第1話 娘の婚約破棄、父が動く
 「――婚約を、破棄……?」
 銀のグラスが、卓上で静かに鳴った。
 ルシアン・ド・ヴァレンヌ公爵は、夜会の余韻も残る私室で、執事の報告を一度だけ復唱した。声に怒気はない。だが、部屋の温度だけがふっと下がる。
「はい……王太子殿下レオンハルト様より、本日付にて。理由は“ 品位に欠ける振る舞いが目立つため”と」
「品位に欠けるのは、どちらだ」
 公爵は立ち上がり、外套を取った。肩にかける手つきが静謐すぎて、むしろ嵐の前触れに見える。
「フィオナは?」
「お部屋に籠っておられます。涙で……」
「案内は不要だ」
 扉を開ける音さえ、刃のように鋭かった。
 ◇
 フィオナの部屋は、香の薔薇がわずかに香る。ベッド脇には、白い手袋と淡水真珠のチョーカー。王都中の女の子が羨む“王太子の花嫁支度”――そのはずだったもの。
 毛布からのぞく肩が震えている。
 公爵は近づき、立ったまましばらく黙した。娘の嗚咽を、言葉で遮るのは不作法だと知っているからだ。
「父上……申し訳……なくて」
「おまえが謝る筋合いはない」
 短い言葉に、毛布がぴたりと止まる。公爵は椅子を引き寄せ、低く穏やかに続けた。
「事情を、順に話せ」
「……舞踏会の最中、殿下はわたしの目の前で、伯爵令嬢エメリア様の手を取って踊られました。皆の視線が集まる中で、“真実の愛は見つかった。婚約はなかったことに”と……。わたしが、殿下のご機嫌を損ねたせいだ、と噂まで」
 フィオナの指が、チョーカーを無意識に握る。白がきしんだ。
「噂の出所は?」
「わかりません。殿下の側近たちが……わたしの“学識ぶり”を嫌っているのは知っていました。余計な口出しをする女だって」
 公爵の眼差しが、わずかに細くなる。
 “学識ぶり”――それは家が誇る教育の成果であり、王妃の要請

