第1話 裏切られた夜
雨は、刃よりも冷たかった。
石畳に釘のように打ちつける音が、王都の眠りを細かく裂いていく。鐘の音はとっくに止んで、夜番の兵の足音でさえ、今日はやけに遠い。
俺は屋根の端で息をひそめ、黒革の手袋越しに濡れた瓦の温度を計る。滑る。跳ぶには最悪の夜だ。だが、標的にとっても最悪の夜なら、条件は五分と見ていい。
標的は“賢き公”と呼ばれる宰相。表では慈父、裏では反乱の資 ̶金源 王国の毒だ。
勇者は今日、城内で祝宴を受けている。魔王軍の砦を落とした褒賞だという。宴席の外で、汚れ仕事を片付けるのはいつも俺の役目。影には影のやり方があり、影にこそ秩序がある。
視界の先、宰相邸の窓に灯がともる。遅い。こんな雨でも書簡は止まらないらしい。ならば行程は変えない。
俺は滑る屋根の稜線を猫のように渡り、庭に張られた警戒糸を二重に跨いだ。火打ちの匂い。見張りは街衛兵ではない。私兵だ。宰相の息がかかっている。無駄口はしない。
四つ数えてから、俺は地面に落ちた。雨の音が、着地の衝撃を飲み込む。
窓枠の桟に 爪を掛け、板の隙間に薄刃を滑り込ませる。音は出さない。鍵は抵抗ののち、あっけなく崩れた。
「……賊か?」
中から声。思ったより早い。
違う、と答えかけて、俺は喉の奥で言葉をつぶした。賊ではない。だが、影は影の名を口にしない。
薄暗い書斎の奥、ロウソクに照らされた白い顔。宰相は机に手をついたまま、俺の足元へ視線を落とした。濡れた床。足跡は残らない。靴底には吸水布を仕込んである。
「……勇者の犬か」
「違う。俺は、仕事をするだけだ」
宰相は鼻で笑い、引き出しに伸ばした指を、俺の視線に貫かれて止めた。
その一瞬の隙間に、俺は距離を詰める。薄刃が空気を裂き、キャンドルの炎が震えた。
声も、悲鳴も、血の音さえ、すべて雨に砕かれていく。白い顔は壁にもたれ、目だけが猫のように細く笑っていた。
「……遅すぎたな。影の男」
「何に対してだ?」
「君の主の欲。私を殺しても、あの男はもう……」
言葉はそこで途切れた。もう遅い。
俺は血の飛沫が跳ねなかったことを確認し、宰相の指の向きを追 ̶う。机の上、封蝋の割られた書簡が一通。差出人 王城。印章は
勇者直属の術印。嫌な予感が、濡れた背骨を指で撫でた。
書簡の文面は簡潔だった。
《本夜、闇の賊が宰相邸に侵入し、宰相を暗殺せんとしている。賊は勇者一行の裏切り者、名はクロウ。現場にて討つべし。証人は聖堂。神の加護は真実を見通す》
俺の名が、紙の上で乾いていた。
誰も信じない。ただ、神だけが信じる。そんな文句で、人はいくらでも縛れる。
視線を窓に上げる。雨の幕の向こうに、鉄の靴音が幾筋も重なっ ̶て近づいてくるのが見えた。早すぎる。書簡は囮か。いいや これは罠じゃない。準備された劇だ。
宰相の死体から目を離さぬまま、俺は手袋の縁を整えた。落ち着け。呼吸は浅く、動きは細く。
扉が破られ、火の壁が押し寄せる。松明、槍、祈祷。聖堂騎士たちだ。先頭の男は銀の胸甲を光らせ、俺を見つけるより先に、叫んだ。
̶ クロウ! お前の罪は神が見ている!」「
俺の名前は、堂々と発音された。
奇妙な静けさが、胸の中に降りる。怒りは湧かない。喉は乾かない。あるのは、やっと手の内が見えたという安堵だけだ。
勇者。お前はそこまでして、英雄でありたいのか。
俺はナイフを一つ投げた。火がはぜ、松明が床に落ちる。炎の棚引きを盾に、窓へ走る。
光の矢が背を撫で、聖句が耳を刺す。加護の光は、刃よりも速い。
しかし、影には影の道がある。俺は火の煙に己の匂いを紛れさせ、床に転げた松明を蹴り上げて、壁の掛け布に燃え移らせた。
焦げる布の匂いに、聖堂騎士の足が一瞬とまる。
その止まりが、命の差になる。俺は窓枠を壊し、雨の夜へ身を投げた。
◆
王都の路地は、雨が降ると生き物の腹のような匂いをする。石の隙間から蒸気が立ち、古い酒と火薬と海藻の匂いがごった返す。
胸の鼓動は早いのに、心は静かだ。一度、舌で奥歯を押して合図を送る。奥歯の裏に仕込んだ小さな金球が割れ、苦い薬液が喉に落ちる。体温が下がり、外気の冷たさと同調する。追跡者の感覚をすり抜けるための、影の術。
追手は来る。来なければ劇が終わる。
屋根から屋根へ、濡れた世界の線だけを踏んで走る。足裏の感覚が、幼い頃に盗んだパンの温度を思い出させる。影の育ちに美談は要らない。必要なのは、落ちない足と、躊躇わない心だ。
聖堂の鐘が鳴った。遅い。もう十分なほど遅い。
鐘の音が、勇者の掌の上にあることを、王都の全てに知らせる。
俺の名は、今夜を境に、罪の名に変わる。勇者は、神の加護を背 ̶に、俺を “裏切り者”を 討つ英雄になる。
笑えてくる。
英雄の手は、どれほど白いのだろう。誰かに洗わせているのか。それとも、汚れそのものを白と呼ぶのか。
追手の足音が、やっと近づいてきた。屋根の縁で振り返ると、銀の胸甲が三つ、雨に濡れて重く鈍く光っている。
俺は右の袖から細いワイヤーを引き出し、雨樋にくくる。反対の端を煙突に回して固定し、滑車代わりに短剣を通した。
左腕に力を掛け、体を滑らせる。地上に降りる途中、一瞬だけ窓の中の人間の顔が見えた。眠れない夜を抱えた誰か。こちらを見たようで、見なかった。
地面に着くと同時に、ワイヤーを断つ。追手が同じ手を使えなくなる。
裏路地の奥、青い布が一瞬だけ揺れた。合図だ。
俺は濡れた壁に背中をつけ、青布の屋台の陰に滑り込む。
「……生きてたか、クロウ」
声は低く、酒で焼けている。
屋台に座る女は、商人の顔を装っていたが、背中の線は武器の重さを覚えていた。
マーヤ。俺の古い相棒。血の匂いを嫌い、金の匂いを嗅ぎ分ける女。
「宰相は」
「終わった。予定通りに」
「予定外は?」
「俺の名前が、王城の紙に載っていた」 マーヤは目を細め、唇の端だけで笑った。
「勇者の手。ついに本気で切りに来たか」
「切りに来たのは俺だ。あいつは、ただ舞台を用意した」
「舞台?」
「俺という“裏切り者”を討つ、英雄の劇だ」
マーヤは皿の上のナッツを指で弾いた。木の器の底で乾いた音が鳴る。
「逃げる?」
「逃げない。隠れる。しばらくは海風の中で匂いを洗う。……それと」
「それと?」
「見る」
俺は雨の向こうに立つ塔を見上げた。王城の尖塔。祈りの灯が遠くに霞む。
あそこで、勇者は笑う。清い顔で。
あそこで、聖女は祈る。目を閉じて。
あそこで、王は眠る。すべてを知らぬふりで。
「何を」
「勇者が堕ちるのを」
マーヤは、ほんの少しだけ眉を上げた。驚きでも、嘲りでもない。
俺の言葉の温度を量る、商人の目。
「お前が堕とすんじゃないのか」
「俺は、もう充分だ。手を汚すまでもない。あいつは自分で落ちていく」
「根拠は?」
̶「加護は万能じゃない。代償がある。 それに」
「それに?」
「“英雄”は、喝采を浴び続けると、癖になる。癖は、いつか形を壊す」
沈黙。
屋台の布越しに、雨の匂いが濃くなる。遠くで犬が吠える。
マーヤは肩をすくめ、懐から濡れないよう包んでいた小さな包みを取り出した。
「これ。頼まれた通りに仕上げといた。噂を生む石。表から見れば
̶ただのガラス、裏から覗けば 」
「真実のように見える嘘」「二つの真実の間に、丁度良くはさまる嘘だよ」
俺は包みを受け取り、厚手の布の内側にしまった。
噂は刃より鋭い。だが、嘘は使い所を誤れば、自分を斬る。
勇者は、刃の扱いは達者でも、噂の扱いは下手だ。英雄という肩書きは、否定の声を遠ざける。遠ざかった声は、いつか怒号に変わって戻る。
「マーヤ。お前はしばらく王都を離れろ」
「命令か?」
「願いだ。俺を売るなら今が高い。売らないなら、今が一番危ない」
マーヤは笑った。今度は、酒の熱が混じった笑いだ。
「売るくらいなら、とっくに売ってる。お前は高くて、買い手が少ない」
「そうか」
「そうさ。……気をつけな、クロウ」
マーヤは青布をそっと下ろし、屋台はただの屋台に戻った。
俺は背を丸め、雨の縫い目を選んで歩き出す。
王都の川は、城の堀から流れ出て市場を横切り、港へと続く。港の匂いは強い。油、塩、魚、焦げた綱の繊維。そのすべてが、血の匂いを弱めてくれる。
倉庫街の一角に、俺のための隙間がある。壁の石が一つだけ僅かに浅い場所。そこに指を差し込むと、石は軽く前に動き、細い通路が口を開けた。
通路の先、暗い部屋に灯したランプが一つ。
ここが俺の巣だ。情報の巣であり、記録の巣でもある。壁には地図、糸、針、名前、印。
勇者の名前は赤い糸で囲まれている。宰相の名は、今しがた黒で塗りつぶした。
机に座り、濡れた外套を椅子の背に掛ける。
紙を広げ、古い筆を握る。今夜のことを書く。宰相の最期の言葉、聖堂騎士の顔。書簡。書簡に使われていた印。蝋の色。匂い。書記の癖。
記録は、感情を薄める。薄めた感情は、やがて冷たい刃になる。
書き終えると、俺は筆先を布で拭い、窓の外の雨に耳を澄ました。 雨音は、街を洗う。血も、足跡も、噂も、すべてをやがて薄める。
だが、残るものもある。濡れた石の下に沈んでいく古い泥のように。
机の引き出しを開ける。底板のさらに下、木が薄く削られた空洞に、一本の短剣が眠っている。
̶ 勇者に渡した はずの短剣。魔王軍の砦を落とした夜、酒と歓声の中で、俺はそれを奴に預けた。
「お前が持て。俺よりも、華やかな場所に似合う」
奴は笑って受け取った。誇らしげな、純粋な笑みで。
翌朝、短剣は俺の枕元に戻っていた。柄に刻んだ目印だけが違っていた。微細な、でも確かな違い。
あれは、最初の“違和”。俺は見逃さなかった。 笑顔の裏に、初めて影を見た夜。
俺は短剣の柄を撫で、そこに掘られた浅い線の感触を改めて確かめる。
あの時から今日まで、少しずつ、少しずつ、舞台は組まれていったのだ。
宰相の死は、その一幕にすぎない。
灯りを落としかけてから、俺は手を止めた。
扉の向こう、濡れた石を踏む猫のような足音。マーヤではない。
指は自然に刃へ伸び、影は自然に壁へ消える。
扉が二度、静かに叩かれた。
間合いを詰めた俺の前に現れたのは、黒い外套に白の襟。聖句の刺繍。
̶ 聖女の従者。
「クロウ・アーガス殿ですね」
声は低く、抑えられていた。恐れと、使命の混じる声。
俺は刃を見せず、視線だけで応じる。
̶「聖女 リディア様がお呼びです。……“真実を知りたい”と」
雨が、遠くで途切れた。
劇は思ったより早く、次の幕を欲しているらしい。
「今は行けない。俺は、濡れている」
従者は頷いた。濡れているの意味を、彼は理解する程度の頭を持っていた。
「では、明夜。聖堂の裏庭にて」
扉が閉じ、足音は雨と混ざって消えた。
俺は刃から手を離し、椅子に戻る。背もたれは冷たく、骨に硬かった。
勇者の傍にいる聖女が、真実を求める。
真実は、刃のように人を切る。血は出ないが、魂が裂ける。
それでも求めるなら、彼女は目を開けるだろう。英雄の光の内側にある、影の形を。
灯を落とした。暗闇は、俺の居場所だ。
今夜、俺は決めたのだ。
剣を抜かず、手も汚さず、ただ舞台を整え、観客席で静かに拍手をする。
勇者が自分の足で段を踏み外す、その瞬間まで。
̶ 堕ちる者ほど、美しい音を立てる。
雨はまた細くなり、王都の高みに、薄い月が滲んだ。
第2話 聖女の呼び声
夜が明けきる前の空は、灰色よりも鈍い鉄の色をしていた。
港の倉庫群はまだ眠っている。だが、影は眠らない。
俺は古びた木箱の上で、濡れた外套を絞りながら、昨夜の従者の言葉を反芻した。
̶ “真実を知りたい”。
あの聖女リディアが、そんなことを言うとは思わなかった。
彼女は、勇者に寄り添う“光”。
王都の誰もがそう呼び、彼女自身も信じていたはずだ。
だが光は、長く続くほど、影を濃くする。
俺は指先に残った血の跡を見つめた。
宰相の血ではない。昨日、逃げる途中で割れたガラスの欠片が刺さったものだ。
それでも、痛みは生きている証拠だ。死者は痛みを覚えない。
そして、俺はまだ“生き残っている側”だ。
◆
聖堂の裏庭に足を踏み入れたのは、鐘が二度鳴った後だった。
朝霧が低く漂い、花壇の薔薇は露に濡れて重たげに垂れている。
その中央に、白い法衣を纏った少女が立っていた。
「……来てくださったのですね、クロウさん」
聖女リディア。
勇者と共に神の加護を授かった、純白の象徴。
だが今、その顔には疲労の影が色濃く差していた。目の下には微かな隈。指は祈りよりも震えに近い。
「従者がよく通したな。俺は今、指名手配の“裏切り者”だぞ」
「ええ。……でも、あなたは裏切っていないでしょう?」
穏やかな声。
その瞳は、まっすぐに俺を見ていた。嘘を映さない鏡のように。
だが、真実は往々にして、鏡の外側にある。
「俺が信じるものは影だけだ。あなたが言う真実とは、どんな光のことだ?」
「……勇者様が、変わってしまわれたのです」
その一言に、空気が揺れた。
リディアの声は震えていない。ただ、長い祈りのあとに息を吐くような静けさだった。
「加護を授かった頃の勇者様は、確かに優しかった。誰よりも民を思い、戦場では決して怒らなかった。
̶ でも最近は 笑わないのです。民を“数”と呼ぶようになりました」
俺は無言で、袖から小さな包みを取り出した。マーヤの作った“ 噂の石”だ。
表から見ればただのガラス。裏から覗けば、嘘を真実のように映す。
俺はそれをリディアの足元に転がした。
「これを覗いてみろ」
リディアは戸惑いながら、しゃがみ込む。
石の中には、王城の一室が映っていた。
勇者が椅子に座り、手を震わせながら書簡を破り捨てている。
その眼は、狂気に濡れていた。
「……これは……?」
「噂だよ。だが、真実と嘘の境目にある。
お前が“信じたいもの”が、映る仕組みだ」
リディアの指先が震えた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、唇を噛んだ。
「……この光は、神のものではありません。あの方の中に、何か別の“声”が……」
そう呟くと、彼女は胸に手を当てて祈りを捧げた。
その瞬間、彼女の背後で、空気が裂けた。
̶ 加護の光。
だがそれは、俺の記憶にある“聖なる輝き”ではなかった。
白金ではなく、濁った赤。まるで血が光になったような色。
リディアの体が一瞬だけ硬直し、光が爆ぜる。花壇の薔薇が一斉に枯れた。
「……見えましたか」
「ああ。勇者の加護は……すでに侵食されている」
「私には止められません。祈っても、沈黙が返るだけです」
リディアは震える手で胸のペンダントを外し、俺に差し出した。
透明な宝石の中央に、細いヒビが走っている。
「神の加護を象徴する“祝福の印”です。……勇者様のものと対の形。
彼の印は、もう完全に黒く染まっていました」
「……そして、俺を呼んだ理由は?」
̶ あなたなら、止められると、思ったのです」「
俺は短く息を吐いた。
笑うほど、哀しい言葉だった。
「俺は殺すことはできても、救うことはできない」
「それでも、あなたは一度、勇者様を救ったではありませんか。
あの砦の夜。あの方が剣を折られた時、あなたが影から守ったと聞いています」
「昔話だ。今のあいつは、もう“勇者”じゃない」
「それでも……私には、あなたしか頼れません」
沈黙。
霧が薄れ、朝の光が差す。
リディアの頬に落ちる光は、祈りというより、諦めの色に近かった。
俺は包みを拾い上げ、ポケットに戻す。
視線を彼女から外し、花壇の枯れた薔薇を見た。
「勇者の加護が壊れていくのは、神の沈黙のせいじゃない。
“人間”の欲が、神の声を濁らせたんだ」
「……それを証明できるのですか?」
「できる。けど、証明した瞬間に、この国は壊れる」
リディアは俯いたまま、小さく頷いた。
彼女も分かっているのだ。真実は、祈りよりも重い。
̶「お願いです、クロウさん。勇者様を 」
「俺は見届けるだけだ」
その言葉を、切り捨てるように言った瞬間、
聖堂の鐘が高く鳴った。
鐘の音に混じって、城門の方角から喧騒が響く。兵士の怒号、民の悲鳴。
「何だ?」
リディアが振り返り、俺はすでに屋根へと跳んでいた。
聖堂の尖塔から王都を見渡す。
城壁の上、黒い煙が立ち上っている。
̶ 勇者の旗が、燃えていた。
◆
勇者が初めて、自分の加護で人を殺した日。
それは、俺が“見届け役”として舞台に戻る幕開けだった。
第3話 腐敗の勇者
