ひとつだけ、忘れられない冬がある。
東京の雪は、いつも中途半端だと思っていた。
空から降ってくるその白は、地に着いた瞬間、すぐに汚れて、融けて、消える。
ただ冷たいだけの雨よりもたちが悪い。積もることもなく、何かを覆うほどの力もなく、ただ通行人の肩を煩わせる程度の装飾に過ぎない。
だけど、あの冬の雪だけは違っていた。
あの日の白さは、私の心に焼きついて、もう何年も溶けないままでいる。
高校二年の冬、駅のホーム。辺りを包む静けさは、時が止まったかのようだった。発車を告げるアナウンスすら遠く、目の前の彼……遥翔だけが、時間の中に輪郭を持って存在していた。
「十年後も、一緒にいよう」
その言葉が、白い吐息に乗って空へ溶けていった瞬間、私は確かにうなずいた。言葉ではなく、心で返した。
互いに初めての恋だった。それゆえに、不器用で、傷つけ合いながらも、必死に真っ直ぐだった。
だけど、その冬を最後に、遥翔は突然、私の前から姿を消した。
連絡は途絶え、家族も転居し、彼に繋がるすべての道が閉ざされた。
理由はわからなかった。
残されたのは、私の首元で静かに揺れる、小さな銀のペンダントだけ。
最初の一ヶ月は、何かの間違いだと思った。
二ヶ月目には、怒りが胸を焦がした。
そして三ヶ月が過ぎた頃、私は心のどこかで、彼がもう戻ってこないことを理解した。
それでも、忘れることはできなかった。
あれから三年。
大学生になった私は、ただ時間の流れに身を任せて生きていた。
楽しくもない授業、誰かの真似をしたようなファッション、適当に笑い合う友人たちとの会話。
そんな、薄っぺらな日常の中に、彼は唐突に戻ってきた。
それは、何の前触れもなくやってきた。
その日、私はいつものように大学帰りにバイト先のカフェへ向かっていた。
街はすでに冬の装いを纏い始めていて、歩道に並ぶ街路樹には、早すぎるイルミネーションが点っていた。
そういえば、今日は初雪の予報が出ていた。
そんなことを考えながら、ドアのベルを押す。
「いらっしゃいませ」
その声が聞こえた瞬間、私の世界は凍りついた。
聞き慣れた低音。優しく響く発声。思い出の奥底に沈めていた、あの声。
まさか、という思いと、まさか、という確信。
私は、信じたくない気持ちと、逃げ出したい衝動を胸に抱えながら、恐る恐る顔を上げた。
そこにいたのは、遥翔だった。
制服ではなく、バイト用の黒いシャツを身につけた彼は、まるで何事もなかったかのように微笑んでいた。
懐かしさすら感じさせるその笑顔に、私は一瞬で、三年前の冬へと引き戻されていた。
「……千春?」
彼が私の名前を呼ぶ。
その声が鼓膜を打った瞬間、私の中で凍りついていた時間が音を立てて崩れた。
混乱。怒り。悲しみ。
いくつもの感情が一斉に押し寄せ、言葉にならない喉の奥で渦を巻く。
だけど、どうしてだろう。そんなはずじゃないのに、私の心はまた、彼に惹かれていた。
許せるはずがない。
なのに。
「久しぶり、だね」
彼はそう言って、何もなかったかのように微笑んだ。
その瞬間、私は確信した。
この冬もまた、簡単には終わらない。
彼が嘘をついた理由を、私はまだ知らない。
でもきっと、それを知ってしまったら、私はもう、元の自分には戻れない気がする。
私は一歩も動けなかった。
口を開こうとしても、言葉が出なかった。
怒鳴ってやりたかった。
どうして突然いなくなったのか。どうして何も言わなかったのか。どうして今になって、何事もなかったように、こんな場所にいるのか。
本当に、心の底から、問い詰めたかった。
なのに。
遥翔のその顔を見た瞬間、私の中に浮かび上がったのは、どうしてじゃなかった。
本当に、ここにいるんだ。
そんな、あり得ないほど幼稚な感情だった。
まるで、迷子だった子どもが、ようやく親を見つけたみたいに。
あの日のホームに置き去りにされた心が、突然時間を巻き戻したみたいに。胸の奥にこびりついたあの冬が、彼の声と笑顔で、一気に蘇ってしまった。
「千春さん……今日はシフトじゃなかったですよね?」
カウンターの奥から、店長の声がした。
私はハッとして、無理やり視線を逸らした。