で始まった宰相補佐教育でもある。娘の才を疎ましく思う者は、王宮に少なくない。
「……わたし、殿下に、エメリア様の寄付金の帳簿の不備をそっとお伝えしました。王立孤児院への寄付の数字が、毎月ちがうのです。
殿下は“つまらない”と笑って……その夜に、婚約破棄が」
 公爵は、そこで初めて息を短く吐いた。
 娘は正しい。ならば、誰かが間違っている。
 間違いは、正す。
「よく話した。泣くのは後でいい」
 彼は立ち上がると、召し鈴を鳴らした。
「執事。〈影紋〉を呼べ」
「畏まりました」
 ◇
 〈影紋〉。ヴァレンヌ家が代々、表の騎士団と別に抱える調査網の名だ。王都の裏通りから王城の梁まで、光が届かぬ場所に足跡を残す者たち。
 現れたのは黒衣の青年だった。名をクロードという。
「ご当主、御用は」
「王太子殿下と伯爵令嬢エメリアの交友、そして孤児院寄付の帳簿。関連する者の名、金の流れ、全てだ。期限は――」
 公爵は一瞬、娘の部屋の方向に視線をやった。
 柔らかな泣き声は、もう聞こえない。
「――夜明けまで」
「……承知」
 影は、床の影に溶けた。
 ◇
 真夜中。王都を流れる風は、今夜に限って冷たい。
 公爵は書斎で、魔力結晶の明かりを低く灯し、古い法典を開いた。
表紙には金の箔押しで『王都裁判規定集』とある。彼は迷わない。怒りは剣を鈍らせるが、手続きは刃を研ぐ。
 ――王太子といえど、王都裁判においては証人として立つ義務がある(第十二章・王族規定)。
 ――婚約破棄は、当事者の一方の一方的意思に拠る場合、名誉毀損および契約不履行が成立する(婚姻章・第二十七条)。
 ――公益目的に反する私的寄付の偽装は、王家の庇護を失う(財務章・第六条)。
 公爵は、栞を挟んで閉じた。
 そのとき。窓を叩く、軽い音。
 カーテンを払うと、黒影がひらりと降りた。クロードだ。
「早いな」
「王都は眠らない」
 クロードは、封蝋の付いた封筒を差し出した。王都孤児院の印章。
開くと、中には複写の帳簿。列の合間に、白い空欄。そこに微かな削り跡。数値は、毎月“丸められて”いる。
「削り粉を集めて魔力鑑定にかけた。エメリア伯爵家の紋章魔力と一致……そして、こちらが今夜の舞踏会の裏口で交わされた受領書の写し」
 クロードはさらに、一枚の紙を出す。
 “舞踏会運営費用補助 十二万クラウン 受領者:宰相補佐代理
 エルマー・グレイソン。仲介:伯爵令嬢エメリア”。
 署名の魔力痕が、薄く青く浮かんでいる。
「殿下の側近、グレイソンが動いていたか」
「はい。殿下の遊興費に流れた可能性が高い。孤児院への寄付の穴埋めに、舞踏会費を回していた形跡も」
 公爵の指が、封筒の縁で止まった。
 怒りは、まだ語尾を乱さない。ただ、刃がさらに研がれていく。「十分だ。――法廷を開く。王太子殿下にも、証人席の座り心地を味わっていただこう」
 ◇
 夜が明けるころ、ルシアン公爵は王城の門前にいた。 執務開始前。門番の騎士たちは慌てて整列し、膝を折る。門は、重い音を立てて開いた。
「ヴァレンヌ公爵閣下、突然のご来城、いかなる御用で」
「司法長官に通達せよ。王都裁判の開廷申請だ。案件名――“王太子レオンハルト殿下による婚約破棄および財務不正疑惑について”」 騎士の喉が、硬く鳴った。
 王太子の名と“疑惑”を、公然と並べること自体が、王都では雷鳴に等しい。
「お、お待ちを……殿下のお耳に入れずに、そのような――」
「規定集第十二章。王族であっても、訴えが起きた時点で司法長官の所管だ。私は手続きを踏んでいる。邪魔をするなら、規定集の朗読から始めようか?」
 静かな圧。騎士は直立のまま震え、やがて道をあけた。
 石畳の上を歩く靴音が、規則正しく響く。
 王城に入る公爵の背は、いつもどおり真っ直ぐだ。だが、いつもと違うのは、彼の影が長く鋭く伸びていることだった。
 ◇
 司法局の扉が開く。
 分厚い書類の匂い、乾いた羊皮紙のざらつき。
 司法長官マクシミリアンは、老眼鏡を上げ、来訪者の名を確認すると、眉を高くした。「……おやおや。朝一番の来客が、王家の重鎮とは。さては、ただ事ではないな」