王都の空は、まだ煙の匂いを残していた。
昨日、勇者の加護が暴発したと伝えられている。
原因は魔族の呪い、というのが王国の公式発表だ。
だが、俺は知っている。あれは呪いでも、神の試練でもない。
̶ 人間の傲慢が、加護の器を壊しただけだ。
通りを歩けば、どこも静かすぎる。
焼けた家の前で泣く女の子を、兵が無言で通り過ぎる。
祈りの声も上がらない。人々は、誰を信じていいのか分からなくなっていた。
俺は路地裏の屋台に腰を下ろし、冷めたスープを啜った。
背後の陰から、マーヤの声が落ちてくる。
「勇者の旗、もう焼けたまんまだってさ。王は“新しい紋章を準備中”だとさ」
「つまり、傷を隠す気か」
「そう。加護が暴走したんじゃなく、“新たな段階に進化した”って触れ込みになる」
マーヤが差し出した紙には、すでに印刷された“新紋章案”が描かれていた。
中央には勇者の象徴だった白い太陽。
だが、その周囲を囲むのは、血のような赤い輪だ。「……これは悪趣味だな」
「王の顧問が選んだらしい。“力強くて神々しい”ってさ」
俺は鼻で笑う。
民の不安を塗り潰すための派手な色ほど、腐臭を隠すのに都合がいい。
「マーヤ、例の“声”はどうだ」
「王都の下層で噂が回ってる。“勇者様の光を見た”って奴らがな。
でも誰も、同じ色を言わない。白だった、赤だった、黒に近かっ
̶ バラバラだよ」た
「なるほど。つまり、“人によって違って見える”」
「嘘の光は、見る人の罪を映すってことか?」
「もしくは、神がもう見ていないということだ」
マーヤが短く笑った。
それは皮肉でも同意でもなく、ただ“恐怖”の笑いに近かった。
「……あんたは、まだ見届ける気なのか?」
「ああ。俺は剣を抜かない。だが、糸は引く」
「糸?」「勇者のまわりには、操られた傀儡が多すぎる。聖騎士、貴族、学 ̶者、神官 それぞれが“英雄”の恩恵を食ってる。
その糸を少しずつ、切ってやる」
「殺さないで?」
「殺さなくても、十分に堕ちる」
マーヤは肩をすくめ、懐から羊皮紙を取り出した。
そこには、勇者パーティの構成員たちの名前と、現在の所在が記されている。
半分はすでに失踪。残る数人も、表向きは“出世”したことになっている。
「最初は誰だ?」と彼女が問う。
俺は紙の端に指を置き、ある名をなぞった。
「リューク。勇者の参謀役。
元々は宰相の弟だ。今は“聖騎士団の指揮官”。」
「内部の情報源ってわけね」
「そう。こいつが王と勇者の間を繋いでる。……だが、繋がりが深いほど、切れたときに響く音も大きい」
◆
夜。
王都の北端にある神殿街。
聖騎士団の宿舎には、金で縁取られた窓が並んでいた。 そのうちの一つに、俺は忍び寄る。
内部では、リュークが机に向かって何かを書いていた。
背筋は伸びているが、目の下の影は深い。
勇者の下についた者は、皆同じ顔になる。
“誇り”という名の縄で、自分の首を絞める顔だ。
俺は音もなく天井の梁に移り、袋から黒い粉を取り出す。
“記憶の香”。嗅いだ者は、最も恐れている光景を夢に見る。
直接手を下すわけじゃない。夢を見て、壊れるのは本人の選択だ。
粉を蝋燭の火に投げ入れると、青い煙が立ち昇った。
リュークの瞼が落ち、筆が机の上を滑る。
彼の手が震え、紙の上に走った文字が乱れる。
《勇者、神に見放される》
……見放された、か。
人はいつも、自分の罪を神の沈黙のせいにする。
俺は屋根に戻り、煙の流れを見た。
風が南へ運んでいく。勇者の城へ向かって。
◆
翌朝、王都に新しい噂が広がった。
̶ “勇者が夢の中で、神に罰せられた”と。
その噂は尾ひれをつけて広がり、
昼には「勇者が民の魂を喰らった」、 夜には「聖女が祈りを拒んだ」になった。 俺は屋根の上からその流れを眺めていた。
噂は風に乗り、やがて毒になる。
そして毒は、いずれ“自分自身”に返る。
影は剣を振るわない。
けれど、糸を引くだけで世界は少しずつ崩れる。
俺は空を見上げ、呟いた。
̶「さて、次はどの糸を切るか 」
◆
その頃、王城の玉座の間では、
勇者が膝をつき、血を吐いていた。
「……また、神の声が聞こえない……!」
リディアは震える手で彼の肩を支えた。
勇者の目は、狂気と焦燥に濡れている。
背後では、王が眉を寄せたまま沈黙していた。
「お前は……クロウを討てと言ったのに……どうして……!」
「落ち着け、勇者。彼は影だ。影は斬れん」
王の言葉に、勇者は拳を握りしめた。
手の甲に、黒い紋が浮かび上がる。
“神の加護”が、明らかに歪んでいた。 ̶「……あいつが笑っている。どこかで、俺を見て 」
勇者の叫びが、王城の柱に反響した。
その声は、まだ誰も知らぬ“堕落の序章”だった。
第4話 王都潜入
王都に、妙な静けさが流れはじめていた。
昨日まで英雄を讃えていた市場の歌が、今日は途絶えている。
代わりに聞こえるのは、囁きだ。
̶ 「勇者は呪われた」「神に見放された」
その声は小さい。だが、影は小さい音を好む。
俺の計画は、ようやく呼吸を始めた。
◆
夜の王都は、月明かりがある分、昼よりも賑やかだ。
密売人は声を潜め、貴族の子弟は仮面舞踏会の帰り道で愚かな歌を口ずさむ。
俺は彼らの誰にも紛れられる。
今夜の顔は、“ラヴェン商会の副代表”。
偽の書状と印章、王室の通達を模した命令書、
そして、笑顔。表の人間がもっとも信じやすい仮面だ。
̶ 行き先は 王都神殿。
そこには勇者を支える神官たちの集会がある。
“勇者の加護を信じ続ける者たち”の最後の防衛線だ。
信仰は脆い。疑いがひとつ入れば、砂上の塔になる。
◆
「おや、あなたが“供物商会”の方ですか?」
神殿の裏門を守る神官が、半信半疑の顔で俺を見た。「ああ、聖堂長の命で来た。勇者様の加護を安定させるための儀式用香料を」
俺は包みを見せた。
̶ 中身は香料 に見せかけた、“幻香”。
祈りの場に焚けば、見る者の心の奥にある“恐怖”の形を光として浮かび上がらせる。
神官は目を細め、香りを嗅いだ。
そして、満足げに頷いた。
「……なるほど、清らかだ。入ってよい」
俺は礼をして、石畳を踏みしめる。
神殿の中は眩しすぎた。
白い大理石の柱、金で縁取られた聖句、燭台の炎。
だがその奥に、祈る声よりも強い“恐れのざわめき”が漂っていた。
勇者が壊れ始めているのを、誰もが知っている。
̶ それでも、信じたい 信仰とは、そういう“諦め”の形だ。
◆
祭壇の奥。
俺は香料を焚き、煙が立ち昇るのを見届けた。
白い煙は天井の高みで赤く染まり、ゆっくりと形を変えた。
̶ 人の形。剣を掲げ、光を振りまく 勇者だ。
だが、その顔が次第に歪む。
血の涙を流し、笑いながら、背後の神像を焼く。
神官たちの悲鳴が響く。
「加護が……加護が堕ちた!」
予定通りだ。
俺は小声で呟く。
̶ 舞台は整った」「
だが、そこで背後の気配に気づいた。
香の煙に混ざる、異質な光。
白ではなく、銀。
リディアだった。
◆
「やはり、あなたでしたか……クロウさん」
振り返ると、聖女の法衣が闇の中で揺れていた。
彼女の手には、俺が置いたはずの幻香の包み。
すべて見られていたのか。いや、見抜いていたのだ。
「祈りの場に幻惑を? あなたは何を望むのです?」「望みはない。ただ、“真実”を見せただけだ。
̶ 勇者が恐れているものを 神官たちにも見せた」
「恐れ? 勇者様が恐れているのは、敵でも魔王でもない……」
リディアは一歩近づく。
その目は、涙でも怒りでもない、ただ真っ直ぐな光だった。
̶ 自分自身です。「
あの方は、誰よりも弱さを憎んでいる。
あなたの幻は、それを暴いた。だから壊れてしまう。
そんなことをして、あなたは何を得るのですか?」
「何も得ない。俺は、観客だ。舞台が崩れるのを見届けるだけ」
「それを“正義”と呼ぶのですか?」
彼女の声が震えた。
信仰が崩れはじめている音だった。
俺は短く息を吐いた。
「正義なんて、誰かが言葉にした時点で嘘になる。
俺は、嘘が暴かれる瞬間を見たいだけだ」
「……それがあなたの生き方なのですね」
リディアは小さく祈りの印を結んだ。
そして、俺の手の中に、昨日渡した“祝福の印”の欠片を戻した。
「これを返します。
あなたの手には、もう“加護”は要らないのでしょう」
「……ああ。加護は呪いと同じだ。
信じた瞬間に、縛られる」
「でも、祈りは縛りません。
̶ 祈りは、ただ誰かを想うこと。 それを、あなたは忘れている」 彼女はそう言って、去った。
香煙の中、彼女の足跡だけが淡く光を残していた。
◆
夜が更け、神殿の外でマーヤが待っていた。
「どうだった?」と訊かれ、俺は肩をすくめる。
「聖女は……想像以上に賢い。
そして、危うい。あの光は、勇者よりも深い闇を抱えている」
「闇のある聖女、ってのは嫌いじゃないけどね。
で、次はどうする?」
「次は、“噂の王”を仕上げる。
民衆が勇者を恐れ始めた今、もう一押しだ」
「お前、ほんとに手を汚さねぇな」
「汚すほどの血は、もう流れた。
俺は、それを洗う役だ」
マーヤは苦笑した。
港の方から、遠く鐘の音が響いた。
王都がまた一夜、腐っていく音だった。
俺は空を見上げた。
月が、ちょうど欠け始めている。
勇者が堕ちていく速度と、同じくらいの速さで。
第5話 糸を引く者
王都では、風が噂を運ぶ。
一人の老婆が祈りの途中で囁いた言葉を、子どもが聞き、商人が客に漏らし、兵士が酒場で語る。
夕暮れには一つだった物語が、夜には百の形に変わる。
そして、翌朝には誰もが「それを見た」と言い張る。
̶ 人の記憶ほど、扱いやすい糸はない。
◆
俺が仕掛けた“噂”は、今や王都のどこにでもある。
勇者が夜な夜な城の屋上で誰かと話している。
神の声を聞くために民を生贄にしている。
聖女が泣いて祈るのは、勇者の罪を隠すため。
̶ どれも嘘だ。だが、真実のように響く。
マーヤが市場の屋根に腰を下ろし、笑いながら言った。
「人間って、ほんと滑稽だね。
誰も見てないのに、“見た”って言うんだから」
「人は、信じたい嘘を選ぶ生き物だ。
そして、その嘘が“物語”になった時、真実になる」
「じゃああんたは、嘘の語り部か」「違う。俺は脚本家だ。 “堕ちていく勇者”という劇のな」
マーヤが手を伸ばし、空に漂う風船の糸を掴んだ。
風船には、子どもの落書きのように「神に選ばれし者、堕つ」と書かれていた。
小さな風が吹き、それが空へ消える。
̶ 風さえも、俺の味方をしているようだった。
◆
その頃、王城。
勇者は地図を睨みながら、焦燥の色を隠せずにいた。
側近のリュークが報告する。
「勇者様、昨夜も市民の間で不穏な噂が広まっています。
̶ “神の加護が濁った”“勇者が人を殺した”など 」
「くだらん……!」
勇者の手が机を叩いた。
地図の上に置かれた杯が転がり、赤い液体が流れ落ちる。
その色は、まるで血のようだった。
「誰が言い出した……? 誰がこんな……!」
「特定は困難です。まるで、“見えない糸”で繋がっているようで
̶ 」
「“糸”……だと?」
勇者の眉がぴくりと動いた。 顔を覆うように、右手の甲の黒い紋が淡く光る。
それは、加護の暴走の兆候。
怒りが頂点に達するたび、神の声ではなく、何か別の“囁き”が頭に響く。
̶ お前を笑っている。
̶ 影の中から見ている。
̶ 殺せ。全てを焼け。
「……誰かが、俺を監視している。どこかに、影がいる」
勇者の瞳は、焦点を失っていた。
リュークが言葉を選ぶように口を開く。
「勇者様、“影”など存在しません。
それは……恐れの幻です」
「黙れ!」
光が弾け、リュークの頬を焼いた。
勇者は息を荒げ、手を震わせる。
「……すまない、リューク。俺は、少し……疲れている」
「……ご休息を」
リュークが下がると同時に、勇者は窓辺に立った。
夜風が吹き込み、遠くの街灯がゆらぐ。
闇の中で、彼は確かに見た気がした。
̶ 屋根の上、黒い影が、静かに笑っていたことを。
◆
俺はその屋根の上にいた。
勇者が視線をこちらに向けた瞬間、わざと灯りの反射に身を晒す。
気づかせることこそ、次の罠だ。
「気づいたか。ようやく、幕が開くな」
マーヤが隣で息を呑む。
「見つかるぞ」と囁いた声を、俺は手で制した。
「見つかっていい。
“影の存在”を信じさせることが、最初の崩壊だ」
俺は腰の小袋から一枚の札を取り出し、屋根の上に置く。
それは、“真実の写し”と呼ばれる魔具。
見る者の“恐怖”を形にする鏡だ。
勇者がそれを目にすれば、
彼は自らの心に宿る“影の姿”を見てしまう。
̶ そして、それが “俺”に見えるように、仕組んである。
◆
翌朝。
王都全域に、もう一つの噂が流れた。
̶ 勇者が夜な夜な、“黒衣の男”と語り合っている。
̶ その男は、“影の王”と呼ばれている。 噂の源を誰も知らない。 だが、全ての路地で、子どもたちが真似をした。
黒い布を纏って「影の王」と遊び、母親たちは怯え、
兵士たちは剣を抜きながら空を睨んだ。
俺は路地裏でそれを見ていた。
マーヤが笑いながら、肩をすくめる。
「もう劇場は満員だね、クロウ」
「舞台が燃えるのはこれからだ。
観客はまだ、誰が役者か知らない」
「勇者に見つかったってわけか」
「ああ。昨夜、目が合った。
あいつの瞳に、“俺という幻”が焼きついた」
「つまり、もう退路はない」
「最初から、退路など選んでいない」
俺は立ち上がり、灰色の空を見上げた。
雲の切れ間に、微かに陽が差す。
̶ それはまるで 舞台照明のようだった。
「勇者が、俺という“影”を恐れた時。
その恐怖が、真実に変わる」
「そして、あんたはその糸を引き続けるわけだ」「糸はもう、王都全体に張った。
あとは、風を待つだけだ」
マーヤが微笑む。
「風ってのは……誰が吹かせるんだい?」
俺は静かに答えた。
「神だよ。
̶ いや、“神を装った人間”だ」
◆
同じ頃、聖堂ではリディアが祈っていた。
だがその瞼の裏に浮かぶのは、光ではなく影。
クロウの言葉、そして勇者の歪んだ笑み。
どちらが真実なのか、もはや分からない。
「……もし、彼の言うことが真なら……
この祈りは、誰のためのもの……?」
答えは、神からも返ってこなかった。
ただ、聖堂の燭台がひとつ、音もなく消えた。
̶ まるで、誰かが“光”を一つ摘み取ったように。
第6話 聖女の涙
王都の朝は、いつもより冷たかった。
鐘の音が一度鳴るたびに、どこかで誰かが祈りをやめていくような空気。
広場ではまだ勇者の像が立っていたが、その足元には花ではなく、石が投げられていた。
花は枯れ、言葉は乾き、人々の信仰は砂のように崩れていた。
◆
聖堂の奥、祈りの間。
リディアは膝をつき、両手を組んでいた。
けれど祈りの言葉は声にならず、唇の動きだけが宙に浮く。
十日間、彼女はほとんど眠っていなかった。
勇者の加護は、日に日に乱れている。
̶ その光を鎮めることができるのは、神の声を聴く聖女だけ ……のはずだった。
̶「……神よ、どうか 」
言葉が途切れた瞬間、耳元で囁く声がした。
̶ 神は沈黙している。
̶ だが“影”は、お前を見ている。
「っ……!」
リディアは顔を上げた。 天井の聖像が見下ろす中、彼女の視界に黒い残像が滲む。
影が、柱の間を掠めて消えたように見えた。 幻覚か。それとも、クロウが見ているのか。
恐怖ではなく、なぜか安心が胸に満ちた。
̶ 彼なら、まだこの国を見捨てていない。
そう思う自分に、リディアは驚いた。
◆
一方その頃、勇者は王の間で荒れていた。
机の上には、処刑命令書の山。
「噂を広めた罪人」を次々と裁く判が押されている。
王は沈黙し、臣下たちは目を逸らす。
勇者の瞳だけが赤く濁っていた。
「この国は腐っている。
̶ 神を疑う者は、すべて 罪人だ!」
リディアが駆け込んできた。
「勇者様! お願いです、民を罰しないでください!」
「リディア……お前まで俺を疑うのか?」
̶「疑ってなど !」
「なら、祈ってみせろ。
俺の中にある“光”が、まだ神のものだと証明してみせろ!」 勇者が手をかざすと、加護の光が迸った。 白いはずの光が、紅く染まっている。
それは血と同じ色。
リディアの頬を撫で、床に燃えるような紋を残した。
̶「見ろ! 神はまだ俺に力を 」
「違います!」
その叫びは、祈りではなかった。
リディアの声が石壁に反響する。
「これは、神の声ではありません……!
