第1話「差し押さえ対象は 台所」
 目が覚めたら、借金取りの靴音が、玄関の敷石を規則正しく叩いていた。叩き方が律儀すぎる。音だけで、昼行灯の役人じゃないとわかる。
 扉の向こうから涼しい声。「王都財務庁より参りました。没落伯 ̶爵家・ステンマイア家、延滞十二期。差し押さえ対象は 台所」
 よりによって台所。いや、よりによって大正解。そこはこの家で唯一、私が勝てる戦場だ。
 私は、この家の“養女”になったばかりだ。家族の名前と借金の桁をまだ全部覚えきれていない。だが鼻は覚えている。
 小麦粉は去年の秋の匂い。油は酸化してナッツの香りが“酸っぱく”なっている。干し肉は保存魔法が切れて、半歩で不敬罪レベルの匂いへ堕ちる直前。玉ねぎだけが無傷で、皮の音がしゃらりと軽い。
「お嬢さま、逃げます?」と、年下の小間使いミナが袖を引いた。
目は完全に“カエル跳べ”の顔だ。
「逃げないよ。台所取られたら、この家は本当に終わるから」
 私は手のひらに意識を落とす。脈打つのは雷でも炎でもない。
̶ 家政魔法〈清澄〉。 
 黒ずんだ油の表面に、目に見えない糸が幾筋も降りる。沈殿していた汚れが糸に集まり、綿雲みたいにふわりと浮かんでは、ぱち、と音を立てて消えた。鍋底が鏡のように光る。匂いは胡桃色に戻り、油の音は“希望”の周波数に変わる。
「……魔法で油を澄ますのを、初めて見ました」とミナ。
「家を立て直すには、まず胃袋。次に帳簿。順番を間違えると、みんな怒りながら空腹になる」
 私は玄関へ向けて声を張った。「どうぞ入って。ただし、靴は脱いでください。台所は神前なので」
「差し押さえ先に礼儀を教えられるとは」と役人が笑う。入ってきたのは、黒の礼服に銀糸の徽章、三十代半ばの男。背筋が箒みたいに真っ直ぐだ。
「私は財務庁差配官、エイドル・ヴァン。職務は情け容赦ありませ
̶ん。差し押さえは 」
「その前に、揚げたてをどうぞ」
 私は小麦粉に〈湿度平準〉、卵液に〈白身分離〉、パン粉に〈気泡保持〉をかけ、刻んだ干し肉と玉ねぎ、じゃがいもを合わせたタネを片手で回した。
 ころり。
 衣がついたそれは、油に落ちる瞬間だけ、重力に「ごめん」と謝った気がした。
 ぼふっと泡が立ち、音がすぐに細かくなる。私は鍋の上で〈火加減制御〉を走らせ、余熱を未来から少しだけ前借りする。表面は狐色。中は湧きたつ湯気が、甘い玉ねぎの涙を連れてくる。
「……コロッケ、ですか?」エイドルの声が、ほんの少しだけ職務を忘れた。

「借金取りは心を固くする仕事です。だから最初にほぐれるものを出します。どうぞ。熱いので三拍待ってから」
 差配官は三拍きっかり数え、噛んだ。
 さくっ。
 音は正直だ。外の衣の薄い硝子が割れ、中の芋がふわりと膨らむ。干し肉の塩気は玉ねぎの甘みで丸まり、酸っぱさの寸前で戻した油が香りの背骨になって、全体を一本通す。味は真面目で、香りはずるい。胃袋はさらにずるい。
「……これは職務妨害の可能性があります」とエイドル。「食欲を、根こそぎこちらに向ける妨害」
「お代は“猶予一週間”。支払い方法は、日替わりで昼に弁当をお届け。内容に満足いただけない場合は、即時差し押さえで結構」 私の背中で、ミナが信じられないという顔をしている。
̶ さもありなん。昨日まで孤児院の厨房で皿洗いをしていた娘
それが数時間後には伯爵家の養女。さらに数時間後には財務庁と弁当契約の交渉。人生は炒め物の火力と同じで、油断すると一気に跳ねる。
「交渉力、そして味覚、いずれも……不本意ながら高得点です」とエイドル。「ただ、規則は規則。今日の差し押さえは“台所道具の過半”」
「ではこうしましょう。過半はあなたの“保管”に。私は明日から、
残った半分で台所を回す。七日間を乗り切れば、差し押さえ対象の再評価を提案できますよね?」
̶ 役人の目が、面白いものを見た光に変わった。「 やってみなさい」
 鍋、包丁、まな板、寸胴、杓子、ざる。私は指を走らせ、脳内の棚卸しを開く。
 〈在庫鑑定〉
 食料庫の壁に、薄い青の文字が走る。小麦粉(旧年)三袋/塩・岩塩一塊/玉ねぎ・生二十玉/じゃがいも四十球/干し肉(風味限界まで一日)/胡椒・ひきたて不可/古いチーズ・端切れ。
 〈収支予報〉
 七日間の金の出入りが、曇り空の天気図みたいに浮かぶ。必要費を最小化し、評判ポイント(人の口にのぼる回数)を最大化するライン。赤い針は“破産”、青い針は“食い繋ぎ”。針はぎりぎり青い。
「ミナ、油の予備は?」
「床下に壺が一本。ただ……香りが、ちょっと」
「ちょっとは私の仕事。今日から“台所の神様”ごっこするから、ついてきて」
 まずは“臭い”の根。私は床の角の黒カビに〈臭気分解〉を走らせ、砥石で包丁の刃を〈微振動研磨〉で立てる。まな板を塩で擦り、表面を〈繊維圧着〉で閉じ、木の匂いが料理に移らないよう封印。 火口は二つ死んでいる。生きている一つに〈火継ぎ〉を施して、古い炭の残り火から新しい炎を生ませる。炎が“喉を開く”音になる。
 台所が、息をした。「エイドルさん、差し押さえリストに“神様”って入ってます?」
「残念ながら、入っていません」
「じゃあ、今日は神様の分だけ外しておいて」
 私は芋を茹でながら、帳場にある古い束を〈紙質保存〉で延命する。数字をひと目で読めるように〈書式再整列〉。
 入ってきたミナが目を丸くする。「数字が、読める……!」
「読めない帳簿は、未来からの脅迫状と同じ。こちらの武器は“わかること”。わかれば怖くない」
 茹で上がった芋をつぶすとき、私は小さく〈でんぷん再結〉をかける。粘りを立て過ぎず、舌の上で崩れる柔らかさだけを残す。
 玉ねぎは泣く前に〈涙腺遅延〉。干し肉は〈塩抜き加速〉で塩気を丸くしてから細かく刻む。
 混ぜる、丸める、衣をつける、落とす。
 音が揚がりの“良い嘘”をつく。さっきよりも軽い。衣の気泡が均一で、空気の入り方が綺麗だ。私は自分の呼吸を揚げ油に合わせる。
 この家の呼吸を、私の呼吸で上書きする。
「お嬢さま、どうしてそこまで台所にこだわるんです?」ミナが問う。
「借金は、数字で人を殴る武器だから。殴り返すには、数字を“味
”に変えるのがいちばん早い。味は、人の噂の最短距離」
「むずかしいです」
「簡単に言うと、うまいものは正義」
 コロッケを箱に詰め、私は玄関の差配官に二つ手渡した。「契約成立。七日間、毎日正午。今日の献立はコロッケサンドと玉ねぎスープ。スープは器でなく胃の隙間を満たすので、午後の争いを減らします」
「午後の争い……?」エイドルは笑い、手帳を開いた。「明日の献立と“条件”も記しておきましょう」
「条件?」
「あなたが七日で台所を立て直すなら、再評価の席に私が同席できるよう口をききましょう。私の評判も、正直、黒字にしたい」
「了解。明日は“肉なしで肉の気配がする昼”。挑戦的な献立を出します」
「楽しみにしています。……ところで、あなたは学生の年頃に見える。学費は?」
「払えません」
「王都学園が、今朝の広報で“臨時寮母見習い”を募集しています。
条件は一つ。『寮の三食を“笑顔の数で評価できる者”』。学費免除がつく。応募しますか?」
 私は、鍋の火を落とした。火が名残惜しそうに揺れ、消える。
 学園。平穏に暮らすには、学び直しが要る。借金を倒すには、味だけでなく“肩書き”もいる。寮母見習いなら、台所を守ったまま外へ出られる。
「応募します。ただし条件が一つ」
「あなたは条件をつけるのが好きですね。どうぞ」
「寮の台所の“差し押さえ”が来たら、私に最初に電話をください」
「電話……?」
「あ、比喩です。ベルを三回鳴らしてください。台所は神前だから」
 差配官の笑いが、初めて素直になった。「承知した。明日、正午」
 扉が閉じ、家の中に静けさが戻る。私は息を吐き、台所を見回した。
 半分の道具、ぎりぎりの在庫、七日の猶予。
 でも、油は澄んだ。匂いは戻った。
̶ ここから増えるのは、笑顔の数と、噂の数。 
 私は壁の空白に、チョークで小さく書いた。
 〈今日の家政Tips:油は救える。人もたぶん〉
 そこへ、ばたばたと廊下を走る足音。「お嬢さまっ、大変です!」
ミナが青い紙をひらひらさせる。「学園の掲示、もう出てます!『臨時寮母見習い・本日夕刻締切』ですって!」
「夕刻?」私は空を見た。王都の鐘が遠くで二回。
 時間は、料理と同じで、加熱すると一瞬で煮詰まる。「ミナ、コロッケ十個、追加で揚げて。学園に持っていく。胃袋から採用を落とす」
「落とすって、逆では?」
「採用“を”落とすの。胃袋に。先に落ちた者は勝ち」
 再び油が歌い出す。
 狐色の丸が、ぱらぱらと弾み、未来の音になる。
 私は揚げ箸を握りながら、心の中で七日間の献立表を描いた。数字は怖い。でも、数字は味に換金できる。
 平穏は、ただ願うものじゃない。毎食、作って守るものだ。
 借金取りが差し押さえに来た日を、あとで振り返ると、人はたいてい「人生最悪の朝」と呼ぶ。
 私は、たぶん、こう呼ぶ。
̶ 「台所が、最初に勝った朝」 と。 