「ただ事ではないから来た。開廷申請書は既に整えてある。証拠目録と証人名簿も添付した」
 公爵は、手早く書類を置く。
 長官は一枚一枚をめくり、やがて小さく口笛を吹いた。
「孤児院の帳簿、鑑定済みの魔力痕、舞踏会運営費の受領書の写し ……ふむ。王太子の側近が噛んでいる気配は濃厚だ。――だが、公爵。これは王家を敵に回す手続きだ。覚悟は」
「娘が泣いた。私の覚悟など、とっくに済んでいる」
 長官は、老いた瞳で公爵を見つめ、やがて頷いた。
「よろしい。午后三の鐘――本日、臨時開廷としよう。王太子殿下には、証人としての出廷命令を出す。……城の上は、しばらく騒がしくなるぞ」
「下も同じだろう」
 公爵は立ち上がり、礼をして踵を返した。
 扉に手をかけたところで、長官の低い声が飛ぶ。
「公爵。――私情で剣を振るうのは簡単だ。だが、ここは法の場だ。
あなたはいつもどおり、“最も冷たい手”で来ると信じている」 ルシアンは短く笑った。
「最も冷たい手で、“最も熱いもの”を守る。それが、父という職務だ」
 ◇
 王都に、噂が走る。
 「公爵が、王太子を法廷に呼ぶらしい」
 「伯爵令嬢エメリアの名も出ている」
 「孤児院の帳簿に、何か――」
 昼前。公爵家の玄関に、ひとりの来客が現れた。
 派手な赤の外套、金の刺繍。王太子の側近、エルマー・グレイソンだ。取り巻きの騎士たちが空気を張りつめさせる。
「ヴァレンヌ公爵。少々、行き違いがあったようで。殿下はお怒りだ。今すぐ申請を取り下げ、謝罪を――」
「客を通せ」
 公爵が姿を現すと、エルマーはわざとらしく笑みを広げ、歩み寄る。
「公爵。若い者の恋路には、行き違いもある。あなたほどの方が、たかが婚約破棄で法廷とは。王家への忠誠をお忘れかな?」
「忠誠とは、王家の面子に盲従することを指さない。王家が守ると誓ったもの――民と法の秩序にこそ捧げる。私の家は代々、そう教わってきた」
 エルマーの笑みが、わずかに引きつる。
 公爵は一歩近づき、囁くように言った。
「ところで、宰相補佐代理殿。舞踏会運営費の受領書に、“あなたの名”がある。魔力痕も、確かにあなたのものだった」
 取り巻きがざわめく。エルマーの目が一瞬泳いだ。
「馬鹿を言うな。偽造に決まっている。そんな紙切れで私を――」
「“紙切れ”の重さは、法廷で量ればいい。三の鐘に、王都大広間で会おう。あなたも証言台に立つ。逃げたくば、今のうちだ」
 エルマーは口を開いたが、言葉は出ない。
 やがて、踵を返して去った。赤い外套が、昼の光ににじむ。
 公爵は玄関の柱に手を置き、短く息を整えた。
 視線の先、二階の窓辺に、淡い影が揺れる。
 フィオナが、カーテン越しに父を見ていた。 彼は片手を胸に当て、軽く会釈してみせる。
 ――任せておけ。
 言葉にはしない誓いが、昼の光に溶けていった。
 ◇
 午後。三の鐘が近づくほどに、人々は王都大広間へ吸い寄せられる。
 王国の紋章旗が垂れ、壇上には証人席、弁論台、裁定席。石床は磨かれ、音を吸わない。
 扉が開くたび、人の波が揺れた。
 そして、鐘が三度鳴り終わった瞬間――
「王太子レオンハルト殿下、入廷」
 ざわめきが爆ぜる。
 青い礼服の若者が、軽い笑みを浮かべて入ってくる。視線は公爵を一瞬だけ刺し、すぐに逸らした。その後ろに、エルマー・グレイソン。さらに、伯爵令嬢エメリアが白い扇で口元を隠しながら続く。
 裁定席に司法長官が座り、木槌が静かに落ちた。
「これより、臨時開廷を宣言する。案件名――“王太子レオンハルト殿下による婚約破棄および財務不正疑惑について”。原告代理、ルシアン・ド・ヴァレンヌ公爵。被告側、王太子殿下および関係者一同。双方、用意は」
 公爵は進み出て、深く一礼した。
 視線は一度も、足元を見ない。
「――用意は、とうに」
 その声は、よく研がれた剣のように、まっすぐだった。
 大広間の空気が、きり、という音を立てた気がした。
 父の断罪劇が、ここから始まる。