あなたの怒りが光を濁らせているんです!」
勇者の目が揺らぐ。
彼は一歩、二歩と後ずさりした。
その指先が震える。
̶「リディア……お前も、あの影に 」
「影?」と彼女が問う前に、勇者は剣を掴み、叫んだ。
̶「俺を笑っている奴がいる! 闇の中から俺を !」
剣が振るわれ、聖堂の柱が砕けた。
リディアは悲鳴を飲み込みながら、崩れる瓦礫の下を走った。
勇者の叫び声が背後で響く。
「出てこい、クロウ! 貴様がこの国を壊したのだろう!」 その声は、神の加護よりも深い狂気の色を帯びていた。 ◆
その叫びを、俺は屋根の上で聞いていた。
王城の尖塔から響く声は、街中に反響する。
人々は怯え、祈りをやめる。
劇は予定よりも早く燃えはじめていた。
「……勇者が、完全にこっちを“見た”か」
隣でマーヤが低く口笛を吹く。
「派手に燃やしたもんだね。こりゃ神様も逃げる」
「神は最初から舞台にいない。
俺たちだけで、芝居を終わらせる」
「それで? あの聖女は? あんたの“観客”じゃなくなったんだろ」
「……彼女は、舞台の外から涙を流している。
だが涙は、観客を呼ぶ。
信仰よりも速く、噂よりも確実に広がる」
俺はポケットの中の欠けた“祝福の印”を握った。
リディアが返したそれは、もう微かな光も放たない。
だが冷たく硬い感触だけが、確かに存在している。
̶ 祈りは縛らない。
彼女はそう言った。
なら、俺がしてきたことは、ただの“縛り”だったのかもしれない。
勇者を、神を、そしてこの国を。
糸で縛り、動かし、壊した。
それを正義と呼ばないなら、何と呼べばいい?
俺は夜空を見上げた。
雲が裂け、淡い月が顔を出す。
その光の下で、ふと何かが頬を伝った。
̶ 雨ではない。涙だ。
俺はもう何年も、泣いたことなどなかったのに。
「……観客が、舞台に泣くとはな」
マーヤが驚いたようにこちらを見る。
俺は小さく笑って肩をすくめた。
「いい劇には、涙が必要なんだ。
たとえ、それが聖女の涙でも。
̶ いや、俺の涙でもな」
◆
その夜、リディアは一人、崩れた聖堂の跡で祈っていた。
瓦礫の隙間から差す光が、涙を照らす。
彼女の唇が震え、かすかに名を呼ぶ。
「……クロウさん……」 祈りではない。 ただ、届かない誰かへの呼び声。
その声を、誰かが暗闇で聞いていた。
影の中、ひと筋の涙を指で拭いながら。
第7話 呪われた加護
夜が赤く染まっていた。
王都の上空を、火の粉が吹雪のように舞う。
祈りの鐘は鳴らない。聖堂の塔は倒れ、城門は炎に包まれていた。
人々は叫び、逃げ惑いながらも、誰も「神の加護」を口にしなかった。
̶ それが、何よりの皮肉だ。
屋根の上から、俺は燃える街を見下ろしていた。
王城の中央、聖なる光が爆ぜている。
あれが勇者の加護。
神が授けたはずの力が、今や災厄そのものになっていた。
「……始まったか」
隣でマーヤが息を呑んだ。
彼女の瞳に、燃える王都が映る。
その光景は美しく、そして絶望的だった。
「加護ってのは、あんな化け物じみたもんなのかい」
「元は違う。
本来、加護は神の“信号”だ。
人の心が清ければ清いほど、神の力は穏やかに流れる。
̶ だが勇者の心が腐った時 力は、器を壊す」
「つまり、あの光は……」「神の沈黙に耐えられなかった人間の末路だ」
俺は屋根の縁に手をかけ、風下に身を乗り出した。
炎の熱気が頬を焼く。
その向こう、王城の中庭で勇者が立っていた。
背中の翼のように広がる光が、空を裂く。
「神よ……俺はまだ、間違っていない……!」
勇者の叫びが、雷鳴のように王都に響く。
だがその声には、祈りではなく焦燥しかなかった。
地面が震え、建物が次々と崩れていく。
王は逃げた。聖堂騎士は恐怖に凍りつき、
リディアだけが、彼の前に立っていた。
「勇者様! その光を止めてください! それは神のものではありません!」
「黙れ! 神は沈黙した! ならば俺が神になる!」
リディアの頬に光が当たり、焼けるような音が響く。
彼女は泣きながらも、彼の腕を掴んだ。
「お願いです……あなたは、そんな人じゃなかった……!」
「俺を見下ろすな! お前も俺を裏切ったんだ!」
勇者が腕を振る。
その一閃が、空気を裂き、聖女の法衣を切り裂いた。 リディアが倒れ、石畳に手をつく。
その涙が、燃える地面に落ち、蒸気を上げた。
俺はその瞬間、屋根から飛び降りていた。
◆
城壁の上、熱気の中を駆ける。
勇者と聖女の間に割り込むように降り立つと、
勇者が目を見開いた。
「……お前か、クロウ!」
「相変わらずだな。
誰かを“裏切り者”にしないと、自分を保てない」
̶「黙れ! 貴様が俺を !」
「俺は何もしていない。
お前が勝手に堕ちただけだ」
勇者の加護が唸りを上げる。
紅い光が渦を巻き、空を焦がす。
その中に、一瞬だけ“黒い影”が見えた。
まるで人の形をした神の亡霊のように。
「見えるか、勇者。
それが本当の加護の主だ。
神じゃない。お前の“欲”が形をとっただけだ」「嘘を言うなぁああああ!」
光が弾け、爆風が走る。
城壁が崩れ、石片が宙を舞う。
俺はリディアを抱きかかえ、瓦礫の影に転がり込んだ。
「……まだ、生きてるな」
「あなた……どうして……」
「観客が、舞台に降りただけだ。
あいつの芝居はもう終わりだ」
リディアの手が震え、俺の外套を掴む。
「殺さないでください……あの方を……」
「もう遅い。
これは“神”と“人間”の契約の崩壊だ。
止めるには、神そのものを断ち切るしかない」
リディアの瞳に、強い光が宿る。
彼女の胸元の“祝福の印”が、再び光りはじめていた。
「もし……その神を断ち切ったら、
あの方は救われるのでしょうか」
「分からない。
だが、泣くな。涙は神を呼ぶ」 俺は立ち上がり、腰の刃を抜いた。
炎に照らされたその刃が、淡く赤く光る。
勇者の加護が生み出した“偽りの神”と、
影の刃がぶつかる時が来た。
風が、燃える城を貫く。
光と闇が衝突する瞬間、世界が一瞬だけ無音になった。
̶ それは、祈りを断ち切る音だった。
◆
次に俺が意識を取り戻した時、
空は灰色で、雨が降っていた。
王城は半壊し、勇者の姿はなかった。
リディアが傍に座り、俺の手を握っていた。
「……終わったのか?」
「はい。でも……勇者様は……」
言葉はそこで途切れた。
リディアの手の中で、黒く焦げた“加護の印”が粉になって消えた。
「神は、もう沈黙すらやめたらしいな」
「それでも……祈ります。
誰かが見ていなくても、私は祈ります。
あなたのためにも」
俺は笑おうとして、うまく笑えなかった。
空の雨が頬を叩く。
それが涙なのか、雨なのか、もう分からなかった。
「リディア……お前は、まだ光の側に立てるか?」
「わかりません。
でも、あなたが“影”でい続けるなら……
私はその隣で、光であることを選びます」
言葉が、静かに落ちた。
火の消えた王都を包む雨の音が、唯一の祈りのように響いていた。
俺は目を閉じ、呟いた。
「……舞台は、まだ終わっちゃいない」 遠くで、誰かが笑った気がした。
̶ それは神か、勇者か、あるいは 俺自身かもしれなかった。
第8話 旧友の影
王都が静まり返るまでに、三日かかった。
炎は雨に消され、瓦礫は泥になり、死体はようやく数えられるようになった。
誰もが「神の怒り」と口にしたが、誰も神を信じてはいなかった。
ただ、焼けた街の匂いと灰の味が、祈りの代わりに残っただけだ。
俺は城壁の外に立っていた。
黒い外套は煙の匂いを吸い込み、どこへ行っても影のように見える。
リディアはまだ聖堂跡にいる。瓦礫の下から人を掘り出し、葬り、また祈る。
あれが彼女の戦いなのだろう。俺はその背中を見たまま、一度も声をかけなかった。
燃え尽きた王都の西門には、かつて勇者の旗が掲げられていた。
今は、半分焦げた布が風に揺れている。
俺はそれを一度見上げて、背を向けた。
◆
港の倉庫に戻ると、マーヤが待っていた。
長机の上に古びた瓶を並べ、無言で一つ渡してくる。
瓶の中身は酒じゃなかった。乾いた土。王都の焦げ跡を拾ってきたものだ。
「記録に残すんだろ、いつもの癖でさ」「ああ。これで全部だ。勇者の劇は終わった」
「終わってない顔してるぜ」
マーヤが軽く笑う。
笑いながらも、目は探っている。
俺は瓶の蓋を閉め、棚の一番奥に置いた。
「……何か見つけたのか?」
「ある。
港に“勇者の仲間”を名乗る奴が現れた。
十年前、最初の遠征に同行してた古参らしい」
「生き残りが、今さら何の用だ」
「言葉は少なかった。
『勇者はまだ死んでいない』ってさ」
静寂が倉庫に降りた。
外の波音まで遠ざかるようだった。
俺は視線を落とし、足元の影を見た。
ゆらぎがある。まるで誰かが立っているように。
「マーヤ、その男はどこに」
「港の灯台だ。
お前が来ると思って待ってるって」「……“影の仲間”ってやつか」
「気をつけろよ。そいつ、笑ってた。死人みたいな笑い方で」
俺は外套の裾を翻し、倉庫を出た。
◆
灯台は、王都の再建が始まる前から放置されている。
石の壁には苔が張りつき、風が笛のように鳴る。
扉を押すと、錆びた hinges が悲鳴を上げた。
中は暗い。
階段を上がるたびに、木の板が軋む。
頂上の小部屋に、ひとりの男が座っていた。
黒い外套。片腕はない。
しかし、その横顔には見覚えがあった。
「……リューク、か」
「覚えていたか、クロウ。
いや、“影の男”と呼んだ方がいいか?」
「お前は勇者と一緒に死んだと思っていた」「俺も、そうなるはずだった。
̶ だがあの夜、光が爆ぜた時 “声”を聞いた。
神の声でも、勇者のでもない。“お前の声”だ」 俺は眉をひそめた。
「何を言ってる」
「お前が影を撒いたろう? 噂を、恐怖を、罪を。
あれが俺の中に入った。
今、俺の中には“勇者の残り”と“お前の影”が混ざってる。
お前の劇はまだ終わってない」
リュークが立ち上がる。
片腕の袖が風に揺れ、赤黒い光が滲んだ。
あの加護と同じ色だ。
「勇者は死んだ。でも、“力”は生きている。
そしてその力は、影を選んだ。……お前をな」
灯台の窓が震え、光が差す。
リュークの眼に赤い閃光が宿った。
「クロウ。
お前が望んだ通り、“堕ちた勇者の続き”を見せてやるよ」
その言葉と同時に、加護の光が爆ぜた。
床が砕け、壁が裂ける。
俺は咄嗟に後ろへ跳び、足元の木片を掴んだ。
リュークの背後に、巨大な影が立ち上がる。
̶ それは形を持たない人の姿 勇者の幻だった。
「……やれやれ、舞台の幕は勝手に上がるもんだな」 俺はナイフを構え、闇の中の光に目を細めた。「今度は、俺が脚本を書き直す番だ」
◆
外では、また雨が降り出していた。
王都の鐘は鳴らない。
光と影がぶつかる音だけが、夜を裂いていた。
次回 第9話「影の継承」
第9話 影の継承
灯台の中に、光と闇が混ざっていた。
炎の色でも、加護の白でもない。
赤黒く濁った“光の残骸”が、リュークの体から滲み出ている。 まるで、勇者が最後に吐き出した怨嗟がそのまま形になったようだった。
「……お前が、それを継いだのか」
「継いだ? 違うさ、クロウ」
リュークは笑った。笑いながら、指の欠けた手を掲げた。
「これは呪いだ。お前が撒いた“影”を、あの光が喰ったんだ。
そして今、影と光が俺の中で腐り合ってる」
「それを止めろ。お前の体が持たない」
「止める? どうしてだ。
俺たちは、あの勇者の劇を続けるために生まれたんじゃないのか
?」
光が爆ぜる。
足元の石が溶け、灯台の壁にヒビが走った。
吹き抜けの窓から雨が吹き込み、火のような加護の粒が散った。
リュークの影が歪む。
その影の中から、もう一つの顔が覗いた。
勇者の顔だった。 焼け落ちたはずのその眼が、まだ生きているように輝いている。
「クロウ……お前か。まだ観客を気取っているのか」
声が、二重に重なった。
リュークと勇者の、二つの喉から同時に響く。
俺は刃を構えた。
「観客はもういない。残ったのは、幕の外に立つ役者だけだ」
「なら、役者らしく踊ってみせろ。影の王よ!」
次の瞬間、光が走った。
リュークの右腕が爆ぜ、加護の光が鞭のように伸びてくる。
俺は身をひねり、壁を蹴ってかわした。
煙と雨が混ざり合い、息を吸うたびに肺が焼ける。
「お前が……勇者を殺したのか?」
「殺してはいない。あいつは自分で落ちた。
俺はただ、その落ちる音を聞いていただけだ」
「ならば次は、お前の番だ!」
光が地を穿ち、床が崩れた。
足場がなくなり、俺とリュークは同時に落下した。
下は暗闇。海風の唸りと波の音が近づく。
落ちながら、俺は短剣を逆手に構えた。
闇の中で、赤い光が眼を狙う。
̶ 刃と光がぶつかる。
火花が散り、世界が一瞬だけ白く染まった。
◆
目を開けた時、波の冷たさが肌を刺した。
灯台は崩れ、海に沈みかけていた。
リュークの姿は見えない。
ただ、赤い光の欠片が水面に浮かび、ゆらゆらと揺れている。
あれが、勇者の残骸。
̶ “加護の核” 神の力の断片。
俺はその光を掴んだ。
掌が焼けるように熱い。
それでも離さなかった。
光は、ただの力じゃない。
̶ 記憶だ。願いだ。罪だ。
「お前は……まだ、終われないのか」
その時、背後から声がした。
「クロウ!」
振り向くと、波打ち際にリディアが立っていた。
衣は濡れ、肩で息をしている。
手には、かつての“祝福の印”。
割れていたはずの石が、微かに光っていた。
「神はもう沈黙しました。 けれど、加護の力は残っている……それは、誰かの祈りの形。
もしその光が勇者様の残したものなら、まだ救えるかもしれません!」
「救う? ……お前はまだそんなことを言うのか」
「ええ。
あなたが影に堕ちても、私の祈りは届くと信じています」
リディアが両手を差し出した。
彼女の掌から柔らかな光が溢れ、俺の手の中の“核”に触れた。
赤黒い光が震え、やがて静かに白に戻っていく。
勇者の残した力が、少しずつ消えていった。
「……終わったのか」
「ええ。でも……」
リディアの声が震えた。
白い光の中心で、ひとつの影が浮かんだ。
勇者の面影。
彼は微笑んでいた。
静かに、穏やかに、誰にも見えないほどに。
「ありがとう、リディア。
ありがとう、クロウ。
俺は……ここでようやく、終われる」
その声が消えると同時に、光も消えた。
海は静まり返り、波の音だけが残った。
◆
翌朝。
リディアは聖堂跡へ戻り、俺は港を歩いていた。
マーヤが見つけてきた古い地図を差し出す。
「見ろよ。北の山脈の向こうに、“神の遺跡”って印がある。
あの加護の出所は、きっとそこだ」
「まだ続けるのか、マーヤ」
「劇が終わったら、次の幕だろ?
