第一話 婚約破棄の裏側で
王都の大広間に、氷のような静寂が落ちていた。
磨き上げられた白亜の床には、絵画のように整列した貴族たち。
その中心で、俺は微動だにせず、彼女の言葉を待っていた。
「ライル・グラン。あなたとの婚約を破棄します」
涼やかに響いた声は、王女に次ぐ高貴な存在――
“悪役令嬢”と呼ばれる侯爵令嬢アメリア・ヴァーミリオンのものだった。
会場がざわめく。
だが、俺は少しも驚かない。
――ああ、予定通りだ。
この婚約破棄は、彼女の独断ではない。
王国上層部が仕掛けた権力争いの一手。
俺が“邪魔”になったから切り捨てただけの話。
俺はその流れを、三ヶ月前には完全に読んでいた。
むしろ、それを「起こさせるように」仕組んでいたのだ。
なぜなら――追放こそ、俺の解放であり、次の戦略の始まりだったから。
アメリアの表情は、完璧な勝者の微笑みだった。
だが、その笑顔の裏にある焦燥と不安を、俺だけが見抜いていた。 彼女は優しい。
そして、弱い。
この場で「悪役」を演じなければ、彼女の家が潰されると知っている。
だからこそ俺は、敢えて敗者の仮面を被る。
「……そうか。ならば、君の望むままに」
俺は淡々と答え、頭を垂れた。
嘲笑する貴族たちを横目に、扉を押し開けて去る。
大広間の外に出た瞬間、胸の内に張りつめていた糸が、静かに緩んだ。
――これで、すべてが盤上に乗った。
◆
追放から七日後。
俺は辺境の地、グレン村へとたどり着いた。
王都から遠く離れた、風と土の匂いしかしない田舎だ。
ここには、情報も権力も届かない。
だが、だからこそ、再構築にふさわしい。
村人たちは最初、俺を「ただの流れ者」として見ていた。
けれど数日も経たないうちに、彼らの目の色は変わる。
古びた製粉機を修理し、畑の配置を最適化し、
日照と風の流れを読んで灌漑路を引く。
たったそれだけで、収穫量は二倍になった。
「ライルさん、あんた頭いいんだなあ!」
「ただの学者かと思えば、鍛冶もできるのか!」
彼らの笑顔を見るたびに、俺は微笑む。
――そう、俺は戦場でも経済でも、盤上を読むのが得意だ。
王国参謀時代、千を超える戦略を立案した。
だが、今はただ畑を眺め、焼きたてのパンをかじる。
この静けさこそ、俺が望んでいた“休戦”だった。
……表向きは、な。
◆
夜。
灯火の下、机に広げた羊皮紙には、王国地図が描かれている。
赤い印は商会、青い印は傭兵団、黒い線は街道。
俺の手で結ばれた新たな流通網が、徐々に王都を迂回して形成されていた。
辺境で作物を育てる? いや、これは兵糧だ。
交易を支える? いや、補給線だ。
村人の笑顔の裏で、俺は戦略を育てている。
王国の貴族たちが、俺を“失脚した男”と思い込む間に。
やがてその補給線が国の心臓を締め上げることなど、
誰ひとり気づくまい。
◆
「……ライル様、手紙が」
扉の向こうから、村娘のティナが差し出した封筒を受け取る。
見覚えのある紋章――ヴァーミリオン家の紋だ。
封を切ると、短い文が目に入った。
『どうか、生きていてください』
震えるような文字。
あの“婚約破棄”の裏で泣いていた彼女の顔が、脳裏に浮かぶ。
「……心配はいらない、アメリア」
俺はそっと灯を消した。
――婚約破棄すら、計算済みだ。
次に王国を支配するのは、王でも貴族でもない。
盤上の影に潜む、ただの“辺境の男”だ。
◆
翌朝。
東の空が淡く染まる頃、俺は村の丘に立っていた。
吹き抜ける風の先には、まだ見ぬ戦場。
だが今回は、血ではなく“策”で勝つ。
「さて――今日も畑を耕すか」
手に取った鍬の刃先に、朝日が反射した。
その光はまるで、次の戦略の号令のようだった。
第1話完。
(次回「第二話 辺境での新生活」――表と裏の顔が本格的に動き始める)
第二話 辺境での新生活
日の出より少し早く、村の空に薄い霧がかかる。
俺は丘から降り、粉にまみれた製粉小屋へ向かった。古い水車は夜のあいだも回り続け、軋んだ音とともにわずかな小麦を挽いている。流量は十分、歯車の噛み合わせも許容範囲。だが出力が伸びない――原因は、水路の落差とシャフト角のロスだ。
「ここを五度だけ切り下げて、羽根板を二枚追加する。軸受けは麻紐じゃなくて、蜜蝋を染み込ませた革で巻け」
居合わせた村の若い衆が目を丸くした。
「五度だけ……そんな些細な違いで?」
「些細な違いの積み重ねで、戦は決まる」
俺は笑い、設計用の黒炭を取った。水路の上流に小さな越流堰を入れる図を描く。落差が増えれば、水車はゆっくりでも重たい石臼を回せる。回転速度を求めない代わりに、粘り強いトルクを取る。パン生地のように、じわじわと。
午前、改修が終わると、臼はぐうん、と低く唸って回りはじめた。
粉塵が陽に舞い、ティナが歓声を上げた。
「すごい……! 昨日の倍は挽けてます!」
「倍が目標じゃない。三日で三倍にする」
「三倍!?」
「今日から粉は“重量”ではなく“ふるい通過率”で取引する。粗挽き・並・上白。袋に刻印を押す。形が整えば、隣村にも卸せる」
俺は焼き印の原版を取り出した。刻まれているのは風車の意匠―
―ただし羽根の本数と角度が、ある規則で変化する。
ティナが首を傾げる。「この違い、意味があるのですか?」
「ある。外から見れば等級印だが、内実は“暗号”だ。刻印の組み合わせで誰がいつ粉を運んだか、荷姿、経路、数量、全部が分かる。
街道の検問で記録が奪われても、読み解けるのは俺と……信頼した数人だけだ」
戦場で学んだことがある。剣より先に、帳面が折れる。だから帳面は散らしておく。刻印、紐の結び目、袋の縫い針目、すべてが符丁になる。
「符丁はパンにも使える。今日から村のパンは三種。日常用の“薄月”、旅人用の“石運び”、祝い用の“白花”。形と切れ目の数で、
配送先と危険度を知らせる。万一、道で盗賊に囲まれても、こちらが先に状況を知れるように」
「パンで……合図?」
「飢えは戦に勝る刃物だ。刃物は見せずに持て」
ティナは小さく「はい」と返事をし、焼き場へ駆けていった。窯から立ちのぼる香りは、村人の警戒心を溶かす。甘く、温かいものは正義だ。俺にとっても同じ――戦の理論を隠す良い煙幕になる。
◆
昼。
川辺の胡桃の木陰で、俺は簡易の机を広げた。板に打った釘の間に糸を張り、村の資材と人手を点と線で可視化する。やがて糸の網は、王都へ延びる街道を避け、大きな弧を描いた。
弧の先には、三つの点――“塩”“鉄”“蜂蜜”。
スローライフが豊かに見えるための三種の調味料。戦の裏打ちをする、三種の戦略資源だ。
塩は保存、鉄は道具、蜂蜜は栄養と薬の媒介。
どれも王都の商会が握り、辺境には高値でしか回ってこない。だから、迂回する。王都を中心とした“蜘蛛の巣”から逃れるには、もう一枚、上に“鳥の網”を張る必要がある。
鳥の網――渡り鳥の飛ぶ道筋に倣って、街道ではなく谷と尾根を繋ぐ。見た目の距離は遠回りでも、検問がないぶん、時間も安全も得られる。
「……間に合うか」
呟いたところへ、荷馬車が砂をあげて近づいた。
小柄な男が、陽気に笑って飛び降りる。
「おお、噂の“辺境の学者様”だな。ホーク商会のホブだ。塩を“ 重さ”じゃなく“効き目”で売りたいって変わり者。合ってるか?」「効き目で、ね。塩は料理のためだけにあるわけじゃない。傷口、魚の保存、家畜の飼料。用途ごとに純度を変えれば、無駄が減る。
結果、安くできる」
「はは、やっぱり変わり者だ!」
俺は笑い返し、積み荷に視線を走らせた。袋の縫い目は粗い。つまり再封が容易。商会としては“割り増し”を狙うやり方だ。だがホブの目は笑っていても、手は落ち着きなく袋の口に触れている―
―つまり損する商売を押し付けられている。
「ホブ。袋の口を“下に”して積め。次からは帆布を一枚、荷台に
敷く。袋が滑れば、塩は固まらない。固まらない塩は、量りやすい」
「……おいおい、学者様。商売まで口出すのか」
「口だけじゃない。今日からこの村で“塩の等級印”を導入する。粗塩、晒塩、上白。印は俺が管理する。印の分だけ、次の仕入れで
“鉄釘”を安く卸せ。釘は道を作る」
ホブは鼻を鳴らし、しばらく考えてから頷いた。
「いいだろう。俺は得をしたいし、損をしたくない。だが“王都の目”は怖い。検問に見つかったら?」
「検問は“同じ日同じ場所に長くいられない”。賄賂が必要だからだ。だから彼らは短気だ。短気な相手には、遠回りをぶつける」 俺は鳥網の地図をくるりと回し、北の谷筋に印を打つ。「三日後、ここで“蜂蜜”を受け取る。支払いは粉、一部は“紙” で渡す」
「紙?」
「粉庫手形――粉の倉の預かり証だ。袋の焼き印と紐の結び目が、裏書きになる。王都の金貨は王の顔が死ねば紙切れだが、腹が減らない限り粉は紙切れにならない」
「……面白ぇ。腹は正直だ」
俺たちは握手を交わした。
商人は臆病で強欲で、同時に賢い。それは王国の将軍より信頼できる性質だ。腹の虫は嘘をつけない。
◆
夕暮れ。
村の広場で、男たちは釘を打ち、女たちは粉をふるい、子どもたちは蜂を追いかけた。焼き上がった“薄月”が籠に並び、俺は一本一本、切れ目を確認する。
そこへ、馴染みの顔――老猟師のグラントが背を丸めてやって来た。
「ライル。西の道に“灰色の旗”が立った。徴税官だ。しかも兵を連れている」
灰色は暫定措置の色。一時徴発、あるいは臨時取り締まり。王都が辺境の動きを嗅ぎつけたか、あるいは――
「“軍を食わせる粉”が王都に回らなくなった」
俺の独り言に、グラントがうなずく。
「鼻の利く狼は、まず匂いから吠える」
「吠えるなら、こちらは“木霊”で返すだけだ」
俺は窯の脇に置いていた麻袋を持ち上げた。“石運び”のパンが詰まっている。固く、日持ちするが、芯は柔らかい。盗賊も兵も、空腹なら買う。
「徴税官の幕舎まで歩こう。値段を聞かれたら“王都価格の半分” と言え。兵は驚くだろう。だが“今日の分だけ”だ。明日は倍になる」
「倍?」
「兵の腹は今日を食う。明日のことは考えない。今日、彼らの胃袋を握る。明日、彼らの財布を握る。三日目には“道順”を握る」
グラントは口の端を上げた。「相変わらず、黒い」
「黒いのはパンの焼き色だけだと信じてくれ」
俺は冗談めかし、麻袋を肩に担いだ。
◆
徴税官の幕舎は、広場の外れに立っていた。軍馬の鼻息、槍の穂先、革鎧のこすれる音。
その中心に、灰色の羽織をまとった男がいる。痩せて、目が細い。
数字を好み、血を避けるタイプ――嫌いではない。
「辺境グレン村の代表者は?」
俺が半歩、前へ出た。
「ライル・グランです。粉とパンの管理をしています。本日は兵の皆様のために、日持ちする“石運び”を」
灰衣の男はパンを手に取り、重さを確かめ、匂いを嗅いだ。
値切る前の儀式。俺は値段を“王都の半値”と告げ、さらに一歩、踏み込む。
「支払いは“銅貨”でも“粉庫手形”でも構いません。軍用については、明日以降、臨時の配送路を整えることができます。検問の負担を軽くします」
灰衣の男の目が細くなる。俺はさらに畳みかけた。
「ただし、今日の分は“現金”で。明日からは“手形”を。手形は商会で換金できます。証印はこちら――」
俺は焼き印と紐を取り出した。灰衣の男が紐の結び目を見て、わずかに眉を上げる。
この結びは“盗難の跡が残りやすい”結び。手癖の悪い兵に嫌われ、手癖の悪い徴税官には好まれる。「君は、王都の商慣習をよくご存じのようだ」
「王都では、魚より帳面が泳ぎますから」
薄く笑いを交わしたところで、横合いから声が飛んだ。
「待て! その名――ライル・グランと言ったな」
鎧の胸板に獅子を彫った若い隊長が、声を荒げる。
こいつは数字ではなく血を好む目だ。俺が最も退屈する種類。
「王都布告に名がある。元参謀、王命に背き、国家機密を持ち出した罪。身柄の拘束、もしくは――」
「もしくは?」
「協力の約定。辺境における兵糧供出と、配送路の提供。対価は…
…“二倍の税免除”」
幕舎の空気がねじれた。兵の目に、腹と財布の計算が浮かんでいる。
灰衣の男は沈黙し、若い隊長は肩で息をしている。
俺は一拍だけ考え、パンの籠から一本を取り出して、半分に割った。ふわりと湯気が上がる。芯の柔らかさが、刃物のように空気を切り裂いた。
「隊長。あなたの部下は、今日を守り、明日も歩く必要がある。腹が空けば、槍は落ちる。道が乱れれば、馬は転ぶ。俺のパンは今日を満たし、俺の道は明日を繋ぐ」
「詭弁だ」
「では数字で。今日の兵糧を王都から運べば、輸送費は銅貨三十、
途中で二割が湿って減耗、残りの一割は盗まれる。こちらからなら、銅貨十五。減耗は一割未満。盗賊には“パン”で買収する」
灰衣の男が咳払いをし、若い隊長の前に出た。
「……隊長殿。文言通りなら、これは“協力の約定”の範疇に入る。
拘束は“協力を拒めば”の話だ」
「だがこいつは元参謀だぞ。裏がある」
「裏があれば、表が整う」
灰衣の男――徴税官は俺に向き直り、静かに問う。
「見返りは?」
「三つ。兵の通行は“川沿い”を避けて尾根道を使うこと。検問は “市場のある日”に合わせず、ずらすこと。“粉庫手形”を王都の補給所で“銅貨”と同等に扱うこと」
「最後は重い」
「重いほど、軽くなる。腹は正直だ」 沈黙ののち、徴税官は頷いた。「……明朝、詳細を詰めよう。今夜は兵にパンを配る。代金は“現金”で支払う」
俺は軽く頭を下げた。若い隊長は不満そうに鼻を鳴らしたが、パンの匂いがそれ以上の言葉を奪った。
