1話 はじまり
――パチパチ、と木がはぜる音がした。
焦げた匂いが鼻をつき、肌を焼く熱が頬を撫でる。
群衆の罵声が、遠くに聞こえた。
「悪役令嬢レイシア・クローディア。王国への反逆罪により、死刑を――」
その声の続きを、私は聞かなかった。
目を閉じる。涙ではなく、炎の赤が瞼の裏を染める。
あぁ、これで終わりだ。誰も、私を赦さない。
――なのに。
目を開けた先にあったのは、真紅の絨毯と黒曜石の床。
闇の王座。その前に、膝をつく男がいた。
漆黒の髪、黄金の瞳。私を見上げながら、静かに呟く。
「……ようやく、戻ってきてくれたな」
理解が追いつかない。
処刑されたはずの私は、生きている。
しかも、目の前の“魔王”が――私に跪いている。
運命の歯車が、再び音を立てて回り始めた。
これは、断罪の続きを生きる物語。
そして――滅びた恋の、再生譚。
第二話 魔王の腕の中で、目覚める悪役令嬢
柔い布が、火照る額に触れた。香は薔薇ではない。冷えた雨上がりと、遠い雷の匂い――それが、この城の匂いなのだと直感した。
「……目を、開けられるか」
低い声。朝露のように静かで、刃の背のように冷たい。それでも、その声が私の名前を置くときだけ、温度が変わるのを耳が覚えている。
「……私の、名を」
問うと、彼はわずかに眉を寄せた。黄金の眼差しが、夜の湖に落ちる灯のようにわずかに揺れる。
「レイシア。おまえはレイシアだ。――俺の婚約者だ」
婚約者。喉がひきつる。熱の残る胸の奥で、断罪の日の群衆の唾と嘲笑がぶり返す。火刑台の木が濡れていたこと。縄が肌に食い、笑い声が遠く響いたこと。最後に、あの塔の上で誰かの声がして― ―そこで記憶が切れている。
「ありえないわ。私は……王国の悪役令嬢よ。反逆者として、死んだはず」
「死んだ。――だから、こちらに連れ戻した」
さらりと言う。生半可な慰めではない。既に起こったことをただ述べる口調。けれどその裏に、石に染み込んだ雨のような焦燥を、私は嗅ぎ取ってしまう。
「あなたは……誰」
「名を言っても、今は信じないだろう。だが思い出す。おまえの
記憶は、契約の反動で封じが掛かっているだけだ」
契約。胸の奥、左の脈に沿った場所が、ひどく疼く。そこに何か、焼印のような熱がある気がして、私は反射的に上半身を起こした。首元の布がずれ、肌に冷たい空気が触れる。そこには黒い紋が、薔薇の棘にも似た曲線で刻まれていた。見たことのない紋章。なのに ――知っている、と身体が言った。
「触るな」
彼の手が私の手首を包む。驚くほどやさしい力で、しかし拒ませない確かさで。血が逆流するみたいに鼓動が早まる。
「その紋は、おまえの命綱だ。粗く扱えば、記憶が戻る前に“契約”が軋む」
「契約って、何の?」
彼は少しだけ黙り、やがて視線を窓へ向けた。黒曜の壁を伝って、白い稲光が遠く走る。雷鳴。雨の匂いが濃くなる。
「――おまえは、俺の名を呼んだ。『もし私が滅ぶなら、あなたにすべてを賭ける』と」 喉の奥がひゅ、と鳴った。知らない言葉。けれど舌がそれを確かに発音した日の、温度だけが蘇る。夜風。高い塔。自分の脈と、相手の脈が重なり合う瞬間。
「嘘よ。私は……あなたを知らない」
「知っているさ」
彼はわずかに笑う。笑う、というには硬い、けれど確かな弛み。 「おまえはいつも、知らないふりをする。弱いと告げるより、無知を装う方が、傷が浅いと――そう学んだ女だ」
胸のどこかが、ひび割れて、冷たい手が内側から触れたように痛む。どうして。どうして、その癖まで。
「……あなたは、本当に魔王なの?」
「そうだ。王冠と呼ばれるより、ここでは“盾”と呼ばれることの方が多いがな」
「盾?」
彼は応えず、代わりに床に膝をついた。私の視線の高さに身を置くように、端然と跪く。手の甲が、私の足元の絨毯に触れる。
「歓迎の礼だ。戻ってきた婚約者に。――レイシア、俺はおまえに泣きつくために、王であることを選んだ。おまえが生き延びる世界を作るためにな」 その言葉が、火刑台の赤を洗う雨になって、胸の煤を剥いでいく。
愚かしい。滑稽。けれど、信じたい。信じてしまえば、楽になる。
そう自分に言い聞かせた瞬間――扉が、荒々しく開いた。
「陛下! “境界層”が振動しています!」
黒い鎧の兵が、稲光を背に飛び込んできた。彼は振り向かず、短く問う。
「閾値は」
「第三段階です。王国側の聖堂が、こちらの結界に楔を打ち込んだ可能性が――」
「――迎撃は要らない」
魔王の声は、雷より静かで、雷より速い。
「観測と記録だけだ。手を出すな。楔の正体が“彼女”に触れる類のものなら、こちらの干渉は逆効果になる」
兵は一瞬、私を見た。敬礼し、消える。扉が閉じ、部屋に再び雨音だけが満ちる。
「……王国が、私を狙ってる?」
「おまえを“奪い返す”つもりだ。断罪は演出、殺意は本物。だが――」 魔王は視線を落とし、私の左胸の上、黒い紋の少し手前で指を止めた。触れない。触れないまま、体温だけで距離を測っている。
「もう二度と、渡さない」
息が詰まる。焦げ跡に触れられているような、甘くて苦い痛み。
「……証明して」
自分でも驚くほど、小さな声が、口から零れた。
「あなたの言葉が、真実だって。私が――あなたの婚約者だったって。何でもいい。ひとつだけ、私しか知らないことを教えて」
魔王は、ゆっくりと目を閉じた。記憶を辿る者の呼吸。彼は語る。
「おまえは、眠る前に枕の下へ手紙を差し込む癖がある。誰にも見せない手紙だ。宛名はいつも同じ、“いつかの私へ”。内容は―
―」
彼はそこで言葉を切り、私の顔を見た。「続けようか?」という沈黙の問い。私は、知らず首を横に振っていた。手のひらが汗ばむ。
なぜ、知っているの。私しか知らない、弱い夜の儀式を。
「……読んだの?」
「読んでいない。宛名が、俺ではなかったからな」
喉が軋む音が、自分にだけ聞こえた気がした。たしかに私は、そう綴っていた。断罪の前夜まで。いつかの私へ――それは、未来の誰かに託すには、あまりにもみじめで、あまりにも切実な手紙だったから。
「もう一つ」
彼は続ける。
「おまえは左耳の裏に小さな痣がある。幼い頃、兄の剣の鍔で打った跡だ。晴れの日にしか痛まない。だからおまえは晴れの日の行事が嫌いだ。笑うのが、少しだけ遅れるから」
耳の後ろが、疼いた。晴れの日の儀礼――宮廷の集合写真で、私がわざと端に立つ理由を、誰も知らなかったはずなのに。
「……本当に、知っているのね」
「おまえのことは、何でも」
魔王は立ち上がり、窓へ歩む。外は、雷鳴が遠ざかり、雨の筋だけが残っていた。彼は指先で、ガラスに見えない印を描く。空気がわずかに震え、雨脚が変わる。部屋に満ちていた煙のような重苦しさが、ひと息で薄れていった。
「境界層の楔は、恐らく“追跡”だ。おまえの魂に印をつけ、こちらの世界でも位置を測る術式。王国の聖堂は、扱えるはずがない。
裏に、もっと古い何かがいる」
「私を、また火刑台へ?」
「連れて行かせはしない。だが――」 魔王は振り返り、わずかに笑った。今度の笑みは、雷ではなく、燈の色をしている。
「反撃は、証を揃えてからだ。おまえの“言葉”が必要になる。思
い出せ、レイシア。断罪の日の直前、塔の上で俺とかわした約束を。俺はおまえに頼んだ。“もし俺が王であるなら、俺の名を呼べ”と」
名。彼の――。舌の奥に、錆びた鍵の感触がした。外し方を知っているはずなのに、手が震えて回せない鍵。