お前は脚本家なんだろ。……それとも、観客に戻るか?」
俺は地図を受け取り、折りたたんだ。
灰色の空を見上げる。
王都の上には、もう煙はない。
だが、風の匂いはまだ焦げていた。
「観客はもういない。
今度は、俺が舞台に立つ番だ」
マーヤが笑った。
「そのセリフ、あんたらしくないね」
「らしくなくていいさ。
影は光がなきゃ存在できない。
でも、光が消えた世界で影がどう生きるか……それを確かめたい」 遠くで、聖堂の鐘が鳴った。
新しい朝を告げるように。
◆
その音を聞きながら、俺は歩き出した。
光を捨てた国で、影がどこまで人を救えるのか。
̶ 神がいなくても、祈りが消えても
まだ、誰かの涙を乾かす方法があるかもしれない。
影の旅は、ここから始まる。
次回 第10話「神の遺跡」
第10話 神の遺跡
北の山脈は、灰色の雲に覆われていた。
王都を離れて五日。
風は冷たく、足元の雪は膝まで埋まる。
それでも、俺とマーヤは止まらなかった。
̶ 地図の端に記された「神の遺跡」という言葉 あの加護の源を辿る唯一の手がかりだった。
「まるで、世界の終わりに向かってる気分だね」
マーヤが息を白くして笑う。
「終わりじゃない。始まりの場所だ」
俺は雪を踏みしめながら答えた。
「始まり?」
「加護が生まれた場所。
つまり、“神が造られた”場所でもある」
マーヤの目がわずかに動いた。
「……神を造る、ね。勇者の国が聞いたら発狂するよ」
「もう誰も信じちゃいない。
信仰は死んだ。残ったのは、仕組みだけだ」
◆
夕暮れ、山の裂け目に洞窟を見つけた。
雪に埋もれた入り口には、古い碑が立っている。
石に刻まれた文字は、半分崩れて読めない。
̶ かろうじて残っていたのは三文字 「創」「加」「殿」。
「“創加殿”……つまり、“加護を創った神殿”か」
俺は指先で文字をなぞった。
石は生き物のように冷たく、微かに脈打っている。
中に入ると、空気が変わった。
静寂が重く、耳鳴りのように低い音が響いている。
壁には古い紋章。王国の印ではない。
その中央に、見覚えのある模様があった。
̶ 勇者の加護の紋と同じ形。
だが、色が違う。
黒と金が絡み合う、まるで「影と光の融合」のような意匠。
「ここで……作られたのか」
俺の呟きに、マーヤがランプを掲げた。
「何か書いてあるよ」
壁に彫られた碑文を読む。
そこには、こう記されていた。
《神は存在せず。
人が神を求めた時、影は光を模倣した。
加護とは、恐れの集合体である》
「……神は“影の投影”だったってことか」「信仰ってやつの、裏側だね。
人が怖れたものを形にして、“神”と呼んだ」
「勇者は、その模造神の力を使っていた。
だから壊れたんだ。
̶ 神は外にいない 人の中にいたんだ」
その時、奥から微かな声がした。
風ではない。
誰かが、祈りの言葉を唱えている。
◆
洞窟の最奥、広い円形の部屋。
中央に立つのは、白い衣をまとった影。
その背は細く、肩までの髪が風に揺れる。
̶ リディアだった。
「来ると思っていました」
彼女の声は静かだった。
だがその足元には、無数の魔法陣が描かれている。
光と闇の文様が絡み合い、淡い脈動を放っていた。
「お前……ここで何をしている」
「勇者様の残した“加護の断片”を集めていました。
そしてようやく、理解したのです。
この遺跡こそ、神が造られた場所。
̶ なら、私はもう一度、祈りをやり直せる」 「やり直す? それは……危険すぎる。
ここに残る力は、加護を再現するための仕組みだ。
制御できるものじゃない」
「だからこそ、必要なのです。
あの方が壊した“信仰”を、この場所で正したい」
リディアの瞳が、かつての勇者のように燃えていた。
光が強すぎると、影は薄れる。
̶ 彼女は、光の側から堕ちようとしている。
「リディア、やめろ。
お前が神を再び呼べば、この世界は同じ過ちを繰り返す」
「私は、信じたいんです。
あなたが“影”であるように、私は“光”でありたい。
それが私の祈りです」
足元の魔法陣が輝き始めた。
光の帯が彼女の体を包む。
マーヤが後ろで息を呑んだ。
「クロウ、止める気なら今だよ」
俺は答えなかった。
リディアの目が、真っ直ぐ俺を見ていた。
迷いのない、祈りの目。
それを壊す覚悟が、自分にあるのか分からなかった。
「……リディア。
お前は、神なんかじゃない。
̶ でも、お前の祈りは 俺には見える」
俺は彼女の腕を掴み、魔法陣の中心から引き離した。
光が暴走し、洞窟全体が揺れた。
天井から岩が崩れ、轟音が響く。
̶「離して、クロウ! 私は !」
「もう十分だ! あの勇者が壊したのは神じゃない。
“人間の信仰心”だ。お前まで壊す必要はない!」
リディアが泣いた。
その涙が魔法陣に落ち、光が一瞬で消えた。
闇が戻る。
残ったのは、沈黙と、彼女の震える肩だけだった。
◆
外に出ると、夜明けの光が差していた。
雪が溶け、空は淡く青い。
マーヤが後ろで肩をすくめる。
「危なかったな。もう少しで、世界が二度目の破滅だ」
「世界は壊れないよ。
壊れるのは、いつも“信じすぎる心”だけだ」
「……お前、影のくせに優しいね」「優しさじゃない。観客の務めだ。
誰かが舞台を見届けなきゃ、物語は終われない」
リディアが静かに立ち上がる。
その瞳は泣きはらして赤く、それでも穏やかだった。
「ありがとう、クロウ。
あなたがいたから、私はもう“光”に縛られません。
これからは、自分のために祈ります」
俺は頷いた。
そして、空を見上げた。
雪雲の隙間から、一筋の陽光が差していた。
その光は、まるで影の上を撫でるようにやさしかった。
◆
帰り道、マーヤが呟いた。
「結局さ、神って何なんだろうね」「さあな。
̶ けど、こうして誰かが誰かのために泣くなら
それが一番人間らしい“神の証”なんだろう」
雪を踏みしめながら、俺は歩き続けた。
影の旅は、まだ終わらない。
けれど、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
それが、祈りに似た感情だと気づくのに、少し時間がかかった。
第11話 祈りの残響
山を下りると、春の匂いがした。
雪解け水が谷を流れ、野花が一斉に顔を出している。
王都を離れてから、季節が変わったのだとようやく気づいた。
冬の終わりは、思ったより静かで長い。
それでも世界は、何事もなかったように息をしていた。
マーヤは先を歩きながら、指先で花を摘んだ。
「生き返ったみたいだね、街も人も」
俺は頷き、目を細めた。
「壊れるたびに、世界は少しだけ優しくなる」
「……皮肉だね」
「皮肉こそ現実だ。神より正直だ」
◆
王都に戻ると、街の空気が変わっていた。
人々は新しい聖堂を建てはじめている。
だが、そこに神像はなかった。
祈る相手を描かず、ただ空を見上げるだけの建物。
信仰ではなく、記憶を留めるための場所だった。
リディアはその中央に立ち、子どもたちと石を積んでいた。
顔にかつての聖女の威厳はなく、
代わりにひとりの女性の穏やかな笑みがあった。
「クロウさん。帰ってきてくださったんですね」 「……ここが、お前の祈りの場所か」
「ええ。
もう“神のため”ではなく、
“人のため”の祈りをしたいんです」
彼女の指先は泥に汚れ、爪には石の欠片が挟まっていた。 かつて加護を降ろした手が、今は瓦礫を積み上げている。
それだけで、十分だと思えた。
◆
夜。
俺はひとり、王城跡の塔に登った。
崩れた屋根の隙間から見える星は、驚くほど多かった。
風は柔らかく、遠くの聖堂の灯が瞬いている。
そこから、リディアの祈りの声が微かに届いた。
̶ 神ではなく、人へ向けられた祈り。
声は震えていたが、確かに届く強さがあった。
その音を聞いていると、不思議と胸が静かになった。
俺は、かつて影であることを誇っていた。
光を利用し、真実を暴き、崩壊を観測する。
それが俺の生き方だった。
だが今、その役目が少しだけ色褪せて見えた。
̶ 崩壊の先にも、祈る声が残るのなら
影は、光の亡骸を温めるために存在しているのかもしれない。
◆
足元に、小さな音がした。
振り向くと、マーヤが階段を上ってきていた。
「相変わらず、屋根の上が好きだね」
「景色がいい」
「いや、逃げ場がないからでしょ」
彼女は笑い、腰を下ろした。
手にしていた紙袋を俺に投げてよこす。
中にはパンが二つ。温かかった。
「お前、珍しくまともな飯を持ってくるな」
「リディアが焼いたやつ。あんたに食べさせてやれって」
「……聖女がパンを?」
「今じゃ“聖女”じゃないよ。ただのリディアだ」
俺は袋を開け、ひと口かじった。
焼きたての香ばしい匂いが広がる。
それは、信仰の味でも奇跡の味でもない。
̶ 生きている味だった。
「どうだい、影の王。久々の人間の食い物は」
「悪くない。……泣けるほど、悪くない」
「そりゃ結構」
マーヤは夜空を見上げた。
星がひとつ流れた。
願いごとを口にするでもなく、
ただ静かにその軌跡を追う。
◆
「なあ、マーヤ」
「ん?」
̶ 「もし、神が本当にいたとして
あいつは、今どこで何を見てるんだろうな」
「そんなの決まってるさ。
“もう自分がいなくてもいい”って、笑ってるんだよ」
俺は少しだけ笑った。
それは、影の男が初めて浮かべた、安らかな笑みだった。
◆
夜明け前。
塔の上から見た王都は、煙も血もなく、
ただ人々の灯りが点々と並んでいた。
それは星空と同じ形だった。
神はもういない。
でも、誰もが少しずつ祈りを取り戻していた。
それで十分だと思った。
俺は立ち上がり、東の空に向かって歩いた。
マーヤが後ろで声をかける。
「どこへ行くんだい?」
「次の舞台へ」
「今度は、どんな劇を?」 ̶ 「 誰も泣かない劇を」
風が吹き抜け、朝の光が街を染めた。
その光の中で、影は薄れ、やがて消えた。 けれど確かに、歩き出していた。
祈りの残響を背に。
第12話 影の終幕
夜明けの光が、山と街の境を染めていた。
王都を離れて三日。
俺は北東へ向かって歩いていた。
目的はない。けれど、終わらせなければならないものがあった。
̶ 自分という「影」の存在を。
草原の風はやさしく、空は澄んでいる。
人が祈りを失っても、世界は止まらない。
それでも、どこかで誰かが「見届けること」をやめた時、
世界は本当に死ぬのだと、今は分かる。
◆
途中の村で、老人に出会った。
古い石橋の修復をしていたらしい。
俺の顔を見るなり、彼は笑った。
「お前さん、旅の人か。王都の騒ぎももう静まったと聞くが」
「騒ぎは終わった。だが、跡は残る」
「跡があるうちは、生きてる証拠だよ」
老人は、土に埋もれた石を撫でながら言った。
「昔、神の使いを名乗る者が来てな。
橋を壊して、“この川は罪を流す聖域だ”って言ってた。
それでも人は橋を直した。罪より、向こう岸にいる家族の方が大事だからな」
その言葉に、俺は微かに笑った。
祈りとは、そういうことなのかもしれない。
誰かを救うよりも、誰かと繋がるためにある。
◆
夜、丘の上に火を焚いた。
焚き火の音は静かで、風が通り抜けるたびに火の粉が星のように散った。
マーヤが残していった旅袋から、古い紙を取り出す。
勇者の紋が描かれた手記。
彼がまだ正気だった頃に書いたものだ。
《人は光を求める。だが、光に焼かれて死ぬこともある。
影は恐れられる。だが、影こそ人の輪郭を守るものだ。》
……そうか。
勇者は最後の瞬間まで、自分の“影”を見ていたのかもしれない。
なら、俺の役目は最初から決まっていた。
壊すためじゃない。
「見届けるため」に、影は生まれたのだ。
◆
焚き火の炎が小さくなった頃、
闇の中から、誰かの足音がした。
「……探しましたよ、クロウさん」
リディアだった。
肩までの髪が風に揺れ、手にはランプを持っている。
その光が、影のような俺を柔らかく照らした。
「どうしてここに」
「あなたが、“終わりを見に行く”顔をしていましたから」
彼女は少し笑って、隣に座った。
「王都は落ち着きました。
マーヤさんは商会を始めて、子どもたちの面倒を見ています。
……あなたの話をすると、皆が笑うんです。
“影の男が世界を救った”って」
「救ってなどいない。
ただ、照らされていただけだ」
「でも、あなたがいなければ、誰も気づけなかった。
神の沈黙も、人の祈りも、同じ“声”だということに」
リディアはランプを見つめながら言った。
火が小さく揺れる。
その炎に、勇者と俺、そしてリディアの影が重なった。
◆
「クロウさん」
「なんだ」
「あなたにとって、“影”とは何ですか」 俺は少し考えてから答えた。
「……影は、終わらないものだ。
光が消えても、記憶の中に残る。
たとえ誰も見ていなくても、存在の形をなぞる。
だから影は、生きている証なんだ」
リディアが静かに頷いた。
「それなら、あなたはずっと生き続けますね」 「そうかもしれない。
̶ だが、いつかこの影が誰かの祈りになれば それでいい」
その言葉に、彼女は微笑んだ。
炎が小さく鳴り、夜風が吹く。
星空が広がり、遠くで朝の鳥が鳴いた。
◆
夜が明ける。
丘を下りる時、リディアがランプを差し出した。
「これを持っていってください」
「いいのか」
「はい。影が消えるのが怖くなったら、灯してください。
きっとまた、誰かの声が聞こえますから」
俺は受け取り、頷いた。
ランプの火が朝日に溶けていく。
その中に、勇者の微笑みが一瞬だけ見えた気がした。
俺は歩き出す。
背後でリディアが祈りの言葉を口にする。
それは神ではなく、ただ世界への小さな願い。
̶ どうか、影が誰かを導きますように。
その声を背に、俺は新しい朝の光の中へ消えた。
影はもう、逃げることをやめた。
光の下で、生きることを選んだ。
世界は静かに続いていく。
祈りの残響とともに。
̶ 終幕。
雨は、刃よりも冷たかった。
石畳に釘のように打ちつける音が、王都の眠りを細かく裂いていく。鐘の音はとっくに止んで、夜番の兵の足音でさえ、今日はやけに遠い。
俺は屋根の端で息をひそめ、黒革の手袋越しに濡れた瓦の温度を計る。滑る。跳ぶには最悪の夜だ。だが、標的にとっても最悪の夜なら、条件は五分と見ていい。
標的は“賢き公”と呼ばれる宰相。表では慈父、裏では反乱の資 ̶金源 王国の毒だ。
勇者は今日、城内で祝宴を受けている。魔王軍の砦を落とした褒賞だという。宴席の外で、汚れ仕事を片付けるのはいつも俺の役目。影には影のやり方があり、影にこそ秩序がある。
視界の先、宰相邸の窓に灯がともる。遅い。こんな雨でも書簡は止まらないらしい。ならば行程は変えない。
俺は滑る屋根の稜線を猫のように渡り、庭に張られた警戒糸を二重に跨いだ。火打ちの匂い。見張りは街衛兵ではない。私兵だ。宰相の息がかかっている。無駄口はしない。
四つ数えてから、俺は地面に落ちた。雨の音が、着地の衝撃を飲み込む。
窓枠の桟に 爪を掛け、板の隙間に薄刃を滑り込ませる。音は出さない。鍵は抵抗ののち、あっけなく崩れた。
「……賊か?」
中から声。思ったより早い。
違う、と答えかけて、俺は喉の奥で言葉をつぶした。賊ではない。だが、影は影の名を口にしない。
薄暗い書斎の奥、ロウソクに照らされた白い顔。宰相は机に手をついたまま、俺の足元へ視線を落とした。濡れた床。足跡は残らない。靴底には吸水布を仕込んである。
「……勇者の犬か」
「違う。俺は、仕事をするだけだ」
宰相は鼻で笑い、引き出しに伸ばした指を、俺の視線に貫かれて止めた。