「……忘れ物、取りに来ただけです」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
遥翔が一瞬だけ何かを言いかけた気配がしたけど、私はそのままバックヤードへと足を運んだ。
どうにかして、自分の呼吸を整えるのに必死だった。
ロッカーに残っていたはずのハンドクリームを見つけて、それを手に取る。
指先が微かに震えている。視界の端に、自分の顔が映ったミラーが見えた。
大学生らしい、落ち着いた化粧。
それでも、目元に浮かんでいるのは、十七歳の私のままだった。
私はまだ、彼のことを、終わらせられていなかった。
帰り道、空からは静かに雪が落ちていた。
誰もが顔を上げ、初雪だと喜んでいた。
だけど私の心には、三年前の雪の記憶が、痛みと共に降り積もっていた。
あの時、私は言葉にできない確信を持っていた。
遥翔となら、未来を描いてもいいと思えた。
それは、子どもじみた約束なんかじゃなかった。
私にとっては、あれが初めての本気だった。
だけど彼は、何も言わずに消えた。
理由も、言い訳も、謝罪すらなく。
私に残されたのは、ペンダントだけ。
あの小さな、雪の結晶のチャームがついた、銀の鎖だけだった。
私は今も、それを外せずにいる。
首元に手をやり、ぬくもりを確かめるように指でなぞる。
肌に当たるその冷たさだけが、あの日が確かにあったことを、今も私に教えてくれる。
遥翔は、本当に嘘つきだ。
そして私は、そんな嘘つきに、いまだに心を奪われたままだ。
翌日、私はもう一度、カフェに足を運んだ。
無視することもできた。避けることもできた。
だけど、そうしなかった。
逃げても、きっと心はまた彼を探してしまう。
それならいっそ、自分の目で、耳で、彼の「今」を確かめてやる。
それができなければ、私は前に進めない。
彼は店の奥で、エスプレッソマシンを磨いていた。
昨日と同じ、淡い笑顔を浮かべていた。
でもその目だけは、どこか遠くを見ているようだった。
「……話があるの。休憩、取れる?」
私がそう言うと、遥翔はわずかに目を見開いた。
そして、ほんの少しだけ、悲しそうに笑った。
「うん。もちろん」
その笑顔が嘘だと、私はすぐに気づいた。
だけどその嘘の奥にあるものを、私はどうしても知りたかった。
店の外は、雪が本格的に降り出していた。
ガラス越しに見る街は、ぼんやりと白く、どこか遠い世界のようだった。
カフェの二階、スタッフ用の控え室。小さな丸テーブルを挟んで、私と遥翔は向かい合っていた。
距離は、近くもなく、遠くもなく。
けれど、言葉ひとつでどちらにも傾いてしまう、そんな不安定な空気が漂っていた。
「……ほんとに、千春なんだな」
遥翔がぽつりと呟いた。
懐かしさを含んだその声音に、私は胸をざわつかせながらも、睨みつけるように言った。
「今さら何言ってんの。忘れたわけないでしょ」
彼は少しだけ笑って、視線を落とした。
その表情が、どこか苦しげに見えたのは、きっと気のせいじゃない。
「……あのとき、何も言わずに消えて、本当にごめん」
「それだけ?」
私の声は、思ったよりも冷たかった。
けれど止められなかった。
三年間……何度も、何度も頭の中でこの瞬間を想像していた。
どう言ってやろう、何を聞いてやろう、って。
でも、今目の前にいる彼に、どんな言葉をぶつけても、あの冬は戻ってこない。
「……説明しなきゃいけないよな」
「うん。ちゃんと、全部聞かせて」
沈黙が落ちる。
遥翔は、何かを探すように視線をさまよわせ、やがて低く、遠い声で話し始めた。
「……あの冬、家族のことでゴタゴタがあってさ。急に、引っ越すことになったんだ」
「そんなの、連絡すればよかったじゃない。転校もしてたよね。学校にも来なくなって……」
「わかってる。連絡、したかった。でも……できなかった」
「なんで?」
「……お前に、期待させたままには、したくなかったから」
その言葉に、私は一瞬、呼吸を止めた。
期待?それを裏切ったのは、あんただよ。
でも、彼の目は真剣だった。嘘をつくような光じゃなかった。
「引っ越すだけなら、まだ良かった。でも……それだけじゃなかったんだ」