「……怖い」
正直に言った。怖れは恥ではない。けれど、弱さを口にしたのは、たぶん初めてだ。
「怖がっていい。俺がいる」
その言葉は、不思議と重くない。鎧ではなく、羽織の重み。肩にそっと掛けられる種類の温かさ。
「休め。次に目を覚ますとき――“彼”の名を思い出す準備ができている」
「彼?」
「おまえが俺を呼ぶ、たった一つの“本当の名”だ」
彼は部屋を出ようとして、ふと振り返る。ほんの少し迷ったように見え、結局は何も言わず、扉の向こうへ消えた。 静けさが戻る。雨の匂い。枕の下に手を伸ばす。紙はない。けれど、指はそこに、手紙の角の感触を探す癖のまま、ゆっくり止まる。
――いつかの私へ。
声にならない文字を反芻した途端、瞼の裏に火が戻る。赤ではない。夕焼け色。塔の上。風。彼の影。私の髪がほどけて、口元に彼の指が触れ――
《レイシア。呼べ。俺の名を》
脳裏に、彼の声が落ちてきた。胸の紋が、微かに熱を帯びる。苦しくない。懐かしい痛み。
名が、喉元までこぼれた。けれど、最後の一音が出ない。私は唇を噛み、目を閉じる。
――次に目を開けたら、言えるかもしれない。
そう思って、私は眠りへ落ちた。
遠くで雷が笑い、雨は静かに、王城の屋根を洗い続けていた。
第三話 封印の記憶、目覚めの名前
夜明け前。雨は上がり、雲の切れ間から薄い光が差していた。
私は夢を見ていた。
塔の上で、彼と向き合う夢を。
「もし、わたしが死んでも――」
『その名を呼べ。俺が行く』
燃える塔、崩れる床、伸ばした手。
名前。確かに口にしたはずなのに、その音だけが霧のように消えていく。
目を開けた瞬間、胸の奥が熱を帯び、黒い紋が微かに光った。
「思い出しかけているな」
ベッドのそばに立つ影――魔王だった。
夜の鎧をまとい、黄金の瞳だけが朝光を映している。
その表情は穏やかで、それでいて、どこか祈るように切なかった。
「おまえの夢は、俺にも届く。契約の副作用だ。……塔の夢を見たのだろう?」
私は息をのむ。頷けない。けれど彼の瞳が、すでに答えを知っていた。
「なぜ、わたしを蘇らせたの?」 「理由は一つだ。――俺はまだ、あの日おまえに答えていない。」
「答え?」
「『愛している』という言葉を。」
その瞬間、心臓が跳ねた。
魔王がそんなことを言うなんて。
でも、胸の紋が脈打つ。まるでそれが“真実”だと告げるように。
彼は一歩近づき、膝をつく。
「だが時間がない。王国は“魂の印”を追っている。おまえをまた奪おうとしている。」
「どうすれば……止められるの?」
「簡単だ。俺の名を呼べ。それだけで、世界はおまえの味方になる。」
名――。喉の奥が疼く。
でも、出せない。
音を形にしようとした途端、頭の奥が焼けるように痛んだ。
「まだ封印が強いな」
魔王は私の額に手をかざす。
冷たいはずの掌が、驚くほどあたたかい。
光が流れ込む。過去の断片が一瞬ずつ蘇る。
――庭で笑う彼。
――夜明けの約束。
――手紙に書いた「いつかの私へ」。
全てが“彼”に繋がっていた。
けれど、最後の一枚、名前の記された手紙だけがまだ見えない。
「……あなたの名を、思い出せないのが、悔しい」
「焦るな。おまえの魂が自ら選ぶ時を待つ。」
魔王の声が、まるで祈りのように優しく響いた。
外の空が白み始める。
私は目を閉じる。胸の中で、熱と痛みと恋しさが混ざりあう。
――次こそ。思い出す。
断罪の日の約束を、あの名を。
そして、夜明けが訪れる。
王国と魔族の境界に、微かな震動が走った。
新しい戦いの兆しと共に。
第四話 断罪の日に交わした“約束”
――鐘の音が響いていた。
どこか遠く、懐かしい音。
それは夢の中の音なのか、それとも記憶の残響なのか。
目を開けると、窓の外に薄い霧がかかっていた。
魔王の城の朝は、世界がまだ眠っているように静かだ。
私はその静寂の中で、心臓の鼓動を確かめた。
――生きている。確かに、今、私はこの世界に存在している。
「よく眠れたか」
低く穏やかな声。
振り返ると、魔王――彼が、窓辺に立っていた。
鎧を脱ぎ、黒衣の上着だけを羽織っている。
夜明けの光が彼の横顔を照らし、まるで彫像のように美しかった。
「眠れたわ。でも、夢を見たの。……また、塔の夢を。」
魔王はゆっくりとこちらを振り返った。
「塔の夢。――それは“記憶の呼び声”だ。おまえの魂が、かつての約束を思い出そうとしている」
「約束……?」
彼は近づき、机の上の封筒を指さした。
黒い蝋で封じられたその封筒には、金糸で紋章が刻まれている。 見覚えがあった。胸の奥が微かに痛んだ。
「開けてみろ。それは、断罪の日の前夜、おまえが自らの手で書いた手紙だ」
震える指で封を切る。
中には、震える筆跡で書かれた一行だけの文字。
『もし私が死んだら、あなたの名を呼ぶわ――“リオル”』
――リオル。
その名を目で追った瞬間、頭の奥で何かが砕ける音がした。
火刑台の赤、夜の塔、焼け落ちる空。
そのすべての中心に、ひとりの男がいた。
“リオル”。
彼が、私の魔王。かつての恋人。かつての敵。
「思い出したのね」
魔王――リオルが、微かに笑った。
「おまえがその名を思い出した瞬間、契約の封印がひとつ解けた。 ……これで、おまえは完全に“こちらの世界”の存在になった。
」
胸の紋が淡く光り、痛みがすうっと消える。
それはまるで、鎖がほどけたような感覚だった。
「でも……なぜ、わたしを死なせたの? あの日、あなたは――」 問いかけの途中で、リオルの瞳が曇る。
「俺が殺した。
だが、それしか方法がなかった。おまえを生かすには、王国の儀式を“完遂”するしかなかったんだ」
「完遂……?」
「おまえの魂を守るために、形だけでも“処刑”が必要だった。
それが、王国と魔族の均衡を保つ“偽りの贄”の儀式――」
リオルの言葉は、静かな怒りに震えていた。
「俺たちは、愛し合ってはならなかった。
魔族の王と、人間の王女――おまえの血筋は、世界の均衡を揺るがす存在だったからだ」
胸の奥で、何かが軋む。
そんな理由で、あの日、私は――。
「わたしは……贄だったのね」
「違う。おまえは希望だった」
リオルが強く言い切る。
「誰も知らないところで、世界はおまえの命に救われた。
だが、その代償として、おまえは“記憶”と“人間としての時間”を失った」
「じゃあ、私は今……何なの?」
リオルは目を伏せた。
「半分は人間。半分は、魔の契約者。
……おまえは、この世界の境界に立つ者になった」
沈黙。
窓の外では、薄明の空が金色に染まり始めている。
鳥の声も、風の音も、遠い。
ただ、リオルの瞳だけが、私を確かにこの世界に繋ぎ止めていた。
「レイシア。もう一度だけ聞かせてくれ」
彼が私の手を取る。
「おまえは――それでも俺を、許せるか」
言葉が出ない。
許す、なんて簡単な言葉では足りない。
けれど、指先に伝わる熱が、あの日の約束を思い出させた。
「リオル。あなたの名を呼ぶことが、私の選んだ“赦し”よ」
その瞬間、黒い紋が完全に消えた。
同時に、空が揺れた。
遠く、王国の方向から、青い光柱が立ち昇る。
「――来たか」リオルが呟く。
「王国が、境界を越えた。断罪の続きが、始まる」
彼の背に、黒い翼が広がった。
私はその光景に息をのむ。
炎のように美しく、そして悲しい翼。
「行くのね」
「守るために。おまえを、そしてこの世界を。」 彼は手を差し出した。
私はその手を取る。