第2話 王都裁判、開廷
 重厚な扉が閉じられる音が、静寂を切り裂いた。
 王都大広間。普段は祝宴や謁見に使われるその場所が、今日は裁判の場として姿を変えている。壇上には王国の紋章旗。中央に立つのは、冷徹な瞳をもつ司法長官マクシミリアン。そして、左右には原告席と被告席。
 ざわめきが、波のように押し寄せては引いていく。
「――開廷を宣言する」
 木槌が、乾いた音を立てた。
 その音を合図に、すべての視線が一点へ向かう。
 ルシアン・ド・ヴァレンヌ公爵。
 漆黒の礼服に身を包み、背筋は矢のように真っ直ぐ。
 隣の席には、まだ青ざめた顔の娘フィオナが座っていた。
 対する被告席には、王太子レオンハルト。金糸の髪を揺らし、どこか余裕を漂わせた笑みを浮かべている。その横にはエルマー・グレイソン、さらに白扇を携えたエメリア伯爵令嬢。
 まるで芝居の舞台だ。だが、誰も笑わない。
 ここで敗れた者は、名も家も地に落ちるのだから。
 ◇
「原告、発言を許す」
 長官の声に、ルシアンは一歩前へ出た。
 書類の束を片手に、低く響く声で口を開く。
「本件は、王太子殿下による一方的な婚約破棄、及び寄付金の不正流用疑惑に関するものである。
 殿下の婚約者であった我が娘フィオナ・ド・ヴァレンヌに対し、理由なき破棄を宣言したうえ、孤児院寄付金を個人遊興に流用した証拠が存在する」
「異議あり!」
 エルマーが即座に立ち上がる。
 「寄付金の件は我らに関係ない!」と声を張り上げたが、公爵は一瞥もくれなかった。
「殿下に関係がない? ならば、この書類を説明していただこう」
 公爵が差し出したのは、先日入手した受領書の写し。魔力痕が淡く光る。
 長官がその書類を浮遊魔法で掲げると、会場にどよめきが走る。
「王立孤児院運営費十二万クラウン――受領者、宰相補佐代理エルマー・グレイソン。仲介、伯爵令嬢エメリア。殿下の署名印影付き。
……なるほど、確かに殿下の魔力波形と一致しているな」
「そ、それは! 殿下が知らぬ間に!」
 エルマーの額に汗が浮かぶ。
 殿下が顔をしかめた。
「エルマー、これはどういうことだ?」
「お、お戯れでございます、殿下! 書類の形式だけ――!」
「その“戯れ”のために、孤児たちは寒空の下で飢えている。あなた方の杯に注がれた金でな」
 公爵の声は静かだった。だが、静かだからこそ重い。
 長官の眉がわずかに動く。
「魔力鑑定の結果は、すでに王都司法局で確認済み。虚偽があれば、あなたの魔力が焼き印として浮かび上がる。さて、試してみるか?」
 エルマーの膝が音を立てた。
 その瞬間、観衆の一部が息をのむ。
 “公爵閣下が本気で王太子に喧嘩を売った”――その確信が広がっていく。
 ◇
「原告側証人、クロード・リヴェール。入廷を許可する」
 黒衣の青年が進み出た。
 調査報告書を提出し、淡々と証言を重ねていく。
「寄付金帳簿の改ざんは、エメリア伯爵令嬢の屋敷内で行われました。
 魔力痕は伯爵家の紋章魔力と一致。複数の使用人が“殿下のご命令”として口外を禁じられています」
「虚言だわ!」
 エメリアが立ち上がり、扇で顔を隠した。「私がそんなことを!」
「では問おう、令嬢」
 ルシアンが静かに問いかける。
「孤児院の寄付控帳に残る“あなたの署名”は偽造か?」
 沈黙。
 会場が一瞬、凍りついた。
「……それは、王太子殿下の……ご命令で……!」
 叫んだ瞬間、殿下の顔色が変わる。
 会場が騒然となり、護衛たちが前に出る。
「エメリア、黙れ! 貴様、自分が何を――」
「殿下!」
 長官の声が割って入る。「法廷における発言の制止は認められぬ。
証言を続けよ、伯爵令嬢」
 涙混じりの声が震えながら続いた。
 ――寄付金の改ざんは、殿下の側近エルマーが主導した。
 ――殿下はそれを知りつつ、黙認した。
 ――破棄の理由は“娘が真実を暴こうとしたから”。
 フィオナは唇を噛んでうつむいた。
 公爵は彼女の肩にそっと手を置き、前へ進む。
「殿下。今、明らかになったのは“あなたが娘を傷つける理由”だ。 彼女が正しかったからこそ、邪魔だった」
「……くだらん。私は王太子だぞ。誰が私を罰する!」
「法だ」
 ルシアンの声が低く響く。
 「王族であろうと、罪は罪。あなたが守るべき国の掟は、あなた自身をも縛る」
 木槌が再び鳴る。
 長官が立ち上がり、判決の前段を告げる。
「本件、証拠および証言により、寄付金不正の事実を確認。王太子殿下レオンハルト、及び宰相補佐代理エルマー・グレイソンは、臨時停職のうえ財務局監査を受けるものとする」
 どよめきが広がった。
 殿下の顔から笑みが完全に消える。
 ルシアンはゆっくりと振り返り、娘に目を向けた。
 彼女は泣いていない。ただ、小さく頷いた。
 ◇
 裁判が終わった後、長い廊下の先で、王太子が公爵を呼び止めた。
 護衛たちは遠巻きに控えている。
「……覚えていろ、公爵。父上が戻られれば、おまえの首など――」「私の首より、娘の名誉の方が重い。覚えておくのは、そちらだ」
 ルシアンは背を向け、歩き出した。
 王太子の声は追ってこなかった。
 廊下に響く靴音だけが、静かに続いていく。
 ◇
 その夜。
 ヴァレンヌ邸の庭園で、ルシアンは娘と並んでいた。
 満月が静かに降り注ぐ。
「……怖くは、なかったか」
「少し。でも、お父さまが隣にいてくださったから」
 フィオナは微笑んだ。
 公爵の胸に、ようやく重いものがほどけていく。
「おまえは正しい。正しい者が泣かされる国に、未来はない。
 私は――父として、それを正しただけだ」
 風が、白い薔薇を揺らす。
 その花びらが一枚、夜空へ舞い上がった。
 そして、ルシアンの瞳が再び鋭く光る。
「だが……まだ終わりではない。
 殿下の背後に、“黒幕”がいる。エルマーごときでは動かせぬ金の流れだ」
 彼は夜空を見上げた。
 月が雲に隠れた瞬間、ひとすじの影が屋根を走った。
 クロードだ。
「報告です、公爵閣下。――王妃陛下が、寄付金帳簿に署名を」
 風が止まった。
「……そうか。やはり、そう来たか」
 ルシアンはゆっくりと立ち上がる。
 その背は、王国の闇に向かって再びまっすぐだった。
 
