第一話 婚約破棄の裏側で
 王都の大広間に、氷のような静寂が落ちていた。
 磨き上げられた白亜の床には、絵画のように整列した貴族たち。
 その中心で、俺は微動だにせず、彼女の言葉を待っていた。
「ライル・グラン。あなたとの婚約を破棄します」
 涼やかに響いた声は、王女に次ぐ高貴な存在――
 “悪役令嬢”と呼ばれる侯爵令嬢アメリア・ヴァーミリオンのものだった。
 会場がざわめく。
 だが、俺は少しも驚かない。
 ――ああ、予定通りだ。
 この婚約破棄は、彼女の独断ではない。
 王国上層部が仕掛けた権力争いの一手。
 俺が“邪魔”になったから切り捨てただけの話。
 俺はその流れを、三ヶ月前には完全に読んでいた。
 むしろ、それを「起こさせるように」仕組んでいたのだ。
 なぜなら――追放こそ、俺の解放であり、次の戦略の始まりだったから。
 アメリアの表情は、完璧な勝者の微笑みだった。
 だが、その笑顔の裏にある焦燥と不安を、俺だけが見抜いていた。 彼女は優しい。
 そして、弱い。
 この場で「悪役」を演じなければ、彼女の家が潰されると知っている。
 だからこそ俺は、敢えて敗者の仮面を被る。
「……そうか。ならば、君の望むままに」
 俺は淡々と答え、頭を垂れた。
 嘲笑する貴族たちを横目に、扉を押し開けて去る。
 大広間の外に出た瞬間、胸の内に張りつめていた糸が、静かに緩んだ。
 ――これで、すべてが盤上に乗った。

 追放から七日後。
 俺は辺境の地、グレン村へとたどり着いた。
 王都から遠く離れた、風と土の匂いしかしない田舎だ。
 ここには、情報も権力も届かない。
 だが、だからこそ、再構築にふさわしい。
 村人たちは最初、俺を「ただの流れ者」として見ていた。
 けれど数日も経たないうちに、彼らの目の色は変わる。
 古びた製粉機を修理し、畑の配置を最適化し、
 日照と風の流れを読んで灌漑路を引く。
 たったそれだけで、収穫量は二倍になった。

「ライルさん、あんた頭いいんだなあ!」
「ただの学者かと思えば、鍛冶もできるのか!」
 彼らの笑顔を見るたびに、俺は微笑む。
 ――そう、俺は戦場でも経済でも、盤上を読むのが得意だ。
 王国参謀時代、千を超える戦略を立案した。
 だが、今はただ畑を眺め、焼きたてのパンをかじる。
 この静けさこそ、俺が望んでいた“休戦”だった。
 ……表向きは、な。

 夜。
 灯火の下、机に広げた羊皮紙には、王国地図が描かれている。
 赤い印は商会、青い印は傭兵団、黒い線は街道。
 俺の手で結ばれた新たな流通網が、徐々に王都を迂回して形成されていた。
 辺境で作物を育てる? いや、これは兵糧だ。
 交易を支える? いや、補給線だ。
 村人の笑顔の裏で、俺は戦略を育てている。
 王国の貴族たちが、俺を“失脚した男”と思い込む間に。
 やがてその補給線が国の心臓を締め上げることなど、
 誰ひとり気づくまい。

「……ライル様、手紙が」
 扉の向こうから、村娘のティナが差し出した封筒を受け取る。
 見覚えのある紋章――ヴァーミリオン家の紋だ。
 封を切ると、短い文が目に入った。
『どうか、生きていてください』
 震えるような文字。
 あの“婚約破棄”の裏で泣いていた彼女の顔が、脳裏に浮かぶ。
「……心配はいらない、アメリア」
 俺はそっと灯を消した。
 ――婚約破棄すら、計算済みだ。
 次に王国を支配するのは、王でも貴族でもない。
 盤上の影に潜む、ただの“辺境の男”だ。

 翌朝。
 東の空が淡く染まる頃、俺は村の丘に立っていた。
 吹き抜ける風の先には、まだ見ぬ戦場。
 だが今回は、血ではなく“策”で勝つ。
「さて――今日も畑を耕すか」
 手に取った鍬の刃先に、朝日が反射した。
 その光はまるで、次の戦略の号令のようだった。
第1話完。
(次回「第二話 辺境での新生活」――表と裏の顔が本格的に動き始める)

第二話 辺境での新生活
 日の出より少し早く、村の空に薄い霧がかかる。
 俺は丘から降り、粉にまみれた製粉小屋へ向かった。古い水車は夜のあいだも回り続け、軋んだ音とともにわずかな小麦を挽いている。流量は十分、歯車の噛み合わせも許容範囲。だが出力が伸びない――原因は、水路の落差とシャフト角のロスだ。
「ここを五度だけ切り下げて、羽根板を二枚追加する。軸受けは麻紐じゃなくて、蜜蝋を染み込ませた革で巻け」
 居合わせた村の若い衆が目を丸くした。
「五度だけ……そんな些細な違いで?」
「些細な違いの積み重ねで、戦は決まる」
 俺は笑い、設計用の黒炭を取った。水路の上流に小さな越流堰を入れる図を描く。落差が増えれば、水車はゆっくりでも重たい石臼を回せる。回転速度を求めない代わりに、粘り強いトルクを取る。パン生地のように、じわじわと。
 午前、改修が終わると、臼はぐうん、と低く唸って回りはじめた。
粉塵が陽に舞い、ティナが歓声を上げた。
「すごい……! 昨日の倍は挽けてます!」
「倍が目標じゃない。三日で三倍にする」
「三倍!?」
「今日から粉は“重量”ではなく“ふるい通過率”で取引する。粗挽き・並・上白。袋に刻印を押す。形が整えば、隣村にも卸せる」
 俺は焼き印の原版を取り出した。刻まれているのは風車の意匠―
―ただし羽根の本数と角度が、ある規則で変化する。
 ティナが首を傾げる。「この違い、意味があるのですか?」
「ある。外から見れば等級印だが、内実は“暗号”だ。刻印の組み合わせで誰がいつ粉を運んだか、荷姿、経路、数量、全部が分かる。
街道の検問で記録が奪われても、読み解けるのは俺と……信頼した数人だけだ」
 戦場で学んだことがある。剣より先に、帳面が折れる。だから帳面は散らしておく。刻印、紐の結び目、袋の縫い針目、すべてが符丁になる。
「符丁はパンにも使える。今日から村のパンは三種。日常用の“薄月”、旅人用の“石運び”、祝い用の“白花”。形と切れ目の数で、
配送先と危険度を知らせる。万一、道で盗賊に囲まれても、こちらが先に状況を知れるように」
「パンで……合図?」
「飢えは戦に勝る刃物だ。刃物は見せずに持て」
 ティナは小さく「はい」と返事をし、焼き場へ駆けていった。窯から立ちのぼる香りは、村人の警戒心を溶かす。甘く、温かいものは正義だ。俺にとっても同じ――戦の理論を隠す良い煙幕になる。