第2話「寮母見習いの採用試験は、揚げ物で始まった」
 王都学園の正門は、料理でいうなら“余熱のいらない鉄板”だった。敷石は日差しで熱く、門番の視線は油温計の針よりシビア。こ ̶こで跳ねたら終わり つまり、私は跳ねない。
「臨時寮母見習いの募集、こちらで合ってますか?」
 門番は私の籠を見た。きっちり十個のコロッケが、狐色の隊列で待機している。
「……応募書類は?」
「胃袋」
「は?」
「皆さんの」
 門番は三秒だけ石像になり、そのあと人間に戻って笑った。「通しな。台所へ直行だ。今、他の志願者が最終選考中だ」
 学園の台所は、想像していたより“病人”だった。
 棚は整っているのに、どこか生気がない。調味料の蓋はきつく締まりすぎ、鍋は磨かれているのに疲れた光。なにより、空気の“鍋肌”が死んでいる。ここでは最近、油が歌っていない。
「お、君が最後の志願者か」
 髪に白を散らした調理長らしき男性が近づいてきた。胸元の名札には「舎監補佐・ブラーク」とある。目が良い。鍋を見る目だ。
「本日の最終課題だがね、**『肉なしで、肉の気配がする昼』**を出してもらう。寮費が高騰してね、肉の使用量を抑えたい。ただし、学生の笑顔は減らせない」
「条件、好きです」
「持参物は?」
「油と、勇気。あとコロッケ十個は“名刺”です」
 後ろで、ぱしっと乾いた音がした。
 振り向くと、瑠璃のリボンを締めた令嬢が二人、こちらを見ている。片方は軽く顎を上げ、片方は扇子で笑いを隠した。志願者仲間だろう。顔が“勝ちに来てます”の形をしている。
「あなたが噂の“差し押さえ台所の子”?」顎の子が言った。「お気の毒。でも学園の寮食は戦場よ。飾り切りで勝てる場所じゃないわ」
「安心して。私は飾り切りより“盛り付ける空腹”のほうが得意」
 扇子の子の肩が、ちょっとだけぴくりと揺れた。反応は、塩をひとつまみ落とした鍋のように敏感だ。
「時間は一刻(約三十分)。器具の故障が多くてね、使える火口は ̶二つ。調理員は貸せない。君と 」ブラークが周囲を見渡す。「志願者は三名、同条件。出せるのは一品のみ。評価は笑顔の数で決める」
「審査員は?」
「学生だ。正直で容赦ない」
 私は台の前に立ち、指先に魔力を落とす。
 家政魔法〈台所見取り〉。
 火口の癖、鍋の摩耗、まな板の繊維の割れ目、塩の粒度、水の硬度、台所の“骨格”が一気に透ける。病名は“疲労性味覚減退”。
治療は“歌わせること”。油、湯、塩、そして香りの連携。
「献立を宣言してから始めてくれ」ブラーク。
「はい。“肉なしメンチ”のパン粉焼き、玉ねぎの涙スープ添え。メンチの主成分はパンと玉ねぎ、香りの骨は干し椎茸、噛みごたえはおから。油はほぼ使いません」
 ざわ、と周囲の空気が波打つ。令嬢二人の片方が鼻で笑った。「肉なしメンチ? 貧しい発想ね。わたくしはフラム・ブルーを出すわ。炎の舞。学食には派手さが必要なの」
「炎と学食、相性悪いですよ。学生は眉毛を失いたくない」 ̶ 秒針が落ちる音がした。 開始。
 私の作業は、手数は多いが走らない。
 〈パン粉再活性〉で古パン粉をさらりと起こし、〈香り継ぎ〉で干し椎茸と味噌の気配だけをパンに移す。玉ねぎは〈涙腺遅延〉でじっくり甘く、刻んだおからと合わせて“肉の触感の寸前”に調える。塩は三回に分けて入れ、胡椒の粒は割るだけにして香りの頂点を浅く。
 タネを丸めるのではなく、薄く広げて平たく。これを鉄板に並べ、表面にパン粉をふり、〈水分偏在〉で外側だけをすこし乾かす。
̶ 火口は二つ。片方で鉄板焼き、片方で鍋 玉ねぎの涙スープ。涙を遅らせ甘みを引き出した玉ねぎに、〈旨味抽出〉で干し椎茸の戻し汁から“骨”だけを引き、塩で背筋を通す。最後に〈湯気誘導
〉で香りを“前”へ出す。
 キュイ、と鉄板が歌い始めた。
 大声でない歌。誰かの鼻歌みたいな、でも確実に心の回路を温める音。
̶ 反対側では令嬢の一人が銅鍋に酒をあおり、火口に近づけ ぼっと青い炎を上げた。歓声、半歩あとずさる学生。扇子の子は静かに美しい野菜テリーヌを固めている。視覚は彼女の勝ちだ。だが、 ̶香りの矢印は 私の鉄板から人の胸に向かって伸びていた。
「試食開始!」ブラークが鐘を鳴らす。
 まずは炎の令嬢の皿。
 学生の目が輝き、スマホ(この世界では“視写器”と呼ぶらしい)が上がる。
̶ 一口目 しかめ面。
 火で香りを起こすはずが、アルコールの“生臭さ”が残っていた。炎は派手でも、香りの着地点がずれている。派手なジャンプをして、着地の砂場を忘れた走り幅跳び。
̶ テリーヌの子は繊細で上品、味は正しい。正しいが “おかわりの顔”にはならない。寮食は連載で、テリーヌは単行本。つまり、需要は違う。
「次、肉なしメンチ」
 私は皿を渡しながら言う。「先にスープを一口。甘くなったら、パン粉焼きを。噛むときは二回だけ目を閉じて」
「二回だけ?」
「三回目は現実に戻って。授業に遅れるから」
 学生が笑い、指示どおりにスープを飲む。
 その顔が、ふわりとほどけた。
̶ パン粉焼きを噛む
 さくっ。
 周囲の空気が半歩前に出るのがわかった。
 肉ではないのに、歯が“肉だと思って”噛む。噛んだ脳が“肉汁だと思って”唾液を出す。これは欺瞞じゃない。人間の“想像力” を味方にした料理だ。想像力は最高の調味料で、しかもタダ。
「これ……肉じゃないの?」
「肉の気配です」
「騙された……けど、うまい……!」
「これなら午後、眠くならない!」
 笑顔のカウンターは、最初の五秒で一気に跳ねた。
 数字が歌詞に見える瞬間。
 私は心の中で、差配官エイドルの手帳に“+20笑顔”を書き足す。
̶ その時だ。 
 ぼおっという異音。
 炎の令嬢の鍋が、今度は笑わない炎を上げた。酒の残り火が布巾に移り、そこから油へ、そして棚へ。
 台所の学生たちがどっと引く。ブラークの顔が硬直する。水は近くにあるが、油火に水は禁忌。泡が爆ぜ、炎の舌が天井の煤を舐め始めた。
「離れて!」
 私は反射で飛び込んだ。
 手のひらに落とすのは、家政魔法〈酸素貸し出し停止〉。炎の周囲の空気から、ほんの三拍だけ酸素を**“借りる”**。借りた酸素は、隣の鍋の上に置く。鍋の湯気が一瞬だけ濃くなり、炎の舌が痩せた。
 次に〈油膜延伸〉。火の周りの油に一瞬の“膜”を作り、炎の供給を絶つ。
 最後に〈熱逃がし〉。棚板の金具に熱を流し、温度の梯子を組み替える。
 炎は、怒った犬が不意に眠気に負けるみたいに、しゅうと小さくなり、消えた。
 静寂。
 誰かが喉の奥で拍手をした。次いで、本当の拍手が、波のように押し寄せた。
 炎の令嬢は蒼白になって立ち尽くしていた。私は彼女に濡れた布巾(水ではなく、〈湿度限定〉で**“蒸気だけ多い布”**にしたもの)を渡した。
「学食は派手じゃないほうが、生き延びる。派手なのは祭りに取っておきましょう」 ブラークが長く息を吐き、笑った。「採用。いや、もう“即戦力 ”だな。寮母見習い・実務即日開始。条件は三つ。ひとつ、生徒との無用な馴れ合いは禁止。ふたつ、献立は栄養書士の監修を仰ぐこ
̶と。みっつ 」
「みっつ?」
「夕食の揚げ物比率を週二まで。厨房がすぐ太る」
「了解。厨房のダイエットは私の専門外ですが、やってみます」
 令嬢二人はそれぞれ礼をして退いた。扇子の子は最後に私へ小さく囁いた。「あなたの“二回だけ目を閉じる”の指示、あれは詩ね。覚えておくわ」
 学生たちは、肉なしメンチとスープのおかわりを要求した。おかわりは評価。もしかすると恋よりも信頼が速い評価方法だ。
 私が鉄板を掃除していると、背後から誰かが立った。
̶ 香りが違う。 
 革と紙と、日向の金属。王都の上流で、**“権限の匂い”**がする。
「噂の新入りか。王太子の代理人だ」
 声は若いが、言い慣れている。黒髪を後ろで束ね、視写器用の薄板を手にしている。
「殿下が**“胃袋の外交官”**を探している。王宮の台所、味が細ってね。明日の昼、試食の席を用意する。来られるか?」
「来られます……が、私は“平穏最優先”です。王宮は平穏と縁遠い」
「平穏を持ち込める者を探している、という話でもある」
 会話の温度が、鉄板の余熱みたいに残る。
 私は代理人の名を聞き忘れ、代わりに彼の歩幅を見た。十人の厨房をまとめられる歩幅。つまり彼は厨房の“軍人”だ。
「条件が一つ」私は言った。「寮の朝食導入が最優先。王宮に行くとしても、朝の“拍”はここのために使う」
「珍しい志願だ。殿下はそういう“逆走”が好きだ。承知した」
 彼が去ると同時に、ブラークが耳打ちした。「あれは王太子近侍の一人、カイ・レンストだ。噂より早い」
「噂より早いのは、たいてい空腹のせいです」
 囁き合いながら、私は台所の“骨格”に目をやった。ここを最初にやるべきことが山ほどある。
 配膳の動線は逆流、洗浄の棚は遠すぎ、香りの抜け穴が窓の上に ̶ある。病名は“疲労性味覚減退” 処方箋は、“拍を作る”。
「ブラークさん、今日の夕食、揚げは封印。**“噛むスープ”*
*をやりたい」
「噛むスープ?」
「具だくさんで、噛むたびに体温が半度上がるやつ。争いが減ります」
「争い?」
「お腹が鳴ると、議論は怒声に変わりやすい。逆に、よく噛ませると、喧嘩は半歩遅れる。半歩遅れれば、たいてい止まる」
 ブラークは一瞬だけ目を閉じて、笑った。「やってくれ」
 私は鉄板を丁寧に祓い、棚に手を当てて家政魔法〈台所に名をつける〉を走らせた。
 この台所は今日から**“胃袋の図書室”**。
 知識も、噛む。記憶も、湯気でめくる。
 名前を与えられた台所は、すこしだけ背筋を伸ばした気がした。 夕暮れ前、差配官エイドルが予定どおり現れた。私は彼に“本日の日替わり弁当”を手渡す。
 ̶ 玉ねぎの涙スープ(学園仕様)
 ̶ 肉なしメンチのパン粉焼き(学園第1審査通過記念)
 ̶ じゃがいもの皮のカリカリ(廃棄率削減おやつ)
「笑顔の数は?」とエイドル。
「ざっと五十。うち“おかわり”は十五」
「おかわりは、笑顔二倍換算だな」
 彼は手帳にさらさら書き入れ、「黒字の匂いがする」と言った。
「油は救える。人もたぶん。今日の結論です」
「明日の結論は?」「王宮でも、人は腹が減る。それは王族も同じ」
 エイドルは満足げに笑い、帰っていった。
 厨房に残ったのは、鉄板の余熱と、学生たちの笑い声の名残。
 私は壁の空白に、あのチョークで今日の一言を書く。
〈今日の家政Tips:肉は“気配”でも噛める。予算も同じ〉
 窓の外、学園の木立が風でざわめく。香りが、未来のページをめくる音に似ていた。
 平穏は、願うものではなく、段取りで呼ぶもの。
 明日、王宮。だが朝は寮の拍を守る。
 焦らない。跳ねない。でも、確実に揚げる。
̶ 胃袋外交官 名乗るのはまだ早い。
 けれど、揚げ箸を置いた私の指は、次の拍を知っていた。

第3話「王宮の昼は、朝の拍から始まる」
 朝の鐘が一つ。
 学園寮の食堂は、まだ眠そうな木の匂いをしていた。私は“揚げ物封印デー”の宣言どおり、噛むスープから始める。
「おはよう、胃袋の図書室」
 家政魔法〈台所見取り〉を流す。昨夜つけた油膜は健在、刃物の歯はまだ立っている。火口は三度寝中。つつけば起きる。
「今日は根菜×豆×海藻で三拍子」
 鍋に、角切りの大根、にんじん、干し椎茸の戻し汁。〈旨味抽出〉をゆっくり走らせ、音が“ひそひそ声”になったら豆を入れる。仕上げ直前、短く刻んだ海藻を雨みたいに散らす。
 パンは昨日の端っこを〈気泡よみがえり〉で起こし、角を焼いて
“噛み音”を作る。サラダは「目が覚める酸」で仕上げたい。酢に〈香り継ぎ〉で柑橘の皮と粒胡椒の匂いを移し、塩はふた呼吸に分けて振る。
 ブラークが厨房に入り、鍋の湯気を嗅ぐ。「そのスープ、議論を二割穏やかにする匂いがする」
「狙いどおりです。今日は王宮へ顔を出す日。学園の午前を“平和寄り”に振っておきたい」
「やることが、将軍だ」
 配膳が始まる。
 「二回だけ目を閉じる」のお作法は、もう何人かに伝播していた。
噛む音が揃う。カリ、ふう、コト。三拍子が食堂を歩く。喧嘩の芽は、口の中で噛み砕かれる。
 食後、寮の掲示板に小さな紙が増えた。
〈朝ごはん、眠くならないの助かる〉
〈スープの“ひそひそ声”、好き〉
〈テスト前も、この三拍子でお願いします〉
 紙は宣伝より強い広告だ。**“生活の側にいる言葉”**は、嘘をつかない。
 私は早足で寮の裏口を出る。ミナが駆けてきた。「お嬢さま、王宮の案内、これです!」
 差配官エイドルからの伝令。革ケースに挟まれた招待状は、権限の紙の匂いがする。責任と昼食の香り。
「行ってきます。昼までには戻る。ブラークさん、昼は“麩のかつ
”で行きましょう。肉の気配、第二弾」
「麩でかつ? 上出来だ。油の歌の代わりに、衣の囁きで行こう」
 私はミナと一緒に王都の御門へ向かった。道の石畳が少しずつ滑らかになるほど、権限の粒子が濃くなる。