 ││第3話「王妃の影」へ続く。

第3話 王妃の影
 夜の王都は、昼よりも静かだ。
 だが、静けさの奥では、いつも何かが蠢いている。
 ルシアン公爵の書斎に灯る明かりは、真夜中を過ぎても消えなかった。
 机の上には寄付帳簿の複写、王都裁判の記録、そして王妃クラウディアの署名が入った一枚の文書。
 その署名の筆跡は、まぎれもなく本物だった。
 扉がノックされる。
 現れたのは黒衣の密偵、クロード。
「裏が取れました。王妃陛下は孤児院の名義で“王室特別基金”を設立し、そこから一部を個人の宝飾商に流していました。殿下は知らぬふりをして、遊興費として受け取っていたようです」
「……つまり、金の源流は王妃だ」
「はい。さらに、伯爵令嬢エメリアの父上は、その基金の管理役に任命されています」
 公爵は眉間に皺を寄せた。
 王妃の行動は、ただの金銭欲に見えた。だが、表向きは「孤児院支援」。誰も逆らえない善意の仮面だ。
 娘を婚約者から引き離した理由も、王妃の計算かもしれない。「王家の金に手を出し、娘を犠牲にしてまで帳簿を隠すとは……」
「どうされますか、公爵閣下」
 ルシアンは立ち上がった。
 その横顔に、迷いはない。
「再び、法廷に立つ」
 
 翌朝。王城の謁見の間。
 王妃クラウディアは、白金の衣装をまとい、微笑を浮かべていた。
 その笑みは氷のように完璧で、冷たかった。
「まあ、公爵閣下。夜明け早々にお越しとは。何かしら、また法の話かしら?」
「ええ。陛下の“寄付事業”について、少々お伺いを」
 王妃の扇が止まった。
 背後に控える侍女たちが、息をのむ。
「寄付事業? あなた、まさか王族の務めに異を唱えるつもり?」
「異を唱える気はありません。ただ、陛下の署名の入った帳簿が、財務局に保管されていない理由を確認したい」
 王妃の瞳が細くなった。
 数秒の沈黙。扇の骨が音を立てる。「……その帳簿、どこで手に入れたのかしら?」
「正規の調査です。法廷にて提出済み」
 王妃は微笑みを戻し、ゆっくり立ち上がった。
 その仕草ひとつで、部屋の空気が支配される。
「公爵。あなたの娘が王太子の婚約者でいられなかったのは、彼女が王家に“ふさわしくなかった”から。血筋でも、品位でもない。
“従順さ”の問題よ」
「王家に従うことが品位だと?」
「そうよ。秩序を守るとはそういうこと」
「秩序を守るのは、法です。人ではない」
 王妃の微笑が消えた。
 次の瞬間、玉座の扉が開き、王太子レオンハルトが入ってきた。
「母上、何を話している」
「殿下」
 公爵が向き直る。「あなたも耳に入れておきたい。孤児院寄付金を経由した不正の件、王妃陛下の名が署名にあります」
「馬鹿な!」
 レオンハルトは拳を握る。「母上がそんなことをするわけがない
!」
 王妃は殿下の肩に手を置いた。
 その声は甘やかでありながら、刃のように鋭い。
「落ち着きなさい、レオン。彼はいつも理屈ばかり。父王の側近であった頃から、面倒な正義を振りかざすのよ」
 ルシアンは静かに頭を下げた。
 「ならば、その“面倒な正義”が、陛下をお守りする最後の壁となるでしょう」
 王妃の瞳が光った。
 「……脅すつもり?」
「脅しではなく、忠告です」
 そこへ、王の侍従が駆け込んできた。
 「陛下! 急報です。財務局から、王室基金の支出不明金について、調査命令が下されました!」
 王妃の顔がわずかにこわばる。
 ルシアンは深く一礼し、踵を返した。
「これにて失礼いたします。次は、王の御前にてお話しいたしましょう」
 
 王妃は静かに笑った。
 その笑いには、かすかなひびが入っていた。「愚かな男ね、ルシアン……。あの娘を守るために、王家すら敵に回すとは」
 
 夜。ヴァレンヌ邸。
 公爵は娘の部屋の前に立ち、しばらく扉を見つめた。
 中では、フィオナが机に向かって何かを書いている。
「父上」
 気づいた娘が顔を上げた。「王妃陛下と……お話を?」
「ああ。いずれ、法廷の場に立つことになるだろう」
「怖いですか?」
「怖くはない。ただ、長い戦いになる」
 フィオナは微笑んだ。
 「なら、わたしも戦います」
「おまえは、もう十分に強い」
 公爵はそっと頭を撫でた。
 その手は、剣を握るよりも優しかった。
 
 ――翌朝。
 王都全域に一枚の布告が貼り出された。
 《王妃クラウディア陛下、財務局監査対象とする。臨時審理、近日開廷》
 街はざわめき、貴族たちは顔を見合わせた。
 そして、人々の口にひとつの名が広がる。
 ――断罪公爵、再び動く。
 
 次回 第4話「王太子の罪」

第4話 王太子の罪
 王都に朝靄が降りた。
 広場に集まる民の視線は、王城の高塔へと向けられている。
 その上階――王都裁判の特別法廷。
 本日、再びルシアン・ド・ヴァレンヌ公爵が立つ。今度の相手は王妃クラウディア、そしてその背後に控える王太子レオンハルト。
 