かつて処刑台で失ったはずの手。
いま、再びつながる。
――断罪の続きは、ここから始まる。
魔王と悪役令嬢、二つの罪を抱いた者の、もう一度の物語。
第五話 境界の崩壊と、もうひとつの断罪
空が裂けた。
王国の方角――東の地平に、眩い青の光柱が立ち上る。 その輝きは太陽のようで、けれどどこか異様に冷たい。
世界を照らす光ではなく、焼き払うための光。
「……来たな」
リオルが静かに言った。
その声には恐れはない。ただ、決意だけがあった。
「王国の聖堂が“境界層”を破った。奴ら、ついに禁忌の術を使ったな」
「禁忌……?」
「魂の楔だ。おまえの魂を王国に引き戻すための術。
本来、神聖教会の長老クラスにしか扱えないはずだ。」
リオルは窓辺に立ち、黒い外套を翻す。
その背に、先ほどよりもさらに濃い漆黒の翼が現れる。 「奴らは、おまえを“贄”として再利用するつもりだ。
あの光が届けば、魂ごと引き裂かれる」
「だったら……わたしも行く」
そう言った瞬間、リオルの黄金の瞳がわずかに揺れた。
「危険だ。おまえの身体はまだ完全にこちらの世界に馴染んでいない」 「でも、わたしのせいで戦いが始まるなら――このまま見ていられない!」
リオルはしばらく私を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……わかった。ただし、絶対に俺のそばを離れるな」
彼が手を伸ばす。
その指先に、微かな光が灯る。
まるで星のかけらのような淡い光。
「契約印の最終解放だ。おまえの記憶と力を繋ぐために」
触れた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
視界の隅に、無数の光景が流れ込んでくる――。
――断罪の日。
処刑台の上、燃える空。
リオルが王国の兵に取り押さえられ、私の名前を叫んでいる。
『彼女は無実だ! 彼女は俺の婚約者だ!』
それでも剣が振り下ろされる。
その刃が私を裂く瞬間、リオルの魔力が暴走し、王都が炎に包まれた。
そして、世界は――崩れた。
「……あの日、世界が分かれたのね」
「そうだ」リオルが答える。
「おまえの魂を守るために、俺は王国を滅ぼした。 その結果、世界は“人の領域”と“魔の領域”に分断された。
――おまえは、その狭間で眠り続けていたんだ」
私は言葉を失った。
自分の死が、世界を二つに裂いた――。
胸の奥が痛む。けれど、それ以上に、リオルの瞳が痛かった。
「おまえを救ったはずなのに、俺はすべてを壊した」
「……違うわ」
私は首を振る。
「壊したんじゃない。守ったのよ。
あの時、あなたが泣いていたのを、わたしは覚えてる」
リオルの瞳が揺れる。
その一瞬の隙に、窓の外――空の光柱が突然、脈打った。
「来る!」
リオルが私を抱き寄せる。
轟音。
結界が弾け、冷たい風が部屋に吹き込む。
光の中から、銀の鎧に身を包んだ聖堂騎士たちが姿を現した。
「王国の命により、悪役令嬢レイシアを回収する!」
その声は、かつて私を断罪した者たちと同じ響きだった。
私は咄嗟にリオルの腕を掴む。
彼は静かに、けれど絶対の力を込めて言った。
「俺の婚約者に手を出すな」
その声と同時に、空気が裂ける。
闇の剣が生まれ、光の壁を一閃した。
衝撃で聖堂騎士たちが吹き飛ぶ。
床が割れ、炎が迸る。
けれど彼らは、倒れてもなお祈りの言葉を口にした。
「神の名のもとに――魂を清めよ!」
青い光が、私の胸の紋を狙う。
熱。痛み。
魂が引かれる。
――このままでは、またあの日と同じ。
「レイシア!」
リオルの声が遠ざかる。
視界が白く染まり、耳鳴りが世界を覆う。
その時、誰かの声がした。
私の中の、もう一人の“私”の声。
『恐れないで。あなたは、もう贄じゃない。
今度は――選ぶ側よ。』
光が爆ぜた。
白い世界の中で、私は自分の右手を見た。
そこに刻まれていたのは、もう黒い紋ではなかった。
純白の紋章――光と闇、ふたつの世界を繋ぐ“境界の印”。
「レイシア……?」
リオルが息を呑む。 「まさか……“境界の乙女”の再誕――!」
世界が震えた。
青の光柱が砕け、空が赤く裂ける。
光と闇がせめぎ合う空の下、私ははっきりと見た。
――あの日、私を断罪した王。
父の姿が、光の中に浮かんでいた。
「……お父様」
リオルが剣を構え、私の前に立つ。
「世界は、再び裁きを始める。だが――今度は俺たちが選ぶ番だ」
風が巻き起こる。
境界が崩れ、ふたつの世界が交わろうとしていた。
第六話 神の影、裁きの王
空が震えていた。
光と闇の裂け目から、王国の神殿そのものが反転して浮かび上がる。
そこに立つのは、金の冠を戴く男――王。
けれどその姿はもう人ではなかった。
瞳は青白く光り、背には光の翼が六枚。
聖堂の神を宿した、神格化の儀。
「リオル、そして――我が娘レイシアよ」
その声は、神と王が混ざり合ったような響きだった。
「おまえたちは秩序を壊した。世界はひとつでなくてはならぬ」
リオルが前に出た。
「秩序のために命を奪うのが神の意志か?」
「命は秩序のためにある」
「違う。秩序は命を守るためにある」
言葉が刃になる。
ふたりの間に、雷光と闇がぶつかり合う。
大気が裂け、城の塔が崩れ、地の底から赤い炎が噴き出した。
「レイシア、下がれ!」
リオルが叫ぶが、私は動けなかった。
父の瞳の中に、確かに“かつての優しさ”が見えたからだ。
「お父様……どうして……」 「おまえを救うためだ。おまえを贄にすれば、この世界は癒える」
「それが救いだというのなら――私は拒む!」
胸の印が輝いた。
黒と白、二つの紋が重なり、眩い光を放つ。
空間が反転し、あの日の塔の上――断罪の記憶が現れた。
燃える空の下、私は火刑台に立ち、リオルは剣を握っていた。
そして、父は神官に囲まれ、涙を流していた。
『レイシア、赦せ。おまえを滅ぼしてでも、この国を守らねばならぬ』
その瞬間、私の中で何かが切れた。
炎が薙ぎ払うように、記憶の中の世界が崩れ、代わりに現在の空が開ける。
「もう赦す必要なんてない。
――私は、世界そのものを赦す!」
白い光が走った。
空を覆う光の翼が砕け、リオルの黒い剣と融合する。
彼が叫ぶ。
「レイシア、それは……境界の力!」
私の掌に、二つの世界の魔力が集まっていく。
光と闇が混ざり合い、まるで“夜明け”のような色になった。
「お父様。
あなたが守りたかったのは秩序じゃない。 ――人を想う心、そのものだったはず」
王が沈黙する。
光の翼が一枚、また一枚と崩れ落ちる。
やがて、彼の瞳が静かに人の色に戻った。
「……レイシア。私は……間違えたのか」
「いいえ。わたしも、間違えていた。
でも、間違えたままで――人は生きていいの」
その言葉とともに、空が裂け、境界が閉じていく。
光柱が消え、静かな夜が戻る。
リオルが膝をつき、血のような黒い霧を吐いた。
「リオル!」
駆け寄ると、彼は微笑んだ。
「大丈夫だ。ただの代償だ。境界を閉じたのはおまえだ。俺の役目は終わった」
「だめ。置いていかないで」
「置いていかないさ」
リオルが私の手を取る。
「約束しただろう。おまえが呼べば、俺は行く」
彼の身体が光に包まれていく。
その光は暖かく、懐かしい。
私の指先が、彼の輪郭をなぞる。
「リオル……」
「呼んでくれ。その名を、もう一度」
「――リオル!」
名を呼んだ瞬間、世界が息を吹き返した。
闇が晴れ、青空が広がる。
