窓際の席でノートを閉じたとき、チャイムが鳴った。

最後の授業が終わると、教室の空気が一気に軽くなる。

みんなが笑いながら帰り支度をする中、僕はまだ机に肘をついていた。

「……相変わらず、居残り好きだな、春斗」

声をかけてきたのは、三年の佐久間先輩。
柔らかい髪と落ち着いた声が印象的な人だ。
部活で知り合ってから、気づけば話すようになっていた。

「いや、好きじゃないです。片づけるのが遅いだけです」

「言い訳だろ、それ」

そう言って笑う顔が、ずるいと思う。
ただ笑っているだけなのに、胸の奥がざわめく。

春の風がカーテンを揺らした。
白い布が先輩の肩をかすめ、光を透かす。
その一瞬を、僕は見とれてしまう。

「なに見てんだよ」

「……別に」

視線を外したけれど、頬が熱い。
名前を呼ぶのが怖くて、言葉が喉に引っかかった。

先輩がノートを閉じる音が、やけに響く。
この距離のまま、言葉を交わせたらいいのに。


次の日も、放課後の教室には僕と先輩だけが残っていた。

部室の掃除をしてから教室に戻ると、先輩は窓際でノートを広げていた。
黒いペンを握る指が、光を受けて細く白く見える。

「先輩、まだ残ってたんですね」

「うん。今日ちょっと、まとめるの遅くて」

いつもの穏やかな声。
けれど僕の心臓は、そのたびに少し速くなる。

「春斗」

名前を呼ばれた。
その音が空気に溶けるみたいに、やわらかくて。
だけど、僕の胸の奥には小さな痛みが残った。

「……はい」

返事をするだけで、少し息が詰まる。
呼ばれるたび、距離ができる気がした。
たぶんそれは、先輩にとって僕が後輩だからだ。

ノートを閉じる音がした。

「明日、試合の応援、来るだろ?」

「もちろんです」

「じゃあ、そのあと飯でも行くか」

「……え」

「顧問も来るけどな」

一瞬の期待が、ふっと消える。
自分でも情けないと思う。
ほんの一言で揺れてしまうくらい、僕は先輩の言葉に縛られてる。


風の強い午後だった。
グラウンドに吹きつける風が、白い線をかすめて舞う。
応援席で声を張り上げながらも、僕の目はずっとひとりを追っていた。

佐久間先輩はキャプテンだから、どこにいても目立つ。
けれど僕にとっては、それ以上に特別な人だった。
走る姿、指示を出す声、汗で額にかかる髪。
全部が眩しくて、苦しい。

