ひとつだけ、忘れられない冬がある。



 東京の雪は、いつも中途半端だと思っていた。



空から降ってくるその白は、地に着いた瞬間、すぐに汚れて、融けて、消える。



ただ冷たいだけの雨よりもたちが悪い。積もることもなく、何かを覆うほどの力もなく、ただ通行人の肩を煩わせる程度の装飾に過ぎない。



 だけど、あの冬の雪だけは違っていた。

 あの日の白さは、私の心に焼きついて、もう何年も溶けないままでいる。



 高校二年の冬、駅のホーム。辺りを包む静けさは、時が止まったかのようだった。発車を告げるアナウンスすら遠く、目の前の彼……遥翔だけが、時間の中に輪郭を持って存在していた。



「十年後も、一緒にいよう」



 その言葉が、白い吐息に乗って空へ溶けていった瞬間、私は確かにうなずいた。言葉ではなく、心で返した。



 互いに初めての恋だった。それゆえに、不器用で、傷つけ合いながらも、必死に真っ直ぐだった。



 だけど、その冬を最後に、遥翔は突然、私の前から姿を消した。

 

 連絡は途絶え、家族も転居し、彼に繋がるすべての道が閉ざされた。

 理由はわからなかった。

 残されたのは、私の首元で静かに揺れる、小さな銀のペンダントだけ。



 最初の一ヶ月は、何かの間違いだと思った。

 二ヶ月目には、怒りが胸を焦がした。

 そして三ヶ月が過ぎた頃、私は心のどこかで、彼がもう戻ってこないことを理解した。

 それでも、忘れることはできなかった。



 あれから三年。

 大学生になった私は、ただ時間の流れに身を任せて生きていた。

 楽しくもない授業、誰かの真似をしたようなファッション、適当に笑い合う友人たちとの会話。

 そんな、薄っぺらな日常の中に、彼は唐突に戻ってきた。



 それは、何の前触れもなくやってきた。




 その日、私はいつものように大学帰りにバイト先のカフェへ向かっていた。

 街はすでに冬の装いを纏い始めていて、歩道に並ぶ街路樹には、早すぎるイルミネーションが点っていた。

 

そういえば、今日は初雪の予報が出ていた。

 そんなことを考えながら、ドアのベルを押す。



「いらっしゃいませ」



 その声が聞こえた瞬間、私の世界は凍りついた。



 聞き慣れた低音。優しく響く発声。思い出の奥底に沈めていた、あの声。

 まさか、という思いと、まさか、という確信。

 私は、信じたくない気持ちと、逃げ出したい衝動を胸に抱えながら、恐る恐る顔を上げた。



 そこにいたのは、遥翔だった。



 制服ではなく、バイト用の黒いシャツを身につけた彼は、まるで何事もなかったかのように微笑んでいた。



 懐かしさすら感じさせるその笑顔に、私は一瞬で、三年前の冬へと引き戻されていた。



「……千春?」



 彼が私の名前を呼ぶ。

 その声が鼓膜を打った瞬間、私の中で凍りついていた時間が音を立てて崩れた。



 混乱。怒り。悲しみ。

 いくつもの感情が一斉に押し寄せ、言葉にならない喉の奥で渦を巻く。

 だけど、どうしてだろう。そんなはずじゃないのに、私の心はまた、彼に惹かれていた。



 許せるはずがない。

 なのに。



「久しぶり、だね」



 彼はそう言って、何もなかったかのように微笑んだ。



 その瞬間、私は確信した。

 この冬もまた、簡単には終わらない。



 彼が嘘をついた理由を、私はまだ知らない。

 でもきっと、それを知ってしまったら、私はもう、元の自分には戻れない気がする。




私は一歩も動けなかった。



 口を開こうとしても、言葉が出なかった。

 怒鳴ってやりたかった。



どうして突然いなくなったのか。どうして何も言わなかったのか。どうして今になって、何事もなかったように、こんな場所にいるのか。



 本当に、心の底から、問い詰めたかった。



 なのに。



 遥翔のその顔を見た瞬間、私の中に浮かび上がったのは、どうしてじゃなかった。



 本当に、ここにいるんだ。



 そんな、あり得ないほど幼稚な感情だった。



 まるで、迷子だった子どもが、ようやく親を見つけたみたいに。

 