食べ物は、刃を鈍らせる。俺はその切れ味まで計算に入れている。
◆
夜。
窯の火が落ち、村に静けさが戻る。
俺は作業小屋の灯の下、羽根の角度を微調整した焼き印を磨いた。
羽根の本数は“配送の危険度”、角度は“検問の配置”、柄の印は “商会の信用度”。
暗号は増えるほど脆くなる。単純だが組み合わせが豊富――それが良い暗号だ。
扉が小さく叩かれた。
「ライル様……お客です」
ティナが顔を覗かせ、控えめに身を引いた。その背後から、粗末な外套の人物が一人、滑るように入ってくる。
フードを外した唇が、ひび割れている。だが目は澄んで、まっすぐだった。
「お久しぶりです、ライル様。王都の友より“白花”を」
“白花”。祝い用の白いパンの名。
俺は無言で頷き、机の引き出しから同名の符丁が書かれた鍵を出す。
彼女――王都で働く下女のメイは、布包みを解いた。中からは薄い羊皮紙が四枚。外見は市場の出店許可証、裏は細い細い書き込み。
王都の“今”が、黒いインクで無駄なく連なっていた。
「王都の食肉商たちが、市場日を“木曜から火曜へ”ずらしました。
検問と狩日が重なり、田舎の搬入が滞っています。……それから」
メイは一瞬だけ言葉を飲み込み、俺の目を見た。
「アメリア様が、“婚礼衣装”を戻されました」
手の中の焼き印が、音も立てず重さを変える。
“戻す”――支払いを断ち、工房との契約を解消した。
婚約破棄の“演技”に必要だった衣装は、もういらない。庇護の鎧を脱ぐということだ。彼女は“悪役”から降りるつもりはない。むしろ、自分の役目を、本当に引き受けるつもりなのだ。
俺は視線をメイから羊皮紙へ戻し、さらさらと赤い炭で追記した。
市場日の移動――検問の迂回――兵の胃袋――商会の帳面――そして。
「……鳥の網を、もう一枚張る」
「鳥の、網?」
「渡り鳥は、空だけを飛ばない。ときに川面すれすれ、ときに森の中。彼らを“迎える枝”を増やす。王都の外へ“枝”を出しておく。
衣装工房、染色屋、刺繍師、仕立ての針子。『戻された婚礼衣装』の行き先は、王都の塵箱じゃない。辺境の“白花祭”だ」 メイの目が見開かれる。「辺境に、祭りを?」
「“白花”はここで生まれた言葉だ。祝いのパン。……衣装の白と、
パンの白を結べば、王都の噂がこちらへ流れる。“悪役令嬢は衣装を捨て、辺境に白を贈った”――そう語らせる」
「アメリア様が、こちらに?」
「まだ呼ばない。彼女が“自分で歩いて”来られるように、道を敷くだけだ」
俺は焼き印を火にかざし、余分な煤を落とした。
炎の向こうで、メイの表情が揺れる。
「……ライル様」
「何だ」
「王都の布告に、あなたのお名前が載りました。“協力すれば免罪、拒めば反逆”」
「知っている。今日、灰衣の男が持ってきた」
「怖くは、ないのですか」
俺は少しだけ考え、首を横に振った。
「怖いのは、役割を間違えることだ。王都は“王”という役を演じる。俺は“黒幕”という役を演じる。だが本当の役は、もっと手触りのあるものだ。子が眠り、明日も食えること。畑が実り、兵が馬から落ちないこと。……役ではなく“役立つ”こと」
メイは、ふっと笑った。
俺も笑い、羊皮紙を束ねて革紐で括った。紐の結び目は、今日から新しい型だ。
扉の外で、遠く犬が吠えた。風向きが変わる。
「明朝、塩の“晒”を三袋、鉄釘を百。蜂蜜を小瓶で二十。――鳥の枝は、そこからだ」
メイが頷き、外套をかぶる。
そのとき、外から荒々しい叩音。ティナの叫ぶ声。
「ライル様! “王都の封蝋”です! 急ぎの使い!」
俺は焼き印を火から外し、扉へ歩いた。
差し出された書簡の封蝋には、見覚えの紋――ヴァーミリオン家。
だが、その表書きの筆跡は、アメリアではない。固く、軍人の筆。
封を切ると、短い文が目に飛び込んできた。
『辺境にて“白花祭”を主催せよ。王都の名の下に。
――執行役 ディラン・ヴァーミリオン』
顔を上げると、メイが息を呑んでいた。
俺は手紙を机に置き、静かに笑う。
「……良い。王都が“表”に名を出した。なら、こちらは“裏”で整えるだけだ」
白いパンの切れ目が、灯に細く光る。
戦は、刃でなく、段取りで決まる。
そして段取りは、毎日の暮らしの中で育つ。
明日、村は祭りの支度に取り掛かる。塩は晒され、釘は道に降り、蜂蜜は子の舌に触れる。
兵の胃袋は満ち、検問は空を掴み、噂は風に乗る。
そして――遠い都で、衣装を返した一人の令嬢が、白を手繰ってこちらへ歩き出す。
俺は焼き印を握り直し、鋼のように静かな心で、次の一手を思い描いた。
「盤上に、花を咲かせよう」
第2話ここまで。
次回は第3話「密使と密約」
第三話 密使と密約
白花祭の準備が始まって三日。
村の丘は白い花粉と粉塵で霞んでいた。
パンの白、衣装の白、花の白――どれも祝祭の色であり、同時に煙幕でもある。
白いものほど、裏を隠すには都合がいい。
今日も俺は、広場の片隅で交易路の地図を眺めていた。
“粉庫手形”は既に周辺四村へ流通し、王都の銅貨より早く回り始めている。
手形の裏には印、印の意味は商品ではなく“約束”。
つまり、この辺境で流れているのは貨幣ではなく――信義そのものだ。
◆
「ライル様、客です。南の橋から来ました」
ティナが駆けてきた。
橋? 南は隣国への街道筋。王都が監視するはずのルートだ。
そこから来る客は、歓迎すべき者でもあり、最も警戒すべき者でもある。
やがて、褐色の外套を纏った二人組が現れた。
背には蜂の刺繍。――隣国トリネアの養蜂商、通称〈蜜の商人〉だ。
「辺境の黒幕さんとお見受けします」
「名を知られるとは光栄だな」
互いに微笑しながら、探るような視線が交差する。 商人の一人――年配の男が、革袋を卓上に置いた。
甘い香りが立ちのぼる。蜜と薬草の混合物。
「王都で“蜂蜜税”が上がりましてね。逃げ場を探しておりまして」
「ここは逃げ場ではない。始まりの地だ」
俺は袋を開け、指で少しすくう。
粘度、香り、結晶化の具合。
この蜜は高純度。だが混ぜ物がない分、足がつく。
合法の品を偽装するより、偽装した合法品を流すほうが安全だ。
「税率はいくらだ」
「二割五分」
「なら、一割で仕入れよう」
「……赤字ですよ」
「赤字ではない。蜜を粉と交換しろ。粉庫手形の刻印を“花印”に変える。蜂の印と重なれば、税関の目は蜂蜜を“白花祭の供物”と誤認する。つまり――免税だ」
男の目が細くなる。もう一人の若者が息を呑んだ。
「供物……王都がそんな詭弁を許すと?」
「許さなくても“見逃す”。供物を取り締まれば信仰を傷つける。
王都の宗務庁は、それを恐れている」 俺は白花の冠を手に取った。 パンに飾る花の一部を乾かして粉に混ぜる。それを“聖粉”と呼ぶ。
この祭りの本質は、信仰でも収穫でもない。“合法の抜け道”だ。
「……この取引、王都にはどんな顔で?」
「“文化交流”だ。隣国から聖蜜を献上し、代わりに辺境の粉を贈る。書面は俺が書く。王都の執行役ディラン・ヴァーミリオン宛だ」
蜜商たちは顔を見合わせ、やがて笑った。
「腹の中が真っ黒なお方だ」
「白い粉の国では、黒がよく映える」
契約は握手一つ。
彼らが去ると同時に、空気が少し冷えた。
遠くの街道から、灰色の羽織が風に翻るのが見えた。
◆
徴税官――グレイが再び村を訪れた。
彼は馬を降りると、迷いなく俺の前に立つ。
「ライル殿、王都の命を伝える。白花祭は“王都後援”として開催せよ、とのことだ」
「……ほう。王都が後援、とは」
「名目上は祭の保護。実質は“監視”だろうな」
グレイは淡々と告げた。
「さらに、王都から執行役が派遣される」
「名は?」
「ディラン・ヴァーミリオン」
俺は微笑んだ。
アメリアの家の名――予想通り。
家を守るための監視役であり、同時に“使者”でもある。
つまり、彼もまた駒の一つ。
「歓迎しよう。彼が来る前に、準備を整える」
「……準備?」
「祭の裏側に、もう一つ“密約”を」
◆
夜。
倉庫の奥で、俺とグレイ、そしてホブ商会のホブが卓を囲んでいた。
三人の前には、三つの印章――粉、塩、蜜。
「三つの印を重ねれば、“白花盟約”だ」
俺は言いながら、羊皮紙に線を描く。
――粉庫手形:商業経路
――蜂蜜契約:宗教経路
――徴税協定:法的経路
三者を重ねれば、王都の支配構造を“合法的にすり抜ける”三重構造ができあがる。
「この契約、王都が知れば?」
「知っても破れない。なぜなら、彼らが破ることは“法の自殺”だからだ。徴税官の印がある以上、王都は自らの権威を否定できない」 ホブが唇を歪める。「抜け道どころか、裏街道だな」
「街道は人が通れば正道になる」
火が灯り、赤い影が地図の上を踊る。
その瞬間、外から蹄の音が響いた。
グレイが眉を寄せる。「早いな……」
扉が開く。
灰色ではなく、黒い外套。金糸の刺繍。
王都の紋章が胸で光る。
男はまっすぐ俺を見た。
「久しいな、ライル」
「――ディラン・ヴァーミリオン」
元上官、そしてアメリアの兄。
かつての戦友が、今は監視役として立っている。
「祭を開くとは聞いた。王都の承認なしに“盟約”を結んだそうだな」
「承認は得た。貴族の印もある」
「徴税官と商人の印で、王都を出し抜けると思うな」
彼の声には苛立ちよりも焦りがあった。
アメリアの名を出せない――それが彼の弱点。
彼女の“婚約破棄”が芝居だと知っているのは、家の者だけだからだ。
「ディラン。俺はただ、この辺境を守りたいだけだ」
「ならば王都に戻れ。お前の知略はまだ必要だ」「王都の戦場は血で塗れる。俺の戦場はパンで塗る」
短い沈黙。
彼は机上の“白花盟約”を見つめ、息を吐いた。
「……この紙、正式な通達として預かる。王都は内容を精査する」
「その代わり、一つ頼みがある」
「なんだ」
「アメリアを守れ。たとえ俺が敵になっても」
ディランの目がわずかに揺れた。
だが何も言わず、紙を持って出ていく。
扉が閉まる。
残された空気に、火が小さく爆ぜた。
◆
「ライル様……これで本当に、勝てるのですか」
ティナの問いに、俺は微笑んだ。
「勝つ? 違うさ。勝敗はとっくに終わっている」
「え?」
「王都が“白花祭”を後援すると宣言した時点で、もうこちらの勝ちだ。
あの名の下で何を流そうと、誰も咎められない」
白花の冠が夜風に揺れる。
蜜の香りが漂い、遠くで笛が鳴る。
その旋律は、まるで新しい国歌のようだった。「盤上の花は、もう咲いた。次は――実を結ばせる番だ」
第3話・完。
第四話 追放された悪役令嬢
――王都、ヴァーミリオン邸・西棟。
朝の冷気は大理石の床を這い、鏡の中の自分を薄く震わせた。
アメリア・ヴァーミリオンは、鏡台の引き出しから白い手袋をひとつ取り出す。指先に残る絹の冷たさは、あの日の舞踏会と同じ。 婚約破棄を宣言した夜、彼女は生まれて初めて嘘をついた。家を守るために。兄を、領民を、そして――彼を守るために。
「お嬢様、馬車の準備が整いました」
侍女頭が低く告げる。
アメリアは頷き、身を翻した。クローゼットの奥、白の婚礼衣装はすでにここにはない。昨日、工房へ戻した。
戻した先は王都ではない。“辺境”だ。
(白花祭――)
それは王都の噂だった。辺境グレン村で、白いパンを掲げる祭が行われる。王都の宗務庁は関知せず、だが徴税局は“後援”を表明。貴族の婦人たちは「田舎くさい」と笑ったが、商会は笑わなかった。
動く者たちがいる。動かしている者がいる。
(あなた、でしょう? ライル)
胸の奥で、彼の名が微かに灯る。
アメリアは唇を固く結び、馬車へ乗り込んだ。
◆
王都から北西へ三日の道程。
四日目の朝、霧の切れ目に“白”が浮かび上がった。
広場いっぱいに、白いものが揺れている。
薄い花弁を乾かした飾り、白布を張った屋台、白い粉で真っ白に焼かれた小さな冠のようなパン。
そして、人の笑顔。
アメリアはその光景を目にした途端、呼吸を忘れた。
「……きれい」
侍女のメイが隣で目を細める。「お嬢様、足元を」
石畳ではない。ならされた土の道。だが泥はない。砂利の選別、排水の溝、臨時の板――誰かが“段取り”を敷いた跡。
屋台の端で、パンを受け取る兵の姿もある。彼らの槍は穂先を布で包み、子どもがぶつかっても怪我をしないように工夫されていた。
(兵も、祭の“客”にする……)
アメリアは心の中で呟く。
――彼のやり口だ。戦を避け、腹と段取りで勝つ。
彼女は肩越しに侍女へ囁いた。「メイ、案内を。あなたの“友人
”に」
メイが小さく笑い、雑踏の中へと進む。
白い切れ目の入ったパンが渡される。切れ目の数は四つ――メイが視線で示す。“四”は「安全」。 彼女たちは人波を抜け、粉の香り漂う小屋の前で足を止めた。
「お嬢様」
メイが扉を叩く。
返事はすぐにあった。穏やかで、よく通る低い声。
「入りなさい」
扉が開く。
木と鉄の匂い。窓から差す光に、粉の白が舞う。
その奥に、彼がいた。
粗末なエプロン、袖は肘まで捲られ、指には焼き印の煤。
王都の参謀ではない。辺境の職人。だが、目は変わらない。盤上を読む鋭さは、その瞳の奥にそのまま在る。
「――アメリア」
ライル・グランは名を呼び、そして一拍置いて微笑んだ。
彼はいつも、答えを急がない。相手が自分の言葉に追いつくまで待つ。
アメリアの胸に、あの夜の記憶が刺す。婚約破棄を言い渡した時、彼はほんのわずかに、同じ間を置いてから笑った。
それは、許しの間だった。