 王宮の厨房は広かった。広いが、沈黙が重い。
 銅鍋は磨かれて、壁は鏡みたいに光っているのに、香りの風が走っていない。鍋は呼吸しないと死ぬ。ここは、呼吸の浅い厨房だ。
「君が例の子か」
̶ 出迎えたのは、昨日の近侍 カイ・レンスト。黒髪を束ね、歩幅はやはり正確。
「殿下は“昼議(ひるぎ)”の前に軽食を取る。近頃、昼議の最中に眠気が出る者が多くてね。味が“細る”と、会議も細る」
「材料は?」
「制約がいくつかある。肉は使って構わないが重くするな。香りは強すぎると文官が嫌う。時間は一刻(約三十分)」
「条件、好きです」
 そこへ背広の鉄板みたいな視線。
̶ 総料理長 バルド・ゲルナー。鍛え直された木のような男だ。
「王宮の味は伝統だ。小手先の軽口でいじられる筋合いはない」
「伝統は、拍が続いて初めて伝統になります。止まった拍は飾りです」
 言い返した瞬間、厨房の空気が少しだけ身構えた。
 私は両手を台に置き、家政魔法〈動線復唱〉を流す。配膳↓盛り付け↓加熱↓洗浄の流れに逆流が多い。香りの“逃げ穴”は天窓の隅に固まっている。まずはそこを塞がないと、どんな料理も記憶に残らない。
「十分ください」
 私は棚の布をほどき、窓際の布巾と鍋つかみを高さ順に並べ替える。手が迷う台所は、味も迷う。塩は二種類に分け、**“筋を通す塩”と“表情を作る塩”**の壺を別にする。
 火口の癖を読んで、炎の背を撫でる。
 厨房の背骨が、動いた。
「献立は?」カイ。
「“喉がひらく粥(かゆ)”と“薄切りの王宮カツサンド”。粥は生姜×白胡麻×白身魚の骨で出汁の透明を作ります。サンドは肩ロースではなく、冷めても噛める部位で薄く。脳に油の負担をかけず、眠気を起こす血糖の波を緩やかにする」
 総料理長の眉が、ほんの一ミリだけ上がった。「粥、だと?」
「粥は敗走の朝食にも勝利の夜食にもなる。今日は前哨戦の昼です」
 開始。
 鍋に水。〈硬度調律〉で少しだけ柔らかくする。生姜は刃を立てず擦って香りを“湯気の手前”まで引き、白身魚の骨から“骨格だけ”を借りる。米は洗いすぎない。必要な粘りは武器だ。
 〈湯気誘導〉で香りを人の顔の高さに通し、胡麻は割るだけ。香りの頂点を低く、長く保たせる。
 サンドは薄切り肉に〈繊(ほど)維交差解き〉をかけ、塩は筋の塩を先に、表情の塩は仕上げ。衣はパン粉を二層にする。内側は細かく、外側は粗く。噛みはじめと終わりの景色を変えるためだ。揚げずに高温で焼く。油は刷毛で薄く塗るだけ。**音は“薄い雨”**になればいい。
 カイが腕を組んで見ている。総料理長は沈黙。
 私は“厨房の呼吸”を整えるように歩幅を刻み、盛り場に立つ見習いの手元を一拍遅らせる。慌てる盛り付けは、味の肩を落とす。「運ぶ順番は粥↓サンド。粥で喉をひらき、サンドは二口目で現実に戻す。三口目は会議室に入ってからです」
 盆が数枚、静かに出ていく。
 私は残りの粥にごく少量の白胡椒を落とし、**“遅れてくる覚醒”**を仕込む。

 昼議の間は、すでに紙と声で満ちていた。
 王太子は若く、目がよく動く。牙を隠した笑顔。相手の歩幅を測る笑顔だ。
 彼は粥を一口。目の焦点が半拍、奥に寄った。
̶ 喉が、開くな」「
「殿下、二口目で温度が一度上がります。発言者が増えますが、口論は減ります」とカイが手短に告げる。
 議場を見ていると、本当に声の質が変わった。
 紙をめくる音が軽くなり、咳払いの数が減り、“反駁の声”が丸くなる。
 サンドを二口で済ませた文官が眠気の手をはねのけ、目が前を向く。
 胃袋は、会議の影の司会者だ。
 殿下が私を見た。「君か。“胃袋の外交官”」「まだ名乗るのは早いですが、昼は味で説得できます」
 王太子の側に、一人だけ眉間を固くした男がいた。財務府の参事官。書棚の匂いをまとう理屈の人。
「粥で政治が変わると?」彼は笑いの棘を隠さない。「小手先の効果だ。午後には薄れる」
「薄れます。だから毎日やる。伝統は継続でできていると、先ほど学びました」
 彼の視線が僅かに泳ぐ。理屈の人は、正しい言葉に弱い。正しさは音量を上げないからだ。
 殿下がカイに目配せをして、こちらに向き直る。「条件を言え。
̶王宮の味を平穏へ寄せる任を 期間限定で 頼みたい」
「条件は三つ」
 私は深呼吸して、鍋の余熱みたいな声で言う。
「一、寮の朝食を最優先。朝の拍は学園に置く。
二、厨房の動線と香りの抜け穴に手を入れさせてください。味は動線で半分決まる。
三、“笑顔の数”を評価軸にすること。文句は台所ではなく数字で受けます」
̶ 総料理長が口を開きかけ 殿下が先に笑った。「採用。期間は
七日。まずは試練の週だ。笑顔が増えなければ、そこで終わり」
「笑顔は油と違って捏造できません。公正です」 殿下は席に戻り、粥をもう一口飲んだ。喉が通る音がした。

 厨房に戻ると、総料理長が静かに言った。「私は、君を嫌っているわけではない。ただ、伝統が軽く扱われるのが嫌いなだけだ」
「私も同じです。軽い伝統は揚げすぎた衣みたいに、噛んだ音だけ派手で、すぐに砕ける」
̶ ゲルナーは笑った 刃の丸い笑いだった。「七日の間、君の“ 拍”を見よう」
 午後の仕込みに入る前、裏口でカイが小さな紙袋を渡してきた。
「殿下からの私信だ。文字は少ないが重い」
 袋の中には、硬い砂糖菓子が三つ。手書きの紙が一枚。
〈朝を守れ。昼は任せる〉
 砂糖菓子は、長旅の兵隊に配るやつだ。拍を長持ちさせる糖。
「任せます。が、夕方には寮に戻る」
「わかっている。王宮は“天下”を運営する。だが、天下は夕飯で機嫌が決まる」
「よくご存じで」
 私が笑うと、カイは珍しく先に笑った。厨房の軍人に、ようやく油の音がついた。

 学園に戻ると、ミナが迎えに飛び出した。「麩のかつ、大成功です! 最初は『麩ってあの……坊さんの?』って顔だったのに、噛んだら『あ、肉だ』って」
「気配は裏切らない」
 ブラークが手で○を作る。「昼の“争い率”、廊下担当に聞いたら、昨日比で三割減だ」
「三割?」
 数字が、歌詞に見える。
 私は壁にチョークで書いた。
〈今日の家政Tips:“負けそうな議論”は、まず喉をひらけ〉
 差配官エイドルが、夕刻の弁当を受け取りに現れた。
「王宮の騒ぎ、もう紙の端に乗り始めているぞ。“喉の開く粥”だと」
「紙は早い。お弁当の胡麻豆腐、今日は“遅れてくる覚醒”仕様です。会議、多いでしょう?」
「読まれたか。……七日のうちに、差し押さえ再評価の場を作る。君の“笑顔の数字”を資料にする。飯で議会を説得するという前代未聞の提案になるが」
「前代未聞ほど、胃袋は強い」
 エイドルは満足そうに頷き、帰っていった。

 夜。
 寮の消灯が近づくころ、私は厨房の隅で明日の段取りを書き出す。
 王宮の昼:“脳に重さを残さない三皿”。
 学園の朝:“五分で起きられる匂い”。
 借金返済の道筋:七日分の弁当と笑顔の換金。
 ミナが湯飲みを持ってきた。「お嬢さま、休んで」
「休むのも段取りだね」
 湯飲みの湯気に〈香り継ぎ〉で柑橘の白い部分だけを少し移す。
苦味が眠気の手をやさしく引く。
「ねえミナ。平穏って、どこから来ると思う?」
「えっと……お金と、良い人間関係と、あと天気」
「だいたい正解。もう一つ。台所の勝率」
 彼女の目が丸くなる。「勝率?」
「一日に三回ある試合で、二勝一敗を繰り返すこと。朝昼夜。たまに三タテが取れたら、それが“幸せ”って呼ばれるやつ」
「三タテ、今日できました?」
「たぶん二勝一分。明日は三タテ狙う」
 ミナがうなずく。「じゃあわたし、揚げ箸の練習します。二口目で現実に戻すために」
「いいね。現実は、だいたいおいしくできる」
 消灯の鐘が鳴る。
 静けさが降りて、厨房は本のように閉じた。
 私は最後の火口に手を当て、明日の拍を一つ、心の中で打った。
̶ 平穏最優先。でも、確実に揚げる。 
 胃袋は戦争を嫌う。だから私は、日々の勝ち方を増やす。
 壁の片隅にもう一行、白いチョークで。
〈今日の家政Tips:伝統は“続いた段取り”の別名〉

第4話「五分で起きる匂いと、午後に反逆するサラダ」
 朝の鐘の前、薄い藍色が窓の縁に掛かる頃。
 私は、学園寮の食堂で**“五分で起きる匂い”**の仕込みをしていた。目覚ましは音でも光でもない。香りの拍だ。
「パンは昨日の端を角切り、起床用クルトンに」
 家政魔法〈気泡よみがえり〉でパンの内側だけをふくらませ、表面に柑橘の白い部分をこすって**“苦味の微振動”を移す。これを低温の油で泳がせる**。音は水琴窟より控えめ。湯気の縁に〈香り誘導〉を通して廊下へ“先触れ”を出す。
「スープは朝豆×白味噌。味噌は**“笑う塩”、豆は“踏ん張る甘さ”」
 鍋に豆を走らせ、〈旨味抽出〉をゆっくり。玉ねぎは〈涙腺遅延〉で“泣かない朝の仕込み”。仕上げに七分目の酸**を落とす。酸は目覚ましの舌。
 ブラークが入ってきた。「起きる匂い、廊下まで来てる。鐘より優しい」
「目覚ましの本質は、恨まれないことです」
 配膳の合図とともに、寝癖を旗のように立てた学生たちが、とろとろと流れ込む。
「二回だけ目を閉じる」の作法は、すでに**“目を閉じる間の短い雑談”**に発展していた。**カリ、ふう、コト。**噛む音の三拍子は、まだ眠い世界を人間に戻す儀式だ。「お嬢さま、掲示板!」ミナが小走りで紙を持ってくる。
〈五分で起きられた/罪深い/ありがとう〉
〈**“苦いのにやさしい”**朝が好き〉
 手書きのありがとうは、広告代理人が買えない宝石だ。私は一読して、壁の心の引き出しにしまった。
「昼は?」ブラーク。
「王宮は**“会議が速くなる三皿”**を持っていきます。寮は、
**麩かつ丼̶ 卵の拍は“控えめ三拍”**で」
「拍を数える丼。新しい学問だな」

 王宮。
 昨日より空気が少しだけ軽い。厨房の背骨が、わずかに伸びている。総料理長ゲルナーの視線にも、うっすら柔らかい筋が見えた。
「今日は何を」カイ・レンストが腕を組む。
「一、喉を整える柑橘粥(薬膳を名乗らない薬膳)。
二、薄衣の白身フライ“焼き”(会議中でも手が油まみれにならない)。
三、反逆サラダ」
「反逆?」カイが片眉を上げる。
「“口を開きたくなる”方向に反逆します。葉の層を粗密で重ね、噛む順番に小さな質問を仕込む。答えは舌が出す」
 ゲルナーが低く笑う。「名は挑発的だが、意図はまっとうだ」
 私はまず粥。昨日の骨格はそのままに、今日は柑橘の果皮ではなく果肉の“薄膜”を使う。〈香り継ぎ〉で香りの角を落とし、白胡椒は遅れて来る覚醒に一役。
 白身は衣を二層、だが今日は粉↓卵↓パン粉の卵を薄塗り。油は刷毛で。焼き板に〈熱均し〉を走らせ、衣だけが雨の音を鳴らす。
 サラダは、葉の種類を四つの質問に分ける。
 Q1:噛み始めに自信が出るか(ロメイン)
 Q2:会議の途中で笑えるか(クレソンの辛み、微量)
 Q3:反論の角が丸くなるか(茹で小麦の噛みごたえ)
 Q4:最後に“次の議題”を口が待つか(柑橘の薄膜とローストナッツ)。
̶ ドレッシングは**“怒らない酸” 酢を〈温度馴染み〉でぬるくし、塩は“筋”用を先に、仕上げの“表情”用は盛り場で**。
「反逆サラダ、どの程度反逆する?」カイ。
「怒鳴り声を“発声練習”に変えるくらい」
「そんな魔法があるなら、議会に常備したい」
「魔法」私は肩をすくめる。「段取りの名前ですよ」
 皿ができた瞬間、厨房の香りの矢印が、ひとつに揃って議場へ伸びた。昨日はバラバラだった矢印が、今日は同じ方向だ。拍ができると、香りは行進する。

 昼議の間。
 王太子は、今日も一拍早く粥に手を伸ばした。
「喉が昨日の続きから開く。いいな」
 参事官は、相変わらず眉間は固い。だが、サラダを噛んだときに、目の焦点が少し前へ出た。「……しゃべりたくなる噛みだ」
「反逆サラダです」
「なるほど。名に反感が出ないのが腹立たしい」
̶ 発言の順番が、一人分だけ早く回る。誰かが被せようとする
噛んでいるので半拍遅れる。その半拍で、議題は乾いた紙から湿りのある実務に降りる。
 紙の端が、怒りではなく鉛筆の削り屑で汚れていく。会議はそれが健全だ。
「昼の速度、昨日比一割五分増」カイが視写器の板を見ながら囁く。
「居眠りゼロ」
「数字は音楽です。テンポが合えば、合唱になる」
 王太子がこちらを見た。「君の条件、もう一つ増やしていいか?」
「条件に条件を重ねるのは、料理では焦げの原因ですが、どうぞ」
「厨房の人事評価に“笑顔の数”を部分導入したい。現場の士気を見たい」 総料理長が即座に返した。「反対はしません。味は現場のスポーツですから」
̶ 参事官の唇に、皮肉の棘 が、消えた。「数字で測る以上、私の仕事でもある」
 笑顔は、最古のKPIだ。