遥翔は、小さく息を吐いた。
そして、手首をまくった。
その内側に、薄く残る手術痕のようなものが見えた。
「……病気だったの。ずっと?」
「うん。高校に入る前に一度落ち着いてたんだけど、あの冬に、再発して……結構……深刻だった」
心臓が跳ねた。
そんなこと、一度も言ってなかった。
私の知ってる遥翔は、そんな弱さを一切見せなかった。
いや、見せなかったんだ。
「それで……治療に専念するために、家ごと引っ越して、全部切り離したってこと?」
「うん……そうでもしないと、俺、自分が壊れそうだったんだよ」
彼の声が震えた。
「もし千春に、余計な希望持たせて……そのまま俺がダメになったらって考えたら、怖かった。お前にそんな思い、絶対させたくなかった」
私は言葉を失った。
遥翔の嘘は、優しさから生まれたものだった。
でも、優しさだけじゃ、人は救われない。
嘘は嘘として、確かに誰かを傷つける。
「……それでも、言ってほしかった。傷ついてもよかった。私には、何も言わずに消えられるほうが、ずっと、ずっとつらかったんだから」
声が震えた。喉の奥が熱くて、視界が滲んでいた。
「私は、あんたが消えてから、何度も自分を責めた。私の何かが悪かったのかなって、私が本気すぎたから、引かれたのかなって……。ペンダント見るたびに、ぐちゃぐちゃになった」
遥翔は、私の言葉を黙って受け止めていた。
ただ、その目だけは逸らさなかった。
それが、せめてもの誠意だったのかもしれない。
「……ごめん。ほんとに、ずっと言えなくて、情けないよな」
私が答えられずにいると、遥翔はふっと微笑んだ。
「でも、千春がこうして目の前にいるのが、なんか……夢みたいだ」
「夢なら、少しはマシだったのに」
皮肉っぽく返した私に、彼は「たしかに」と呟いて、少しだけ笑った。
その笑顔が、三年前の彼と同じだった。
ああ、私、まだこの人のこと。
心の奥が静かに疼いた。
許せるかはわからない。
でも、ちゃんと向き合わなきゃって思った。
この嘘の奥にある、本当の気持ちを、私はまだ全部、知らない。
夜の空は、まるで真っ白な記憶のように、雪を降らせ続けていた。
その静けさの中に、私はじっと立ち尽くしていた。
バイト先のカフェを出たあと、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
気づけば、足はあの駅へと向かっていた。三年前、遥翔と最後に立った、あの場所へ。
構内に足を踏み入れると、ホームの風が少しだけ冷たく感じた。
雪がちらちらと舞っている。誰もいない時間帯のホームは、あの時と、よく似ていた。
ペンダントを、そっと握る。
銀色の細い鎖と、雪の結晶のチャーム。
あれからずっと、私はこれを肌身離さず身につけてきた。
ただのアクセサリーじゃない。
これは、あの冬の、あの約束そのものだった。
三年前。
クリスマス直前の放課後、人気の少ない公園のベンチで、遥翔は私にペンダントを差し出した。
「何これ……?」
「お揃い、なんだけどな」
「え?」
彼は、もう一つの同じデザインのペンダントを首から下げて見せた。
雪の結晶。それぞれ少しだけ形が違う。ペアデザインらしい。
「買ったの?自分で?」
「うん。十年後の約束、ほんとに守ろうと思ってるから」
彼の声は、いつになく真剣だった。
その横顔に見惚れて、私はしばらく返事ができなかった。
「……バカだね、あんた」
「うん。でも、嘘じゃないよ」
そう言った遥翔の目は、少し寂しそうに笑っていた。
今思えば、あの時すでに、何かを抱えていたのかもしれない。
だけど私は、それに気づけなかった。
それが、今でも悔しい。
ホームの端に腰を下ろして、雪の冷たさがスカート越しにじわりと染み込む。
ペンダントを握った手に、あの時の言葉がよみがえる。
「十年後も一緒にいよう」
それが、遥翔のくれた一番大きな嘘。
でも私は、その嘘を、嘘だと思いたくなかった。
「……ずるいよ、あんた」
ポツリと声に出してみた。
誰に聞かれることもない、ひとりごと。
遥翔は、私のために黙った。
優しさと、臆病さが、彼をあの冬に閉じ込めた。
でも私は。