その一瞬の隙間に、俺は距離を詰める。薄刃が空気を裂き、キャンドルの炎が震えた。
声も、悲鳴も、血の音さえ、すべて雨に砕かれていく。白い顔は壁にもたれ、目だけが猫のように細く笑っていた。
「……遅すぎたな。影の男」
「何に対してだ?」
「君の主の欲。私を殺しても、あの男はもう……」
言葉はそこで途切れた。もう遅い。
俺は血の飛沫が跳ねなかったことを確認し、宰相の指の向きを追 ̶う。机の上、封蝋の割られた書簡が一通。差出人 王城。印章は
勇者直属の術印。嫌な予感が、濡れた背骨を指で撫でた。
書簡の文面は簡潔だった。
《本夜、闇の賊が宰相邸に侵入し、宰相を暗殺せんとしている。賊は勇者一行の裏切り者、名はクロウ。現場にて討つべし。証人は聖堂。神の加護は真実を見通す》
俺の名が、紙の上で乾いていた。
誰も信じない。ただ、神だけが信じる。そんな文句で、人はいくらでも縛れる。
視線を窓に上げる。雨の幕の向こうに、鉄の靴音が幾筋も重なっ ̶て近づいてくるのが見えた。早すぎる。書簡は囮か。いいや これは罠じゃない。準備された劇だ。
宰相の死体から目を離さぬまま、俺は手袋の縁を整えた。落ち着け。呼吸は浅く、動きは細く。
扉が破られ、火の壁が押し寄せる。松明、槍、祈祷。聖堂騎士たちだ。先頭の男は銀の胸甲を光らせ、俺を見つけるより先に、叫んだ。
̶ クロウ! お前の罪は神が見ている!」「
俺の名前は、堂々と発音された。
奇妙な静けさが、胸の中に降りる。怒りは湧かない。喉は乾かない。あるのは、やっと手の内が見えたという安堵だけだ。
勇者。お前はそこまでして、英雄でありたいのか。
俺はナイフを一つ投げた。火がはぜ、松明が床に落ちる。炎の棚引きを盾に、窓へ走る。
光の矢が背を撫で、聖句が耳を刺す。加護の光は、刃よりも速い。
しかし、影には影の道がある。俺は火の煙に己の匂いを紛れさせ、床に転げた松明を蹴り上げて、壁の掛け布に燃え移らせた。
焦げる布の匂いに、聖堂騎士の足が一瞬とまる。
その止まりが、命の差になる。俺は窓枠を壊し、雨の夜へ身を投げた。
◆
王都の路地は、雨が降ると生き物の腹のような匂いをする。石の隙間から蒸気が立ち、古い酒と火薬と海藻の匂いがごった返す。
胸の鼓動は早いのに、心は静かだ。一度、舌で奥歯を押して合図を送る。奥歯の裏に仕込んだ小さな金球が割れ、苦い薬液が喉に落ちる。体温が下がり、外気の冷たさと同調する。追跡者の感覚をすり抜けるための、影の術。
追手は来る。来なければ劇が終わる。
屋根から屋根へ、濡れた世界の線だけを踏んで走る。足裏の感覚が、幼い頃に盗んだパンの温度を思い出させる。影の育ちに美談は要らない。必要なのは、落ちない足と、躊躇わない心だ。
聖堂の鐘が鳴った。遅い。もう十分なほど遅い。
鐘の音が、勇者の掌の上にあることを、王都の全てに知らせる。
俺の名は、今夜を境に、罪の名に変わる。勇者は、神の加護を背 ̶に、俺を “裏切り者”を 討つ英雄になる。
笑えてくる。
英雄の手は、どれほど白いのだろう。誰かに洗わせているのか。それとも、汚れそのものを白と呼ぶのか。
追手の足音が、やっと近づいてきた。屋根の縁で振り返ると、銀の胸甲が三つ、雨に濡れて重く鈍く光っている。
俺は右の袖から細いワイヤーを引き出し、雨樋にくくる。反対の端を煙突に回して固定し、滑車代わりに短剣を通した。
左腕に力を掛け、体を滑らせる。地上に降りる途中、一瞬だけ窓の中の人間の顔が見えた。眠れない夜を抱えた誰か。こちらを見たようで、見なかった。
地面に着くと同時に、ワイヤーを断つ。追手が同じ手を使えなくなる。
裏路地の奥、青い布が一瞬だけ揺れた。合図だ。
俺は濡れた壁に背中をつけ、青布の屋台の陰に滑り込む。
「……生きてたか、クロウ」
声は低く、酒で焼けている。
屋台に座る女は、商人の顔を装っていたが、背中の線は武器の重さを覚えていた。
マーヤ。俺の古い相棒。血の匂いを嫌い、金の匂いを嗅ぎ分ける女。
「宰相は」
「終わった。予定通りに」
「予定外は?」
「俺の名前が、王城の紙に載っていた」 マーヤは目を細め、唇の端だけで笑った。
「勇者の手。ついに本気で切りに来たか」
「切りに来たのは俺だ。あいつは、ただ舞台を用意した」
「舞台?」
「俺という“裏切り者”を討つ、英雄の劇だ」
マーヤは皿の上のナッツを指で弾いた。木の器の底で乾いた音が鳴る。
「逃げる?」
「逃げない。隠れる。しばらくは海風の中で匂いを洗う。……それと」
「それと?」
「見る」
俺は雨の向こうに立つ塔を見上げた。王城の尖塔。祈りの灯が遠くに霞む。
あそこで、勇者は笑う。清い顔で。
あそこで、聖女は祈る。目を閉じて。
あそこで、王は眠る。すべてを知らぬふりで。
「何を」
「勇者が堕ちるのを」
マーヤは、ほんの少しだけ眉を上げた。驚きでも、嘲りでもない。
俺の言葉の温度を量る、商人の目。
「お前が堕とすんじゃないのか」
「俺は、もう充分だ。手を汚すまでもない。あいつは自分で落ちていく」
「根拠は?」
̶「加護は万能じゃない。代償がある。 それに」
「それに?」
「“英雄”は、喝采を浴び続けると、癖になる。癖は、いつか形を壊す」
沈黙。
屋台の布越しに、雨の匂いが濃くなる。遠くで犬が吠える。
マーヤは肩をすくめ、懐から濡れないよう包んでいた小さな包みを取り出した。
「これ。頼まれた通りに仕上げといた。噂を生む石。表から見れば
̶ただのガラス、裏から覗けば 」
「真実のように見える嘘」「二つの真実の間に、丁度良くはさまる嘘だよ」
俺は包みを受け取り、厚手の布の内側にしまった。
噂は刃より鋭い。だが、嘘は使い所を誤れば、自分を斬る。
勇者は、刃の扱いは達者でも、噂の扱いは下手だ。英雄という肩書きは、否定の声を遠ざける。遠ざかった声は、いつか怒号に変わって戻る。
「マーヤ。お前はしばらく王都を離れろ」
「命令か?」
「願いだ。俺を売るなら今が高い。売らないなら、今が一番危ない」
マーヤは笑った。今度は、酒の熱が混じった笑いだ。
「売るくらいなら、とっくに売ってる。お前は高くて、買い手が少ない」
「そうか」
「そうさ。……気をつけな、クロウ」
マーヤは青布をそっと下ろし、屋台はただの屋台に戻った。
俺は背を丸め、雨の縫い目を選んで歩き出す。
王都の川は、城の堀から流れ出て市場を横切り、港へと続く。港の匂いは強い。油、塩、魚、焦げた綱の繊維。そのすべてが、血の匂いを弱めてくれる。
倉庫街の一角に、俺のための隙間がある。壁の石が一つだけ僅かに浅い場所。そこに指を差し込むと、石は軽く前に動き、細い通路が口を開けた。
通路の先、暗い部屋に灯したランプが一つ。
ここが俺の巣だ。情報の巣であり、記録の巣でもある。壁には地図、糸、針、名前、印。
勇者の名前は赤い糸で囲まれている。宰相の名は、今しがた黒で塗りつぶした。
机に座り、濡れた外套を椅子の背に掛ける。
紙を広げ、古い筆を握る。今夜のことを書く。宰相の最期の言葉、聖堂騎士の顔。書簡。書簡に使われていた印。蝋の色。匂い。書記の癖。
記録は、感情を薄める。薄めた感情は、やがて冷たい刃になる。
書き終えると、俺は筆先を布で拭い、窓の外の雨に耳を澄ました。 雨音は、街を洗う。血も、足跡も、噂も、すべてをやがて薄める。
だが、残るものもある。濡れた石の下に沈んでいく古い泥のように。
机の引き出しを開ける。底板のさらに下、木が薄く削られた空洞に、一本の短剣が眠っている。
̶ 勇者に渡した はずの短剣。魔王軍の砦を落とした夜、酒と歓声の中で、俺はそれを奴に預けた。
「お前が持て。俺よりも、華やかな場所に似合う」
奴は笑って受け取った。誇らしげな、純粋な笑みで。
翌朝、短剣は俺の枕元に戻っていた。柄に刻んだ目印だけが違っていた。微細な、でも確かな違い。
あれは、最初の“違和”。俺は見逃さなかった。 笑顔の裏に、初めて影を見た夜。
俺は短剣の柄を撫で、そこに掘られた浅い線の感触を改めて確かめる。
あの時から今日まで、少しずつ、少しずつ、舞台は組まれていったのだ。
宰相の死は、その一幕にすぎない。
灯りを落としかけてから、俺は手を止めた。
扉の向こう、濡れた石を踏む猫のような足音。マーヤではない。
指は自然に刃へ伸び、影は自然に壁へ消える。
扉が二度、静かに叩かれた。
間合いを詰めた俺の前に現れたのは、黒い外套に白の襟。聖句の刺繍。
̶ 聖女の従者。
「クロウ・アーガス殿ですね」
声は低く、抑えられていた。恐れと、使命の混じる声。
俺は刃を見せず、視線だけで応じる。
̶「聖女 リディア様がお呼びです。……“真実を知りたい”と」
雨が、遠くで途切れた。
劇は思ったより早く、次の幕を欲しているらしい。
「今は行けない。俺は、濡れている」
従者は頷いた。濡れているの意味を、彼は理解する程度の頭を持っていた。
「では、明夜。聖堂の裏庭にて」
扉が閉じ、足音は雨と混ざって消えた。
俺は刃から手を離し、椅子に戻る。背もたれは冷たく、骨に硬かった。
勇者の傍にいる聖女が、真実を求める。
真実は、刃のように人を切る。血は出ないが、魂が裂ける。
それでも求めるなら、彼女は目を開けるだろう。英雄の光の内側にある、影の形を。
灯を落とした。暗闇は、俺の居場所だ。
今夜、俺は決めたのだ。
剣を抜かず、手も汚さず、ただ舞台を整え、観客席で静かに拍手をする。
勇者が自分の足で段を踏み外す、その瞬間まで。
̶ 堕ちる者ほど、美しい音を立てる。
雨はまた細くなり、王都の高みに、薄い月が滲んだ。
第2話 聖女の呼び声
夜が明けきる前の空は、灰色よりも鈍い鉄の色をしていた。
港の倉庫群はまだ眠っている。だが、影は眠らない。
俺は古びた木箱の上で、濡れた外套を絞りながら、昨夜の従者の言葉を反芻した。
̶ “真実を知りたい”。
あの聖女リディアが、そんなことを言うとは思わなかった。
彼女は、勇者に寄り添う“光”。
王都の誰もがそう呼び、彼女自身も信じていたはずだ。
だが光は、長く続くほど、影を濃くする。
俺は指先に残った血の跡を見つめた。
宰相の血ではない。昨日、逃げる途中で割れたガラスの欠片が刺さったものだ。
それでも、痛みは生きている証拠だ。死者は痛みを覚えない。
そして、俺はまだ“生き残っている側”だ。
◆
聖堂の裏庭に足を踏み入れたのは、鐘が二度鳴った後だった。
朝霧が低く漂い、花壇の薔薇は露に濡れて重たげに垂れている。
その中央に、白い法衣を纏った少女が立っていた。
「……来てくださったのですね、クロウさん」
聖女リディア。
勇者と共に神の加護を授かった、純白の象徴。
だが今、その顔には疲労の影が色濃く差していた。目の下には微かな隈。指は祈りよりも震えに近い。
「従者がよく通したな。俺は今、指名手配の“裏切り者”だぞ」
「ええ。……でも、あなたは裏切っていないでしょう?」
穏やかな声。
その瞳は、まっすぐに俺を見ていた。嘘を映さない鏡のように。
だが、真実は往々にして、鏡の外側にある。
「俺が信じるものは影だけだ。あなたが言う真実とは、どんな光のことだ?」
「……勇者様が、変わってしまわれたのです」
その一言に、空気が揺れた。
リディアの声は震えていない。ただ、長い祈りのあとに息を吐くような静けさだった。
「加護を授かった頃の勇者様は、確かに優しかった。誰よりも民を思い、戦場では決して怒らなかった。
̶ でも最近は 笑わないのです。民を“数”と呼ぶようになりました」
俺は無言で、袖から小さな包みを取り出した。マーヤの作った“ 噂の石”だ。
表から見ればただのガラス。裏から覗けば、嘘を真実のように映す。
俺はそれをリディアの足元に転がした。
「これを覗いてみろ」
リディアは戸惑いながら、しゃがみ込む。
石の中には、王城の一室が映っていた。
勇者が椅子に座り、手を震わせながら書簡を破り捨てている。
その眼は、狂気に濡れていた。
「……これは……?」
「噂だよ。だが、真実と嘘の境目にある。
お前が“信じたいもの”が、映る仕組みだ」
リディアの指先が震えた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、唇を噛んだ。
「……この光は、神のものではありません。あの方の中に、何か別の“声”が……」
そう呟くと、彼女は胸に手を当てて祈りを捧げた。
その瞬間、彼女の背後で、空気が裂けた。
̶ 加護の光。
だがそれは、俺の記憶にある“聖なる輝き”ではなかった。
白金ではなく、濁った赤。まるで血が光になったような色。
リディアの体が一瞬だけ硬直し、光が爆ぜる。花壇の薔薇が一斉に枯れた。
「……見えましたか」
「ああ。勇者の加護は……すでに侵食されている」
「私には止められません。祈っても、沈黙が返るだけです」
リディアは震える手で胸のペンダントを外し、俺に差し出した。
透明な宝石の中央に、細いヒビが走っている。
「神の加護を象徴する“祝福の印”です。……勇者様のものと対の形。
彼の印は、もう完全に黒く染まっていました」
「……そして、俺を呼んだ理由は?」
̶ あなたなら、止められると、思ったのです」「
俺は短く息を吐いた。
笑うほど、哀しい言葉だった。
「俺は殺すことはできても、救うことはできない」
「それでも、あなたは一度、勇者様を救ったではありませんか。
あの砦の夜。あの方が剣を折られた時、あなたが影から守ったと聞いています」
「昔話だ。今のあいつは、もう“勇者”じゃない」
「それでも……私には、あなたしか頼れません」
沈黙。
霧が薄れ、朝の光が差す。
リディアの頬に落ちる光は、祈りというより、諦めの色に近かった。
俺は包みを拾い上げ、ポケットに戻す。
視線を彼女から外し、花壇の枯れた薔薇を見た。
「勇者の加護が壊れていくのは、神の沈黙のせいじゃない。
“人間”の欲が、神の声を濁らせたんだ」
「……それを証明できるのですか?」
「できる。けど、証明した瞬間に、この国は壊れる」
リディアは俯いたまま、小さく頷いた。
彼女も分かっているのだ。真実は、祈りよりも重い。
̶「お願いです、クロウさん。勇者様を 」
「俺は見届けるだけだ」
その言葉を、切り捨てるように言った瞬間、
聖堂の鐘が高く鳴った。
鐘の音に混じって、城門の方角から喧騒が響く。兵士の怒号、民の悲鳴。
「何だ?」
リディアが振り返り、俺はすでに屋根へと跳んでいた。
聖堂の尖塔から王都を見渡す。
城壁の上、黒い煙が立ち上っている。
̶ 勇者の旗が、燃えていた。
◆
勇者が初めて、自分の加護で人を殺した日。
それは、俺が“見届け役”として舞台に戻る幕開けだった。
第3話 腐敗の勇者
王都の空は、まだ煙の匂いを残していた。
昨日、勇者の加護が暴発したと伝えられている。
原因は魔族の呪い、というのが王国の公式発表だ。
だが、俺は知っている。あれは呪いでも、神の試練でもない。
̶ 人間の傲慢が、加護の器を壊しただけだ。
通りを歩けば、どこも静かすぎる。
焼けた家の前で泣く女の子を、兵が無言で通り過ぎる。
祈りの声も上がらない。人々は、誰を信じていいのか分からなくなっていた。
俺は路地裏の屋台に腰を下ろし、冷めたスープを啜った。
背後の陰から、マーヤの声が落ちてくる。
「勇者の旗、もう焼けたまんまだってさ。王は“新しい紋章を準備中”だとさ」
「つまり、傷を隠す気か」
「そう。加護が暴走したんじゃなく、“新たな段階に進化した”って触れ込みになる」
マーヤが差し出した紙には、すでに印刷された“新紋章案”が描かれていた。