 昼を終え、私は沸き上がる皿を片付ける。拍の余熱を消さずに、学園へ戻る準備。
̶ その矢先 厨房の扉が開き、蒼い布が目に入った。
 蒼布は、衛生監察官の色だ。
「本日午後、抜き打ち査察を行う」
 小柄な女性が書状を掲げる。目は鋭いが、乱暴ではない。名はイラ・トルテ。
「王宮厨房および学園寮食堂。同一の魔法式が使われているとの通報を受けた」
 ゲルナー、カイ、私。三人の背筋が、箒のように伸びる。
 王宮はまだしも、学園は**“導入二日目”**だ。小さな改善は、大きな規則に踏まれやすい。
「まずは王宮から」イラは冷静に歩き、棚の順序、塩の壺、**“ 怒らない酸”**の瓶をひとつずつ指で触れる。
「**動線が整理されている。良い兆候。しかし、この〈香り誘導
̶〉**の魔法陣 換気の基準に抵触する恐れがある」「香りは人の顔の高さで止めています。煙は上へ逃がす。喉に悪いものは通さない設計です」
「設計意図は理解。しかし実測値は?」
 私は即座に〈空気計測〉で数値を出し、**“甘い匂いは0.6、煙は0.1”**と報告する。
「しきい値以下。暫定合格。学園も同式か?」
「学園は窓の位置が古く、逆風が多い。魔法陣は別設計にしました。
香りは午前は右へ、午後は左へ。人の流れに合わせて“鼻の渋滞” を避けています」
̶ イラの目が細くなる。「案外、戦術的だ。 学園へ行く」

 寮の食堂では、ちょうど麩かつ丼の片付け。丼ぶりの底に笑顔が溜まっているような空気。
 イラは手早く厨房の四隅を見て、私の手元の**“起床用クルトン”**の残りを見つけた。
「これが五分で起きる匂い?」
「はい。学生が目覚ましを嫌いにならないための」
 彼女は一つ摘んで、二回だけ目を閉じて噛んだ。
 ……目を開けたとき、まぶたの重さが半拍軽くなっていた。
「危険性なし。むしろ午前の騒音が減るなら、近隣からの苦情も減る。合格」
 彼女は検査票にさらさらと記入し、最後にこちらを見た。「ただし、寮の地下貯蔵。湿度が高い。黴(かび)の兆候。三日以内に対処を」
「今夜やります。**黴は“匂いの負債”**ですから」
「言い回しが気に入った。監察官は言葉の匂いにも敏感なの」
 去り際、イラはちいさく指を振った。「反逆サラダ、面白い名ね。
記録にそのまま書いておくわ」
 行政文書に“反逆”。たぶん後世の笑い話になる。

 夕刻。
 差配官エイドルが弁当の受け取りに来た。彼の顔は、紙の匂いと台所の湯気でできている。
「再評価の場、六日目の午後に設定できそうだ」
「六日目」私は指で七日間の拍をなぞる。
「議会には“笑顔の数”の表を出す。王宮・学園・弁当の三系列。
可視化は政治の友だ」
「味は可視化されると強くなる。ありがとうございます」 彼は今日の献立を覗く。
 ̶ 鶏皮のない鶏めし(匂いは鶏、脂は影)
̶ 反逆サラダ・携帯版(噛むための議事録)
̶ 羊羹一口(議事堂の長椅子で割れない甘さ)
「……弁当が政治をしている」「政治が弁当に教わるのが、平穏です」
「名言が多いな。紙の端が足りない」

 夜。
 イラが指摘した地下貯蔵の黴。
 私はミナ、ブラークと三人で、床石の継ぎ目にブラシを当てる。〈臭気分解〉で匂いの根を切り、〈湿度搬出〉で空気の重しを外へ出す。
 樽は底上げして風を通す。動線の端に袋を寄せず、“角に物を置かない”ルールを貼る。角に置かれたものは、いつも物語の落とし穴になる。
「お嬢さま、これ、何の匂い?」ミナが鼻をひくつかせる。
「“過去の揚げ物”の匂い。勝った日の残り香は、保存すると敗因になる」
「むずかしいです」
「簡単に言うと、昨日の栄光は床下で黴る」
 ミナは頷いて、黙々とブラシを動かした。今日を勝つための作業は、地味で、詩がある。
 地上に戻ると、寮の廊下は静かで、窓の外に三日月。
 私は壁に、白いチョークを走らせる。〈今日の家政Tips:“香りの拍”は目覚まし。怒らない酸は会議の友。昨日の栄光は床下で黴る̶ だから毎日、少しずつ勝つ。〉 明日。
 王宮は**“眠らない午後”のための軽い皿を。学園は“五分で荷造りできる昼”**を。
 借金は、笑顔の数字を利子に変えて返す。
 平穏は、反逆しない段取りで守る。
̶ でも、サラダだけは時々、やさしく反逆する。 

第5話「昼下がりの陰謀は、出汁で剥がす」
 朝の仕込みを終え、学園の食堂が“カリ、ふう、コト”の三拍子で目を覚ます頃。
 私は配膳台に小さな張り紙を出した。
〈本日の朝:五分で起きる匂いII(柑橘+白胡椒の“遅れてくる覚醒”)〉
〈本日の昼:五分で荷造りできる弁当(噛むおにぎり+反逆サラダ・携帯版)〉
「お嬢さま、弁当の“噛むおにぎり”、どうして角が丸いんです?」ミナが首を傾げる。
「角ばったおにぎりは、角ばった言い合いを呼ぶ。角は噛んで丸くしておくのが礼儀だよ」
「むずかしい……でも可愛いです」
 ブラークは“胃袋の図書室”の黒板に、栄養書士のコメントを挟む。「本日のタンパク:豆と卵。午睡防止にカフェイン控えめ」
「控えめ大事。午後に反逆はサラダの役目だから」

 王宮。
 総料理長ゲルナーの顔色はよく、カイ・レンストの足取りは昨日より半拍速い。厨房の香りの矢印も、すでに議場の方向に揃っていた。
「今日は?」カイ。
「眠らない午後セット。
一、金糸卵の薄焼き“折り本”(読むみたいに噛める)
二、白いラグーの小さな器(眠気を起こす脂を“影”に)
三、会議机の上で音がしない果物(切り方は“囁き”で)」
 ゲルナーが背中で笑う。「音がしない果物?」
「梨。刃の角度を少し寝かせて、切断音を“ほとんど過去形”にします」
̶ 仕込みは淡々と進む はずだった。
 鍋に火を入れた瞬間、私の鼻がぴり、と警告した。香りの矢印が一つ、逆向きだ。甘さの芯にえぐみが混じる。
 私は〈台所見取り〉を強め、蒸気の流れを目で追う。換気口の手前に、見慣れない薄布。魔法陣の一部に小さなズレ。〈香り誘導〉の線が、半度だけねじれている。
̶ 誰かが、細工した。 
「カイ、換気口の前、薄布を誰が?」
̶「薄布?」彼が覗き込み 眉が動いた。「見覚えがない。誰が…
…」
 ちょうどその時、香りが跳ねた。ねじれた風が、ラグーの鍋の蓋を撫で、香りの“背骨”を折りかける。味は背骨が折れると駄目だ。
 私は鍋の前に立ち、〈香り骨格矯正〉をかける。折れた背をやさしく起こし、蒸気の軌跡を人の顔の高さへ戻す。
 同時に布を外し、魔法陣の線を一筆だけ書き直す。半度のズレは、会議を半時間迷子にさせる。
「誰がやった?」ゲルナーの声が低い。厨房の空気が、金属の音を飲み込む。
 私は“匂いのゆりかご”を手繰る。〈匂跡追尾〉。
̶ 布に残った香りは 獣脂の影、それと古胡椒。王宮の標準調味庫の胡椒ではない。粗悪な外部品。
 目を上げると、扉の向こうに納入業者の腰巾着がちらりと顔を見せ、すぐ引っ込んだ。
̶ 王宮の味が“平穏”に寄ると困る勢力。利権の匂いは、たい てい古い油の匂いと似ている。
「証拠は?」カイが短く問う。
「味で剥がします」
 私は急いで小鍋を出し、透明ブイヨン審問の支度をした。
 骨と香味野菜だけの澄んだ出汁。そこに、問題の布を上にかざす。布目から落ちる微細な粉が、湯面に黒い星のように広がる。
 次に、業者が納めた胡椒と、王宮標準の胡椒を一粒ずつ砕いて落とす。
 湯気の匂いが二股に分かれた。片方は細く長く、片方は短く刺す。
 私は見学に集まった調理人たちの鼻へ、順番に湯気の矢印を送った。「どちらが長く座れる匂い?」「……こっち」「長く座れる」「刺さらない」
 声が揃う。
 私は布を持ち上げ、衛生監察官イラの昨日の検査票の写しを、布の上にそっと載せた。「布がある限り、数値は悪化します。書面にも鼻にも、ウソはつけない」
 納入側の男が蒼白になり、逃げ腰になった。
 カイの足が一歩。彼は無駄な言葉を使わない。「出入り停止。調査」
 ゲルナーが短く頷く。「味で剥がすのは、気持ちがいいな」
「悪い匂いは、出汁に勝てません」私は鍋を戻し、調理を続けた。
「続けましょう。会議は拍で待ってくれない」

 昼議の間。
 “金糸卵の折り本”は、読むみたいに噛める。紙の端をめくる癖がある文官ほど、噛む回数が一回増える。
 白いラグーは、脂を〈影化〉して、舌の上に跡を残さない。
 梨は、音がしない。
「今日の議論、棒読みが減った」王太子が横目で笑う。
「棒読みは、眠気の方言です」私。
 参事官は、悔しいけれど納得顔でうなずく。「昼下がりの沈没率、確実に下がっている。机の下の足踏み回数もだ」
「足踏み?」カイが視写器板をめくる。
「会議の忍耐を測る隠し指標だ。机の陰は嘘をつかない」
 王太子はさらりとサインを入れ、紙を返した。「七日目に“公開の昼”をやろう。議員と厨房、学園の寮長も呼んで、油と平穏の関係を口で説明してもらう」
「公開?」私は息を整える。「条件が一つ」
「また条件か。どうぞ」
「揚げ物は出さない。公開の場で“音の派手さ”に頼るのは、議論の足場を滑らせる」
「承知した。うまい地味で勝つ」

 学園に戻ると、昼の弁当配布は小さな列ができていた。
 “噛むおにぎり”は、中身が“議題”だ。昆布の“待つ旨味”、鰹の**“すぐ結果”、梅の“方向転換”**。学生たちは三種を選び、午後の講義の性格に合わせて噛む。
「五分で荷造りできた!」
「噛んだらやる気が出るのズルい」
 ミナが頬を緩ませる。ブラークは「午後の居眠り横断、昨日比で半分」と静かに記録した。
̶ が、一点の曇り。 
 配膳台の隅で、お嬢さま風の生徒が三人、口を尖らせている。「寮母見習いが人気取り」「王宮に色目」「庶の匂いがする」
 言葉の“脂”が古い。古油は匂いでわかる。
 私は近づいて、丁寧に一礼した。「ご意見、ありがたく。午後のおやつで、匂いの好み診断を出します。庶と貴、どちらの匂いが勉強の敵か、鼻に聞いてみましょう」
 彼女たちは面食らい、扇子を閉じた。「……勝負、ということ?」
「鼻の公正に委ねます。香りは階級に従わないので」

 夕刻、差配官エイドルが弁当を取りに来た。彼の手帳には、笑顔の棒グラフが三本。王宮、学園、役所。微細な揺らぎが、今日の陰謀の小波でぴくりと動いている。
「利権の布、押さえたと聞いた」
「出汁で剥がせました」
「政治的にも剥がれやすい相手だ。六日目の再評価、王宮側からも “笑顔指標”のヒアリングを入れる。君の“厨房KPI”が、財務の言葉に翻訳される初日になる」
「翻訳、好きです。味⇅数字の往復は、平穏の橋になる」 エイドルは弁当の梨を一片摘んで、音のしない咀嚼を試し、満足げに頷いた。「議会の床が静かなのは、清掃部と君の功績だな」

 夜。
 私は“おやつ実験”の準備をした。名付けて**「庶と貴の嗅覚問答」。
̶ 皿A:庶の匂い 焼いた味噌の端、出汁でのばした醤、炒めた葱の元気**。
̶皿B:貴の匂い 白胡椒の薄影、軽くまとった柑橘の皮、澄ましたバターの礼儀。
 どちらも攻撃性ゼロで構成し、脳の疲労がどちらに寄るかを見せる。
 お嬢さまたちは、半信半疑で鼻を近づけた。
̶ Aを嗅ぐ 目の焦点が近くなる。
̶Bを嗅ぐ 目の焦点が遠くなる。
 私は静かに言う。「近くに焦点が合う日はAを。遠くに合わせたい日はBを。階級ではなく、用途で選ぶのが台所の作法です」
 沈黙が一拍。やがて扇子の子が、そっと笑った。「……鼻は階級に従わない。覚えておくわ」
「ついでに一口どうぞ」私は**“角のないおにぎり”**を差し出す。「二回だけ目を閉じて」
 彼女たちが噛む。カリ、ふう、コト。
 言葉の脂が、少し落ちた。

