あれから、部活終わりにも高良に勉強を教える日が続いた。
気づけばあっという間にテスト週間で部活は休み。
静かな放課後、机に向かっても頭に浮かぶのは、あいつのことばかりだった。
――やばい。このままじゃ俺が赤点取るんじゃないか?
キャプテンが補習で合宿不参加なんて、絶対に笑えない。俺は気合いを入れ直してシャーペンを握った。
そして迎えたテスト最終日。
最後の科目は数学。これを乗り切れば終わりだ。
先生が時計を見ながら「では、始めてください」と告げる。
カチリと鳴る秒針の音。
――あっ、ここ。あいつが教えてくれたところだ。
『先輩! ここのマイナスかけ忘れてますよ!』
問題を解きながら、思わず口元が緩む。
なんとか最後まで書き終えたとき、胸の奥に小さな達成感が灯った。
教えてるつもりだったけど――
もしかしたら、俺のほうが教えられてたのかもしれない。
そして結果として、俺は赤点を取ることなく、なんとか乗り切った。
ふぅ、と肩の力を抜けた。部室に向かいながらもふと頭をよぎるのは高良のことだった。
......あいつ、大丈夫だったかな。
心配しながら部室の扉を開けると、眩しい笑顔が飛び込んできた。
「湊先輩! 無事、赤点回避です!」
そう言って高良が差し出した答案には、しっかりと“58点”の数字。その数字を見て俺までうれしくなっていた。
「おお、よくやったな!」
「まじか、俺より高いじゃん!」と翔が横から覗き込む。
「俺、もしかして天才なのかも」
「58点で調子乗るなよー」
俺は思わず吹き出す。
笑い声が響く部室の空気が、なんだか前よりあったかく感じた。
そんな中、陽稀が突然、青ざめた顔で地面に手をついた。
「おい、どうしたんだ?」
顔を上げた陽稀は、今にも泣きそうな声でつぶやいた。
「......だった」
「は?」
「28点だった......」
「はあ!? お前、赤点ギリギリじゃねーか!」
うちの学校は、学年平均の半分が赤点ラインだ。
陽稀は今まで一度も赤点を取ったことがなかったから、完全に油断していたらしい。
「俺だってまさか英語で取るなんて思わなかったんだよ! 日本史に力入れすぎて油断した......!」
「平均57点でアウトか。結構ギリギリだな」
そんな陽稀を励ますように、高良が拳を握った。
「陽稀先輩! 俺、先輩の分まで頑張りますから!」
「もう“無理だった”みたいに言うな!」
わちゃわちゃと賑やかな声が響く。
その光景に、思わず俺は笑ってしまった。
やっぱり、この部の雰囲気が好きだ――
部活が終わったあと、俺はひとり体育館に残ってボールを拾っていた。
家でボール触ってても、一週間も開くとさすがに感覚が狂うなぁ。
「先輩、今日も練習ですか?」
振り向くと、まだ部活着の高良がボールを抱えて立っていた。
いつの間にか、当然のように居残り組になったよなぁ。
「――高良、スパイク打ってくれよ」
そう言うと、高良は目を丸くして、大袈裟に驚いた顔をした。
「初めて湊先輩から誘われた!」
「......嫌のかよ?」
「いいえっ! もちろん、打たせていただきます!」
いつも通りの軽口。
けど、その笑顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
しばらく練習して、俺たちは散らばったボールを集めていた。
体育館には、ボールの転がる音と、外から吹き込む夕方の風の音だけが響く。
「そういえば、“ご褒美”とか言ってたけど。平均いくつだったんだ?」
「それが......あと二点だけ足りなくて......」
高良はがっくりと肩を落とした。
その姿を見て、思わずクスッと笑ってしまう。
「簡単なもんなら、聞いてやってもいいぞ?」
「えっ、なんでですか?」
「俺も結構助かったしなー」
そう言いながら、俺は足元のボールを拾い上げた。
「――俺にできることならなんでもいいぞ」
そう続けた瞬間、ぽつりと高良がつぶやく。