 昼。
 川辺の胡桃の木陰で、俺は簡易の机を広げた。板に打った釘の間に糸を張り、村の資材と人手を点と線で可視化する。やがて糸の網は、王都へ延びる街道を避け、大きな弧を描いた。
 弧の先には、三つの点――“塩”“鉄”“蜂蜜”。
 スローライフが豊かに見えるための三種の調味料。戦の裏打ちをする、三種の戦略資源だ。
 塩は保存、鉄は道具、蜂蜜は栄養と薬の媒介。
 どれも王都の商会が握り、辺境には高値でしか回ってこない。だから、迂回する。王都を中心とした“蜘蛛の巣”から逃れるには、もう一枚、上に“鳥の網”を張る必要がある。
 鳥の網――渡り鳥の飛ぶ道筋に倣って、街道ではなく谷と尾根を繋ぐ。見た目の距離は遠回りでも、検問がないぶん、時間も安全も得られる。
「……間に合うか」
 呟いたところへ、荷馬車が砂をあげて近づいた。
 小柄な男が、陽気に笑って飛び降りる。
「おお、噂の“辺境の学者様”だな。ホーク商会のホブだ。塩を“ 重さ”じゃなく“効き目”で売りたいって変わり者。合ってるか?」「効き目で、ね。塩は料理のためだけにあるわけじゃない。傷口、魚の保存、家畜の飼料。用途ごとに純度を変えれば、無駄が減る。
結果、安くできる」
「はは、やっぱり変わり者だ!」
 俺は笑い返し、積み荷に視線を走らせた。袋の縫い目は粗い。つまり再封が容易。商会としては“割り増し”を狙うやり方だ。だがホブの目は笑っていても、手は落ち着きなく袋の口に触れている―
―つまり損する商売を押し付けられている。
「ホブ。袋の口を“下に”して積め。次からは帆布を一枚、荷台に
敷く。袋が滑れば、塩は固まらない。固まらない塩は、量りやすい」
「……おいおい、学者様。商売まで口出すのか」
「口だけじゃない。今日からこの村で“塩の等級印”を導入する。粗塩、晒塩、上白。印は俺が管理する。印の分だけ、次の仕入れで
“鉄釘”を安く卸せ。釘は道を作る」
 ホブは鼻を鳴らし、しばらく考えてから頷いた。
「いいだろう。俺は得をしたいし、損をしたくない。だが“王都の目”は怖い。検問に見つかったら?」
「検問は“同じ日同じ場所に長くいられない”。賄賂が必要だからだ。だから彼らは短気だ。短気な相手には、遠回りをぶつける」 俺は鳥網の地図をくるりと回し、北の谷筋に印を打つ。「三日後、ここで“蜂蜜”を受け取る。支払いは粉、一部は“紙” で渡す」
「紙?」
「粉庫手形――粉の倉の預かり証だ。袋の焼き印と紐の結び目が、裏書きになる。王都の金貨は王の顔が死ねば紙切れだが、腹が減らない限り粉は紙切れにならない」
「……面白ぇ。腹は正直だ」
 俺たちは握手を交わした。
 商人は臆病で強欲で、同時に賢い。それは王国の将軍より信頼できる性質だ。腹の虫は嘘をつけない。

 夕暮れ。
 村の広場で、男たちは釘を打ち、女たちは粉をふるい、子どもたちは蜂を追いかけた。焼き上がった“薄月”が籠に並び、俺は一本一本、切れ目を確認する。
 そこへ、馴染みの顔――老猟師のグラントが背を丸めてやって来た。
「ライル。西の道に“灰色の旗”が立った。徴税官だ。しかも兵を連れている」
 灰色は暫定措置の色。一時徴発、あるいは臨時取り締まり。王都が辺境の動きを嗅ぎつけたか、あるいは――
「“軍を食わせる粉”が王都に回らなくなった」
 俺の独り言に、グラントがうなずく。
「鼻の利く狼は、まず匂いから吠える」
「吠えるなら、こちらは“木霊”で返すだけだ」
 俺は窯の脇に置いていた麻袋を持ち上げた。“石運び”のパンが詰まっている。固く、日持ちするが、芯は柔らかい。盗賊も兵も、空腹なら買う。
「徴税官の幕舎まで歩こう。値段を聞かれたら“王都価格の半分” と言え。兵は驚くだろう。だが“今日の分だけ”だ。明日は倍になる」
「倍?」
「兵の腹は今日を食う。明日のことは考えない。今日、彼らの胃袋を握る。明日、彼らの財布を握る。三日目には“道順”を握る」
 グラントは口の端を上げた。「相変わらず、黒い」
「黒いのはパンの焼き色だけだと信じてくれ」
 俺は冗談めかし、麻袋を肩に担いだ。

 徴税官の幕舎は、広場の外れに立っていた。軍馬の鼻息、槍の穂先、革鎧のこすれる音。
 その中心に、灰色の羽織をまとった男がいる。痩せて、目が細い。
数字を好み、血を避けるタイプ――嫌いではない。
「辺境グレン村の代表者は?」
 俺が半歩、前へ出た。
「ライル・グランです。粉とパンの管理をしています。本日は兵の皆様のために、日持ちする“石運び”を」
 灰衣の男はパンを手に取り、重さを確かめ、匂いを嗅いだ。
 値切る前の儀式。俺は値段を“王都の半値”と告げ、さらに一歩、踏み込む。
「支払いは“銅貨”でも“粉庫手形”でも構いません。軍用については、明日以降、臨時の配送路を整えることができます。検問の負担を軽くします」
 灰衣の男の目が細くなる。俺はさらに畳みかけた。
「ただし、今日の分は“現金”で。明日からは“手形”を。手形は商会で換金できます。証印はこちら――」
 俺は焼き印と紐を取り出した。灰衣の男が紐の結び目を見て、わずかに眉を上げる。
 この結びは“盗難の跡が残りやすい”結び。手癖の悪い兵に嫌われ、手癖の悪い徴税官には好まれる。「君は、王都の商慣習をよくご存じのようだ」
「王都では、魚より帳面が泳ぎますから」
 薄く笑いを交わしたところで、横合いから声が飛んだ。
「待て! その名――ライル・グランと言ったな」
 鎧の胸板に獅子を彫った若い隊長が、声を荒げる。
 こいつは数字ではなく血を好む目だ。俺が最も退屈する種類。
「王都布告に名がある。元参謀、王命に背き、国家機密を持ち出した罪。身柄の拘束、もしくは――」
「もしくは?」
「協力の約定。辺境における兵糧供出と、配送路の提供。対価は…
…“二倍の税免除”」
 幕舎の空気がねじれた。兵の目に、腹と財布の計算が浮かんでいる。
 灰衣の男は沈黙し、若い隊長は肩で息をしている。
 俺は一拍だけ考え、パンの籠から一本を取り出して、半分に割った。ふわりと湯気が上がる。芯の柔らかさが、刃物のように空気を切り裂いた。
「隊長。あなたの部下は、今日を守り、明日も歩く必要がある。腹が空けば、槍は落ちる。道が乱れれば、馬は転ぶ。俺のパンは今日を満たし、俺の道は明日を繋ぐ」
「詭弁だ」
「では数字で。今日の兵糧を王都から運べば、輸送費は銅貨三十、
途中で二割が湿って減耗、残りの一割は盗まれる。こちらからなら、銅貨十五。減耗は一割未満。盗賊には“パン”で買収する」
 灰衣の男が咳払いをし、若い隊長の前に出た。
「……隊長殿。文言通りなら、これは“協力の約定”の範疇に入る。
拘束は“協力を拒めば”の話だ」
「だがこいつは元参謀だぞ。裏がある」
「裏があれば、表が整う」
 灰衣の男――徴税官は俺に向き直り、静かに問う。
「見返りは?」
「三つ。兵の通行は“川沿い”を避けて尾根道を使うこと。検問は “市場のある日”に合わせず、ずらすこと。“粉庫手形”を王都の補給所で“銅貨”と同等に扱うこと」
「最後は重い」
「重いほど、軽くなる。腹は正直だ」 沈黙ののち、徴税官は頷いた。「……明朝、詳細を詰めよう。今夜は兵にパンを配る。代金は“現金”で支払う」
 俺は軽く頭を下げた。若い隊長は不満そうに鼻を鳴らしたが、パンの匂いがそれ以上の言葉を奪った。
 食べ物は、刃を鈍らせる。俺はその切れ味まで計算に入れている。