 片付けのあと、私は地下貯蔵の見回りへ。昨夜の黴退治は効いている。空気の重しが取れ、樽の風通しが良い。
̶ 隅に一つ、古い木箱。蓋を開けると 家紋入りの古い皿が出てきた。縁の銀が薄く黒い。
 〈銀磨き〉で柔らかく撫でると、家紋が現れた。ステンマイア家。
 私は皿を抱え、台所の明かりに戻る。差し押さえの影の中でも、この皿は使われるのを待っていたのだろう。
「お嬢さま、それ……?」
「家の拍だよ。ここから黒字化の器にする」
 私は壁の余白に、今日もチョークを滑らせる。
〈今日の家政Tips:悪い匂いは出汁で剥がす。鼻は階級に従わない。角のないおにぎりは、角のない午後を連れてくる。〉
 明日、王宮は**“公開の昼”の段取り固め**。学園は**“ 試験前の舌”の準備**。
 六日目の再評価まで、あと二拍。
 平穏は、毎日二勝一敗の積み上げ。たまに三タテ。
̶ そして、台所は 次の拍のために、静かに呼吸を整えた。

第6話「試験前の舌と、“公開の昼”の段取りは油断を許さない

 朝の鐘の前、私は掲示板に二枚の紙を貼った。
〈本日の朝:五分で起きる匂いIII(白味噌+生姜の“やさしい覚醒”)〉
〈本日の昼:試験前の舌セット(集中の甘・記憶の酸・不安の塩)〉
「試験前の舌って、舌にも試験があるんですか?」ミナが目を丸くする。
「あるよ。甘味は**“ここにいていい”を言い、酸味は“今に戻れ”を言い、塩味は“迷うな”**を言う。今日はその三科目で合格させる」
 スープは白味噌に生姜をごく薄く。〈香り継ぎ〉で生姜の角を落とし、湯気を学生の顔の高さで止める。パンは角を落として“角のない朝”。
 配膳が始まると、食堂の空気がさらさら動いた。カリ、ふう、コト。三拍子はもう儀式の定型だ。
「昼の“試験前の舌セット”、具体は?」ブラークが栄養書士のメモを手に入ってくる。
「一、集中の甘:さつまいもの素揚げ……は封印中だから焼き甘。繊維を〈ほぐし〉、蜜を表層に呼び戻す。
二、記憶の酸:薄切りレモンを蜂蜜水で〈角落とし〉し、穀物サラダに隠し和え。
三、不安の塩:出汁塩おにぎり。塩は“筋の塩”、昆布は“待つ旨味”。指先を見るだけで握った人の不安が減る」
「指先?」
「不安で握ると角が立つ。角が穏やかなのは、心が整ってる証拠」
 ミナが頷く。「お嬢さまのおにぎり、いつも角がないです」
「そうありたい」

 王宮に向かう前に、私は地下貯蔵へ降りた。昨夜磨いた家紋入りの銀縁皿を箱から出す。〈銀の記憶起こし〉を走らせると、皿に乗った料理の**“勝った音”**が薄くよみがえった。
 ̶ この家は、台所で勝てる。
 箱に戻し、学園を出る。

 王宮厨房は、**公開の昼(七日目)**に向けて緊張の気配。カイ・レンストが板の一覧を掲げている。
 〈公開の昼:揚げ物禁止/笑顔指標・公開/来賓:議員・厨房関係者・学園寮長〉
「今日(五日目)は“予行”。油に頼らない三皿で、議論が半拍速くなるか検証する」カイ。
 総料理長ゲルナーが腕を組む。「メインは?」「“口が勝手に要点を言う”手毬寿司、“眠気の手を払う”鶏の柑橘蒸し、“怒らない豆”の煮込み。寿司は酢を〈温度馴染み〉、米の粘りは**“二口で解散”に。鶏は皮を外して〈繊維ほどき〉、柑橘は薄膜だけ。豆は議事の裏拍**」
「寿司……大胆だな」ゲルナーが笑う。「だが拍が取れる」
 仕込みに入る。
 寿司飯は〈水分偏在〉で中心をわずかに瑞々しく、外を乾かす。
̶手毬は二口で消える設計 最初の一口で喉を開き、二口目で“要点を言いたくなる”。
 鶏は塩を筋に先、表情塩を後。柑橘の薄膜が脂の影に光を差し、香りは聴きたくなる声の高さに。
 豆は出汁を〈骨格化〉して“噛みながら頷く”を起こす。
̶ そこへ、薄い紙の匂い。 
 衛生監察官イラ・トルテが現れ、簡易計測器で換気と温度を見ながら言う。「公開の昼の観覧導線、確認に来た。来賓に“香りの矢印”が当たりすぎると、政治的に妬まれる」
「妬まれない香り、むずかしい課題ですね」
「香りは公平だから妬まれる。当たりすぎない角度にしなさい」
 私は魔法陣を数か所、半度ずつ寝かせた。湯気は客席の胸元を掠め、議場へ伸びる。目立たず効く角度。
 イラが頷く。「昨日の布騒ぎ、聞いた。今日は匂いに異物がない。
よくやった」
「出汁の前では、悪だくみは味が悪い」
「言い草が好き。……午後、学園でもう一度地下の湿度を見に行く。
銀の腐食が出やすい日だ」
「銀は家の拍、守ります」

 昼議の間。
 手毬寿司が盆で滑り込むと、空気がすっと変わった。食べ物が会話の間合いを仕切る。
 参事官が、半ば警戒しながら二口目を飲み込む。「……言いたいことだけ残る。要点以外が、口に残らない」
「米は“余計な言い訳”を吸うのが得意です」私。
 鶏の柑橘蒸しで眠気が剝がれ、豆で頷きが増える。
 王太子は視写器板を見て、「発言の平均時間が短い。だが議題の進捗は速い。回り道の詩が減ったな」
「詩は食後にどうぞ」
 私は会釈し、配膳の最後尾に下がる。
 その時、参事官がふっと笑った。「公開の昼、君はどこまで話す
?」
「台所の言葉で全部を。“怒らない酸”、“筋の塩”、“笑顔のK
PI”。政治の言葉は殿下と参事官が翻訳してください」「嫌いではない役目だ」彼は目尻をほどいた。「最近、昼が待ち遠しい。不本意だが」

 学園。
 昼の配膳は、試験前の舌セットに小さな行列。昨日の“庶と貴の嗅覚問答”のお嬢さまたちが、今日は無言でAとBを目的別に選んでいく。鼻は学習が早い。
 食後、廊下の掲示板に紙が増えた。
〈酸で今に戻れた。答案が読めた〉
〈おにぎりの塩で手の震えが止まった〉
〈甘の“ここにいていい”が効く。明日も欲しい〉
「お嬢さま、救護室から連絡です」ミナが駆けてくる。「貧血組が今日、半分に減ったって!」
「数字が歌うね。半分は大合唱だ」
 ブラークは黒板に「試験週間対応:夜食は“脳に重さを残さない
”」と書き、私に目配せする。
「夜は**“音のしない菓子”**を出しましょう。記憶をほどく紅茶も。茶葉に〈記憶緩和〉はかけない。段取りでほどく」

 夕刻。
 差配官エイドルが弁当を取りに来た。彼の手帳の三本の棒グラフは、今日も右肩上がり。ただ、王宮の棒の根元に赤い印がついている。
「公開の昼、反対の陳述が入った。『香りで議会を操るな』だと」
「操るのは段取りです。香りは案内。反対陳述の席、一番前に“怒らない酸”を置きます。怒鳴りにくい角度で」
「置こう」エイドルは笑う。「六日目の再評価、議会側から財務・保健・監察が参加。お前の“笑顔KPI”の定義、短く、噛める言葉にしておけ」
「短く、噛める。任せて」
 彼は弁当の豆を摘み、「頷く豆は議会向きだ」と呟いて帰っていった。

 夜。
 “音のしない菓子”は、牛乳寒天にわずかの柑橘薄膜、砂糖は角が立たない量。噛むとき音がせず、目を閉じると答案の余白が見える。
 紅茶は〈温度馴染み〉で熱の刺を抜き、蜂蜜は**“ここにいていい”**の一滴だけ。
 配り歩くと、学習室で紙がぱらりと鳴った。
 私は黒板の下に銀縁皿をそっと置いた。皿はまだ家の拍を覚えている。ここに新しい勝ちを重ねる。
̶ そのとき、窓の外で小さな破片の跳ねる音。  廊下の角に、黒い影。厨房の鍵の束が、鏡みたいに月を反射していた。
 私は影に声をかけず、台所へ走る。戸棚の鍵穴に細工の跡。香辛料庫の錠が半度ずれている。
「ミナ、ブラーク、非常段取り」
̶ 私は家政魔法〈匂跡追尾〉を走らせる。影の匂いは 古油と焦げ砂糖。王宮で嗅いだ“利権の匂い”と似て非なる。
 だれかが、学園の台所も揺らしてくる。
「どうする?」ブラークが短く聞く。
「味で剥がす。明朝、**“犯人の鼻が謝る匂い”**を出します。
̶角砂糖を焦がしてから救う 罪を“ほぐす”匂い」
 ミナが拳を握る。「角のない謝罪ですね」
「角を落としても、芯は残す。謝る側にも拍が要るから」
 私は鍵を交換し、窓の釘を増し打ちする。
 台所は、人の心に影を作らないこと。影は欲に寄ってくるから。

 仕込みを終え、静けさの中、私は壁の余白に白いチョークを走らせた。
〈今日の家政Tips:試験前の舌には“集中の甘・記憶の酸・不安の塩”。公開の昼は“目立たず効く角度”。陰謀は出汁で剥がすが、謝罪には角のない匂いを。〉
 六日目は再評価の前日。
 王宮は**“目立たず効く三皿”を固め、学園は“犯人の鼻が謝る匂い”**で影をほどく。
 平穏は、二勝一敗の積み上げ。
̶ でも明日は 三タテを狙う。

第7話「“犯人の鼻が謝る匂い”と、六日目の可視化」
 朝の鐘より早く、私は台所に浅い鍋を置いた。
 角砂糖を三つ。焦がしすぎの一歩手前で止め、温い牛乳を糸のように落とす。湯気が立った瞬間、家政魔法〈焦げの赦免〉を通す。苦いだけの縁をほどき、ほのかな**“過去の失敗を笑える甘さ” **へ移す。
「お嬢さま、それが**“犯人の鼻が謝る匂い”**?」ミナが背伸びして鍋を覗く。
「うん。罪を焼き切るんじゃなく、ほどいて戻す匂い。焦がすのは簡単、救うには段取りがいる」
 香りの矢印を廊下へそっと送り出す。
 カリ、ふう、コトの三拍子が始まる前に、ひそやかな**“ごめん”**が、食堂の木の背板を撫でていく。
 朝食は定番の“やさしい覚醒”。配膳の列に、昨日の夜、窓の影 ̶になっていた細い背中を見つけた。厨房補助の下働き 名簿ではラド。
 彼の鼻が、湯気の上で一度震え、目の端が少し濡れた。
「おかわり、できますか」
 声は小さく、でも逃げていない音だった。
「二回まで。二回だけ目を閉じて」 ラドは指示どおりに飲み、黙って頭を下げた。鼻が先に謝り、言葉があとから追いついてくる。匂いの順番は、たいがい正しい。

 食後、食堂の隅で小さな聴取。
 ラドは、学園納入の下請けから小遣いを掴まされ、香辛料庫の鍵穴に細工を頼まれていた。昨晩、半度のズレを作った指だ。
「金が……必要で」
「わかる。でも鼻は買収に弱くない。だから今日、鼻にまず謝ってもらった。次に段取りだ」
 私は二択を出す。
 A:供述して**“厨房の影”整理班**に入る(匂いの流れ・鍵・逆風の補修を学ぶ)。
 B:退職して、監察官の指示に従い、外部の証言に回る。
 ラドは俯いて、一拍だけ迷い、Aを選んだ。影の整理は、影を知った人間が一番うまい。
「罰は厨房が決めない。拍が決める。今日から、君の仕事は**“ 影を浅くする”**だよ」
 ブラークが耳打ちする。「薄い罪を濃い労働で返す。古い仕来り
に似てるが、君のは怒りが薄い。救いの匂いがする」
「怒りは短期の火力だから。長期の黒字は、怒らない段取りで作る」