 あの日のホームに置き去りにされた心が、突然時間を巻き戻したみたいに。胸の奥にこびりついたあの冬が、彼の声と笑顔で、一気に蘇ってしまった。



「千春さん……今日はシフトじゃなかったですよね?」



 カウンターの奥から、店長の声がした。

 私はハッとして、無理やり視線を逸らした。



「……忘れ物、取りに来ただけです」



 自分でも驚くほど冷たい声だった。



 遥翔が一瞬だけ何かを言いかけた気配がしたけど、私はそのままバックヤードへと足を運んだ。



 どうにかして、自分の呼吸を整えるのに必死だった。



 ロッカーに残っていたはずのハンドクリームを見つけて、それを手に取る。



 指先が微かに震えている。視界の端に、自分の顔が映ったミラーが見えた。

 

 大学生らしい、落ち着いた化粧。

 それでも、目元に浮かんでいるのは、十七歳の私のままだった。



 私はまだ、彼のことを、終わらせられていなかった。



 帰り道、空からは静かに雪が落ちていた。



 誰もが顔を上げ、初雪だと喜んでいた。

 だけど私の心には、三年前の雪の記憶が、痛みと共に降り積もっていた。



 あの時、私は言葉にできない確信を持っていた。

 遥翔となら、未来を描いてもいいと思えた。

 

 それは、子どもじみた約束なんかじゃなかった。

 私にとっては、あれが初めての本気だった。



 だけど彼は、何も言わずに消えた。

 理由も、言い訳も、謝罪すらなく。

 私に残されたのは、ペンダントだけ。

 あの小さな、雪の結晶のチャームがついた、銀の鎖だけだった。



 私は今も、それを外せずにいる。

 首元に手をやり、ぬくもりを確かめるように指でなぞる。

 

肌に当たるその冷たさだけが、あの日が確かにあったことを、今も私に教えてくれる。



 遥翔は、本当に嘘つきだ。

 そして私は、そんな嘘つきに、いまだに心を奪われたままだ。




 翌日、私はもう一度、カフェに足を運んだ。

 

無視することもできた。避けることもできた。

 だけど、そうしなかった。

 

逃げても、きっと心はまた彼を探してしまう。

 それならいっそ、自分の目で、耳で、彼の「今」を確かめてやる。



 それができなければ、私は前に進めない。



 彼は店の奥で、エスプレッソマシンを磨いていた。

 昨日と同じ、淡い笑顔を浮かべていた。

 でもその目だけは、どこか遠くを見ているようだった。



「……話があるの。休憩、取れる?」



 私がそう言うと、遥翔はわずかに目を見開いた。

 そして、ほんの少しだけ、悲しそうに笑った。



「うん。もちろん」



 その笑顔が嘘だと、私はすぐに気づいた。

 だけどその嘘の奥にあるものを、私はどうしても知りたかった。

 