「ご機嫌よう、ライル。……お祭り、見事ね」
「白は汚れが目立つ。だからこそ、人は美しくしようとする」 彼の言葉に、アメリアも笑った。 そして、笑顔を畳み、姿勢を正す。
「私は監視役よ。王都の“後援”の名の下に、祭に不正がないかを見るための。……けれど私は同時に、客でもあるわ」
「客ならば、パンを」
ライルは籠から“白花”を一つ取り、ナイフで切り分けた。切れ目は二つ――“注意”。
侍女のメイが微かに眉を動かす。アメリアは気づかないふりをしてパンを受け取った。
「甘いわね。蜂蜜?」
「聖蜜だ。向こうの谷から。……税は払っている」
「“表向きは”、でしょう?」
「君は相変わらず鋭い」
言葉遊びの仮面に隠れるように、二人は視線を交わした。
言えない言葉がある。二人にしか通じない符丁がある。
だからこそ、仮面が必要だった。
◆
「それで、王都は何を望む?」
ライルは率直に問う。
アメリアは眉を下げ、仕立て直した白い外套を指先で摘んだ。「“秩序”よ。王都は秩序を求める。徴税も商売も信仰も、王都の枠の中で回り続ける秩序を。……でもここは、枠の外にある」
「枠の外に“道”を敷くのが、軍師の仕事だ」
「ええ、そうね」
アメリアはふと口元を緩めた。「あなたの“スローライフ”は、相変わらず静かで忙しいのね」
「静かに忙しいのが好きでね」
「私も」
二人の間に、ひとしずくの温度が落ちた。
それはたぶん、恋と呼ばれるものの予感ではない。
もっと具体的で、もっと脆く、もっと強い。
――互いの“役”を守るための共犯関係の温度。
そこへ、外が騒がしくなる。
笛の音が一度途切れ、代わりに怒号が割り込んだ。
ティナが駆け込む。「ライル様! “灰色旗”が――!」
「徴税の臨検だ」
ライルは短く言い、焼き印と帳面を掴んで立ち上がる。
アメリアも続いた。外に出ると、広場の中央に灰色の旗が立ち、兵が列を作っている。
先頭に、鋭い目の若い隊長――先日、ライルに噛みついた男。
彼の横に、あの灰衣の徴税官グレイ。 さらに、その後ろに黒外套の影。金糸の刺繍。
「ディラン……」
アメリアの喉が、ほとんど音にならない声を漏らす。
兄は彼女を見ない。視線はまっすぐ、祭の屋台へ向けられている。
「白花祭の出店に対し、臨時検査を行う。蜂蜜、粉、塩、いずれも王都の規格に照らして調べる。……異議は?」
沈黙。ざわめき。
ライルは一歩前に出る。「異議はない。ただし、検査は“食前” に。祭の祈りが終わる前に手を触れれば、冒涜になる」
若い隊長が鼻で笑う。「詭弁だ」
グレイが低く言う。「王都布告にも“祭礼の場を乱すことなきよう”の条あり。詭弁ではない」
隊長が舌打ちし、ディランが右手を上げて制した。
「祈りの刻まで三十刻ある。その間に“帳面の確認”を行う」
「帳面なら、こちらに」
ライルが差し出したのは帳面――ではない。
焼き印、紐、袋の縫い目、パンの切れ目。
それらの“現物”で構成された、動く帳面だ。
ディランが眉をわずかに上げる。「紙は?」
「紙は燃える。食える帳面のほうが、飢えには役立つ」
アメリアは思わず微笑みかけ、すぐに表情を正す。
グレイが一つ一つ手に取り、頷きを積み重ねていく。 若い隊長は苛立ち、ついに声を荒げた。
「偽装だ! 印も紐も好きに作れる!」
ライルは穏やかに首を振った。「印も紐も真似できる。だが“信用”は真似できない。――これが粉庫手形だ」
彼は籠の底から、薄い木札を取り出した。
木札には焼き印、紐の結び、そして微細な“蜂蜜の結晶”が埋め込まれている。
結晶は温度で形を変え、指の温もりで痕跡が残る。
偽造しようとすれば、触れた痕でわかる。
「……くだらん手品だ」
隊長が吐き捨てた時、群衆の向こうで甲高い悲鳴が上がった。
屋台の一つが傾ぎ、樽が転がる。蜂蜜が地面にこぼれ、子どもが足を取られて尻もちをついた。
兵が慌てて駆け寄り、誰かが「盗賊だ!」と叫ぶ。
たしかに、外套の男が混乱に紛れて袋を攫っていた。
隊長が槍を構え、突進する。
その刃先が、転んだ子どもの背に向かう――。
「やめて!」
アメリアは思わず叫び、身を投げた。
白い外套が風に広がり、彼女は子どもを抱き起こす。
槍の穂先が外套の裾を裂き、布が白い羽のように散った。
瞬間、別の音が割り込む。
短い笛の三連――“鳥の網”の合図。 屋台の裏、窯の陰、粉倉の脇。
あらゆる場所から、村の男たちが無言で動き出した。
逃げる外套の男の前に網が落ち、足が絡まる。
別の方向からは、蜂の箱が開けられ、煙が流される。蜂は煙に従い、ゆっくりと外套の男の周りを回る。
誰も刺さない。刺されないように、蜂の“帰巣”の煙が選ばれている。
若い隊長が目を剥く。「な――」
「ここは“祭”だ。血を流さず、腹を満たし、段取りで片を付ける」
ライルの声は低く、よく通る。
彼は外套の男に近づくと、網をゆっくり外し、手に“石運び”のパンを握らせた。「食え」
男はおそるおそるかじり、涙をこぼした。
兵の何人かが、槍を下げる。
グレイだけが、黙って頷いた。
ディランはしばらく沈黙し、やがて言った。
「……臨検は“祈りの後”にする。混乱の責は、王都が取る」
若い隊長が抗議しかける。
ディランは初めてアメリアを見た。
妹の外套が裂けているのを見て、ほんの少しだけ目が揺れた。
「……アメリア。怪我は?」
「ないわ」
彼女は立ち上がり、土のついた手袋を脱いだ。
手袋の下の指先には、絹ではない固さが残っている。
――この指で、彼女は“悪役”を演じてきた。
だが今、その役を少しだけ置いた。
「ディラン兄様。王都は“秩序”を求めるのよね。ならば見て。ここにある秩序を」
彼女は周囲を示した。
白いパン、蜂の箱、子ども、兵、商人、徴税官。
誰も血を流さず、誰も空腹のままではない。
そして、その中心に立つ男。
「……秩序だと?」
若い隊長が唾を吐くように呟く。
アメリアは凛とした声で答えた。
「ええ。“段取りで人が助かる秩序”。王都にないものよ」
沈黙を切ったのは、笛だった。祈りの刻を告げる柔らかな音。
人々は静かに手を合わせ、白いパンを掲げる。
ライルも帽子を取り、短く目を伏せた。
アメリアは隣に並び、同じように目を閉じた。
祈りは短い。だが、確かな重みがあった。
◆
祈りの後、臨検は淡々と行われた。
帳面は“食える”形で検められ、焼き印と紐はひとつずつ意味を照らされ、蜂蜜は“供物”として扱われた。
グレイは最後に判を押し、静かに宣言した。
「白花祭――王都“後援”のもと、適正」
広場から安堵の吐息が上がる。
若い隊長は納得いかぬ顔のままだったが、ディランは彼の袖を引いた。
彼は歩み寄り、低く言う。
「ライル。――お前は“黒幕”の名を自分に与えた。だが今見たのは、“白幕”だ」
「幕は色で役を変える」
「ならば、幕の裏は?」
「裏には、畑がある」
ディランの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。それは少年の頃、アメリアだけが知っている顔だった。
彼は振り返り、妹を一瞥する。
その目に「しばらくは任せる」という言葉が宿り、同時に「常に見ている」という警告が重なっている。
兄は王都へ戻る。だが、糸は切らない。
黒外套が遠ざかり、灰色の旗が降ろされる。
夕陽が白い粉を淡く染めた。
◆
夜。
窯の火が落ちる頃、アメリアはライルの作業小屋を訪れた。
彼は焼き印を磨いていた。羽根の角度が少し変わっている。
あの日と同じだ。彼はいつでも“次”の角度を考えている。
「ありがとう。……あの子を、助けてくれて」
「君が先だ。俺は笛を吹いただけだ」
「笛を吹く人を、人は“指揮者”って呼ぶのよ」
アメリアは笑い、そして真顔になる。
「ライル。私は王都の人間。監視役でもある。だから問うわ。―― あなたは、この祭で何を“運ぶ”の?」
ライルは少しだけ考え、真っ直ぐに答えた。
「明日を」
その言葉は、驚くほど軽く、重かった。
アメリアは目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
「……なら、私も運ぶわ。役を、枠の外へ」
彼女は懐から小さな包みを取り出す。
白い刺繍の端布。婚礼衣装から切り取った縁だ。 ライルはそれを受け取り、焼き印の柄に巻きつけた。
白が黒に絡み、静かに色を変える。
「白幕に、黒の縫い目。――悪くない」
「ええ。悪くないわ」
窓の外で、白花祭の灯がまたたく。
人の声、笑い、笛。
アメリアは小さく祈り、ライルは次の段取りを頭の中で並べ直した。
盤上に、白い道が一本増える。
王都と辺境、監視と救済、悪役と黒幕。
そのすべてを結ぶ道だ。
「さあ、明日も忙しくなる」
「静かに、ね」
二人は同時に笑い、そしてそれぞれの役へ戻った。
白い夜は深まり、黒い影は薄くなる。
それはたぶん、正しい順序だった。
第4話・了。
第五話 盤上の駒たち
祭が終わって三日。
白い粉は雨に洗われ、村はいつもの色を取り戻していた。
だが、静けさの下では金と情報が渦を巻いている。
王都から届く便りの速さが倍になった。
噂は風より早く、法令より重い。
◆
「ライル様、王都の“書き手”から伝言です!」
ティナが駆け込んできた。
紙束には墨の香りがまだ残っている。
俺は封を切り、一瞥した。
書き出しの一行で、すべてを理解した。
『白花祭にて“白幕軍師”現る――貴族たち動揺』
笑いを噛み殺す。
噂は武器になる。誰が仕掛けたかは明白だ。
王都の“書き手”――つまり記録屋が記事を流すには、王家の黙認が要る。
ディランだ。王都の“監視”を、俺の“宣伝”に変えた。
(棋士の一手を、兵に見せて士気を上げる……さすがだな、ディラン)
俺は紙を折り、焚火に放り込んだ。
噂を燃やすのもまた、盤上の手筋のひとつ。
「ティナ。ホブを呼べ。次に動く駒を決める」
◆
夕刻、ホブ商会の商人がやってきた。
油の染みた帳面と笑い皺を持ち込んで。
「“白花の粉”が王都で跳ねたぞ。倍値だ。だが面倒も増えた。貴族連中が“裏取り引き”を仕掛けてきやがる」
「誰が先頭に立ってる?」
「エリオット侯。お前を追放した連中の一人さ」
俺は短く頷き、机に広げた地図の一点を指した。
王都の外れ、倉庫街。そこに小さな印を記す。
「彼の倉庫、警備は?」
「緩い。税の抜け道を使ってるらしい。兵に賄賂を渡してる」
「なら、兵を“飢え”させろ」
「は?」
「倉庫の粉を一晩“風に晒す”だけでいい。湿気れば量は減り、値も下がる。腹を減らした兵は、明日パンを求めにくる。――そのパンを売るのは我々だ」
ホブが破顔した。「お前、やっぱり悪魔みてぇだな!」
「黒幕という名は、伊達ではない」
◆
夜。
帳面の灯を落とし、外に出る。
畑の端、白花の残骸が風に舞っている。
遠くから、蹄の音。
灰衣の徴税官グレイが馬を引いて現れた。
「ライル殿、王都から新布告だ。“粉庫手形”の流通が“貨幣行為
”と見なされれば違法になる可能性がある」
「つまり、合法であるうちは合法だな」
「……言葉の綾で逃げ切れると思うか?」
「言葉の綾で結んだのは、王都自身だ。
祭を後援し、徴税官の印を押した時点で、布告は自縄自縛になっている」
グレイは小さく笑った。
「やはり、あなたは参謀だ。だが……王都にはもう一つの手がある」
「もう一つ?」「“婚約破棄の真相”を探る委員会が立ち上がった。あなたの名が再び議事録に載る」
風が、冷たくなった。
婚約破棄――あの日の舞台が、また呼び戻されようとしている。
アメリアを責める形で。
「……ディランの仕業か?」
「おそらくは違う。彼は止められなかったのだろう。王都には、まだ“古い駒”が残っている」
「なるほど。なら、盤をもう一段広げよう」
「どうするつもりだ?」
「アメリアを盤上に戻す。王都が駒を動かすなら、こちらも“王” を置く」
◆
翌日。
俺はアメリアを呼んだ。
白花祭の余韻がまだ残る作業小屋で、彼女は白い外套を畳んでいた。
その動作は丁寧で、まるで祈りのようだ。
「王都が動いた」
「ええ、聞いたわ。……“真相”の名を借りた粛清でしょう?」「そうだ。君を“嘘の悪役”ではなく“本物の罪人”に仕立てるつもりだ」
アメリアは唇を噛んだ。
だが、その瞳は揺れなかった。
「なら、嘘を上書きすればいい。本物の“婚約破棄”を演じ直すの。
今度は――“悪役令嬢”ではなく、“裏切られた聖女”として」
「……それは危険だ。君が矢面に立つ」
「私には、役しか残っていないもの。あなたが“黒幕”を演じるなら、私は“白幕”になる」
彼女は微笑んだ。
白と黒、盤上の両極が並び立つ瞬間。
俺は短く息を吸い、頷いた。
「よかろう。――だが、その舞台は王都ではない。“交易会”だ。
白花祭を拡張し、王都の商人と貴族を呼ぶ。
表向きは“新粉の展示”、裏では“信用の取引”。」
「裏舞台、ね。……あなたの得意分野だわ」
アメリアの声は、どこか誇らしげだった。
◆
三日後。
王都に“白花交易会”の告知が流れた。
後援――ヴァーミリオン侯家、グレン村。
主催――“黒幕軍師”ライル・グラン。
人々は笑い、貴族は眉をひそめ、商会は走った。
盤上に散らばる駒が、いっせいに動き出す。
それは、戦でも革命でもない。
“信用”という見えない兵を使った、知略の戦いだ。
俺は窓辺で、白花の花弁を指で潰した。
粉が風に乗って舞い上がる。
その粒は、誰の手にも掴めない。
だが確かに、世界を少しずつ覆っていく。