 法廷内は、異様な緊張に包まれていた。
 王家直属の警備兵が左右に並び、貴族たちはざわめきながらも沈黙を保っている。
 中央にはルシアン公爵と、傍らに座る娘フィオナ。
 対する側には、王妃と王太子。その二人の間には、深い溝が見えた。
 木槌が鳴る。
 司法長官マクシミリアンが開廷を告げる。
「案件名、王室特別基金の不正流用並びに婚約破棄に関する共謀疑惑。証人として王太子レオンハルト殿下、王妃クラウディア陛下を召喚する」
 王妃の顔には余裕の笑み。だが王太子の視線は落ち着かない。
 昨日までの高慢さは、もうどこにもなかった。「原告側、発言を」
 ルシアン公爵が立ち上がる。
 声は静かだが、法廷全体に響いた。
「この件は、単なる金銭問題ではない。
 ――娘を守るために、真実を問うものだ。
 王太子殿下が婚約破棄を宣言した理由は、王妃陛下の指示によるものであり、孤児院基金の帳簿を隠蔽するための策略であった」
 ざわめきが広がる。
 王妃は扇をゆるく開き、微笑を浮かべた。
「証拠があるのかしら?」
「ございます」
 ルシアンは書類束を掲げた。
 クロードが差し出した封筒には、王妃自筆の命令書の写しが封入されている。
 孤児院支援金の再分配を指示し、その先に“王室宝飾商グレイス商会”の名が記されていた。
 マクシミリアン長官が目を通し、眉をひそめる。
「この書式、間違いなく王室の印章であり、王妃陛下の署名……」
「偽造です!」
 王妃の声が響く。 しかし、魔力検知結晶がその文書にかざされた瞬間、淡い青光が浮かんだ。
 署名の魔力波形が、王妃本人の魔力と完全一致。
 法廷中が息をのんだ。
「……王妃陛下、これでも偽造と?」
「そ、そんなはずは――」
「殿下」
 ルシアンが、静かに王太子に視線を向ける。
 「あなたもご覧になったはずだ。母上の許可で寄付金を使った夜会、王立倉庫から持ち出された金貨箱。あれは誰の命で行われた?」 レオンハルトの唇が震える。
 母を庇うか、真実を語るか――その迷いが、若き顔を苦しめていた。
「殿下、答えてください」
 沈黙が続く。
 その間、フィオナは父の背中をじっと見つめていた。
 怒りでも、憎しみでもない。そこにあるのは、まっすぐな誇り。
 王太子はゆっくり顔を上げた。
「……確かに、母上の許可を得ていた。私は……見て見ぬふりをした。それが罪なら、私はそれを受け入れる」 ざわめきが爆発した。
 王妃が椅子を蹴り立ち上がる。
「レオン! あなた、何を――」
「母上、もう終わりにしましょう。私は、王として恥ずかしいことをした」
 王妃の顔から、すべての血の気が引いた。
 マクシミリアン長官が木槌を振り下ろす。
「証言を記録する。王太子殿下自身の認めにより、本件の不正および婚約破棄における共謀が成立。よって、王妃クラウディア陛下は一時謹慎、王太子レオンハルト殿下は王位継承順位を一時停止とする」
 会場が騒然となる中、王妃は呆然と立ち尽くした。
 ルシアンは静かに娘の方へ向き直る。
「終わったな」
 フィオナは泣かなかった。ただ、深く礼をした。
「お父さま……ありがとう。私、あのとき、間違っていなかったんですね」
「ああ。正しいことをした人間が報われるようにするのが、法の務めだ」
 法廷を出たとき、王都の空は曇っていた。 だが、公爵の胸の中には、久しぶりに澄んだ風が吹いていた。
 
 その夜、王城では静かな政変の噂が流れた。
 王妃は王宮を離れ、修道院へ。
 王太子はすべての職を辞して、国外修行の名目で姿を消す。
 
 ヴァレンヌ邸の庭で、フィオナが父に尋ねた。
「これで平和になりますか?」
「しばらくはな」
「……お父さまは、これからどうされるんですか?」
 ルシアンは空を見上げた。
 薄雲の向こうに、朝の光が滲んでいる。
「法を整える。誰かが泣く前に、正義が届くようにな」
 娘が頷く。その瞳には、かすかな笑み。
 白い薔薇が一輪、風に揺れた。
 その花びらは、かつての涙の色によく似ていた。 ――だが、遠く離れた北方の国境都市。
 そこに一人の騎士が立っていた。
 亡命の途中、青い外套を羽織った若者――王太子レオンハルト。
 彼の傍らには、傷だらけの剣と、閉ざされた日記帳。
 その表紙には、ひとつの名が刻まれていた。
 “フィオナ・ド・ヴァレンヌ”
 