「......そんなこと言って、いいんですか?」
「え?」
顔を上げると、高良が静かに距離を詰めてきていた。
思わず一歩下がると、背中が壁にぶつかる。
「俺が何をお願いするか......わかんないですよ?」
屈んで囁く声が、低くて、近い。
喉の奥で息が詰まる。
次の瞬間、手の中のボールが指から滑り落ち――乾いた音が、静かな体育館に響いた。
◆
結局、高良の“ご褒美”は――アイスを奢ることになった。
コンビニを出ると、夜風が少し冷たくて気持ちよかった。
街灯の光が店の前を照らしていて、俺たちは並んでガードレールに腰を掛けた。
「お前、ちゃっかり限定の高いやつ選んだな」
「それはもちろん、ご褒美なんで」
「俺の貴重なお金なんだから、味わって食えよ」
「ありがたく、いただきますね」
ぱきっと袋を開けて、高良がアイスをかじる。
その横顔を見てると、どうしても“あの瞬間”が頭をよぎる。
――『俺が何をお願いするかわかんないですよ?』
あの低い声、近すぎる距離。
思い出しただけで、心臓の奥がズキンとする。
......なのに、実際のご褒美は“アイス”。
肩の力が抜けて、俺は少しだけ笑った。
『じゃあ、アイス奢ってください』
『アイス......?』
拍子抜けの答えに、心の底からほっとしたのを覚えてる。
『なんだよ。そんなことでいいのか』
『本当は他にいっぱいあるんですけどね。無理やりは嫌なので』
そのときの高良の笑顔は、冗談に見せかけた本音みたいで、胸の奥がざわついた。
「先輩、一口ください」
不意に言われて、俺は一瞬だけ固まる。
いや、別に......他のやつらとは気にしないだろ。
そう思いながら、短く「......ん」と答えてアイスを差し出した。
その瞬間、高良の手が俺の手をグイッと引いた。
距離が一気に詰まって、目の前で――高良がパクリと一口。
「これ、久しぶりに食べると美味しいですね。先輩、こっち食べますか?」
「俺は......大丈夫」
そう言って俯いた。
顔が赤くなってるのが、自分でもわかる。
それを見透かしたように、高良が笑って顔を覗き込んできた。
「最近、先輩が意識してくれてて嬉しいです」
「そんなんじゃねぇよ」
「えー、そんな顔じゃ、説得力ないですよ?」
高良はまた笑った。
その笑顔が、冗談に見せかけた本気で――
胸の奥で何かが静かに鳴った。
......あの時、断ったはずだった。
それでも“諦めない”って言ったあいつは、本当にその言葉を守っている。
だからきっと、俺は答えなきゃいけないだろけど......。
コンビニの白い光が、アスファルトをぼんやり照らしている。
......そもそも俺は、初恋だってまだなんだ。告白だって始めててどうしたらいいかわからないのに。
俺は、こいつのことをどう思ってるんだろう。
そりゃ、いい後輩だし。こいつといるとなんだか気が楽で、居心地がいい――なんて思ったりもする。
けど、「好き」かって聞かれたら、わからない。
なのに、どうしてだろう。
隣に立っているだけで、胸が変に高鳴る。
街灯の光に照らされた高良の横顔が、一瞬だけこっちを向いた。
その視線を受け止めきれなくて、俺は目をそらす。
コンビニの機械的な音がやけに響く。
この気持ちがなんなのか、まだわからない。
ただ、あの夜を境に――
俺の中で、何かが少しずつ変わっていった気がする。
◆
そして、迎えた夏合宿。
バスのドアがプシューッと音を立てて開いた瞬間、むわっとした熱気と、山の濃い緑の匂いが押し寄せてきた。空はやけに青くて、眩しいくらいだ。
「なんだかなぁ。この合宿のために頑張ったのに、いざ来るとなー」
「わかる。自ら地獄に入り込んでる感じな」
バスを降りながら陽稀が笑う。奇跡的に赤点を回避したらしい。
1年の何人かは補講で不参加になったけど、3年生は全員そろった。
2泊3日の合宿。とにかく練習尽くしの生活が、今から始まる。