(――次の手は、王都のど真ん中で打つ)
第5話・完。
次回 第6話「辺境連合、蜂起す」
第六話 辺境連合、蜂起す
白花交易会の朝、王都は異様に静かだった。
市場の鐘が三度鳴る。その音に、何千という商人が一斉に帳面を開く。
粉庫手形の交換が始まった。
紙ではない木札。焼き印、紐、蜂蜜結晶。
どれも見慣れぬ通貨。だが、どの商人も受け取る。
――それは“王都の銅貨”より早く回る。
信用は形ではなく、速さだ。
動くものが価値を生む。
◆
王都中央市場・管理局。
「陛下、交易の帳簿が合いません。粉の取引高が三倍、王都銅貨の使用率が半減しております!」
「粉? 粉など辺境の雑貨だろう!」
大臣たちは怒鳴り合う。
しかし帳簿の数字は嘘をつかない。
“粉庫手形”が、実質的に貨幣として機能している。
王国の金流が、知らぬ間にライルの“道”を通っていた。
しかも、その徴税印には――王都の徴税官グレイの署名。 王は顔をしかめた。「反逆ではないのか?」
「いいえ、陛下。形式上は合法です。“王都後援”と印されています」
「後援……? 誰がそんな――」
文官が紙を掲げる。
そこには、金糸の署名。
――ディラン・ヴァーミリオン。
王の声が、低く震えた。
「ヴァーミリオン家……またか」
◆
その頃、グレン村。
広場の端で、ライルは静かにパンを焼いていた。
粉の香りが風に乗り、村人たちの声が遠くで響く。
王都の混乱は、まだここには届かない。
だが、届かないことこそ、届いている証拠だ。
「……始まったか」
炉の火を見つめながら呟く。
アメリアが背後から近づく。
白い外套をまとい、穏やかに微笑んでいた。
だがその指先は震えている。
「王都で“粉暴落”の報が。……貴族たちが取り付けを始めたわ」「恐慌は計算のうちだ。信用を崩せば、再構築ができる」
「でも、それでは人が……」
「――だからこそ、俺がいる」
ライルは振り返らずに言った。
炎の色がその横顔を照らす。 冷徹でも、どこか優しい光。
アメリアは息を詰めた。
王都を混乱に落としながら、その中心に“秩序”を見据える目。
彼は破壊者ではなく、再建者なのだ。
「君が“悪役令嬢”を演じたように、俺は“反逆者”を演じる。―
―だが、真実は逆だ」
◆
王都・評議の間。
ディランは議員たちの怒声を受け流していた。
机の上には粉庫手形の束。
彼は一本を取り、蝋燭の火にかざす。
結晶が光り、燃えずに残る。
まるで、信用が燃え尽きない証のように。
「この構造は……天才だな」
隣の参謀が唸る。
「法の内側に作られた“別の国”。徴税も軍も経済も、王都に属しながら王都を凌駕している」
「つまり――辺境連合か」
誰かが呟いた。
その名が会議室を満たした瞬間、沈黙が落ちる。
“辺境連合”。
王国の外で、王国を支える者たち。 反逆ではない。だが従属でもない。
ディランは書簡を取り出した。
封にはライルの印――風車の羽根。
『これは剣ではなく、耕具である。
この地を耕す者こそ、真の王。』
短い文。だが、その意図は明確だった。
――王都を攻める気はない。
王都を「養う」つもりなのだ。
ディランは深く息を吐き、立ち上がる。
「陛下。辺境を敵に回せば、国は干上がります。彼らの通貨を“王国補助貨幣”として認めるべきです」
「何を言う! それは屈服だ!」
「いいえ、共存です。
この国は今、戦ではなく“信頼”で立っている。
――信頼を奪う者こそ、本当の反逆者です」
王は沈黙し、重い玉座の肘掛けに手を置いた。
彼は老いている。
老いは恐怖を育てる。
恐怖は、決断を遅らせる。
そして遅れた決断は、すでに敗北だ。
◆
翌日。
グレン村に早馬が駆け込んだ。
封蝋には王都の印。
ティナが震える手でそれを差し出す。
ライルは開き、一読して目を細めた。
『王国は辺境粉庫手形を“補助貨幣”として承認す。
――ただし発行管理をヴァーミリオン家に委任。』
アメリアの手が震えた。「……つまり、王都は降伏を認めたの?」
「名目上はそうだ。だが実際には、“共存”の名を借りた再編だ。 この国はもう、一つの王国ではない。二つの信用で成り立つ双子国家になった」
「ライル……あなた、まさか……」
「これが最初の一手だ。王を倒すには、血ではなく“信頼”を奪うこと。
そして、信頼を奪われた王は、次に“与える者”に従う」
アメリアは沈黙した。
ライルの掌の上で、国が形を変えていく。
その知略の深さに、恐れと尊敬が入り混じる。「でも……あなたは王になりたいの?」
「王にはならない。
王は“名”を奪い、黒幕は“影”を守る。
影は光を必要としない。光を導くのが、俺の仕事だ」
彼は微笑み、アメリアの外套の裾を直した。
白い布に、指先が触れる。
「君が“表”を歩け。俺は“裏”で支える。
それが、盤上の約束だ」
アメリアはその言葉に、ゆっくりと頷いた。
◆
その夜。
村の空には無数の白花灯が舞っていた。
誰も戦わず、誰も倒れず、ひとつの革命が終わろうとしている。
だがライルは知っていた。
終わりは次の始まりだ。
火の粉が舞い上がる。
遠く王都の方角から、笛の音が聞こえた。
風が変わる。
国が変わる。
ライルはそっと呟いた。
「これで“辺境連合”は芽吹いた。
次は――王国の心臓に根を張る番だ」
その声は、夜風に溶けて消えた。
だが翌朝、王都の市場にはひとつの噂が立つ。
“黒幕軍師が王国を救った”と。
そして同時に、
“黒幕が王国を支配した”とも。
真実は、どちらでもいい。
それを決めるのは――次の一手だ。
第6話・完。
次回、第7話「黒幕の正体」――
第七話 黒幕の正体
王都へ戻る馬車の車輪が、石畳を低く鳴らしていた。
空は灰色、雲は重い。
それでもライルの眼差しには、迷いがなかった。
呼び出し状の封蝋には、王国紋章。
――ついに、「黒幕」を表に引きずり出す時が来た。
◆
王城・謁見の間。
王座の前に、ライル、アメリア、ディラン、そして幾人もの貴族たちが並んでいた。
議場を囲む観衆の中には、商会長や宗務庁の長官までいる。
それぞれが自らの利を求め、だが誰もが一人の男を見ていた。
――黒幕軍師、ライル・グラン。
「貴公を、ここに召す。」
老王の声が響いた。
「辺境連合の設立、粉庫手形の流通、交易会の拡大。すべて、おぬしの采配によるものだな?」
「はい、陛下。ですが、それは王国を豊かにするための一手でございます。」
「……豊かに、か。王都の金は流れを変えた。だが、余の知らぬところで。」
王は杖を突き、目を細めた。
その視線には、恐れと探り、そして一抹の敬意が混ざっていた。
ライルは膝をつき、静かに答える。
「恐れながら、陛下。国とは“中心”ではなく、“流れ”でございます。
川が枯れれば城も朽ちる。流れを保つ者が、真の統治者です。」
「……貴公がその“流れ”を握る気か?」
「いいえ。流れは人々がつくる。私はただ、道筋を示しただけです。
」
◆
議場の奥から、貴族たちの怒声が上がる。
「詭弁だ!」「黒幕は支配を狙っている!」
ディランが一歩進み、彼らの前に立った。
「黙れ。ライル・グランは、この国を一滴の血も流さず救った。
彼を罪に問うなら、貴様らは何を誇る?」
その声は静かだが、鋼のようだった。
かつての戦場で幾千の命を背負った将の声。
議場は一瞬で静まり返る。
「王よ。」
ディランは王へ向き直った。
「我らヴァーミリオン家は、辺境と王都を繋ぐ“白花の道”を守る。
ライルはその道を創り、私はそれを守る。
もし彼が“黒幕”なら――それは、この国の心臓だ。」
アメリアが静かに続けた。
「陛下。彼は、誰も殺さず、誰も奪わず、ただ“秩序”を作りました。
それを“罪”と呼ぶなら、私は喜んで共犯になります。」
王の眉がわずかに動く。
誰もが言葉を失っていた。
老王はしばし沈黙し、やがて口を開いた。
「……余は、かつて彼の父を知っておる。
“王の影”として仕え、誰にも名を残さず死んだ男だ。」
ざわめき。
アメリアが息を呑む。
ディランの表情にも驚きが浮かぶ。
「父……?」
ライルの声は低く、静かだった。
「そうだ。おぬしの父――ゲイル・グランは、王家直属の参謀だった。
敵国との講和を裏で整え、王都を守った。
だが、その功を知る者はほとんどおらぬ。
余が若き頃、“黒幕”の名を与えたのは、彼だった。」
ライルは目を閉じた。
ずっと誰にも話さなかった秘密が、今、王の口から明かされる。 “黒幕”という名は、呪いであり、継承だったのだ。
「……陛下。父は、王を信じておりましたか?」
「信じておった。だが、王は影を恐れた。
そして余もまた、恐れてきたのだ。
――おぬしのような者を。」
◆
王は玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りた。
老いた手が杖を離れ、ライルの肩に置かれる。
「黒幕よ。余の時代は終わる。
国を導け、影の王として。」
議場がざわめきに揺れた。
だが誰も反論できなかった。
ライルの沈黙が、何よりも強い言葉だった。
「陛下。私は王にはなりません。
この国の未来は、光のもとで語られるべきです。
――私は、その光を“導く風”でありたい。」
王は目を閉じ、わずかに笑った。
「ならば、“風王”と呼ばせよう。」
その瞬間、議場に光が差し込んだ。
雲が割れ、白花の粉が光を受けて舞う。 まるで辺境の春が、王都へ訪れたようだった。
◆
夜。
王都の屋上で、ライルは風を受けて立っていた。
アメリアが隣に寄る。
街の明かりが、まるで星空のように広がっていた。
「……あなた、本当に王にはならないのね」
「王になった時点で、策が止まる。
黒幕とは、常に次の盤を見ていなければならない。」
「その先に、何を見るの?」
「“人の意思”。」
ライルは空を見上げた。
星々は流れ、風が通り抜ける。
アメリアがそっと彼の肩に触れる。
「なら、私はあなたの“白”として残るわ。
黒と白が揃ってこそ、盤は続く。……そうでしょう?」
「そうだ。盤は終わらない。
戦がなくても、策は生きる。」
ライルは微笑んだ。
風が二人の間をすり抜け、夜の王都を吹き抜けていく。 その風が、静かに告げていた。
――この国はもう、かつての王国ではない。
信頼の国。知略の国。
そして、黒幕の国。
第7話・完。
終章 この世界のすべては、掌の上で
季節がひとつ、巡った。
白花の咲く丘は、いま青く穂を揺らしている。
風が通り抜け、麦の波が太陽にきらめいた。
――戦はなかった。
だが、確かに国は変わった。
王は春の初めに崩御した。
葬儀は静かに行われ、喪の鐘は三日間鳴り続けた。 その間も市場は動き、粉庫手形は滞りなく流れた。
王が死んでも、国は止まらない。
それこそが、ライル・グランの築いた“秩序”だった。
◆
グレン村の小さな丘。
新しい製粉所のそばで、ライルは麦の穂を握っていた。
あの日の焼き印は、いまも腰に下げている。
煤は落ち、白布が巻かれている。
――アメリアの婚礼衣装の切れ端だ。
「……結局、俺は何も築いていないのかもしれないな」
呟くと、後ろから声が返った。
「築いたじゃない。見えない形で。」
アメリアだった。
彼女は白い帽子をかぶり、風に髪を遊ばせている。
ヴァーミリオン家の当主となり、王都と辺境をつなぐ“白花同盟
”の代表でもあった。
けれど彼女の笑みは、昔のままだ。
「ねえ、ライル。王都の子どもたち、パンを“白幕パン”って呼ぶのよ」
「皮肉だな。黒幕の策で焼いたパンを、白幕の名で呼ぶとは。」
「いいじゃない。黒と白、両方そろって初めて模様になるんだから。
」
アメリアは草の上に腰を下ろし、空を見上げた。
白い雲が、ゆっくりと流れていく。
あの日、王城で光が差したときと同じ空。
彼女は目を細めて言った。
「あなたの“策”は、まだ終わってないでしょう?」
「策に終わりはない。ただ、人が歩き続ける限り、形を変えるだけだ。」
「じゃあ、次は何を?」
「次は――静かに暮らす。」
アメリアが笑う。「それ、あなたが一番苦手なことね。」「そうかもしれない。」
ライルは掌を開いた。
麦の穂が一本、そこに落ちる。
小さな種が、風に乗って指先を離れた。
「でも、“掌の上”ってのは案外広いんだ。
世界を支配するためじゃない。
守るためなら、これくらいの広さで十分だ。」
アメリアはその手を見つめ、静かに言った。
「ねえ、ライル。あなたの掌の中に、私は入ってる?」
「ずっと前から。」
その答えに、アメリアは微笑み、目を閉じた。
風が頬を撫で、麦の波がざわめく。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
誰も知らないだろう。
この平和が、かつて“黒幕”と呼ばれた一人の男の策によって保たれていることを。
◆
夕暮れ。
製粉所の煙突から、白い煙が細く立ちのぼる。
それは空に溶け、夜へと変わる。
ライルはその煙を見上げながら、ぽつりと呟いた。「父上……あなたの策も、ようやく完成しましたよ。」
風が答えるように吹いた。
煙はほどけ、星がひとつ、光った。
◆
夜、村の灯がひとつ、またひとつ消えていく。
アメリアは窓辺に立ち、ライルが畑を歩くのを見ていた。
彼はいつもと同じように、明日の風向きを確かめ、
土を一握りし、空を仰ぐ。
彼の世界は、広くもなく、狭くもない。
それでも、確かに動いている。
すべては――その掌の上で。
――Fin.