けれど、彼の姿はもうなかった。
風が吹いた。
その風の中に、微かに彼の声が混ざっていた。
『断罪は終わった。次は、生きる番だ――レイシア』
私は微笑んだ。涙が頬を伝って落ちる。
空に向かって手を伸ばすと、白い羽がひとつ、掌に落ちた。
その羽は、確かに――彼のものだった。
第七話 誓約の羽、再生の王女
――風が、静かに吹いていた。
空は透きとおるほど青く、まるで世界がひとつの長い溜息をついたようだった。
戦火の匂いも、断罪の鐘も、もうどこにもない。
ただ、手のひらの中に残る白い羽だけが、あの夜の証だった。
「リオル……あなたは、どこにいるの」
答えはなかった。
けれど羽は、微かに光を放っている。
まるで“まだここにいる”と、言ってくれているように。
足元に広がるのは、焦げた大地。
魔族の領域と人間の領域を分けていた“境界”が消え、
今はただ、ひとつの大地として広がっている。
私はそこに立ち尽くしていた。
静けさが、痛いほど優しい。
「レイシア様」
背後から声がした。
振り返ると、黒衣の兵士たち――かつてリオルに仕えた魔族の将たちが跪いていた。
その中の一人が、胸に手を当てる。 「魔王陛下の遺志を、我らが継ぎます。
どうか我々に、新たな王の名を」
私は首を振った。
「王はもう要らないわ」
彼らの表情が一瞬、揺れた。
「この世界は、もう秩序と支配で守られるものじゃない。
リオルが教えてくれた。
“王とは守るために跪く者”だって。」
私の視線は空を仰いでいた。
あの青の中に、彼の声が今も漂っている気がした。
「だから――私は跪く王になる。
誰かの上に立つんじゃなく、誰かのために膝をつく王女として。
」
その言葉に、兵たちの表情が柔らかくなった。
風が吹く。
羽が宙に舞い上がり、七つに分かれた光が空へ昇っていく。
「……七つの羽」
誰かが呟く。
その瞬間、私の胸の印が淡く光った。
焼けた大地から緑が芽吹き、崩れた塔が光の粒となって空へ還る。
まるで世界そのものが“再生”を始めていた。
「リオル……あなたの力、まだこの世界に……」
風が頬を撫でる。
囁くように、声が聞こえた。
『世界を許せ、レイシア。そうすれば、俺はどこにでもいる。』
涙がこぼれた。
でも、もう悲しくなかった。
それは、痛みではなく“生きている証”のように温かかった。
私は羽を胸に抱く。
「ありがとう、リオル。
あなたの名は、私の中で永遠に生き続ける」
――その時だった。
空の彼方、王国の旧都跡から光が昇る。
白い衣をまとった少女が、ゆっくりと歩み出てきた。
その瞳は琥珀色。
どこか、リオルに似ていた。
「あなたは……?」
少女は微笑んだ。
「私は“誓約の羽”。リオルの魂の欠片。
あなたが彼を呼んだとき、わたしは生まれました」
「彼の魂……?」
少女は頷き、私の手を握る。
その温もりは、あの日の彼と同じだった。
「リオルは、もう姿を持たない。
けれど、あなたの中に“願い”として生きている。
だから、彼は決して消えない。」
私は泣きながら笑った。
「……そうね。あの人は、いつもそうだった。
消える時も、ちゃんと希望を残していく。」
少女は手を離し、空に向かって両手を広げる。
羽が風に舞い、光が世界中に散っていった。
「これで、世界は繋がる」
少女がそう言った瞬間、空の色が変わった。
境界線が完全に消え、空の青と地の緑がひとつになる。
新しい世界。
断罪のない世界。
誰もが赦し合える場所。
私は空を見上げ、静かに目を閉じた。
――リオル。
あなたが守ろうとした未来、今ここにあるよ。
私は、あなたが愛した世界で、生き続ける。
そして、再び歩き出す。 “断罪の続き”ではなく、“救いの始まり”として。
第八話 神なき楽園、祈りの再生
陽が昇る。
かつて断罪と呼ばれた朝が、今は静かな祝福の光となって世界を包んでいた。
灰色だった大地は芽吹き、黒煙を上げていた塔の跡からは清らかな泉が湧き出している。
鳥の声が戻り、風が歌を運ぶ。 誰もが泣きながら笑っていた。
――世界が、生き返ったのだ。
私は城のバルコニーに立ち、その光景を見下ろしていた。
かつて火刑台だったこの場所は、いまや「祈りの丘」と呼ばれている。
断罪の地が再生の象徴へと変わる――その姿を見届けながら、胸の奥で静かにリオルの名を呼んだ。
「見ていてね、リオル。あなたが守った世界は、今も息づいてる。
」
その声に応えるように、風が頬を撫でる。
指先に残る微かな熱。あの日の温もり。
私は目を閉じて微笑む。
「陛下。」
背後から声がした。
振り返ると、元聖堂騎士団の若き長、ルカが跪いていた。
白い制服の胸元には、純白の羽の紋章――リオルの“誓約の羽” の象徴が輝いている。
「復興が進んでいます。魔族も人間も、共に働いています。
――これが、陛下の望んだ世界なのでしょうか」
「いいえ」私は首を振る。
「これは、私たち“みんな”の望んだ世界よ。
誰かの上に立つためじゃない。誰もが生きるために、手を取り合う。
その始まりが、ここにあるの。」
ルカは深く頷いた。
「では……この国に、正式な名を」
私は空を見上げた。
青と緑が溶け合う世界を見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「――“ノアリア”。
失われた箱(ノア)舟が、新たな地に辿り着いたという意味よ。」
ルカが笑う。
「素晴らしい名です。
ならば、あなたはその箱舟を導く灯……“女王ノアリア”です。
」
私は首を振り、そっと微笑んだ。
「私は王ではないわ。
――ただ、世界を見守る“祈り手”でいたい。」 その瞬間、胸の中の羽がふわりと光った。 周囲の空気が優しく震え、風が巻き起こる。
花の種が風に乗って空へと舞い上がり、まるで祝福のように光の粒が降り注いだ。
「……これは?」ルカが息をのむ。
「リオルの“誓約”の力よ。」
私は微笑む。
「彼は、私の中で世界を見守っている。
だから――もう祈ることを恐れないで。
祈りは罰じゃない。未来を選ぶ行為なの。」
その言葉を聞いた人々が、次々に膝をつき、手を合わせた。
そこに神はもういない。
けれど、ひとりひとりの胸の中に“光”があった。
私は空を仰ぐ。
まぶしい光の中に、ふと――見えた気がした。
黒い外套を纏い、穏やかに微笑む彼の姿。
その隣には、白い羽をまとった少女。
ふたりは手を取り合い、どこまでも遠い空へと消えていった。
「さようなら、リオル。
そして――ありがとう。」
風が答えた。
『断罪の続きは、もう終わった。
これからは、おまえが語る番だ――“生の物語”を。』 私は微笑んだ。涙はもう、光の中で乾いていた。 ――神のいない楽園に、祈りの声が満ちていく。
赦しも罰もいらない世界で、人々はただ、互いに名前を呼び合った。
その名のひとつひとつが、リオルの残した羽となって空へ昇っていった。
そして、私の中の彼が囁いた。
『愛している。それは終わりではなく、はじまりの言葉だ。』
私はそっと目を閉じ、微笑んだ。
――そうね。
断罪の物語は終わった。
でも、祈りの物語はこれから始まる。
この世界が、いつかまた迷うとき。
その時はきっと、リオルの羽が道を照らすだろう。
私は両手を合わせ、空に祈った。
「どうかこの世界に、もう二度と“断罪”の火が降りませんように。」
そして、朝の光が私を包み込む。
新しい世界(ノアリア)の一日が、静かに始まった。