 夜。
 窯の火が落ち、村に静けさが戻る。
 俺は作業小屋の灯の下、羽根の角度を微調整した焼き印を磨いた。
羽根の本数は“配送の危険度”、角度は“検問の配置”、柄の印は “商会の信用度”。
 暗号は増えるほど脆くなる。単純だが組み合わせが豊富――それが良い暗号だ。
 扉が小さく叩かれた。
「ライル様……お客です」
 ティナが顔を覗かせ、控えめに身を引いた。その背後から、粗末な外套の人物が一人、滑るように入ってくる。
 フードを外した唇が、ひび割れている。だが目は澄んで、まっすぐだった。
「お久しぶりです、ライル様。王都の友より“白花”を」
 “白花”。祝い用の白いパンの名。
 俺は無言で頷き、机の引き出しから同名の符丁が書かれた鍵を出す。
 彼女――王都で働く下女のメイは、布包みを解いた。中からは薄い羊皮紙が四枚。外見は市場の出店許可証、裏は細い細い書き込み。
 王都の“今”が、黒いインクで無駄なく連なっていた。
「王都の食肉商たちが、市場日を“木曜から火曜へ”ずらしました。
検問と狩日が重なり、田舎の搬入が滞っています。……それから」
 メイは一瞬だけ言葉を飲み込み、俺の目を見た。
「アメリア様が、“婚礼衣装”を戻されました」
 手の中の焼き印が、音も立てず重さを変える。
 “戻す”――支払いを断ち、工房との契約を解消した。
 婚約破棄の“演技”に必要だった衣装は、もういらない。庇護の鎧を脱ぐということだ。彼女は“悪役”から降りるつもりはない。むしろ、自分の役目を、本当に引き受けるつもりなのだ。
 俺は視線をメイから羊皮紙へ戻し、さらさらと赤い炭で追記した。
市場日の移動――検問の迂回――兵の胃袋――商会の帳面――そして。
「……鳥の網を、もう一枚張る」
「鳥の、網?」
「渡り鳥は、空だけを飛ばない。ときに川面すれすれ、ときに森の中。彼らを“迎える枝”を増やす。王都の外へ“枝”を出しておく。
衣装工房、染色屋、刺繍師、仕立ての針子。『戻された婚礼衣装』の行き先は、王都の塵箱じゃない。辺境の“白花祭”だ」 メイの目が見開かれる。「辺境に、祭りを?」
「“白花”はここで生まれた言葉だ。祝いのパン。……衣装の白と、
パンの白を結べば、王都の噂がこちらへ流れる。“悪役令嬢は衣装を捨て、辺境に白を贈った”――そう語らせる」
「アメリア様が、こちらに?」
「まだ呼ばない。彼女が“自分で歩いて”来られるように、道を敷くだけだ」
 俺は焼き印を火にかざし、余分な煤を落とした。
 炎の向こうで、メイの表情が揺れる。
「……ライル様」
「何だ」
「王都の布告に、あなたのお名前が載りました。“協力すれば免罪、拒めば反逆”」
「知っている。今日、灰衣の男が持ってきた」
「怖くは、ないのですか」
 俺は少しだけ考え、首を横に振った。
「怖いのは、役割を間違えることだ。王都は“王”という役を演じる。俺は“黒幕”という役を演じる。だが本当の役は、もっと手触りのあるものだ。子が眠り、明日も食えること。畑が実り、兵が馬から落ちないこと。……役ではなく“役立つ”こと」
 メイは、ふっと笑った。
 俺も笑い、羊皮紙を束ねて革紐で括った。紐の結び目は、今日から新しい型だ。
 扉の外で、遠く犬が吠えた。風向きが変わる。
「明朝、塩の“晒”を三袋、鉄釘を百。蜂蜜を小瓶で二十。――鳥の枝は、そこからだ」
 メイが頷き、外套をかぶる。
 そのとき、外から荒々しい叩音。ティナの叫ぶ声。
「ライル様! “王都の封蝋”です! 急ぎの使い!」
 俺は焼き印を火から外し、扉へ歩いた。
 差し出された書簡の封蝋には、見覚えの紋――ヴァーミリオン家。
 だが、その表書きの筆跡は、アメリアではない。固く、軍人の筆。
 封を切ると、短い文が目に飛び込んできた。
『辺境にて“白花祭”を主催せよ。王都の名の下に。
 ――執行役 ディラン・ヴァーミリオン』
 顔を上げると、メイが息を呑んでいた。
 俺は手紙を机に置き、静かに笑う。
「……良い。王都が“表”に名を出した。なら、こちらは“裏”で整えるだけだ」
 白いパンの切れ目が、灯に細く光る。
 戦は、刃でなく、段取りで決まる。
 そして段取りは、毎日の暮らしの中で育つ。
 明日、村は祭りの支度に取り掛かる。塩は晒され、釘は道に降り、蜂蜜は子の舌に触れる。
 兵の胃袋は満ち、検問は空を掴み、噂は風に乗る。
 そして――遠い都で、衣装を返した一人の令嬢が、白を手繰ってこちらへ歩き出す。
 俺は焼き印を握り直し、鋼のように静かな心で、次の一手を思い描いた。
「盤上に、花を咲かせよう」
第2話ここまで。
次回は第3話「密使と密約」

第三話 密使と密約
 白花祭の準備が始まって三日。
 村の丘は白い花粉と粉塵で霞んでいた。
 パンの白、衣装の白、花の白――どれも祝祭の色であり、同時に煙幕でもある。
 白いものほど、裏を隠すには都合がいい。
 今日も俺は、広場の片隅で交易路の地図を眺めていた。
 “粉庫手形”は既に周辺四村へ流通し、王都の銅貨より早く回り始めている。
 手形の裏には印、印の意味は商品ではなく“約束”。
 つまり、この辺境で流れているのは貨幣ではなく――信義そのものだ。

「ライル様、客です。南の橋から来ました」
 ティナが駆けてきた。
 橋? 南は隣国への街道筋。王都が監視するはずのルートだ。
 そこから来る客は、歓迎すべき者でもあり、最も警戒すべき者でもある。
 やがて、褐色の外套を纏った二人組が現れた。
 背には蜂の刺繍。――隣国トリネアの養蜂商、通称〈蜜の商人〉だ。
「辺境の黒幕さんとお見受けします」
「名を知られるとは光栄だな」
 互いに微笑しながら、探るような視線が交差する。 商人の一人――年配の男が、革袋を卓上に置いた。
 甘い香りが立ちのぼる。蜜と薬草の混合物。
「王都で“蜂蜜税”が上がりましてね。逃げ場を探しておりまして」
「ここは逃げ場ではない。始まりの地だ」
 俺は袋を開け、指で少しすくう。
 粘度、香り、結晶化の具合。
 この蜜は高純度。だが混ぜ物がない分、足がつく。
 合法の品を偽装するより、偽装した合法品を流すほうが安全だ。
「税率はいくらだ」
「二割五分」
「なら、一割で仕入れよう」
「……赤字ですよ」
「赤字ではない。蜜を粉と交換しろ。粉庫手形の刻印を“花印”に変える。蜂の印と重なれば、税関の目は蜂蜜を“白花祭の供物”と誤認する。つまり――免税だ」
 男の目が細くなる。もう一人の若者が息を呑んだ。
「供物……王都がそんな詭弁を許すと?」
「許さなくても“見逃す”。供物を取り締まれば信仰を傷つける。
王都の宗務庁は、それを恐れている」 俺は白花の冠を手に取った。 パンに飾る花の一部を乾かして粉に混ぜる。それを“聖粉”と呼ぶ。
 この祭りの本質は、信仰でも収穫でもない。“合法の抜け道”だ。
「……この取引、王都にはどんな顔で?」
「“文化交流”だ。隣国から聖蜜を献上し、代わりに辺境の粉を贈る。書面は俺が書く。王都の執行役ディラン・ヴァーミリオン宛だ」
 蜜商たちは顔を見合わせ、やがて笑った。
「腹の中が真っ黒なお方だ」
「白い粉の国では、黒がよく映える」
 契約は握手一つ。
 彼らが去ると同時に、空気が少し冷えた。
 遠くの街道から、灰色の羽織が風に翻るのが見えた。