王都の大広間に、氷のような静寂が落ちていた。
磨き上げられた白亜の床には、絵画のように整列した貴族たち。
その中心で、俺は微動だにせず、彼女の言葉を待っていた。
「ライル・グラン。あなたとの婚約を破棄します」
涼やかに響いた声は、王女に次ぐ高貴な存在――
“悪役令嬢”と呼ばれる侯爵令嬢アメリア・ヴァーミリオンのものだった。
会場がざわめく。
だが、俺は少しも驚かない。
――ああ、予定通りだ。
この婚約破棄は、彼女の独断ではない。
王国上層部が仕掛けた権力争いの一手。
俺が“邪魔”になったから切り捨てただけの話。
俺はその流れを、三ヶ月前には完全に読んでいた。
むしろ、それを「起こさせるように」仕組んでいたのだ。
なぜなら――追放こそ、俺の解放であり、次の戦略の始まりだったから。
アメリアの表情は、完璧な勝者の微笑みだった。
だが、その笑顔の裏にある焦燥と不安を、俺だけが見抜いていた。 彼女は優しい。
そして、弱い。
この場で「悪役」を演じなければ、彼女の家が潰されると知っている。
だからこそ俺は、敢えて敗者の仮面を被る。
「……そうか。ならば、君の望むままに」
俺は淡々と答え、頭を垂れた。
嘲笑する貴族たちを横目に、扉を押し開けて去る。
大広間の外に出た瞬間、胸の内に張りつめていた糸が、静かに緩んだ。
――これで、すべてが盤上に乗った。
◆
追放から七日後。
俺は辺境の地、グレン村へとたどり着いた。
王都から遠く離れた、風と土の匂いしかしない田舎だ。
ここには、情報も権力も届かない。
だが、だからこそ、再構築にふさわしい。
村人たちは最初、俺を「ただの流れ者」として見ていた。
けれど数日も経たないうちに、彼らの目の色は変わる。
古びた製粉機を修理し、畑の配置を最適化し、
日照と風の流れを読んで灌漑路を引く。
たったそれだけで、収穫量は二倍になった。
「ライルさん、あんた頭いいんだなあ!」
「ただの学者かと思えば、鍛冶もできるのか!」
彼らの笑顔を見るたびに、俺は微笑む。
――そう、俺は戦場でも経済でも、盤上を読むのが得意だ。
王国参謀時代、千を超える戦略を立案した。
だが、今はただ畑を眺め、焼きたてのパンをかじる。
この静けさこそ、俺が望んでいた“休戦”だった。
……表向きは、な。
◆
夜。
灯火の下、机に広げた羊皮紙には、王国地図が描かれている。
赤い印は商会、青い印は傭兵団、黒い線は街道。
俺の手で結ばれた新たな流通網が、徐々に王都を迂回して形成されていた。
辺境で作物を育てる? いや、これは兵糧だ。
交易を支える? いや、補給線だ。
村人の笑顔の裏で、俺は戦略を育てている。
王国の貴族たちが、俺を“失脚した男”と思い込む間に。
やがてその補給線が国の心臓を締め上げることなど、
誰ひとり気づくまい。
◆
「……ライル様、手紙が」
扉の向こうから、村娘のティナが差し出した封筒を受け取る。
見覚えのある紋章――ヴァーミリオン家の紋だ。
封を切ると、短い文が目に入った。
『どうか、生きていてください』
震えるような文字。
あの“婚約破棄”の裏で泣いていた彼女の顔が、脳裏に浮かぶ。
「……心配はいらない、アメリア」
俺はそっと灯を消した。
――婚約破棄すら、計算済みだ。
次に王国を支配するのは、王でも貴族でもない。
盤上の影に潜む、ただの“辺境の男”だ。
◆
翌朝。
東の空が淡く染まる頃、俺は村の丘に立っていた。
吹き抜ける風の先には、まだ見ぬ戦場。
だが今回は、血ではなく“策”で勝つ。
「さて――今日も畑を耕すか」
手に取った鍬の刃先に、朝日が反射した。
その光はまるで、次の戦略の号令のようだった。
第1話完。
(次回「第二話 辺境での新生活」――表と裏の顔が本格的に動き始める)
第二話 辺境での新生活
日の出より少し早く、村の空に薄い霧がかかる。
俺は丘から降り、粉にまみれた製粉小屋へ向かった。古い水車は夜のあいだも回り続け、軋んだ音とともにわずかな小麦を挽いている。流量は十分、歯車の噛み合わせも許容範囲。だが出力が伸びない――原因は、水路の落差とシャフト角のロスだ。
「ここを五度だけ切り下げて、羽根板を二枚追加する。軸受けは麻紐じゃなくて、蜜蝋を染み込ませた革で巻け」
居合わせた村の若い衆が目を丸くした。
「五度だけ……そんな些細な違いで?」
「些細な違いの積み重ねで、戦は決まる」
俺は笑い、設計用の黒炭を取った。水路の上流に小さな越流堰を入れる図を描く。落差が増えれば、水車はゆっくりでも重たい石臼を回せる。回転速度を求めない代わりに、粘り強いトルクを取る。パン生地のように、じわじわと。
午前、改修が終わると、臼はぐうん、と低く唸って回りはじめた。
粉塵が陽に舞い、ティナが歓声を上げた。
「すごい……! 昨日の倍は挽けてます!」
「倍が目標じゃない。三日で三倍にする」
「三倍!?」
「今日から粉は“重量”ではなく“ふるい通過率”で取引する。粗挽き・並・上白。袋に刻印を押す。形が整えば、隣村にも卸せる」
俺は焼き印の原版を取り出した。刻まれているのは風車の意匠―
―ただし羽根の本数と角度が、ある規則で変化する。
ティナが首を傾げる。「この違い、意味があるのですか?」
「ある。外から見れば等級印だが、内実は“暗号”だ。刻印の組み合わせで誰がいつ粉を運んだか、荷姿、経路、数量、全部が分かる。
街道の検問で記録が奪われても、読み解けるのは俺と……信頼した数人だけだ」
戦場で学んだことがある。剣より先に、帳面が折れる。だから帳面は散らしておく。刻印、紐の結び目、袋の縫い針目、すべてが符丁になる。
「符丁はパンにも使える。今日から村のパンは三種。日常用の“薄月”、旅人用の“石運び”、祝い用の“白花”。形と切れ目の数で、
配送先と危険度を知らせる。万一、道で盗賊に囲まれても、こちらが先に状況を知れるように」
「パンで……合図?」
「飢えは戦に勝る刃物だ。刃物は見せずに持て」
ティナは小さく「はい」と返事をし、焼き場へ駆けていった。窯から立ちのぼる香りは、村人の警戒心を溶かす。甘く、温かいものは正義だ。俺にとっても同じ――戦の理論を隠す良い煙幕になる。
◆
昼。
川辺の胡桃の木陰で、俺は簡易の机を広げた。板に打った釘の間に糸を張り、村の資材と人手を点と線で可視化する。やがて糸の網は、王都へ延びる街道を避け、大きな弧を描いた。
弧の先には、三つの点――“塩”“鉄”“蜂蜜”。
スローライフが豊かに見えるための三種の調味料。戦の裏打ちをする、三種の戦略資源だ。
塩は保存、鉄は道具、蜂蜜は栄養と薬の媒介。
どれも王都の商会が握り、辺境には高値でしか回ってこない。だから、迂回する。王都を中心とした“蜘蛛の巣”から逃れるには、もう一枚、上に“鳥の網”を張る必要がある。
鳥の網――渡り鳥の飛ぶ道筋に倣って、街道ではなく谷と尾根を繋ぐ。見た目の距離は遠回りでも、検問がないぶん、時間も安全も得られる。
「……間に合うか」
呟いたところへ、荷馬車が砂をあげて近づいた。
小柄な男が、陽気に笑って飛び降りる。
「おお、噂の“辺境の学者様”だな。ホーク商会のホブだ。塩を“ 重さ”じゃなく“効き目”で売りたいって変わり者。合ってるか?」「効き目で、ね。塩は料理のためだけにあるわけじゃない。傷口、魚の保存、家畜の飼料。用途ごとに純度を変えれば、無駄が減る。
結果、安くできる」
「はは、やっぱり変わり者だ!」
俺は笑い返し、積み荷に視線を走らせた。袋の縫い目は粗い。つまり再封が容易。商会としては“割り増し”を狙うやり方だ。だがホブの目は笑っていても、手は落ち着きなく袋の口に触れている―
―つまり損する商売を押し付けられている。
「ホブ。袋の口を“下に”して積め。次からは帆布を一枚、荷台に
敷く。袋が滑れば、塩は固まらない。固まらない塩は、量りやすい」
「……おいおい、学者様。商売まで口出すのか」
「口だけじゃない。今日からこの村で“塩の等級印”を導入する。粗塩、晒塩、上白。印は俺が管理する。印の分だけ、次の仕入れで
“鉄釘”を安く卸せ。釘は道を作る」
ホブは鼻を鳴らし、しばらく考えてから頷いた。
「いいだろう。俺は得をしたいし、損をしたくない。だが“王都の目”は怖い。検問に見つかったら?」
「検問は“同じ日同じ場所に長くいられない”。賄賂が必要だからだ。だから彼らは短気だ。短気な相手には、遠回りをぶつける」 俺は鳥網の地図をくるりと回し、北の谷筋に印を打つ。「三日後、ここで“蜂蜜”を受け取る。支払いは粉、一部は“紙” で渡す」
「紙?」
「粉庫手形――粉の倉の預かり証だ。袋の焼き印と紐の結び目が、裏書きになる。王都の金貨は王の顔が死ねば紙切れだが、腹が減らない限り粉は紙切れにならない」
「……面白ぇ。腹は正直だ」
俺たちは握手を交わした。
商人は臆病で強欲で、同時に賢い。それは王国の将軍より信頼できる性質だ。腹の虫は嘘をつけない。
◆
夕暮れ。
村の広場で、男たちは釘を打ち、女たちは粉をふるい、子どもたちは蜂を追いかけた。焼き上がった“薄月”が籠に並び、俺は一本一本、切れ目を確認する。
そこへ、馴染みの顔――老猟師のグラントが背を丸めてやって来た。
「ライル。西の道に“灰色の旗”が立った。徴税官だ。しかも兵を連れている」
灰色は暫定措置の色。一時徴発、あるいは臨時取り締まり。王都が辺境の動きを嗅ぎつけたか、あるいは――
「“軍を食わせる粉”が王都に回らなくなった」
俺の独り言に、グラントがうなずく。
「鼻の利く狼は、まず匂いから吠える」
「吠えるなら、こちらは“木霊”で返すだけだ」
俺は窯の脇に置いていた麻袋を持ち上げた。“石運び”のパンが詰まっている。固く、日持ちするが、芯は柔らかい。盗賊も兵も、空腹なら買う。
「徴税官の幕舎まで歩こう。値段を聞かれたら“王都価格の半分” と言え。兵は驚くだろう。だが“今日の分だけ”だ。明日は倍になる」
「倍?」
「兵の腹は今日を食う。明日のことは考えない。今日、彼らの胃袋を握る。明日、彼らの財布を握る。三日目には“道順”を握る」
グラントは口の端を上げた。「相変わらず、黒い」
「黒いのはパンの焼き色だけだと信じてくれ」
俺は冗談めかし、麻袋を肩に担いだ。
◆
徴税官の幕舎は、広場の外れに立っていた。軍馬の鼻息、槍の穂先、革鎧のこすれる音。
その中心に、灰色の羽織をまとった男がいる。痩せて、目が細い。
数字を好み、血を避けるタイプ――嫌いではない。
「辺境グレン村の代表者は?」
俺が半歩、前へ出た。
「ライル・グランです。粉とパンの管理をしています。本日は兵の皆様のために、日持ちする“石運び”を」
灰衣の男はパンを手に取り、重さを確かめ、匂いを嗅いだ。
値切る前の儀式。俺は値段を“王都の半値”と告げ、さらに一歩、踏み込む。
「支払いは“銅貨”でも“粉庫手形”でも構いません。軍用については、明日以降、臨時の配送路を整えることができます。検問の負担を軽くします」
灰衣の男の目が細くなる。俺はさらに畳みかけた。
「ただし、今日の分は“現金”で。明日からは“手形”を。手形は商会で換金できます。証印はこちら――」
俺は焼き印と紐を取り出した。灰衣の男が紐の結び目を見て、わずかに眉を上げる。
この結びは“盗難の跡が残りやすい”結び。手癖の悪い兵に嫌われ、手癖の悪い徴税官には好まれる。「君は、王都の商慣習をよくご存じのようだ」
「王都では、魚より帳面が泳ぎますから」
薄く笑いを交わしたところで、横合いから声が飛んだ。
「待て! その名――ライル・グランと言ったな」
鎧の胸板に獅子を彫った若い隊長が、声を荒げる。
こいつは数字ではなく血を好む目だ。俺が最も退屈する種類。
「王都布告に名がある。元参謀、王命に背き、国家機密を持ち出した罪。身柄の拘束、もしくは――」
「もしくは?」
「協力の約定。辺境における兵糧供出と、配送路の提供。対価は…
…“二倍の税免除”」
幕舎の空気がねじれた。兵の目に、腹と財布の計算が浮かんでいる。
灰衣の男は沈黙し、若い隊長は肩で息をしている。
俺は一拍だけ考え、パンの籠から一本を取り出して、半分に割った。ふわりと湯気が上がる。芯の柔らかさが、刃物のように空気を切り裂いた。
「隊長。あなたの部下は、今日を守り、明日も歩く必要がある。腹が空けば、槍は落ちる。道が乱れれば、馬は転ぶ。俺のパンは今日を満たし、俺の道は明日を繋ぐ」
「詭弁だ」
「では数字で。今日の兵糧を王都から運べば、輸送費は銅貨三十、
途中で二割が湿って減耗、残りの一割は盗まれる。こちらからなら、銅貨十五。減耗は一割未満。盗賊には“パン”で買収する」
灰衣の男が咳払いをし、若い隊長の前に出た。
「……隊長殿。文言通りなら、これは“協力の約定”の範疇に入る。
拘束は“協力を拒めば”の話だ」
「だがこいつは元参謀だぞ。裏がある」
「裏があれば、表が整う」
灰衣の男――徴税官は俺に向き直り、静かに問う。
「見返りは?」
「三つ。兵の通行は“川沿い”を避けて尾根道を使うこと。検問は “市場のある日”に合わせず、ずらすこと。“粉庫手形”を王都の補給所で“銅貨”と同等に扱うこと」
「最後は重い」
「重いほど、軽くなる。腹は正直だ」 沈黙ののち、徴税官は頷いた。「……明朝、詳細を詰めよう。今夜は兵にパンを配る。代金は“現金”で支払う」
俺は軽く頭を下げた。若い隊長は不満そうに鼻を鳴らしたが、パンの匂いがそれ以上の言葉を奪った。