店の外は、雪が本格的に降り出していた。

 ガラス越しに見る街は、ぼんやりと白く、どこか遠い世界のようだった。



 カフェの二階、スタッフ用の控え室。小さな丸テーブルを挟んで、私と遥翔は向かい合っていた。



 距離は、近くもなく、遠くもなく。

 けれど、言葉ひとつでどちらにも傾いてしまう、そんな不安定な空気が漂っていた。



「……ほんとに、千春なんだな」



 遥翔がぽつりと呟いた。

 懐かしさを含んだその声音に、私は胸をざわつかせながらも、睨みつけるように言った。



「今さら何言ってんの。忘れたわけないでしょ」



 彼は少しだけ笑って、視線を落とした。

 その表情が、どこか苦しげに見えたのは、きっと気のせいじゃない。



「……あのとき、何も言わずに消えて、本当にごめん」



「それだけ?」



 私の声は、思ったよりも冷たかった。

 けれど止められなかった。

 三年間……何度も、何度も頭の中でこの瞬間を想像していた。

 どう言ってやろう、何を聞いてやろう、って。

 でも、今目の前にいる彼に、どんな言葉をぶつけても、あの冬は戻ってこない。



「……説明しなきゃいけないよな」



「うん。ちゃんと、全部聞かせて」



 沈黙が落ちる。

 遥翔は、何かを探すように視線をさまよわせ、やがて低く、遠い声で話し始めた。



「……あの冬、家族のことでゴタゴタがあってさ。急に、引っ越すことになったんだ」



「そんなの、連絡すればよかったじゃない。転校もしてたよね。学校にも来なくなって……」



「わかってる。連絡、したかった。でも……できなかった」



「なんで?」



「……お前に、期待させたままには、したくなかったから」



 その言葉に、私は一瞬、呼吸を止めた。

 期待?それを裏切ったのは、あんただよ。

 でも、彼の目は真剣だった。嘘をつくような光じゃなかった。



「引っ越すだけなら、まだ良かった。でも……それだけじゃなかったんだ」



 遥翔は、小さく息を吐いた。

 そして、手首をまくった。

 その内側に、薄く残る手術痕のようなものが見えた。



「……病気だったの。ずっと?」



「うん。高校に入る前に一度落ち着いてたんだけど、あの冬に、再発して……結構……深刻だった」



 心臓が跳ねた。

 そんなこと、一度も言ってなかった。

 私の知ってる遥翔は、そんな弱さを一切見せなかった。

 いや、見せなかったんだ。



「それで……治療に専念するために、家ごと引っ越して、全部切り離したってこと?」



「うん……そうでもしないと、俺、自分が壊れそうだったんだよ」



 彼の声が震えた。



「もし千春に、余計な希望持たせて……そのまま俺がダメになったらって考えたら、怖かった。お前にそんな思い、絶対させたくなかった」



 私は言葉を失った。

 遥翔の嘘は、優しさから生まれたものだった。

 

 でも、優しさだけじゃ、人は救われない。

 嘘は嘘として、確かに誰かを傷つける。



「……それでも、言ってほしかった。傷ついてもよかった。私には、何も言わずに消えられるほうが、ずっと、ずっとつらかったんだから」



 声が震えた。喉の奥が熱くて、視界が滲んでいた。



「私は、あんたが消えてから、何度も自分を責めた。私の何かが悪かったのかなって、私が本気すぎたから、引かれたのかなって……。ペンダント見るたびに、ぐちゃぐちゃになった」



 遥翔は、私の言葉を黙って受け止めていた。

 ただ、その目だけは逸らさなかった。

 それが、せめてもの誠意だったのかもしれない。



「……ごめん。ほんとに、ずっと言えなくて、情けないよな」



 私が答えられずにいると、遥翔はふっと微笑んだ。



「でも、千春がこうして目の前にいるのが、なんか……夢みたいだ」



「夢なら、少しはマシだったのに」



 皮肉っぽく返した私に、彼は「たしかに」と呟いて、少しだけ笑った。



 その笑顔が、三年前の彼と同じだった。



 ああ、私、まだこの人のこと。



 心の奥が静かに疼いた。



 許せるかはわからない。

 でも、ちゃんと向き合わなきゃって思った。

 この嘘の奥にある、本当の気持ちを、私はまだ全部、知らない。




夜の空は、まるで真っ白な記憶のように、雪を降らせ続けていた。

 その静けさの中に、私はじっと立ち尽くしていた。



 バイト先のカフェを出たあと、まっすぐ家に帰る気になれなかった。

 気づけば、足はあの駅へと向かっていた。三年前、遥翔と最後に立った、あの場所へ。



 構内に足を踏み入れると、ホームの風が少しだけ冷たく感じた。

 雪がちらちらと舞っている。誰もいない時間帯のホームは、あの時と、よく似ていた。



 ペンダントを、そっと握る。



 銀色の細い鎖と、雪の結晶のチャーム。

 あれからずっと、私はこれを肌身離さず身につけてきた。

 ただのアクセサリーじゃない。

 これは、あの冬の、あの約束そのものだった。



 