合宿初日――午前メニューは恒例の「山駆け登り」だ。
「はい集合ー! 走るぞー!」
声を張ると、まだ寝ぼけ眼の一年がぞろぞろと並ぶ。
疲れとか眠気とか、そんなもんに構ってる暇はない。
キャプテンとして、まず自分が動かなきゃな。
「途中で歩いたやつ、全員あとで追加!」
「マジかよ、湊先輩鬼すぎ!」
苦笑いしながらも全員が走り出す。
朝の山道は急で、湿った土の匂いがする。
心臓の音と、シューズが地面を蹴る音だけがやけに響いた。
「高良、ペース落ちてるぞ!」
「だ、大丈夫っす......!」
汗だくの顔を上げて歯を食いしばる高良。
その目だけは、絶対に折れない光をしてた。一瞬昔の高良が浮かんだ。
――ほんと、強くなったな。
俺も負けてられないと息を吸って、叫ぶ。
「ここで止まんな! 最後まで走りきれ!」
そして全員で山頂に着いたとき、
「はぁ、死ぬ......」「脚、もげる......」って声があちこちから上がった。
「よくやった!」
思わず笑って、全員の肩を叩く。疲れながらもみんなどこか嬉しそうだった。
辺りを見渡すと少し離れたところに、水道があった。蛇口をひねると冷たい水が勢いよく出る。
俺はためらわず、頭から浴びた。
「......っはー! 最高!」
冷たさが一気に体に染みていく。
思わず目を閉じたとき、隣で笑い声がした。
「先輩、これ最高っすね!」
高良が、両手で水をすくって頭から被っていた。
水が陽の光に反射して、キラキラと飛び散る。
額にかかる前髪、濡れた肌。
その全部が眩しくて、気づけば目が離せなくなってた。
「......何見てるんですか、湊先輩」
「べ、別に」
慌てて視線を逸らした瞬間――ばしゃっと顔に冷水が飛んできた。
「うわっ!?」
「ぼーっとしてたんで目を覚まさせてあげようかと!」
「この野郎......!」
水をすくってかけ返すと、高良が笑いながら逃げる。
その後ろ姿を追いかけて水を駆け回る。
「おい! こっちにも飛んでるつーの!」
気づけば、周りも全員水を掛け合って大騒ぎになっていた。
「お前ら、無駄に体力使うな!」なんて言いながら、俺も水をかけ返す。
――俺、いつからこんなふうに高良のこと、見てたんだろう。
ふと、そんなことを考えて、心臓がまた強く打った。
◆
風呂から上がると、部屋の中はすでに戦場のあとだった。
「......こいつら、死んだように寝てんな」
俺が笑いながら言うと、陽稀も苦笑した。
畳の上にはタオルを被ったまま動かないやつ、白目をむいて仰向けのやつ、布団にたどり着けずそのまま床で沈んでるやつまで。
今日の地獄みたいなメニューを思えば当然だ。
「俺も早く寝てぇ......」
陽稀があくびを噛み殺しながら呟く。
俺たちは死体の山みたいな部員たちを跨いで、自分たちの布団へたどり着いた。
「明日のメニューもハードだったな」
「この合宿で決まるからな」
監督との打ち合わせで聞いた明日の予定が頭をよぎる。
――そう、この合宿が終われば、すぐに地区予選だ。
監督はこの3日間で、レギュラーの目星をつけ、選抜するだろう。
「今年は1、2年も手強いからなぁ」
陽稀が布団に潜り込みながら言った。
「いかにアピールできるかだな」
俺は頷く。キャプテンだからって特別扱いはされない。チームに貢献できなければ、容赦なく外すのが、うちの監督だ。
部屋の灯りがゆらゆらと暗くなる。
「もうこれで最後か......」
陽稀の声が静かに落ちる。
その言葉が胸に刺さった。
――最後の夏。最後のチャンス。
「......ああ。頑張ろうな」
手を伸ばすと、陽稀も同じタイミングで拳を出した。
こつん、と軽くぶつかる音がして、二人で小さく笑う。
そのまま目を閉じると、疲労で体が沈んでいった。
気づけばあっという間にテスト週間で部活は休み。
静かな放課後、机に向かっても頭に浮かぶのは、あいつのことばかりだった。
――やばい。このままじゃ俺が赤点取るんじゃないか?