「がんばれ、先輩!」

思わず名前を呼びそうになって、喉の奥で止まった。
この距離なら、たぶん届かない。
それでも声に出せば、何かが壊れそうで怖かった。

試合は延長にもつれこんで、結果は引き分けだった。
試合後、ベンチでタオルを肩にかけた先輩がこっちを見た。

「……春斗」

名前を呼ばれる。
その一言で胸が締めつけられた。

僕が返す前に、顧問の先生が声をかけてきて、先輩は振り返った。
その背中が遠ざかっていく。
風が吹いて、僕の声をさらっていった。

試合が終わった次の日。
部室で一人片づけをしていると、ドアの音がした。
振り返ると、先輩が立っていた。

「昨日、応援ありがとう」

「いえ……その、いい試合でした」

「お前、途中で名前呼ぼうとしてただろ」

ドキッとする。

「……気づいてたんですか」

「なんとなくな。口の動き、見えたから」

「すみません、うるさかったですか」

「違うよ。なんか、嬉しかった」

その一言が、胸に沁みた。
けれど同時に、また距離ができる。
嬉しいって言葉の奥に、僕とは違う温度がある気がして。

「先輩って、ずるいです」

「え?」

「ちゃんと笑うのに、心の中見せてくれない」

先輩は驚いたように目を瞬かせ、それから少しだけ笑った。

「お前、ほんとに真っすぐだな」

「真っすぐじゃないですよ」

「そうか?」

その笑顔が、また遠ざかる。
呼びたいのに、呼べない。
名前を口にするたび、僕は自分の立場を思い知らされる。


五月の終わり、空気は少し湿っていた。
期末前で部活が休みの日、校舎の廊下を歩くと、
夕方の光が床に細い影を落としていた。

階段を下りようとしたとき、反対側の廊下に先輩の姿を見つけた。
窓際に寄りかかりながら、誰かと電話をしている。
楽しそうな声。
その表情を見た瞬間、足が止まった。

誰と話しているんだろう。

先輩の笑顔が、いつもよりやわらかくて。
自分に向けられたものじゃないとわかっているのに、胸の奥がじわりと痛んだ。

話が終わって、先輩がこちらに気づく。

「春斗?帰らないのか?」

「いま帰るとこです」

笑顔を作るのが、少しむずかしかった。
名前を呼ばれるたび、あの日のグラウンドみたいに、風が吹き抜けていく気がした。


その週の金曜、放課後。
雨上がりの教室に、夕日が差し込んでいた。
窓を開けると、湿った風が頬をなでる。

カバンを肩にかけた先輩がこちらを見た。

「もうすぐ引退だな。早いよな」

「……そうですね」

先輩は少し黙って、それから笑った。

「お前さ、俺がいなくなったら寂しくなるだろ」

「そんなこと、ないですよ」

「嘘つけ」

その言葉に、喉の奥が熱くなった。
嘘だ。
寂しいに決まってる。
でも、それを言ったらもう戻れなくなる気がした。

先輩が窓際に歩いていく。
オレンジ色の光が髪にかかって、
輪郭だけがやけに遠く見えた。

思わず、名前を呼んでいた。

「佐久間先輩」

先輩が振り向く。
夕日を背にして、目を細めた。

「……なんだよ」

その声は、やさしかった。
けれど、やっぱりどこか遠い。

「ずっと、名前を呼んでも届かない気がしてました」

「届いてるよ」

「本当に?」

「お前が呼ぶたび、ちゃんとここにいる」

先輩は胸を軽く叩いた。

それでも、胸の奥がざわつく。
どうしても、もう一度だけ確かめたかった。

「じゃあ……もう一回、呼んでもいいですか」

「好きにしろ」

息を吸って、僕はその名前を呼んだ。
音が空気を震わせ、静かな教室に響く。
先輩が笑う。
今度は少しだけ、距離が近かった。



卒業式の日。
朝から曇り空で、空気がひんやりしていた。
校門の前にはカメラを構える保護者と、笑い合う生徒たち。
その中で僕は、少し離れた場所に立っていた。

胸のポケットには、去年の文化祭でもらった栞。
それは先輩が貸してくれたまま返せなかったものだ。

今日、ちゃんと返そう。

そう思って、校舎の裏の中庭に向かうと、
ベンチの横に、先輩がいた。
制服のボタンを外して、空を見上げている。

「……先輩」

振り向いたその人は、いつもと同じ笑顔をしていた。
けれど、その笑顔にほんの少し影が差していた。

「来ると思ってた」

「返さなきゃいけないものがあって」

「……ああ、栞」

僕はそれを差し出した。
先輩は受け取らず、ただじっと僕の手を見ていた。

「なあ、春斗。俺、卒業してもお前のこと、忘れないよ」

「そんな簡単に忘れられる人じゃないです」

静かな風が二人の間を通り抜ける。
沈黙が落ち着いた頃、先輩が小さく笑った。

「やっぱり、お前が名前を呼ぶ声が好きだ」

「え?」

「最初に呼ばれた時、なんか嬉しくてさ。でも、嬉しいほど、距離を取らなきゃって思った」

心臓が音を立てる。
それは痛みと安堵が混ざった音だった。

「なんで、ですか」

「後輩を、そんな目で見ちゃダメだろ」

その言葉は、やさしくて、残酷だった。

それでも僕は笑った。
泣くよりも、そのほうが先輩らしい気がしたから。

「じゃあ、最後に呼んでもいいですか」

「……ああ」

息を整える。
春の風が頬を撫でた。

「佐久間先輩」

声が空へと溶けていく。
先輩が目を細めて笑った。

その笑顔は、やっぱり少し遠かったけれど、
もう届かないとは思わなかった。

彼の背中が夕日の中へ消えていく。
名前を呼ぶたび、遠ざかっていた距離は、
今、静かにひとつの思い出に変わっていた。


春がまた巡ってきた。
校門の桜は、去年より少しだけ色が淡い。

僕は、あの頃と同じ通学路を歩いていた。
もう制服ではなく、大学のリュックを背負って。
それでも、風の匂いは何も変わらない。

角を曲がると、懐かしい声が聞こえた。

「……春斗?」

振り向くと、そこに立っていたのは佐久間先輩だった。
少し髪が短くなって、スーツ姿がよく似合っている。

「お久しぶりです」

「まさか、ここで会うとはな」

「はい。僕も、びっくりしました」

一瞬、言葉が途切れる。
風が吹いて、桜の花びらが舞った。

「……元気だった?」

「はい。先輩は?」

「ぼちぼち。相変わらず仕事で走り回ってるけど」

笑うその声を聞くだけで、胸の奥が少し温かくなる。
あの日と違うのは、もう届かない距離ではないということ。

「そういえば、まだ呼んでなかったですよね」

「え?」

「先輩じゃなくて、名前で」

先輩が驚いたように目を見開く。

「呼んでみろよ」

「……佐久間さん」

名前を呼んだ瞬間、風の音がすっと遠ざかっていく。
春の空気が、やわらかく頬をなでた。

「やっと呼んでくれたな」

「はい。ずっと、言いたかったので」

二人の間に流れる沈黙が、もう怖くなかった。
それは距離ではなく、安らぎのような静けさだった。

先輩が、ほんの少し笑って言った。

「春斗、今の呼び方、悪くないな」

その笑顔を見て、僕も笑った。

風が桜をさらっていく。
名前を呼ぶたび遠ざかっていた季節は、
いま、そっと僕のそばに戻ってきた。