 徴税官――グレイが再び村を訪れた。
 彼は馬を降りると、迷いなく俺の前に立つ。
「ライル殿、王都の命を伝える。白花祭は“王都後援”として開催せよ、とのことだ」
「……ほう。王都が後援、とは」
「名目上は祭の保護。実質は“監視”だろうな」
 グレイは淡々と告げた。
「さらに、王都から執行役が派遣される」
「名は?」
「ディラン・ヴァーミリオン」
 俺は微笑んだ。
 アメリアの家の名――予想通り。
 家を守るための監視役であり、同時に“使者”でもある。
 つまり、彼もまた駒の一つ。
「歓迎しよう。彼が来る前に、準備を整える」
「……準備?」
「祭の裏側に、もう一つ“密約”を」

 夜。
 倉庫の奥で、俺とグレイ、そしてホブ商会のホブが卓を囲んでいた。
 三人の前には、三つの印章――粉、塩、蜜。
「三つの印を重ねれば、“白花盟約”だ」
 俺は言いながら、羊皮紙に線を描く。
 ――粉庫手形:商業経路
 ――蜂蜜契約:宗教経路
 ――徴税協定:法的経路
 三者を重ねれば、王都の支配構造を“合法的にすり抜ける”三重構造ができあがる。
「この契約、王都が知れば?」
「知っても破れない。なぜなら、彼らが破ることは“法の自殺”だからだ。徴税官の印がある以上、王都は自らの権威を否定できない」 ホブが唇を歪める。「抜け道どころか、裏街道だな」
「街道は人が通れば正道になる」
 火が灯り、赤い影が地図の上を踊る。
 その瞬間、外から蹄の音が響いた。
 グレイが眉を寄せる。「早いな……」
 扉が開く。
 灰色ではなく、黒い外套。金糸の刺繍。
 王都の紋章が胸で光る。
 男はまっすぐ俺を見た。
「久しいな、ライル」
「――ディラン・ヴァーミリオン」
 元上官、そしてアメリアの兄。
 かつての戦友が、今は監視役として立っている。
「祭を開くとは聞いた。王都の承認なしに“盟約”を結んだそうだな」
「承認は得た。貴族の印もある」
「徴税官と商人の印で、王都を出し抜けると思うな」
 彼の声には苛立ちよりも焦りがあった。
 アメリアの名を出せない――それが彼の弱点。
 彼女の“婚約破棄”が芝居だと知っているのは、家の者だけだからだ。
「ディラン。俺はただ、この辺境を守りたいだけだ」
「ならば王都に戻れ。お前の知略はまだ必要だ」「王都の戦場は血で塗れる。俺の戦場はパンで塗る」
 短い沈黙。
 彼は机上の“白花盟約”を見つめ、息を吐いた。
「……この紙、正式な通達として預かる。王都は内容を精査する」
「その代わり、一つ頼みがある」
「なんだ」
「アメリアを守れ。たとえ俺が敵になっても」
 ディランの目がわずかに揺れた。
 だが何も言わず、紙を持って出ていく。
 扉が閉まる。
 残された空気に、火が小さく爆ぜた。

「ライル様……これで本当に、勝てるのですか」
 ティナの問いに、俺は微笑んだ。
「勝つ? 違うさ。勝敗はとっくに終わっている」
「え?」
「王都が“白花祭”を後援すると宣言した時点で、もうこちらの勝ちだ。
 あの名の下で何を流そうと、誰も咎められない」
 白花の冠が夜風に揺れる。
 蜜の香りが漂い、遠くで笛が鳴る。
 その旋律は、まるで新しい国歌のようだった。「盤上の花は、もう咲いた。次は――実を結ばせる番だ」
第3話・完。

第四話 追放された悪役令嬢
 ――王都、ヴァーミリオン邸・西棟。
 朝の冷気は大理石の床を這い、鏡の中の自分を薄く震わせた。
 アメリア・ヴァーミリオンは、鏡台の引き出しから白い手袋をひとつ取り出す。指先に残る絹の冷たさは、あの日の舞踏会と同じ。 婚約破棄を宣言した夜、彼女は生まれて初めて嘘をついた。家を守るために。兄を、領民を、そして――彼を守るために。
「お嬢様、馬車の準備が整いました」
 侍女頭が低く告げる。
 アメリアは頷き、身を翻した。クローゼットの奥、白の婚礼衣装はすでにここにはない。昨日、工房へ戻した。
 戻した先は王都ではない。“辺境”だ。
(白花祭――)
 それは王都の噂だった。辺境グレン村で、白いパンを掲げる祭が行われる。王都の宗務庁は関知せず、だが徴税局は“後援”を表明。貴族の婦人たちは「田舎くさい」と笑ったが、商会は笑わなかった。
動く者たちがいる。動かしている者がいる。
(あなた、でしょう? ライル)
 胸の奥で、彼の名が微かに灯る。
 アメリアは唇を固く結び、馬車へ乗り込んだ。

 王都から北西へ三日の道程。
 四日目の朝、霧の切れ目に“白”が浮かび上がった。
 広場いっぱいに、白いものが揺れている。
 薄い花弁を乾かした飾り、白布を張った屋台、白い粉で真っ白に焼かれた小さな冠のようなパン。
 そして、人の笑顔。
 アメリアはその光景を目にした途端、呼吸を忘れた。
「……きれい」
 侍女のメイが隣で目を細める。「お嬢様、足元を」
 石畳ではない。ならされた土の道。だが泥はない。砂利の選別、排水の溝、臨時の板――誰かが“段取り”を敷いた跡。
 屋台の端で、パンを受け取る兵の姿もある。彼らの槍は穂先を布で包み、子どもがぶつかっても怪我をしないように工夫されていた。
(兵も、祭の“客”にする……)
 アメリアは心の中で呟く。
 ――彼のやり口だ。戦を避け、腹と段取りで勝つ。
 彼女は肩越しに侍女へ囁いた。「メイ、案内を。あなたの“友人
”に」
 メイが小さく笑い、雑踏の中へと進む。
 白い切れ目の入ったパンが渡される。切れ目の数は四つ――メイが視線で示す。“四”は「安全」。 彼女たちは人波を抜け、粉の香り漂う小屋の前で足を止めた。
「お嬢様」
 メイが扉を叩く。
 返事はすぐにあった。穏やかで、よく通る低い声。
「入りなさい」
 扉が開く。
 木と鉄の匂い。窓から差す光に、粉の白が舞う。
 その奥に、彼がいた。
 粗末なエプロン、袖は肘まで捲られ、指には焼き印の煤。
 王都の参謀ではない。辺境の職人。だが、目は変わらない。盤上を読む鋭さは、その瞳の奥にそのまま在る。
「――アメリア」
 ライル・グランは名を呼び、そして一拍置いて微笑んだ。
 彼はいつも、答えを急がない。相手が自分の言葉に追いつくまで待つ。
 アメリアの胸に、あの夜の記憶が刺す。婚約破棄を言い渡した時、彼はほんのわずかに、同じ間を置いてから笑った。
 それは、許しの間だった。
「ご機嫌よう、ライル。……お祭り、見事ね」
「白は汚れが目立つ。だからこそ、人は美しくしようとする」 彼の言葉に、アメリアも笑った。 そして、笑顔を畳み、姿勢を正す。
「私は監視役よ。王都の“後援”の名の下に、祭に不正がないかを見るための。……けれど私は同時に、客でもあるわ」
「客ならば、パンを」
 ライルは籠から“白花”を一つ取り、ナイフで切り分けた。切れ目は二つ――“注意”。
 侍女のメイが微かに眉を動かす。アメリアは気づかないふりをしてパンを受け取った。
「甘いわね。蜂蜜?」
「聖蜜だ。向こうの谷から。……税は払っている」
「“表向きは”、でしょう?」
「君は相変わらず鋭い」
 言葉遊びの仮面に隠れるように、二人は視線を交わした。
 言えない言葉がある。二人にしか通じない符丁がある。
 だからこそ、仮面が必要だった。