中央には勇者の象徴だった白い太陽。
だが、その周囲を囲むのは、血のような赤い輪だ。「……これは悪趣味だな」
「王の顧問が選んだらしい。“力強くて神々しい”ってさ」
俺は鼻で笑う。
民の不安を塗り潰すための派手な色ほど、腐臭を隠すのに都合がいい。
「マーヤ、例の“声”はどうだ」
「王都の下層で噂が回ってる。“勇者様の光を見た”って奴らがな。
でも誰も、同じ色を言わない。白だった、赤だった、黒に近かっ
̶ バラバラだよ」た
「なるほど。つまり、“人によって違って見える”」
「嘘の光は、見る人の罪を映すってことか?」
「もしくは、神がもう見ていないということだ」
マーヤが短く笑った。
それは皮肉でも同意でもなく、ただ“恐怖”の笑いに近かった。
「……あんたは、まだ見届ける気なのか?」
「ああ。俺は剣を抜かない。だが、糸は引く」
「糸?」「勇者のまわりには、操られた傀儡が多すぎる。聖騎士、貴族、学 ̶者、神官 それぞれが“英雄”の恩恵を食ってる。
その糸を少しずつ、切ってやる」
「殺さないで?」
「殺さなくても、十分に堕ちる」
マーヤは肩をすくめ、懐から羊皮紙を取り出した。
そこには、勇者パーティの構成員たちの名前と、現在の所在が記されている。
半分はすでに失踪。残る数人も、表向きは“出世”したことになっている。
「最初は誰だ?」と彼女が問う。
俺は紙の端に指を置き、ある名をなぞった。
「リューク。勇者の参謀役。
元々は宰相の弟だ。今は“聖騎士団の指揮官”。」
「内部の情報源ってわけね」
「そう。こいつが王と勇者の間を繋いでる。……だが、繋がりが深いほど、切れたときに響く音も大きい」
◆
夜。
王都の北端にある神殿街。
聖騎士団の宿舎には、金で縁取られた窓が並んでいた。 そのうちの一つに、俺は忍び寄る。
内部では、リュークが机に向かって何かを書いていた。
背筋は伸びているが、目の下の影は深い。
勇者の下についた者は、皆同じ顔になる。
“誇り”という名の縄で、自分の首を絞める顔だ。
俺は音もなく天井の梁に移り、袋から黒い粉を取り出す。
“記憶の香”。嗅いだ者は、最も恐れている光景を夢に見る。
直接手を下すわけじゃない。夢を見て、壊れるのは本人の選択だ。
粉を蝋燭の火に投げ入れると、青い煙が立ち昇った。
リュークの瞼が落ち、筆が机の上を滑る。
彼の手が震え、紙の上に走った文字が乱れる。
《勇者、神に見放される》
……見放された、か。
人はいつも、自分の罪を神の沈黙のせいにする。
俺は屋根に戻り、煙の流れを見た。
風が南へ運んでいく。勇者の城へ向かって。
◆
翌朝、王都に新しい噂が広がった。
̶ “勇者が夢の中で、神に罰せられた”と。
その噂は尾ひれをつけて広がり、
昼には「勇者が民の魂を喰らった」、 夜には「聖女が祈りを拒んだ」になった。 俺は屋根の上からその流れを眺めていた。
噂は風に乗り、やがて毒になる。
そして毒は、いずれ“自分自身”に返る。
影は剣を振るわない。
けれど、糸を引くだけで世界は少しずつ崩れる。
俺は空を見上げ、呟いた。
̶「さて、次はどの糸を切るか 」
◆
その頃、王城の玉座の間では、
勇者が膝をつき、血を吐いていた。
「……また、神の声が聞こえない……!」
リディアは震える手で彼の肩を支えた。
勇者の目は、狂気と焦燥に濡れている。
背後では、王が眉を寄せたまま沈黙していた。
「お前は……クロウを討てと言ったのに……どうして……!」
「落ち着け、勇者。彼は影だ。影は斬れん」
王の言葉に、勇者は拳を握りしめた。
手の甲に、黒い紋が浮かび上がる。
“神の加護”が、明らかに歪んでいた。 ̶「……あいつが笑っている。どこかで、俺を見て 」
勇者の叫びが、王城の柱に反響した。
その声は、まだ誰も知らぬ“堕落の序章”だった。
第4話 王都潜入
王都に、妙な静けさが流れはじめていた。
昨日まで英雄を讃えていた市場の歌が、今日は途絶えている。
代わりに聞こえるのは、囁きだ。
̶ 「勇者は呪われた」「神に見放された」
その声は小さい。だが、影は小さい音を好む。
俺の計画は、ようやく呼吸を始めた。
◆
夜の王都は、月明かりがある分、昼よりも賑やかだ。
密売人は声を潜め、貴族の子弟は仮面舞踏会の帰り道で愚かな歌を口ずさむ。
俺は彼らの誰にも紛れられる。
今夜の顔は、“ラヴェン商会の副代表”。
偽の書状と印章、王室の通達を模した命令書、
そして、笑顔。表の人間がもっとも信じやすい仮面だ。
̶ 行き先は 王都神殿。
そこには勇者を支える神官たちの集会がある。
“勇者の加護を信じ続ける者たち”の最後の防衛線だ。
信仰は脆い。疑いがひとつ入れば、砂上の塔になる。
◆
「おや、あなたが“供物商会”の方ですか?」
神殿の裏門を守る神官が、半信半疑の顔で俺を見た。「ああ、聖堂長の命で来た。勇者様の加護を安定させるための儀式用香料を」
俺は包みを見せた。
̶ 中身は香料 に見せかけた、“幻香”。
祈りの場に焚けば、見る者の心の奥にある“恐怖”の形を光として浮かび上がらせる。
神官は目を細め、香りを嗅いだ。
そして、満足げに頷いた。
「……なるほど、清らかだ。入ってよい」
俺は礼をして、石畳を踏みしめる。
神殿の中は眩しすぎた。
白い大理石の柱、金で縁取られた聖句、燭台の炎。
だがその奥に、祈る声よりも強い“恐れのざわめき”が漂っていた。
勇者が壊れ始めているのを、誰もが知っている。
̶ それでも、信じたい 信仰とは、そういう“諦め”の形だ。
◆
祭壇の奥。
俺は香料を焚き、煙が立ち昇るのを見届けた。
白い煙は天井の高みで赤く染まり、ゆっくりと形を変えた。
̶ 人の形。剣を掲げ、光を振りまく 勇者だ。
だが、その顔が次第に歪む。
血の涙を流し、笑いながら、背後の神像を焼く。
神官たちの悲鳴が響く。
「加護が……加護が堕ちた!」
予定通りだ。
俺は小声で呟く。
̶ 舞台は整った」「
だが、そこで背後の気配に気づいた。
香の煙に混ざる、異質な光。
白ではなく、銀。
リディアだった。
◆
「やはり、あなたでしたか……クロウさん」
振り返ると、聖女の法衣が闇の中で揺れていた。
彼女の手には、俺が置いたはずの幻香の包み。
すべて見られていたのか。いや、見抜いていたのだ。
「祈りの場に幻惑を? あなたは何を望むのです?」「望みはない。ただ、“真実”を見せただけだ。
̶ 勇者が恐れているものを 神官たちにも見せた」
「恐れ? 勇者様が恐れているのは、敵でも魔王でもない……」
リディアは一歩近づく。
その目は、涙でも怒りでもない、ただ真っ直ぐな光だった。
̶ 自分自身です。「
あの方は、誰よりも弱さを憎んでいる。
あなたの幻は、それを暴いた。だから壊れてしまう。
そんなことをして、あなたは何を得るのですか?」
「何も得ない。俺は、観客だ。舞台が崩れるのを見届けるだけ」
「それを“正義”と呼ぶのですか?」
彼女の声が震えた。
信仰が崩れはじめている音だった。
俺は短く息を吐いた。
「正義なんて、誰かが言葉にした時点で嘘になる。
俺は、嘘が暴かれる瞬間を見たいだけだ」
「……それがあなたの生き方なのですね」
リディアは小さく祈りの印を結んだ。
そして、俺の手の中に、昨日渡した“祝福の印”の欠片を戻した。
「これを返します。
あなたの手には、もう“加護”は要らないのでしょう」
「……ああ。加護は呪いと同じだ。
信じた瞬間に、縛られる」
「でも、祈りは縛りません。
̶ 祈りは、ただ誰かを想うこと。 それを、あなたは忘れている」 彼女はそう言って、去った。
香煙の中、彼女の足跡だけが淡く光を残していた。
◆
夜が更け、神殿の外でマーヤが待っていた。
「どうだった?」と訊かれ、俺は肩をすくめる。
「聖女は……想像以上に賢い。
そして、危うい。あの光は、勇者よりも深い闇を抱えている」
「闇のある聖女、ってのは嫌いじゃないけどね。
で、次はどうする?」
「次は、“噂の王”を仕上げる。
民衆が勇者を恐れ始めた今、もう一押しだ」
「お前、ほんとに手を汚さねぇな」
「汚すほどの血は、もう流れた。
俺は、それを洗う役だ」
マーヤは苦笑した。
港の方から、遠く鐘の音が響いた。
王都がまた一夜、腐っていく音だった。
俺は空を見上げた。
月が、ちょうど欠け始めている。
勇者が堕ちていく速度と、同じくらいの速さで。
第5話 糸を引く者
王都では、風が噂を運ぶ。
一人の老婆が祈りの途中で囁いた言葉を、子どもが聞き、商人が客に漏らし、兵士が酒場で語る。
夕暮れには一つだった物語が、夜には百の形に変わる。
そして、翌朝には誰もが「それを見た」と言い張る。
̶ 人の記憶ほど、扱いやすい糸はない。
◆
俺が仕掛けた“噂”は、今や王都のどこにでもある。
勇者が夜な夜な城の屋上で誰かと話している。
神の声を聞くために民を生贄にしている。
聖女が泣いて祈るのは、勇者の罪を隠すため。
̶ どれも嘘だ。だが、真実のように響く。
マーヤが市場の屋根に腰を下ろし、笑いながら言った。
「人間って、ほんと滑稽だね。
誰も見てないのに、“見た”って言うんだから」
「人は、信じたい嘘を選ぶ生き物だ。
そして、その嘘が“物語”になった時、真実になる」
「じゃああんたは、嘘の語り部か」「違う。俺は脚本家だ。 “堕ちていく勇者”という劇のな」
マーヤが手を伸ばし、空に漂う風船の糸を掴んだ。
風船には、子どもの落書きのように「神に選ばれし者、堕つ」と書かれていた。
小さな風が吹き、それが空へ消える。
̶ 風さえも、俺の味方をしているようだった。
◆
その頃、王城。
勇者は地図を睨みながら、焦燥の色を隠せずにいた。
側近のリュークが報告する。
「勇者様、昨夜も市民の間で不穏な噂が広まっています。
̶ “神の加護が濁った”“勇者が人を殺した”など 」
「くだらん……!」
勇者の手が机を叩いた。
地図の上に置かれた杯が転がり、赤い液体が流れ落ちる。
その色は、まるで血のようだった。
「誰が言い出した……? 誰がこんな……!」
「特定は困難です。まるで、“見えない糸”で繋がっているようで
̶ 」
「“糸”……だと?」
勇者の眉がぴくりと動いた。 顔を覆うように、右手の甲の黒い紋が淡く光る。
それは、加護の暴走の兆候。
怒りが頂点に達するたび、神の声ではなく、何か別の“囁き”が頭に響く。
̶ お前を笑っている。
̶ 影の中から見ている。
̶ 殺せ。全てを焼け。
「……誰かが、俺を監視している。どこかに、影がいる」
勇者の瞳は、焦点を失っていた。
リュークが言葉を選ぶように口を開く。
「勇者様、“影”など存在しません。
それは……恐れの幻です」
「黙れ!」
光が弾け、リュークの頬を焼いた。
勇者は息を荒げ、手を震わせる。
「……すまない、リューク。俺は、少し……疲れている」
「……ご休息を」
リュークが下がると同時に、勇者は窓辺に立った。
夜風が吹き込み、遠くの街灯がゆらぐ。
闇の中で、彼は確かに見た気がした。
̶ 屋根の上、黒い影が、静かに笑っていたことを。
◆
俺はその屋根の上にいた。
勇者が視線をこちらに向けた瞬間、わざと灯りの反射に身を晒す。
気づかせることこそ、次の罠だ。
「気づいたか。ようやく、幕が開くな」
マーヤが隣で息を呑む。
「見つかるぞ」と囁いた声を、俺は手で制した。
「見つかっていい。
“影の存在”を信じさせることが、最初の崩壊だ」
俺は腰の小袋から一枚の札を取り出し、屋根の上に置く。
それは、“真実の写し”と呼ばれる魔具。
見る者の“恐怖”を形にする鏡だ。
勇者がそれを目にすれば、
彼は自らの心に宿る“影の姿”を見てしまう。
̶ そして、それが “俺”に見えるように、仕組んである。
◆
翌朝。
王都全域に、もう一つの噂が流れた。
̶ 勇者が夜な夜な、“黒衣の男”と語り合っている。
̶ その男は、“影の王”と呼ばれている。 噂の源を誰も知らない。 だが、全ての路地で、子どもたちが真似をした。
黒い布を纏って「影の王」と遊び、母親たちは怯え、
兵士たちは剣を抜きながら空を睨んだ。
俺は路地裏でそれを見ていた。
マーヤが笑いながら、肩をすくめる。
「もう劇場は満員だね、クロウ」
「舞台が燃えるのはこれからだ。
観客はまだ、誰が役者か知らない」
「勇者に見つかったってわけか」
「ああ。昨夜、目が合った。
あいつの瞳に、“俺という幻”が焼きついた」
「つまり、もう退路はない」
「最初から、退路など選んでいない」
俺は立ち上がり、灰色の空を見上げた。
雲の切れ間に、微かに陽が差す。
̶ それはまるで 舞台照明のようだった。
「勇者が、俺という“影”を恐れた時。
その恐怖が、真実に変わる」
「そして、あんたはその糸を引き続けるわけだ」「糸はもう、王都全体に張った。
あとは、風を待つだけだ」
マーヤが微笑む。
「風ってのは……誰が吹かせるんだい?」
俺は静かに答えた。
「神だよ。
̶ いや、“神を装った人間”だ」
◆
同じ頃、聖堂ではリディアが祈っていた。
だがその瞼の裏に浮かぶのは、光ではなく影。
クロウの言葉、そして勇者の歪んだ笑み。
どちらが真実なのか、もはや分からない。
「……もし、彼の言うことが真なら……
この祈りは、誰のためのもの……?」
答えは、神からも返ってこなかった。
ただ、聖堂の燭台がひとつ、音もなく消えた。
̶ まるで、誰かが“光”を一つ摘み取ったように。
第6話 聖女の涙
王都の朝は、いつもより冷たかった。
鐘の音が一度鳴るたびに、どこかで誰かが祈りをやめていくような空気。
広場ではまだ勇者の像が立っていたが、その足元には花ではなく、石が投げられていた。
花は枯れ、言葉は乾き、人々の信仰は砂のように崩れていた。
◆
聖堂の奥、祈りの間。
リディアは膝をつき、両手を組んでいた。
けれど祈りの言葉は声にならず、唇の動きだけが宙に浮く。
十日間、彼女はほとんど眠っていなかった。
勇者の加護は、日に日に乱れている。
̶ その光を鎮めることができるのは、神の声を聴く聖女だけ ……のはずだった。
̶「……神よ、どうか 」
言葉が途切れた瞬間、耳元で囁く声がした。
̶ 神は沈黙している。
̶ だが“影”は、お前を見ている。
「っ……!」
リディアは顔を上げた。 天井の聖像が見下ろす中、彼女の視界に黒い残像が滲む。
影が、柱の間を掠めて消えたように見えた。 幻覚か。それとも、クロウが見ているのか。
恐怖ではなく、なぜか安心が胸に満ちた。
̶ 彼なら、まだこの国を見捨てていない。
そう思う自分に、リディアは驚いた。
◆
一方その頃、勇者は王の間で荒れていた。
机の上には、処刑命令書の山。
「噂を広めた罪人」を次々と裁く判が押されている。
王は沈黙し、臣下たちは目を逸らす。
勇者の瞳だけが赤く濁っていた。
「この国は腐っている。
̶ 神を疑う者は、すべて 罪人だ!」
リディアが駆け込んできた。
「勇者様! お願いです、民を罰しないでください!」
「リディア……お前まで俺を疑うのか?」
̶「疑ってなど !」
「なら、祈ってみせろ。
俺の中にある“光”が、まだ神のものだと証明してみせろ!」 勇者が手をかざすと、加護の光が迸った。 白いはずの光が、紅く染まっている。
それは血と同じ色。
リディアの頬を撫で、床に燃えるような紋を残した。
̶「見ろ! 神はまだ俺に力を 」
「違います!」
その叫びは、祈りではなかった。
リディアの声が石壁に反響する。
「これは、神の声ではありません……!