 物語は終わらない。
 断罪のあとにも、贖罪の道がある。
 ――第5話「贖罪の王太子」へ続く。

第5話 贖罪の王太子
 灰色の空が、北方の大地を覆っていた。
 かつて黄金に輝いていた王太子レオンハルトの姿は、いまや旅人のそれに変わっていた。
 剣を腰に下げ、煤けた外套を羽織り、泥にまみれた長靴で凍える街道を歩く。
 かつて彼の行く先には拍手と歓声があった。
 いま、聞こえるのは風の音だけだった。
 
 王妃クラウディアの失脚から三か月。
 王太子の名は王国記録から消され、王族ではなく、ただの“レオン”として追放処分を受けた。
 だが、それでも彼は剣を手放さなかった。
 王都を去るとき、ただひとりの男が声をかけた。
 ――ルシアン公爵。
「贖う気があるなら、どこへでも行け。罪は他人に消されるものではない。
 だが、正義を知ったなら、それを無視することもまた罪だ」
 その言葉が、今も胸の奥でくすぶっていた。 雪混じりの風が吹く。
 小さな集落の前で、レオンは足を止めた。
 壊れかけた看板には、「孤児院」と書かれている。
 そこに寄り添うように、小屋が二つ。中から子どもの泣き声が聞こえた。
 扉を開けると、細い腕の女が倒れていた。
 頬はこけ、唇は青い。
 薪も尽きていた。
「大丈夫か」
 女は目を開け、弱く笑った。
 「助けて……子どもたちが……」
 部屋の隅には、小さな影が三つ。
 寒さに震え、古びた毛布にくるまっている。
 レオンは無言で剣を外し、外へ出た。
 凍った木を割り、火を起こす。
 薬草を煮出して、女の口元にあてがった。
「……あなたは、どなた?」
「ただの旅人だ」
「そんな……その瞳……王家の……」 レオンは微笑んだ。 「似ているだけだ」
 
 それから数日、彼はその孤児院で働いた。
 薪を割り、子どもたちに読み書きを教え、畑を耕す。
 やがて村人たちは彼を“先生”と呼ぶようになった。
 夜には、月明かりの下で子どもたちが歌う声が響いた。
 その歌は、王都の祝典で歌われていた賛歌。
 皮肉にも、王太子自身が作曲を命じたものだった。
 だが、いま耳にするそれは、あの日よりずっと温かく、美しかった。
 
 ある夜。
 焚き火のそばで、レオンは懐から一冊の古びた日記を取り出した。
 表紙には金の文字で名前が刻まれている。
 “フィオナ・ド・ヴァレンヌ”
 指先でなぞる。
 あの日、自らが壊した婚約の名。
 許されるはずのない過去。
「……君は、まだ父上のそばにいるのだろうか」 呟きは、風に溶けて消えた。 翌朝、遠征の兵が村を通った。
 北の国境で反乱が起き、王国の援助が遅れているという。
 孤児院にも徴発の命が下った。
「先生、兵隊さんが食料を取っていく!」
 子どもたちが泣きながら駆けてきた。
 レオンは剣を掴んだ。
 「ここは民の避難所だ。軍の権限では踏み込めないはずだ」
 しかし、兵たちは笑った。
 「命令だ。文句があるなら王都へ言え」
 レオンの瞳が光る。
 「……なら、私がその“王都”だ」
 一瞬で剣が抜かれた。
 炎が散り、冷気が弾ける。
 兵の槍を弾き、足払いで倒す。
 剣筋には迷いがなかった。
 数分後、兵たちは地に伏していた。
 怪我人は出たが、誰も死んではいない。
「帰れ。次に来るときは、法を学んでからだ」 その場を見ていた村人たちがざわめく。
 「……あの戦い方……王族騎士団と同じだ……」
 噂は瞬く間に広がった。
 ――亡命した王太子が北で民を守っている、と。
 
 数週間後。
 その噂は、王都ヴァレンヌ邸にも届いた。
 フィオナは手紙を握りしめ、震える声で父に尋ねた。
「お父さま……レオン殿下が、北の孤児院を……?」
「ああ、確かだ」
 ルシアンは静かに頷く。「罪を償おうとしている。口で謝らず、手で正し始めた」
「……行ってもいいですか」
「危険だ。だが、行くなら止めはしない」
 フィオナの瞳に、強い光が宿る。
 「彼が罪を背負うなら、私はその目で見るべきです」
 