「それで、王都は何を望む?」
 ライルは率直に問う。
 アメリアは眉を下げ、仕立て直した白い外套を指先で摘んだ。「“秩序”よ。王都は秩序を求める。徴税も商売も信仰も、王都の枠の中で回り続ける秩序を。……でもここは、枠の外にある」
「枠の外に“道”を敷くのが、軍師の仕事だ」
「ええ、そうね」
 アメリアはふと口元を緩めた。「あなたの“スローライフ”は、相変わらず静かで忙しいのね」
「静かに忙しいのが好きでね」
「私も」
 二人の間に、ひとしずくの温度が落ちた。
 それはたぶん、恋と呼ばれるものの予感ではない。
 もっと具体的で、もっと脆く、もっと強い。
 ――互いの“役”を守るための共犯関係の温度。
 そこへ、外が騒がしくなる。
 笛の音が一度途切れ、代わりに怒号が割り込んだ。
 ティナが駆け込む。「ライル様! “灰色旗”が――!」
「徴税の臨検だ」
 ライルは短く言い、焼き印と帳面を掴んで立ち上がる。
 アメリアも続いた。外に出ると、広場の中央に灰色の旗が立ち、兵が列を作っている。
 先頭に、鋭い目の若い隊長――先日、ライルに噛みついた男。
 彼の横に、あの灰衣の徴税官グレイ。 さらに、その後ろに黒外套の影。金糸の刺繍。
「ディラン……」
 アメリアの喉が、ほとんど音にならない声を漏らす。
 兄は彼女を見ない。視線はまっすぐ、祭の屋台へ向けられている。
「白花祭の出店に対し、臨時検査を行う。蜂蜜、粉、塩、いずれも王都の規格に照らして調べる。……異議は?」
 沈黙。ざわめき。
 ライルは一歩前に出る。「異議はない。ただし、検査は“食前” に。祭の祈りが終わる前に手を触れれば、冒涜になる」
 若い隊長が鼻で笑う。「詭弁だ」
 グレイが低く言う。「王都布告にも“祭礼の場を乱すことなきよう”の条あり。詭弁ではない」
 隊長が舌打ちし、ディランが右手を上げて制した。
「祈りの刻まで三十刻ある。その間に“帳面の確認”を行う」
「帳面なら、こちらに」
 ライルが差し出したのは帳面――ではない。
 焼き印、紐、袋の縫い目、パンの切れ目。
 それらの“現物”で構成された、動く帳面だ。
 ディランが眉をわずかに上げる。「紙は?」
「紙は燃える。食える帳面のほうが、飢えには役立つ」
 アメリアは思わず微笑みかけ、すぐに表情を正す。
 グレイが一つ一つ手に取り、頷きを積み重ねていく。 若い隊長は苛立ち、ついに声を荒げた。
「偽装だ! 印も紐も好きに作れる!」
 ライルは穏やかに首を振った。「印も紐も真似できる。だが“信用”は真似できない。――これが粉庫手形だ」
 彼は籠の底から、薄い木札を取り出した。
 木札には焼き印、紐の結び、そして微細な“蜂蜜の結晶”が埋め込まれている。
 結晶は温度で形を変え、指の温もりで痕跡が残る。
 偽造しようとすれば、触れた痕でわかる。
「……くだらん手品だ」
 隊長が吐き捨てた時、群衆の向こうで甲高い悲鳴が上がった。
 屋台の一つが傾ぎ、樽が転がる。蜂蜜が地面にこぼれ、子どもが足を取られて尻もちをついた。
 兵が慌てて駆け寄り、誰かが「盗賊だ!」と叫ぶ。
 たしかに、外套の男が混乱に紛れて袋を攫っていた。
 隊長が槍を構え、突進する。
 その刃先が、転んだ子どもの背に向かう――。
「やめて!」
 アメリアは思わず叫び、身を投げた。
 白い外套が風に広がり、彼女は子どもを抱き起こす。
 槍の穂先が外套の裾を裂き、布が白い羽のように散った。
 瞬間、別の音が割り込む。
 短い笛の三連――“鳥の網”の合図。 屋台の裏、窯の陰、粉倉の脇。
 あらゆる場所から、村の男たちが無言で動き出した。
 逃げる外套の男の前に網が落ち、足が絡まる。
 別の方向からは、蜂の箱が開けられ、煙が流される。蜂は煙に従い、ゆっくりと外套の男の周りを回る。
 誰も刺さない。刺されないように、蜂の“帰巣”の煙が選ばれている。
 若い隊長が目を剥く。「な――」
「ここは“祭”だ。血を流さず、腹を満たし、段取りで片を付ける」
 ライルの声は低く、よく通る。
 彼は外套の男に近づくと、網をゆっくり外し、手に“石運び”のパンを握らせた。「食え」
 男はおそるおそるかじり、涙をこぼした。
 兵の何人かが、槍を下げる。
 グレイだけが、黙って頷いた。
 ディランはしばらく沈黙し、やがて言った。
「……臨検は“祈りの後”にする。混乱の責は、王都が取る」
 若い隊長が抗議しかける。
 ディランは初めてアメリアを見た。
 妹の外套が裂けているのを見て、ほんの少しだけ目が揺れた。
「……アメリア。怪我は?」
「ないわ」
 彼女は立ち上がり、土のついた手袋を脱いだ。
 手袋の下の指先には、絹ではない固さが残っている。
 ――この指で、彼女は“悪役”を演じてきた。
 だが今、その役を少しだけ置いた。
「ディラン兄様。王都は“秩序”を求めるのよね。ならば見て。ここにある秩序を」
 彼女は周囲を示した。
 白いパン、蜂の箱、子ども、兵、商人、徴税官。
 誰も血を流さず、誰も空腹のままではない。
 そして、その中心に立つ男。
「……秩序だと?」
 若い隊長が唾を吐くように呟く。
 アメリアは凛とした声で答えた。
「ええ。“段取りで人が助かる秩序”。王都にないものよ」
 沈黙を切ったのは、笛だった。祈りの刻を告げる柔らかな音。
 人々は静かに手を合わせ、白いパンを掲げる。
 ライルも帽子を取り、短く目を伏せた。
 アメリアは隣に並び、同じように目を閉じた。
 祈りは短い。だが、確かな重みがあった。