私は、彼をそのまま閉じ込めておくことなんて、もうできない。
数日後、私はもう一度、遥翔に会いに行った。
「……会って、ちゃんと話そう。全部」
そうメッセージを送ったとき、彼からの返信はすぐに返ってきた。
『待ってる』
たったそれだけだったけど、不思議と、その一言で気持ちが落ち着いた。
今なら、ちゃんと向き合える気がした。
場所は、あの日と同じ公園。
雪は止んでいたけれど、風は冷たくて、吐く息は白く浮かんだ。
遥翔はすでにベンチに座っていて、私の姿を見つけると、静かに立ち上がった。
「……来てくれて、ありがとう」
「……あんたが、ちゃんと待ってたの、初めてだよ」
冗談めかして言ったつもりだったけど、声が少し震えた。
遥翔は、困ったように笑ったあと、真面目な顔に戻った。
「……俺、たぶん、まだちゃんと前に進めてないと思う」
彼はポケットから、ペンダントを取り出した。
もう一つの、雪の結晶。三年間、ちゃんと持っていてくれたんだ。
「このペンダント、捨てようと思ったこともあった。でも、できなかった」
「私も。同じ」
「……お互い、嘘つきだな」
「うん。嘘つき」
でも、笑ってそう言い合えた。
そのことが、少しだけ、救いだった。
「まだ……許せないよ。簡単には。でも……知れてよかった。何があったのか、あの時、何を思ってたのか」
「ありがとう。話を、聞いてくれて」
沈黙が落ちる。
でも、もうあの頃のような苦しい沈黙じゃなかった。
ちゃんと、言葉が届いたあとの、余韻のような沈黙だった。
そして私は、そっとペンダントを外した。
手のひらの中で、少し冷たいその銀の結晶を見つめたあと、彼に差し出す。
「一回、返す」
「……いいの?」
「ううん、違う。返すんじゃなくて、預けるの」
「預ける?」
「もう一回、信じられるかどうか、確かめるまで。嘘じゃなくて、本当の約束ができるなら、もう一度、受け取るから」
遥翔は目を見開いたあと、ゆっくりとうなずいた。
「……わかった。ちゃんと、受け取った。今度は、嘘つかない」
手の中にあるペンダントが、雪の下でも確かに光っていた。
東京の雪は、いつも中途半端だと思っていた。
空から降ってくるその白は、地に着いた瞬間、すぐに汚れて、融けて、消える。
ただ冷たいだけの雨よりもたちが悪い。積もることもなく、何かを覆うほどの力もなく、ただ通行人の肩を煩わせる程度の装飾に過ぎない。
だけど、あの冬の雪だけは違っていた。
あの日の白さは、私の心に焼きついて、もう何年も溶けないままでいる。
高校二年の冬、駅のホーム。辺りを包む静けさは、時が止まったかのようだった。発車を告げるアナウンスすら遠く、目の前の彼……遥翔だけが、時間の中に輪郭を持って存在していた。
「十年後も、一緒にいよう」
その言葉が、白い吐息に乗って空へ溶けていった瞬間、私は確かにうなずいた。言葉ではなく、心で返した。
互いに初めての恋だった。それゆえに、不器用で、傷つけ合いながらも、必死に真っ直ぐだった。
だけど、その冬を最後に、遥翔は突然、私の前から姿を消した。
連絡は途絶え、家族も転居し、彼に繋がるすべての道が閉ざされた。
理由はわからなかった。
残されたのは、私の首元で静かに揺れる、小さな銀のペンダントだけ。
最初の一ヶ月は、何かの間違いだと思った。
二ヶ月目には、怒りが胸を焦がした。
そして三ヶ月が過ぎた頃、私は心のどこかで、彼がもう戻ってこないことを理解した。
それでも、忘れることはできなかった。
あれから三年。
大学生になった私は、ただ時間の流れに身を任せて生きていた。
楽しくもない授業、誰かの真似をしたようなファッション、適当に笑い合う友人たちとの会話。
そんな、薄っぺらな日常の中に、彼は唐突に戻ってきた。
それは、何の前触れもなくやってきた。
その日、私はいつものように大学帰りにバイト先のカフェへ向かっていた。
街はすでに冬の装いを纏い始めていて、歩道に並ぶ街路樹には、早すぎるイルミネーションが点っていた。
そういえば、今日は初雪の予報が出ていた。
そんなことを考えながら、ドアのベルを押す。
「いらっしゃいませ」
その声が聞こえた瞬間、私の世界は凍りついた。