あなたの怒りが光を濁らせているんです!」
勇者の目が揺らぐ。
彼は一歩、二歩と後ずさりした。
その指先が震える。
̶「リディア……お前も、あの影に 」
「影?」と彼女が問う前に、勇者は剣を掴み、叫んだ。
̶「俺を笑っている奴がいる! 闇の中から俺を !」
剣が振るわれ、聖堂の柱が砕けた。
リディアは悲鳴を飲み込みながら、崩れる瓦礫の下を走った。
勇者の叫び声が背後で響く。
「出てこい、クロウ! 貴様がこの国を壊したのだろう!」 その声は、神の加護よりも深い狂気の色を帯びていた。 ◆
その叫びを、俺は屋根の上で聞いていた。
王城の尖塔から響く声は、街中に反響する。
人々は怯え、祈りをやめる。
劇は予定よりも早く燃えはじめていた。
「……勇者が、完全にこっちを“見た”か」
隣でマーヤが低く口笛を吹く。
「派手に燃やしたもんだね。こりゃ神様も逃げる」
「神は最初から舞台にいない。
俺たちだけで、芝居を終わらせる」
「それで? あの聖女は? あんたの“観客”じゃなくなったんだろ」
「……彼女は、舞台の外から涙を流している。
だが涙は、観客を呼ぶ。
信仰よりも速く、噂よりも確実に広がる」
俺はポケットの中の欠けた“祝福の印”を握った。
リディアが返したそれは、もう微かな光も放たない。
だが冷たく硬い感触だけが、確かに存在している。
̶ 祈りは縛らない。
彼女はそう言った。
なら、俺がしてきたことは、ただの“縛り”だったのかもしれない。
勇者を、神を、そしてこの国を。
糸で縛り、動かし、壊した。
それを正義と呼ばないなら、何と呼べばいい?
俺は夜空を見上げた。
雲が裂け、淡い月が顔を出す。
その光の下で、ふと何かが頬を伝った。
̶ 雨ではない。涙だ。
俺はもう何年も、泣いたことなどなかったのに。
「……観客が、舞台に泣くとはな」
マーヤが驚いたようにこちらを見る。
俺は小さく笑って肩をすくめた。
「いい劇には、涙が必要なんだ。
たとえ、それが聖女の涙でも。
̶ いや、俺の涙でもな」
◆
その夜、リディアは一人、崩れた聖堂の跡で祈っていた。
瓦礫の隙間から差す光が、涙を照らす。
彼女の唇が震え、かすかに名を呼ぶ。
「……クロウさん……」 祈りではない。 ただ、届かない誰かへの呼び声。
その声を、誰かが暗闇で聞いていた。
影の中、ひと筋の涙を指で拭いながら。
第7話 呪われた加護
夜が赤く染まっていた。
王都の上空を、火の粉が吹雪のように舞う。
祈りの鐘は鳴らない。聖堂の塔は倒れ、城門は炎に包まれていた。
人々は叫び、逃げ惑いながらも、誰も「神の加護」を口にしなかった。
̶ それが、何よりの皮肉だ。
屋根の上から、俺は燃える街を見下ろしていた。
王城の中央、聖なる光が爆ぜている。
あれが勇者の加護。
神が授けたはずの力が、今や災厄そのものになっていた。
「……始まったか」
隣でマーヤが息を呑んだ。
彼女の瞳に、燃える王都が映る。
その光景は美しく、そして絶望的だった。
「加護ってのは、あんな化け物じみたもんなのかい」
「元は違う。
本来、加護は神の“信号”だ。
人の心が清ければ清いほど、神の力は穏やかに流れる。
̶ だが勇者の心が腐った時 力は、器を壊す」
「つまり、あの光は……」「神の沈黙に耐えられなかった人間の末路だ」
俺は屋根の縁に手をかけ、風下に身を乗り出した。
炎の熱気が頬を焼く。
その向こう、王城の中庭で勇者が立っていた。
背中の翼のように広がる光が、空を裂く。
「神よ……俺はまだ、間違っていない……!」
勇者の叫びが、雷鳴のように王都に響く。
だがその声には、祈りではなく焦燥しかなかった。
地面が震え、建物が次々と崩れていく。
王は逃げた。聖堂騎士は恐怖に凍りつき、
リディアだけが、彼の前に立っていた。
「勇者様! その光を止めてください! それは神のものではありません!」
「黙れ! 神は沈黙した! ならば俺が神になる!」
リディアの頬に光が当たり、焼けるような音が響く。
彼女は泣きながらも、彼の腕を掴んだ。
「お願いです……あなたは、そんな人じゃなかった……!」
「俺を見下ろすな! お前も俺を裏切ったんだ!」
勇者が腕を振る。
その一閃が、空気を裂き、聖女の法衣を切り裂いた。 リディアが倒れ、石畳に手をつく。
その涙が、燃える地面に落ち、蒸気を上げた。
俺はその瞬間、屋根から飛び降りていた。
◆
城壁の上、熱気の中を駆ける。
勇者と聖女の間に割り込むように降り立つと、
勇者が目を見開いた。
「……お前か、クロウ!」
「相変わらずだな。
誰かを“裏切り者”にしないと、自分を保てない」
̶「黙れ! 貴様が俺を !」
「俺は何もしていない。
お前が勝手に堕ちただけだ」
勇者の加護が唸りを上げる。
紅い光が渦を巻き、空を焦がす。
その中に、一瞬だけ“黒い影”が見えた。
まるで人の形をした神の亡霊のように。
「見えるか、勇者。
それが本当の加護の主だ。
神じゃない。お前の“欲”が形をとっただけだ」「嘘を言うなぁああああ!」
光が弾け、爆風が走る。
城壁が崩れ、石片が宙を舞う。
俺はリディアを抱きかかえ、瓦礫の影に転がり込んだ。
「……まだ、生きてるな」
「あなた……どうして……」
「観客が、舞台に降りただけだ。
あいつの芝居はもう終わりだ」
リディアの手が震え、俺の外套を掴む。
「殺さないでください……あの方を……」
「もう遅い。
これは“神”と“人間”の契約の崩壊だ。
止めるには、神そのものを断ち切るしかない」
リディアの瞳に、強い光が宿る。
彼女の胸元の“祝福の印”が、再び光りはじめていた。
「もし……その神を断ち切ったら、
あの方は救われるのでしょうか」
「分からない。
だが、泣くな。涙は神を呼ぶ」 俺は立ち上がり、腰の刃を抜いた。
炎に照らされたその刃が、淡く赤く光る。
勇者の加護が生み出した“偽りの神”と、
影の刃がぶつかる時が来た。
風が、燃える城を貫く。
光と闇が衝突する瞬間、世界が一瞬だけ無音になった。
̶ それは、祈りを断ち切る音だった。
◆
次に俺が意識を取り戻した時、
空は灰色で、雨が降っていた。
王城は半壊し、勇者の姿はなかった。
リディアが傍に座り、俺の手を握っていた。
「……終わったのか?」
「はい。でも……勇者様は……」
言葉はそこで途切れた。
リディアの手の中で、黒く焦げた“加護の印”が粉になって消えた。
「神は、もう沈黙すらやめたらしいな」
「それでも……祈ります。
誰かが見ていなくても、私は祈ります。
あなたのためにも」
俺は笑おうとして、うまく笑えなかった。
空の雨が頬を叩く。
それが涙なのか、雨なのか、もう分からなかった。
「リディア……お前は、まだ光の側に立てるか?」
「わかりません。
でも、あなたが“影”でい続けるなら……
私はその隣で、光であることを選びます」
言葉が、静かに落ちた。
火の消えた王都を包む雨の音が、唯一の祈りのように響いていた。
俺は目を閉じ、呟いた。
「……舞台は、まだ終わっちゃいない」 遠くで、誰かが笑った気がした。
̶ それは神か、勇者か、あるいは 俺自身かもしれなかった。
第8話 旧友の影
王都が静まり返るまでに、三日かかった。
炎は雨に消され、瓦礫は泥になり、死体はようやく数えられるようになった。
誰もが「神の怒り」と口にしたが、誰も神を信じてはいなかった。
ただ、焼けた街の匂いと灰の味が、祈りの代わりに残っただけだ。
俺は城壁の外に立っていた。
黒い外套は煙の匂いを吸い込み、どこへ行っても影のように見える。
リディアはまだ聖堂跡にいる。瓦礫の下から人を掘り出し、葬り、また祈る。
あれが彼女の戦いなのだろう。俺はその背中を見たまま、一度も声をかけなかった。
燃え尽きた王都の西門には、かつて勇者の旗が掲げられていた。
今は、半分焦げた布が風に揺れている。
俺はそれを一度見上げて、背を向けた。
◆
港の倉庫に戻ると、マーヤが待っていた。
長机の上に古びた瓶を並べ、無言で一つ渡してくる。
瓶の中身は酒じゃなかった。乾いた土。王都の焦げ跡を拾ってきたものだ。
「記録に残すんだろ、いつもの癖でさ」「ああ。これで全部だ。勇者の劇は終わった」
「終わってない顔してるぜ」
マーヤが軽く笑う。
笑いながらも、目は探っている。
俺は瓶の蓋を閉め、棚の一番奥に置いた。
「……何か見つけたのか?」
「ある。
港に“勇者の仲間”を名乗る奴が現れた。
十年前、最初の遠征に同行してた古参らしい」
「生き残りが、今さら何の用だ」
「言葉は少なかった。
『勇者はまだ死んでいない』ってさ」
静寂が倉庫に降りた。
外の波音まで遠ざかるようだった。
俺は視線を落とし、足元の影を見た。
ゆらぎがある。まるで誰かが立っているように。
「マーヤ、その男はどこに」
「港の灯台だ。
お前が来ると思って待ってるって」「……“影の仲間”ってやつか」
「気をつけろよ。そいつ、笑ってた。死人みたいな笑い方で」
俺は外套の裾を翻し、倉庫を出た。
◆
灯台は、王都の再建が始まる前から放置されている。
石の壁には苔が張りつき、風が笛のように鳴る。
扉を押すと、錆びた hinges が悲鳴を上げた。
中は暗い。
階段を上がるたびに、木の板が軋む。
頂上の小部屋に、ひとりの男が座っていた。
黒い外套。片腕はない。
しかし、その横顔には見覚えがあった。
「……リューク、か」
「覚えていたか、クロウ。
いや、“影の男”と呼んだ方がいいか?」
「お前は勇者と一緒に死んだと思っていた」「俺も、そうなるはずだった。
̶ だがあの夜、光が爆ぜた時 “声”を聞いた。
神の声でも、勇者のでもない。“お前の声”だ」 俺は眉をひそめた。
「何を言ってる」
「お前が影を撒いたろう? 噂を、恐怖を、罪を。
あれが俺の中に入った。
今、俺の中には“勇者の残り”と“お前の影”が混ざってる。
お前の劇はまだ終わってない」
リュークが立ち上がる。
片腕の袖が風に揺れ、赤黒い光が滲んだ。
あの加護と同じ色だ。
「勇者は死んだ。でも、“力”は生きている。
そしてその力は、影を選んだ。……お前をな」
灯台の窓が震え、光が差す。
リュークの眼に赤い閃光が宿った。
「クロウ。
お前が望んだ通り、“堕ちた勇者の続き”を見せてやるよ」
その言葉と同時に、加護の光が爆ぜた。
床が砕け、壁が裂ける。
俺は咄嗟に後ろへ跳び、足元の木片を掴んだ。
リュークの背後に、巨大な影が立ち上がる。
̶ それは形を持たない人の姿 勇者の幻だった。
「……やれやれ、舞台の幕は勝手に上がるもんだな」 俺はナイフを構え、闇の中の光に目を細めた。「今度は、俺が脚本を書き直す番だ」
◆
外では、また雨が降り出していた。
王都の鐘は鳴らない。
光と影がぶつかる音だけが、夜を裂いていた。
次回 第9話「影の継承」
第9話 影の継承
灯台の中に、光と闇が混ざっていた。
炎の色でも、加護の白でもない。
赤黒く濁った“光の残骸”が、リュークの体から滲み出ている。 まるで、勇者が最後に吐き出した怨嗟がそのまま形になったようだった。
「……お前が、それを継いだのか」
「継いだ? 違うさ、クロウ」
リュークは笑った。笑いながら、指の欠けた手を掲げた。
「これは呪いだ。お前が撒いた“影”を、あの光が喰ったんだ。
そして今、影と光が俺の中で腐り合ってる」
「それを止めろ。お前の体が持たない」
「止める? どうしてだ。
俺たちは、あの勇者の劇を続けるために生まれたんじゃないのか
?」
光が爆ぜる。
足元の石が溶け、灯台の壁にヒビが走った。
吹き抜けの窓から雨が吹き込み、火のような加護の粒が散った。
リュークの影が歪む。
その影の中から、もう一つの顔が覗いた。
勇者の顔だった。 焼け落ちたはずのその眼が、まだ生きているように輝いている。
「クロウ……お前か。まだ観客を気取っているのか」
声が、二重に重なった。
リュークと勇者の、二つの喉から同時に響く。
俺は刃を構えた。
「観客はもういない。残ったのは、幕の外に立つ役者だけだ」
「なら、役者らしく踊ってみせろ。影の王よ!」
次の瞬間、光が走った。
リュークの右腕が爆ぜ、加護の光が鞭のように伸びてくる。
俺は身をひねり、壁を蹴ってかわした。
煙と雨が混ざり合い、息を吸うたびに肺が焼ける。
「お前が……勇者を殺したのか?」
「殺してはいない。あいつは自分で落ちた。
俺はただ、その落ちる音を聞いていただけだ」
「ならば次は、お前の番だ!」
光が地を穿ち、床が崩れた。
足場がなくなり、俺とリュークは同時に落下した。
下は暗闇。海風の唸りと波の音が近づく。
落ちながら、俺は短剣を逆手に構えた。
闇の中で、赤い光が眼を狙う。
̶ 刃と光がぶつかる。
火花が散り、世界が一瞬だけ白く染まった。
◆
目を開けた時、波の冷たさが肌を刺した。
灯台は崩れ、海に沈みかけていた。
リュークの姿は見えない。
ただ、赤い光の欠片が水面に浮かび、ゆらゆらと揺れている。
あれが、勇者の残骸。
̶ “加護の核” 神の力の断片。
俺はその光を掴んだ。
掌が焼けるように熱い。
それでも離さなかった。
光は、ただの力じゃない。
̶ 記憶だ。願いだ。罪だ。
「お前は……まだ、終われないのか」
その時、背後から声がした。
「クロウ!」
振り向くと、波打ち際にリディアが立っていた。
衣は濡れ、肩で息をしている。
手には、かつての“祝福の印”。
割れていたはずの石が、微かに光っていた。
「神はもう沈黙しました。 けれど、加護の力は残っている……それは、誰かの祈りの形。
もしその光が勇者様の残したものなら、まだ救えるかもしれません!」
「救う? ……お前はまだそんなことを言うのか」
「ええ。
あなたが影に堕ちても、私の祈りは届くと信じています」
リディアが両手を差し出した。
彼女の掌から柔らかな光が溢れ、俺の手の中の“核”に触れた。
赤黒い光が震え、やがて静かに白に戻っていく。
勇者の残した力が、少しずつ消えていった。
「……終わったのか」
「ええ。でも……」
リディアの声が震えた。
白い光の中心で、ひとつの影が浮かんだ。
勇者の面影。
彼は微笑んでいた。
静かに、穏やかに、誰にも見えないほどに。
「ありがとう、リディア。
ありがとう、クロウ。
俺は……ここでようやく、終われる」
その声が消えると同時に、光も消えた。
海は静まり返り、波の音だけが残った。
◆
翌朝。
リディアは聖堂跡へ戻り、俺は港を歩いていた。
マーヤが見つけてきた古い地図を差し出す。
「見ろよ。北の山脈の向こうに、“神の遺跡”って印がある。
あの加護の出所は、きっとそこだ」
「まだ続けるのか、マーヤ」
「劇が終わったら、次の幕だろ?
