舎の向こうに沈んでいく。ふたりは逃げるように部室から出ていった。
◆
 その後、着替え終えた俺と高良は並んで歩いていた。
 アスファルトを踏むスニーカーの音だけが響く。しばらく、沈黙が続いた。
「......お前、あんなこと言って、今後気まずくならねぇか?」
 俺が口を開くと、高良は少し前を見たまま、肩をすくめた。
「いいです。本当のこと言っただけなんで」
 そう言って笑う。その笑顔が、どこかまぶしかった。
 少し間をおいて、俺はぽつりとこぼした。
「......俺、自分でもキャプテン向いてないと思うんだ」
 高良の足がぴたりと止まった。
「......高良?」
 振り返ると、まっすぐな瞳が俺を見ていた。
「俺、昔は湊先輩って才能の人だと思ってました」
「才能?」
「でも、ここに入って気づいたんです。――先輩は、誰よりも努力してる人だって。いつも一生懸命出チームのことを考えていて、俺はそんな先輩が好きです」
 その言葉が、夜気を震わせた。
「......今それ言うの、ずるいだろ」
 視線を逸らすことができなかった。
 胸の奥が、じんじんと熱い。
 高良のまっすぐな目が、まるで何かを求めるように俺を射抜いてくる。
 鼓動が早くなっていくのが、嫌でもわかった。
 高良は何も言わなかった。
 けど、隣に並ぶ気配がして、そっと肩が触れた。
「ごめんなさい。でも先輩には知って欲しくて」
 苦笑混じりの声がやけに優しくて、胸がぎゅっと締めつけられる。
 ......ずるいのは、俺のほうかもしれない。
 あんな真っ直ぐな目で言われて、何も感じないふりなんて、できるわけがない。
 高良が小さく笑う。
「俺からしたら、湊先輩以外がキャプテンなんて、考えられませんよ」
 そう言って笑う高良の横顔が、夕日に染まって見えた。
 自分の努力を、ちゃんと見てくれていた人がいた。
 それだけで今までの努力は無駄じゃなかったと思えた。
 目元も、熱くなるのを感じた。
 そんな俺の前に、高良が歩いてくる。
 夕陽を背にした顔は、いつものように明るくて、どこか優しかった。
「......先輩が頑張ってんの、俺は知ってますから」
 笑って言うその声が、まるでやさしく撫でるみたいで。
 不意に、胸の奥がぐらりと揺れた。
 どうしてだ。
 ただの後輩のはずなのに――。
 視線をそらせば楽になれるのに、それができなかった。
 高良のまつげの影が、夕陽に溶けて揺れる。
 次の瞬間、体が勝手に動いていた。
 コツン、とおでこを高良の胸に預ける。
 高良の体温が、近い。
 鼓動の音が、やけに大きく聞こえた。
「......ありがとな」
 そう言った声が、少し震えた。
 言葉の裏に、抑えきれない何かが滲む。
 ああ、もう分かってしまった。
 この胸の熱も、視線の先を追ってしまう理由も、
 全部――“好き”だからだ。