聞き慣れた低音。優しく響く発声。思い出の奥底に沈めていた、あの声。
まさか、という思いと、まさか、という確信。
私は、信じたくない気持ちと、逃げ出したい衝動を胸に抱えながら、恐る恐る顔を上げた。
そこにいたのは、遥翔だった。
制服ではなく、バイト用の黒いシャツを身につけた彼は、まるで何事もなかったかのように微笑んでいた。
懐かしさすら感じさせるその笑顔に、私は一瞬で、三年前の冬へと引き戻されていた。
「……千春?」
彼が私の名前を呼ぶ。
その声が鼓膜を打った瞬間、私の中で凍りついていた時間が音を立てて崩れた。
混乱。怒り。悲しみ。
いくつもの感情が一斉に押し寄せ、言葉にならない喉の奥で渦を巻く。
だけど、どうしてだろう。そんなはずじゃないのに、私の心はまた、彼に惹かれていた。
許せるはずがない。
なのに。
「久しぶり、だね」
彼はそう言って、何もなかったかのように微笑んだ。
その瞬間、私は確信した。
この冬もまた、簡単には終わらない。
彼が嘘をついた理由を、私はまだ知らない。
でもきっと、それを知ってしまったら、私はもう、元の自分には戻れない気がする。
私は一歩も動けなかった。
口を開こうとしても、言葉が出なかった。
怒鳴ってやりたかった。
どうして突然いなくなったのか。どうして何も言わなかったのか。どうして今になって、何事もなかったように、こんな場所にいるのか。
本当に、心の底から、問い詰めたかった。
なのに。
遥翔のその顔を見た瞬間、私の中に浮かび上がったのは、どうしてじゃなかった。
本当に、ここにいるんだ。
そんな、あり得ないほど幼稚な感情だった。
まるで、迷子だった子どもが、ようやく親を見つけたみたいに。
あの日のホームに置き去りにされた心が、突然時間を巻き戻したみたいに。胸の奥にこびりついたあの冬が、彼の声と笑顔で、一気に蘇ってしまった。
「千春さん……今日はシフトじゃなかったですよね?」
カウンターの奥から、店長の声がした。
私はハッとして、無理やり視線を逸らした。
「……忘れ物、取りに来ただけです」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
遥翔が一瞬だけ何かを言いかけた気配がしたけど、私はそのままバックヤードへと足を運んだ。
どうにかして、自分の呼吸を整えるのに必死だった。
ロッカーに残っていたはずのハンドクリームを見つけて、それを手に取る。
指先が微かに震えている。視界の端に、自分の顔が映ったミラーが見えた。
大学生らしい、落ち着いた化粧。
それでも、目元に浮かんでいるのは、十七歳の私のままだった。
私はまだ、彼のことを、終わらせられていなかった。
帰り道、空からは静かに雪が落ちていた。
誰もが顔を上げ、初雪だと喜んでいた。
だけど私の心には、三年前の雪の記憶が、痛みと共に降り積もっていた。
あの時、私は言葉にできない確信を持っていた。
遥翔となら、未来を描いてもいいと思えた。
それは、子どもじみた約束なんかじゃなかった。
私にとっては、あれが初めての本気だった。
だけど彼は、何も言わずに消えた。
理由も、言い訳も、謝罪すらなく。
私に残されたのは、ペンダントだけ。
あの小さな、雪の結晶のチャームがついた、銀の鎖だけだった。
私は今も、それを外せずにいる。
首元に手をやり、ぬくもりを確かめるように指でなぞる。
肌に当たるその冷たさだけが、あの日が確かにあったことを、今も私に教えてくれる。
遥翔は、本当に嘘つきだ。
そして私は、そんな嘘つきに、いまだに心を奪われたままだ。
翌日、私はもう一度、カフェに足を運んだ。
無視することもできた。避けることもできた。
だけど、そうしなかった。
逃げても、きっと心はまた彼を探してしまう。
それならいっそ、自分の目で、耳で、彼の「今」を確かめてやる。
それができなければ、私は前に進めない。
彼は店の奥で、エスプレッソマシンを磨いていた。
昨日と同じ、淡い笑顔を浮かべていた。
でもその目だけは、どこか遠くを見ているようだった。
「……話があるの。休憩、取れる?」
私がそう言うと、遥翔はわずかに目を見開いた。