――パチパチ、と木がはぜる音がした。
焦げた匂いが鼻をつき、肌を焼く熱が頬を撫でる。
群衆の罵声が、遠くに聞こえた。
「悪役令嬢レイシア・クローディア。王国への反逆罪により、死刑を――」
その声の続きを、私は聞かなかった。
目を閉じる。涙ではなく、炎の赤が瞼の裏を染める。
あぁ、これで終わりだ。誰も、私を赦さない。
――なのに。
目を開けた先にあったのは、真紅の絨毯と黒曜石の床。
闇の王座。その前に、膝をつく男がいた。
漆黒の髪、黄金の瞳。私を見上げながら、静かに呟く。
「……ようやく、戻ってきてくれたな」
理解が追いつかない。
処刑されたはずの私は、生きている。
しかも、目の前の“魔王”が――私に跪いている。
運命の歯車が、再び音を立てて回り始めた。
これは、断罪の続きを生きる物語。
そして――滅びた恋の、再生譚。
第二話 魔王の腕の中で、目覚める悪役令嬢
柔い布が、火照る額に触れた。香は薔薇ではない。冷えた雨上がりと、遠い雷の匂い――それが、この城の匂いなのだと直感した。
「……目を、開けられるか」
低い声。朝露のように静かで、刃の背のように冷たい。それでも、その声が私の名前を置くときだけ、温度が変わるのを耳が覚えている。
「……私の、名を」
問うと、彼はわずかに眉を寄せた。黄金の眼差しが、夜の湖に落ちる灯のようにわずかに揺れる。
「レイシア。おまえはレイシアだ。――俺の婚約者だ」
婚約者。喉がひきつる。熱の残る胸の奥で、断罪の日の群衆の唾と嘲笑がぶり返す。火刑台の木が濡れていたこと。縄が肌に食い、笑い声が遠く響いたこと。最後に、あの塔の上で誰かの声がして― ―そこで記憶が切れている。
「ありえないわ。私は……王国の悪役令嬢よ。反逆者として、死んだはず」
「死んだ。――だから、こちらに連れ戻した」
さらりと言う。生半可な慰めではない。既に起こったことをただ述べる口調。けれどその裏に、石に染み込んだ雨のような焦燥を、私は嗅ぎ取ってしまう。
「あなたは……誰」
「名を言っても、今は信じないだろう。だが思い出す。おまえの
記憶は、契約の反動で封じが掛かっているだけだ」
契約。胸の奥、左の脈に沿った場所が、ひどく疼く。そこに何か、焼印のような熱がある気がして、私は反射的に上半身を起こした。首元の布がずれ、肌に冷たい空気が触れる。そこには黒い紋が、薔薇の棘にも似た曲線で刻まれていた。見たことのない紋章。なのに ――知っている、と身体が言った。
「触るな」
彼の手が私の手首を包む。驚くほどやさしい力で、しかし拒ませない確かさで。血が逆流するみたいに鼓動が早まる。
「その紋は、おまえの命綱だ。粗く扱えば、記憶が戻る前に“契約”が軋む」
「契約って、何の?」
彼は少しだけ黙り、やがて視線を窓へ向けた。黒曜の壁を伝って、白い稲光が遠く走る。雷鳴。雨の匂いが濃くなる。
「――おまえは、俺の名を呼んだ。『もし私が滅ぶなら、あなたにすべてを賭ける』と」 喉の奥がひゅ、と鳴った。知らない言葉。けれど舌がそれを確かに発音した日の、温度だけが蘇る。夜風。高い塔。自分の脈と、相手の脈が重なり合う瞬間。
「嘘よ。私は……あなたを知らない」
「知っているさ」
彼はわずかに笑う。笑う、というには硬い、けれど確かな弛み。 「おまえはいつも、知らないふりをする。弱いと告げるより、無知を装う方が、傷が浅いと――そう学んだ女だ」
胸のどこかが、ひび割れて、冷たい手が内側から触れたように痛む。どうして。どうして、その癖まで。
「……あなたは、本当に魔王なの?」
「そうだ。王冠と呼ばれるより、ここでは“盾”と呼ばれることの方が多いがな」
「盾?」
彼は応えず、代わりに床に膝をついた。私の視線の高さに身を置くように、端然と跪く。手の甲が、私の足元の絨毯に触れる。
「歓迎の礼だ。戻ってきた婚約者に。――レイシア、俺はおまえに泣きつくために、王であることを選んだ。おまえが生き延びる世界を作るためにな」 その言葉が、火刑台の赤を洗う雨になって、胸の煤を剥いでいく。
愚かしい。滑稽。けれど、信じたい。信じてしまえば、楽になる。
そう自分に言い聞かせた瞬間――扉が、荒々しく開いた。
「陛下! “境界層”が振動しています!」
黒い鎧の兵が、稲光を背に飛び込んできた。彼は振り向かず、短く問う。
「閾値は」
「第三段階です。王国側の聖堂が、こちらの結界に楔を打ち込んだ可能性が――」
「――迎撃は要らない」
魔王の声は、雷より静かで、雷より速い。
「観測と記録だけだ。手を出すな。楔の正体が“彼女”に触れる類のものなら、こちらの干渉は逆効果になる」
兵は一瞬、私を見た。敬礼し、消える。扉が閉じ、部屋に再び雨音だけが満ちる。
「……王国が、私を狙ってる?」
「おまえを“奪い返す”つもりだ。断罪は演出、殺意は本物。だが――」 魔王は視線を落とし、私の左胸の上、黒い紋の少し手前で指を止めた。触れない。触れないまま、体温だけで距離を測っている。
「もう二度と、渡さない」
息が詰まる。焦げ跡に触れられているような、甘くて苦い痛み。
「……証明して」
自分でも驚くほど、小さな声が、口から零れた。
「あなたの言葉が、真実だって。私が――あなたの婚約者だったって。何でもいい。ひとつだけ、私しか知らないことを教えて」
魔王は、ゆっくりと目を閉じた。記憶を辿る者の呼吸。彼は語る。
「おまえは、眠る前に枕の下へ手紙を差し込む癖がある。誰にも見せない手紙だ。宛名はいつも同じ、“いつかの私へ”。内容は―
―」
彼はそこで言葉を切り、私の顔を見た。「続けようか?」という沈黙の問い。私は、知らず首を横に振っていた。手のひらが汗ばむ。
なぜ、知っているの。私しか知らない、弱い夜の儀式を。
「……読んだの?」
「読んでいない。宛名が、俺ではなかったからな」
喉が軋む音が、自分にだけ聞こえた気がした。たしかに私は、そう綴っていた。断罪の前夜まで。いつかの私へ――それは、未来の誰かに託すには、あまりにもみじめで、あまりにも切実な手紙だったから。
「もう一つ」
彼は続ける。
「おまえは左耳の裏に小さな痣がある。幼い頃、兄の剣の鍔で打った跡だ。晴れの日にしか痛まない。だからおまえは晴れの日の行事が嫌いだ。笑うのが、少しだけ遅れるから」
耳の後ろが、疼いた。晴れの日の儀礼――宮廷の集合写真で、私がわざと端に立つ理由を、誰も知らなかったはずなのに。
「……本当に、知っているのね」
「おまえのことは、何でも」
魔王は立ち上がり、窓へ歩む。外は、雷鳴が遠ざかり、雨の筋だけが残っていた。彼は指先で、ガラスに見えない印を描く。空気がわずかに震え、雨脚が変わる。部屋に満ちていた煙のような重苦しさが、ひと息で薄れていった。
「境界層の楔は、恐らく“追跡”だ。おまえの魂に印をつけ、こちらの世界でも位置を測る術式。王国の聖堂は、扱えるはずがない。
裏に、もっと古い何かがいる」
「私を、また火刑台へ?」
「連れて行かせはしない。だが――」 魔王は振り返り、わずかに笑った。今度の笑みは、雷ではなく、燈の色をしている。
「反撃は、証を揃えてからだ。おまえの“言葉”が必要になる。思
い出せ、レイシア。断罪の日の直前、塔の上で俺とかわした約束を。俺はおまえに頼んだ。“もし俺が王であるなら、俺の名を呼べ”と」
名。彼の――。舌の奥に、錆びた鍵の感触がした。外し方を知っているはずなのに、手が震えて回せない鍵。
「……怖い」