キャプテンが補習で合宿不参加なんて、絶対に笑えない。俺は気合いを入れ直してシャーペンを握った。
そして迎えたテスト最終日。
最後の科目は数学。これを乗り切れば終わりだ。
先生が時計を見ながら「では、始めてください」と告げる。
カチリと鳴る秒針の音。
――あっ、ここ。あいつが教えてくれたところだ。
『先輩! ここのマイナスかけ忘れてますよ!』
問題を解きながら、思わず口元が緩む。
なんとか最後まで書き終えたとき、胸の奥に小さな達成感が灯った。
教えてるつもりだったけど――
もしかしたら、俺のほうが教えられてたのかもしれない。
そして結果として、俺は赤点を取ることなく、なんとか乗り切った。
ふぅ、と肩の力を抜けた。部室に向かいながらもふと頭をよぎるのは高良のことだった。
......あいつ、大丈夫だったかな。
心配しながら部室の扉を開けると、眩しい笑顔が飛び込んできた。
「湊先輩! 無事、赤点回避です!」
そう言って高良が差し出した答案には、しっかりと“58点”の数字。その数字を見て俺までうれしくなっていた。
「おお、よくやったな!」
「まじか、俺より高いじゃん!」と翔が横から覗き込む。
「俺、もしかして天才なのかも」
「58点で調子乗るなよー」
俺は思わず吹き出す。
笑い声が響く部室の空気が、なんだか前よりあったかく感じた。
そんな中、陽稀が突然、青ざめた顔で地面に手をついた。
「おい、どうしたんだ?」
顔を上げた陽稀は、今にも泣きそうな声でつぶやいた。
「......だった」
「は?」
「28点だった......」
「はあ!? お前、赤点ギリギリじゃねーか!」
うちの学校は、学年平均の半分が赤点ラインだ。
陽稀は今まで一度も赤点を取ったことがなかったから、完全に油断していたらしい。
「俺だってまさか英語で取るなんて思わなかったんだよ! 日本史に力入れすぎて油断した......!」
「平均57点でアウトか。結構ギリギリだな」
そんな陽稀を励ますように、高良が拳を握った。
「陽稀先輩! 俺、先輩の分まで頑張りますから!」
「もう“無理だった”みたいに言うな!」
わちゃわちゃと賑やかな声が響く。
その光景に、思わず俺は笑ってしまった。
やっぱり、この部の雰囲気が好きだ――
部活が終わったあと、俺はひとり体育館に残ってボールを拾っていた。
家でボール触ってても、一週間も開くとさすがに感覚が狂うなぁ。
「先輩、今日も練習ですか?」
振り向くと、まだ部活着の高良がボールを抱えて立っていた。
いつの間にか、当然のように居残り組になったよなぁ。
「――高良、スパイク打ってくれよ」
そう言うと、高良は目を丸くして、大袈裟に驚いた顔をした。
「初めて湊先輩から誘われた!」
「......嫌のかよ?」
「いいえっ! もちろん、打たせていただきます!」
いつも通りの軽口。
けど、その笑顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
しばらく練習して、俺たちは散らばったボールを集めていた。
体育館には、ボールの転がる音と、外から吹き込む夕方の風の音だけが響く。
「そういえば、“ご褒美”とか言ってたけど。平均いくつだったんだ?」
「それが......あと二点だけ足りなくて......」
高良はがっくりと肩を落とした。
その姿を見て、思わずクスッと笑ってしまう。
「簡単なもんなら、聞いてやってもいいぞ?」
「えっ、なんでですか?」
「俺も結構助かったしなー」
そう言いながら、俺は足元のボールを拾い上げた。
「――俺にできることならなんでもいいぞ」
そう続けた瞬間、ぽつりと高良がつぶやく。
「......そんなこと言って、いいんですか?」
「え?」
顔を上げると、高良が静かに距離を詰めてきていた。