 昼は王宮。六日目は再評価の前日。数字を“噛める形”にする日だ。
 厨房に入ると、総料理長ゲルナーが銀のトングを掲げた。「今日は“可視化の皿”をやるんだろう?」
「はい。喉が開く粥・二日比較、反逆サラダ・噛み回数計、肉なしメンチ・満腹波形。食べながら理解できるグラフにします」
 カイ・レンストが視写器の板を扉に貼る。「笑顔KPIの定義、三行でいけるか?」
「いきます」私は指を三本立てた。
一、“笑顔”=口角+目尻+発話速度の合成値(台所係が視写器で記録)。
二、“おかわり”は笑顔×2換算(再選択は強い満足のサイン)。
三、“争い率”は廊下担当の集計(大声・足踏みの回数)。
̶ 全部、厨房が測らない部分の数字も借りる。これが重要。 
「短い。噛める。いい」カイ。
 献立は、午後の会議を乾かさない三皿。
 ̶ “可視化粥”:丼の内側に薄い二本線。最初の二口で喉の開きが一線目、四口目で二線目を狙わせる。“今日はここまで”が本人に見える。
 ̶ “反逆サラダmini”:器の縁に小さな白点を四つ。噛み質問のQ1〜Q4を目で追える。
 ̶ “肉なしメンチ 2nd”:皿の一角に小豆の粒を三つ。満腹波形の三段目(満足↓眠気手前↓回復)の回復を、小豆の“ゆっくり糖”で上げ直す。 衛生監察官イラが現れ、換気・温度・香り角度を一瞥。「公開の昼の観覧導線、再確認。**“においの嫉妬”**を受けない角度で」
「角度は半度まで調整済み。鼻の渋滞が起きたら、〈湯気誘導〉で壁を伝わせます」
「今日の議場、反対陳述の人たちが見学に来る。派手さゼロで倒して」
「うまい地味に自信があります」

 昼議の間。
 私は三行KPIを口で出し、台車の上の丼を差し出す。「二口目の線まで、四口目の線まで。目で拍を数える粥です」
 文官たちの喉が、自分の速度を目で見て学ぶ。“わたしは今、どの拍か”がわかるだけで、議論の食い違いが一段減る。
̶ 反対陳述側の議員が腕を組み、反骨の顔で一口 二口 四口。
 眉間が半拍ゆるんだ。「……強制されていないのに、速度が揃うのか」
「台所の仕事は、命令ではなく段取りです」
 “反逆サラダmini”は、噛み質問に従って、議題の筋へ戻す。
 “肉なしメンチ2nd”は、眠気の谷に小豆の梯子を掛ける。
 視写器板の数値がすっと右へ伸び、「発言の重複」が昨日比23%減。 王太子は、丼の縁の二本線を親指でなぞった。「公開の昼、これ
を各自の丼につけよう。“自分の拍”の可視化は、誰にも奪えない」
「揚げ物禁止であること、忘れないでください」
「忘れん。うまい地味で勝つ」
 参事官が咳払いをひとつ。「香りで操るな派の先生方、粥は操ら
̶ないが案内する。この違いを 鼻で納得できるはずだ」
 反対派の一人が、匙を止めて苦笑した。「鼻は階級に従わない、という噂の台詞。……記録に残す」

 学園へ戻る道すがら、私は角砂糖の救い香を少しだけ模様替えし ̶た。“謝罪の本番”は夕方 ラドが影の整理班としてみんなの前に立つ。
 昼の配膳は試験前セットの二日目。
 掲示板には新しい紙。
〈“二線目まで”で止めるの、よかった〉
〈小豆の梯子、午後に助かった〉
 紙は読者アンケートより正直だ。お金では買えない。
 夕刻、台所の前に学生と寮務、そして三人のお嬢さま。扇子の子がうなずく。「鼻の公正、見届けに来たわ」
 ラドが前に出る。言葉より先に、鍋の湯気が**“今日ここにいる理由”を説明する。私は横で“救い香プリン”(卵の拍を三拍**、角の立たない甘さ、カラメルは赦免済み)を小鉢に配る。
「やりました。お金に目がくらみました。でも、直したいです」
 ラドの言葉は破片が混じるが、鼻が先に謝っているから、飛び散らない。
「影の整理班に配属。鍵と逆風の管理、黴の芽の報告。一ヶ月は夜食なし」ブラークが淡々と告げる。
 お嬢さまの一人が手を挙げ、「謝罪には匂いが要るって本当なのね」と小さく笑った。「角のないおにぎりと角のない謝罪、セットで覚えるわ」
 私はラドに銀縁皿を見せた。「この皿は家の拍。失われかけたけど、磨けば戻る。人の拍も同じ」
 ラドが小さく頷いた。鼻で、拍で理解した顔。

 夜、差配官エイドルが弁当を取りに来る。
 彼の手帳には、三本の棒グラフのほかに、円が描かれていた。「再評価(六日目午後)、三者会議になった。財務・保健・監察、そして王宮厨房・学園寮から各一。“笑顔KPI”の短文版、十秒で通るやつを頼む」
「十秒版、用意済み」
 私は指で空に書く。
 “笑顔KPIは、腹で測る世論調査。おかわりは信任投票。居眠り減は治安維持。” 「……通る」エイドルが笑う。「公開の昼も、この調子で目立たず効け」
「角度は半度で。鼻の嫉妬を避けます」
「よろしい。ではまた六日目の午後、議会で」

 再評価前夜。
 私は学園の黒板に、可視化の準備を書き出す。
 ̶ 笑顔KPI:棒グラフ(王宮/学園/役所)
 ̶ “争い率”の推移:折れ線(廊下観測)
̶ “おかわり構成比”:円(信任投票の内訳)
 ミナがペンを持つ手を見て、「明日、三タテ狙うんですね」と笑う。
「狙う。朝・昼・夜。朝は**“五分で起きる匂いIV”、昼は王宮の“公開の昼”段取り固め**、夜は学園の**“薄い勝利の夜食”**。重くない三連勝」
「“薄い勝利”?」
「疲れない勝利。続けられる勝ち方が、平穏の形だよ」
 厨房の灯りを落とす前、私は銀縁皿を棚の一番見える場所へ。皿の縁が、明日の拍を待つように細く光る。
 壁の余白に、今日の一行を白いチョークで。〈今日の家政Tips:謝罪には“角を落とした甘さ”。可視化は
“目で噛めるグラフ”。命令ではなく段取りで、鼻は納得する。〉
 六日目の午後。再評価。
 そして明日、公開の昼。
 うまい地味で、確実に揚げずに勝つ。
 台所は静かに息をそろえ、半度の角度で、湯気を明日へ送った。

第8話「再評価は十秒で噛ませ、半度で通す」
 朝の鐘がひとつ。
 私は掲示板に小さく書いた。
〈本日の朝:五分で起きる匂いIV(白胡麻+柑橘薄膜“遅れてくる覚醒”・弱)〉
 湯気は顔の高さ、香りは半歩先。カリ、ふう、コトの三拍子が始まると、食堂の木の背板まで目を覚ます。試験前組の目の焦点が、今日も近くに寄った。
「昼は?」ブラークが黒板を拭きながら訊く。
「王宮は**“公開の昼”前の最終段取り**。寮は“薄い勝利の ̶昼” 噛む雑穀、怒らない酸、眠気の谷に小豆の梯子。夜は再評価の前祝いじゃなくて前整えに徹する」
「祝いと整え、つい混同するからな。厨房は整えだ」
 配膳の列に、昨日“影の整理班”に入ったラドがいる。鼻が嘘のない角度で前を向いている。
 私は親指を立てた。勝率は、こうして一人ずつ上がる。

 王宮。
 厨房の背骨は伸び、火口の呼吸が合っている。総料理長ゲルナーの背中に遊びが生まれ、カイ・レンストの歩幅は拍の指揮棒だ。「今日の三皿」私は板に書いた。
一、“可視化粥”・本番仕様(丼内二線+匙の背に小さな点=“今どこ?”を口の中で示す)
二、“反逆サラダmini”・質問の順序を縁の白点で固定
三、“肉なしメンチ2nd”・小豆の梯子(三段目の回復を視写器で追跡)
 衛生監察官イラ・トルテが入り、換気・湿度・湯気の角度を一瞥。
「半度の調整、今日も正確。公開の昼、観覧導線ににおいの嫉妬は発生しない見込み」
「嫉妬は衣の音に寄りやすいので、今日は揚げゼロでいきます」
「そう。うまい地味は、記録に残る」
 カイが視写器板を掲げる。「午後の再評価、**十秒版の“笑顔
KPI”**で開幕する。もう一度だけ、口で出せ」
 私は息を整え、十秒で噛ませる。
「笑顔KPIは腹で測る世論調査。おかわりは信任投票。居眠り減は治安維持。」
 板の前の助手たちが、一秒遅れで笑う。噛めたという合図だ。

 昼議の間。
 可視化粥が並ぶ。丼の内側の二線、匙の背の点。
 王太子がひと口、ふた口。親指で一線目を、四口目で二線目をなぞり、「自分の拍が見えるのは、案外、気持ちがいいな」と微笑む。 参事官は“反対陳述”側に視線を投げつつ、サラダを噛み質問の順に進め、メンチで三段目を小豆に回復させる。視写器の数字が右へ滑る。
「発言の重複 -24%、足踏み回数 -31%。昼の沈没率、今週最低だ」
̶ 紙の端に、赤い帯。 
 「午後、三者再評価。財務・保健・監察の三局に加え、王宮厨房・学園寮の現場各一。議場二階・公開」
 カイが私に短くうなずく。「揚げないで勝て」
「もちろん」

 午後、議会別棟。
 半円の議場に、灰色の背広と白の制服。中央に差配官エイドル、左右に財務参事と保健官、後方にイラ。傍聴席には議員、王宮厨房からゲルナー、学園からブラーク。
 机上の中央に、私は三枚の板を置く。棒・折れ線・円。
 棒:笑顔KPI(王宮/学園/役所)
 折れ線:“争い率”推移(廊下観測)
 円:“おかわり構成比”(信任投票の内訳)
 エイドルが口火を切る。「本日の議題、ステンマイア家台所差し押さえ再評価および王宮・学園“笑顔KPI”導入の妥当性。十秒版から始めよう」
 私は正面を見て、十秒を噛ませる。「笑顔KPIは腹で測る世論調査。おかわりは信任投票。居眠り減は治安維持。」
 議場の空気が半拍動き、笑いが小さく起きる。笑いは防御を外す鍵だ。
「では財務」参事官が立つ。眼鏡の奥は冷たいが、声は温度を持った。「棒を見ろ。王宮+12%、学園+18%、役所+9%。おかわり率は王宮で1.7倍、学園で2.1倍。役所の午後の居眠りは半減。いずれも人件費の“無駄拍”削減に直結する」
 保健官が続く。「折れ線。争い率(廊下の大声・足踏み・救護室搬送)は、王宮**-28%、学園-34%。胃袋は精神衛生の土台。昼の沈没は転倒事故**の種だ。減らすべき」
 イラが前に出て、短く。「衛生基準に抵触なし。香り誘導は半度以内。においの嫉妬対策、妥当」
 傍聴席の“香りで操るな”派の議員が手を挙げる。「香りで意思決定が歪む恐れは?」
「操らない。案内する」参事官が即答した。「可視化粥は各自の速度を本人に見せる。強制されずに揃うのは、交通標識に近い」
 私は丼を一つ、議員席へ差し出す。「一線目まで、二線目まで。命令ではなく段取りです。鼻は階級に従わない」
 議員は匙を二度運び、目尻をほどく。「……腹が納得した。悔しいが」 エイドルがまとめる。「結論。差し押さえ“保管”を解除、ステンマイア家台所は“条件付き返還”。条件は七日間の実績継続、弁当契約の透明化、厨房KPIの月次提出。異議?」 灰色の海が静かになる。
̶ 拍が揃った。 
 杭のようだった赤帯が、白紙の端に変わる。
 エイドルが視線だけで私に告げる。「勝率、二勝。」

 会議後、廊下。
 ゲルナーが短く笑った。「うまい地味、勝ったな」
「派手は祭りに。政は地味で」
 カイ・レンストが脇から歩み寄る。「公開の昼、明日は**“誰が運んでも拍が揃う設計”**でいく。人手が変わっても崩れない献立に」
「任せて。段取りは人を選ばない」
 イラが時計を見て言う。「半度の角度、忘れるな。鼻の嫉妬は、明日が本番」
「角度は半度、言葉は十秒。覚えました」

 学園に戻る頃、夕焼けが台所の銀縁皿を薄く染めた。
 今日は祝いではなく整え。夜食は**“薄い勝利の夜”。
̶ 白だしで引いた玉子雑炊、二線の粥の“学園版”。柑橘薄膜 を紙一重**、塩は筋↓表情の順。甘さは角のない蜂蜜をひとかけ。
 ミナが味見をして、「これ、勝った次の日でも食べられる味」と言った。
「そう。“疲れない勝利”の味だよ」
 食後、掲示板に紙が増える。
〈二線までで止めるの、試験に効いた〉
〈薄い勝利の夜食、罪悪感がない〉
〈公開の昼って見られるの? 配信は?〉
「配信はない。香りは画面に乗らないから」と私は笑う。「でも段取りは共有できる。黒板に**“誰でもできる拍”の要点**を書いておく」
 ブラークが黒板の隅に丸印。「再評価:返還条件つき承認。七日目=公開の昼。寮=通常運転+拍の共有」
 ラドが手を挙げる。「影の整理班、明朝までに逆風の当たりをもう一度見ます。半度、現場で覚えた」
「いい鼻になってきた」