そして、ほんの少しだけ、悲しそうに笑った。
「うん。もちろん」
その笑顔が嘘だと、私はすぐに気づいた。
だけどその嘘の奥にあるものを、私はどうしても知りたかった。
店の外は、雪が本格的に降り出していた。
ガラス越しに見る街は、ぼんやりと白く、どこか遠い世界のようだった。
カフェの二階、スタッフ用の控え室。小さな丸テーブルを挟んで、私と遥翔は向かい合っていた。
距離は、近くもなく、遠くもなく。
けれど、言葉ひとつでどちらにも傾いてしまう、そんな不安定な空気が漂っていた。
「……ほんとに、千春なんだな」
遥翔がぽつりと呟いた。
懐かしさを含んだその声音に、私は胸をざわつかせながらも、睨みつけるように言った。
「今さら何言ってんの。忘れたわけないでしょ」
彼は少しだけ笑って、視線を落とした。
その表情が、どこか苦しげに見えたのは、きっと気のせいじゃない。
「……あのとき、何も言わずに消えて、本当にごめん」
「それだけ?」
私の声は、思ったよりも冷たかった。
けれど止められなかった。
三年間……何度も、何度も頭の中でこの瞬間を想像していた。
どう言ってやろう、何を聞いてやろう、って。
でも、今目の前にいる彼に、どんな言葉をぶつけても、あの冬は戻ってこない。
「……説明しなきゃいけないよな」
「うん。ちゃんと、全部聞かせて」
沈黙が落ちる。
遥翔は、何かを探すように視線をさまよわせ、やがて低く、遠い声で話し始めた。
「……あの冬、家族のことでゴタゴタがあってさ。急に、引っ越すことになったんだ」
「そんなの、連絡すればよかったじゃない。転校もしてたよね。学校にも来なくなって……」
「わかってる。連絡、したかった。でも……できなかった」
「なんで?」
「……お前に、期待させたままには、したくなかったから」
その言葉に、私は一瞬、呼吸を止めた。
期待?それを裏切ったのは、あんただよ。
でも、彼の目は真剣だった。嘘をつくような光じゃなかった。
「引っ越すだけなら、まだ良かった。でも……それだけじゃなかったんだ」
遥翔は、小さく息を吐いた。
そして、手首をまくった。
その内側に、薄く残る手術痕のようなものが見えた。
「……病気だったの。ずっと?」
「うん。高校に入る前に一度落ち着いてたんだけど、あの冬に、再発して……結構……深刻だった」
心臓が跳ねた。
そんなこと、一度も言ってなかった。
私の知ってる遥翔は、そんな弱さを一切見せなかった。
いや、見せなかったんだ。
「それで……治療に専念するために、家ごと引っ越して、全部切り離したってこと?」
「うん……そうでもしないと、俺、自分が壊れそうだったんだよ」
彼の声が震えた。
「もし千春に、余計な希望持たせて……そのまま俺がダメになったらって考えたら、怖かった。お前にそんな思い、絶対させたくなかった」
私は言葉を失った。
遥翔の嘘は、優しさから生まれたものだった。
でも、優しさだけじゃ、人は救われない。
嘘は嘘として、確かに誰かを傷つける。
「……それでも、言ってほしかった。傷ついてもよかった。私には、何も言わずに消えられるほうが、ずっと、ずっとつらかったんだから」
声が震えた。喉の奥が熱くて、視界が滲んでいた。
「私は、あんたが消えてから、何度も自分を責めた。私の何かが悪かったのかなって、私が本気すぎたから、引かれたのかなって……。ペンダント見るたびに、ぐちゃぐちゃになった」
遥翔は、私の言葉を黙って受け止めていた。
ただ、その目だけは逸らさなかった。
それが、せめてもの誠意だったのかもしれない。
「……ごめん。ほんとに、ずっと言えなくて、情けないよな」
私が答えられずにいると、遥翔はふっと微笑んだ。
「でも、千春がこうして目の前にいるのが、なんか……夢みたいだ」
「夢なら、少しはマシだったのに」
皮肉っぽく返した私に、彼は「たしかに」と呟いて、少しだけ笑った。
その笑顔が、三年前の彼と同じだった。
ああ、私、まだこの人のこと。
心の奥が静かに疼いた。
許せるかはわからない。
でも、ちゃんと向き合わなきゃって思った。
この嘘の奥にある、本当の気持ちを、私はまだ全部、知らない。