 祈りの後、臨検は淡々と行われた。
 帳面は“食える”形で検められ、焼き印と紐はひとつずつ意味を照らされ、蜂蜜は“供物”として扱われた。
 グレイは最後に判を押し、静かに宣言した。
「白花祭――王都“後援”のもと、適正」
 広場から安堵の吐息が上がる。
 若い隊長は納得いかぬ顔のままだったが、ディランは彼の袖を引いた。
 彼は歩み寄り、低く言う。
「ライル。――お前は“黒幕”の名を自分に与えた。だが今見たのは、“白幕”だ」
「幕は色で役を変える」
「ならば、幕の裏は?」
「裏には、畑がある」
 ディランの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。それは少年の頃、アメリアだけが知っている顔だった。
 彼は振り返り、妹を一瞥する。
 その目に「しばらくは任せる」という言葉が宿り、同時に「常に見ている」という警告が重なっている。
 兄は王都へ戻る。だが、糸は切らない。
 黒外套が遠ざかり、灰色の旗が降ろされる。
 夕陽が白い粉を淡く染めた。

 夜。
 窯の火が落ちる頃、アメリアはライルの作業小屋を訪れた。
 彼は焼き印を磨いていた。羽根の角度が少し変わっている。
 あの日と同じだ。彼はいつでも“次”の角度を考えている。
「ありがとう。……あの子を、助けてくれて」
「君が先だ。俺は笛を吹いただけだ」
「笛を吹く人を、人は“指揮者”って呼ぶのよ」
 アメリアは笑い、そして真顔になる。
「ライル。私は王都の人間。監視役でもある。だから問うわ。―― あなたは、この祭で何を“運ぶ”の?」
 ライルは少しだけ考え、真っ直ぐに答えた。
「明日を」
 その言葉は、驚くほど軽く、重かった。
 アメリアは目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
「……なら、私も運ぶわ。役を、枠の外へ」
 彼女は懐から小さな包みを取り出す。
 白い刺繍の端布。婚礼衣装から切り取った縁だ。 ライルはそれを受け取り、焼き印の柄に巻きつけた。
 白が黒に絡み、静かに色を変える。
「白幕に、黒の縫い目。――悪くない」
「ええ。悪くないわ」
 窓の外で、白花祭の灯がまたたく。
 人の声、笑い、笛。
 アメリアは小さく祈り、ライルは次の段取りを頭の中で並べ直した。
 盤上に、白い道が一本増える。
 王都と辺境、監視と救済、悪役と黒幕。
 そのすべてを結ぶ道だ。
「さあ、明日も忙しくなる」
「静かに、ね」
 二人は同時に笑い、そしてそれぞれの役へ戻った。
 白い夜は深まり、黒い影は薄くなる。
 それはたぶん、正しい順序だった。
第4話・了。

第五話 盤上の駒たち
 祭が終わって三日。
 白い粉は雨に洗われ、村はいつもの色を取り戻していた。
 だが、静けさの下では金と情報が渦を巻いている。
 王都から届く便りの速さが倍になった。
 噂は風より早く、法令より重い。

「ライル様、王都の“書き手”から伝言です!」
 ティナが駆け込んできた。
 紙束には墨の香りがまだ残っている。
 俺は封を切り、一瞥した。
 書き出しの一行で、すべてを理解した。
『白花祭にて“白幕軍師”現る――貴族たち動揺』
 笑いを噛み殺す。
 噂は武器になる。誰が仕掛けたかは明白だ。
 王都の“書き手”――つまり記録屋が記事を流すには、王家の黙認が要る。
 ディランだ。王都の“監視”を、俺の“宣伝”に変えた。
(棋士の一手を、兵に見せて士気を上げる……さすがだな、ディラン)
 俺は紙を折り、焚火に放り込んだ。
 噂を燃やすのもまた、盤上の手筋のひとつ。
「ティナ。ホブを呼べ。次に動く駒を決める」

 夕刻、ホブ商会の商人がやってきた。
 油の染みた帳面と笑い皺を持ち込んで。
「“白花の粉”が王都で跳ねたぞ。倍値だ。だが面倒も増えた。貴族連中が“裏取り引き”を仕掛けてきやがる」
「誰が先頭に立ってる?」
「エリオット侯。お前を追放した連中の一人さ」
 俺は短く頷き、机に広げた地図の一点を指した。
 王都の外れ、倉庫街。そこに小さな印を記す。
「彼の倉庫、警備は?」
「緩い。税の抜け道を使ってるらしい。兵に賄賂を渡してる」
「なら、兵を“飢え”させろ」
「は?」
「倉庫の粉を一晩“風に晒す”だけでいい。湿気れば量は減り、値も下がる。腹を減らした兵は、明日パンを求めにくる。――そのパンを売るのは我々だ」
 ホブが破顔した。「お前、やっぱり悪魔みてぇだな!」
「黒幕という名は、伊達ではない」

 夜。
 帳面の灯を落とし、外に出る。
 畑の端、白花の残骸が風に舞っている。
 遠くから、蹄の音。
 灰衣の徴税官グレイが馬を引いて現れた。
「ライル殿、王都から新布告だ。“粉庫手形”の流通が“貨幣行為
”と見なされれば違法になる可能性がある」
「つまり、合法であるうちは合法だな」
「……言葉の綾で逃げ切れると思うか?」
「言葉の綾で結んだのは、王都自身だ。
 祭を後援し、徴税官の印を押した時点で、布告は自縄自縛になっている」
 グレイは小さく笑った。
 「やはり、あなたは参謀だ。だが……王都にはもう一つの手がある」
「もう一つ?」「“婚約破棄の真相”を探る委員会が立ち上がった。あなたの名が再び議事録に載る」
 風が、冷たくなった。
 婚約破棄――あの日の舞台が、また呼び戻されようとしている。
 アメリアを責める形で。
「……ディランの仕業か?」
「おそらくは違う。彼は止められなかったのだろう。王都には、まだ“古い駒”が残っている」
「なるほど。なら、盤をもう一段広げよう」
「どうするつもりだ?」
「アメリアを盤上に戻す。王都が駒を動かすなら、こちらも“王” を置く」

 翌日。
 俺はアメリアを呼んだ。
 白花祭の余韻がまだ残る作業小屋で、彼女は白い外套を畳んでいた。
 その動作は丁寧で、まるで祈りのようだ。
「王都が動いた」
「ええ、聞いたわ。……“真相”の名を借りた粛清でしょう?」「そうだ。君を“嘘の悪役”ではなく“本物の罪人”に仕立てるつもりだ」
 アメリアは唇を噛んだ。
 だが、その瞳は揺れなかった。
「なら、嘘を上書きすればいい。本物の“婚約破棄”を演じ直すの。
 今度は――“悪役令嬢”ではなく、“裏切られた聖女”として」
「……それは危険だ。君が矢面に立つ」
「私には、役しか残っていないもの。あなたが“黒幕”を演じるなら、私は“白幕”になる」
 彼女は微笑んだ。
 白と黒、盤上の両極が並び立つ瞬間。
 俺は短く息を吸い、頷いた。
「よかろう。――だが、その舞台は王都ではない。“交易会”だ。
 白花祭を拡張し、王都の商人と貴族を呼ぶ。
 表向きは“新粉の展示”、裏では“信用の取引”。」
「裏舞台、ね。……あなたの得意分野だわ」
 アメリアの声は、どこか誇らしげだった。