 夜。
 差配官エイドルが弁当を取りに来る。手帳の棒・折れ線・円に、太いチェックが入っている。
̶「返還、決裁済み。七日間の実績継続、透明化、月次KPI 条件つきだが、君の台所は戻る」
 私は深く礼をし、揚げ箸じゃなく、匙を掲げた。今日は揚げない勝利だ。
「明日が本番だ」エイドルは笑う。「公開の昼、十秒↓棒↓折れ線
↓円で目立たず効け」
「了解。角度は半度、言葉は十秒、勝利は薄く」
「薄い勝利は続く。そこがいい」
 エイドルが去ったあと、私は黒板の横の白い壁にチョークを走らせる。
 銀縁皿が、小さく光っていた。家の拍は、戻ってくる。
〈今日の家政Tips:十秒で噛ませ、半度で通す。うまい地味は続く勝利。可視化は“命令”ではなく“合図”。〉
 明日。公開の昼。
 揚げずに勝つ日だ。
 台所は、湯気を静かに整え、みんなの拍を、ひとつに合わせた。

第9話「公開の昼、“うまい地味”で揚げずに勝つ」 朝の鐘が一つ。
̶ 掲示板には最小限の三行だけ
〈本日の朝:五分で起きる匂いV(白胡麻+薄蜜・弱)〉
〈本日の昼:公開の昼(揚げ物禁止/十秒↓棒↓折れ線↓円)〉
〈本日の夜:薄い勝利の夜食・“拍の余熱”〉
 学園の食堂は相変わらずカリ、ふう、コトの三拍子で目を覚まし、学生たちの目の焦点は近くに寄った。ミナが「三タテの日ですね」と笑う。私は親指を立て、銀縁皿を布から出して朝日で磨き直した。
家の拍は、今日、返ってくる。

 王宮の別棟「公開の昼」会場は、議場を改修した半円形のホールだった。客席は議員と各省の実務官、王宮厨房の面々、学園寮長に保護者代表まで。香りの嫉妬を避けるため、湯気の矢印は半度ずつ寝かされ、観覧導線は鼻の渋滞が起きない角度で組まれている。衛生監察官イラ・トルテが最後に温湿度を確認し、目だけで「合格」と告げた。
「今日の三皿、運ぶのは交代制だ」
 近侍のカイ・レンストが指揮棒のように視写器板を掲げる。「*
*“誰が運んでも拍が揃う設計”**を示す」
「了解。段取りは人を選ばない」私は深呼吸し、黒板代わりの白布に十秒を走らせた。「笑顔KPIは腹で測る世論調査。おかわりは信任投票。居眠り減は治安維持。」
 会場の空気が半拍ほど緩む。笑いは、今日の油の代用品だ。
「献立」
̶ 一、“可視化粥・公開仕様” 丼の内側に二線、匙の背に小点、縁に「一線=喉の開き/二線=発言準備」の小さな刻印。
̶ 二、“反逆サラダ・合唱版” 器の縁に四つの白点(噛み質問Q1〜Q4)、葉はロメイン/クレソン/茹で小麦/柑橘薄膜+ローストナッツ。
̶ 三、“肉なしメンチ・公開改” 焼き上げで衣なし、表面にパン粉“降らし”、皿隅に小豆の梯子三粒。揚げゼロ、音は薄雨。
 総料理長ゲルナーが横でうなずく。「うまい地味、準備完了だ」

 開始の鐘が小さく鳴る。
 私は短く挨拶した。「本日の台所は命令ではなく合図で回します。角度は半度、言葉は十秒、勝利は薄く。」
 まずは可視化粥。配膳係は私と、王宮の若手、それから学園寮のブラーク。三者混合で運ぶ。匙の背の小点が、食べ手の視野に入るたび、「今どこ?」が口の中で答えを出す。
 王太子は二口で一線目、四口で二線目をなぞり、匙を置いた。「自分の拍が見えるのは、会議を一人称にするな」
 次に反逆サラダ・合唱版。私は噛み質問を白点に沿って短く案内する。
「Q1、噛み始めに自信が出るか(ここ) Q2、途中で笑えるか(ここ)
 Q3、角が丸くなるか(ここ)
 Q4、次の議題を口が待つか(ここ)」
 客席がカリ、ふうと噛むたび、紙の音が柔らかくなり、咳払いが遠のく。怒鳴り声の予備軍が、発声練習のほうへ移動する音がした。
 続いて肉なしメンチ・公開改。焼き板で生まれる薄雨の音が、ホールの木の壁にやさしく吸われる。小豆の梯子は、眠気の谷に橋を架ける遅れてくる助力だ。
 カイが視写器板に数値を重ねる。「発言の重複 -26%、足踏み回数 -33%、昼の沈没率 今日最低」
 保健官が頷く。「救護室搬送ゼロ。怒らない酸の寄与が見て取れる」
 参事官は棒・折れ線・円を指で示し、「王宮+学園+役所、三者とも右肩。おかわり率は王宮1.8、学園2.2、役所1.5。無駄拍削減、財務は肯定する」と淡々と読み上げた。
̶ その時、場外から衣の音。 
 ホール後方で、外部業者の誰かが揚げ串をかざし、香りの矢印を乱そうとした。「やっぱ揚げだろ!」という古油の論法。湯気がざわりと揺れる。
「角度、半度戻す」
 私は家政魔法〈湯気誘導〉と〈香り骨格矯正〉を重ね、香りの矢印を客席の胸元で受け流し、議場の中心へ静かに通す。衣の音は壁へ散る。
 ゲルナーが合図もなく立ち、揚げ串を外へ下げさせる。イラが記録板に**“揚げ物持込:退去”**と一行書き、眉ひとつ動かさない。 私は何事もなかったように皿を差し出した。「揚げの音は祭りへ。政は地味で」
 会場に散っていた緊張がふっと座る。王太子は笑いを堪える気配だけ見せて、「続けよ」と短く。拍は崩れない。段取りは、人を選ばない。

 デモンストレーションの締めは十秒↓棒↓折れ線↓円の可視化セット。
 私は十秒をもう一度だけ噛ませ、棒(笑顔KPI)/折れ線(争い率)/円(おかわり構成比)の順に出す。数字は歌詞に見え、客席に合唱が生まれる。
 “香りで操るな”派の議員が、匙を持ったままため息をついた。
「……操られてはいない。歩幅が揃うだけだな」
「交通標識と同じです」参事官。
「鼻は階級に従わないから、嫉妬だけは発生します」とイラ。「だから半度」
 差配官エイドルが立ち上がる。「結論の実行。ステンマイア家台所・条件付き返還の本施行。本日付で保管解除、器具一式の返還とする。併せて、王宮・学園双方で**“笑顔KPI”の月次運用*
*を試行。異議?」
 灰色の波が静かにうなずく。拍は、完全に揃った。
 私は胸の奥で、揚げ箸ではなく匙を握りしめた。今日は揚げずに勝った。

 式のあと、廊下で。
 ゲルナーが口の端だけで笑う。「地味の王。お前に王冠は要らんが、匙の勲章は似合う」
 カイ・レンストは短く。「明日から王宮は**“拍マニュアル・暫定版”**で回す。誰が運んでも崩れない、人に依存しない段取りだ」
「段取りは人を選ばない。合唱、続けましょう」
 イラは帳面を閉じ、「においの嫉妬、今日は最小。半度、よく守った」と淡々。
 参事官はぽつりと。「昼が、楽しみになってしまった。不本意だが、業務効率に寄与するなら敗北ではない」
 差配官エイドルが近づき、革の袋を差し出した。中には小さな鍵束と、一通の書状。
̶「返還の証だ。鍋・包丁・寸胴・杓子・ざる 過半が戻る。七日
間の実績継続、契約の透明化、月次KPIの提出を忘れるな」
「忘れません。勝率はルーチンで上げるものです」
̶「それと 」
 彼が少しだけ声を落とす。「王太子からの私信。“平穏を持ち込め”。胃袋外交官、とは書いていない。だが、匙での合意形成を期待している」
「匙での合意形成、いい言葉です」

 学園に戻る前に、私は一件だけ寄り道した。王都財務庁の保管庫。
 埃を被っていた木箱から、銀縁皿の兄弟たちが次々と現れる。縁は黒く、家紋は眠っている。
 〈銀の記憶起こし〉を流すと、**“勝った音”**が薄く立ち上がった。家の拍は、忘れていなかった。

 夕刻の学園。
 寮の食堂では、ミナとブラーク、そして“影の整理班”のラドが、逆風の当たりをもう一度見直していた。
「半度、現場で覚えました」とラドは言い、鍵束の扱いはもう嘘のない角度だった。
「返ってきたよ」
 私はテーブルに鍋・杓子・ざるを一つずつ置き、最後に銀縁皿を棚の一番見える場所へ据えた。金属の縁が、夕焼けの拍で細く光る。
「お嬢さま、祝いは?」ミナが目を輝かせる。
̶「整えだよ」私は笑う。「薄い勝利の夜食。“拍の余熱” 白だしに薄い米、柑橘薄膜、角のない蜂蜜をひと滴。食べたらすぐ眠くなるけど、悪い眠気じゃない」
 配膳しながら、私は黒板に**“誰でもできる拍(暫定)”を書き出した。
 ̶ 二線の粥(自分で速度を見る)
 ̶ 四点のサラダ(噛みで質問に答える)
̶ 梯子の豆(眠気の谷に橋をかける)
 ̶ 半度(香りの矢印を妬まれない角度に)
 ̶ 十秒(数字を噛める言葉**にする)
 食堂では、「公開の昼、こっそり見学した」「配信は匂いが乗らないから無理なんだってね」という紙が増えていく。紙は素朴だが、最強の広告だ。**“生活の側”**に貼られるものは、信頼される。
 ラドが盆を下げながら、ぽつりと言った。「謝る匂い、効きました。薄い勝利も、効きます」
「薄いは続くの別名だからね」

 消灯前。
 私は銀縁皿の前に立ち、白いチョークを握った。壁の余白に、今日の一行を残す。
〈今日の家政Tips:揚げずに勝つ日は、十秒で噛ませ半度で通す。段取りは人を選ばず、鼻は階級に従わない。薄い勝利は、続く勝利。〉
 明日からは返還後の一週間。黒字化は、いよいよ日常の仕事になる。
 王宮は拍マニュアルの調整、学園は試験週間の後半戦。
 平穏は、祝うより整える。
 私は灯を落とし、拍の余熱が静かに部屋を温めるのを確かめた。
匙の重さは、そのまま合意の重さだ。

第10話「黒字の最初の一枚と、“拍マニュアル”は人を選ばない」
 朝の鐘が一つ。
 掲示板の三行はさらに簡素だ。
〈本日の朝:五分で起きる匂いVI(白味噌+薄蜜・極弱)〉
〈本日の昼:黒字化一日目セット(可視化粥mini/四点サラダ
/梯子の豆)〉
〈本日の夜:整えの夜食・“明日に拍を残す”〉
 カリ、ふう、コトの三拍子がいつもどおり食堂を起こす。だが今 ̶朝は、木の背板の響きに微細な違いがあった 負債の木霊が、半拍だけ遠のいている。
 銀縁皿を棚から出して陽に当て、私はその縁を指でなぞった。
 返ってきた道具は、すぐ使う。それが拍の礼儀だ。78
「お嬢さま、これ」
 ミナが封筒を差し出す。封は財務庁の色。差配官エイドルの字で、短く。
〈返還確認。黒字化一日目の“可視化”を添付〉
̶ 同封されたのは、一枚の帳票 “笑顔KPI(学園版)”の棒と、“弁当信任投票”の円、“廊下争い率”の折れ線。欄外に鉛筆書きで、「十秒で言え:
“笑顔=腹で測る世論。おかわり=信任投票。争い減=治安維持。
”」とあった。
 十秒は、今日も効く。
「昼は、黒字化の最初の一枚を取りに行くよ」「一枚?」ミナが首を傾げる。「原価から笑顔へ変換できた証拠の紙。紙は銀行より固い時がある」

 王宮。
 “公開の昼”を越えた厨房には、疲れない充実の匂いがあった。総料理長ゲルナーはいつもより背に遊びがあり、カイ・レンストの歩幅はやはり指揮棒だ。
̶ 壁には新しく貼られた紙 『拍マニュアル・暫定版(揚げ物禁止の項・別紙)』。
 ̶ 二線の粥:各自が速度を自分で見る
 ̶ 四点サラダ:噛みで質問に答える
 ̶ 梯子の豆:眠気の谷に橋
 ̶ 半度:香りの矢印は妬まれない角度
 ̶ 十秒:数字を噛める言葉に
「今日は“拍マニュアル”の人依存テストだ」カイが言う。「誰を入れても崩れないを証明する。王宮の見習い三名、入れ替え制」
「段取りは人を選ばない」私はうなずき、配膳と盛り場のすれ違い角を一センチ修正する。半度よりさらに細い、**“箸先の角度” の話。
 そこへ衛生監察官イラ・トルテが入ってきて、温湿度計を確認しながら一言。
「昨日の“においの嫉妬”の報告、最小値。今日は“人の嫉妬”*
*が増える日かもしれない。拍は公平だが、人は時々、公平を妬む」
「だからこそ、地味で勝つ」
 仕込みは滑る。可視化粥mini、四点サラダ、梯子の豆。揚げは封印、音は薄雨。
̶ すると、配達口のほうから書棚の匂い 参事官が顔を出した。「午後に臨時の査閲が入る。件の納入業者の入れ替えが議題だ。味で剥がしてくれた件、正式に財務語に訳す必要がある」
「翻訳は十秒で」私は笑う。「“出汁は嘘をつかない”。“利権は
̶古油の匂いがする”。 二秒ずつで行きます」
「二秒……いいな」参事官の目尻がわずかにほどけた。