夜の空は、まるで真っ白な記憶のように、雪を降らせ続けていた。
その静けさの中に、私はじっと立ち尽くしていた。
バイト先のカフェを出たあと、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
気づけば、足はあの駅へと向かっていた。三年前、遥翔と最後に立った、あの場所へ。
構内に足を踏み入れると、ホームの風が少しだけ冷たく感じた。
雪がちらちらと舞っている。誰もいない時間帯のホームは、あの時と、よく似ていた。
ペンダントを、そっと握る。
銀色の細い鎖と、雪の結晶のチャーム。
あれからずっと、私はこれを肌身離さず身につけてきた。
ただのアクセサリーじゃない。
これは、あの冬の、あの約束そのものだった。
三年前。
クリスマス直前の放課後、人気の少ない公園のベンチで、遥翔は私にペンダントを差し出した。
「何これ……?」
「お揃い、なんだけどな」
「え?」
彼は、もう一つの同じデザインのペンダントを首から下げて見せた。
雪の結晶。それぞれ少しだけ形が違う。ペアデザインらしい。
「買ったの?自分で?」
「うん。十年後の約束、ほんとに守ろうと思ってるから」
彼の声は、いつになく真剣だった。
その横顔に見惚れて、私はしばらく返事ができなかった。
「……バカだね、あんた」
「うん。でも、嘘じゃないよ」
そう言った遥翔の目は、少し寂しそうに笑っていた。
今思えば、あの時すでに、何かを抱えていたのかもしれない。
だけど私は、それに気づけなかった。
それが、今でも悔しい。
ホームの端に腰を下ろして、雪の冷たさがスカート越しにじわりと染み込む。
ペンダントを握った手に、あの時の言葉がよみがえる。
「十年後も一緒にいよう」
それが、遥翔のくれた一番大きな嘘。
でも私は、その嘘を、嘘だと思いたくなかった。
「……ずるいよ、あんた」
ポツリと声に出してみた。
誰に聞かれることもない、ひとりごと。
遥翔は、私のために黙った。
優しさと、臆病さが、彼をあの冬に閉じ込めた。
でも私は。
私は、彼をそのまま閉じ込めておくことなんて、もうできない。
数日後、私はもう一度、遥翔に会いに行った。
「……会って、ちゃんと話そう。全部」
そうメッセージを送ったとき、彼からの返信はすぐに返ってきた。
『待ってる』
たったそれだけだったけど、不思議と、その一言で気持ちが落ち着いた。
今なら、ちゃんと向き合える気がした。
場所は、あの日と同じ公園。
雪は止んでいたけれど、風は冷たくて、吐く息は白く浮かんだ。
遥翔はすでにベンチに座っていて、私の姿を見つけると、静かに立ち上がった。
「……来てくれて、ありがとう」
「……あんたが、ちゃんと待ってたの、初めてだよ」
冗談めかして言ったつもりだったけど、声が少し震えた。
遥翔は、困ったように笑ったあと、真面目な顔に戻った。
「……俺、たぶん、まだちゃんと前に進めてないと思う」
彼はポケットから、ペンダントを取り出した。
もう一つの、雪の結晶。三年間、ちゃんと持っていてくれたんだ。
「このペンダント、捨てようと思ったこともあった。でも、できなかった」
「私も。同じ」
「……お互い、嘘つきだな」
「うん。嘘つき」
でも、笑ってそう言い合えた。
そのことが、少しだけ、救いだった。
「まだ……許せないよ。簡単には。でも……知れてよかった。何があったのか、あの時、何を思ってたのか」
「ありがとう。話を、聞いてくれて」
沈黙が落ちる。
でも、もうあの頃のような苦しい沈黙じゃなかった。
ちゃんと、言葉が届いたあとの、余韻のような沈黙だった。
そして私は、そっとペンダントを外した。
手のひらの中で、少し冷たいその銀の結晶を見つめたあと、彼に差し出す。
「一回、返す」
「……いいの?」
「ううん、違う。返すんじゃなくて、預けるの」
「預ける?」
「もう一回、信じられるかどうか、確かめるまで。嘘じゃなくて、本当の約束ができるなら、もう一度、受け取るから」
遥翔は目を見開いたあと、ゆっくりとうなずいた。
「……わかった。ちゃんと、受け取った。今度は、嘘つかない」
手の中にあるペンダントが、雪の下でも確かに光っていた。