三年前。



 クリスマス直前の放課後、人気の少ない公園のベンチで、遥翔は私にペンダントを差し出した。



「何これ……?」



「お揃い、なんだけどな」



「え?」



 彼は、もう一つの同じデザインのペンダントを首から下げて見せた。

 雪の結晶。それぞれ少しだけ形が違う。ペアデザインらしい。



「買ったの?自分で?」



「うん。十年後の約束、ほんとに守ろうと思ってるから」



 彼の声は、いつになく真剣だった。

 その横顔に見惚れて、私はしばらく返事ができなかった。



「……バカだね、あんた」



「うん。でも、嘘じゃないよ」



 そう言った遥翔の目は、少し寂しそうに笑っていた。

 今思えば、あの時すでに、何かを抱えていたのかもしれない。

 だけど私は、それに気づけなかった。



 それが、今でも悔しい。




 ホームの端に腰を下ろして、雪の冷たさがスカート越しにじわりと染み込む。

 ペンダントを握った手に、あの時の言葉がよみがえる。



「十年後も一緒にいよう」



 それが、遥翔のくれた一番大きな嘘。

 でも私は、その嘘を、嘘だと思いたくなかった。



「……ずるいよ、あんた」



 ポツリと声に出してみた。

 誰に聞かれることもない、ひとりごと。



 遥翔は、私のために黙った。

 優しさと、臆病さが、彼をあの冬に閉じ込めた。



 でも私は。



 私は、彼をそのまま閉じ込めておくことなんて、もうできない。




 数日後、私はもう一度、遥翔に会いに行った。



「……会って、ちゃんと話そう。全部」



 そうメッセージを送ったとき、彼からの返信はすぐに返ってきた。



 『待ってる』



 たったそれだけだったけど、不思議と、その一言で気持ちが落ち着いた。

 今なら、ちゃんと向き合える気がした。



 場所は、あの日と同じ公園。

 雪は止んでいたけれど、風は冷たくて、吐く息は白く浮かんだ。



 遥翔はすでにベンチに座っていて、私の姿を見つけると、静かに立ち上がった。



「……来てくれて、ありがとう」



「……あんたが、ちゃんと待ってたの、初めてだよ」



 冗談めかして言ったつもりだったけど、声が少し震えた。

 遥翔は、困ったように笑ったあと、真面目な顔に戻った。



「……俺、たぶん、まだちゃんと前に進めてないと思う」



 彼はポケットから、ペンダントを取り出した。

 もう一つの、雪の結晶。三年間、ちゃんと持っていてくれたんだ。



「このペンダント、捨てようと思ったこともあった。でも、できなかった」



「私も。同じ」



「……お互い、嘘つきだな」



「うん。嘘つき」



 でも、笑ってそう言い合えた。

 そのことが、少しだけ、救いだった。



「まだ……許せないよ。簡単には。でも……知れてよかった。何があったのか、あの時、何を思ってたのか」



「ありがとう。話を、聞いてくれて」



 沈黙が落ちる。

 でも、もうあの頃のような苦しい沈黙じゃなかった。

 ちゃんと、言葉が届いたあとの、余韻のような沈黙だった。



 そして私は、そっとペンダントを外した。

 手のひらの中で、少し冷たいその銀の結晶を見つめたあと、彼に差し出す。



「一回、返す」



「……いいの?」



「ううん、違う。返すんじゃなくて、預けるの」



「預ける?」



「もう一回、信じられるかどうか、確かめるまで。嘘じゃなくて、本当の約束ができるなら、もう一度、受け取るから」



 遥翔は目を見開いたあと、ゆっくりとうなずいた。



「……わかった。ちゃんと、受け取った。今度は、嘘つかない」



 手の中にあるペンダントが、雪の下でも確かに光っていた。