正直に言った。怖れは恥ではない。けれど、弱さを口にしたのは、たぶん初めてだ。
「怖がっていい。俺がいる」
その言葉は、不思議と重くない。鎧ではなく、羽織の重み。肩にそっと掛けられる種類の温かさ。
「休め。次に目を覚ますとき――“彼”の名を思い出す準備ができている」
「彼?」
「おまえが俺を呼ぶ、たった一つの“本当の名”だ」
彼は部屋を出ようとして、ふと振り返る。ほんの少し迷ったように見え、結局は何も言わず、扉の向こうへ消えた。 静けさが戻る。雨の匂い。枕の下に手を伸ばす。紙はない。けれど、指はそこに、手紙の角の感触を探す癖のまま、ゆっくり止まる。
――いつかの私へ。
声にならない文字を反芻した途端、瞼の裏に火が戻る。赤ではない。夕焼け色。塔の上。風。彼の影。私の髪がほどけて、口元に彼の指が触れ――
《レイシア。呼べ。俺の名を》
脳裏に、彼の声が落ちてきた。胸の紋が、微かに熱を帯びる。苦しくない。懐かしい痛み。
名が、喉元までこぼれた。けれど、最後の一音が出ない。私は唇を噛み、目を閉じる。
――次に目を開けたら、言えるかもしれない。
そう思って、私は眠りへ落ちた。
遠くで雷が笑い、雨は静かに、王城の屋根を洗い続けていた。
第三話 封印の記憶、目覚めの名前
夜明け前。雨は上がり、雲の切れ間から薄い光が差していた。
私は夢を見ていた。
塔の上で、彼と向き合う夢を。
「もし、わたしが死んでも――」
『その名を呼べ。俺が行く』
燃える塔、崩れる床、伸ばした手。
名前。確かに口にしたはずなのに、その音だけが霧のように消えていく。
目を開けた瞬間、胸の奥が熱を帯び、黒い紋が微かに光った。
「思い出しかけているな」
ベッドのそばに立つ影――魔王だった。
夜の鎧をまとい、黄金の瞳だけが朝光を映している。
その表情は穏やかで、それでいて、どこか祈るように切なかった。
「おまえの夢は、俺にも届く。契約の副作用だ。……塔の夢を見たのだろう?」
私は息をのむ。頷けない。けれど彼の瞳が、すでに答えを知っていた。
「なぜ、わたしを蘇らせたの?」 「理由は一つだ。――俺はまだ、あの日おまえに答えていない。」
「答え?」
「『愛している』という言葉を。」
その瞬間、心臓が跳ねた。
魔王がそんなことを言うなんて。
でも、胸の紋が脈打つ。まるでそれが“真実”だと告げるように。
彼は一歩近づき、膝をつく。
「だが時間がない。王国は“魂の印”を追っている。おまえをまた奪おうとしている。」
「どうすれば……止められるの?」
「簡単だ。俺の名を呼べ。それだけで、世界はおまえの味方になる。」
名――。喉の奥が疼く。
でも、出せない。
音を形にしようとした途端、頭の奥が焼けるように痛んだ。
「まだ封印が強いな」
魔王は私の額に手をかざす。
冷たいはずの掌が、驚くほどあたたかい。
光が流れ込む。過去の断片が一瞬ずつ蘇る。
――庭で笑う彼。
――夜明けの約束。
――手紙に書いた「いつかの私へ」。
全てが“彼”に繋がっていた。
けれど、最後の一枚、名前の記された手紙だけがまだ見えない。
「……あなたの名を、思い出せないのが、悔しい」
「焦るな。おまえの魂が自ら選ぶ時を待つ。」
魔王の声が、まるで祈りのように優しく響いた。
外の空が白み始める。
私は目を閉じる。胸の中で、熱と痛みと恋しさが混ざりあう。
――次こそ。思い出す。
断罪の日の約束を、あの名を。
そして、夜明けが訪れる。
王国と魔族の境界に、微かな震動が走った。
新しい戦いの兆しと共に。
第四話 断罪の日に交わした“約束”
――鐘の音が響いていた。
どこか遠く、懐かしい音。
それは夢の中の音なのか、それとも記憶の残響なのか。
目を開けると、窓の外に薄い霧がかかっていた。
魔王の城の朝は、世界がまだ眠っているように静かだ。
私はその静寂の中で、心臓の鼓動を確かめた。
――生きている。確かに、今、私はこの世界に存在している。
「よく眠れたか」
低く穏やかな声。
振り返ると、魔王――彼が、窓辺に立っていた。
鎧を脱ぎ、黒衣の上着だけを羽織っている。
夜明けの光が彼の横顔を照らし、まるで彫像のように美しかった。
「眠れたわ。でも、夢を見たの。……また、塔の夢を。」
魔王はゆっくりとこちらを振り返った。
「塔の夢。――それは“記憶の呼び声”だ。おまえの魂が、かつての約束を思い出そうとしている」
「約束……?」
彼は近づき、机の上の封筒を指さした。
黒い蝋で封じられたその封筒には、金糸で紋章が刻まれている。 見覚えがあった。胸の奥が微かに痛んだ。
「開けてみろ。それは、断罪の日の前夜、おまえが自らの手で書いた手紙だ」
震える指で封を切る。
中には、震える筆跡で書かれた一行だけの文字。
『もし私が死んだら、あなたの名を呼ぶわ――“リオル”』
――リオル。
その名を目で追った瞬間、頭の奥で何かが砕ける音がした。
火刑台の赤、夜の塔、焼け落ちる空。
そのすべての中心に、ひとりの男がいた。
“リオル”。
彼が、私の魔王。かつての恋人。かつての敵。
「思い出したのね」
魔王――リオルが、微かに笑った。
「おまえがその名を思い出した瞬間、契約の封印がひとつ解けた。 ……これで、おまえは完全に“こちらの世界”の存在になった。
」
胸の紋が淡く光り、痛みがすうっと消える。
それはまるで、鎖がほどけたような感覚だった。
「でも……なぜ、わたしを死なせたの? あの日、あなたは――」 問いかけの途中で、リオルの瞳が曇る。
「俺が殺した。
だが、それしか方法がなかった。おまえを生かすには、王国の儀式を“完遂”するしかなかったんだ」
「完遂……?」
「おまえの魂を守るために、形だけでも“処刑”が必要だった。
それが、王国と魔族の均衡を保つ“偽りの贄”の儀式――」
リオルの言葉は、静かな怒りに震えていた。
「俺たちは、愛し合ってはならなかった。
魔族の王と、人間の王女――おまえの血筋は、世界の均衡を揺るがす存在だったからだ」
胸の奥で、何かが軋む。
そんな理由で、あの日、私は――。
「わたしは……贄だったのね」
「違う。おまえは希望だった」
リオルが強く言い切る。
「誰も知らないところで、世界はおまえの命に救われた。
だが、その代償として、おまえは“記憶”と“人間としての時間”を失った」
「じゃあ、私は今……何なの?」
リオルは目を伏せた。
「半分は人間。半分は、魔の契約者。
……おまえは、この世界の境界に立つ者になった」
沈黙。
窓の外では、薄明の空が金色に染まり始めている。
鳥の声も、風の音も、遠い。
ただ、リオルの瞳だけが、私を確かにこの世界に繋ぎ止めていた。
「レイシア。もう一度だけ聞かせてくれ」
彼が私の手を取る。
「おまえは――それでも俺を、許せるか」
言葉が出ない。
許す、なんて簡単な言葉では足りない。
けれど、指先に伝わる熱が、あの日の約束を思い出させた。
「リオル。あなたの名を呼ぶことが、私の選んだ“赦し”よ」
その瞬間、黒い紋が完全に消えた。
同時に、空が揺れた。
遠く、王国の方向から、青い光柱が立ち昇る。
「――来たか」リオルが呟く。
「王国が、境界を越えた。断罪の続きが、始まる」
彼の背に、黒い翼が広がった。
私はその光景に息をのむ。
炎のように美しく、そして悲しい翼。
「行くのね」
「守るために。おまえを、そしてこの世界を。」 彼は手を差し出した。
私はその手を取る。
かつて処刑台で失ったはずの手。