お前は脚本家なんだろ。……それとも、観客に戻るか?」
俺は地図を受け取り、折りたたんだ。
灰色の空を見上げる。
王都の上には、もう煙はない。
だが、風の匂いはまだ焦げていた。
「観客はもういない。
今度は、俺が舞台に立つ番だ」
マーヤが笑った。
「そのセリフ、あんたらしくないね」
「らしくなくていいさ。
影は光がなきゃ存在できない。
でも、光が消えた世界で影がどう生きるか……それを確かめたい」 遠くで、聖堂の鐘が鳴った。
新しい朝を告げるように。
◆
その音を聞きながら、俺は歩き出した。
光を捨てた国で、影がどこまで人を救えるのか。
̶ 神がいなくても、祈りが消えても
まだ、誰かの涙を乾かす方法があるかもしれない。
影の旅は、ここから始まる。
次回 第10話「神の遺跡」
第10話 神の遺跡
北の山脈は、灰色の雲に覆われていた。
王都を離れて五日。
風は冷たく、足元の雪は膝まで埋まる。
それでも、俺とマーヤは止まらなかった。
̶ 地図の端に記された「神の遺跡」という言葉 あの加護の源を辿る唯一の手がかりだった。
「まるで、世界の終わりに向かってる気分だね」
マーヤが息を白くして笑う。
「終わりじゃない。始まりの場所だ」
俺は雪を踏みしめながら答えた。
「始まり?」
「加護が生まれた場所。
つまり、“神が造られた”場所でもある」
マーヤの目がわずかに動いた。
「……神を造る、ね。勇者の国が聞いたら発狂するよ」
「もう誰も信じちゃいない。
信仰は死んだ。残ったのは、仕組みだけだ」
◆
夕暮れ、山の裂け目に洞窟を見つけた。
雪に埋もれた入り口には、古い碑が立っている。
石に刻まれた文字は、半分崩れて読めない。
̶ かろうじて残っていたのは三文字 「創」「加」「殿」。
「“創加殿”……つまり、“加護を創った神殿”か」
俺は指先で文字をなぞった。
石は生き物のように冷たく、微かに脈打っている。
中に入ると、空気が変わった。
静寂が重く、耳鳴りのように低い音が響いている。
壁には古い紋章。王国の印ではない。
その中央に、見覚えのある模様があった。
̶ 勇者の加護の紋と同じ形。
だが、色が違う。
黒と金が絡み合う、まるで「影と光の融合」のような意匠。
「ここで……作られたのか」
俺の呟きに、マーヤがランプを掲げた。
「何か書いてあるよ」
壁に彫られた碑文を読む。
そこには、こう記されていた。
《神は存在せず。
人が神を求めた時、影は光を模倣した。
加護とは、恐れの集合体である》
「……神は“影の投影”だったってことか」「信仰ってやつの、裏側だね。
人が怖れたものを形にして、“神”と呼んだ」
「勇者は、その模造神の力を使っていた。
だから壊れたんだ。
̶ 神は外にいない 人の中にいたんだ」
その時、奥から微かな声がした。
風ではない。
誰かが、祈りの言葉を唱えている。
◆
洞窟の最奥、広い円形の部屋。
中央に立つのは、白い衣をまとった影。
その背は細く、肩までの髪が風に揺れる。
̶ リディアだった。
「来ると思っていました」
彼女の声は静かだった。
だがその足元には、無数の魔法陣が描かれている。
光と闇の文様が絡み合い、淡い脈動を放っていた。
「お前……ここで何をしている」
「勇者様の残した“加護の断片”を集めていました。
そしてようやく、理解したのです。
この遺跡こそ、神が造られた場所。
̶ なら、私はもう一度、祈りをやり直せる」 「やり直す? それは……危険すぎる。
ここに残る力は、加護を再現するための仕組みだ。
制御できるものじゃない」
「だからこそ、必要なのです。
あの方が壊した“信仰”を、この場所で正したい」
リディアの瞳が、かつての勇者のように燃えていた。
光が強すぎると、影は薄れる。
̶ 彼女は、光の側から堕ちようとしている。
「リディア、やめろ。
お前が神を再び呼べば、この世界は同じ過ちを繰り返す」
「私は、信じたいんです。
あなたが“影”であるように、私は“光”でありたい。
それが私の祈りです」
足元の魔法陣が輝き始めた。
光の帯が彼女の体を包む。
マーヤが後ろで息を呑んだ。
「クロウ、止める気なら今だよ」
俺は答えなかった。
リディアの目が、真っ直ぐ俺を見ていた。
迷いのない、祈りの目。
それを壊す覚悟が、自分にあるのか分からなかった。
「……リディア。
お前は、神なんかじゃない。
̶ でも、お前の祈りは 俺には見える」
俺は彼女の腕を掴み、魔法陣の中心から引き離した。
光が暴走し、洞窟全体が揺れた。
天井から岩が崩れ、轟音が響く。
̶「離して、クロウ! 私は !」
「もう十分だ! あの勇者が壊したのは神じゃない。
“人間の信仰心”だ。お前まで壊す必要はない!」
リディアが泣いた。
その涙が魔法陣に落ち、光が一瞬で消えた。
闇が戻る。
残ったのは、沈黙と、彼女の震える肩だけだった。
◆
外に出ると、夜明けの光が差していた。
雪が溶け、空は淡く青い。
マーヤが後ろで肩をすくめる。
「危なかったな。もう少しで、世界が二度目の破滅だ」
「世界は壊れないよ。
壊れるのは、いつも“信じすぎる心”だけだ」
「……お前、影のくせに優しいね」「優しさじゃない。観客の務めだ。
誰かが舞台を見届けなきゃ、物語は終われない」
リディアが静かに立ち上がる。
その瞳は泣きはらして赤く、それでも穏やかだった。
「ありがとう、クロウ。
あなたがいたから、私はもう“光”に縛られません。
これからは、自分のために祈ります」
俺は頷いた。
そして、空を見上げた。
雪雲の隙間から、一筋の陽光が差していた。
その光は、まるで影の上を撫でるようにやさしかった。
◆
帰り道、マーヤが呟いた。
「結局さ、神って何なんだろうね」「さあな。
̶ けど、こうして誰かが誰かのために泣くなら
それが一番人間らしい“神の証”なんだろう」
雪を踏みしめながら、俺は歩き続けた。
影の旅は、まだ終わらない。
けれど、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
それが、祈りに似た感情だと気づくのに、少し時間がかかった。
第11話 祈りの残響
山を下りると、春の匂いがした。
雪解け水が谷を流れ、野花が一斉に顔を出している。
王都を離れてから、季節が変わったのだとようやく気づいた。
冬の終わりは、思ったより静かで長い。
それでも世界は、何事もなかったように息をしていた。
マーヤは先を歩きながら、指先で花を摘んだ。
「生き返ったみたいだね、街も人も」
俺は頷き、目を細めた。
「壊れるたびに、世界は少しだけ優しくなる」
「……皮肉だね」
「皮肉こそ現実だ。神より正直だ」
◆
王都に戻ると、街の空気が変わっていた。
人々は新しい聖堂を建てはじめている。
だが、そこに神像はなかった。
祈る相手を描かず、ただ空を見上げるだけの建物。
信仰ではなく、記憶を留めるための場所だった。
リディアはその中央に立ち、子どもたちと石を積んでいた。
顔にかつての聖女の威厳はなく、
代わりにひとりの女性の穏やかな笑みがあった。
「クロウさん。帰ってきてくださったんですね」 「……ここが、お前の祈りの場所か」
「ええ。
もう“神のため”ではなく、
“人のため”の祈りをしたいんです」
彼女の指先は泥に汚れ、爪には石の欠片が挟まっていた。 かつて加護を降ろした手が、今は瓦礫を積み上げている。
それだけで、十分だと思えた。
◆
夜。
俺はひとり、王城跡の塔に登った。
崩れた屋根の隙間から見える星は、驚くほど多かった。
風は柔らかく、遠くの聖堂の灯が瞬いている。
そこから、リディアの祈りの声が微かに届いた。
̶ 神ではなく、人へ向けられた祈り。
声は震えていたが、確かに届く強さがあった。
その音を聞いていると、不思議と胸が静かになった。
俺は、かつて影であることを誇っていた。
光を利用し、真実を暴き、崩壊を観測する。
それが俺の生き方だった。
だが今、その役目が少しだけ色褪せて見えた。
̶ 崩壊の先にも、祈る声が残るのなら
影は、光の亡骸を温めるために存在しているのかもしれない。
◆
足元に、小さな音がした。
振り向くと、マーヤが階段を上ってきていた。
「相変わらず、屋根の上が好きだね」
「景色がいい」
「いや、逃げ場がないからでしょ」
彼女は笑い、腰を下ろした。
手にしていた紙袋を俺に投げてよこす。
中にはパンが二つ。温かかった。
「お前、珍しくまともな飯を持ってくるな」
「リディアが焼いたやつ。あんたに食べさせてやれって」
「……聖女がパンを?」
「今じゃ“聖女”じゃないよ。ただのリディアだ」
俺は袋を開け、ひと口かじった。
焼きたての香ばしい匂いが広がる。
それは、信仰の味でも奇跡の味でもない。
̶ 生きている味だった。
「どうだい、影の王。久々の人間の食い物は」
「悪くない。……泣けるほど、悪くない」
「そりゃ結構」
マーヤは夜空を見上げた。
星がひとつ流れた。
願いごとを口にするでもなく、
ただ静かにその軌跡を追う。
◆
「なあ、マーヤ」
「ん?」
̶ 「もし、神が本当にいたとして
あいつは、今どこで何を見てるんだろうな」
「そんなの決まってるさ。
“もう自分がいなくてもいい”って、笑ってるんだよ」
俺は少しだけ笑った。
それは、影の男が初めて浮かべた、安らかな笑みだった。
◆
夜明け前。
塔の上から見た王都は、煙も血もなく、
ただ人々の灯りが点々と並んでいた。
それは星空と同じ形だった。
神はもういない。
でも、誰もが少しずつ祈りを取り戻していた。
それで十分だと思った。
俺は立ち上がり、東の空に向かって歩いた。
マーヤが後ろで声をかける。
「どこへ行くんだい?」
「次の舞台へ」
「今度は、どんな劇を?」 ̶ 「 誰も泣かない劇を」
風が吹き抜け、朝の光が街を染めた。
その光の中で、影は薄れ、やがて消えた。 けれど確かに、歩き出していた。
祈りの残響を背に。
第12話 影の終幕
夜明けの光が、山と街の境を染めていた。
王都を離れて三日。
俺は北東へ向かって歩いていた。
目的はない。けれど、終わらせなければならないものがあった。
̶ 自分という「影」の存在を。
草原の風はやさしく、空は澄んでいる。
人が祈りを失っても、世界は止まらない。
それでも、どこかで誰かが「見届けること」をやめた時、
世界は本当に死ぬのだと、今は分かる。
◆
途中の村で、老人に出会った。
古い石橋の修復をしていたらしい。
俺の顔を見るなり、彼は笑った。
「お前さん、旅の人か。王都の騒ぎももう静まったと聞くが」
「騒ぎは終わった。だが、跡は残る」
「跡があるうちは、生きてる証拠だよ」
老人は、土に埋もれた石を撫でながら言った。
「昔、神の使いを名乗る者が来てな。
橋を壊して、“この川は罪を流す聖域だ”って言ってた。
それでも人は橋を直した。罪より、向こう岸にいる家族の方が大事だからな」
その言葉に、俺は微かに笑った。
祈りとは、そういうことなのかもしれない。
誰かを救うよりも、誰かと繋がるためにある。
◆
夜、丘の上に火を焚いた。
焚き火の音は静かで、風が通り抜けるたびに火の粉が星のように散った。
マーヤが残していった旅袋から、古い紙を取り出す。
勇者の紋が描かれた手記。
彼がまだ正気だった頃に書いたものだ。
《人は光を求める。だが、光に焼かれて死ぬこともある。
影は恐れられる。だが、影こそ人の輪郭を守るものだ。》
……そうか。
勇者は最後の瞬間まで、自分の“影”を見ていたのかもしれない。
なら、俺の役目は最初から決まっていた。
壊すためじゃない。
「見届けるため」に、影は生まれたのだ。
◆
焚き火の炎が小さくなった頃、
闇の中から、誰かの足音がした。
「……探しましたよ、クロウさん」
リディアだった。
肩までの髪が風に揺れ、手にはランプを持っている。
その光が、影のような俺を柔らかく照らした。
「どうしてここに」
「あなたが、“終わりを見に行く”顔をしていましたから」
彼女は少し笑って、隣に座った。
「王都は落ち着きました。
マーヤさんは商会を始めて、子どもたちの面倒を見ています。
……あなたの話をすると、皆が笑うんです。
“影の男が世界を救った”って」
「救ってなどいない。
ただ、照らされていただけだ」
「でも、あなたがいなければ、誰も気づけなかった。
神の沈黙も、人の祈りも、同じ“声”だということに」
リディアはランプを見つめながら言った。
火が小さく揺れる。
その炎に、勇者と俺、そしてリディアの影が重なった。
◆
「クロウさん」
「なんだ」
「あなたにとって、“影”とは何ですか」 俺は少し考えてから答えた。
「……影は、終わらないものだ。
光が消えても、記憶の中に残る。
たとえ誰も見ていなくても、存在の形をなぞる。
だから影は、生きている証なんだ」
リディアが静かに頷いた。
「それなら、あなたはずっと生き続けますね」 「そうかもしれない。
̶ だが、いつかこの影が誰かの祈りになれば それでいい」
その言葉に、彼女は微笑んだ。
炎が小さく鳴り、夜風が吹く。
星空が広がり、遠くで朝の鳥が鳴いた。
◆
夜が明ける。
丘を下りる時、リディアがランプを差し出した。
「これを持っていってください」
「いいのか」
「はい。影が消えるのが怖くなったら、灯してください。
きっとまた、誰かの声が聞こえますから」
俺は受け取り、頷いた。
ランプの火が朝日に溶けていく。
その中に、勇者の微笑みが一瞬だけ見えた気がした。
俺は歩き出す。
背後でリディアが祈りの言葉を口にする。
それは神ではなく、ただ世界への小さな願い。
̶ どうか、影が誰かを導きますように。
その声を背に、俺は新しい朝の光の中へ消えた。
影はもう、逃げることをやめた。
光の下で、生きることを選んだ。
世界は静かに続いていく。
祈りの残響とともに。
̶ 終幕。