 雪原の果て、孤児院の灯りが見える。
 扉を開けた瞬間、レオンが振り返った。 風の中、二人の視線が交わる。
 長い沈黙。
「……来てくれたのか」
「はい。あなたが、変わったと聞いたから」
 レオンは笑った。
 それは、かつて王都で見せたどんな笑みよりも、穏やかだった。
「変わったのではない。やっと、見えるようになっただけだ」
 
 夜。
 二人は焚き火を囲んだ。
 雪が静かに降り続ける。
「私は、あなたに許される資格などない。それでも――」
「それでも、あなたは誰かを救おうとしている。その姿を、私は誇りに思います」
 フィオナの声は、炎の音に溶けた。
 レオンは剣を抜き、焚き火にかざした。
「この剣はもう、誰かを守るためにしか振るわない」 遠くで、風がやんだ。
 夜空には、薄雲の切れ間から星がひとつ輝く。
 かつて断罪の炎が灯った場所に、
 今は、静かな赦しの光がともっていた。
 
 ――第6話 父の誇り、娘の未来 へ続く。

第6話 父の誇り、娘の未来
 春の訪れは、雪国でもゆっくりやって来る。
 凍っていた大地に、小さな緑が顔を出し、風に混じって花の匂いが戻ってくる。
 その風の中で、ヴァレンヌ公爵家の旗が穏やかに揺れていた。
 ルシアン・ド・ヴァレンヌは、王都の執務室で報告書に目を通していた。
 王の命により、彼は新設された“王国再生院”の総責任者に任命されている。
 王妃の不正で揺れた国を、もう一度法の力で立て直すためだ。
 机の上には、ひとつの封書。
 送り主の名は――フィオナ。
 
 封を開くと、柔らかな筆跡が並んでいた。
 〈北の村は、ようやく春を迎えました。
  子どもたちは元気に畑を走り、レオン殿下――いいえ、“先生
”は、今日も一緒に働いています。
  彼はまだ罪を忘れていません。けれど、それを背負いながら誰かのために動いています。
  私はそれを、毎日、誇らしく見ています〉
 文章の最後に、細い線で描かれた小さな絵。 木の下で笑う子どもたちと、微笑む男女――まぎれもなく、フィオナとレオンだった。
 
 ルシアンは、無意識に微笑んでいた。
 冷たかった指先に、わずかな温もりが戻る。
 「……そうか。あの愚か者も、やっと人になったか」
 
 そこへ、執事クロードが入室した。
 「公爵閣下。陛下からの御伝令です。北方復興の指揮を、ヴァレンヌ公爵家に一任されたいとのこと」
 ルシアンは一瞬だけ考え、窓の外に目を向けた。
 王都の空は高く、青かった。
 その向こうに、北の空が見えるような気がした。
 「――断る理由はない。だが、現地の指揮官に名を加えておけ」
 「は。どなたを?」
 「レオン・ヴァレンヌ」
 クロードの目がわずかに見開かれる。
 「……殿下を、ヴァレンヌの名で?」
 「王太子ではなく、人として戻ってくるなら、門は閉ざさん」 数日後。
 北方の村では、新しい朝が始まっていた。
 フィオナは孤児院の屋根に干していた布を降ろし、レオンと肩を並べる。
 「先生、王都からの伝令が来ています」
 封書を開いたレオンは、しばらく言葉を失った。
 文面の末尾には、父の署名があった。
 〈――レオン・ヴァレンヌ。
   民のために剣を振るう者として、王国再生院北方支局の任を委ねる〉
 彼はその場で深く息を吐き、空を見上げた。
 青空が眩しい。
 「父上は、まだ私を見ていたのか」
 「ええ。ずっと見ています。あなたがどう変わるかを」
 フィオナの声は柔らかく、雪解け水のように澄んでいた。
 レオンは小さく笑う。
 「……なら、もう逃げない」 その日の夕方、村の広場では新しい学校の基礎石が置かれた。
 子どもたちが笑い、村人たちが手を取り合う。 レオンはその中央で、一本の鍬を握っていた。
 隣にはフィオナがいる。
 「昔の俺なら、こんな泥だらけの仕事はしなかっただろうな」
 「今のあなたの方が、ずっと輝いています」
 風が吹き抜ける。
 春の光の中、二人の影が重なった。
 
 ――王都では、その報告を聞いたルシアンが、静かに空を見上げていた。
 「法も、人も、時に間違う。
  だが、正しさを思い出せる者がいるなら――この国はまだ立ち上がれる」
 机の上には、白い薔薇が一輪。
 かつて娘の婚約式のために用意したものだった。
 彼はその花をそっと窓辺に置き、目を閉じた。
 暖かな風が、書類の端を揺らす。
 
 父の誇りは、
 娘の未来へと受け継がれていく。
 そして――断罪ではなく、赦しの物語が、
 静かに、王国に根を下ろしていった。
 
 ――完――