いま、再びつながる。
――断罪の続きは、ここから始まる。
魔王と悪役令嬢、二つの罪を抱いた者の、もう一度の物語。
第五話 境界の崩壊と、もうひとつの断罪
空が裂けた。
王国の方角――東の地平に、眩い青の光柱が立ち上る。 その輝きは太陽のようで、けれどどこか異様に冷たい。
世界を照らす光ではなく、焼き払うための光。
「……来たな」
リオルが静かに言った。
その声には恐れはない。ただ、決意だけがあった。
「王国の聖堂が“境界層”を破った。奴ら、ついに禁忌の術を使ったな」
「禁忌……?」
「魂の楔だ。おまえの魂を王国に引き戻すための術。
本来、神聖教会の長老クラスにしか扱えないはずだ。」
リオルは窓辺に立ち、黒い外套を翻す。
その背に、先ほどよりもさらに濃い漆黒の翼が現れる。 「奴らは、おまえを“贄”として再利用するつもりだ。
あの光が届けば、魂ごと引き裂かれる」
「だったら……わたしも行く」
そう言った瞬間、リオルの黄金の瞳がわずかに揺れた。
「危険だ。おまえの身体はまだ完全にこちらの世界に馴染んでいない」 「でも、わたしのせいで戦いが始まるなら――このまま見ていられない!」
リオルはしばらく私を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……わかった。ただし、絶対に俺のそばを離れるな」
彼が手を伸ばす。
その指先に、微かな光が灯る。
まるで星のかけらのような淡い光。
「契約印の最終解放だ。おまえの記憶と力を繋ぐために」
触れた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
視界の隅に、無数の光景が流れ込んでくる――。
――断罪の日。
処刑台の上、燃える空。
リオルが王国の兵に取り押さえられ、私の名前を叫んでいる。
『彼女は無実だ! 彼女は俺の婚約者だ!』
それでも剣が振り下ろされる。
その刃が私を裂く瞬間、リオルの魔力が暴走し、王都が炎に包まれた。
そして、世界は――崩れた。
「……あの日、世界が分かれたのね」
「そうだ」リオルが答える。
「おまえの魂を守るために、俺は王国を滅ぼした。 その結果、世界は“人の領域”と“魔の領域”に分断された。
――おまえは、その狭間で眠り続けていたんだ」
私は言葉を失った。
自分の死が、世界を二つに裂いた――。
胸の奥が痛む。けれど、それ以上に、リオルの瞳が痛かった。
「おまえを救ったはずなのに、俺はすべてを壊した」
「……違うわ」
私は首を振る。
「壊したんじゃない。守ったのよ。
あの時、あなたが泣いていたのを、わたしは覚えてる」
リオルの瞳が揺れる。
その一瞬の隙に、窓の外――空の光柱が突然、脈打った。
「来る!」
リオルが私を抱き寄せる。
轟音。
結界が弾け、冷たい風が部屋に吹き込む。
光の中から、銀の鎧に身を包んだ聖堂騎士たちが姿を現した。
「王国の命により、悪役令嬢レイシアを回収する!」
その声は、かつて私を断罪した者たちと同じ響きだった。
私は咄嗟にリオルの腕を掴む。
彼は静かに、けれど絶対の力を込めて言った。
「俺の婚約者に手を出すな」
その声と同時に、空気が裂ける。
闇の剣が生まれ、光の壁を一閃した。
衝撃で聖堂騎士たちが吹き飛ぶ。
床が割れ、炎が迸る。
けれど彼らは、倒れてもなお祈りの言葉を口にした。
「神の名のもとに――魂を清めよ!」
青い光が、私の胸の紋を狙う。
熱。痛み。
魂が引かれる。
――このままでは、またあの日と同じ。
「レイシア!」
リオルの声が遠ざかる。
視界が白く染まり、耳鳴りが世界を覆う。
その時、誰かの声がした。
私の中の、もう一人の“私”の声。
『恐れないで。あなたは、もう贄じゃない。
今度は――選ぶ側よ。』
光が爆ぜた。
白い世界の中で、私は自分の右手を見た。
そこに刻まれていたのは、もう黒い紋ではなかった。
純白の紋章――光と闇、ふたつの世界を繋ぐ“境界の印”。
「レイシア……?」
リオルが息を呑む。 「まさか……“境界の乙女”の再誕――!」
世界が震えた。
青の光柱が砕け、空が赤く裂ける。
光と闇がせめぎ合う空の下、私ははっきりと見た。
――あの日、私を断罪した王。
父の姿が、光の中に浮かんでいた。
「……お父様」
リオルが剣を構え、私の前に立つ。
「世界は、再び裁きを始める。だが――今度は俺たちが選ぶ番だ」
風が巻き起こる。
境界が崩れ、ふたつの世界が交わろうとしていた。
第六話 神の影、裁きの王
空が震えていた。
光と闇の裂け目から、王国の神殿そのものが反転して浮かび上がる。
そこに立つのは、金の冠を戴く男――王。
けれどその姿はもう人ではなかった。
瞳は青白く光り、背には光の翼が六枚。
聖堂の神を宿した、神格化の儀。
「リオル、そして――我が娘レイシアよ」
その声は、神と王が混ざり合ったような響きだった。
「おまえたちは秩序を壊した。世界はひとつでなくてはならぬ」
リオルが前に出た。
「秩序のために命を奪うのが神の意志か?」
「命は秩序のためにある」
「違う。秩序は命を守るためにある」
言葉が刃になる。
ふたりの間に、雷光と闇がぶつかり合う。
大気が裂け、城の塔が崩れ、地の底から赤い炎が噴き出した。
「レイシア、下がれ!」
リオルが叫ぶが、私は動けなかった。
父の瞳の中に、確かに“かつての優しさ”が見えたからだ。
「お父様……どうして……」 「おまえを救うためだ。おまえを贄にすれば、この世界は癒える」
「それが救いだというのなら――私は拒む!」
胸の印が輝いた。
黒と白、二つの紋が重なり、眩い光を放つ。
空間が反転し、あの日の塔の上――断罪の記憶が現れた。
燃える空の下、私は火刑台に立ち、リオルは剣を握っていた。
そして、父は神官に囲まれ、涙を流していた。
『レイシア、赦せ。おまえを滅ぼしてでも、この国を守らねばならぬ』
その瞬間、私の中で何かが切れた。
炎が薙ぎ払うように、記憶の中の世界が崩れ、代わりに現在の空が開ける。
「もう赦す必要なんてない。
――私は、世界そのものを赦す!」
白い光が走った。
空を覆う光の翼が砕け、リオルの黒い剣と融合する。
彼が叫ぶ。
「レイシア、それは……境界の力!」
私の掌に、二つの世界の魔力が集まっていく。
光と闇が混ざり合い、まるで“夜明け”のような色になった。
「お父様。
あなたが守りたかったのは秩序じゃない。 ――人を想う心、そのものだったはず」
王が沈黙する。
光の翼が一枚、また一枚と崩れ落ちる。
やがて、彼の瞳が静かに人の色に戻った。
「……レイシア。私は……間違えたのか」
「いいえ。わたしも、間違えていた。
でも、間違えたままで――人は生きていいの」
その言葉とともに、空が裂け、境界が閉じていく。
光柱が消え、静かな夜が戻る。
リオルが膝をつき、血のような黒い霧を吐いた。
「リオル!」
駆け寄ると、彼は微笑んだ。
「大丈夫だ。ただの代償だ。境界を閉じたのはおまえだ。俺の役目は終わった」
「だめ。置いていかないで」
「置いていかないさ」
リオルが私の手を取る。
「約束しただろう。おまえが呼べば、俺は行く」
彼の身体が光に包まれていく。
その光は暖かく、懐かしい。
私の指先が、彼の輪郭をなぞる。
「リオル……」
「呼んでくれ。その名を、もう一度」
「――リオル!」
名を呼んだ瞬間、世界が息を吹き返した。
闇が晴れ、青空が広がる。