思わず一歩下がると、背中が壁にぶつかる。
「俺が何をお願いするか......わかんないですよ?」
屈んで囁く声が、低くて、近い。
喉の奥で息が詰まる。
次の瞬間、手の中のボールが指から滑り落ち――乾いた音が、静かな体育館に響いた。
◆
結局、高良の“ご褒美”は――アイスを奢ることになった。
コンビニを出ると、夜風が少し冷たくて気持ちよかった。
街灯の光が店の前を照らしていて、俺たちは並んでガードレールに腰を掛けた。
「お前、ちゃっかり限定の高いやつ選んだな」
「それはもちろん、ご褒美なんで」
「俺の貴重なお金なんだから、味わって食えよ」
「ありがたく、いただきますね」
ぱきっと袋を開けて、高良がアイスをかじる。
その横顔を見てると、どうしても“あの瞬間”が頭をよぎる。
――『俺が何をお願いするかわかんないですよ?』
あの低い声、近すぎる距離。
思い出しただけで、心臓の奥がズキンとする。
......なのに、実際のご褒美は“アイス”。
肩の力が抜けて、俺は少しだけ笑った。
『じゃあ、アイス奢ってください』
『アイス......?』
拍子抜けの答えに、心の底からほっとしたのを覚えてる。
『なんだよ。そんなことでいいのか』
『本当は他にいっぱいあるんですけどね。無理やりは嫌なので』
そのときの高良の笑顔は、冗談に見せかけた本音みたいで、胸の奥がざわついた。
「先輩、一口ください」
不意に言われて、俺は一瞬だけ固まる。
いや、別に......他のやつらとは気にしないだろ。
そう思いながら、短く「......ん」と答えてアイスを差し出した。
その瞬間、高良の手が俺の手をグイッと引いた。
距離が一気に詰まって、目の前で――高良がパクリと一口。
「これ、久しぶりに食べると美味しいですね。先輩、こっち食べますか?」
「俺は......大丈夫」
そう言って俯いた。
顔が赤くなってるのが、自分でもわかる。
それを見透かしたように、高良が笑って顔を覗き込んできた。
「最近、先輩が意識してくれてて嬉しいです」
「そんなんじゃねぇよ」
「えー、そんな顔じゃ、説得力ないですよ?」
高良はまた笑った。
その笑顔が、冗談に見せかけた本気で――
胸の奥で何かが静かに鳴った。
......あの時、断ったはずだった。
それでも“諦めない”って言ったあいつは、本当にその言葉を守っている。
だからきっと、俺は答えなきゃいけないだろけど......。
コンビニの白い光が、アスファルトをぼんやり照らしている。
......そもそも俺は、初恋だってまだなんだ。告白だって始めててどうしたらいいかわからないのに。
俺は、こいつのことをどう思ってるんだろう。
そりゃ、いい後輩だし。こいつといるとなんだか気が楽で、居心地がいい――なんて思ったりもする。
けど、「好き」かって聞かれたら、わからない。
なのに、どうしてだろう。
隣に立っているだけで、胸が変に高鳴る。
街灯の光に照らされた高良の横顔が、一瞬だけこっちを向いた。
その視線を受け止めきれなくて、俺は目をそらす。
コンビニの機械的な音がやけに響く。
この気持ちがなんなのか、まだわからない。
ただ、あの夜を境に――
俺の中で、何かが少しずつ変わっていった気がする。
◆
そして、迎えた夏合宿。
バスのドアがプシューッと音を立てて開いた瞬間、むわっとした熱気と、山の濃い緑の匂いが押し寄せてきた。空はやけに青くて、眩しいくらいだ。
「なんだかなぁ。この合宿のために頑張ったのに、いざ来るとなー」
「わかる。自ら地獄に入り込んでる感じな」
バスを降りながら陽稀が笑う。奇跡的に赤点を回避したらしい。
1年の何人かは補講で不参加になったけど、3年生は全員そろった。
2泊3日の合宿。とにかく練習尽くしの生活が、今から始まる。