食べ物は、刃を鈍らせる。俺はその切れ味まで計算に入れている。
◆
夜。
窯の火が落ち、村に静けさが戻る。
俺は作業小屋の灯の下、羽根の角度を微調整した焼き印を磨いた。
羽根の本数は“配送の危険度”、角度は“検問の配置”、柄の印は “商会の信用度”。
暗号は増えるほど脆くなる。単純だが組み合わせが豊富――それが良い暗号だ。
扉が小さく叩かれた。
「ライル様……お客です」
ティナが顔を覗かせ、控えめに身を引いた。その背後から、粗末な外套の人物が一人、滑るように入ってくる。
フードを外した唇が、ひび割れている。だが目は澄んで、まっすぐだった。
「お久しぶりです、ライル様。王都の友より“白花”を」
“白花”。祝い用の白いパンの名。
俺は無言で頷き、机の引き出しから同名の符丁が書かれた鍵を出す。
彼女――王都で働く下女のメイは、布包みを解いた。中からは薄い羊皮紙が四枚。外見は市場の出店許可証、裏は細い細い書き込み。
王都の“今”が、黒いインクで無駄なく連なっていた。
「王都の食肉商たちが、市場日を“木曜から火曜へ”ずらしました。
検問と狩日が重なり、田舎の搬入が滞っています。……それから」
メイは一瞬だけ言葉を飲み込み、俺の目を見た。
「アメリア様が、“婚礼衣装”を戻されました」
手の中の焼き印が、音も立てず重さを変える。
“戻す”――支払いを断ち、工房との契約を解消した。
婚約破棄の“演技”に必要だった衣装は、もういらない。庇護の鎧を脱ぐということだ。彼女は“悪役”から降りるつもりはない。むしろ、自分の役目を、本当に引き受けるつもりなのだ。
俺は視線をメイから羊皮紙へ戻し、さらさらと赤い炭で追記した。
市場日の移動――検問の迂回――兵の胃袋――商会の帳面――そして。
「……鳥の網を、もう一枚張る」
「鳥の、網?」
「渡り鳥は、空だけを飛ばない。ときに川面すれすれ、ときに森の中。彼らを“迎える枝”を増やす。王都の外へ“枝”を出しておく。
衣装工房、染色屋、刺繍師、仕立ての針子。『戻された婚礼衣装』の行き先は、王都の塵箱じゃない。辺境の“白花祭”だ」 メイの目が見開かれる。「辺境に、祭りを?」
「“白花”はここで生まれた言葉だ。祝いのパン。……衣装の白と、
パンの白を結べば、王都の噂がこちらへ流れる。“悪役令嬢は衣装を捨て、辺境に白を贈った”――そう語らせる」
「アメリア様が、こちらに?」
「まだ呼ばない。彼女が“自分で歩いて”来られるように、道を敷くだけだ」
俺は焼き印を火にかざし、余分な煤を落とした。
炎の向こうで、メイの表情が揺れる。
「……ライル様」
「何だ」
「王都の布告に、あなたのお名前が載りました。“協力すれば免罪、拒めば反逆”」
「知っている。今日、灰衣の男が持ってきた」
「怖くは、ないのですか」
俺は少しだけ考え、首を横に振った。
「怖いのは、役割を間違えることだ。王都は“王”という役を演じる。俺は“黒幕”という役を演じる。だが本当の役は、もっと手触りのあるものだ。子が眠り、明日も食えること。畑が実り、兵が馬から落ちないこと。……役ではなく“役立つ”こと」
メイは、ふっと笑った。
俺も笑い、羊皮紙を束ねて革紐で括った。紐の結び目は、今日から新しい型だ。
扉の外で、遠く犬が吠えた。風向きが変わる。
「明朝、塩の“晒”を三袋、鉄釘を百。蜂蜜を小瓶で二十。――鳥の枝は、そこからだ」
メイが頷き、外套をかぶる。
そのとき、外から荒々しい叩音。ティナの叫ぶ声。
「ライル様! “王都の封蝋”です! 急ぎの使い!」
俺は焼き印を火から外し、扉へ歩いた。
差し出された書簡の封蝋には、見覚えの紋――ヴァーミリオン家。
だが、その表書きの筆跡は、アメリアではない。固く、軍人の筆。
封を切ると、短い文が目に飛び込んできた。
『辺境にて“白花祭”を主催せよ。王都の名の下に。
――執行役 ディラン・ヴァーミリオン』
顔を上げると、メイが息を呑んでいた。
俺は手紙を机に置き、静かに笑う。
「……良い。王都が“表”に名を出した。なら、こちらは“裏”で整えるだけだ」
白いパンの切れ目が、灯に細く光る。
戦は、刃でなく、段取りで決まる。
そして段取りは、毎日の暮らしの中で育つ。
明日、村は祭りの支度に取り掛かる。塩は晒され、釘は道に降り、蜂蜜は子の舌に触れる。
兵の胃袋は満ち、検問は空を掴み、噂は風に乗る。
そして――遠い都で、衣装を返した一人の令嬢が、白を手繰ってこちらへ歩き出す。
俺は焼き印を握り直し、鋼のように静かな心で、次の一手を思い描いた。
「盤上に、花を咲かせよう」
第2話ここまで。
次回は第3話「密使と密約」
第三話 密使と密約
白花祭の準備が始まって三日。
村の丘は白い花粉と粉塵で霞んでいた。
パンの白、衣装の白、花の白――どれも祝祭の色であり、同時に煙幕でもある。
白いものほど、裏を隠すには都合がいい。
今日も俺は、広場の片隅で交易路の地図を眺めていた。
“粉庫手形”は既に周辺四村へ流通し、王都の銅貨より早く回り始めている。
手形の裏には印、印の意味は商品ではなく“約束”。
つまり、この辺境で流れているのは貨幣ではなく――信義そのものだ。
◆
「ライル様、客です。南の橋から来ました」
ティナが駆けてきた。
橋? 南は隣国への街道筋。王都が監視するはずのルートだ。
そこから来る客は、歓迎すべき者でもあり、最も警戒すべき者でもある。
やがて、褐色の外套を纏った二人組が現れた。
背には蜂の刺繍。――隣国トリネアの養蜂商、通称〈蜜の商人〉だ。
「辺境の黒幕さんとお見受けします」
「名を知られるとは光栄だな」
互いに微笑しながら、探るような視線が交差する。 商人の一人――年配の男が、革袋を卓上に置いた。
甘い香りが立ちのぼる。蜜と薬草の混合物。
「王都で“蜂蜜税”が上がりましてね。逃げ場を探しておりまして」
「ここは逃げ場ではない。始まりの地だ」
俺は袋を開け、指で少しすくう。
粘度、香り、結晶化の具合。
この蜜は高純度。だが混ぜ物がない分、足がつく。
合法の品を偽装するより、偽装した合法品を流すほうが安全だ。
「税率はいくらだ」
「二割五分」
「なら、一割で仕入れよう」
「……赤字ですよ」
「赤字ではない。蜜を粉と交換しろ。粉庫手形の刻印を“花印”に変える。蜂の印と重なれば、税関の目は蜂蜜を“白花祭の供物”と誤認する。つまり――免税だ」
男の目が細くなる。もう一人の若者が息を呑んだ。
「供物……王都がそんな詭弁を許すと?」
「許さなくても“見逃す”。供物を取り締まれば信仰を傷つける。
王都の宗務庁は、それを恐れている」 俺は白花の冠を手に取った。 パンに飾る花の一部を乾かして粉に混ぜる。それを“聖粉”と呼ぶ。
この祭りの本質は、信仰でも収穫でもない。“合法の抜け道”だ。
「……この取引、王都にはどんな顔で?」
「“文化交流”だ。隣国から聖蜜を献上し、代わりに辺境の粉を贈る。書面は俺が書く。王都の執行役ディラン・ヴァーミリオン宛だ」
蜜商たちは顔を見合わせ、やがて笑った。
「腹の中が真っ黒なお方だ」
「白い粉の国では、黒がよく映える」
契約は握手一つ。
彼らが去ると同時に、空気が少し冷えた。
遠くの街道から、灰色の羽織が風に翻るのが見えた。
◆
徴税官――グレイが再び村を訪れた。
彼は馬を降りると、迷いなく俺の前に立つ。
「ライル殿、王都の命を伝える。白花祭は“王都後援”として開催せよ、とのことだ」
「……ほう。王都が後援、とは」
「名目上は祭の保護。実質は“監視”だろうな」
グレイは淡々と告げた。
「さらに、王都から執行役が派遣される」
「名は?」
「ディラン・ヴァーミリオン」
俺は微笑んだ。
アメリアの家の名――予想通り。
家を守るための監視役であり、同時に“使者”でもある。
つまり、彼もまた駒の一つ。
「歓迎しよう。彼が来る前に、準備を整える」
「……準備?」
「祭の裏側に、もう一つ“密約”を」
◆
夜。
倉庫の奥で、俺とグレイ、そしてホブ商会のホブが卓を囲んでいた。
三人の前には、三つの印章――粉、塩、蜜。
「三つの印を重ねれば、“白花盟約”だ」
俺は言いながら、羊皮紙に線を描く。
――粉庫手形:商業経路
――蜂蜜契約:宗教経路
――徴税協定:法的経路
三者を重ねれば、王都の支配構造を“合法的にすり抜ける”三重構造ができあがる。
「この契約、王都が知れば?」
「知っても破れない。なぜなら、彼らが破ることは“法の自殺”だからだ。徴税官の印がある以上、王都は自らの権威を否定できない」 ホブが唇を歪める。「抜け道どころか、裏街道だな」
「街道は人が通れば正道になる」
火が灯り、赤い影が地図の上を踊る。
その瞬間、外から蹄の音が響いた。
グレイが眉を寄せる。「早いな……」
扉が開く。
灰色ではなく、黒い外套。金糸の刺繍。
王都の紋章が胸で光る。
男はまっすぐ俺を見た。
「久しいな、ライル」
「――ディラン・ヴァーミリオン」
元上官、そしてアメリアの兄。
かつての戦友が、今は監視役として立っている。
「祭を開くとは聞いた。王都の承認なしに“盟約”を結んだそうだな」
「承認は得た。貴族の印もある」
「徴税官と商人の印で、王都を出し抜けると思うな」
彼の声には苛立ちよりも焦りがあった。
アメリアの名を出せない――それが彼の弱点。
彼女の“婚約破棄”が芝居だと知っているのは、家の者だけだからだ。
「ディラン。俺はただ、この辺境を守りたいだけだ」
「ならば王都に戻れ。お前の知略はまだ必要だ」「王都の戦場は血で塗れる。俺の戦場はパンで塗る」
短い沈黙。
彼は机上の“白花盟約”を見つめ、息を吐いた。
「……この紙、正式な通達として預かる。王都は内容を精査する」
「その代わり、一つ頼みがある」
「なんだ」
「アメリアを守れ。たとえ俺が敵になっても」
ディランの目がわずかに揺れた。
だが何も言わず、紙を持って出ていく。
扉が閉まる。
残された空気に、火が小さく爆ぜた。
◆
「ライル様……これで本当に、勝てるのですか」
ティナの問いに、俺は微笑んだ。
「勝つ? 違うさ。勝敗はとっくに終わっている」
「え?」
「王都が“白花祭”を後援すると宣言した時点で、もうこちらの勝ちだ。
あの名の下で何を流そうと、誰も咎められない」
白花の冠が夜風に揺れる。
蜜の香りが漂い、遠くで笛が鳴る。
その旋律は、まるで新しい国歌のようだった。「盤上の花は、もう咲いた。次は――実を結ばせる番だ」
第3話・完。
第四話 追放された悪役令嬢
――王都、ヴァーミリオン邸・西棟。
朝の冷気は大理石の床を這い、鏡の中の自分を薄く震わせた。
アメリア・ヴァーミリオンは、鏡台の引き出しから白い手袋をひとつ取り出す。指先に残る絹の冷たさは、あの日の舞踏会と同じ。 婚約破棄を宣言した夜、彼女は生まれて初めて嘘をついた。家を守るために。兄を、領民を、そして――彼を守るために。
「お嬢様、馬車の準備が整いました」
侍女頭が低く告げる。
アメリアは頷き、身を翻した。クローゼットの奥、白の婚礼衣装はすでにここにはない。昨日、工房へ戻した。
戻した先は王都ではない。“辺境”だ。
(白花祭――)
それは王都の噂だった。辺境グレン村で、白いパンを掲げる祭が行われる。王都の宗務庁は関知せず、だが徴税局は“後援”を表明。貴族の婦人たちは「田舎くさい」と笑ったが、商会は笑わなかった。
動く者たちがいる。動かしている者がいる。
(あなた、でしょう? ライル)
胸の奥で、彼の名が微かに灯る。
アメリアは唇を固く結び、馬車へ乗り込んだ。
◆
王都から北西へ三日の道程。
四日目の朝、霧の切れ目に“白”が浮かび上がった。
広場いっぱいに、白いものが揺れている。
薄い花弁を乾かした飾り、白布を張った屋台、白い粉で真っ白に焼かれた小さな冠のようなパン。
そして、人の笑顔。
アメリアはその光景を目にした途端、呼吸を忘れた。
「……きれい」
侍女のメイが隣で目を細める。「お嬢様、足元を」
石畳ではない。ならされた土の道。だが泥はない。砂利の選別、排水の溝、臨時の板――誰かが“段取り”を敷いた跡。
屋台の端で、パンを受け取る兵の姿もある。彼らの槍は穂先を布で包み、子どもがぶつかっても怪我をしないように工夫されていた。
(兵も、祭の“客”にする……)
アメリアは心の中で呟く。
――彼のやり口だ。戦を避け、腹と段取りで勝つ。
彼女は肩越しに侍女へ囁いた。「メイ、案内を。あなたの“友人
”に」
メイが小さく笑い、雑踏の中へと進む。
白い切れ目の入ったパンが渡される。切れ目の数は四つ――メイが視線で示す。“四”は「安全」。 彼女たちは人波を抜け、粉の香り漂う小屋の前で足を止めた。
「お嬢様」
メイが扉を叩く。
返事はすぐにあった。穏やかで、よく通る低い声。
「入りなさい」
扉が開く。
木と鉄の匂い。窓から差す光に、粉の白が舞う。
その奥に、彼がいた。
粗末なエプロン、袖は肘まで捲られ、指には焼き印の煤。
王都の参謀ではない。辺境の職人。だが、目は変わらない。盤上を読む鋭さは、その瞳の奥にそのまま在る。
「――アメリア」
ライル・グランは名を呼び、そして一拍置いて微笑んだ。
彼はいつも、答えを急がない。相手が自分の言葉に追いつくまで待つ。
アメリアの胸に、あの夜の記憶が刺す。婚約破棄を言い渡した時、彼はほんのわずかに、同じ間を置いてから笑った。
それは、許しの間だった。
「ご機嫌よう、ライル。……お祭り、見事ね」