 三日後。
 王都に“白花交易会”の告知が流れた。
 後援――ヴァーミリオン侯家、グレン村。
 主催――“黒幕軍師”ライル・グラン。
 人々は笑い、貴族は眉をひそめ、商会は走った。
 盤上に散らばる駒が、いっせいに動き出す。
 それは、戦でも革命でもない。
 “信用”という見えない兵を使った、知略の戦いだ。
 俺は窓辺で、白花の花弁を指で潰した。
 粉が風に乗って舞い上がる。
 その粒は、誰の手にも掴めない。
 だが確かに、世界を少しずつ覆っていく。
(――次の手は、王都のど真ん中で打つ)
第5話・完。
次回 第6話「辺境連合、蜂起す」

第六話 辺境連合、蜂起す
 白花交易会の朝、王都は異様に静かだった。
 市場の鐘が三度鳴る。その音に、何千という商人が一斉に帳面を開く。
 粉庫手形の交換が始まった。
 紙ではない木札。焼き印、紐、蜂蜜結晶。
 どれも見慣れぬ通貨。だが、どの商人も受け取る。
 ――それは“王都の銅貨”より早く回る。
 信用は形ではなく、速さだ。
 動くものが価値を生む。

 王都中央市場・管理局。
「陛下、交易の帳簿が合いません。粉の取引高が三倍、王都銅貨の使用率が半減しております!」
「粉? 粉など辺境の雑貨だろう!」
 大臣たちは怒鳴り合う。
 しかし帳簿の数字は嘘をつかない。
 “粉庫手形”が、実質的に貨幣として機能している。
 王国の金流が、知らぬ間にライルの“道”を通っていた。
 しかも、その徴税印には――王都の徴税官グレイの署名。 王は顔をしかめた。「反逆ではないのか?」
「いいえ、陛下。形式上は合法です。“王都後援”と印されています」
「後援……? 誰がそんな――」
 文官が紙を掲げる。
 そこには、金糸の署名。
 ――ディラン・ヴァーミリオン。
 王の声が、低く震えた。
「ヴァーミリオン家……またか」

 その頃、グレン村。
 広場の端で、ライルは静かにパンを焼いていた。
 粉の香りが風に乗り、村人たちの声が遠くで響く。
 王都の混乱は、まだここには届かない。
 だが、届かないことこそ、届いている証拠だ。
「……始まったか」
 炉の火を見つめながら呟く。
 アメリアが背後から近づく。
 白い外套をまとい、穏やかに微笑んでいた。
 だがその指先は震えている。
「王都で“粉暴落”の報が。……貴族たちが取り付けを始めたわ」「恐慌は計算のうちだ。信用を崩せば、再構築ができる」
「でも、それでは人が……」
「――だからこそ、俺がいる」
 ライルは振り返らずに言った。
 炎の色がその横顔を照らす。 冷徹でも、どこか優しい光。
 アメリアは息を詰めた。
 王都を混乱に落としながら、その中心に“秩序”を見据える目。
 彼は破壊者ではなく、再建者なのだ。
「君が“悪役令嬢”を演じたように、俺は“反逆者”を演じる。―
―だが、真実は逆だ」

 王都・評議の間。
 ディランは議員たちの怒声を受け流していた。
 机の上には粉庫手形の束。
 彼は一本を取り、蝋燭の火にかざす。
 結晶が光り、燃えずに残る。
 まるで、信用が燃え尽きない証のように。
「この構造は……天才だな」
 隣の参謀が唸る。
「法の内側に作られた“別の国”。徴税も軍も経済も、王都に属しながら王都を凌駕している」
「つまり――辺境連合か」
 誰かが呟いた。
 その名が会議室を満たした瞬間、沈黙が落ちる。
 “辺境連合”。
 王国の外で、王国を支える者たち。 反逆ではない。だが従属でもない。
 ディランは書簡を取り出した。
 封にはライルの印――風車の羽根。
『これは剣ではなく、耕具である。
 この地を耕す者こそ、真の王。』
 短い文。だが、その意図は明確だった。
 ――王都を攻める気はない。
 王都を「養う」つもりなのだ。
 ディランは深く息を吐き、立ち上がる。
「陛下。辺境を敵に回せば、国は干上がります。彼らの通貨を“王国補助貨幣”として認めるべきです」
「何を言う! それは屈服だ!」
「いいえ、共存です。
 この国は今、戦ではなく“信頼”で立っている。
 ――信頼を奪う者こそ、本当の反逆者です」
 王は沈黙し、重い玉座の肘掛けに手を置いた。
 彼は老いている。
 老いは恐怖を育てる。
 恐怖は、決断を遅らせる。
 そして遅れた決断は、すでに敗北だ。

 翌日。
 グレン村に早馬が駆け込んだ。
 封蝋には王都の印。
 ティナが震える手でそれを差し出す。
 ライルは開き、一読して目を細めた。
『王国は辺境粉庫手形を“補助貨幣”として承認す。
 ――ただし発行管理をヴァーミリオン家に委任。』
 アメリアの手が震えた。「……つまり、王都は降伏を認めたの?」
「名目上はそうだ。だが実際には、“共存”の名を借りた再編だ。 この国はもう、一つの王国ではない。二つの信用で成り立つ双子国家になった」
「ライル……あなた、まさか……」
「これが最初の一手だ。王を倒すには、血ではなく“信頼”を奪うこと。
 そして、信頼を奪われた王は、次に“与える者”に従う」
 アメリアは沈黙した。
 ライルの掌の上で、国が形を変えていく。
 その知略の深さに、恐れと尊敬が入り混じる。「でも……あなたは王になりたいの?」
「王にはならない。
 王は“名”を奪い、黒幕は“影”を守る。
 影は光を必要としない。光を導くのが、俺の仕事だ」
 彼は微笑み、アメリアの外套の裾を直した。
 白い布に、指先が触れる。
「君が“表”を歩け。俺は“裏”で支える。
 それが、盤上の約束だ」
 アメリアはその言葉に、ゆっくりと頷いた。

 その夜。
 村の空には無数の白花灯が舞っていた。
 誰も戦わず、誰も倒れず、ひとつの革命が終わろうとしている。
 だがライルは知っていた。
 終わりは次の始まりだ。
 火の粉が舞い上がる。
 遠く王都の方角から、笛の音が聞こえた。
 風が変わる。
 国が変わる。
 ライルはそっと呟いた。
「これで“辺境連合”は芽吹いた。
 次は――王国の心臓に根を張る番だ」
 その声は、夜風に溶けて消えた。
 だが翌朝、王都の市場にはひとつの噂が立つ。
 “黒幕軍師が王国を救った”と。
 そして同時に、
 “黒幕が王国を支配した”とも。
 真実は、どちらでもいい。
 それを決めるのは――次の一手だ。
第6話・完。
次回、第7話「黒幕の正体」――

第七話 黒幕の正体
 王都へ戻る馬車の車輪が、石畳を低く鳴らしていた。
 空は灰色、雲は重い。
 それでもライルの眼差しには、迷いがなかった。
 呼び出し状の封蝋には、王国紋章。
 ――ついに、「黒幕」を表に引きずり出す時が来た。