合宿初日――午前メニューは恒例の「山駆け登り」だ。
「はい集合ー! 走るぞー!」
声を張ると、まだ寝ぼけ眼の一年がぞろぞろと並ぶ。
疲れとか眠気とか、そんなもんに構ってる暇はない。
キャプテンとして、まず自分が動かなきゃな。
「途中で歩いたやつ、全員あとで追加!」
「マジかよ、湊先輩鬼すぎ!」
苦笑いしながらも全員が走り出す。
朝の山道は急で、湿った土の匂いがする。
心臓の音と、シューズが地面を蹴る音だけがやけに響いた。
「高良、ペース落ちてるぞ!」
「だ、大丈夫っす......!」
汗だくの顔を上げて歯を食いしばる高良。
その目だけは、絶対に折れない光をしてた。一瞬昔の高良が浮かんだ。
――ほんと、強くなったな。
俺も負けてられないと息を吸って、叫ぶ。
「ここで止まんな! 最後まで走りきれ!」
そして全員で山頂に着いたとき、
「はぁ、死ぬ......」「脚、もげる......」って声があちこちから上がった。
「よくやった!」
思わず笑って、全員の肩を叩く。疲れながらもみんなどこか嬉しそうだった。
辺りを見渡すと少し離れたところに、水道があった。蛇口をひねると冷たい水が勢いよく出る。
俺はためらわず、頭から浴びた。
「......っはー! 最高!」
冷たさが一気に体に染みていく。
思わず目を閉じたとき、隣で笑い声がした。
「先輩、これ最高っすね!」
高良が、両手で水をすくって頭から被っていた。
水が陽の光に反射して、キラキラと飛び散る。
額にかかる前髪、濡れた肌。
その全部が眩しくて、気づけば目が離せなくなってた。
「......何見てるんですか、湊先輩」
「べ、別に」
慌てて視線を逸らした瞬間――ばしゃっと顔に冷水が飛んできた。
「うわっ!?」
「ぼーっとしてたんで目を覚まさせてあげようかと!」
「この野郎......!」
水をすくってかけ返すと、高良が笑いながら逃げる。
その後ろ姿を追いかけて水を駆け回る。
「おい! こっちにも飛んでるつーの!」
気づけば、周りも全員水を掛け合って大騒ぎになっていた。
「お前ら、無駄に体力使うな!」なんて言いながら、俺も水をかけ返す。
――俺、いつからこんなふうに高良のこと、見てたんだろう。
ふと、そんなことを考えて、心臓がまた強く打った。
◆
風呂から上がると、部屋の中はすでに戦場のあとだった。
「......こいつら、死んだように寝てんな」
俺が笑いながら言うと、陽稀も苦笑した。
畳の上にはタオルを被ったまま動かないやつ、白目をむいて仰向けのやつ、布団にたどり着けずそのまま床で沈んでるやつまで。
今日の地獄みたいなメニューを思えば当然だ。
「俺も早く寝てぇ......」
陽稀があくびを噛み殺しながら呟く。
俺たちは死体の山みたいな部員たちを跨いで、自分たちの布団へたどり着いた。
「明日のメニューもハードだったな」
「この合宿で決まるからな」
監督との打ち合わせで聞いた明日の予定が頭をよぎる。
――そう、この合宿が終われば、すぐに地区予選だ。
監督はこの3日間で、レギュラーの目星をつけ、選抜するだろう。
「今年は1、2年も手強いからなぁ」
陽稀が布団に潜り込みながら言った。
「いかにアピールできるかだな」
俺は頷く。キャプテンだからって特別扱いはされない。チームに貢献できなければ、容赦なく外すのが、うちの監督だ。
部屋の灯りがゆらゆらと暗くなる。
「もうこれで最後か......」
陽稀の声が静かに落ちる。
その言葉が胸に刺さった。
――最後の夏。最後のチャンス。
「......ああ。頑張ろうな」
手を伸ばすと、陽稀も同じタイミングで拳を出した。
こつん、と軽くぶつかる音がして、二人で小さく笑う。
そのまま目を閉じると、疲労で体が沈んでいった。