「白は汚れが目立つ。だからこそ、人は美しくしようとする」 彼の言葉に、アメリアも笑った。 そして、笑顔を畳み、姿勢を正す。
「私は監視役よ。王都の“後援”の名の下に、祭に不正がないかを見るための。……けれど私は同時に、客でもあるわ」
「客ならば、パンを」
ライルは籠から“白花”を一つ取り、ナイフで切り分けた。切れ目は二つ――“注意”。
侍女のメイが微かに眉を動かす。アメリアは気づかないふりをしてパンを受け取った。
「甘いわね。蜂蜜?」
「聖蜜だ。向こうの谷から。……税は払っている」
「“表向きは”、でしょう?」
「君は相変わらず鋭い」
言葉遊びの仮面に隠れるように、二人は視線を交わした。
言えない言葉がある。二人にしか通じない符丁がある。
だからこそ、仮面が必要だった。
◆
「それで、王都は何を望む?」
ライルは率直に問う。
アメリアは眉を下げ、仕立て直した白い外套を指先で摘んだ。「“秩序”よ。王都は秩序を求める。徴税も商売も信仰も、王都の枠の中で回り続ける秩序を。……でもここは、枠の外にある」
「枠の外に“道”を敷くのが、軍師の仕事だ」
「ええ、そうね」
アメリアはふと口元を緩めた。「あなたの“スローライフ”は、相変わらず静かで忙しいのね」
「静かに忙しいのが好きでね」
「私も」
二人の間に、ひとしずくの温度が落ちた。
それはたぶん、恋と呼ばれるものの予感ではない。
もっと具体的で、もっと脆く、もっと強い。
――互いの“役”を守るための共犯関係の温度。
そこへ、外が騒がしくなる。
笛の音が一度途切れ、代わりに怒号が割り込んだ。
ティナが駆け込む。「ライル様! “灰色旗”が――!」
「徴税の臨検だ」
ライルは短く言い、焼き印と帳面を掴んで立ち上がる。
アメリアも続いた。外に出ると、広場の中央に灰色の旗が立ち、兵が列を作っている。
先頭に、鋭い目の若い隊長――先日、ライルに噛みついた男。
彼の横に、あの灰衣の徴税官グレイ。 さらに、その後ろに黒外套の影。金糸の刺繍。
「ディラン……」
アメリアの喉が、ほとんど音にならない声を漏らす。
兄は彼女を見ない。視線はまっすぐ、祭の屋台へ向けられている。
「白花祭の出店に対し、臨時検査を行う。蜂蜜、粉、塩、いずれも王都の規格に照らして調べる。……異議は?」
沈黙。ざわめき。
ライルは一歩前に出る。「異議はない。ただし、検査は“食前” に。祭の祈りが終わる前に手を触れれば、冒涜になる」
若い隊長が鼻で笑う。「詭弁だ」
グレイが低く言う。「王都布告にも“祭礼の場を乱すことなきよう”の条あり。詭弁ではない」
隊長が舌打ちし、ディランが右手を上げて制した。
「祈りの刻まで三十刻ある。その間に“帳面の確認”を行う」
「帳面なら、こちらに」
ライルが差し出したのは帳面――ではない。
焼き印、紐、袋の縫い目、パンの切れ目。
それらの“現物”で構成された、動く帳面だ。
ディランが眉をわずかに上げる。「紙は?」
「紙は燃える。食える帳面のほうが、飢えには役立つ」
アメリアは思わず微笑みかけ、すぐに表情を正す。
グレイが一つ一つ手に取り、頷きを積み重ねていく。 若い隊長は苛立ち、ついに声を荒げた。
「偽装だ! 印も紐も好きに作れる!」
ライルは穏やかに首を振った。「印も紐も真似できる。だが“信用”は真似できない。――これが粉庫手形だ」
彼は籠の底から、薄い木札を取り出した。
木札には焼き印、紐の結び、そして微細な“蜂蜜の結晶”が埋め込まれている。
結晶は温度で形を変え、指の温もりで痕跡が残る。
偽造しようとすれば、触れた痕でわかる。
「……くだらん手品だ」
隊長が吐き捨てた時、群衆の向こうで甲高い悲鳴が上がった。
屋台の一つが傾ぎ、樽が転がる。蜂蜜が地面にこぼれ、子どもが足を取られて尻もちをついた。
兵が慌てて駆け寄り、誰かが「盗賊だ!」と叫ぶ。
たしかに、外套の男が混乱に紛れて袋を攫っていた。
隊長が槍を構え、突進する。
その刃先が、転んだ子どもの背に向かう――。
「やめて!」
アメリアは思わず叫び、身を投げた。
白い外套が風に広がり、彼女は子どもを抱き起こす。
槍の穂先が外套の裾を裂き、布が白い羽のように散った。
瞬間、別の音が割り込む。
短い笛の三連――“鳥の網”の合図。 屋台の裏、窯の陰、粉倉の脇。
あらゆる場所から、村の男たちが無言で動き出した。
逃げる外套の男の前に網が落ち、足が絡まる。
別の方向からは、蜂の箱が開けられ、煙が流される。蜂は煙に従い、ゆっくりと外套の男の周りを回る。
誰も刺さない。刺されないように、蜂の“帰巣”の煙が選ばれている。
若い隊長が目を剥く。「な――」
「ここは“祭”だ。血を流さず、腹を満たし、段取りで片を付ける」
ライルの声は低く、よく通る。
彼は外套の男に近づくと、網をゆっくり外し、手に“石運び”のパンを握らせた。「食え」
男はおそるおそるかじり、涙をこぼした。
兵の何人かが、槍を下げる。
グレイだけが、黙って頷いた。
ディランはしばらく沈黙し、やがて言った。
「……臨検は“祈りの後”にする。混乱の責は、王都が取る」
若い隊長が抗議しかける。
ディランは初めてアメリアを見た。
妹の外套が裂けているのを見て、ほんの少しだけ目が揺れた。
「……アメリア。怪我は?」
「ないわ」
彼女は立ち上がり、土のついた手袋を脱いだ。
手袋の下の指先には、絹ではない固さが残っている。
――この指で、彼女は“悪役”を演じてきた。
だが今、その役を少しだけ置いた。
「ディラン兄様。王都は“秩序”を求めるのよね。ならば見て。ここにある秩序を」
彼女は周囲を示した。
白いパン、蜂の箱、子ども、兵、商人、徴税官。
誰も血を流さず、誰も空腹のままではない。
そして、その中心に立つ男。
「……秩序だと?」
若い隊長が唾を吐くように呟く。
アメリアは凛とした声で答えた。
「ええ。“段取りで人が助かる秩序”。王都にないものよ」
沈黙を切ったのは、笛だった。祈りの刻を告げる柔らかな音。
人々は静かに手を合わせ、白いパンを掲げる。
ライルも帽子を取り、短く目を伏せた。
アメリアは隣に並び、同じように目を閉じた。
祈りは短い。だが、確かな重みがあった。
◆
祈りの後、臨検は淡々と行われた。
帳面は“食える”形で検められ、焼き印と紐はひとつずつ意味を照らされ、蜂蜜は“供物”として扱われた。
グレイは最後に判を押し、静かに宣言した。
「白花祭――王都“後援”のもと、適正」
広場から安堵の吐息が上がる。
若い隊長は納得いかぬ顔のままだったが、ディランは彼の袖を引いた。
彼は歩み寄り、低く言う。
「ライル。――お前は“黒幕”の名を自分に与えた。だが今見たのは、“白幕”だ」
「幕は色で役を変える」
「ならば、幕の裏は?」
「裏には、畑がある」
ディランの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。それは少年の頃、アメリアだけが知っている顔だった。
彼は振り返り、妹を一瞥する。
その目に「しばらくは任せる」という言葉が宿り、同時に「常に見ている」という警告が重なっている。
兄は王都へ戻る。だが、糸は切らない。
黒外套が遠ざかり、灰色の旗が降ろされる。
夕陽が白い粉を淡く染めた。
◆
夜。
窯の火が落ちる頃、アメリアはライルの作業小屋を訪れた。
彼は焼き印を磨いていた。羽根の角度が少し変わっている。
あの日と同じだ。彼はいつでも“次”の角度を考えている。
「ありがとう。……あの子を、助けてくれて」
「君が先だ。俺は笛を吹いただけだ」
「笛を吹く人を、人は“指揮者”って呼ぶのよ」
アメリアは笑い、そして真顔になる。
「ライル。私は王都の人間。監視役でもある。だから問うわ。―― あなたは、この祭で何を“運ぶ”の?」
ライルは少しだけ考え、真っ直ぐに答えた。
「明日を」
その言葉は、驚くほど軽く、重かった。
アメリアは目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
「……なら、私も運ぶわ。役を、枠の外へ」
彼女は懐から小さな包みを取り出す。
白い刺繍の端布。婚礼衣装から切り取った縁だ。 ライルはそれを受け取り、焼き印の柄に巻きつけた。
白が黒に絡み、静かに色を変える。
「白幕に、黒の縫い目。――悪くない」
「ええ。悪くないわ」
窓の外で、白花祭の灯がまたたく。
人の声、笑い、笛。
アメリアは小さく祈り、ライルは次の段取りを頭の中で並べ直した。
盤上に、白い道が一本増える。
王都と辺境、監視と救済、悪役と黒幕。
そのすべてを結ぶ道だ。
「さあ、明日も忙しくなる」
「静かに、ね」
二人は同時に笑い、そしてそれぞれの役へ戻った。
白い夜は深まり、黒い影は薄くなる。
それはたぶん、正しい順序だった。
第4話・了。
第五話 盤上の駒たち
祭が終わって三日。
白い粉は雨に洗われ、村はいつもの色を取り戻していた。
だが、静けさの下では金と情報が渦を巻いている。
王都から届く便りの速さが倍になった。
噂は風より早く、法令より重い。
◆
「ライル様、王都の“書き手”から伝言です!」
ティナが駆け込んできた。
紙束には墨の香りがまだ残っている。
俺は封を切り、一瞥した。
書き出しの一行で、すべてを理解した。
『白花祭にて“白幕軍師”現る――貴族たち動揺』
笑いを噛み殺す。
噂は武器になる。誰が仕掛けたかは明白だ。
王都の“書き手”――つまり記録屋が記事を流すには、王家の黙認が要る。
ディランだ。王都の“監視”を、俺の“宣伝”に変えた。
(棋士の一手を、兵に見せて士気を上げる……さすがだな、ディラン)
俺は紙を折り、焚火に放り込んだ。
噂を燃やすのもまた、盤上の手筋のひとつ。
「ティナ。ホブを呼べ。次に動く駒を決める」
◆
夕刻、ホブ商会の商人がやってきた。
油の染みた帳面と笑い皺を持ち込んで。
「“白花の粉”が王都で跳ねたぞ。倍値だ。だが面倒も増えた。貴族連中が“裏取り引き”を仕掛けてきやがる」
「誰が先頭に立ってる?」
「エリオット侯。お前を追放した連中の一人さ」
俺は短く頷き、机に広げた地図の一点を指した。
王都の外れ、倉庫街。そこに小さな印を記す。
「彼の倉庫、警備は?」
「緩い。税の抜け道を使ってるらしい。兵に賄賂を渡してる」
「なら、兵を“飢え”させろ」
「は?」
「倉庫の粉を一晩“風に晒す”だけでいい。湿気れば量は減り、値も下がる。腹を減らした兵は、明日パンを求めにくる。――そのパンを売るのは我々だ」
ホブが破顔した。「お前、やっぱり悪魔みてぇだな!」
「黒幕という名は、伊達ではない」
◆
夜。
帳面の灯を落とし、外に出る。
畑の端、白花の残骸が風に舞っている。
遠くから、蹄の音。
灰衣の徴税官グレイが馬を引いて現れた。
「ライル殿、王都から新布告だ。“粉庫手形”の流通が“貨幣行為
”と見なされれば違法になる可能性がある」
「つまり、合法であるうちは合法だな」
「……言葉の綾で逃げ切れると思うか?」
「言葉の綾で結んだのは、王都自身だ。
祭を後援し、徴税官の印を押した時点で、布告は自縄自縛になっている」
グレイは小さく笑った。
「やはり、あなたは参謀だ。だが……王都にはもう一つの手がある」
「もう一つ?」「“婚約破棄の真相”を探る委員会が立ち上がった。あなたの名が再び議事録に載る」
風が、冷たくなった。
婚約破棄――あの日の舞台が、また呼び戻されようとしている。
アメリアを責める形で。
「……ディランの仕業か?」
「おそらくは違う。彼は止められなかったのだろう。王都には、まだ“古い駒”が残っている」
「なるほど。なら、盤をもう一段広げよう」
「どうするつもりだ?」
「アメリアを盤上に戻す。王都が駒を動かすなら、こちらも“王” を置く」
◆
翌日。
俺はアメリアを呼んだ。
白花祭の余韻がまだ残る作業小屋で、彼女は白い外套を畳んでいた。
その動作は丁寧で、まるで祈りのようだ。
「王都が動いた」
「ええ、聞いたわ。……“真相”の名を借りた粛清でしょう?」「そうだ。君を“嘘の悪役”ではなく“本物の罪人”に仕立てるつもりだ」
アメリアは唇を噛んだ。
だが、その瞳は揺れなかった。
「なら、嘘を上書きすればいい。本物の“婚約破棄”を演じ直すの。
今度は――“悪役令嬢”ではなく、“裏切られた聖女”として」
「……それは危険だ。君が矢面に立つ」
「私には、役しか残っていないもの。あなたが“黒幕”を演じるなら、私は“白幕”になる」
彼女は微笑んだ。
白と黒、盤上の両極が並び立つ瞬間。
俺は短く息を吸い、頷いた。
「よかろう。――だが、その舞台は王都ではない。“交易会”だ。
白花祭を拡張し、王都の商人と貴族を呼ぶ。
表向きは“新粉の展示”、裏では“信用の取引”。」
「裏舞台、ね。……あなたの得意分野だわ」
アメリアの声は、どこか誇らしげだった。
◆
三日後。
王都に“白花交易会”の告知が流れた。
後援――ヴァーミリオン侯家、グレン村。
主催――“黒幕軍師”ライル・グラン。
人々は笑い、貴族は眉をひそめ、商会は走った。
盤上に散らばる駒が、いっせいに動き出す。
それは、戦でも革命でもない。
“信用”という見えない兵を使った、知略の戦いだ。
俺は窓辺で、白花の花弁を指で潰した。
粉が風に乗って舞い上がる。
その粒は、誰の手にも掴めない。
だが確かに、世界を少しずつ覆っていく。