 王城・謁見の間。
 王座の前に、ライル、アメリア、ディラン、そして幾人もの貴族たちが並んでいた。
 議場を囲む観衆の中には、商会長や宗務庁の長官までいる。
 それぞれが自らの利を求め、だが誰もが一人の男を見ていた。
 ――黒幕軍師、ライル・グラン。
「貴公を、ここに召す。」
 老王の声が響いた。
 「辺境連合の設立、粉庫手形の流通、交易会の拡大。すべて、おぬしの采配によるものだな?」
「はい、陛下。ですが、それは王国を豊かにするための一手でございます。」
「……豊かに、か。王都の金は流れを変えた。だが、余の知らぬところで。」
 王は杖を突き、目を細めた。
 その視線には、恐れと探り、そして一抹の敬意が混ざっていた。
 ライルは膝をつき、静かに答える。
「恐れながら、陛下。国とは“中心”ではなく、“流れ”でございます。
 川が枯れれば城も朽ちる。流れを保つ者が、真の統治者です。」
「……貴公がその“流れ”を握る気か?」
「いいえ。流れは人々がつくる。私はただ、道筋を示しただけです。


 議場の奥から、貴族たちの怒声が上がる。
 「詭弁だ!」「黒幕は支配を狙っている!」
 ディランが一歩進み、彼らの前に立った。
「黙れ。ライル・グランは、この国を一滴の血も流さず救った。
 彼を罪に問うなら、貴様らは何を誇る?」
 その声は静かだが、鋼のようだった。
 かつての戦場で幾千の命を背負った将の声。
 議場は一瞬で静まり返る。
「王よ。」
 ディランは王へ向き直った。
 「我らヴァーミリオン家は、辺境と王都を繋ぐ“白花の道”を守る。
 ライルはその道を創り、私はそれを守る。
 もし彼が“黒幕”なら――それは、この国の心臓だ。」
 アメリアが静かに続けた。
 「陛下。彼は、誰も殺さず、誰も奪わず、ただ“秩序”を作りました。
 それを“罪”と呼ぶなら、私は喜んで共犯になります。」
 王の眉がわずかに動く。
 誰もが言葉を失っていた。
 老王はしばし沈黙し、やがて口を開いた。
「……余は、かつて彼の父を知っておる。
 “王の影”として仕え、誰にも名を残さず死んだ男だ。」
 ざわめき。
 アメリアが息を呑む。
 ディランの表情にも驚きが浮かぶ。
「父……?」
 ライルの声は低く、静かだった。
「そうだ。おぬしの父――ゲイル・グランは、王家直属の参謀だった。
 敵国との講和を裏で整え、王都を守った。
 だが、その功を知る者はほとんどおらぬ。
 余が若き頃、“黒幕”の名を与えたのは、彼だった。」
 ライルは目を閉じた。
 ずっと誰にも話さなかった秘密が、今、王の口から明かされる。 “黒幕”という名は、呪いであり、継承だったのだ。
「……陛下。父は、王を信じておりましたか?」
「信じておった。だが、王は影を恐れた。
 そして余もまた、恐れてきたのだ。
 ――おぬしのような者を。」

 王は玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りた。
 老いた手が杖を離れ、ライルの肩に置かれる。
「黒幕よ。余の時代は終わる。
 国を導け、影の王として。」
 議場がざわめきに揺れた。
 だが誰も反論できなかった。
 ライルの沈黙が、何よりも強い言葉だった。
「陛下。私は王にはなりません。
 この国の未来は、光のもとで語られるべきです。
 ――私は、その光を“導く風”でありたい。」
 王は目を閉じ、わずかに笑った。
「ならば、“風王”と呼ばせよう。」
 その瞬間、議場に光が差し込んだ。
 雲が割れ、白花の粉が光を受けて舞う。 まるで辺境の春が、王都へ訪れたようだった。

 夜。
 王都の屋上で、ライルは風を受けて立っていた。
 アメリアが隣に寄る。
 街の明かりが、まるで星空のように広がっていた。
「……あなた、本当に王にはならないのね」
「王になった時点で、策が止まる。
 黒幕とは、常に次の盤を見ていなければならない。」
「その先に、何を見るの?」
「“人の意思”。」
 ライルは空を見上げた。
 星々は流れ、風が通り抜ける。
 アメリアがそっと彼の肩に触れる。
「なら、私はあなたの“白”として残るわ。
 黒と白が揃ってこそ、盤は続く。……そうでしょう?」
「そうだ。盤は終わらない。
 戦がなくても、策は生きる。」
 ライルは微笑んだ。
 風が二人の間をすり抜け、夜の王都を吹き抜けていく。 その風が、静かに告げていた。
 ――この国はもう、かつての王国ではない。
 信頼の国。知略の国。
 そして、黒幕の国。
第7話・完。

終章 この世界のすべては、掌の上で
 季節がひとつ、巡った。
 白花の咲く丘は、いま青く穂を揺らしている。
 風が通り抜け、麦の波が太陽にきらめいた。
 ――戦はなかった。
 だが、確かに国は変わった。
 王は春の初めに崩御した。
 葬儀は静かに行われ、喪の鐘は三日間鳴り続けた。 その間も市場は動き、粉庫手形は滞りなく流れた。
 王が死んでも、国は止まらない。
 それこそが、ライル・グランの築いた“秩序”だった。

 グレン村の小さな丘。
 新しい製粉所のそばで、ライルは麦の穂を握っていた。
 あの日の焼き印は、いまも腰に下げている。
 煤は落ち、白布が巻かれている。
 ――アメリアの婚礼衣装の切れ端だ。
「……結局、俺は何も築いていないのかもしれないな」
 呟くと、後ろから声が返った。
「築いたじゃない。見えない形で。」
 アメリアだった。
 彼女は白い帽子をかぶり、風に髪を遊ばせている。
 ヴァーミリオン家の当主となり、王都と辺境をつなぐ“白花同盟
”の代表でもあった。
 けれど彼女の笑みは、昔のままだ。
「ねえ、ライル。王都の子どもたち、パンを“白幕パン”って呼ぶのよ」
「皮肉だな。黒幕の策で焼いたパンを、白幕の名で呼ぶとは。」
「いいじゃない。黒と白、両方そろって初めて模様になるんだから。

 アメリアは草の上に腰を下ろし、空を見上げた。
 白い雲が、ゆっくりと流れていく。
 あの日、王城で光が差したときと同じ空。
 彼女は目を細めて言った。
「あなたの“策”は、まだ終わってないでしょう?」
「策に終わりはない。ただ、人が歩き続ける限り、形を変えるだけだ。」
「じゃあ、次は何を?」
「次は――静かに暮らす。」
 アメリアが笑う。「それ、あなたが一番苦手なことね。」「そうかもしれない。」
 ライルは掌を開いた。
 麦の穂が一本、そこに落ちる。
 小さな種が、風に乗って指先を離れた。
「でも、“掌の上”ってのは案外広いんだ。
 世界を支配するためじゃない。
 守るためなら、これくらいの広さで十分だ。」
 アメリアはその手を見つめ、静かに言った。
「ねえ、ライル。あなたの掌の中に、私は入ってる?」
「ずっと前から。」
 その答えに、アメリアは微笑み、目を閉じた。
 風が頬を撫で、麦の波がざわめく。
 遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
 誰も知らないだろう。
 この平和が、かつて“黒幕”と呼ばれた一人の男の策によって保たれていることを。

 夕暮れ。
 製粉所の煙突から、白い煙が細く立ちのぼる。
 それは空に溶け、夜へと変わる。
 ライルはその煙を見上げながら、ぽつりと呟いた。「父上……あなたの策も、ようやく完成しましたよ。」
 風が答えるように吹いた。
 煙はほどけ、星がひとつ、光った。

 夜、村の灯がひとつ、またひとつ消えていく。
 アメリアは窓辺に立ち、ライルが畑を歩くのを見ていた。
 彼はいつもと同じように、明日の風向きを確かめ、
 土を一握りし、空を仰ぐ。
 彼の世界は、広くもなく、狭くもない。
 それでも、確かに動いている。
 すべては――その掌の上で。
――Fin.