 学園。
 “影の整理班”のラドが、逆風の当たりを黒板に写している。「半度、廊下側へ寝かせました。鼻の渋滞、朝五分短縮」
 ブラークは「試験週間・後半」の貼り紙に、夜食の開始時刻を一〇分早める赤字を乗せた。「腹の機嫌取りは早いほど効果が高い」「議論の前にも、試験の前にも」私は頷き、寮では**“角のないおにぎり・極小サイズ”**を追加する。噛み始めの敷居を下げるのは、合意形成と同じだ。
 そこへ玄関から青い布。
 衛生監察官イラが顔を出し、「地下の銀、腐食なし。湿度の角も ̶取れている。 昼過ぎ、寮に“視察”が入るかもしれない。公開
の昼の余波」
 彼女は紙を一枚置いていった。「“香りの嫉妬”チェックリスト。
半度、鼻の高さ、湯気の逃がし。貼っておいて」
「鼻は階級に従わないが、順路は必要。ありがとう」

 王宮の昼。
 “拍マニュアル”は確かに人を選ばない。見習いが交代しても、可視化粥は一定の速度で喉を開き、四点サラダは噛み質問で進行を揃える。
 王太子は匙を置き、「会議が一人称になった」とまた微笑んだ。
̶一人称 今日いちばんの褒め言葉だ。
 食後、参事官の臨時査閲。私は透明ブイヨン審問を再現し、粗悪な胡椒と標準品の湯気の**“座り”の違いを鼻に提示する。
「二秒訳でどうぞ」と参事官。
「粗悪は刺す。標準は座る。」
「刺すは短期の見栄。座るは長期の実務。」
 参事官が頷く。「置換承認。納入業者は契約更改**、香辛料委員会を味覚基準で常設する」
 ゲルナーが横で小さく親指を立てた。地味な勝利は、長く効く。

 午後、学園寮に視察が来た。王都教育局の実務官数名と、保護者代表。香りの嫉妬を連れてくることが多い組み合わせだ。
 私は掲示板の横にイラのチェックリストを貼り、鼻の高さに合わせて湯気の矢印を半度寝かせる。
 視察は“音のしない菓子”をつまみながら、厨房の動線と逆風の端を見て回る。
 保護者代表の一人が言った。「豪勢ではないのね」
「うまい地味です。豪勢は祭りに」
「子どもは祭りが好きよ」
「毎日は続かない。続く勝利を食べて、たまに祭りを楽しむのが平穏です」
 ブラークが黒板の「試験週間・後半」を指で叩く。「居眠り横断、今朝はさらに一割減。救護室搬送ゼロ」
 保護者代表の目尻がほどけた。「……薄い勝利、悪くないわね」

 夕刻。
 差配官エイドルが現れ、革袋から紙の束を取り出した。「返還器 ̶具の目録、弁当契約の透明化書面、それに これが今日の**“ 黒字の最初の一枚”だ」
 厚紙には、控えめな印刷。
〈ステンマイア家:日次損益・予備計算(七日目以降)〉
 収入:弁当契約/学園補助/王宮助勤料(臨時)
 支出:原材料/光熱/人件費(増強分)
 差額:+ 7 枚(銅貨単位)
 ミナが小さく跳ねた。「プラス……!」
「桁は小さくても、向きが正しい」エイドルが言う。「黒字化は拍
**。一枚を毎日積む。一週間続けば、習慣になる」
「習慣は段取りの骨です」私は目を細めた。「銀縁皿に、今日の勝ちを一つ、重ねます」
「それと」
 エイドルが低く声を落とす。「地方視察の話が来ている。王都の胃袋の平穏が効くなら、周辺領の自治都市でも**“拍マニュアル
”を試したい、と」
 私は小さく首を傾げる。「平穏最優先が条件です。朝の拍は学園に置いたまま**」「条件付きで答えるといい。殿下も**“平穏を持ち込め”**と言った」

 夜。
 “整えの夜食・明日に拍を残す”は、白だし雑炊・極薄。二線はうっすら、蜂蜜は気づくか気づかないかの一滴。
 掲示板に紙が増える。
〈雑炊の“二線”、途中で止まる訓練にいい〉
〈薄い勝利、罪悪感ゼロで眠れる〉
〈“拍マニュアル”の紙、部屋にも貼りたい〉
 私は**“拍マニュアル(学園版)”を小さな紙にまとめ、寮の入り口に吊るした。
 ̶ 二線の粥/四点のサラダ/梯子の豆/半度/十秒
 その下に、一行の余白を残す。
 〈各自の拍:________〉
 学生たちがそこに“二回だけ目を閉じる”だの“角のないおにぎり”だの、自分の合図を書き足していく。拍は共有**すると強くなる。
 片付けのあと、ラドが鍵束を回しながら言った。「昼間、逆風の当たりをもう一段修正しました。半度の癖、身体が覚えてきた」
「鼻は訓練できる。鼻は階級に従わないし、努力には従う」
 窓の外、三日月。
 私は銀縁皿の前に立ち、白いチョークで今日の一行を書く。
〈今日の家政Tips:黒字は“最初の一枚”から。拍マニュアルは人を選ばず、半度は嫉妬を避ける角度。十秒で訳せ、薄い勝利を積み上げろ。〉
 明日からは地方視察の段取りと、学園の試験最終日。
 王宮は納入置換の実施に入る。
エイドルの棒・折れ線・円は、明日も右へ。
 私は灯を落とし、匙を置く。揚げない勝利は、寝つきがいい。
̶ 平穏最優先 それは単なるスローガンではない。毎食ごとに更新する約束だ。

第11話(終)「平穏のレシピは、毎日二勝一敗」
 朝の鐘が一つ。
 掲示板の三行は、最後まで簡素にいく。
〈本日の朝:五分で起きる匂いVII(白味噌+白胡麻・極弱)〉〈本日の昼:黒字化二日目セット(可視化粥mini/四点サラダ
/梯子の豆)〉
〈本日の夜:家の食卓で“薄い勝利の祝い”〉
 カリ、ふう、コトの三拍子が、いつもどおり寮の木の背板を起こす。試験最終日の食堂は、紙と鉛筆の匂いで軽くしびれていた。
「お嬢さま、きょうで連載・一章目は最終回ですね」ミナが笑う。「うん。物語は続くけれど、“ここ”はいったん閉じる。締めくくりは整えで」
 配膳の列の中に、影の整理班のラド。鼻はまっすぐ、鍵束は静か。
「逆風、朝の時間帯は半度で最適です」
「いい鼻になった。鼻は努力に従う」

 王宮。
 壁の「拍マニュアル・暫定版」には、早くも現場メモが増殖していた。
 ̶ 「**匙を置く場所は“二線の手前”**に」
̶ 「豆の梯子は“会議が長引きそうな日”に+1粒」
̶ 「半度の角度、雨の日は+0.5」 総料理長ゲルナーは、背中にほどよい遊び。カイ・レンストの歩幅は、完全に指揮棒だ。
̶「地方視察は正式決定。だが君の条件 “朝の拍は学園に置く” は、殿下が了承した」カイが言う。
「平穏最優先。合唱を持ち運ぶなら、まずは楽譜だね」
 昼は“黒字化二日目セット”。揚げはなし。音は薄雨。
 王太子は二線で匙を置き、短く笑った。「昼が一人称になったの
̶は発見だ。 耳より腹で合意が速い」
 参事官は視写器板を撫で、「“無駄拍”削減、今週合計で二割」とだけ告げた。地味な勝ちは、静かな声で語られる。

 午後、学園。
 廊下の掲示板に、試験明けの紙が増える。
〈“二線で止める”訓練、効いた〉
〈角のないおにぎりで、最後の一問が埋まった〉
〈拍マニュアル、部屋にも貼った〉
 ブラークが黒板の隅に**○を書き、「居眠り横断・最終日ゼロ」と淡々。
 保護者代表が再訪し、ひとこと。「薄い勝利、家庭にも持ち帰ります」
「おみやげは段取り**です。香りは画面に乗らないけど、順番は紙に乗る」
̶ その時
 寮の門に、ステンマイア家の紋章旗。
 借金取りが鳴らしたのと同じ玄関の敷石に、今日は家族の靴音が規則正しく戻ってきた。 養父の伯爵は、遠慮がちな笑みで頭を下げる。「差し押さえ解除、返還の報を受けた。……家に戻って、台所で夕餉を」
 私はうなずく。「祝いじゃなくて、整えです。薄い勝利の夜を」

 夕刻、ステンマイア家。
 返ってきた鍋・包丁・寸胴・杓子・ざる。棚に空いた**“過半の空白”は埋まり、台所の背骨がまっすぐに伸びる。
 私は銀縁皿を一番明るい棚に置き、家政魔法〈銀の記憶起こし〉をごく弱く通す。“勝った音”**が薄く立ち上がった。
「献立は?」養父。
「“家の拍”のための三皿。
一、二線の粥・家版(今日は一線で十分)
二、四点サラダ・家の質問(Q1:帰ってきて落ち着くか/Q2:笑えるか/Q3:角が丸くなるか/Q4:明日も食べられるか)
̶ 三、“梯子の豆”と、そして “一個だけ、祝いの揚げ”」
 家族が目を瞬かせる。
「揚げ……?」
「祭りは一個だけ。ずっと封印していたぶん、音の扱いをちゃんと見せる」
 私は小鍋を出し、油を一指分だけ。〈清澄〉を流し、温度は歌い出す前の拍で止める。
 衣は降らし。音は薄雨。
̶ 落とすのは、じゃがいもの皮のカリカリ 廃棄率削減のおやつ。
最初に差し押さえ官吏へ差し出した**“あの日のコロッケ”の影**だけ、一口だけ呼び戻す。
̶ ぼふ、ではない。ぱらり 音が、過去形で鳴る。
 粥は一線で匙を置き、サラダはQ2で笑い声が起き、豆は谷に橋をかける。
 最後に、一個だけの祝いの揚げ。
 養父が噛む。さく。
 あの日の朝と違って、音は暴れない。
「……これでいいのだな」
「うん。祭りは一口。平穏は毎食」
 家族の肩から、数字の重しが音もなく落ちるのがわかった。

 食後、玄関の敷石に、新しい靴音。
 近侍カイ・レンストと、差配官エイドル。 カイは短く礼をして、封書を差し出した。
〈地方視察・胃袋平穏化試行(条件付)
 ̶ 朝の拍は学園に残す
 ̶ “拍マニュアル”の共有と現地適応
 ̶ “笑顔KPI”の月次提出〉
「段取りは人を選ばない。だから楽譜だけ、君が運べ」
「揚げ箸じゃなくて匙で、行ってきます。ただし平穏最優先」
̶ エイドルは例の三本セット 棒・折れ線・円の紙を広げる。「
黒字は“最初の一枚”が取れた。二枚目以降、毎日二勝一敗で積め」
「二勝一敗。三タテは祭りのときだけ」
「その合意でいこう」
̶ 彼は笑い、「胃袋外交官という言葉は書かない。だが 匙での合意形成、期待している」と言い残して帰った。

 夜更け。
 家の台所に、人の気配がゆっくりと馴染む。返ってきた道具は、返ってきた拍を覚えた。
 私は黒板代わりの戸棚に、**最後の“共有メモ”**を書く。
“誰でもできる拍・家版”̶
 二線の粥:一線で止める日が半分あっていい
 四点サラダ:**Q2(笑えるか)**を忘れない
梯子の豆:眠気の谷は悪ではない、橋を準備
半度:鼻の嫉妬を避ける角度で暮らす
十秒:数字は噛める言葉で合意する
一個だけの揚げ:祭りの音を忘れないために
 ミナが笑いながら指差す。「祭りは一口、いい言葉です」
「ね。勝率は段取り、幸福は余白」
 私は銀縁皿の前に立ち、白いチョークを握った。
 物語の最終行は、いつも日常の言葉で書く。
〈今日の家政Tips(完):平穏は、毎日二勝一敗。祭りは一口。
̶合意は匙で 十秒で噛める言葉と、半度の角度で。〉
 灯りを落とす。
 湯気は静かに立ちのぼり、家の拍は、もう誰の手にも依存しない。
 揚げずに勝つ日も、一口だけ揚げる祭りも、段取りがつなげてくれる。
 ここまでの一章、ここで閉じる。
 明日からは、紙の端ではなく、台所の真ん中で続きが書かれる。