(――次の手は、王都のど真ん中で打つ)
第5話・完。
次回 第6話「辺境連合、蜂起す」
第六話 辺境連合、蜂起す
白花交易会の朝、王都は異様に静かだった。
市場の鐘が三度鳴る。その音に、何千という商人が一斉に帳面を開く。
粉庫手形の交換が始まった。
紙ではない木札。焼き印、紐、蜂蜜結晶。
どれも見慣れぬ通貨。だが、どの商人も受け取る。
――それは“王都の銅貨”より早く回る。
信用は形ではなく、速さだ。
動くものが価値を生む。
◆
王都中央市場・管理局。
「陛下、交易の帳簿が合いません。粉の取引高が三倍、王都銅貨の使用率が半減しております!」
「粉? 粉など辺境の雑貨だろう!」
大臣たちは怒鳴り合う。
しかし帳簿の数字は嘘をつかない。
“粉庫手形”が、実質的に貨幣として機能している。
王国の金流が、知らぬ間にライルの“道”を通っていた。
しかも、その徴税印には――王都の徴税官グレイの署名。 王は顔をしかめた。「反逆ではないのか?」
「いいえ、陛下。形式上は合法です。“王都後援”と印されています」
「後援……? 誰がそんな――」
文官が紙を掲げる。
そこには、金糸の署名。
――ディラン・ヴァーミリオン。
王の声が、低く震えた。
「ヴァーミリオン家……またか」
◆
その頃、グレン村。
広場の端で、ライルは静かにパンを焼いていた。
粉の香りが風に乗り、村人たちの声が遠くで響く。
王都の混乱は、まだここには届かない。
だが、届かないことこそ、届いている証拠だ。
「……始まったか」
炉の火を見つめながら呟く。
アメリアが背後から近づく。
白い外套をまとい、穏やかに微笑んでいた。
だがその指先は震えている。
「王都で“粉暴落”の報が。……貴族たちが取り付けを始めたわ」「恐慌は計算のうちだ。信用を崩せば、再構築ができる」
「でも、それでは人が……」
「――だからこそ、俺がいる」
ライルは振り返らずに言った。
炎の色がその横顔を照らす。 冷徹でも、どこか優しい光。
アメリアは息を詰めた。
王都を混乱に落としながら、その中心に“秩序”を見据える目。
彼は破壊者ではなく、再建者なのだ。
「君が“悪役令嬢”を演じたように、俺は“反逆者”を演じる。―
―だが、真実は逆だ」
◆
王都・評議の間。
ディランは議員たちの怒声を受け流していた。
机の上には粉庫手形の束。
彼は一本を取り、蝋燭の火にかざす。
結晶が光り、燃えずに残る。
まるで、信用が燃え尽きない証のように。
「この構造は……天才だな」
隣の参謀が唸る。
「法の内側に作られた“別の国”。徴税も軍も経済も、王都に属しながら王都を凌駕している」
「つまり――辺境連合か」
誰かが呟いた。
その名が会議室を満たした瞬間、沈黙が落ちる。
“辺境連合”。
王国の外で、王国を支える者たち。 反逆ではない。だが従属でもない。
ディランは書簡を取り出した。
封にはライルの印――風車の羽根。
『これは剣ではなく、耕具である。
この地を耕す者こそ、真の王。』
短い文。だが、その意図は明確だった。
――王都を攻める気はない。
王都を「養う」つもりなのだ。
ディランは深く息を吐き、立ち上がる。
「陛下。辺境を敵に回せば、国は干上がります。彼らの通貨を“王国補助貨幣”として認めるべきです」
「何を言う! それは屈服だ!」
「いいえ、共存です。
この国は今、戦ではなく“信頼”で立っている。
――信頼を奪う者こそ、本当の反逆者です」
王は沈黙し、重い玉座の肘掛けに手を置いた。
彼は老いている。
老いは恐怖を育てる。
恐怖は、決断を遅らせる。
そして遅れた決断は、すでに敗北だ。
◆
翌日。
グレン村に早馬が駆け込んだ。
封蝋には王都の印。
ティナが震える手でそれを差し出す。
ライルは開き、一読して目を細めた。
『王国は辺境粉庫手形を“補助貨幣”として承認す。
――ただし発行管理をヴァーミリオン家に委任。』
アメリアの手が震えた。「……つまり、王都は降伏を認めたの?」
「名目上はそうだ。だが実際には、“共存”の名を借りた再編だ。 この国はもう、一つの王国ではない。二つの信用で成り立つ双子国家になった」
「ライル……あなた、まさか……」
「これが最初の一手だ。王を倒すには、血ではなく“信頼”を奪うこと。
そして、信頼を奪われた王は、次に“与える者”に従う」
アメリアは沈黙した。
ライルの掌の上で、国が形を変えていく。
その知略の深さに、恐れと尊敬が入り混じる。「でも……あなたは王になりたいの?」
「王にはならない。
王は“名”を奪い、黒幕は“影”を守る。
影は光を必要としない。光を導くのが、俺の仕事だ」
彼は微笑み、アメリアの外套の裾を直した。
白い布に、指先が触れる。
「君が“表”を歩け。俺は“裏”で支える。
それが、盤上の約束だ」
アメリアはその言葉に、ゆっくりと頷いた。
◆
その夜。
村の空には無数の白花灯が舞っていた。
誰も戦わず、誰も倒れず、ひとつの革命が終わろうとしている。
だがライルは知っていた。
終わりは次の始まりだ。
火の粉が舞い上がる。
遠く王都の方角から、笛の音が聞こえた。
風が変わる。
国が変わる。
ライルはそっと呟いた。
「これで“辺境連合”は芽吹いた。
次は――王国の心臓に根を張る番だ」
その声は、夜風に溶けて消えた。
だが翌朝、王都の市場にはひとつの噂が立つ。
“黒幕軍師が王国を救った”と。
そして同時に、
“黒幕が王国を支配した”とも。
真実は、どちらでもいい。
それを決めるのは――次の一手だ。
第6話・完。
次回、第7話「黒幕の正体」――
第七話 黒幕の正体
王都へ戻る馬車の車輪が、石畳を低く鳴らしていた。
空は灰色、雲は重い。
それでもライルの眼差しには、迷いがなかった。
呼び出し状の封蝋には、王国紋章。
――ついに、「黒幕」を表に引きずり出す時が来た。
◆
王城・謁見の間。
王座の前に、ライル、アメリア、ディラン、そして幾人もの貴族たちが並んでいた。
議場を囲む観衆の中には、商会長や宗務庁の長官までいる。
それぞれが自らの利を求め、だが誰もが一人の男を見ていた。
――黒幕軍師、ライル・グラン。
「貴公を、ここに召す。」
老王の声が響いた。
「辺境連合の設立、粉庫手形の流通、交易会の拡大。すべて、おぬしの采配によるものだな?」
「はい、陛下。ですが、それは王国を豊かにするための一手でございます。」
「……豊かに、か。王都の金は流れを変えた。だが、余の知らぬところで。」
王は杖を突き、目を細めた。
その視線には、恐れと探り、そして一抹の敬意が混ざっていた。
ライルは膝をつき、静かに答える。
「恐れながら、陛下。国とは“中心”ではなく、“流れ”でございます。
川が枯れれば城も朽ちる。流れを保つ者が、真の統治者です。」
「……貴公がその“流れ”を握る気か?」
「いいえ。流れは人々がつくる。私はただ、道筋を示しただけです。
」
◆
議場の奥から、貴族たちの怒声が上がる。
「詭弁だ!」「黒幕は支配を狙っている!」
ディランが一歩進み、彼らの前に立った。
「黙れ。ライル・グランは、この国を一滴の血も流さず救った。
彼を罪に問うなら、貴様らは何を誇る?」
その声は静かだが、鋼のようだった。
かつての戦場で幾千の命を背負った将の声。
議場は一瞬で静まり返る。
「王よ。」
ディランは王へ向き直った。
「我らヴァーミリオン家は、辺境と王都を繋ぐ“白花の道”を守る。
ライルはその道を創り、私はそれを守る。
もし彼が“黒幕”なら――それは、この国の心臓だ。」
アメリアが静かに続けた。
「陛下。彼は、誰も殺さず、誰も奪わず、ただ“秩序”を作りました。
それを“罪”と呼ぶなら、私は喜んで共犯になります。」
王の眉がわずかに動く。
誰もが言葉を失っていた。
老王はしばし沈黙し、やがて口を開いた。
「……余は、かつて彼の父を知っておる。
“王の影”として仕え、誰にも名を残さず死んだ男だ。」
ざわめき。
アメリアが息を呑む。
ディランの表情にも驚きが浮かぶ。
「父……?」
ライルの声は低く、静かだった。
「そうだ。おぬしの父――ゲイル・グランは、王家直属の参謀だった。
敵国との講和を裏で整え、王都を守った。
だが、その功を知る者はほとんどおらぬ。
余が若き頃、“黒幕”の名を与えたのは、彼だった。」
ライルは目を閉じた。
ずっと誰にも話さなかった秘密が、今、王の口から明かされる。 “黒幕”という名は、呪いであり、継承だったのだ。
「……陛下。父は、王を信じておりましたか?」
「信じておった。だが、王は影を恐れた。
そして余もまた、恐れてきたのだ。
――おぬしのような者を。」
◆
王は玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りた。
老いた手が杖を離れ、ライルの肩に置かれる。
「黒幕よ。余の時代は終わる。
国を導け、影の王として。」
議場がざわめきに揺れた。
だが誰も反論できなかった。
ライルの沈黙が、何よりも強い言葉だった。
「陛下。私は王にはなりません。
この国の未来は、光のもとで語られるべきです。
――私は、その光を“導く風”でありたい。」
王は目を閉じ、わずかに笑った。
「ならば、“風王”と呼ばせよう。」
その瞬間、議場に光が差し込んだ。
雲が割れ、白花の粉が光を受けて舞う。 まるで辺境の春が、王都へ訪れたようだった。
◆
夜。
王都の屋上で、ライルは風を受けて立っていた。
アメリアが隣に寄る。
街の明かりが、まるで星空のように広がっていた。
「……あなた、本当に王にはならないのね」
「王になった時点で、策が止まる。
黒幕とは、常に次の盤を見ていなければならない。」
「その先に、何を見るの?」
「“人の意思”。」
ライルは空を見上げた。
星々は流れ、風が通り抜ける。
アメリアがそっと彼の肩に触れる。
「なら、私はあなたの“白”として残るわ。
黒と白が揃ってこそ、盤は続く。……そうでしょう?」
「そうだ。盤は終わらない。
戦がなくても、策は生きる。」
ライルは微笑んだ。
風が二人の間をすり抜け、夜の王都を吹き抜けていく。 その風が、静かに告げていた。
――この国はもう、かつての王国ではない。
信頼の国。知略の国。
そして、黒幕の国。
第7話・完。
終章 この世界のすべては、掌の上で
季節がひとつ、巡った。
白花の咲く丘は、いま青く穂を揺らしている。
風が通り抜け、麦の波が太陽にきらめいた。
――戦はなかった。
だが、確かに国は変わった。
王は春の初めに崩御した。
葬儀は静かに行われ、喪の鐘は三日間鳴り続けた。 その間も市場は動き、粉庫手形は滞りなく流れた。
王が死んでも、国は止まらない。
それこそが、ライル・グランの築いた“秩序”だった。
◆
グレン村の小さな丘。
新しい製粉所のそばで、ライルは麦の穂を握っていた。
あの日の焼き印は、いまも腰に下げている。
煤は落ち、白布が巻かれている。
――アメリアの婚礼衣装の切れ端だ。
「……結局、俺は何も築いていないのかもしれないな」
呟くと、後ろから声が返った。
「築いたじゃない。見えない形で。」
アメリアだった。
彼女は白い帽子をかぶり、風に髪を遊ばせている。
ヴァーミリオン家の当主となり、王都と辺境をつなぐ“白花同盟
”の代表でもあった。
けれど彼女の笑みは、昔のままだ。
「ねえ、ライル。王都の子どもたち、パンを“白幕パン”って呼ぶのよ」
「皮肉だな。黒幕の策で焼いたパンを、白幕の名で呼ぶとは。」
「いいじゃない。黒と白、両方そろって初めて模様になるんだから。
」
アメリアは草の上に腰を下ろし、空を見上げた。
白い雲が、ゆっくりと流れていく。
あの日、王城で光が差したときと同じ空。
彼女は目を細めて言った。
「あなたの“策”は、まだ終わってないでしょう?」
「策に終わりはない。ただ、人が歩き続ける限り、形を変えるだけだ。」
「じゃあ、次は何を?」
「次は――静かに暮らす。」
アメリアが笑う。「それ、あなたが一番苦手なことね。」「そうかもしれない。」
ライルは掌を開いた。
麦の穂が一本、そこに落ちる。
小さな種が、風に乗って指先を離れた。
「でも、“掌の上”ってのは案外広いんだ。
世界を支配するためじゃない。
守るためなら、これくらいの広さで十分だ。」
アメリアはその手を見つめ、静かに言った。
「ねえ、ライル。あなたの掌の中に、私は入ってる?」
「ずっと前から。」
その答えに、アメリアは微笑み、目を閉じた。
風が頬を撫で、麦の波がざわめく。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
誰も知らないだろう。
この平和が、かつて“黒幕”と呼ばれた一人の男の策によって保たれていることを。
◆
夕暮れ。
製粉所の煙突から、白い煙が細く立ちのぼる。
それは空に溶け、夜へと変わる。
ライルはその煙を見上げながら、ぽつりと呟いた。「父上……あなたの策も、ようやく完成しましたよ。」
風が答えるように吹いた。
煙はほどけ、星がひとつ、光った。
◆
夜、村の灯がひとつ、またひとつ消えていく。
アメリアは窓辺に立ち、ライルが畑を歩くのを見ていた。
彼はいつもと同じように、明日の風向きを確かめ、
土を一握りし、空を仰ぐ。
彼の世界は、広くもなく、狭くもない。
それでも、確かに動いている。
すべては――その掌の上で。
――Fin.