けれど、彼の姿はもうなかった。
風が吹いた。
その風の中に、微かに彼の声が混ざっていた。
『断罪は終わった。次は、生きる番だ――レイシア』
私は微笑んだ。涙が頬を伝って落ちる。
空に向かって手を伸ばすと、白い羽がひとつ、掌に落ちた。
その羽は、確かに――彼のものだった。
第七話 誓約の羽、再生の王女
――風が、静かに吹いていた。
空は透きとおるほど青く、まるで世界がひとつの長い溜息をついたようだった。
戦火の匂いも、断罪の鐘も、もうどこにもない。
ただ、手のひらの中に残る白い羽だけが、あの夜の証だった。
「リオル……あなたは、どこにいるの」
答えはなかった。
けれど羽は、微かに光を放っている。
まるで“まだここにいる”と、言ってくれているように。
足元に広がるのは、焦げた大地。
魔族の領域と人間の領域を分けていた“境界”が消え、
今はただ、ひとつの大地として広がっている。
私はそこに立ち尽くしていた。
静けさが、痛いほど優しい。
「レイシア様」
背後から声がした。
振り返ると、黒衣の兵士たち――かつてリオルに仕えた魔族の将たちが跪いていた。
その中の一人が、胸に手を当てる。 「魔王陛下の遺志を、我らが継ぎます。
どうか我々に、新たな王の名を」
私は首を振った。
「王はもう要らないわ」
彼らの表情が一瞬、揺れた。
「この世界は、もう秩序と支配で守られるものじゃない。
リオルが教えてくれた。
“王とは守るために跪く者”だって。」
私の視線は空を仰いでいた。
あの青の中に、彼の声が今も漂っている気がした。
「だから――私は跪く王になる。
誰かの上に立つんじゃなく、誰かのために膝をつく王女として。
」
その言葉に、兵たちの表情が柔らかくなった。
風が吹く。
羽が宙に舞い上がり、七つに分かれた光が空へ昇っていく。
「……七つの羽」
誰かが呟く。
その瞬間、私の胸の印が淡く光った。
焼けた大地から緑が芽吹き、崩れた塔が光の粒となって空へ還る。
まるで世界そのものが“再生”を始めていた。
「リオル……あなたの力、まだこの世界に……」
風が頬を撫でる。
囁くように、声が聞こえた。
『世界を許せ、レイシア。そうすれば、俺はどこにでもいる。』
涙がこぼれた。
でも、もう悲しくなかった。
それは、痛みではなく“生きている証”のように温かかった。
私は羽を胸に抱く。
「ありがとう、リオル。
あなたの名は、私の中で永遠に生き続ける」
――その時だった。
空の彼方、王国の旧都跡から光が昇る。
白い衣をまとった少女が、ゆっくりと歩み出てきた。
その瞳は琥珀色。
どこか、リオルに似ていた。
「あなたは……?」
少女は微笑んだ。
「私は“誓約の羽”。リオルの魂の欠片。
あなたが彼を呼んだとき、わたしは生まれました」
「彼の魂……?」
少女は頷き、私の手を握る。
その温もりは、あの日の彼と同じだった。
「リオルは、もう姿を持たない。
けれど、あなたの中に“願い”として生きている。
だから、彼は決して消えない。」
私は泣きながら笑った。
「……そうね。あの人は、いつもそうだった。
消える時も、ちゃんと希望を残していく。」
少女は手を離し、空に向かって両手を広げる。
羽が風に舞い、光が世界中に散っていった。
「これで、世界は繋がる」
少女がそう言った瞬間、空の色が変わった。
境界線が完全に消え、空の青と地の緑がひとつになる。
新しい世界。
断罪のない世界。
誰もが赦し合える場所。
私は空を見上げ、静かに目を閉じた。
――リオル。
あなたが守ろうとした未来、今ここにあるよ。
私は、あなたが愛した世界で、生き続ける。
そして、再び歩き出す。 “断罪の続き”ではなく、“救いの始まり”として。
第八話 神なき楽園、祈りの再生
陽が昇る。
かつて断罪と呼ばれた朝が、今は静かな祝福の光となって世界を包んでいた。
灰色だった大地は芽吹き、黒煙を上げていた塔の跡からは清らかな泉が湧き出している。
鳥の声が戻り、風が歌を運ぶ。 誰もが泣きながら笑っていた。
――世界が、生き返ったのだ。
私は城のバルコニーに立ち、その光景を見下ろしていた。
かつて火刑台だったこの場所は、いまや「祈りの丘」と呼ばれている。
断罪の地が再生の象徴へと変わる――その姿を見届けながら、胸の奥で静かにリオルの名を呼んだ。
「見ていてね、リオル。あなたが守った世界は、今も息づいてる。
」
その声に応えるように、風が頬を撫でる。
指先に残る微かな熱。あの日の温もり。
私は目を閉じて微笑む。
「陛下。」
背後から声がした。
振り返ると、元聖堂騎士団の若き長、ルカが跪いていた。
白い制服の胸元には、純白の羽の紋章――リオルの“誓約の羽” の象徴が輝いている。
「復興が進んでいます。魔族も人間も、共に働いています。
――これが、陛下の望んだ世界なのでしょうか」
「いいえ」私は首を振る。
「これは、私たち“みんな”の望んだ世界よ。
誰かの上に立つためじゃない。誰もが生きるために、手を取り合う。
その始まりが、ここにあるの。」
ルカは深く頷いた。
「では……この国に、正式な名を」
私は空を見上げた。
青と緑が溶け合う世界を見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「――“ノアリア”。
失われた箱(ノア)舟が、新たな地に辿り着いたという意味よ。」
ルカが笑う。
「素晴らしい名です。
ならば、あなたはその箱舟を導く灯……“女王ノアリア”です。
」
私は首を振り、そっと微笑んだ。
「私は王ではないわ。
――ただ、世界を見守る“祈り手”でいたい。」 その瞬間、胸の中の羽がふわりと光った。 周囲の空気が優しく震え、風が巻き起こる。
花の種が風に乗って空へと舞い上がり、まるで祝福のように光の粒が降り注いだ。
「……これは?」ルカが息をのむ。
「リオルの“誓約”の力よ。」
私は微笑む。
「彼は、私の中で世界を見守っている。
だから――もう祈ることを恐れないで。
祈りは罰じゃない。未来を選ぶ行為なの。」
その言葉を聞いた人々が、次々に膝をつき、手を合わせた。
そこに神はもういない。
けれど、ひとりひとりの胸の中に“光”があった。
私は空を仰ぐ。
まぶしい光の中に、ふと――見えた気がした。
黒い外套を纏い、穏やかに微笑む彼の姿。
その隣には、白い羽をまとった少女。
ふたりは手を取り合い、どこまでも遠い空へと消えていった。
「さようなら、リオル。
そして――ありがとう。」
風が答えた。
『断罪の続きは、もう終わった。
これからは、おまえが語る番だ――“生の物語”を。』 私は微笑んだ。涙はもう、光の中で乾いていた。 ――神のいない楽園に、祈りの声が満ちていく。
赦しも罰もいらない世界で、人々はただ、互いに名前を呼び合った。
その名のひとつひとつが、リオルの残した羽となって空へ昇っていった。
そして、私の中の彼が囁いた。
『愛している。それは終わりではなく、はじまりの言葉だ。』
私はそっと目を閉じ、微笑んだ。
――そうね。
断罪の物語は終わった。
でも、祈りの物語はこれから始まる。
この世界が、いつかまた迷うとき。
その時はきっと、リオルの羽が道を照らすだろう。
私は両手を合わせ、空に祈った。
「どうかこの世界に、もう二度と“断罪”の火が降りませんように。」
そして、朝の光が私を包み込む。
新しい世界(ノアリア)の一日が、静かに始まった。



